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福島正之の墓/浅野忠長の墓/宗光寺七重塔

 よみがえる「小早川隆景」像 のつづき

 三原の宗光寺で小早川隆景の修復された肖像画を見学した後、本堂の左側にある墓地で墓参をしました。


 福島正之の墓

 福島正之(1579~1601年)は「賎ヶ岳の七本槍」の一人である福島正則の養子(正則の姉の子)です。正之は関ヶ原合戦においても軍功を挙げ、合戦後に正則が広島に入封した際には三原城に正之を配しました。
 ところが、後に正則の実子・正勝が生まれると、次第に正之は正則から疎んじられるようになり、ついには正則が駿府にいた徳川家康の許へ正之が乱行に走ったと申し立てたため、正之は幽閉され、その後すぐに死んだといいます。その実は正則によって殺害されたようです。時に正之23歳。哀しい逸話の残るお墓だと思います。法名:宗光寺殿天英公大禅定門

 正之は徳川家康の養女・満天姫(実は下総関宿藩主・松平康元娘)を妻にしていましたが、短い結婚生活の間に一子をもうけていました。夫の死後、満天姫は家康の命により正之の忘れ形見を連れ子して、津軽信牧に再嫁、数奇な運命を辿りますが、その話はまたいずれかの機会に。(青森県弘前へ行った時、満天姫の墓参りもしております)
   福島正之の墓

 

 浅野忠長の墓

 元和5年(1619)福島正則が広島城を修理した事を幕府から咎められ改易後、広島には浅野家が入封し、三原には家老の浅野家が入ります。
 浅野忠長(1592~1660年)は三原浅野家第二代、甲斐守と称す。忠長は慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、翌年の夏の陣ともに参陣しました。
 元和8年(1622年)頼兼新開、正保元年(1644年)横山新開を拓く。寛永6年(1629年)、同14年(1637年)には糸碕八幡宮を修理しました。
  浅野忠長の墓

 
 宗光寺七重塔
 
 大工「心阿」の銘が残る鎌倉時代の石塔。斉藤五、斉藤六(「平家物語」に出てくる斉藤実盛の息子)のいずれかの供養塔だと伝えられています。
 この日、周りの桜がきれいでした。
   宗光寺七重塔


   
より大きな地図で 宗光寺 を表示



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Author:A☆六文銭
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日本100名城完全制覇と有名人の墓めぐり(掃苔)
日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

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