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【坂の上の雲】戦艦三笠の運命(一)

  DSCF0127.jpg

 先週、神奈川県横須賀市にある記念艦三笠の見学会へ行ってきました。あいにく、見学時強い風雨になってしまい、持っていたカメラも吹き付ける雨風にずぶ濡れとなってしまう状況で、外観はあまり良い写真が撮影出来ませんでしたので写真は期待しないでください。

 戦艦三笠は明治30(1897)年にいわゆる「六六艦隊計画」の最終艦として計画されました。イギリスのヴィッカーズ社バロー・イン・ファーネス工場にて造成されました。
 明治35(1902)年3月に竣工し、同年5月、横須賀へ到着、同年11月に常備艦隊旗艦となります。
 翌36(1903)年12月に聯合艦隊編成の折に旗艦となります。
 明治37(1904)~翌38年にかけて日露戦争に参加し、東郷平八郎聯合艦隊司令長官ら司令部が乗艦し、活躍したことは周知の通りです。
 ところが、戦争終了後、明治38年の9月11日、佐世保港内で弾火薬庫が爆発し、339名の乗組員が殉職します。この爆発事故は、どうも艦内にあったメチルアルコールを持ち出して酒盛りをしようとした不届き者がいたようで、それに引火したのが引き金だったようです。海軍はこの不祥事を火薬の自然発火として報告し、隠蔽したといいます。
 その後、大正7年から三年間はシベリア出兵で沿海州警備に従事しますが、大正10年9月、浦塩港外のアスコルド水道で座礁し、ウラジオストックで修理した後、舞鶴へ帰投します。

 同年11月よりアメリカのワシントンで開かれた「ワシントン会議」の中で、海軍軍縮条約が採択され、米英日仏伊、各国の航空母艦等の保有制限が決められたため、三笠は廃艦が決定しますが、大正12年の9月関東大震災の時に横須賀港で繋留岸壁と触衝し前部が浸水したため、9月20日をもって除籍となります。これで三笠は軍艦としての使命を終えました。
 その後、三笠は軍縮条約により廃艦後は解体される予定だったところ、日露戦争で活躍した三笠に対する保存運動が勃興し、現役に復帰できない状態にすることを条件に保存されることが特別に認められ、大正14(1925)年1月に記念艦として横須賀に保存することが閣議決定されました。
 同年6月18日に保存のための工事が開始され、舳先を皇居に向けて固定されます。同年8月には財団法人・三笠保存会が設立され、11月10日に工事完了、その二日後に記念式が行われました。

 こうして生きながらえた三笠でしたが、前の大戦で日本が敗北すると、連合国軍によって日本は占領下に置かれます。ソ連などは日露戦争時の恨みからか、三笠の廃棄を断固主張しますが、横須賀はアメリカ海軍の実権下に置かれていたため、三笠は米軍により接収され、かろうじて廃棄を免れました。
 三笠は米軍監視下に置かれますが、心ない米兵によって艦内の目ぼしい記念品は持ち去られました。やがて23年1月、米海軍基地の司令官は艦橋、マスト、砲塔、煙突を4月1日までに除去の上横須賀市による教育事業に転用することを許可しました。
 しかし、敗戦後の虚脱感もあって、横須賀市は三笠の管理に消極的だったらしく、湘南振興株式会社という民間企業に管理を委託してしまいます。湘南振興株式会社は、まっさらになってしまった上甲板上にダンスホールと水族館を設置、さらに艦内の司令長官室はキャバレーに、参謀長室はカフェにしてしまいます。三笠は米兵相手の遊興施設と化してしまい、あまり大きい声では言えませんが、風紀も乱れていたといいます。
 さらに、湘南振興株式会社は朝鮮戦争が勃発すると、艦内にあった鉄や胴、真鍮などあらゆるものを引き剥がして売り飛ばし、暴利を貪ったということです。
 
 前置きが長くなりましたが、上記の三笠の歴史を頭にとどめていただき、以下にお進みください。


 無線電信室 ここで「敵艦見ユ」の第一報を受信しました。三六式無線電信機のレプリカが展示されています。
DSCF0129.jpg

 この無線室のちょうど目の前の床板に注目です。三笠オリジナルのチーク材の床板が今もあります。幅広でとても堅い材質で出来ています。ここ以外のチーク材の床板はすべて、湘南振興株式会社が引き剥がし、売り払ってしまったのです。(復元された向こう側の床板は幅細で、別の木材が使用されています)
DSCF0130.jpg

 両舷にある8cm砲台。見学者が自由に向きを変えられるようになっています。
 DSCF0142.jpg

 上甲板左舷側の中部にある4番15cm砲の砲室。写真が切れてしまっていますが、当時と同様なハンモックが吊られています。この砲室に配置された砲員はこの砲室で食事をし、このハンモックで眠りそして訓練をしていました。
 DSCF0143.jpg

 前部司令塔内部
 DSCF0132.jpg

 東郷平八郎司令長官や参謀らが立っていた露天の最上艦橋です。日本海海戦時、東郷は幕僚から装甲された司令塔へ移ることを進言されましたが、戦況が見渡しやすいこの場所に留まりました。東郷長官、参謀長の加藤友三郎少将、艦長の伊地知彦次郎大佐、参謀の秋山真之中佐の推定立ち位置が示され、右手にその模様を描いたレリーフがあります。
 DSCF0135.jpg


 長くなるので、つづきます。



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ジャンル : 政治・経済

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ニミッツ

が軍艦三笠の惨状を嘆いて、そこからレストアが始まったというのは、もう書かれていますが…。

同じビカース社で建造されたチリ船籍の軍艦「アルミランテ・ラトーレ」がレストアに資材を提供したそうですよ。

Re: ニミッツ

> が軍艦三笠の惨状を嘆いて、そこからレストアが始まったというのは、もう書かれていますが…。
>
> 同じビカース社で建造されたチリ船籍の軍艦「アルミランテ・ラトーレ」がレストアに資材を提供したそうですよ。

 ご教示ありがとうございます。米軍は廃船をスクラップにして売り払ったお金を提供したりしたのは聞いてたんですが、資材提供に使われたチリ船籍の軍艦の名前まで知りませんでした。しかし、ニミッツはそれほど三笠に思い入れがあったのですかねえ?
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