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前田慶次郎供養塔

 【駅弁】牛肉どまん中 「花の慶次」ヴァージョン のつづき

 米沢ゆかりの武将・前田慶次郎のお墓(供養塔)の紹介です。
  前田慶次郎供養塔
 (2007年8月撮影)


 前田慶次郎の生年は諸説あって判然としていません。加賀藩の史料によれば、死んだ年から逆算して天文2年(1533年)頃の生まれといわれています。
 生まれ年不肖に加え、彼の出自もよくわかっていません。有力な説としては、織田信長の家臣であった滝川一益の甥である益氏の子として生まれますが、故あって生母が慶次郎を連れて前田利家の兄である利久に再嫁したので利久の養子となり、前田姓を名乗るようになったといわれます。
 養父・利久は尾張荒子城主(2千貫)でしたが、永禄十年(1567年)10月突如主君である織田信長より弟の利家に家督を譲るよう命じられたため、利久は無理やり放逐されてしまいます。
 この後しばらく利久・慶次郎父子の消息は判然としませんが、天正9年(1581年)に叔父である前田利家が信長より能登一国を与えられた頃前田家に帰参したとみられ、利家に仕えることになります。
 慶次郎は天正12年(1584年)、末森城の合戦や翌年の阿尾合戦にも参戦し、佐々成政を破って越中阿尾城を預かるなどの働きを見せています。
 しかし、天正18年(1590年)頃、慶次郎は突如前田家を出奔します。理由は利家との間に不和を生じたらしいと見え、また天正15年に養父・利久が亡くなったので、前田家との義理もなくなり、その事も起因していたかと思われます。

 その時の有名な逸話としてこんな話があります。慶次郎という人は日頃から奇行が目立ち、律儀者である叔父の利家はそのことを心配し、ちょくちょく説教をしていたが、慶次郎はそれを疎ましく思い、ついに利家のもとを離れることを決意しました。
 ただ出奔するのでは面白くないというので慶次郎は一計を案じます。
「これまで叔父上に数々のご心配をおかけし、申し訳ございません。つきましては、改心の証として拙宅にて茶の湯をいたしますので、ぜひお運びいただきたい」
と慶次郎が頭を下げるので、利家もやっとわかったか、と機嫌をよくし、あくる日慶次郎宅を訪れます。
 すると慶次郎が、
「今日は寒うございますから、茶の席の前に一風呂浴びては如何でしょう」
と利家を湯殿へ案内し、いざ利家が湯に浸かろうとすると果たしてそれはすぐにも凍えそうな冷たさの水風呂でした。
 これに怒った利家が供の者に慶次郎を連れてくるように命じると、すでに慶次郎は利家の愛馬・松風を奪って逃げたあとだった云々。

 その後、慶次郎は妻子を国に残したまま、単身京都で牢人生活を送っていたと思われます。やがて、上杉景勝の重臣・直江兼続の知遇を得、それがきっかけとなって上杉景勝のもとへ出仕することになります。上杉氏の記録では、直江兼続配下の「組外衆」として1000石で召抱えられたそうです。
 「東の関ヶ原」といわれる慶長出羽合戦では慶次郎も参戦し、長谷堂城の戦いで最上勢と対峙し、やがて撤退を余儀なくされたときは殿をつとめ、目覚しい働きを見せたと上杉家の史料に書かれています。

 慶長6年7月、上杉景勝は徳川家康への謝罪のため会津を立ち伏見にて家康と対面を果たしますが、この時家康の下知により景勝は会津120万石から米沢30万石への移封を命じられます。
 このとき、慶次郎は京におり、他家からの仕官の話もありましたが、「今度の戦で諸大名の心を見限った。我が主人は景勝ただ一人しかいない」とすべて断り、同年10月、上杉景勝、直江兼続の後を追って米沢へ赴きます。この時慶次郎が記したと思われる道中日記が現在に伝わっています。(写真は影印本)
 前田慶次道中日記

 晩年、慶次郎は米沢近郊の堂森という場所に隠棲し、慶長17年(1612年)に亡くなりました。享年は70歳前後だったといいます。
 慶次郎の亡骸は米沢城下の北寺町の一花院という寺に葬られたとの記録がありますが、一花院はその後廃寺となっており、残念ながら慶次郎の墓も残っていません。
 昭和55年に慶次郎が隠棲した堂森にある善光寺というお寺さんに供養塔が建てられました。
 堂森善光寺

 慶次郎は数々の「やんちゃ」な逸話が残る自由奔放な気質でありながら、一方で和歌や漢詩にも通じた名うての風流人だったといわれます。その辺のギャップが、「かぶき者」と言われる由縁なのでしょう。型にはまらない豪放な人物だったようです。

 なお、この寺の近くに「慶次清水」と呼ばれる慶次郎も利用したという湧き水があるということでしたが、結局場所がわかりませんでした。また再訪したときに行ってみたいと思います。
 米沢市内にある宮坂考古館には慶次郎所用と伝わる甲冑(朱漆塗紫糸素懸威五枚胴具足)が展示されています。
 宮坂考古館

 
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : 有名人の墓(ま行)

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前田慶次

最初「一夢庵風流記」を読んだときものすごく魅了されました。
いまでも、隆慶一郎さんの作品の中では一番大好きです。
その後海音寺さん、村上元三さんと同一人物を扱った小説を読んだのですが…
海音寺さんの「戦国風流武士」と結構内容の要素に似た部分があるのですよね。
元々「事実」としてしるされている部分がほぼ同じなので、似てくるのは当然なんでしょうけど、それを超えて、似せてというか、尊敬して取り入れている部分もあるように思います。
(海音寺さんは史伝作家として高名ですが伝奇小説作家としての腕前もなまなかなものではないと思うのですが…)

いつか堂森にはいってみたいですね。

一個の男子としては慶次郎のようにありたいです!

Re: 前田慶次

トマ様

 おはようございます。コメント有難うございます。

 ご指摘のように、前田慶次からみの小説って初出は海音寺さんだと思います。(家にもありますけど。。。)
 しかし、隆慶一郎の小説って視点が斬新でしたね。「影武者徳川家康」「捨て童子松平忠輝」とか面白く読みましたが。
 割と早く亡くなられたので、作家としての活動期間は短かったのが残念ですね。

 前田慶次については出自をはじめ、謎の部分が極めて大きいのですが、あの時代にしては枠にはまらない自由な生き方をなしえた人なんだなあと思いました。
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2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

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