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父から子へ・・・遺書に託した思い 吉川経家

 山口県岩国の史跡巡りの続きです。前回は、岩国の領主であった吉川家の史料館へ立ち寄り、尼子再興に尽くした武将として有名な山中鹿介ゆかりの兜を見学したことを書きました。

 秋の収蔵品展ということで、他にも重要文化財の貴重な史料が出展されていました。
 その中に、天正9年(1581年)豊臣秀吉による兵糧攻めとして有名な「鳥取城渇え殺し」で切腹させられた毛利方の城将・吉川経家(1547?~1581年)の遺した遺書が展示されていました。山中鹿介の兜と共に、ぜひ一度見てみたかったのがこの書状です。

 下の写真は鳥取県にある鳥取城址の麓にある吉川経家の銅像です。
DSCF3757.jpg

 その前年、織田信長は羽柴秀吉に命じて、中国地方に進軍させていましたが、その過程で毛利方に属していた山名豊国の鳥取城を攻めます。その時、城主である豊国は織田軍に降伏したのですが、それに反対していた二人の家老によって豊国は追放されてしまいます。
 残った家老たちは「毛利両川」の吉川元春に城代の派遣を依頼し、元春が遣わしたのが一族の石見福光城主・吉川経家でした。
 吉川経家は自ら首桶を持参するという強い覚悟のもと、天正9年の3月に鳥取城へ入城しました。
 秀吉による鳥取城の包囲網が着々と築かれる中、経家は早速籠城戦の準備を始めたものの、1500人が籠城して食糧の備蓄がたかだか一月半か二月ほどしかない事を知って愕然とします。
 さらに、秀吉軍によって城下を追われてきた人々…百姓や地侍、町民たち老若男女が2500人ほどが城内に逃げこんできました。
 これに対して、毛利方は陸路と海路から兵糧搬入を試みますが、ことごとく秀吉軍によって撃退されてしまいます。
 米を積んできた毛利方の水軍が秀吉軍の攻撃を受けて炎と共に海中に消えていく様を見て、籠城の人々は悲嘆にくれながらただ見守るしかなかったといいます。
 とうとう城内の食糧が底を突き、小動物を殺して何とか飢えをしのいでいた人々も次々と餓死していきました。
 城内では飢えた人々が牛や馬のみならず、死にかけた人々に襲いかかり、人肉を貪り食うという凄惨を極め、まさに地獄絵さながらの様相を呈していました。

 城内の惨状を目の当たりにした経家は、10月に入り雪の季節を前にして、これ以上の多くの犠牲者を出すに忍びず、ついに開城することを決意します。自分の命と引き換えに、籠城する人々の助命を敵である秀吉に請うたのです。
 死の間際、経家は吉川元春の子・経言(後の広家)や父・経安、子供らに宛てて遺書を書きました。
 中でもまだ幼い自分の子供たちへ宛てた遺書をここで取り上げることにします。

 とっとりの事 よる
 ひる二ひゃく日こらへ候。
 ひゃうニつきはて候まゝ
 我ら一人御ようにたち
 おのおのをたすけ申
 一もんの名をあけ候。その
 しあハせものかたり
 御きゝあるへく候。
 かしこ

 てん正九
 十月廿五日  つね家判

 あちゃこ
 かめしゅ まいる申給へ
 かめ五 
 とく五


 「自分ひとりの切腹で多くの城兵たちの命を救い、吉川一門の名を上げるのである。その幸せ物語をぜひ聞いてほしい」
 経家は幼子たちにもわかるように平仮名を使い、万感の思いを込めてこのように書き記しました。
 遺書を認めた後、経家は従容として死地へ赴きました。享年35歳。

 残念ながら、子供たちへの遺書の原本は行方不明だそうですが、その写しが石見吉川家文書の中に残っており、国指定重要文化財となっております。
 私はこの話を高校時代に歴史の本で読んで心のどこかにずっと残っていたのですが、それに関連した史料を見ることが出来て感慨深いものがありました。

 状況は違いますが、1985年の日航ジャンボ機墜落事故の際に、乗客の中で数名の男性の方がやはり子供たちや奥さんへ宛てて最期の言葉を記していました。死の恐怖にさらされながら、その方たちは必死で父としての言葉を遺したのです。父親の子供達へ寄せた切なる思いは現代も変わらないのです。
 
 吉川経家が子供たちへ最期の言葉と書き送った「一もんの名をあけ候」ですが、果たせるかな400年後、鳥取の人々は江戸時代の領主であった池田家の人ではなく、敗軍の将である吉川経家の銅像を城の麓に建てました。経家の願い通り、その名は後の世にまで残ったのです。
 蛇足ですが、吉川経家には肖像画が残っていなかったため、銅像作成にあたり、岩国におられた吉川経家の長男・亀寿丸(後の経実 岩国の吉川本家に仕えた)の直系ご子孫と、経家の三男の子孫にあたる故・五代目三遊亭円楽師匠の二人をモデルにしたということです。

 岩国の町中を歩いていたら、ふと「吉川経家公弔魂碑」を見つけました。吉川経家の長男の子孫が住んだ土地に昭和14年に建てられたということです。土台は鳥取城にあった石をいくつか使っているそうです。
 石碑の背後には岩国城の天守が見えました。

PB150521.jpg

 (※鳥取城や吉川経家の墓については、また別の機会に掲載します)


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テーマ : 歴史上の人物
ジャンル : 学問・文化・芸術

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旧藩主ではなく、遠く戦国、しかも他所から来た城主の銅像、ちょっと珍しいケースですね。
彼の生き様を考えると、頷ける話です。

桃源児様

桃源児様 コメント有難うございます。
吉川経家ですが、鳥取にはほんのわずかな期間しかいなかったのに、今でも法要などが営まれています。
敗軍の将ではありますが、人間的な逸話が伝わって、地元の方たちに愛されているのかもしれません。
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