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身内の者が意識不明に(泣)・・・(よいお年を)

 年越しの買い物もすませ、午後2時過ぎに近所の蕎麦屋で夫とともに「年越しそば」を食べていたところ、携帯が鳴りました。
 妹からの連絡で、叔父(50代)が今日いきなり倒れ、緊急入院したとのこと!本当に驚いてしまい、やっとのことで蕎麦を流しこみました。
 その後、別の親戚から連絡があり、手術したものの意識不明でICUにいるとのこと。急きょ見舞いに行こうと思いましたが、面会謝絶でダメだとのことで今日のところはあきらめました。明日、再手術する予定だが容態が厳しそうで心配です。

 ここ数年、正月前後になると何かしら身近でアクシデントがあり、今年こそはつつがなく年越しを・・・と思っていたので、本当にがっかりで、悲しいです。
 

 そんなこんなで、今年のまとめなどを書くつもりでしたが、親戚と連絡を取っていたりしてあっという間にこんな時間になってしまいました。

 
 諸事情で、秋口からブログの更新がなかなかできませんでしたが、折を見て続きを書いていきたいと思っております。
 来る年が皆様にとって良い一年となりますよう、お祈り申し上げます。今年一年、この拙いブログをご覧いただき、どうも有難うございました。

  

                   A☆六文銭


 来年もよろしくお願いいたします。
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テーマ : 思うこと
ジャンル : 学問・文化・芸術

細川家墓所・・・殿中刃傷事件と名君の出現

 東京文化財ウィーク2012で見た「旧磯野家住宅」の続きです。

 京浜急行新馬場駅から歩いて5分くらいのところに、熊本藩細川家の墓所があります。
 この地はもともと旧東海寺の境内で、細川家が建立した妙解院という塔頭がありまして、江戸における細川家の菩提寺となっていました(現在は廃寺)。
 現在高層マンションに隣接するこの墓所には、下の写真ように大きな五輪塔が立ち並び、細川家4代以降の歴代藩主と明治以降の当主、およびその奥方が眠っています。
 通常墓所は非公開ですが、細川家のご好意により、毎年秋の文化財ウィークの時だけ一般公開されています。都内に残る大名家墓所としては、往時の姿を良好にとどめています。 
  細川家墓所

 ところで、殿中刃傷事件といえば「刃傷松の廊下」で有名な浅野内匠頭が吉良上野介を斬りつけた事件が有名ですが、江戸時代中を通して、江戸城内での刃傷事件は数件あったのです。
 延享4年(1747年)8月15日、江戸城大広間の厠付近で、細川家5代藩主・宗孝が6千石の旗本・板倉修理勝該(かつかぬ)にいきなり脇差で斬りつけられて重傷を負い、その傷がもとで死に至るという事件がおきました。
 宗孝享年31という若さでした。一方の板倉には当然のことながら切腹が命じられました。
  細川宗孝墓


 この事件ですが、もともと「狂癇の疾」(一種の精神病)があった板倉勝該が主家である遠州相良藩主・板倉勝清を一方的に逆恨みし、これを殺めようとして、誤って細川宗孝を斬りつけてしまった・・・というのですが、その人違いの理由が家紋の見間違えによるものだというのです。

  細川家の九曜紋
 細川家家紋

  板倉家の九曜巴紋
 板倉家家紋


 上の二つの家紋を見てもらうとわかる通り、たしかによく似ています。この刃傷事件が家紋の見間違えによるものだという説は当時からまことしやかに言われてきました。

 ところが、明治になって元旗本の大谷木(おおやぎ)醇堂という人物が書き残した書物には、この事件のまつわるある異説が記されていました。

 醇堂が聞いたという説は、白銀台町にある板倉勝該の屋敷は細川家下屋敷の崖下に位置し、大雨が降った後など細川家から汚水が流れてくるので、板倉家では細川家に何度も苦情を申し出たが細川家の家臣はたかが旗本の言うこととしてまったく取り合ってもらえなかったため、このことが勝該を激高させ、あげくの果て殿中での刃傷沙汰に及んだ・・・というものです。

  港区高輪にある細川家下屋敷跡のシイの木
  たしかに、この付近を歩くと高低差があるので、汚水が上から下に流れてきたというのは納得できます。
  細川家下屋敷跡

 つまり、板倉修理の刃傷事件は、今でいう「ご近所トラブル」の末におきた悲劇だったというわけです。
 この話については、歴史家の氏家幹人氏がその著書『旗本御家人』(洋泉社)の中で詳細を書いておられます。
 私はこの本が出る前、たまたま氏家氏の講演でこの話を聞き、なるほど・・・と思ったものです。

 それにしても、殺された細川宗孝にしてみれば、大藩の殿様ですし、下屋敷での出来事などなかなか知る由もなかったであろうに、本当にお気の毒です。

  
旗本御家人 (歴史新書y)旗本御家人 (歴史新書y)
(2011/10/06)
氏家 幹人

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 ところで、宗孝には跡継ぎの子供がなく、細川家では急遽宗孝の弟・主馬を末期養子として家督を継がせます。この人が6代藩主・細川重賢です。
 重賢は4代藩主宣紀の5男であり、何もなければ一生部屋住みのまま終わるところを、相次ぐ兄たちの死で殿様の座につくという幸運を得ました。

 当時、熊本藩の財政は悪化していましたが、重賢は積極的な人材登用やゆるんだ綱紀の締め直しを行い、藩政改革を進めていきました。重賢は質素倹約を奨励するだけでなく自ら実践し、殖産興業を実施するなどして藩政の再建に力を入れました。(宝暦の改革)

 後に重賢は「肥後の鳳凰」と讃えられ、名君として世に知られるようになりました。
  細川重賢墓



 同墓所にはこの他、近代の人としては細川護熙元首相のご両親や祖父母、曽祖父母、また奥の方には細川家の支藩である高瀬藩細川家の墓所などがありますが、掲載は割愛させていただきます。
 なお、近所の方の話だと、昨年の大震災の直後は灯篭などが多数倒れていて酷い状況だったそうですが、現在はほぼ元に戻されていましたが、一部香炉などが倒れたままになっていました。
 私は熊本でも細川家の墓所を巡っているので、こちらで細川家の墓参はほぼ終了です。



 
より大きな地図で 細川家墓所(旧妙解院) を表示



 今年も後一日になってしまいました。もう1記事くらい書けるか・・・!?
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テーマ : 歴史・文化にふれる旅
ジャンル : 旅行

友と過ごしたクリスマス・イブ

 ここ数年、クリスマスイブ&クリスマスは小さい子供がいる親戚宅へプレゼントを届け、そこでご飯をご馳走になるパターンが多かったのですが、今年は親戚の家が家族揃ってノロウィルス罹ったため遠慮することにし、友人と会う約束をしました。

 24日の昼過ぎ、代官山の駅で待ち合わせ。友達は私より6歳下で、前の会社で一緒だったのですが、お互い辞めた後も何となく交友が続いています。
 友達がおすすめの店でランチを。
 
 代官山海苑(THE KAIEN)彼女の職場はこの近所にあるため、最近よく行くそうです。
 タイ、ベトナム、中国料理の融合をテーマにしているとか。

 参考サイト→代官山海苑
 
 代官山海苑1


 「アジアンフュージョン ランチセット」(1680円)を注文してみました。
 
  まず、グリーンサラダが出てきました。見た目も緑が鮮やかです。
 代官山海苑5

 次に出てきたのが薬膳スープ。豚肉と野菜がたっぷり入った優しい味でした。なお、これか「トムヤンクンスープ」の内から好きな方を選べます。
 代官山海苑4


 続いて、春巻と焼き餃子が出てきました。
 代官山海苑3


 グリーンカレー&ライス(ハーフサイズ) スパイシーで美味しかったです。
 なお、これと「八宝菜ごはん」の内から選べます。
 代官山海苑2

 最後にデザートとしてタピオカが出てきました。
 代官山海苑6

 
 写真はありませんが、内装がアジアンテイストで席ごとにパーティーションされているので、よそを気にせず食事できるというか、居心地がよかったです。またリピしてもいいかな。
 ところで、友人とはかれこれ、2年ぶり?くらいに会うので、食事しながら色々と積る話を。昨年転職して、転職先の人間関係で悩んでいるとか。上司がキツイ女で困っているそうで、ちょっとかわいそうでした。
 彼女とも話したのですが、職場ってキツイ性格の方が会社からは好まれるんですよね・・・何故なんでしょうか?私も以前、キツイ性格の人間に度々泣かされてきましたのでわかります。

 
 その後、代官山の町をぷらぷら。道行く人はカップルかファミリーが多かったです。
 実は元地元から近いので、この辺りは子供の頃からよく知っているのです。通っていた地元の小学校も近くにありますし、同級生の多くが住んでました。
 私が小学生の時くらいまで同潤会の古いアパートがあり、「お化け屋敷」などと呼んでいましたが、再開発の波で姿を消し、高級マンションやショップが増えました。
 記憶にある風景とだいぶ変わってしまいましたが、それでも古いお宅などを見つけると、懐かしさがこみあげてきました。
 代官山

 
 夕方になり、軽く食事して帰ろうと思って、雰囲気の良いお店に入ると、軒並み「今日はご予約でいっぱいですので・・・」と断られてしまいました。
 そりゃそうですよね・・・クリスマスイブですもん。
 ただ、私個人クリスマスイブはそれなりのお店を予約して・・・といった事は今まで一度もありませんでした(笑)
 

 
 仕方がないので、歩いてすぐの中目黒まで出て、喫茶店でお茶して、また再会を約束して友人と別れました。


 帰路の途中、渋谷で下車。しぶちかにある洋菓子店「La Terre saison」でケーキを買いました。
 デパ地下なので他にも色々洋菓子店が入ってましたが、なんとなくこちらへ。

 参考サイト→大地の菓子 ラ・テール
 
 La Terre saison

 
 以前はラウンドケーキやブッシュドノエルなどを主人と二人でペロリ、という感じでしたが、最近はあまり量を食べられなくなってきました。
 やっぱり、年のせいですかね・・・小さいケーキも色々種類があり、どれもカワイイので目移りしてしまいましたが、結局ショートケーキを2つ買いました。
 見ていると、こちらの小さいケーキを選ぶ人も少なくなかったです。
 La Terre saison2


 主人が帰ってきたのは夜10時過ぎ。サービス業のため、かき入れ時のクリスマスは仕事なのです。さすがにもう慣れましたが。チキンとケーキで遅い夕食となりました。

 皆様、今年のクリスマスは如何でしたか?


 今年も残すところあとわずか。実は3週間くらい風邪気味でやっと治ったと思ったら、野暮用のほか、掃除やら正月の支度やら、休む暇がなさそうです・・・(泣)



 
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テーマ : 美味しいもの
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旧磯野家住宅(通称「銅御殿」 国重要文化財)

 毎秋、東京都では10月末から111月初めの約1週間、「東京文化財ウィーク」と題して、都内にある文化財の特別公開を実施しています。今年は10月27日から11月4日まで開催していました。

 都内文京区にある旧磯野家住宅。地下鉄丸ノ内線「茗荷谷」駅より歩いて2分くらいのところにあります。
 明治時代、千葉県の「山林王」と呼ばれた実業家・磯野敬によって建てられた近代和風住宅です。現在、国重要文化財に指定されています。
 
 「東京文化財ウィーク」の催しの一環として、今回通常非公開の建物内部に限定20名のみ入れる見学会が実施されるということで、ハガキで応募したところ、見事に当選しました。ちょうど、主人の両親が二人とも入院していた時期でバタバタしており、ハガキを出したことすら忘れていたのですが、せっかくの機会ですので見学しにいってきました。(10月30日)
旧磯野家住宅10



 旧磯野家住宅は「湯立坂」沿い(左の道)にあります。文京区は本当に坂道が多いです。
 湯立坂
 
 玄関で受付をすませ、当選者20名が集まったところで見学会スタートです。
 旧磯野家住宅は、関東大震災後新潟の「石油王」中野貫一が譲りうけ、戦後はホテルニューオオタニ創業者一族である大谷哲平が入手し、現在は財団法人大谷美術館が所有していますので、同美術館の学芸員の方が説明してくださいます。 
 旧磯野家住宅4

 まず、この立派な四脚門です。
 扉は楠の一枚板が使われています。太柱は尾州檜が使用されています。
旧磯野家住宅1

 均一の丸太が垂木のように整然と並べられた屋根裏。軒先が緩い曲線を描いているのが特徴。
旧磯野家住宅5


 門の脇のくぐり戸から中へ入ります。
 門から主屋へのアプローチは地面に丸い石が敷き詰められています。これは「磯」をイメージしているとのこと。
 旧磯野家住宅6


 住宅の施主であった磯野敬は当時若干21歳の大工棟梁・北見米造に託し、とにかく金に糸目をつけず、全国から最良の資材を取り寄せたといわれます。
 下の写真は佐渡から取り寄せた赤石。
 旧磯野家住宅7

 こちらはたしか伊豆から運ばせたという石です。これら庭先の巨石にも施主のこだわりが感じられます。
 旧磯野家住宅11

 
 
 銅板葺の屋根、外壁にも銅板をはりめぐらせた三階建ての主屋。完成当初はピカピカ光っていたそうで、このことから、近所では別名「銅御殿」と呼ばれていました。現在は経年変化で落ち着いた色合いを醸し出しています。
 背後にマンションが見えますが、ちょっとこのことを覚えておいてください(後述します)。
 旧磯野家住宅2


 玄関部分をアップで。
 旧磯野家住宅3

 玄関の庇裏ですが、社寺建築の影響を感じます。
 旧磯野家住宅8


 この後、建物の内部に入らせていただきました。建物内部は撮影不可ということで写真はありません。
 父親から建物を相続した大谷利勝氏(大谷美術館館長・日大名誉教授)が出てこられて、見学者は一階の書院に面した畳廊下にて説明を受けました。大谷氏はホテルニューオオタニ創業者のお孫さんにあたります。

 建物の施主・磯野敬のコンセプトは「寺院風で、地震と火災に強い建物を」だったということで、壁は左官職人が11回!も塗り重ねたとかで、関東大震災の時もヒビひとつ入らなかったそうです。
 また、内部を非公開にしているのは、居室に敷かれている畳が通常の2倍の厚みがあり、現在これだけの畳を作れる職人がいないということで畳替えが不可能のため、文化庁の指導でやむをえず人の立ち入りを制限している、ということでした。
 写真で紹介できないのが残念ですが、大谷氏は家の柱には木曽の御用林(皇室所有の)の一山丸ごと買い付けた檜が、床の間には御蔵島のクワが、窓ガラスにはベルギーから取り寄せた板ガラスが使用されるなど、家の隅々に至るまで贅をこらして築かれたということを熱く語られました。
 

 2階、3階は大谷氏のお嬢様が案内してくださいました。お嬢様はこの家で生まれて育ったのですが、大変貴重な建物とはいえ、夏はとても暑く、冬はとても寒い(火事を防ぐためストーブ等が使えなかったとか)のが玉にキズだったとユーモアを交えてお話されました。
 3階の部屋は昔、父親の利勝氏が勉強部屋にしていたそうですが、当時はここから富士山が眺められたそうです。写真で紹介できませんが、居室のあかりとり窓も当時としてはユニークな洒落たデザインでした。
 お嬢様は最後に、数年前に亡くなられたお母様(利勝夫人)の思い出話をされました。
 お母様は若い頃、 上野の東京文化財研究所にお勤めだったせいもあり、文化財に対する理解は人一倍おありで、ご主人と共にこの家を守っていこうという強いお気持ちがあったそうです。
 しかし、これだけの屋敷に嫁いできたので、家の中の掃除等は女性の役目だから、磨きあげるのに毎日大変だったのではないか・・・と。
 亡きお母様を偲ぶ言葉に、私は一生懸命廊下の雑巾がけをしている女性の姿が脳裏に浮かび、思わずホロリとさせられました。
 お嬢様は祖父から父へ受け継がれたこの家を、将来も大切に守っていく決意をされているようでした。
 

 なお、大谷美術館では毎年春と秋に数回公開日を設けており、事前に申し込めば外観のみ見学可能です。
 (今回のように建物の内部見学は文化庁の指導により、原則年に1回のみだそうです)
 帰りがけに参加者の方にうかがったところ、過去に2~3度内部見学会の抽選に外れたという方がおられたので、私はラッキーだったみたいです(笑)。

 
 問い合わせ先 (財)大谷美術館 Tel 03-3910-8440


    ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

 旧磯野家住宅に隣接する土地に、N不動産が先年14階建てのマンションを建設しようとしたため、周囲の景観が損なわれる等の理由から近隣住民らが設計変更を要求して訴訟を起こしたという一件がありました。私なども報道でこの件を知りました。しかし、東京地裁で訴えは却下され、結局マンションは建ってしまいました。
 (左側のマンションが問題のプ○○ド小石川。旧磯野家住宅の裏側にあります)
 湯立坂2

 湯立坂沿いには下の写真のような抗議の立て看板が。
 旧磯野家住宅9

 現場を見てみて思ったのは、N不動産もせいぜい4,5階建ての低層マンションにするとか、もう少し配慮してくれればよかったのに・・・ということです。
 これから人口が減少し、住宅が余剰になる時代に、どこでもかしこでも高層マンションを建てればいいというものでもないように思います。
 もともと、このマンションの敷地は大谷家が所有しており、先代が他界されてから相続で土地を分割し、そのうちの一人がこの土地を売却してしまったと伺いました。
 我が国では不動産に多額の相続税がかかることもあり、せっかく貴重な建物を所有していても結局取り壊さざるをえないというケースが多いそうで、色々考えさせられしまいます。
 
 ところで、うちの実家の母は娘時代、この近所の学校に通っていたのですが、後で聞いてみたら建物の存在自体まるで知らなかった、と言われてしまいました(汗) 当時は一般にはあまり知られていなかったんでしょうね。
 
 

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吉良上野介の墓 附・栗崎道有の墓

 今年もとうとうこの日がやってきました。
 元禄15年(1702年)12月14日の晩、赤穂浪士47名が本所松坂町にある高家・吉良上野介義央邸に討ち入り、主君・浅野内匠頭長矩の仇を討ち、本懐を遂げました。いわゆる「元禄赤穂事件」です。

 東京・中野にある萬昌院功運寺(曹洞宗) 江戸時代は市ヶ谷にあったそうです。
 功運寺

 ここに、吉良上野介のお墓があります。
 吉良上野介墓1

 一番右端の墓が上野介の墓です。法名「霊性寺殿実山相公大居士」
 夏場にお参りしたのですが、赤穂浪士たちと違って香華もなく、少々さびしい印象。
 今日あたりご供養が行われたのでしょうか。
 吉良上野介墓2


 「忠臣蔵」をはじめとする芝居、小説、映画、ドラマなどで一方的に「悪役」のレッテルを貼られている上野介ですが、実際はどうだったのでしょうかねえ。
 殿中における刃傷事件についても理由がはっきりしないし、同時代の史料によれば、浅野長矩は暗愚な殿様だったという説もあり、いささか上野介が気の毒な感じもなきにしもあらず、です。


 上野介の主治医だった栗崎道有の墓も同寺にあります。
 道有は浅野に斬りつけられた上野介の傷の治療にあたり、また討ち入り後は上野介の首と胴体を縫いあわせました。
  栗崎道有の墓


 今年は年末の時代劇で忠臣蔵はやらないみたいですが、先週急逝された歌舞伎俳優、中村勘三郎さんが「大石内蔵助」を演じたNHK大河ドラマ「元禄繚乱」(1999年放映)の総集編の再放送が今月29日にBSプレミアムで放映予定だそうです。
 意外にも、「元禄繚乱」DVD化されてなかったんですね・・・。
 若年の折から歌舞伎界をリードされただけでなく、時代劇にも積極的に出演された勘三郎さん。個人的には、大河ドラマ「武田信玄」で「今川義元」役を好演されていたのが思い出されます。
 まだまだこれからという御年なのに、残念でなりません。遅くなりましたが、勘三郎さんのご冥福をお祈り申し上げます。

 
過去記事 元禄15年12月14日・・・忠臣蔵
      元禄赤穂事件・追悼上杉家家臣



「忠臣蔵」の話題が出ると、もう今年も残すところわずかです。色々用事がたまっていて、ああどうしましょう(汗)
最近、なかなかブログをアップできません。折角覗いて下さった方、申し訳ありません。
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行列にみる近世(国立歴史民俗博物館)

 千葉県佐倉にある国立歴史民俗博物館では、現在企画展「行列にみる近世―武士と異国と祭礼と―」を開催しています。(12月9日まで)

 PB220606.jpg

 【展示趣旨】

日本の近世は、列島上を参勤交代の行列が、江戸城を結集核として定期的に往来しただけでなく、朝鮮通信使や琉球王国の使節、オランダ商館長などの外国使節の行列も江戸をめざしました。規模は小さくとも幕府の役人が江戸から地方は出張するときには、供回りを携えた行列をくんで行進していました。いわば列島上をこうした大小の規模の行列が往来していたこととなります。

もちろん戦国時代にも武装した集団が行進していただけではなく、信長は「馬揃い」という武士たちの力を誇示するデモンストレーションを行い、秀吉は聚楽第への天皇の行列を仕切り立てるなど、折に触れて行列を見せてきました。しかし、近世に比べるとその頻度はきわめて少なく、ほぼ都に限られていました。その意味では、全国的な広がりをもって行列が往来したのは、近世の時代の特色だといえるでしょう。そして、参勤交代の行列が、戦闘集団の体をなし続けていたとは言え、実際の戦闘を想像させることはありませんでした。17世紀半ば以降は、国内外の戦争がなくなったことによって武士の有様が変化したことを反映しており、言わば「徳川の平和」とセットで捉えられるものです。

本展示では、将軍以下武士領主たちの行列、外交使節の行列という実際に政治的意味をもつものから、祭礼行列まで幅広く扱うとともに、祭礼行列のなかに領主の行列や外交使節の行列が仮装行列として組み込まれる(「演じられる」)ようになることについても示します。そのうえで、行列の構成、行列を見せる側と見る(見させられる)側の関係からも近世社会を照らし当てていきます。




 今回の展示は、近世社会を「行列の時代」としてとらえ、「描かれた」行列に焦点をあてることで、新しい近世社会像を示そうという趣旨、だそうです。
 江戸時代の様々な行列の絵が展示されていましたが、中でも参勤交代における大名行列を描いた絵というのは、実はもっと後の時代・・・明治以降に描かれたものが多いのだとか。かつて、武士階級にいた人々が往時を回顧して描かせたということです。
 「わらべ歌」として有名な「ずいずいずっころばし」は、もともと「お茶壺道中」(将軍に献上するお茶を京の宇治から江戸城へ運ぶ)にかかわる歌だというのは初めて知りました。(蛇足ですが、今の若い世代ではこの歌自体を知らない人が増えているとか・・・)
 朝鮮通信使や琉球国王使節の行列など、異国情緒漂うものもありましたが、これらの行列を迎える街道筋の人々は、自分の家の中もそれなりの室礼を施して、着物などもきちんとしたものを着て、行列を見物していたそうです。(つまり、庶民たちにすると「ハレ」の日なんですね)
 さらに、行列を見る上での「ガイドブック」のようなものまで販売されていたとか。こういうところに、当時の「異文化交流」の一端を垣間見ることができます。

 その他、明治時代に作られたという大名行列を精巧な人形で再現したもの(かつて皇室に献上されていたが、現在は東京国立博物館所蔵だという)などちょっと目を引く珍しいものもありました。
 歴博名物の絵画資料をタッチパネルで見るブースはすごく便利で、細かい点まで拡大して見られる工夫がされているのはさすがですが、その一方で昔の絵画資料は一般の観覧者にとって読み解きのヒントがわからないと、ただ漠然と見て帰ってきてしまいがちです。私もひとつひとつの絵から、どういう情報を読み取ればいいのか、素人目ではよくわからない史料がやや多かったような気がしました。
 個人的には、春先に見た洛中洛外図屏風の方が気楽に見れて、面白かったかな、という印象です。
 
 過去記事⇒洛中洛外図屏風と風俗画
 
 なお展示は、今週末(12月9日)までです。


 参考サイト 国立歴史民俗博物館


 
 歴博(佐倉城址)の紅葉 (11月下旬撮影)
 
 歴博2012秋3
 歴博2012秋2
 歴博2012秋1


  歴博の階段のところにいたひとりぼっちの猫。片目が青かったです。
  歴博の猫


 
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テーマ : 展示会、イベントの情報
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昭和、その動乱の時代(憲政記念館)

 ここのところ暮れが押し迫っていることもあってバタバタしており、少々疲労してしまったのでブログの更新が滞っています。(正直書く時間が足りない!)そんな中でも、なんとか時間を作り、あちこちハイカイしております。

 先週ですが、永田町の国会議事堂のすぐ側にある憲政記念館で開催していた特別展「昭和、その動乱の時代―議会政治の危機から再生へ―」を見てきました。(11月30日にて終了済)
 昭和、その動乱の時代


 憲政記念館では毎年この時期に特別展を実施しています。昨年は大正デモクラシーの時代を取り上げていたのにすっかり忘れていて見そびれてしまいました。しかし、今年も気づいたら会期終了間近だったため、あわててすべりこみました。
 今回の展示では、昭和3年2月の第16回総選挙(初の普通選挙)から政党政治の崩壊とともに軍部が台頭し、太平洋戦争を経て敗戦後政党が復活するまでの時代を取り扱っています。我が国の歴史の中でも敗戦という重い枷を背負わざるをえなくなった厳しい時代でもあり、ただ眺めていればいいという簡単な展示ではありませんでした。
 展示内容は以下の通り5つの章立てになっていました。
 
  1. 普選の実施から政党内閣の崩壊まで
  2. 軍部の台頭から開戦まで・点景 議事堂の誕生
  3. 戦時議会から戦後政党の復活まで
  4. 激動の時代
  5. 斎藤隆夫

 実に色々な史料が展示(しかも複製なしの原本ばかりです)されていましたが、今回一番私が見てみたいと思ったのは、一番最後の「斎藤隆夫」のコーナーでした。

 斎藤隆夫

 斎藤隆夫(1870年~1949年)は兵庫県出石出身の政治家で、昭和11年(1936)2.26事件後の第69議会で「粛軍演説」を行い、軍部の政治介入を厳しく批判し、同15年(1940)の第75議会では、満州事変処理を糾弾する演説(「反軍演説」)を行い、議会から除名されました。
 今年、斎藤のご遺族から憲政記念館へ多くの資料が寄贈され、公開の運びとなったものです。
 斎藤については湾岸戦争の頃でしたか、何かの歴史番組で見て以来、軍国主義一色の時代に、己の信念を貫いた気骨ある政治家として記憶にありました。

 斎藤は筆まめな人だったようで、晩年万年筆が握れなくなるまで、長期にわたり日記をつけていました。(斎藤隆夫日記)
 また、斎藤は本会議場での演説の際、朗読調にならぬよう事前に原稿を何度も暗誦し、本番に臨んだそうです。この辺りは最近の政治家が官僚の書いた原稿を棒読みしているのと雲泥の差があります。
 
 名演説として名高い「粛軍演説」「反軍演説」の後、斎藤のもとには全国から書簡が寄せられました。その大半は斎藤の演説を支持し、激励する内容のものでしたが、一方で斎藤を激しく非難するものや脅迫状なども送りつけられました。(展示には記載がなかったが、自決用の短刀が送られてきたこともあった)

 私が感心したのは、斎藤がこれらの書簡を大切に保管していたことです。今回、それらの一部が展示されていましたが、今のような民主主義の世の中ではなかったにもかかわらず当時の国民には政治意識の高い人がけっこういて、自分の意見をつらつらと書いて政治家宛てに送っていたことが意外でした。
 ハガキや電報といった簡単な体裁のものから、和紙に達筆な字で書かれたものなど様々でしたが、中には一介の中学生が一生懸命自分の意見を綴ったものまでありました。こうした多くの国民の声に応えようとした、斎藤の政治家としての誠実さを感じとることができました。
 今も昔も、長いものにまかれろという人が多い中で、信念を貫くことの大切さを教えてくれました。
 
 他にも、近衛文麿の遺書やハル・ノート、沖縄戦で自決した海軍少将(死後中将)大田実が打電した「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」の電報、降伏文書などが心に残りました。クオリティの高い展示で大満足でしたが、できれば図録を作成していただけますようお願い申し上げます。
 
 できれば会期内にアップしたかったのですが、記事を作成する暇がなくてご紹介できなかったのが残念です。


 参考サイト 「昭和、その動乱の時代」(憲政記念館サイト内)

   憲政記念館

 


  
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 永田町の晩秋

 国会前庭から皇居方面を眺める
 桜田門付近


 最高裁判所付近
 最高裁判所1
 最高裁判所2


 半蔵門付近
 半蔵門付近

 

 国会議事堂 16日に総選挙を控えていますが、果たしてどういう結果になりますやら・・・。
 国会議事堂

 
 
 
 
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日本100名城完全制覇と有名人の墓めぐり(掃苔)
日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

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