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「東京五輪」よりも被災地の復興を

 ここへきて、少々体調を崩してしまい、昨日今日と寝込んでしまいました。(旦那から風邪をうつされたようです)

 今年はマンションを購入し、引っ越しなども重なり、あわただしい一年でした。
 
 おまけに、夏の終わりに主人の叔父さんが急死してしまい、頼まれて叔父さんがなさっていた仕事の一部をやることになり、9月から急きょ数年ぶりに復職しましたため、いろいろバタバタしてしまい大変でした。なので、ブログもコンスタントに更新できなかったのが悔やまれます。


 新年のブログは松代の続きになると思います。

 閲覧してくださった方々、どうも有難うございました。それでは、良いお年をお迎えください。



 一年間有難うございました。来年もよろしくお願いします。
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長国寺(曹洞宗)および真田信之の墓

 松代城の東方向、歩いて10分くらいの場所に、真田家の菩提寺「長国寺」(曹洞宗)があります。

 寺の由来としては、天文16年(1547年)真田幸隆(真田昌幸の父、信之・幸村の祖父)が開基となり、伝為晃運を開山として信濃国小県郡真田(現在の長野県上田市真田町)に建立した長谷寺に始まります。
 元和8年、真田信之が上田から松代へ転封となると、寺も移ってきて、寺号を「長国寺」と改めました。以後、真田家の菩提寺として現在に至っています。
長国寺1

 
 真田家菩提寺ですから、お寺の建物にも「六文銭」が。。。(当たり前か)
 長国寺2

 江戸時代は、境内に真田家の霊屋5棟が立ち並んでいましたが、明治維新後、移築されたり、火災に遭ったりで、現在は初代藩主・信之、第4代藩主、信弘の霊屋が残されています。


 真田信之霊屋(重要文化財)
 
 真田信之霊屋


 遠くから望遠で撮影しているのでわかりにくいですが、破風に彫刻された鶴はかの「左甚五郎」作によるものと伝わります。
 江戸時代初期に建てられた壮麗な造りとなっており、表門と共に重要文化財に指定されています。
 真田信之霊屋2



 4代信弘霊屋(県宝)
 やはり時代を反映して、信之のものと比べると質素な造りとなっています。
 真田信弘霊屋



 霊屋から少々離れた場所に、松代藩主・真田家墓所があり、歴代藩主の墓塔が並んでいます。(※2008年4月撮影 ちょうど松代は桜の時期でした)
 
 松代藩主真田家墓所


 真田信之(1566~1658)の墓(2008年4月撮影)

    真田信之

 
 真田昌幸の長男であり、幸村(信繁)の兄。
 信濃の小領主から戦国大名となった父、昌幸、大坂の陣で名を挙げ、壮烈な討死を遂げた弟、幸村の影にどうしても隠れがちですが、真田家を守り、近世大名の道を辿ったのはひとえにこの人の才覚によるものです。
 信之はその実直な人柄を徳川家康に見込まれ、本多忠勝の娘で家康の養女であった小松姫を妻としていたので、関ケ原目前にして、父・弟と決別し、徳川方に従います。
 関ケ原合戦後は、上州・沼田城主から昌幸の旧領も引き継ぎ信州・上田9万5千石を治めます。
 大坂夏の陣では、弟・幸村が戦死。信之は昌幸や幸村の家臣を引き取っていたといいます。
 その後、元和8年に上田から松代へ転封。晩年は「お家騒動」などもありましたがそれをも乗り越え、万治元年(1658年)その波乱の生涯を閉じました。享年93歳。当時としては非常に長寿だったと言えます。
  
  PICT0104_20131227221901048.jpg



 上の写真5枚は昨年の今頃撮影したものですが、この日は小雨が降っていて、あまり天気がよくなかったのですが、信之の霊屋に参った時だけ、なぜか雨が突然止んだのです。そして、寺を出たらまた降ってきました。少々不思議な体験をしました。

 なお、真田家墓所、霊屋に立ち入る際は寺の許可がいるので、受付で申し出てください。


  長国寺  長野市松代町松代1015-1



 作家・池波正太郎による真田昌幸、信之、幸村父子を描いた長編小説「真田太平記」
 池波はこの3人の中で、とりわけ信之を好み、小説の最初から最後まで彼を登場させています。
 
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テーマ : 歴史・文化にふれる旅
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「六文銭」入り 真田こねつけ餅

 真田宝物館 のつづき

 真田宝物館に隣接して公園があるのですが、そこの敷地内に「おやきや総本店」さんがあります。

 このお店は信州名物「おやき」や土産品の販売、蕎麦などの食事ができるお店です。
 おやきや総本店


 私が松代へやってくると、必ずここで「真田こねつけ餅」という米粉でできたおやきをお土産に購入しています。

 戦国時代の真田家を描いた、池波正太郎の大河小説「真田太平記」にヒントを得て、考案されたおやきです。
 真田こねつけ餅1



 真田信之、幸村兄弟はそれぞれ徳川方、豊臣方と袂を分かったわけですが、その今生の別れの際にこの米粉でできたおやきに味噌を塗ったものを食べた、といわれています。(多分、池波のフィクションですが)
 世にいう「犬伏の別れ」の時でしょうかね。

 下の写真のように、「ごまみそ」「くるみみそ」「ねぎみそ」「ふきみそ」の4種類があります。
 1ケ150円です。
 ひとつひとつに「六文銭」の焼印が入れられているんですよ。
 真田こねつけ餅3


 普通のおやきも売ってますが、私はここ数年は「こねつけ餅」派ですね。普通のおやきに比べ、もちもちっとした食感で、おいしいです。


 BS朝日で放映中の「歴史発見 城下町へ行こう」で、案内人のピエール瀧さんがロケでいらっしゃったとのことで、ポスターとサイン入り色紙が貼ってありました。
 真田こねつけ餅2

 瀧さんといえば、来年の大河ドラマ「軍師官兵衛」で、「蜂須賀小六」の役をやるみたいですね~。

 それはともかく、「こねつけ餅」を食べて、ぜひ「もののふ」の心を感じましょう♪
 夕方には売り切れてしまうことが多いので、早めの時間帯にゲットしましょう。




  池波正太郎「真田太平記」では、信之、幸村兄弟の絆が描かれています。
  
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真田宝物館

 松代城から徒歩で数分のところに、真田宝物館があります。

 この博物館は、松代藩主、真田家関係の資料を多く所蔵し、また真田家関連の展示を行っています。
 多くの人は戦国武将、真田幸村目当てで立ち寄る傾向があるようですが、松代藩は幸村のお兄さんである信之の家系ですので、戦国時代の真田家に関する展示はわずかなのでがっかりしないように。
 真田宝物館


 この日は、「松代藩と黒船来航」という展示をやっていました。(12月2日で会期終了済)
 大河ドラマ「八重の桜」の最初のほうで、山本覚馬が佐久間象山の塾に入門するというストーリーがありましたので、それにちなんで今年は江戸後期~幕末の真田家についての展示をやっていたのです。
 嘉永7年(1854年)、ペリーが再来航した際、松代藩は横浜や品川の第六台場の警衛を担当していて、それに関する資料が展示されていましたが、個人的にはあまり面白さを感じませんでした。むしろ、図録のほうが参考になったかなあ、という印象です。
 まあ、幕末維新期の真田家は信州の各藩同様、官軍のほうについてしまうので(外様ですからね)、あまり特記することもないのでして。仕方ないのかな。
 

 来年(2014年)の春は、真田幸村に関する展示をやるみたいです。(乞うご期待)

 
  参考サイト 真田宝物館HP


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秋の松代城(日本100名城)

 このところ、墓写真ばかりでしたので、少々気分を変えて秋のお城巡りを。

 
 先月、長野市松代町にある「松代城」へやってきました。
 ここ数年、松代には一年に4、5回は来ているのですが、このブログではついつい書き逃してしまい、初めての紹介になります。

 武田信玄が上杉謙信との合戦に備えて、家臣の山本勘助(大河ドラマ「風林火山」の主人公でしたね)に命じて築城させたのがこの城です。当時は「海津城」と呼ばれていました。
 その後、上田から真田家が転封されて江戸時代中は真田家10万石の城下町が発展しました。
 
 明治維新後廃城となり、建物が取り壊されて、城跡は石垣を残すのみでしたが、1981年(昭和56))国史跡となります。
 その後、長野市により環境整備工事が行われ、2004(平成16)年に櫓門・木橋・石垣・土塁・堀などが復元されました。
 2006年(平成18)には「日本100名城」に認定され、翌年からスタンプラリーがスタートしています。
 

 ところで、この秋に公開された映画「清州会議」では、松代城跡でロケが行われ、この太鼓門の場所が映画で使われたそうです。(もちろん、CG加工されているようですが)
 (過去記事⇒映画『清州会議』
 松代城1
 
 
  城内の銀杏の木も見事に色づいています。
 松代城2


 戌亥の櫓台。こちらは展望台になっていますので、登ってみましょう。
 松代城4


 櫓台から見た本丸跡。今は枯れ木ばかりですが、実は春になると桜の名所となります。
 城の規模としても案外狭いのが実感できます。
 松代城6


 西方向には川中島合戦で上杉謙信が陣を張った妻女山が眺められます。
 松代城7


 東側の山並み。今年はあまり紅葉していなかったような。
 松代城8


 搦手に位置する「北不明門」(復元)
 松代城5


 枯葉をお掃除中の整備スタッフの方々。「縁の下の力持ち」の皆さんのおかげで、城跡はきれいに保たれています。
 松代城3


 いつもはあまり行かないのですが、今回は城の裏手のほうを歩いてみました。
 江戸時代は搦手側は千曲川に面していて、千曲川の氾濫により、何度か城の改修が行われています。
 こちらは搦手側のお堀。
 松代城11

 
 東側のお堀。
 松代城9



 二の丸石垣門(復元)
 松代城10


 上の門跡から外へ出たのですが、昨年で廃線となった長野電鉄屋代線の「松代駅」の裏手に出ました。
 ご覧のように、もうすっかり線路が取り払われて更地となっており、なんともさびしいかぎり。
  (過去記事⇒また消える懐かしい風景・・・長野電鉄屋代線
 松代駅


 なお、100名城スタンプラリーで行かれる方は城内の西側、管理棟に置かれています。
 私が行った4,5年前はスタンプからインクが液漏れしていて、ひどい状態でしたが、最近では改善されたのでしょうか?

 いつも、松代城は閑散としているのですが、この日はなぜかツアー客が多くて、観光バスが数台停まっていました。
 聞けば、季節外れの花火??を見に来た観光客だったようです。



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紀子様高祖父、「箱館戦争」を戦う (小菅智淵の墓)

 秋篠宮妃紀子様と会津藩士・池上家 のつづき


 先日、秋篠宮妃紀子様のご先祖様は会津藩士だったことを書きましたが、ついでですので、もうお一方のご先祖様を紹介します。
    紀子様2


 紀子様の曽祖父で、第6代大阪市長を務めた池上四郎の岳父(妻の父親)に、「小菅智淵」という方がいらっしゃいます。
 つまり、紀子様からみると小菅智淵は高祖父にあたります。

 小菅智淵は幕臣の関定孝の次男として江戸に生まれ、後に小菅家の養子となりました。幕府の軍艦操練所や開成所で学び、「砲兵指図役頭取」となり、「幕府工兵隊」創設の準備をしていたといいます。
 おりしも幕末風雲急を告げる中、小菅は江戸城の開城に反対し、「幕府脱走軍」に加わって、市川にいた新選組の土方歳三らと共に、宇都宮、会津若松と転戦。仙台から榎本武揚の軍艦に乗り込み、蝦夷地(北海道)へ。「箱館政府」の末端に名を連ねます。


 北海道函館市陣川町に、国史跡「四稜郭」があります。
 
 函館といえば、星形の城「五稜郭」が有名ですが、「四稜郭」は「五稜郭」の北方3kmの高台に築かれた砦です。
 五稜郭の鎮守府だった東照宮を守るために築かれました。

 
  明治2年(1869年)4月下旬、兵士約200人と地域住民約100人により、突貫工事で築かれました。下の案内板の図のように、蝶が羽を広げたような形をしています。
  従来、「四稜郭」は大鳥圭介が設計したという説がありますが、測量術にたけていた小菅智淵も加わっていたようです。(※2007年撮影)
 四稜郭2

 
 古いデジカメで撮影したので、あまり良い写真ではないのですが、このように土塁が築かれています。
 しかし、この砦は新政府軍の攻撃を受け、同年5月11日に陥落しています。
 四稜郭1

 

 敗戦後、榎本武揚らは死一等を減じられ、小菅も静岡藩預かりの身となりますが、約1年後に赦免。
 後に小菅は参謀本部測量課長に任命されると、全国測量の計画を立て、今日の5万分1地形図の基礎を築きました。
 明治21年(1888年)、陸地測量部初代部長に就任しますが、視察の帰途名古屋にて病没。享年56歳でした。
 戦前まで、芝公園に銅像も建てられていたそうです。


 小菅智淵のお墓は東京・青山霊園にあります。親族の墓参りをしていた時、偶然に見つけました。
 その後、小菅家は子孫が絶えたため、現在は紀子様の伯母様が家を継いでおられるとのことです。
 小菅智淵の墓


 以上見てきたように、小菅智淵も娘婿の池上四郎も最後まで幕府に忠節を尽くし、「敗者」となりましたが、維新後は逆境の中、功績を残されました。


 ※本当は大河ドラマ「八重の桜」のストーリー展開にあわせてアップしようと思っていましたが、戊辰戦争のくだりがちょうど引っ越しの時期と重なり書きそびれてしまい、掲載が遅れました。

 

参考サイト 測量・地図ミニ人物伝:小菅智淵(国土地理院HP内)
 

        秋篠宮紀子妃系図(近現代・系図ワールド)


   
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テーマ : 大河ドラマ 八重の桜
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「敗者」から「国母」へ・・・秋篠宮妃紀子様と会津藩士・池上家

 NHK大河ドラマ「八重の桜」も、とうとう今日で放送終了してしまいました。(といっても、今日外出していたので、まだ最終回を見ていません)

 これをもちまして、会津の話も幕を閉じましたので、最後に番外編として記します。(※ここのところ墓の写真ばかりで、スミマセン!)
 



  秋篠宮妃紀子様 (いつもお美しい・・・ため息がでます) 
  実はご先祖様は会津藩士でした。
   秋篠宮妃紀子様


  紀子様の父方の曽祖父、池上四郎(1857~1929) は会津藩士・池上武輔の4男として生まれました。会津藩家中でも250石取りの上級藩士の家です。

 会津戦争時は12歳だったため、年齢制限のため「白虎隊」には入隊できず、若松城に籠城していたということです。
  明治維新後は一家で斗南へ移住するも窮乏の生活が続き、四郎は上京して苦学しながら勉学に励み、やがて警視局巡査として採用され、地方の警察署長、部長等を歴任。
  44歳の時、大阪府の警部長となり、13年間にわたり大阪の治安維持につとめました。
  大正2年(1913)、四郎57歳の時にそれまでの手腕を買われ、大阪市長に就任します。在任中は、市財政の健全化、大阪のインフラ整備に尽力したそうです。
  また、関東大震災の折には大阪港よりいち早く支援物資を関東へ送ったということです。
  大阪市長退任後は朝鮮総督府政務総監に就任しますが、昭和4年(1929年)任期半ばで病気に倒れ、死去。享年73歳でした。
  なお、大阪・天王寺公園には四郎の功績を讃え、銅像が建てられたそうです。

 
  福島県会津若松市栄町にある「興徳寺」。
  寺の境内には「秋篠宮妃紀子さま父方御先祖 会津藩士池上家の墓が墓地中央にある」と看板がありました。
   池上家の墓3

   
  同寺の墓地内に池上家の墓がありました。数年前、市内で墓めぐりをしていた際、偶然見つけました。
 池上家の墓1


  墓石の裏面には、紀子様の曽祖父、池上四郎の名前が刻まれていました。「明治四十年七月建之」と記されています。
  四郎が会津にいたのは少年時のわずかな間でしたが、心は生涯会津にあったのでしょう。
 池上家の墓2

  
 
 160年前、池上四郎は「敗者」として辛酸を舐めましたが、時代は変わり、そのご子孫である紀子様は宮妃となられ、平成18年(2006年)には悠仁親王様をご出産。皇統を守るという大きな務めを果たされ、将来は「国母」となられます。
 墓前で、つくづく歴史的な運命を感じずにはいられませんでした。

   紀子様悠仁様


 会津人のこころが、お母様から幼い親王様へと受け継がれていきますように。



   紀子様高祖父、「箱館戦争」を戦う(小菅智淵の墓) へつづく

 


参考サイト 会津人物伝「池上四郎」(会津若松市サイト内)
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テーマ : 大河ドラマ 八重の桜
ジャンル : テレビ・ラジオ

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が讃えた男・秋月胤永の墓

 会津藩士、秋月胤永(悌次郎)の墓

 秋月胤永の墓2


 大河ドラマ「八重の桜」では俳優・北村有起哉さんが演じました。

 松平容保と共に、会津戦争の降伏式に臨んだのが手代木勝任とこの秋月胤永でした。胤永は他の重臣たちと共におよそ3年3か月の禁固に処されました。
 明治5年に赦免されると、胤永は新政府に呼ばれて左院少議になりますが、明治8年に左院が廃されると職を辞し、故郷に帰り、しばらく老母の介護をしていたといいます。
 老母を看取った後は文部省から招聘され、各高等学校の教職を務めます。
 胤永67歳の時、熊本第五高等学校の教授に就任しますが、胤永の1年遅れで赴任してきたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は胤永の高潔な人柄に接し、「神様のような人」「先生(秋月)が来られると、春が来たように暖かいものが溢れる」と讃えました。
 明治33年(1900年)没。
 墓は東京・青山霊園にあります。

  秋月胤永の墓1


 
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テーマ : 大河ドラマ 八重の桜
ジャンル : テレビ・ラジオ

松平容保の墓 (会津藩主松平家墓所)

 NHK大河ドラマ「八重の桜」で、主要人物のひとり、会津藩主、松平容保(1836~1893年)の墓の紹介です。
 ドラマでは俳優の綾野剛さんが好演し、容保のイメージそっくりということで世間の評判も良かったそうです。

    松平容保肖像



 今年6月、会津へ行った際に初めて会津藩主松平家墓所を訪れました。

 墓所は市街中心地から外れた、東山温泉のほう、自然の豊かなところにありました。約15,000㎡という広大な敷地で、大名墓所としてはかなり規模が大きいです。
 会津松平家墓所1


 墓所の案内図。ご覧のように、歴代藩主の墓が建てられていますが、容保の墓は左上の○印をつけてあるところ、墓所の奥まったところにあります。
  二代藩主、正経以外の歴代藩主の墓は神式にて建てられています。
 会津松平家墓所2



    (他の藩主の墓は省略)



 容保の墓付近へ来ました。墓所手前には容保の経歴を記した大きな碑石が置かれています。
 松平容保の墓1


 その奥に容保のお墓があります。容保は晩年日光東照宮の宮司などを務めましたが、明治26年(1893年)12月5日に59歳でその波乱に満ちた生涯を閉じました。
 亡骸は東京・新宿の「正受院」という寺に葬られますが、大正6年(1917年)にこちらの墓所に改葬されました。
 松平容保の墓2


 容保の墓は歴代藩主の墓に倣い、神式ですので、
 「正三位松平容保之墓」という表石の後方に墳丘があり、そのてっぺんに「鎮石」が置かれています。こちらの下に亡骸が葬られております。
 松平容保の墓3


 容保の墓の左隣には、容保の家族、子孫の方が眠る「松平家之墓」があります。
 ここには、容保の義姉である照姫(女優・稲森いずみさんが演じた)も葬られています。照姫もまた、東京の「正受院」から容保と共に改葬されました。
 照姫と容保姉弟は血のつながりこそありませんでしたが、晩年も和歌のやり取りをするなど、終生仲の良い間柄であったと伝わっています。
 松平家之墓


 この日は早朝ということもあり訪れる人もなく、あたりは深閑として、野鳥のさえずりだけが聞こえてきました。
 「朝敵」の汚名を着せられながらも、最後まで信義を貫き、徳川家に忠誠を尽くした松平容保。
 墓前で心より冥福を祈りました。



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テーマ : 大河ドラマ 八重の桜
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徳富蘇峰碑 および宣教師Davisの墓(同志社墓地4)

 すいません。同志社墓地に追記です。頭がぼけていて、掲載するのを忘れました(汗)

 徳富蘇峰の碑

 新島襄の弟子であった徳富蘇峰の碑。山本覚馬の墓の右隣にありました。
 蘇峰の墓は東京の多摩霊園にありますが、おそらく彼自身死後も魂は恩師の側にいたかったのでこの碑を建てたのではないかと思われます。(分骨等は不明)
 「昭和22年(1947年)自誌」と碑の裏側に記してありました。

 徳富蘇峰碑



 Jerome Dean Davis(1838-1910)の墓

 アメリカン・ボード宣教師。同志社開校時、新島襄と共に教師を務めました。また襄と八重が結婚する時、立ち会ったのがこの人です。
 常に襄の助力者であり、『新島襄の生涯』という伝記も著しました。襄のお墓の右隣にあります。

 デイビスの墓


  すみませんが、2日くらい休ませていただきます。


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山川浩(大蔵) および山川家の墓

 大河ドラマ「八重の桜」で、ドラマの最初から主要人物の一人、会津藩家老、山川浩(大蔵)とご家族の墓の紹介です。
 お墓は東京、青山霊園にあります。

 山川家の墓

 山川家墓所の敷地内に、角柱墓が3基建てられていますが、向かって右が浩(大蔵)、中央が「山川家之墓」、左が浩の母、「唐衣」の墓となっています。
 

 山川浩(大蔵 1845~1898年)の墓

 会津戦争の折は日光口を防備し、善戦。
 ドラマでもやりましたが、小松彼岸獅子隊を先頭に敵中を突破してのけ、若松城に入城を果たしました。
 しかし、会津藩は降伏。会津藩は遠く下北半島の南部領田名部へ転封させられます(「斗南藩」と名付けられる)
 藩の重役の中で罪を問われなかった大蔵(浩)が藩の権大参事に就任し、会津より1万7300人の藩士とその家族を移住させ、幼い藩主・容大を支えつつ、困窮する藩士たちを救うため奔走します。
 しかし、彼の努力もむなしく、明治4年廃藩置県により斗南藩は消滅し、大蔵も免職させられてしまいます。
 その後、大蔵は東京へ移住、陸軍に入り、明治10年の西南戦争にも従軍しました。(ドラマでは、西郷隆盛と鉢合わせ?してましたよね。もちろん、あれはフィクションですが。。。)
 晩年は東京高等師範学校長、貴族院議員となり、明治31年1月に男爵に叙せられるも翌2月4日病没しました。
 浩は非常に面倒見の良い性格で、常にその家には旧会津藩関係者が身を寄せていたそうです。

 また、会津藩の正当性を訴えた著書、『京都守護職始末』は、彼の遺稿を弟の健次郎が完成させたといわれています。

    
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 浩の肖像写真が残っていますが、幕末維新の人物の中でもイケメンの部類でして、ドラマでは玉山鉄二さんが好演しました。
     山川浩肖像

 山川浩の墓


 浩の弟、健次郎はエール大学に留学し、物理学を専攻。教育界に身を投じ、後に東京帝国大学総長に就任しました。
 また、妹の捨松(後に大山巌夫人となる)は日本初の女子留学生として渡米しました。浩は彼らの親代わりとして、新しい時代を生きるためにはまず教育が必要と考えたのでしょう。



   この日(10月末)、墓参の道すがら、赤とんぼを見つけました。
  青山霊園



関連記事 「白虎隊生き残り」飯沼貞吉の墓 (※母方のいとこ)
       新島八重の墓
       山本覚馬の墓
       鶴ヶ城(会津若松城)を守った男・・・遠藤敬止の墓






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山本覚馬の墓 および山本家、新島家の墓(同志社墓地3)

 新島八重の墓 つづき

 
 山本覚馬の墓

 八重の実兄、山本覚馬のお墓です。
 ドラマの中でも触れられましたが、覚馬は維新後に購入した旧薩摩藩邸の土地を提供するなど、同志社設立の影の立役者でした。
 覚馬は合理的な精神の持ち主であり、晩年は盲目になりながらも、新しい時代を築くための努力を最後まで惜しまなかった人だと思います。
 明治25年(1892年)12月28日死去。
 俳優、西島秀俊さんの好演も良かったです。
 山本覚馬の墓



 山本久栄の墓

 久栄は覚馬と2番目の妻、小田時栄との間に生まれた娘。
 ドラマの中でも触れられましたが、徳富蘇峰の弟、健次郎(後の蘆花)と恋に落ちます。
 しかし、新島襄や叔母の八重らは、この若い二人の恋愛を認めず、二人は破局してしまいます。
 明治26年、久栄は23才という若さで病没。
 徳富蘆花は後々までこの苦い恋愛を引きずり、彼女とのことを『黒い眼と茶色の目』という小説に書きました。

 山本久栄の墓




 山本家の墓。覚馬・八重の両親である権八、佐久夫妻、および弟・三郎の墓。
 山本家の墓



 新島家の墓。襄の両親である新島民治、登美夫妻、襄の妹・美代、襄の養子・公義の墓。
 新島家の墓

 

 その他、同墓地には同志社大学の関係者の墓が複数ありましたが、ドラマとは無関係なので省略させていただきます。 ⇒追記あり

 この日、八重の墓目当ての人以外にも、同墓地に眠っている同志社関係者のご遺族と思われる方などが墓参に来られていて、キリスト教の祈りを捧げていました。
 墓地の周囲には同志社関係者ではない、一般のキリスト教信者の墓が多数ありました。多分、明治の頃はキリスト教が差別されていたので、こういう不便な場所に墓地を求めざるをえなかったのでしょう。

 うちの主人も今回一緒に墓参してくれたのですが、さすがに往復はくたびれてしまったようで、
 「ここへまた来ることは流石にないだろうと思う・・・」と言っていました。同行させてしまって申し訳ない思いにかられました(泣)。
 墓地への道は、舗装されているわけではないので、正直行きづらいです。墓参の際は足元にご注意ください。

 今年一年、ドラマの影響でずいぶんと騒がしかったでしょうが、再び静寂が戻るのではないでしょうか。



関連記事  山川浩(大蔵)の墓
 
 
   *******************************

 
 下ってきて、少し歩いていたところに小さなクレープ屋さんがあったので、そこでフルーツ入りのクレープを食べました。
 クレープなんて久しぶりでしたが、墓参で小腹が空いてたので美味しかったです。
 クレープ屋1
 クレープ屋2





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新島八重の墓(同志社墓地2)

 新島襄の墓 のつづき


 大河ドラマ「八重の桜」は残すところあと2回となり、劇中主人公の八重はまだ生きていますが、便宜上もう書いておきますね。

 新島八重(1845~1932年)の墓

 昭和7年(1932年)6月14日、京都市内の自邸において死去。86年の生涯を閉じました。
 墓銘は徳富蘇峰によるものです。旦那様の襄の墓より小ぶりです。
 新島八重の墓1


 ご覧のように、八重の墓は先に亡くなったご主人の墓の隣にあります。
 新島八重の墓2


 激動の幕末~明治、大正、昭和と、会津の女として誇り高く生きた人生でした。


                  山本覚馬の墓 および山本家、新島家の墓 へつづく



 関連記事 新島襄・八重夫妻が暮らした家・・・「新島旧邸」
        山本覚馬・新島八重生家

 
 
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「グッバイ また会わん」 新島襄の墓(同志社墓地1)

 大河ドラマ「八重の桜」ですが、とうとう八重の旦那さんの新島襄が46歳で亡くなってしまいましたので、お墓のご紹介です。新島の墓は京都市内にあります。


 お墓がある「同志社墓地」の行き方ですが、「永観堂」のすぐ北側、「哲学の道」の入り口付近から入っていきます。(「新島襄先生墓地登り口」の石碑もあるのでわかりやすい) ※以下、2013年10月撮影
 同志社墓地道案内1

  


 この道をまっすぐ進むと、左側に「若王子神社」がありますが、前を素通りします。
 若王子神社



 「女性の一人歩きはやめましょう」との看板が。ちょっとさびしい場所ですので、日ごろは人通りも少なく、痴漢が出たりするのか?
 しかし、今年は大河ドラマの影響で、墓参の人も多いようで、この日も数組の墓参の人々とすれ違いました。(女性一人の方もいた) 昼間の明るいうちなら大丈夫そうですが気を付けましょう。
 同志社墓地道案内2


 右手に見える垣根沿いの細い道を入っていきます。この裏山が同志社墓地のあるところになります。
 同志社墓地道案内3


 ひたすら、山道を登っていきます。
 同志社墓地道案内4


 あたかも、山城攻めをしている気分。。。
 同志社墓地道案内5


 



  登ること二十数分。ようやく、同志社墓地入口に到着です。

 同志社墓地1

 

 同志社創立者、新島襄(1843~1890年)の墓

  当初、新島はすでに父親の墓があった南禅寺の塔頭「天授庵」の墓地に埋葬される予定でしたが、葬儀の前日になって寺側が「キリスト教の葬儀は認められない」と言い出したため、結局京都市の共同墓地であるこの地に墓を建てることになりました。
 新島襄の墓


  墓碑銘は勝海舟の揮毫によるものです。
  新島襄の墓3

  新島襄の墓2

 ところで、「新島襄」役を演じたオダギリさんは、ソフトで優しげな印象でなかなか役に合っていたんじゃなかったでしょうか。


 臨終の折、「狼狽するなかれ。グッバイ、また会わん」と言い残して旅立った襄。
 襄は八重の一番の理解者であり、先に亡くなってしまったのは残念ですが、「(あの世でも)また会いましょう」と言ってくれた旦那さんを持った八重は幸せ者だなと思いました。
 



                            新島八重の墓 へつづく



 参考サイト 同志社墓地の案内(同志社大HP内)


 関連記事 新島襄・八重夫妻が暮らした家・・・「新島旧邸」



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A☆六文銭

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日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
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