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吉川広家の墓(吉川家墓所)

 岩国城ロープウェイの山麓駅の西方300mの寺谷という所に、岩国の領主であった吉川家の墓所があります。ここには六代当主を除いた吉川家代々の当主及びその家族が眠っています。
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 まず、岩国吉川家初代である吉川広家(1561~1625年)から墓参りをするため、墓地の奥の方にある階段を登ります。広家と幕末の当主である十二代・経幹のみ墓所の裏手の山に墓があるのです。
   PB150463.jpg

 階段を登ると細い参道へ出るので、そこを右手の方に進むと広家の墓がありました。
   PB150494.jpg

 戦国史ファンの人なら、語らずとも吉川広家の事は知っておられると思うので、簡単に紹介だけ。
 「毛利両川」として名を馳せた吉川元春の三男であり、毛利元就の孫にあたる人です。兄・元長が早世したことにより、吉川家を相続しました。叔父である小早川隆景が死んだ後、毛利家の重鎮となったのがこの人でした。
 広家については、その存在がクローズアップされるのは関ヶ原の戦いです。彼は元より西軍の敗北を予想し、西軍派の安国寺恵瓊の口車に乗って毛利輝元が西軍の盟主として担ぎだされた後も諦めずに、東軍への内応工作を行います。
 関ヶ原の戦いではかねてから親しかった黒田長政を通じて、徳川家康に対して毛利輝元が罪無きことの釈明と毛利家の所領安堵を依頼し、家康の臣である井伊直政、本多忠勝からそれを保証する内容の血判つきの起請文をもらい、ほっと一安心の広家でした。自身は南宮山へ布陣して、毛利の軍勢を動かせないように努めます。ところが…。
 
 東軍の勝利で終わった関ヶ原、さっそく家康によって戦後処理が行われます。
 10月に入ってから黒田長政から届いた手紙を見て、広家は仰天します。そこには、「毛利輝元が奉行共に一味して、大坂城西ノ丸に入り、諸方への数々の廻状に署判を加えた上、西国へ出兵させたことが判明したので、領地を没収する。ただし、貴殿の忠節は内府様(家康)も承知だから、中国のうち一、二ヶ国を下されることが決まった」と書かれてあったのです。毛利家の所領安堵の約束は見事に反故にされていたのでした。

 つまり、家康の言い分としては、自分自身は直接毛利へ対して何ひとつ後日の証拠となるような文書を送っていない、というのでした。老獪な家康らしい言い分です。
 広家がうかつだったのは、家康自身と直接交渉せずに、黒田長政や井伊・本多などの陪臣とのやり取りのみで所領安堵の墨付きがもらえたものと早合点していたことでした。この期に及んで、家康の仕掛けた巧妙な罠に自らがまんまとはめられた事にやっと気づいたのです。
 やむなく広家は、家康側へ毛利家の存続を哀願する起請文を書き送り、やがて、家康からは広家に下される予定だった防長二カ国を毛利輝元へ与えるという決定が下されました。

 こうして、毛利家は防長二カ国へ減封となり、広家には岩国の3万石が下されました。
 広家はあくまでも毛利の陪臣の立場でしたが、家康からは岩国への築城を許され、慶長6年(1601年)より8年の歳月をかけて築城されたのです。その後の岩国城については前述の通り、元和の一国一城令で完成後わずか7年目で取り壊しの憂き目にあうのですが。
   PB150491.jpg

 主家である毛利家の大幅な減封はありましたが、家の存続は守られたことで吉川広家の一連の行動を評価する向きもある一方で、家康の計略にかかり、本州最南端の小国に追いやられたのは広家の手落ちと批判する向きもあります。私もどちらかといえば、何故最初から東軍に味方していたのか、広家の心情をはかりかねます。毛利輝元の動き次第では、西軍の勝利ということもありえたからです。
 広家としては、父や叔父の小早川隆景亡き後の、毛利の後見役という自負があったようですが、残念ながら叔父・隆景並みの深謀遠慮の域には達していなかったと私は思います。

 ただ一ついえるのは、広家は豊臣秀吉の朝鮮出兵に参戦しているんですね。その時の人間関係で、おそらく黒田長政や福島正則らと親しかったと思うのです。黒田とか福島たちは石田三成と犬猿の仲だったので、広家としても黒田らの動きに同調する流れはこの頃からあっただろうと思われます。

 墓の傍らには、「みみずくの手水鉢」が置かれていました。これは、かつて丹羽長秀の臣で茶人でもあった上田宗箇より、広家が贈った桜の返礼として贈られた品だということです。残念ながら、この手水鉢は広家の死後に贈られてきたそうで、長らくある寺にありましたが、近年になって広家の墓の側に移したという話です。
   PB150493.jpg

 ところで、墓地散策中にちょっと困ったことがおきました。長くなるので続きます。


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吉川広家、本当に詰めが甘かったと思います。
ただ、輝元も天下を取れる程の器だったとも思えず、広家も毛利家存続を思えばこそだったでしょうね。
歴史上の有名人の墓巡り、筆者も大好きです。

桃源児様

コメント有難うございます。毛利家の家臣たちでも東軍に与すべしと考えていた人たちがけっこういるみたいですね。
毛利輝元が大将の器でないことはご指摘の通りだと思います。ほんとう、駄目駄目ですよね(苦笑)
ただ、もし豊臣秀頼を引き出せていたら…と思ったりもしています。
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