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吉川経幹 吉川広嘉 吉川元春夫人の墓

 つづき
 吉川家墓所で写真撮影していたところ、デジカメのモニターの充電池表示が赤く点灯しはじめました。やばい…(´・ω・`) 
 実はこの旅の直前、日ごろ愛用している富士フィルムのコンデジが故障し、「ご入院」となったため、親戚の者からデジタル一眼レフを借りて撮影していたのです。2個の充電池も借りて携行していたんですが、予想以上に電池の減りが大きかった。この日、すでに1個電池を使い果たし、2個目でしたので、この最後の電池が切れてしまったら後の行程の写真が撮影できなくなります。やっぱり、専用の充電池オンリーしか使えないカメラは意外と不便ですね。普段使っているコンデジの方は、念のため3、4個を携行するようにしているんですが。
 やむなく、墓所では人物を最小限に限って撮影しました。撮影したのは以下の通りです。

12代 吉川経幹(1829~1867年)
   PB150466.jpg

 幕末の吉川家当主です。前述した吉川広家の関ヶ原の一件があって以来、毛利家は吉川家の分藩を許さなかったので、吉川家は6万石を有しながら大名にはなれず、江戸時代を通して陪臣のままでした。当然、両家の仲はあまり芳しいとはいえませんでした。
 弘化元(1844)年に家督を継いだ吉川経幹は、主家である毛利家との関係改善に努め、文久2(1862)年には本藩藩主の毛利敬親の名代となって上京するなど、積極的に主家のために奔走します。
 江戸幕府による第二次長州征伐の折には芸州口の戦いにおいて本藩の兵と共に戦い、勝利しました。
 しかし、慶応3年(1867)年3月に39歳の若さで病死してしまいました。
 毛利敬親の命により経幹の喪は秘され、経幹がまだ生存しているものとして、本来幕府の認許によるべき叙爵を直接朝廷に願い出ます。12月には経幹の隠居を届け出て、官位が復旧されました。

 翌慶応4(1868)年3月朝廷から吉川家を毛利の末家となすという沙汰書を賜わり、続いて6月駿河守に任じられ従五位下に叙し諸侯に列する旨の宣下を得ます。江戸時代最末期にようやく経幹の功績によって岩国吉川家は晴れて大名に昇格することがかなったのでした。
 死後、大名昇格を果たした「実績」からなのか、墓所では裏山の吉川広家の墓に次いで高い位置に墓があります。

 
3代 吉川広嘉(1621~1679年)

  PB150498.jpg

 吉川広家の孫にあたる人です。延宝元年(1673年)、2年(1674年)と連年錦川に架橋工事を行い、錦帯橋を架橋したその人です。広嘉は元来病弱で、明からの帰化僧であった独立性易という人の治療を受けていましたが、その折に杭州の西湖の島々に架かるという6連のアーチ橋の話を聞いて、錦帯橋の構想を得たということです。
 街中に広嘉公の銅像がありました。
  PB150298.jpg


吉川元春夫人(?~1606年)
   PB150496.jpg

 熊谷信直の娘で吉川元春に嫁ぐ。吉川元長、繁沢元氏、吉川広家を生む。新庄局と称される。
 「陰徳太平記」などによると彼女は醜女であったとされるが、実際のところはよくわからないようです。
 なお、ご主人の元春公は広島県の北広島町に墓があるので、また別の機会にご紹介します。

 残念ながら上記の理由で、すべてのお墓を撮影できなかったのが心残りではあります。


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tag : 有名人の墓(か行)

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吉川広家

私がもつ吉川広家の印象は大河「葵徳川三代」で なべおさみさんが演じていたイメージですね。
(別件ですがなべさんについては、私のブログをご覧下さい。)

策士なのですが、中途半端、スケールが大きくない、でも武士らしい主家を思う気持ちは強い。
小ずるいけど憎めないところがあるということでしょうね。

実は私は「関ヶ原」においては西軍びいきで、いくらでも勝つチャンスはあったのにと悔やまれます。
平和ではあっても徳川の幕藩体制が日本をダメにしたのかもと思ったりしてます。
信長~秀吉~三成へと続く反封建勢力が継続していた方が、世界の大航海時代にマッチしていたような気がしますもんね。

家康が覇権を握ることによって革新的流れがストップしたことを残念に思いますので、毛利の両川(秀秋や広家)が余計なことをという感覚です。

Re: 吉川広家

> 私がもつ吉川広家の印象は大河「葵徳川三代」で なべおさみさんが演じていたイメージですね。
> (別件ですがなべさんについては、私のブログをご覧下さい。)

★柴様 こんばんは。コメント有難うございます。
 なべおさみさんの「吉川広家」ですが、あいにく私は「葵徳川三代」をあまりよく見ていなかったんです。(当時忙しかったので) 今度ビデオで見てみますが、なべおさみさんが武将とは意外ですね(苦笑)


> 実は私は「関ヶ原」においては西軍びいきで、いくらでも勝つチャンスはあったのにと悔やまれます。
> 平和ではあっても徳川の幕藩体制が日本をダメにしたのかもと思ったりしてます。
> 信長~秀吉~三成へと続く反封建勢力が継続していた方が、世界の大航海時代にマッチしていたような気がしますもんね。
>
> 家康が覇権を握ることによって革新的流れがストップしたことを残念に思いますので、毛利の両川(秀秋や広家)が余計なことをという感覚です。


★私も毛利が動けば、関ヶ原の合戦はもっと違ったものになっていたと思っています。吉川広家については、どうして当初から西軍不利と読んでいたのかがよくわかりません。
 小早川秀秋については言わずもがな・・・ですね(笑)まあ、秀秋、広家以上にやはり毛利輝元が大軍を束ねる将としてはあまりにも矮小すぎますね。
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