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「あし@」終了するんですね。。。(知らなかった)

 さきほど、読者の方のご指摘で、「あし@」のサービスが今日終了することを知りました。

 実は、最近忙しくて、「あし@」にログインする暇がなかったもので、つい先ほどまでわからなかったのですよね。
 「あし友」申請していただいていた方、メッセージに気づかず、ごめんなさいです。


 「あし@」ですが、たしか2年半前?くらいに軽い気持ちで加入したんですね。

 「あし@」のおかげで、多くの楽しく、役立つブログに出会うことが出来ました。

 「あし@」に代わるサービスがよそであるようなので、追々加入予定ですが、すみませんが「今後もよろしく」と言っていただける優しい方がおられましたら、相互リンクさせていただきますので、どうぞ宜しくお願いします。

 取り急ぎ、「おきてがみ」を画面右上に設置させていただいていますが、コメント欄からのご連絡もお待ちしております。(コメント非公開も可)


 以上、事務連絡でございました。


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嗚呼壮烈!岩屋城(6)

 嗚呼壮烈!岩屋城(5) のつづき


 下りは元来た道をそのまま下って、麓へ至りました。西鉄大宰府駅を目指して帰路に着きます。


 【横岳崇福寺跡】岩屋城の戦いで焼失しました。この寺が後に博多で再興され、やがて福岡藩主、黒田家の菩提寺となります。
 博多の崇福寺については以前、当ブログで紹介しました。

 過去記事 博多崇福寺(黒田家墓所) 
 横岳崇福寺跡

 

 【朝日地蔵】崇福寺の開基・湛慧禅師のお墓?だそうです。
 朝日地蔵



 【西正寺】高橋紹運の菩提寺。寺所蔵の「木造法蔵菩薩像」は、岩屋城落城の折に山内重勝という家臣が紹運からこの仏像を与えられたという言い伝えがあるそうです。
 現在でも紹運の命日には関係者が集まり、供養が行われているとのことでした。(今回は拝観できず)
 西正寺



  西鉄大宰府駅前で解散しました。全行程5時間半でしたが、一人の脱落者もなく、無事終了となりました。
  西鉄大宰府駅前


 【感想】
 久しぶりの山城だったので、帰宅後2,3日足が筋肉痛になりました。日頃の運動不足のせいです。
 岩屋城を徒歩で登る場合、登山道は整備されていますが、ところどころ足場が狭かったり、急な斜面もあるので、それなりに注意が必要でしょう。堀切などはよく残っていますので見逃さないように。
 現地へ行かれるとわかりますが、岩屋城は古代の「大野城」の城域の一部であって、自然の地形を生かした堅固な城であり、高橋紹運が籠城戦を決めこんだ理由もわかるような気がします。
 個人旅行は周囲に気を遣わなくて楽ではありますが、このように地元学芸員さんの話を聞きながら行くのもなかなか勉強になります。(ただし、集団行動なので、史跡にてしばしもの思いにふける、、、というのは無理ですが)

 各地の自治体の博物館等でこのような歴史探訪ツアーというのは開催されていますので、ぜひ参加してみては如何でしょうか。
 参加者は様々な世代の方がおられましたが、やはり「団塊の世代」の方がやや多かったように思います。


  ※主催 福岡県教育委員会


 最初から読む方はこちら⇒嗚呼壮烈!岩屋城(1)


 
 
福岡県の名城 (アクロス福岡文化誌)福岡県の名城 (アクロス福岡文化誌)
(2013/04/10)
アクロス福岡文化誌編纂委員会

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 ここまでお読みいただき、有難うございます。
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嗚呼壮烈!岩屋城(5)

 嗚呼壮烈!岩屋城(4) のつづき

 岩屋城の本丸跡を出て、北の方角へ山道を歩いていくと、古代の城、「大野城」の遺跡がある増長天地区へ至りました。
 発掘調査の結果、倉庫?らしき建物の礎石が出てきたそうです。
 
 大野城増長天地区

 
 礎石群を横目に見ながら、さらに歩いて行きますと、高橋紹運の辞世の句が刻まれた石碑がありました。

 「流れての末の世遠く埋もれぬ 名をや岩屋の苔の下水」 (『陰徳太平記』)
 高橋紹運辞世

 この付近に数台停められる駐車場がありますので、車で来る方は利用されるといいでしょう。

 
 辞世碑のすぐ側に、やはり「大野城口城門跡」がありました。人が多くてわかりずらいですが、ここに石垣と門の礎石があります。

 大宰府口城門跡2

 城門跡の左手下方3mくらいのところに、石垣のようなものがあります。
 この石垣?を「石こづんばば」といって、岩屋城落城にまつわる伝説があります。

 「岩屋城を取り囲んだ島津軍だったが、高橋勢の必死の応戦により味方に多数の死傷者を出し、攻めあぐねていた。
 そこで、城の水の道を断つことを思いつき、里の欲深い老婆に金を与えて水口を案内させた。さすがの高橋勢も水を断たれてしまい、ついに全員討死した。
 戦の後、水口を教えた老婆の噂は広まった。高橋紹運を慕っていた里人たちは怒り、裏切り者の老婆を捕えて水場の側へ連れていき、頭から大石小石を積み重ねて生き埋めにしてしまった」
 
 しかし、この石垣?は中世のものではなく、やはり大野城の石垣の一部だそうです。石垣の下にかすかな水の流れが今でもあるとのこと。
 大宰府口城門跡1


  大野城口城門跡を見学後、もと来た道を下っていきます。
  かなりの距離を歩いてきたにもかかわらず、皆さん疲れもみせず、お元気です。
  岩屋城4



 長かった岩屋城攻めですが、次回で終了です。



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嗚呼壮烈!岩屋城(4)

 嗚呼壮烈!岩屋城(3) のつづき


 実は、岩屋城の本丸のすぐ下あたりまでは車道が通っているので、車で行かれます。私が数年前、泣く泣く通り過ぎたのもここでした。
 この登り口から、本丸を目指します。

  岩屋城本丸1

 
 本丸への道は整備されていますので、麓から二の丸までの道よりは歩きやすいです。

 そして、やっとこ本丸跡へ到着しました。標高281m。車ではなく、自らの足でやってきたという達成感がありました。(なにせ、久しぶりの山城だったものですから)
  岩屋城本丸3


 本丸跡には、「嗚呼壮烈 岩屋城址」と刻まれた石碑があります。(戦後建てられたということです)
   岩屋城本丸4

 

 本丸跡は見晴しが良く、大宰府の町が一望できます。(しかし、この日は中国から大気汚染物質が到来しており、霞がかっていた)
 学芸員さんの話だと、下の写真で示しているあたりに島津軍が陣取っていたとか。兵の数、およそ4~5万だったそうですから、敵の大軍を目の当たりにした高橋紹運の心中いかばかりだったでしょうか。

 この時、紹運の実子である立花宗茂は父のもとへ急使を送り、岩屋城を出て、立花山城への移動を勧めたが、紹運は息子の勧めに従おうとはしませんでした。
 また、かねてから助勢を依頼していた豊臣秀吉の「軍峰」であった黒田如水(官兵衛)も使者を派遣し、一時避難を勧めました。しかし、紹運は「この城をわがと定め、討死する覚悟にございます。それがし、地下にて太閤殿下の御厚恩に報いましょう」といって丁重に断ったといいます。
 結局、紹運は如水へ申し送った通りの運命を辿りました。
  般若寺跡



 宝満城を眺める。戦に先立ち、紹運は宝満城に高橋家の後継ぎである二男の統増を入れていました。
 すなわち、紹運は自らが楯となる覚悟で籠城し、島津軍相手に徹底抗戦することで、宗茂・統増二人の息子を守ろうとしたのでした。
  宝満城


 
 いよいよ、お楽しみ。お弁当タイムです。しばし和むひとときですが、今回一人参加の私は黙々とおにぎりを食べました(泣)
 中にはわざわざ登山用のミニコンロを持参し、お湯を沸かしている方もいました。コーヒーか何か、温かい飲み物を入れるためでしょう。登城される折は、ぜひお弁当を持参されるようおすすめします。 
  岩屋城本丸2

 
 
 とりあえず、本丸を制覇しましたが、まだまだ続きます。



 
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嗚呼壮烈!岩屋城(3)

  嗚呼壮烈!岩屋城(2) のつづき

   推定「金光寺」跡裏手より、いよいよ岩屋城本丸を目指して山道を登って行きます。

  岩屋城1


 その道すがら、「萩尾大学」の墓とされる、板碑がありました。
 萩尾大学は高橋紹運の家臣で、岩屋城の戦いで討死したということです。(萩尾大学については詳細がわかりませんでした)現在でも墓に香華が手向けられています。

 萩尾大学の墓


 
 そして、さらに山道を登っていきますと、高橋紹運の墓(胴塚)に至りました。
 この辺りが岩屋城の二の丸付近にあたります。

 歴史上の人物の墓参ですが、とくに討死した武将の場合、当然のことながら、「首塚」と「銅塚」が別々にある場合が多いです。(もちろん、諸事情でどちらか片方だけしか存在しない場合もあります)
 その場合、可能であればどちらも参ることがとても重要になります。

 今回のツアー参加者のほとんどは墓に手を合わせていましたが、残念なことに墓石に腰かけたり、ペタペタ叩いたりしていた人がいました。(けっこうな年配者でした)そういう失礼なことは止めましょう(泣)

 今回は墓がメインではないので、皆さんさっさと先を急いで行かれましたので、しばし墓前で感慨にふけるというわけには参りませんでした。
 高橋紹運銅塚



 墓の側の紅葉が色づきはじめたばかりでした。
 高橋紹運銅塚2

 結局、今回も墓の紹介でした(汗)

 本丸を目指して、つづきます。



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嗚呼壮烈!岩屋城(2)

 嗚呼壮烈!岩屋城(1) のつづき

 高橋紹運首塚から北へやはり15分強歩いていくと、「観世音寺」(天台宗)という古刹がありました。
 大宰府政庁の東側に位置します。

 なんでも、中大兄皇子(後の天智天皇)が母・斉明天皇の菩提を弔うために発願したという寺院なのです(古!)
 完成をみたのは、80年後の聖武天皇の御世、天平18年(746年)だということです。往時は七堂伽藍を有する九州一の寺院だったそうですが。。。現在は江戸時代に再建された講堂と金堂があるのみです。

 お寺の由来はほどほどにして、「岩屋城」の戦いの折、この寺に島津軍が陣を置いたといいます。
 観世音寺

 
 寺の敷地内に、満開のコスモス畑がありました。心和む風景。。。
 観世音寺2



 寺の道を挟んだ北側に、観世音寺の鎮守である「日吉神社」があります。
 日吉神社

 九州を平定した豊臣秀吉が、帰路大宰府に立ち寄り、ここ日吉神社に陣を張りました。
 しかし、観世音寺の別当が秀吉のことをよく知らずに、輿に乗ったまま応対してしまい、この無礼な態度に激怒した秀吉は観世音寺の寺領100町のみ残し、残りはすべて没収してしまったといいます。


 観世音寺の裏手を歩いていると、「岩屋城址」が見えてきました。これから、あの山に登るのです!

 岩屋城址


 岩屋城のある四天王寺山の麓まで歩いてきました。(観世音寺から北へ600m付近)
 ここには、「推定金光寺」という中世の寺院跡があります。発掘調査をしたところ、建物の礎石や火葬場、墓地跡が見つかったとか。観世音寺の子院だったらしいですが、詳細はよくわからないようです。
 学芸員さんの話だと、子ども用下駄や女性の櫛や笄が発掘されたので、武士の居館だった可能性もあり、もしかしたら岩屋城の麓の居館がこの辺りにあったのでは??・・・という話でした。

 推定金光寺



 次回はいよいよ、岩屋城本丸を目指します。




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嗚呼壮烈!岩屋城(1)

 昨年11月、福岡県小郡市にある九州歴史資料館にて開催された特別展「戦国武将の祈りと誇り~九州の覇権のゆくえ」という展示を見てきました。そのことは昨年、当ブログに書きました。

 その折、関連イベントとして文化財めぐり「戦国の城と古戦場を歩く~岩屋城と高橋紹運~」というイベントに参加してきました。時間が経ってしまいましたが、その時の記録を記しておこうと思います。


 岩屋城(福岡県太宰府市)は文明10年(1480年)前後に、守護大名大内氏によって築城されたのがはじまりだといいます。
 その後、永禄2年(1559年)頃、豊後大友氏の家臣、高橋鑑種により宝満山城の支城として築かれました。
 しかし、高橋鑑種は主君、大友宗麟に対し謀反をおこして離反、敗れたため、大友氏の宿老であった吉弘鑑理(あきただ)の二男、鎮種(しげただ 後に出家して紹運が高橋家の名跡を継ぎました。鎮種は岩屋、宝満山城の城督となり、落ち目の大友氏を支えました。

   【高橋紹運肖像】
  高橋紹運

 
 ところで、高橋紹運には二人息子さんがいて、長男は統虎といい、後の立花宗茂です。

過去記事  立花宗茂
        立花宗茂の墓

 やはり大友氏の家臣に、戸次鑑連(道雪)という人がいて、あいにく鑑連には一人娘のほか、跡取りとなる息子がいませんでした。鑑連は高橋紹運の嫡男である統虎の器量を見込んで、紹運に対して、統虎をぜひとも娘婿に迎えたいと頼みこみます。
 この申し出に紹運は当惑し(そりゃそうですよね。ふつう、後継の長男は他家へ養子へ出すようなことはしません)、いったんは断ったものの、鑑連のたっての頼みとあってこれを受け入れ、統虎を戸次家の婿養子に出す決意をしました。

 統虎が戸次家へ養子に行く日、紹運はわが子に秘蔵の名剣「長光」を手渡しながらこう言いわたしました。
 「万が一、わしと敵味方となった時、先頭となってわしを討て。さもなくば、この剣で自害せよ」

 この統虎(立花宗茂)の戸次家への婿入りは、戸次家、高橋家の同盟という意味合いがあったとの指摘があります。

 なお、「長光」の剣は統虎(立花宗茂)が実父の形見として身近に置き、現在柳川藩立花家ご子孫のところに伝来しております。

 【剣 銘「長光」】(重要文化財 福岡県柳川市「立花家史料館」所蔵)
 剣 銘 「長光」

 
 天正14年(1586年)、九州制覇を目論む薩摩の島津氏の大軍が岩屋城に攻め寄せました。島津の軍勢はおよそ5万。
 対する高橋紹運以下の軍勢は763名。紹運は島津方の降伏勧告にも屈せず、劣勢でありながらよく戦い、籠城十余日、ついに力尽きた紹運は櫓にのぼり、念仏を唱えながら腹掻き切って果てました。
 
 時に紹運、39歳。城兵ことごとく壮烈な討死を遂げました。


   *********************************



 数年前に、私は100名城巡りで広大な古代の城「大野城」にやってきました。その折、タクシーで下っていると、道すがら「岩屋城」の案内板があり、大いにそそられましたが、あいにく帰りの飛行機の時間に間に合いそうになく、泣く泣く通りすぎたことがありました。

 今回、岩屋城址を歩くというイベントを知ったので、いい機会だと思って参加した次第です。私にとっては久しぶりの山城攻めとなりました。


 2013日11月4日(祝)
 
 西鉄二日市駅前で集合です。参加者は38名いたそうです。ほとんどが地元の方か隣県の方で、私のように遠方から北人はいなかったと思われます。前日の雨もあがり、薄曇りながら日差しも見えました。
 主催者のあいさつの後、スタートします。
 西鉄二日市駅


 二日市駅から歩いて15分くらいのところに、高橋紹運首塚伝承地(筑紫野市二日市北2)がありました。
 しょっぱなから「墓」です(笑)。引率の学芸員さんの説明を受けます。

 この首塚がある地は敵方、島津氏の本陣がある付近であり、紹運の首は実検が行われた後、この地に埋葬されたといわれています。
 下の写真のように石が積まれていますが、おそらく後世に築かれたものと思われます。
 高橋紹運首塚


 首塚の裏手にいた民家の飼い犬がキャンキャン吠えまくり、煩くて閉口しました。


                             つづく

 
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忠臣蔵と細川家 (永青文庫)

 東京・文京区にある永青文庫では、現在冬季展示「忠臣蔵と細川家」を開催中です。(前期~2月2日(日) 後期2月4日~3月23日(日))
 永青文庫

 【展示趣旨】
 元禄15年(1702)12月14日に旧赤穂藩士46名が吉良上野介を襲い、主君浅野内匠頭の仇を討った事件は『忠臣蔵』としてよく知られています。討ち入り後、義士たちは沙汰が下るまでの間、肥後熊本藩細川家・長門府中(長府)藩毛利家・三河岡崎藩水野家・伊予松山藩松平家の四大名家にお預けとなりました。その一家の細川家は大石内蔵助以下17名の身柄を細川家の白金下屋敷(現東京都港区高輪)に預かりますが、その時の当主・五代細川綱利は義士たちの忠義を深く賞賛し、厚遇を持って接したのでした。

この展覧会では、大石内蔵助自筆書状や細川家で世話役を勤めた堀内伝右衛門の「赤城義臣対話」などを展示し、討ち入りから切腹までの義士の様子や細川家のもてなしなど討ち入り後の顛末を中心に忠臣蔵の実話にせまります。


 参考サイト 永青文庫HP


 すでに語り尽くされた感のある「忠臣蔵」ですが、タイトルに釣られて、展示を見に行きましたが、正直これは貴重な・・・というものは無かったです。


 ただ、忠臣蔵に詳しい方はすでにご存じなのかもしれませんが、討ち入り後の大石内蔵助ら17名を預かった熊本藩主・細川綱利(この人は大石ら浪士を厚遇した)は実は赤穂藩主、浅野長矩の若い頃「後見人」になっていたという。だから、討ち入りのずっと前から細川家と赤穂藩浅野家とは関係があったことになります。
 今回、若年の折の長矩を諌める書状というのが展示されていました。(浅野長矩という人は同時代の記録によると、少々問題のある人だったらしい)

 私は江戸時代には詳しくないので、間違っているかもしれませんが、若年で家督を継いだ大名の後見人は普通、親戚筋から選ばれることが多かったのでは??と思うのですが。赤穂藩浅野家と細川家ってこの当時は親戚関係はなかったような。。。綱利はどういう理由から「後見人」に選ばれたのでしょうか?
 たまたま、学芸員の方がいたのでこの点を尋ねてみたところ、その方も両者の「関係」についてはわからないと言ってました。

 永青文庫所蔵の熊本藩藩政史料はそのほとんどが現在熊本大学に寄託され、ようやく最近研究が始まったばかりだそうです。
 ですから、もしかしたら今後、その膨大な史料の中から忠臣蔵関係のものも出てくるかもしれない。。。とのことでした。
 
 忠臣蔵関係とあって、観覧者はいつもより若干多く感じました。



 【参考】東京・港区にある細川家下屋敷跡  大石内蔵助ら17名はここで切腹しました。
 熊本藩細川家下屋敷

 

  ********************************

 ところで、永青文庫の理事長をつとめる細川護煕氏ですが、なんでも来月行われる東京都知事選に立候補予定だそうな。。。

 この方、今から20年前、連立政権の首相を務めてましたが、「佐川急便」問題で政権を投げ出したんじゃなかったでしたっけ。(無責任極まりなかった)
 その後、別荘にて日がな焼物に没頭したり、エッセイを書いたり、「隠遁生活」を送っていると聞き及んでいましたが。。。
 細川氏が掲げる「脱原発」にしても、原発事故が発生してから今までそれについて何ら表立った発言もしてこなかったわけですし、今さら感と唐突感が拭えません。
(私個人は原発は段階的に縮小すべきと思いますが、それは国政が決める話であって、一自治体の首長選挙の主な争点ではないように思います)

 どういう意図があるのかわかりませんが。。。本人が乗り気だったというより、たぶん、後ろで糸を引いている人物がいるのでしょう。細川氏への支持を表明している人たちも胡散臭いですし。
 
 まあ、細川さんだけでなく、その他の立候補予定の方もあまり魅力ないというか、イマイチといいましょうか。人材不足の感あり。

 なんだかなあ。。。(´Д`;)という感じです。


 もっとも、石原さんの都政には、その傲慢な言動に以前から苦々しく感じていたので、石原さんとは違うベクトルの人で、刷新してほしいなという希望はあります。
 でも、結局選挙は組織票がモノを言うので、あまり期待はできないですね。「有権者」となって約20年が過ぎましたけど、いつも真面目に考えて、損をした・・・という思いばかりでしたから。




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テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
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善光寺と池波正太郎が愛した宿(閉店)

 長野市立博物館で真田関係の展示を見てから、バスに乗ってJR長野駅へ戻りました。
 すでに夕方でしたが、帰りの新幹線までにまだかなり時間があったので、主人が
 「ここまで来たから、善光寺へお参りしてこうか」
というので、長野駅前からレトロ調のバスへ乗り、善光寺へ。10分弱くらいで門前町へ到着です。
 びんずる号


 バスを降りて、門前をぷらぷら。この辺りは飲食店や土産店等があり、善光寺参りの人々を迎えます。

 善光寺へ向かう向かって左側の道なりに、あるレトロな二階建ての建物があります。

 ここは、かつて「五明館」という旅館があって、作家・池波正太郎お気に入りの宿でした。
 五明館は江戸時代は脇本陣を務めていたという老舗でした。
 五明館


 先日記事でも書きましたが、初期の頃の池波は松代藩家老、恩田木工を主人公とした『真田騒動』という小説を上梓してから、「真田もの」と呼ばれる歴史小説を書きつづけ、小説の取材等でたびたび信州を訪れていました。
 その折、たまたま「五明館」へ宿泊し、寝具が清潔だったことや、女中さんが親切だったことで、すっかりこの宿を気に入ってしまいます。このことは、『よい匂いのする一夜』というエッセー集の中でも池波は書いています。

よい匂いのする一夜 東日本編 (コロナ・ブックス)よい匂いのする一夜 東日本編 (コロナ・ブックス)
(1998/04)
池波 正太郎

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 その後、五明館は旅館をやめて、レストランを経営していました。
 前回、善光寺へお参りしたとき(5年くらい前)は営業していたのですが。。。その時は時間がなくて、「次回来たら入店してみよう」と華麗?にスルーしてしまったのです。

 そしたら、なんと今回通りがかったら、すでに閉店していました。
 あーあ、残念。前回、寄っておけばよかったなあと後悔しきり。

 帰宅してからネットで調べたら、3年前の大震災で客足が激減し、閉店を余儀なくされてしまったようです。
 
 このように、池波が愛した店や宿は現在では閉店、廃業してしまったところも少なくないです。
 (私が新婚の頃、主人と泊まったやはり池波の愛した某宿も最近倒産してしまったと聞きました)

 
 善光寺

 気を取り直して、善光寺へ。こちらはもう説明するまでもなく、信州の名刹です。
 初めてお参りしたのは、大学生の頃。ゼミで長野県へ実習へ来た帰りに寄ったので、もう20年近く前です。
 最近では、たしか5年前くらい?に来たのかな。かなりご無沙汰でした。
 昨年は主人の身内の者が急死してから、あまり良いことがなかったので、主人もみ仏におすがりして、平穏無事を祈りたかったみたいです。
 

 お参りをすませ、帰路につくと辺りはすっかり暮れていました。しかし、この時間でもまだ寺へお参りする人たちがけっこういました。

 長野駅行きバス停の前に、レトロな建物がありました。先ほど記した「五明館」の道路を挟んだ目の前です。
  
  「藤屋」という、やはりこちらも老舗の旅館だったのですが、最近では結婚式等のパーティースペースとして営業しているようです。
  藤屋1

 ちょっと中を覗いてみたかったのですが、あいにく結婚式で全館貸切とのことで入れず。

 よく見たら、半地下に喫茶店がありました。バス待ちで体が冷えてきてしまっていたので寄っていくことにしました。
 藤屋2

 
 お店の内部はやはりレトロな感じ。半地下なので、「隠れ家」といった印象です。
 ここで、ケーキセット(チーズケーキ&コーヒー)を頼みました。チーズケーキは濃厚な味で、おいしかったです。
 藤屋3

 
 この後、長野新幹線に乗り帰京しました。

 年末から松代のことを書きつづっていましたが、昨年秋の松代行きは以上です。

 

 
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テーマ : 歴史・文化にふれる旅
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山村に生きた武将たち~東の真田 西の大日方~(長野市立博物館)

 武田信玄の弟、信繁の墓参をした後、歩いて10分弱のところにある長野市立博物館(八幡原史跡公園内)へ行きました。
 長野市立博物館


 この日、川中島の戦い開戦460年記念特別展「山村に生きた武将たち~東の真田 西の大日方~」を開催中でした。(2013年11月24日で終了済)

 山村に生きた武将たち

 真田のほうはあの真田家なのですが、「西の大日方」というのは戦国時代現在の長野市の西山地方に勢力のあった豪族で、川中島合戦の頃には武田家の支配下にあったといいます。
 その後、江戸時代に入り、松代藩の本陣を務めていたそうで、ご子孫の方提供の資料が数点出ていましたが、大日方氏の概要はよくわからなかったです。展示を担当した学芸員の方も若干消化不良だったと言っていました。

 それでも、武田信玄・信繁、真田昌幸の書状や、上杉政虎(後の謙信)の「血染めの感状」等、見どころはありました。 
 中でも、北条氏の「黄八幡」の旗は貴重だったと思います。これは真田昌幸の弟、信尹(この人は後に徳川家の旗本になった)が戦利品として北条綱成から奪い取ったものだそうで、滅多に外に出ない資料だそうです。今回展示のものは保存状態も良かったです。
 これは北条氏ファンが見たら、垂涎の代物だと思いましたね。
 
 真田関係の展示ということで、広い世代の真田ファン、歴史ファンが見学に訪れていました。


              ※図録あり
 

 歴史関係の催しものの情報をお寄せください
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テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
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武田信玄の弟、典厩信繁の墓(典厩寺)

 松代城から北へ約2.8KMの場所に、「八幡原史跡公園」があります。
 ここは、戦国時代、「川中島の戦い」の舞台となった古戦場です。

 八幡原史跡公園

 永禄4年(1561年)の第4次川中島合戦では、武田軍と上杉軍との間に激闘が繰り広げられ、かの有名な「信玄、謙信の一騎討ち」の話もこの時のものです。


 「八幡原史跡公園」より南へ10分弱歩いたところに、松操山典厩寺(曹洞宗 長野市篠ノ井杵淵1000)があります。
 同寺には、第4次川中島合戦で壮烈な討死を遂げた、武田信玄の弟、信繁の墓があります。
 (※この門は、松代の長国寺から移築したものだそうです)
 数年前に一度来ているので、今回は再訪になります。

 典厩寺1



 武田信繁(1525~1561年)の墓

 武田信繁は武田信虎の二男として生まれました。通称、左馬助を称したことから、左馬助の唐名である「典厩」の名で親しまれる。

 父、信虎は長男の晴信(後の信玄)を疎んじ、弟の信繁に家督を譲ろうと考えていたといいます。
 晴信が信虎を放逐後、信繁は武田家の“副将”として、兄を支え、また武田家家中をまとめました。信繁は己の分をわきまえ、兄より一歩引いた立場に身を置いていたのでしょう。
 信繁の事績として特記されるのは、永禄元年に嫡男、信豊に与えた99カ条からなる「家訓」でしょう。この中で、信繁は主家へ忠誠を尽くすよう述べています。この「家訓」は江戸時代、武士の心得を説いたものとして広く読み継がれたといいます。
 永禄4年の川中島の戦いで信繁は壮烈な討死を遂げました。兄、信玄の「楯」となり、命を落としたのです。享年37歳。
 亡骸は千曲川のほとりにあった鶴巣寺に葬られました。(後の元和8年に、松代藩主・真田信之により墓碑が建てられ、寺名は「典厩寺」と改められたという)
 法名「松操院殿鶴山巣月大居士」

 信繁の戦死は「惜しみても尚惜しむべし」と評され、兄、信玄は弟の死に深く慟哭し、また敵将である上杉謙信もその死を悼んだと伝えられています。
 武田信繁の墓1
 武田信繁の墓2

 武田家というのは、信虎―信玄、信玄―義信といった親子の間には相克があるのですが、兄弟の間柄はとても良好だったんですね。
 信玄、信繁、信廉(逍遙軒)は仲良し兄弟だったそうです。
 信繁がもう少し長生きしていたなら、武田家の滅亡は防げたかもしれません。 
 各地で武将の墓参をしてきましたが、とりわけ武田信繁の墓には「もののふの心」を感じます。

 なお、墓碑の左背後に小さな五輪塔がありますが、右側が典厩信繁のもので、左側が真田幸村(信繁)の供養塔だそうです。
 かの真田昌幸は、もともと武田家の家臣だったのですが、二男の源二郎には典厩にあやかって「信繁」という名をつけたと思われます。
 昌幸の長男、信之が元和8年に武田信繁の墓碑を家臣に命じて建てさせたのですが、その時おそらく典厩と同じ名を持ち、「大坂夏の陣」で壮烈な討死を遂げた弟、信繁(幸村)が偲ばれたことでしょう。

 
 おかげ様で、当ブログで武田信虎、信玄、信繁父子の墓をアップすることができました。
過去記事 武田信虎の墓
       武田信玄・信虎の墓(恵林寺)

 

 ところで、典厩寺にはもう一つ見どころがあります。

 閻魔堂

 万延元年(1860年)に松代藩主、真田幸貫(老中、松平定信の実子)の発願により、川中島合戦300年記念、戦没者の追善供養のために建てられたといいます。
 このでかい閻魔様も迫力ありますね!
 典厩寺2



 実は典厩寺は春に「しだれ桜」の名所なんですよね。数年前来たときも、ちょうど桜が見頃でした。
 今回は晩秋ということで、境内にあった真っ赤な紅葉が印象的だったので掲載しておきます。

  典厩寺3
  典厩寺4



 なお、典厩寺の墓は信繁の胴塚であり、彼の首塚は長野県小諸市にあるのですが、2008年に行ってきました。
 写真データが見つかったので、掲載しておきます。信繁の首は家臣が信繁の嫡男、信豊のもとへ運ぶ途中、現在の小諸市のこの付近に葬ったと伝えられています。

    【参考】武田信繁首塚 
   武田信繁首塚





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松代でヘルシーな「長芋料理」を堪能

 今週月曜から仕事始めだったんですが、当初の予定より仕事内容が増えてしまい、すでにクタクタでして。。。今週は家事をする余裕もなく、困ったものです。

 さて。。。

 恩田民親の墓 のつづき

 長国寺の門前に、信州名産の「長芋」を使った料理を出してくれるお店があると聞いて、行ってきました。


 食いしん坊かじや(長野市松代町松代955 TEL026-278-8119)
 食いしん坊かじや1


 ランチコースですと、1000円~3500円くらいで提供しているようですが、「真田膳」(2100円)というのをいただくことに。
 事前に予約して行きましたので、店に到着するとすぐ出てきました。


 左から長芋のポタージュ、むかご、長芋の湯葉、長芋羹です。前菜みたいな感じでしょうか。
 食いしん坊かじや2
 


 つづいて、左から長芋の田楽、信州サーモンの刺身、信州サーモン焼きです。
 食いしん坊かじや3


 その次におひつに入った白飯の上に、まぐろの刺身が乗って出てきました。「とろろ汁」がついてきたので、山かけごはんにしていただきます。
    食いしん坊かじや4
 食いしん坊かじや5


 最後にデザート。長芋のお汁粉(小さい餅入り)に、お薄が出てきました。この長芋のお汁粉はクリーミーで、甘さも控えめで美味しかったです。店員の方が、「このお汁粉はお客様に大変好評いただいています」と言っていました。
 食いしん坊かじや6


 メニューは季節により、若干変わることもあるそうです。

 ランチでしたので、お料理の量もお値段的にもちょうど良い感じでした。
 
 松代ではけっこう有名なお店みたいで、店内の壁には芸能人やスポーツ選手のサインや写真がたくさん貼られていました。いつも松代での食事はお蕎麦等軽く済ますことが多かったので、ゆっくり食事が出来て幸いでした。

 食材は地元の農家から仕入れ、メニューもよく工夫されていて、しかもヘルシーなのがいいですね。
 春先にまた松代へ行く予定があるので、次回もぜひ寄ってみたいです。

 
 なお、お品書き等が見当たらなかったので、詳細はお店までお問い合わせください。


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「軍師 官兵衛」イマイチなスタート!?

 1月5日(日)からスタートした、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」ですが、初回の視聴率がイマイチだったみたいですね。
 で、録画したものをさっそく見てみたのですが。。。

 正直言って冒頭から違和感を感じました。

 小田原城へ秀吉からの使者としてやってきた官兵衛に、城門の櫓からたくさんの矢と鉄砲が打ちかけられるのですが、一本だけ矢が頬をかすめただけでほぼ当たらない。
 で、官兵衛はおもむろに「方々、命を粗末になさるな 生きられよ!」と叫ぶ。


 ハア?ナンジャコリャ? (´Д`)?? なんでこんなセリフ言わせるかな?戦のさ中という緊迫感がまるで感じられません。また、使者が伴連れもなく単騎でやってくることはないですし、他方いきなり矢を射かけたりなんてことはしませんね。


 また、ドラマの途中で、当時の「謡」みたいなのを皆の衆で歌っているのですが。。。
 
 これで思い出したのが竹中直人さんが主演した「秀吉」です。あのとき、やはりこんな風な歌が出てきて、若き日の藤吉郎やまわりの衆が踊っていたりして、下品な印象があり、私はあれで一気に見る気が萎えてしまったんですよね。
 推測ですが、「秀吉」の演出を担当していた人が今回も参加しているんじゃないか、と思いました。


 初回なのでまだ先行きはわかりませんが、脚本家がこの時代をよくわかっていないらしいのが気がかりなのと、演出の手法に疑問を感じました。

 これから仕事なので、また後日気づいたことがあれば書きたいと思いますが、昨年の「八重の桜」の冒頭の方がまだ緊迫感があって良かったですね。また、テーマ音楽もインパクトがなかったです。
 担当者が代わると、こんなにもガラッと変わってしまうのですね。
 
 なんだか、再び「江」と同じニオイが漂ってきそうな予感がしますが、だらだらとしたドラマにならぬよう期待します。

      ※あくまでも一個人としての感想ですので、あしからず。

 

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松代藩改革者、恩田民親の墓

 今年も、「もののふの足跡を追い求めて」(※もののふ以外も多いですが)をモットーに参りますので、よろしくお願いします。

 2014年の「墓初め」は・・・

 長国寺および真田信之の墓 のつづき

 松代藩主、真田家の菩提寺、長国寺には松代藩士の方々の墓も多くあります。

 
  恩田木工民親(1717~1762年)の墓 (※「木工」は通称)

  恩田民親の墓1

  恩田民親の墓2


恩田木工(もく)民親(たみちか)の墓は高さ 240 ㎝の宝篋印塔で、正面に「玄招院鉄翁道関居士」、左の側面に「宝暦十二壬午戴正月上六日」、右の側面には「俗名恩田氏民親墓」と刻まれている。
民親は享保3年(1718)、松代藩家老職の家に生まれた。当時、藩の財政は非常に苦しく、領民もまた困窮して百姓一揆が起こる状態だった。藩主の真田幸弘はこうした状況を打破するため、民親を勝手係に抜擢する。宝暦5年(1755)、民親 39 歳のときである。
民親の施政方針は、「うそを言わないこと」「倹約すること」「贈収賄をしないこと」「賭博行為も営利が目的でなく、娯楽とするならよい」などであった。
また、年に1度の納税法を改めて月割納方にすることにより、納税しやすくするとともに滞納を整理し、さらに領民の収入を増やすため山野荒地の開墾、養蚕の奨励にも力を入れた。このほか神仏崇敬思想をひろめ、精神を高める努力もしている。
このような民親の業績は『日暮硯(ひぐらしすずり)』に詳しく書かれているが、松代藩のほかにの方針を採用した藩も多かったという。
宝暦 12 年(1762)1月6日、病気のため46 歳で死去した。のち大正7年に正五位を贈られている。

                (現地案内板より)

  真田公園にある恩田木工民親の銅像
 恩田民親像



 初代藩主、真田信之の豊かだった時代は過ぎ、5代藩主・信安の時代の治世は混乱を極めました。領地は荒廃し、度重なる幕府からの普請の負担により藩財政は窮乏しました。藩士の俸禄は半減、年貢の増加、足軽の出勤拒否、百姓一揆が起こりました。
 やがて信安が死去し、16歳の若き藩主、幸弘が藩主となり、藩の末席家老であった恩田木工は「勝手方御用兼帯」に抜擢されます。
 こうして始まった木工の藩政改革はすぐには芽が出ませんでしたが、木工の改革の精神は木工の死後も受け継がれ、江戸末期になると松代藩の財政も改善していたといいます。
 上記にもある通り、宝暦12年(1762年)のお正月に木工は亡くなりました。享年46。


 
  作家、池波正太郎は小説『真田騒動~恩田木工~』で木工の活躍を描きました。
 
真田騒動―恩田木工―真田騒動―恩田木工―
(2012/10/05)
池波正太郎

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 木工の業績を記した『日暮硯』 現代でも経世の書として読まれています。
 
日暮硯 (岩波文庫)日暮硯 (岩波文庫)
(1988/04/18)
笠谷 和比古

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日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
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大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

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