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黒田長政の墓

  黒田長政の墓

 黒田如水(孝高)の隣には息子さんの長政(1568~1623年)の墓がありました。
 天正5(1577)年に父が織田信長に臣従すると、まだ松寿丸といっていた長政は信長の元へ人質に出され、羽柴秀吉に身柄を預けられます。この時、彼はまだ数えで十歳でした。
 それから5年後の天正10(1582)年、長政は秀吉の中国攻めに従軍したのを皮切りに、秀吉の数々の戦に加わっています。
 天正17年に父・孝高の致仕によってその所領を継ぎました。
 天正19年からの朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも加わっており、二度とも朝鮮に渡っています。このうち、慶長の役での有名な蔚山城の籠城戦で加藤清正の救援に向った長政でしたが、その折に敵軍をあえて追撃しなかったことを軍奉行が秀吉に報告したため、秀吉はこれに怒り、長政は蜂須賀家政と共に謹慎蟄居の上、領地部分没収の憂き目に遭います。この時の事で、石田三成の息がかかった軍奉行が己のことを讒言したものと考え、三成を恨んだ長政は、秀吉の死後は徳川家康に急接近します。秀吉の養女として嫁いできた正室(実は蜂須賀正勝の女)をわざわざ離縁し、家康の養女となった保科正直の娘を娶るのです。この辺の変わり身の早さには脱帽です。

 後は皆様ご承知の通り、関ヶ原では積極的に家康に与し、裏では根回し交渉を行う等目覚しい働きを見せています。(吉川広家などは見事引っかかりました)この辺は父親の血を見事受け継いでいますね。すなわち、機を見るに敏なのです。
 そして、戦後の論功行賞で52万石で筑前一国を与えられ、長政は晴れて「国持ち大名」となったのです。

 結果論ですが、長政はなかなかうまくしてやったなあという感じです。幼少の折から人質生活を送り、戦を重ねる中で情勢を冷静に見る目が養われたのでしょう。如水―長政の二代のリレーで、過酷な戦乱を乗り越え、やがて到来した泰平の世では大藩の大名として子孫は幕末まで続きましたとさ。めでたしめでたし(-人-)
 
 
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黒田如水の墓(黒田家墓所)

 博多崇福寺(黒田家墓所) のつづき


黒田如水の墓



 黒田家のお墓の紹介はやはりこの人から。豊臣秀吉の名参謀であった黒田如水(孝高 通称・官兵衛 1546~1604年)の墓です。如水というのは剃髪後の号ですが、ここでは一般的にも有名な如水の名をもって記します。
 
   黒田孝高


 黒田如水については、もはや説明不要かと思われます。お正月の民放の時代劇でもやってましたね。(私はあいにく見ませんでしたが・・・)荒木村重によって長期にわたり土牢に幽閉され、そのせいで足を痛め、救出されたときには片足が跛(びっこ)になってしまうという辛苦を味わいました。
 秀吉の中国攻めの折に秀吉に臣従して以来、秀吉が歴戦を乗り越えてきたのは如水の存在があってこそでした。彼は非常に交渉術にたけた人であったので、戦による犠牲を最小限にするためなるべく戦わずして敵を臣従させたい秀吉の意向に沿った働きが出来たものと思われます。世に言う「高松城の水攻め」は如水の献策によるものだということはあまりにも有名です。そして、小田原攻めでも如水は活躍し、無血開城させることに心血を注ぎました。 
 このように如水は「智謀の人」であり、秀吉も如水の能力を高く評価する一方で警戒しており、「官兵衛がその気になれば、自分に代わって天下を治めるだろう」と語ったとか。その結果如水に与えられたのはたかだか豊前中津の17万石に過ぎなかった話がありますが、策謀の士である如水にもし高禄を与えれば、自分の権力の座が脅かされかねないという秀吉の懸念があったものと思われます。

 秀吉の天下統一の過程で、常にこの人が側にあったわけですが、やがて内政を司どる石田三成の台頭によって、徐々に秀吉と如水の間には距離が出来ていきます。関ヶ原で息子の長政と共に東軍に与したのはこの辺の事情によるものです。

 ところで、黒田如水はあの小早川隆景と仲が良かったといいます。友人同士というよりは、むしろ双方とも権謀術数にたけた「好敵手」といった関係だったかもしれませんが。
 しかし、隆景は死の間際、「筑紫大名(如水のこと)には上方への往復途中に休憩したいからと言って、毛利の領内に休息地を貸し与えてはならない」と遺言したといわれます。如水について、上辺は親交を結んでいた隆景もまた油断も隙もならない男だと見ていたんでしょう。
 関ヶ原のとき、如水は中津にいて天下を伺っていたといいますが、あれもどうなんでしょう。
 戦後、凱旋してきた息子の長政は、徳川(家康)殿は長政の働きに対して手を取って喜んでくれたのだと父・如水に報告しましたが、それを聞いた如水は「それはどちらの手だ」と問い、長政は「右手でござる」と答えた。それに対して如水は「そのとき、お主のもう一方の手は何をしていた」と叱責したという逸話がありますが、あれは多分後世の作り話でしょう。論功行賞により筑前に封じられた子の長政に従って引っ越した最晩年の如水は、悠々自適の隠居生活を送っていたようです。
 如水の真価は、むしろナンバー2であり続けたことにこそあったと言えるのではないでしょうか。

 さて、肝心のお墓の方ですがご覧のようにかなりでかいです。高さが2メートル以上はゆうにありましたから。
 そして、墓石の側面には如水の生涯について朱筆で碑文が記されています。朝鮮の役で小西行長の通訳をしていた対馬の僧侶が書いたということです。
  黒田如水の墓b



 如水は高山右近の勧めで一時キリシタン(洗礼名 ドン・シメオン)になりましたが、秀吉の禁教令により棄教しています。
 なお、京都の大徳寺龍光院にも如水のお墓があるそうです。如水は伏見で死んでいますので、死後直後には一旦大徳寺の塔頭に葬られたのかもしれません。

 合掌 (-人-)


 【追記 2013年8月】
 去る8月5日に、来年のNHK大河ドラマ「軍師・官兵衛」の主演・岡田准一さんが黒田孝高の墓参りをされたようです。その影響なのか、ここ数日、アクセス数が若干上がっております。有難うございます。
 同墓所訪問時、快く拝観させてくださいましたお寺様には感謝申し上げます。


 関連記事 謹賀新年2014(再訪しました)



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博多崇福寺(黒田家墓所)

 福岡・柳川行きの途中、少々時間に余裕がありましたので、博多で墓めぐりを行いました。
 博多へは何度か来ていますが、いつも福岡空港利用のためのみで、史跡めぐりはあまりしたことがありません。
 以前福岡に来た時に時間切れで行けなかった史跡を辿ります。

 崇福寺 臨済宗の寺院です。筑前藩主黒田家の菩提寺です。
崇福寺

 こちらをお読みの方の中には、「またお寺ですかあ?」と飽き飽きされている方も中にはおいででしょうが、ところがどっこい。
 お寺さんには、廃城となった城の遺構が移築されて残っている場合がとても多いのです。こちらのお寺の山門も、実は福岡城の本丸表御門だったものを、大正時代に払い下げられたということです。
 崇福寺にはこのほかに福岡城から二基の櫓が移築されていましたが、現在は解体保存されているということです。

 門をくぐり中に入りますと、さすがに黒田家の菩提寺とあって広い境内でした。
 このお寺にはもう一つ、お城の遺構があるのです。

 こちらの唐門は、小早川隆景ゆかりの名島城の遺構と伝えられています。門前の紅葉がとても鮮やかでした。
崇福寺 唐門

 唐門を撮影した後、黒田家墓所へと向かいます。墓所は境内の奥まった場所にありました。
 しかし、門扉には鍵がかかっています。
黒田家墓所

 仕方がないので、一旦引き返して庫裏の方へ伺い、呼び鈴を鳴らすと、中から作務衣を着た女性の方が出てこられまして、三つ指つかれて丁重に挨拶されてしまいました。(多分、住職夫人) 用件を告げますと、墓所の鍵を貸していただけました。出てきて下さった住職夫人?はとても丁寧な物腰で、行き届いた方だなあと思わず感心してしまいました。

 墓所の門扉を開けて、中に入ります。芝生の上に墓塔が数基建っております。
 なお、現地の案内板によると、平成17年3月の福岡の地震で墓塔が被害を受け、一部造り直したものもあるようです。
黒田家墓所2

 次回はあの有名戦国武将のお墓をご紹介します。


より大きな地図で 崇福寺 を表示


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立花宗茂の墓

 今回の福岡県柳川行きは、御花史料館にて開催された「立花宗茂展」を見るのが主な目的でしたが、やはりここまで来たらお墓参りも忘れてはいけません。
 立花家の菩提寺は、福厳寺という臨済宗黄檗派のお寺です。
 福厳寺本堂

 境内には立花家代々の御霊屋がありました。
 PB210332.jpg
 

 立花宗茂(1567?~1643年)のお墓です。しかし、宗茂は江戸で死んだので、実際亡骸が葬られたのは下谷にあった「広徳寺」というお寺です。「広徳寺」は後に練馬の方へ引っ越してしまい、どうやら一般の拝観は不可らしいのです。
 ですから、柳川のお墓には分骨や遺髪などが葬られているのではないかと思われます。
 立花宗茂の墓

 宗茂の義父・戸次鑑連(立花道雪)の墓  道雪は天正13(1585)年に73歳をもって陣中で病没してしまい、立花山の麓に埋葬されました。ですから、本当の墓は福岡県新宮町にある梅岳寺という寺にあります。柳川の方は供養塔?と思われます。
 立花道雪の墓


 「立花宗茂展」のところでも書きましたように、跡継ぎである息子に恵まれなかった立花道雪は一人娘の千代(1569~1602年)に男児と同じように家督を相続させ、千代は若干七歳にして立花山城の女城主となりました。
  立花千代

 そして、道雪は千代の婿として高橋紹運の嫡男・統虎を養子に迎えました。後の立花宗茂です。「お宅の息子さんをうちの婿養子に」と道雪から懇願された高橋紹運の方は当初難色を示したといいますが、道雪に押し切られた形で息子を手放しました。

 こうして、宗茂と千代は夫婦になったわけですけれども、どうも千代の方は父から跡継ぎとしての教育も受けており、男勝りの性格もあって、夫に唯々諾々と従うような妻ではなかったらしい。婿養子の宗茂は宗茂で、養子という負い目もなく、一家の主として堂々と振舞う。
 これでは家の中に主人が二人いるような風になってしまい、加えて二人の間に子供も出来ず、夫婦仲はしっくりいかなかったんだそうです。
 豊臣秀吉の九州仕置によって、宗茂は柳川城を与えられたのですが、奥さんの千代は慣れ親しんだ立花山を離れたくないと駄々をこね、渋々柳川へ引っ越したものの、城には入らず、外堀の外、宮永という場所に屋敷を建てて別居してしまいます。
 夫の宗茂の方は重臣達の勧めもあって、美女の誉れ高い家臣の矢嶋秀行の娘を側室として迎えてしまい、宗茂と千代の夫婦関係の破綻は決定的となってしまいました。
 宗茂が関ヶ原後、改易されると、千代はここでも夫に従うことなく、肥後国玉名郡腹赤村の百姓屋へ移り、2年後に失意のうちに34歳の若さで死んでしまいました。

 宗茂と千代は心の通いあわない夫婦でしたが、宗茂の方は義父の道雪から託された千代を片田舎の百姓屋で死なせてしまったことにやはりある種の後ろめたさがあったものか、後に柳川藩主として帰還してから、千代の菩提を弔うために「良清寺」というお寺を建てました。
 (今回、時間がなくてこちらへは行けませんでした)

 現代でもそうですが、婿養子を取るというのはなかなか難しいものがありますね。余談ですが、生涯を通して宗茂は三人の妻を娶りましたが、結局実子が出来ませんでした。宗茂は戦につぐ戦で多忙だったこともありますが、子胤が無かったんでしょうか?


 関連記事 立花宗茂


  
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tag : 有名人の墓(た行)

田中吉政の墓

 柳川城主だった立花宗茂が関ヶ原の戦いで西軍に与したため、徳川家康によって改易されたわけですが、その後釜に座ったのが三河岡崎城主であった田中吉政(1548~1609年です。
 田中吉政は近江の出身で、出自等ははっきりしない事が多いということですが、どうも今年の大河ドラマのヒロインと同じ近江の浅井郡の生まれらしく、元は農民だったらしいです。
 その後、国人領主だった宮部氏に従って侍となり、姉川合戦の後に宮部氏が羽柴秀吉に帰順したため田中吉政もそれに従いました。
 その後、縁あって秀吉の甥である羽柴秀次の宿老となり、秀次領の近江八幡の領国経営に従事しました。
 天正18(1590)年の秀吉による小田原攻めの際にも秀次麾下として功があり、三河岡崎城主(5万7400石)となります。(後に10万石に加増)
 文禄4(1595年)のいわゆる関白秀次事件の際には、何故か吉政は連座を免れています。
 秀吉の死後、吉政は徳川家康に接近し、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、配下の者が西軍の将である石田三成を捕縛するという功を挙げています。戦後の論功行賞の結果、吉政は柳川32万石をもって移封となるのです。
 田中吉政については、私なども不勉強で、関ヶ原の際の石田三成の捕縛で名前を知っているくらいでしたが、柳川で購入した資料を読んでいると、彼が筑後柳川城へ移封された後、城や城下町の整備、治政に力を尽くしていることがわかりました。柳川城の五層の天守も田中吉政時代に造られたものです。

 そのような功績が見直されているのか、前述した柳川お堀めぐりの途中、堀端に吉政の銅像がありました。数年前に建てられたらしいです。
 PB210309.jpg
 田中吉政

 しかし、吉政は慶長14(1609)年に伏見で客死してしまいます。亡骸は京の黒谷に葬られたそうです。現在も黒谷のとあるお寺さんに彼のお墓があるそうですが、柳川にも田中吉政の菩提寺及び墓があると聞いて、行ってきました。

 田中吉政の菩提寺・真勝寺(浄土真宗)
 真勝寺本堂

 お寺の方(多分、住職夫人)に吉政の墓は何処でしょうか?と尋ねたところ、お寺の方が言われるには、「この本堂全体が吉政公のお墓なので、まずはお上がり下さい」とのこと。
 早速本堂に上がらせて頂き、御本尊の阿弥陀仏に参拝させていただきました。
 その後、お寺の方が「こちらへどうぞ」と案内された先には・・・本堂の床下に小さい木口が。床下ですから、当然のことながら屈みつつ前進します。
真勝寺本堂2

 なんと、この木口の先に吉政のお墓があったんですね。(-人-)
田中吉政の墓

 つまり、お墓の上に本堂を建てたということなんですね。詳細はわかりませんが、京の黒谷に葬られた田中吉政の遺骨を息子の代になって移したか、あるいは分骨、遺髪などが葬られているのかもしれません。

 さて、田中家のその後ですが、吉政の死後、四男の忠政が継いだものの、彼は後嗣がないまま36歳の若さで死んでしまい、とうとう田中家はお家断絶になってしまいました。
 こうして、主のいなくなった柳川に、再び元の領主であった立花宗茂が戻ってくるというわけです。



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tag : 有名人の墓(た行)

伊東氏累代の墓

 伊東氏の墓


 最後に、飫肥藩主伊東氏累代の墓です。先述のとおり、ここには元々「報恩寺」という伊東家の菩提寺がありましたが、廃仏毀釈にあい、今ではお寺はありません。お墓のみが残っております。
 実にたくさんの墓石が残っていたのですが、案内板もないため、誰が誰のお墓だかちっともわかりません (><)。 教育委員会の方、できれば主要人物だけでも説明をお願いします。
 
 その一群の墓地の傍らに、このような墓石が。

伊東マンショ母の墓

 左側の大きいほうの墓石が、どうやら、遣欧少年使節で有名な伊東マンショのお母さん「町の上」のお墓といわれているそうです。これも何の説明もなく、一種の「勘」で撮影してきたらビンゴでした。隣の小さい墓はお子さん?か誰かでしょうか。

 なお、伊東氏のお墓は東京品川にある東禅寺にもあります。


 以上、飫肥城下の史跡についてざっと見てきました。
 お城自体は地味でしたけれども、地元の人々の町おこしにかける努力のほどがうかがえる、手作りのあたたかさに満ちた町だったのが印象的でした。

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小村寿太郎の墓

 城下町を取り巻く酒谷川を西にわたった所に、五百撰(いおし)神社という少々寂れた神社があり、その裏手には墓地が広がっています。
 この神社の敷地は、元々「報恩寺」という伊東氏の菩提寺があり、明治になって廃仏毀釈となり寺がなくなってしまい、お墓だけが残されたようです。

小村寿太郎の墓

小村寿太郎の墓


小村寿太郎(1855~1911)は明治期に活躍した外交官ですが、ここ飫肥藩の下級藩士の家に生まれました。

小村寿太郎生家(生誕地とは別の場所に移築されています)
小村寿太郎生家

 学生時代のつたない知識をたどれば、陸奥宗光の治外法権の撤廃、小村寿太郎の関税自主権の回復、という風にセットで記憶したのが思い出されます。

 寿太郎が幼少時、父親が事件に巻き込まれ、破産してしまい、家屋敷も人手に渡さざるをえないという逆境の中で彼は勉学に励み、藩校「振徳堂」では優秀な成績を修めていたそうです。

振徳堂


 明治維新後上京し、大学南校(東大の前身)で学んだ後、ハーバード大へ留学し、帰国後は司法省、その後外務省に入省します。
 薩摩や長州といった藩閥外の、小藩の出身だけに苦労したようですが、やがて陸奥宗光に引き上げられたことで外交官として出世し、後に外務大臣に就任します。
 日露戦争後のポーツマス講和会議に日本全権として出席し、ロシア側の全権ウィッテと交渉し、ポーツマス条約を調印するに至りますが、この時の講和条件が国民から激しく非難を浴び、彼は体調を崩してしまった程打ちのめされたそうです。(彼にしてみれば、必死に何とか自国に有利な条件を引き出そうと努力したのに、それを国民から理解されなかったのですから、気の毒ですね)

 明治41年(1908年)、第二次桂内閣の外務大臣に就任し、不平等条約の改正に取り組みます。ついに、明治44年(1911年)に日米通商航海条約を調印し、悲願であった関税自主権の回復を果たしましたが、同じ年の11月に結核のために神奈川葉山の別邸で亡くなりました。
 小村のエピソードとしては、大変小柄な人だったようで、身長が145センチ程度しかなかったそうです。また、奥さんが大変悪妻で、小村の今わの際に奥さんの姿はなかったそうです。政治上は大変活躍した偉人の一人ですが、家庭的には恵まれなかったんですね。

 小村の墓の周囲には小村家のご先祖の墓がありました。
 なお、彼のお墓は東京の青山霊園にもあり、以前お参りしたことがありますが、東京の方が本墓だと思います。
 また、NHKで放映予定の歴史ドラマ「坂の上の雲」にも今後、小村は登場すると思います。

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A☆六文銭

Author:A☆六文銭
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日本100名城完全制覇と有名人の墓めぐり(掃苔)
日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

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