鳥取池田家墓所
今回鳥取へ来たのはもう一つ大きな目的がありました。
鳥取池田家墓所への参詣です。前回(3年前)に鳥取へ来訪した折はほとんどお城とその周辺を巡ることで終わってしまったので、今回ようやく参詣することが出来ました。
大名家墓所へ訪れるのは、春先に行った松前家墓所(北海道)に続き今年2箇所目です。
池田家の墓所は鳥取城からやや離れた国府町というところにあります。車だとおよそ10分くらいの距離です。
周囲には自然が豊かで、野鳥のさえずりも聞こえてくるような静かな場所にありました。
(写真はすべてサムネイルをクリックすると拡大します)
墓所には池田家初代から第11代藩主の墓とその家族の墓があります。昭和56年(1981年)国史跡の指定を受けております。
墓域は広く、歴代藩主の墓がずらりと立ち並びます。大藩の藩主の墓だけあってどれも立派!江戸時代までは御霊屋や回廊があったそうですが、明治以降取り壊されてしまったようです。
鳥取池田家の成立事情は少し複雑です。播磨姫路藩主であった池田輝政(1565~1613年)には正室が二人いました。
先妻は糸姫(絲姫)といって賎ヶ岳の戦いで戦死した中川清秀の娘さんで、夫の輝政との間には嫡男の利隆も生まれていましたが、豊臣秀吉の命により、徳川家康の娘・督姫(北条氏直の元妻)が輝政の室として配されることが決まり、糸姫は無理やり離婚させられ、実家に帰されてしまいました。
輝政の死後、先妻糸姫の子である利隆が姫路藩42万石を継ぎましたが、元和2年に33の若さで死んだため、その子の光政が跡を継ぎます。しかし、その翌年、幼少を理由に光政は姫路から因州鳥取32万石へ国替えを命じられます。
一方、輝政の後妻の子である忠雄は備前岡山藩に封じられていましたが、寛永9年に31歳の若さで亡くなり、子の光仲はその時わずか3歳であったため、山陽の拠点である岡山は治めがたいとされ、幕命により鳥取藩へ国替えとなり、鳥取を治めていた従兄の光政が交替する形で岡山へ転封させられました。
以後、光政の家系は岡山藩を、光仲の家系が鳥取藩を治めることになります。
鳥取池田家初代・池田光仲(1630~1693年)の墓。光仲は徳川家康の外曾孫ということになります。
光仲をはじめ藩主の墓はユニークな形をしており、ほとんどの人の墓が「亀趺」と呼ばれる台石の上に墓標がのっかっていました。
全員掲載するわけにいかないので、もうお一方だけ紹介。
6代藩主・池田治道(1768~1798年)の墓。
この方は子沢山で、娘たちが薩摩島津家や佐賀鍋島家など大藩へ嫁いでおり、従って島津斉彬や鍋島直正(閑叟)の母方祖父にあたります。
大河ドラマ「篤姫」放映時、地元ではちょっとした話題になったとか。ただし、治道は早死(31歳で死去)だったので、生前斉彬をはじめ孫たちには顔を合わせることはありませんでした。
なお、墓所には管理人さんがおられ、墓所内を清掃しておられました。こちらがお参りしていると声をかけていただき、パンフレット等資料を頂けました。結局、墓所の参詣や写真撮影で1時間半以上もかかってしまいました(汗)
墓所へ至る旧参道の傍らにコスモス畑がありまして、ちょうど満開でした。コスモス畑の向こうには古墳があるのだとか。
コスモスというと普通は9月くらいですが、今年は暖かいのでまだ咲いています。(この日も昼間は汗ばむ陽気でした)
これから秋が深まるにつれ、池田家墓所内は紅葉が見ごろを迎えるそうです。
※鳥取の旅行記はまた日を改めて掲載します。
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鳥取池田家墓所への参詣です。前回(3年前)に鳥取へ来訪した折はほとんどお城とその周辺を巡ることで終わってしまったので、今回ようやく参詣することが出来ました。
大名家墓所へ訪れるのは、春先に行った松前家墓所(北海道)に続き今年2箇所目です。
池田家の墓所は鳥取城からやや離れた国府町というところにあります。車だとおよそ10分くらいの距離です。
周囲には自然が豊かで、野鳥のさえずりも聞こえてくるような静かな場所にありました。
(写真はすべてサムネイルをクリックすると拡大します)
墓所には池田家初代から第11代藩主の墓とその家族の墓があります。昭和56年(1981年)国史跡の指定を受けております。
墓域は広く、歴代藩主の墓がずらりと立ち並びます。大藩の藩主の墓だけあってどれも立派!江戸時代までは御霊屋や回廊があったそうですが、明治以降取り壊されてしまったようです。
鳥取池田家の成立事情は少し複雑です。播磨姫路藩主であった池田輝政(1565~1613年)には正室が二人いました。
先妻は糸姫(絲姫)といって賎ヶ岳の戦いで戦死した中川清秀の娘さんで、夫の輝政との間には嫡男の利隆も生まれていましたが、豊臣秀吉の命により、徳川家康の娘・督姫(北条氏直の元妻)が輝政の室として配されることが決まり、糸姫は無理やり離婚させられ、実家に帰されてしまいました。
輝政の死後、先妻糸姫の子である利隆が姫路藩42万石を継ぎましたが、元和2年に33の若さで死んだため、その子の光政が跡を継ぎます。しかし、その翌年、幼少を理由に光政は姫路から因州鳥取32万石へ国替えを命じられます。
一方、輝政の後妻の子である忠雄は備前岡山藩に封じられていましたが、寛永9年に31歳の若さで亡くなり、子の光仲はその時わずか3歳であったため、山陽の拠点である岡山は治めがたいとされ、幕命により鳥取藩へ国替えとなり、鳥取を治めていた従兄の光政が交替する形で岡山へ転封させられました。
以後、光政の家系は岡山藩を、光仲の家系が鳥取藩を治めることになります。
鳥取池田家初代・池田光仲(1630~1693年)の墓。光仲は徳川家康の外曾孫ということになります。
光仲をはじめ藩主の墓はユニークな形をしており、ほとんどの人の墓が「亀趺」と呼ばれる台石の上に墓標がのっかっていました。
全員掲載するわけにいかないので、もうお一方だけ紹介。
6代藩主・池田治道(1768~1798年)の墓。
この方は子沢山で、娘たちが薩摩島津家や佐賀鍋島家など大藩へ嫁いでおり、従って島津斉彬や鍋島直正(閑叟)の母方祖父にあたります。
大河ドラマ「篤姫」放映時、地元ではちょっとした話題になったとか。ただし、治道は早死(31歳で死去)だったので、生前斉彬をはじめ孫たちには顔を合わせることはありませんでした。
なお、墓所には管理人さんがおられ、墓所内を清掃しておられました。こちらがお参りしていると声をかけていただき、パンフレット等資料を頂けました。結局、墓所の参詣や写真撮影で1時間半以上もかかってしまいました(汗)
墓所へ至る旧参道の傍らにコスモス畑がありまして、ちょうど満開でした。コスモス畑の向こうには古墳があるのだとか。
コスモスというと普通は9月くらいですが、今年は暖かいのでまだ咲いています。(この日も昼間は汗ばむ陽気でした)
これから秋が深まるにつれ、池田家墓所内は紅葉が見ごろを迎えるそうです。
※鳥取の旅行記はまた日を改めて掲載します。
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