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維新の洋画家・川村清雄(江戸東京博物館)

 東京・両国にある江戸東京博物館にて、現在特別展
「維新の洋画家・川村清雄」展が開催されています。(12月2日まで)

維新の洋画家・川村清雄展

 【展示趣旨】
 近代日本美術の知られざる先駆者・川村清雄(かわむら きよお)〔嘉永5年(1852)~昭和9年(1934)〕 ―近年とみに評価が高まっている幻の洋画家です。旗本の家に生まれ、明治維新からまもない時期に渡欧し本格的に油絵を学んだ最初期の画家でしたが、当時の洋画壇から離れて独自の画業を貫いたため、長らく忘れられた存在でした。しかし彼が生涯をかけて追究した日本人独自の油絵世界は、今急速に見直されてきています。

  本展は、清雄の最大の庇護者であった勝海舟(かつ かいしゅう)に捧げられた《形見の直垂(ひたたれ)(虫干)》(東京国立博物館蔵)をはじめとする絵画の代表作や初公開作品を含む約100点の絵画が一堂に会する最大規模の回顧展です。とくに注目されるのは、フランスへ渡った晩年の傑作《建国(けんこく)》(オルセー美術館蔵)が初めて日本に里帰りすることです。昭和4年(1929)にパリ・リュクサンブール美術館に納められたこの作品は、《振天府(しんてんふ)》(聖徳記念絵画館蔵)とならび清雄の画業の集大成となった作品ですが、日仏ともにこれまで展覧会場で公開されることがありませんでした。本展はこの秘蔵の傑作を目にすることができるまたとない機会です。さらに、清雄が絵画の理想としたヴェネツィア派最後の巨匠ティエポロの名画《聖ガエタヌスに現れる聖家族》(ヴェネツィア・アッカデミア美術館蔵)が、ヴェネツィアから来日します。

  また本展では、清雄が守り伝えてきた幕臣川村家資料を中心とした歴史資料約100点を集結し、幕末から明治・大正・昭和へと続く激動の近代を生きた清雄の人生を、彼を支えた徳川家達(いえさと)や勝海舟など人物交流のエピソードを織り交ぜて立体的に描き出します。美術愛好家のみならず、歴史ファンにも見逃せない展覧会です。




 私は数年前から江戸博の「友の会」というのに入っており、毎度展覧会の前には案内をいただくのですが、主人の両親が入院していたりして、すっかりこの特別展について忘れており、先日あわてて行ってきました。
 
 明治、大正、昭和と活動した洋画家・川村清雄は、幕臣の家に生まれました。もともと、川村家というのは隠密任務を担当していた「御庭番」の家柄であり、清雄の祖父・修就は特に実務能力を買われて御庭番より出世を重ね、初代新潟奉行や長崎奉行等を歴任しました。

 江戸幕府が崩壊し、明治の時代になり、幕臣の子弟であった清雄は徳川家が派遣した留学生の一員となり、アメリカへ渡ります。派遣前、大久保一翁から「お前は絵をやってこい」と励まされたことが励みになったそうです。
 なお、アメリカでは偶然女子留学生だった津田梅子と同じ家にホームステイしていたそうで、梅子から「麻疹」を伝染されたという逸話が紹介されていました。

 その後、パリやヴェネチアで洋画の修行に励み、帰国。しかし、黒田清輝などが幅をきかす画壇とは一線を画していたため、独自の絵描きとしての道を選びます。
 勝海舟からは格別目をかけられており、一時書生のような感じで勝邸に居候していた時があったそうです。海舟は清雄が画業を続けていく上でスポンサー的な存在でもあったようで、絵描きとして自立していく上で大きな支えでした。
 現在、東京国立博物館に所蔵されている清雄が描いた「形見の直垂という絵は、一般的には長らく家庭の虫干しを描いた風俗絵と考えられてきましたが、実は勝海舟を追悼する絵だったことが近年明らかになりました。

 清雄は絵に関しては妥協を許さない性格だったため、常に遅筆だったようです。旧主の徳川宗家当主・家達とは留学時代から親しかったということもあり、清雄は14代将軍・徳川家茂や15代将軍・慶喜、天璋院(篤姫)らの肖像画の依頼を受けますが、しばしば絵筆が止まってしまったため、5人描いたところで先方からキャンセルされてしまったといいます。しかし、家茂、慶喜、天璋院の肖像画は歴史の本や展示会などでよく紹介されているので、私もそうですがご覧になったことのある方も多いと思います。
 
 画家としては孤高の存在であり、プライベートでは妻を迎えても3回離婚したそうで、かなり難しい性格の人だったと思われます。しかし、そんな清雄の絵を愛する熱心なファンもおり、現在に伝えられている絵も少なくないようです。
 私は芸術的な部分は正直詳しくないのでよくわからないのですが、丹念に描きこまれた絵の数々に思わず見入ってしまいました。清雄の絵にはその性格から来るものか、独特の陰翳を感じました。

 また今回の目玉として、フランス・オルセー美術館から初めて日本へ里帰りした「建国」という作品があり、注目です。(※告知ポスターに使用されている赤い鶏冠の鶏の絵)この絵もそうですが、晩年の清雄は日本の神話に題材をとったものを多く描いていたようです。

 清雄という人は60過ぎてから4番目?の夫人との間にやっと息子さんが生まれました。このひとり息子さん(清衛氏)がなかなか親孝行な人で、晩年の父親をバックアップしていました。また、今から10年ほど前に他界される前に、父・清雄の資料を江戸東京博物館に、幕臣・川村家の資料を新潟市歴史博物館へ寄贈したのです。今日こうしてわれわれが清雄の生涯に触れられるのも、この息子さんのおかげが大きいと思います。
 
 会期は今週末の12月2日までとなっています。この展示の特徴は、単なる美術展にとどまらず、歴史的な事項を含んでおり、この辺がオリジナリティを感じます。また、清雄は江原素六(名門・麻布学園の創立者)とも縁戚関係で、展示の中では素六のほかたくさんの幕臣の名前が出てくるので、この辺に関心がある方にもおすすめです。

 明治以降、旧幕臣の子弟は官吏を目指した人が多かった中で、あえて画家という道を選んだ清雄の精神の中に、内に秘めた「もののふの心」を感じ取ることが出来、見終った後は静かな感動を覚えました。
 今回、うちの主人も同行したんですが、、当初彼はあまり期待しないで行ったのですがいざ展示室へ入ると見入ってしまい、とうとう途中で時間がなくなってしまいました。
 ここ最近、江戸博の展示は個人的にガッカリするものばかりだったので、久しぶりに面白く拝見させていただきました。


 なお、展示は来年、幕臣ゆかりの静岡の方に巡回するそうなので、見そびれた方はそちらでご覧ください。

       ※図録あり(すごい分厚くて、重いやつです。。。)



  
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都城と琉球王国(都城島津伝承館)

 ここのところ、ちょろちょろと「遠征」しておりまして、不在の日が多くなっています。といっても、諸事情により「とんぼ帰り」のあわただしい旅なのですが。

 宮崎県都城市にある都城島津伝承館では、現在特別企画展
「都城と琉球王国」を開催中です。(11月29日まで)

都城と琉球王国
 (※館の許可を得て撮影しています)


 【展示趣旨】
 島津家の分家であり、600年来都城地域の領主として存在してきた都城島津家。そして、古来より環シナ海交易圏の中心として存在し、交易によってその栄華を築いた琉球王国。この両家は、多くの歴史的接点があります。本展では、色鮮やかな琉球王国の栄華を映す貴重な展示品の数々をお楽しみください。南九州初!国宝となった琉球国王:尚家の資料を公開します。


 薩摩藩島津家には分家が数家あり、都城島津家は「大身分(だいしんぶん)」格という家柄で、一門四家(重富島津家、加治木島津家、今和泉島津家、垂水島津家」に次ぐ家格であったといいます。
 都城島津家は内之浦港(現鹿児島県)に領地を持っていたため、戦国時代より琉球王国と交易を行っていたそうです。こうした経緯から、都城側には琉球にちなんだ独特の舞踊や文化が伝えられたといいます。
 今回の展示では、都城と琉球との長い関わりを示す古文書等もさることながら、なんといっても目玉は「国宝・尚家関係資料」が那覇市歴史博物館(沖縄県)より貸し出されてきていたことです。


 下の写真は期間限定で出展された、明の時代中国皇帝が琉球王に贈ったという王冠です。
 なんと、金、銀、水晶、珊瑚、碧玉など7種類の玉288個が金糸で縫い付けられているという豪華なものです。
  琉球国王王冠
   (※ポスター写真より)
 実は私はこれが見たかったんですが、残念ながら私が見学した日は別の資料(琉球の王女が着用したという衣裳)が展示されていました。これはこれで、色鮮やかな豪華な着物だったのですが。

 展示点数は35点と少なかったですが、琉球王室の衣裳や金銀器など、滅多にお目にかかることのない資料が見られるということが大変貴重で、展示を企画された学芸員さんの熱意を感じました。
 琉球王であった「尚氏」に伝えられた資料は、明治以降東京に移されたものがこのように現在まで残ったそうです。

 世間では小説「テンペスト」がベストセラーになり、映像化されたりして話題になっていたこともありますし、きらびやかで、エキゾチックな琉球の歴史と文化に触れる良い機会だと思います。
 私が見学した日も、志布志(鹿児島県)から団体のお客さんが来られていて、みなさん熱心に見学されておられました。
 今回、琉球の王様の王冠を見そびれてしまったので、またいずれかの機会に見てみたいと思っています。
 なお、会期はあさって29日までですので、お近くの方は是非ご覧になってみてください。

      
             ※図録あり



 
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 参考サイト 「都城と琉球王国」(都城島津と歴史博物館HP内)


   都城島津伝承館 都城市早鈴町18街区5号 電話:0986-23-2116
  都城島津伝承館



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浜松城主 堀尾吉晴(浜松市博物館)

 静岡県浜松市にある浜松市博物館では、現在特別展「浜松城主 堀尾吉晴」を開催中です。(11月25日まで)
浜松市博物館1

展示趣旨】
 皆さんは浜松城の天守を誰が建てたかご存知ですか?

「もちろん、徳川家康でしょ!」

と言う方がほとんどなのではないでしょうか?
 実は浜松城に石垣を築き、天守を建てたのは、徳川家康ではなく、堀尾吉晴という大名なのです。

  堀尾吉晴
  (同館ポスターより)


 堀尾吉晴は、尾張国の出身で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三人の天下人に仕えました。豊臣政権下では秀吉の重臣となり、秀吉の天下統一を助けました。

 吉晴は、小田原の北条攻めのあと、十二万石の知行で浜松城主となりました。
浜松在城は、わずか十年でありましたが、吉晴が浜松に残したものは大きなものがありました。私たちが現在見ることの出来る浜松城の石垣は、吉晴が築き、天守台の上に巨大な天守を建てたと考えられています。
 堀尾氏は知行地内の二俣城や鳥羽山城も石垣を持つ城へ改修しました。浜松城や二俣城を家康の築いた戦国の城から近世城郭へ大きく変貌させ、豊臣政権の天下を世に知らしめました。

 その後吉晴は、関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍側につきました。関ヶ原の戦いでは、息子忠氏の活躍もあり、二十四万石に加増され出雲・隠岐国の国持大名へ大出世しました。

 今回の展示では、吉晴の浜松在城期を中心に、豊臣秀吉の下で頭角を現し、やがて、佐和山城主四万石、浜松城主十二万石と領地加増で出世を繰り返し、秀吉没後は家康に付き、関ヶ原の合戦後に出雲・隠岐国二十四万石の大大名となる生涯を信長・秀吉・家康との関係を交え現存する資料を中心に紹介していきます。


 

 堀尾吉晴(1543~1611年)という人は、島根県の松江城(重要文化財)を築いた人として知られていますが、孫の代で家が改易されたためか、名だたる戦国大名の内でもその足跡はあまりよく知られていません。
 吉晴は「仏の茂助」と呼ばれ、どちらかというと武将らしからぬ温厚な人物だったとされています。

 以前このブログでも書きましたが、松江城は吉晴の最晩年に築いた城であり、集大成のお城ということが言えると思います。
 松江城天守閣5


 今回の展示では、最新の発掘調査の結果などをもとに、地元の浜松城や二俣城などが実は吉晴の手によって大幅改修されていたことが紹介されていました。

   浜松城
  実はこの石垣部分も家康ではなく、吉晴が築いたものなんです。
  浜松城


  また一般的には石田三成の城として有名な、佐和山城(滋賀県)も三成の居城となる前は短期間ではありましたが吉晴の城であり、ある程度彼の手が加えられていたようです。
  佐和山城


 また関ケ原合戦後、吉晴・忠氏父子は出雲・隠岐24万石に加増・転封される際も、浜松から大工などの職人や商人を伴って行ったこともわかったそうです。今回、出雲大社の建物の棟札に、吉晴の名前が記載されているものが出展されていました。
 意外なところでは、豊臣秀吉の朝鮮出兵・・・文禄の役の講和交渉の際、明の国王から秀吉を「日本国王」に冊封するという内容の国書が送られ、秀吉はこの内容に激怒し、再出兵することになった(慶長の役)といういわくつきの文書、「明王贈豊太閤冊封文」(重要文化財 大阪歴史博物館蔵)の複製が展示されていましたが、この文書、実は秀吉から吉晴に下げ渡されたものなのだそうです。秀吉は即刻処分しようと思っていたようですが、吉晴がそれはもったいないと言って譲ってもらったらしいとか(笑)。

 今回の特別展は約一年かけて準備したということで、担当した学芸員の方はわざわざ島根県松江にも足を運んで調査したそうです。展示点数はやや少なめではありましたが、吉晴が浜松の町の基礎作りに寄与していたことや、築城名人としての足跡を辿った好企画でした。お城の模型などもあって、楽しかったです。
 会期が今週末までですので、ご興味を持たれた方はぜひご覧になることをおすすめします。

          ※図録あり



 なお、松江城や堀尾吉晴の人となりに関しては過去記事で詳しく書きましたので、是非そちらをご覧ください。

       松江城(一)
       松江城(二)
       松江城(三)
       松江城選定の地 床几山
       堀尾吉晴の墓
     

 この日、展示室に学芸員さんらしき人がいたので、2,3質問したらていねいに答えてくださいました。後でわかったことですが、実はこの方は館長様でした。ずいぶん腰の低い方で、こちらが恐縮してしまいましたが、その他事務系の職員の方も親切な対応で、今回初めて来館しましたが感じの良い博物館でした。
 また、堀尾氏の末裔とおぼしき方がたがお見えになっていました。堀尾氏は三代で断絶しましたが、傍系のご子孫の方がおられるようです。


   浜松市博物館 (←詳細はこちらにて)
  浜松市博物館2

 

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【駅弁】牛めし(JR郡山駅・福豆屋)

 久しぶりに駅弁のご紹介です。各地で色々食べ歩いているのですが、なかなかアップが追いつきません。

 今回、白河から二本松への移動は東北本線を利用したんですが、JR郡山駅で乗り換え時間に多少余裕があり、せっかくなので駅弁を食べようということになって、主人に売店まで買いにいってもらいました。
 東北本線

 車内で待っている間、どこかの人が「小原庄助べんとう」というのを持っていて、ちょっと心惹かれたのですが・・・。
 彼が買ってきたのは別の駅弁でした。
 売店の人に売れ筋NO1ということで勧められたのは、「牛めし」(1000円 調整元・福豆屋)
 牛めし(福豆屋)1


 郡山産の「あさか舞こしひかり」のご飯の上に、「福島牛」ときんぴら牛蒡がのっかっています。
 味付けはやや甘めのオーソドックスな感じです。
 付け合せにコンニャクと卵焼き、柴漬けが添えられていました。

 牛めし(福豆屋)2

 おかげ様でおいしくいただき、あっという間にたいらげてしまいました。牛めし系の駅弁は各地で売られてますが、こちらのはまたリピートしてもいいかな、と思いました。

 駅弁を食べて、被災地福島を応援しましょう!(^ω^)ノ




 参考サイト ㈱福豆屋
 

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玉嶋屋の「玉羊羹」

 二本松おすすめ土産のご紹介です。
 「玉嶋屋」さんという江戸時代より続く老舗の和菓子屋の看板商品「玉羊羹」です。
 
 “玉羊羹”というのは、ゴム風船に入った丸い羊羹で、昭和12年に戦場の兵士に送るための慰問袋用の菓子として、陸軍からのお達しで開発されたそうです。
 外から爪楊枝などで刺すとつるりとゴムの皮が剥けます。
 4年前初めて来た時買ってみておいしかったので、また購入してみました。
 
 今回は季節限定で、ふつうの玉羊羹と桃の羊羹の各5個入り(1000円)があったので購入しました。
 パッケージには、来年のNHK大河ドラマ「八重の桜」にちなんだマスコットキャラクター「八重たん」が印刷されています。
 玉羊羹1
 
 上品な甘さで食べやすく、人に送っても喜ばれること請け合いです。
 玉羊羹2


 これは霞ヶ城公園前の出店(春・秋のイベント開催時のみ)で見つけて買いましたが、本店(二本松駅より徒歩5分)の建物の写真の方を掲載しておきます。
 「玉嶋屋」さんは江戸時代は藩主・丹羽家の御用達であり、羊羹は徳川将軍家への献上菓子でもあったそうです。
 こちらの建物は国指定有形文化財。外観からも歴史を感じますね。。。
  玉嶋屋

   お店の詳細はコチラ⇒ ㈱玉嶋屋ホームページ


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二本松城(日本100名城)

 白河小峰城の後、電車に乗って北上し、二本松城を目指します。

 JR二本松駅で下車すると、駅前に「二本松少年隊隊士」の銅像があり、「霞城の太刀風」とタイトルがついていました。
 この銅像は二本松市名誉市民で彫刻家の橋本堅太郎氏(日本芸術院会員)が制作し、二本松市に寄贈したものだそうで、戊辰戦争の悲劇として今に語り継がれている二本松少年隊の隊士・成田才次郎(数え年14才)が、小野派一刀流の〝胸突き〟で官軍側の白井小四郎(長州藩)を倒したという逸話に基づいているとのことです。
 4年前に来た時はなかったので、その後設置されたものと思われます。
 二本松城4

 
 二本松城へは駅から歩いて15分くらい。この日は急いでいたので、タクシーへ乗り、二本松城の入り口へ到着。
 4年ぶり2度目の来訪です。
 下の写真は昭和57年(1982年)に御殿跡に復元された二階櫓、箕輪門、多門櫓です。(※なお、二階櫓は現存する城絵図のなかに描かれていません)
 
 二本松城3

 二本松城は奥州探題・畠山満泰が応永11年(1404年)に白旗ヶ峯(標高345m)の山頂に「霧ヶ城」を築いたのが始まりです。
 下の写真は2008年に撮影した城の遠望写真ですが、山城ということがわかると思います。
 二本松城7
 
 その後、伊達政宗によって畠山氏は滅亡。伊達氏の支配ののち、会津領主となった蒲生氏の城代が置かれ石垣を用いた城郭として改修され、その後加藤氏の城代によって本丸が拡張、整備されました。
 寛永20年(1643年)に白河から丹羽光重(長重の子)が入封し、三の丸御殿、箕輪門を築き、城下町が整備され、以後幕末まで丹羽氏の居城となりました。

 城の歴史はこの辺までにして、城の様子を見てみてみましょう。

 城の入り口に「二本松少年隊群像」の銅像があります。最初に紹介した彫刻家・橋本賢太郎氏の手によるもので、戊辰戦争の折、官軍を相手に果敢に戦い、死んでいった当時13歳~17歳の少年隊士の姿が再現されています。駅前にあった銅像とほぼ同じものが右側にありますね。
 明治維新以降二本松藩の関係者が彼らの存在ついてほとんど語らなかったため、会津の「白虎隊」に比べて世間的にはあまり知られていなかったそうですが、大正時代に生き残った少年隊士の一人が回想録を出版し、ようやく世に知られるようになったといいます。
 その後、現在に至るまで地元の方たちによって顕彰されています。
二本松城1


 残念ながら二本松城の建物は戊辰戦争時にすべて焼失しました。復元された箕輪門をくぐり、城内へ。。。
 二本松城2


 すると、なぜか今年のNHK大河ドラマの主人公「平清盛」がお出迎え(笑)
 二本松菊人形1

 この日はちょうど、毎年恒例の「二本松菊人形まつり」の初日だったのです。
 今年は58回目を数えるそうですが、昨年の震災の影響もあり、規模を縮小しての開催だとか。
 震災前は多くの観光客が訪れていたそうですが、やはり福島原発の風評被害で観光客が激減したそうで、ようやく少しずつ客足が戻ってきたと聞きました。
 二本松菊人形10

 初日ということで、会場内に飾られた菊はまだ咲いていないものもありましたが、早咲きのものは見事に咲き誇っていました。
 二本松菊人形3
 二本松菊人形9

 
 二本松の菊人形のハイライトはやはり大河ドラマを題材にしたものといえるでしょう。

    馬上の平清盛。
   二本松菊人形8

  ライバル・源義朝(左)との一騎打ち(汗)
 二本松菊人形2


 来年の大河ドラマ「八重の桜」をテーマに・・・。
 二本松菊人形4

    ヒロインの「八重」さん。なかなかの美形です(笑) 
   二本松菊人形5


 もちろん、ご当地・二本松少年隊の勇姿も!
 二本松菊人形7


 「観音滝」 小滝と小菊を背景に、黄金色に輝く観音様。清らかさが感じられて、足をとめている観光客も多かったです。
 二本松菊人形6


 
 「菊人形まつり」は明日18日で閉幕です。こちらがバタバタしている間に、あっという間にひと月経ってしまいました。もう少し早く記事にできればよかったんですが・・・。


 なお、お城の方ですが、山上にある本丸石垣は震災の影響で立入禁止だそうです。平成3年(1991年)に発掘調査した後、平成5~7年(1993~95年)に修築復元された石垣でしたが、残念ながら地震の被害を受けてしまいました。(近くまでは行かれるようです)
 一応、4年前に撮影した本丸石垣の写真を掲載しておきます。4年前に来た時は桜が満開だったのですが、大雨に見舞われ、ずぶ濡れになりながらの撮影でした。
 北東隅に天守台を備え、東と西に櫓台が配され、多聞で連結していました。
 二本松城6
 
 内部から見た天守台。発掘調査の結果、天守の建物は築かれなかったことが判明。
 二本松城5


 二本松城へは城内に植えられた1800本の桜が見事な4月か、秋の菊人形まつりに合わせて行くのが良いと思います。
 やはり元々は山城なので、じっくり見ていると2時間以上はかかるように思います。
 なお、100名城のスタンプは二本松駅の観光案内所か、先日紹介した歴史資料館受付に設置されています。
 今回はお城そのものより、菊人形まつりの方がメインになってしまいましたが、それもご愛嬌ということで。。。


   
より大きな地図で 二本松城(霞ヶ城公園) を表示

 

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丹羽長重の墓

 白河小峰城(福島県)を築いた丹羽長重のご紹介です。

 丹羽長重は元亀2年(1571年)、丹羽長秀の子(母は織田信長の姪)として岐阜に生まれました。
 天正10年(1582年)、長重が12の年に「本能寺の変」がおき、その後の遺領配分で父・長秀が佐和山城から大溝城に移ると、長重は坂本城に配されます。この年、織田信長の5女(報恩院)と結婚しています。
 翌天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに父と共に参陣しますが、これが彼の初陣となりました。
 天正13年(1585年)に父・長秀が没すると長重は遺領である越前国・若狭国・加賀国二郡123万石を相続しますが、同年閏8月、越中の佐々成政征伐の折、長重の家臣が軍令に背いたとの理由で羽柴(豊臣)秀吉の命により若狭一国(12万3千石)のみに減封され、小浜城へ移りました。
 さらに、2年後の天正15年、秀吉の九州征伐に従軍しますが、ふたたび家臣が狼藉を働いたとの理由で、加賀松任4万3千石の小大名に転落してしまいます。秀吉による過酷な仕打ちは、かつての同僚であった丹羽家を警戒し、その勢力をそぐ目的があったのでしょう。この過程で、多くの家臣が丹羽家を去っていき、家臣団も瓦解するという憂き目に遭います。

 慶長3年(1598年)、小田原征伐に従軍した功として加賀小松12万石に加増されます。
 秀吉亡き後の慶長5年(1600年)の関ケ原合戦では西軍に属し、前田利長と戦ったため(浅井畷合戦)、戦後領地を没収され、長重はわずかな伴を連れて浪々の身となってしまいます。

 しかし、徳川家康が征夷大将軍に任ぜられると、関ケ原没落諸大名への懐柔策がとられ、長重は慶長8年(1603年)に常陸国古渡1万石を与えられて大名に復帰します。
 家康没後、長重は二代将軍・秀忠の「御伽衆」に加えられ、元和5年(1619年)常陸国江戸崎2万石に加増、さらに元和8年(1622年)には陸奥国棚倉5万石で入封します。
 寛永4年(1627年)、幕命により陸奥国白河に国替となり、10万石の居城を築きます。これが小峰城です。この時、長重は57歳という老齢に達していました。
 白河小峰城2008b



 寛永14年(1637年)閏3月6日、長重は江戸桜田屋敷にてその波乱に満ちた生涯を閉じました。享年67歳。

  墓は白河市の円明寺にあります。(2008年4月撮影) 高さ4.27mの宝篋印塔です。
  丹羽長重の墓


  墓の傍らにある霊廟
  丹羽長重の墓1


 こうしてみると、長重の若き日は常に秀吉から睨まれたため辛酸を舐め、白河の地に小峰城を築いたのは老境にさしかかってからという苦難の人生だったことがわかりました。
 大名としてはいささか地味な印象ですが、築城家としてもなかなかの名手だったことがうかがえ、その手腕を買われて東北の押えとなる白河へ配されたのでしょう。
 
 
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白河小峰城(日本100名城)

 福島県白河市にある「白河小峰城」。「日本100名城」のひとつに選定されています。

 小峰城は南北朝時代に結城白河(小峰)氏によって築かれましたが、江戸時代寛永年間に丹羽長重(丹羽長秀の子)が棚倉より10万石をもって入封し、幕命によって5年の歳月をかけて城を大改修しました。一説には奥羽の雄である伊達氏の押えを目的としていたともいわれています。
 幕末の戊辰戦争による戦火によって城は落城し、焼失してしまいます。昭和62年(1987年)、白河市制40周年を記念して三重櫓の復元計画が持ち上がり、平成3年(1991年)に三重櫓が、平成6年(1994年)に前御門が木造により復元されました。
 この復元が「平成の城復元」ブームの呼び水となって、各地で木造による城の復元がなされるようになった契機となりました。

 前回、私がこちらへ来たのは2008年の4月。今から4年前になります。
 この記事を書くにあたって過去の写真を見直してみましたが、スタンプラリーと花見を兼ねて行ったのが懐かしく思い出されます。以下2枚の写真は当時撮影したものです。
 
 
 白河小峰城2008a
 白河小峰城2008b



    *****************************

 昨年3月の東日本大震災により、白河小峰城も石垣を中心に大きな被害を蒙りました。
 以下の写真は先月撮影してきたものですが、石垣の崩壊で危険なため、現在城内は立入禁止となっています。
 地元の教育委員会に問い合わせたところ、完全復旧まで5~7年程度かかるとの見込みで、石垣の工事が進み、安全面が確保され次第、部分公開できれば・・・という話でした。
 なお、復元した三重櫓の被害はほとんどみられず、地震当日現場に居合わせた人々に怪我などの被害がなかったそうで、不幸中の幸いでした。
 なお、100名城スタンプラリーのスタンプは、先日紹介した城址公園内の「白河集古苑」の中に置いてあります。

 一番上の写真とほぼ同じ場所から撮影してみました。
 白河小峰城3


 この日、城址公園は人影もまばらで、時折観光客と見られる人がひとりふたり、この場所で足止めをくらい、名残惜しそうに去って行くのを見ました。
 4年前に来た時は団体のお客さんもいて観光スポットとしてにぎわっていたのに、残念なことです。
 白河小峰城4


 望遠で撮影しましたが、復元された三重櫓の下付近の石垣が崩落していました。
 白河小峰城2

 以前も書きましたが、国指定史跡の場合、勝手に工事はできず、復元・修復には綿密な調査を実施の上、「文化庁」の認可がいるとのことでした。
 白河小峰城1

 
  石垣の被害状況と、修復に関する説明板です。(クリックで拡大)これによると、城内10か所で石垣が崩落がみられるとのことです。
  白河小峰城7

  白河小峰城8


 今回地元の方に教えていただきましたが、城址歩いて5,6分くらいの場所に、小峰城の太鼓櫓が移築されているのを知りました。現在は民家の建物として転用されています。
 白河小峰城5


 秋になり陽が落ちるのが早くなりました。帰りがけに撮影したライトアップされた三重櫓。
 公開までにはまだしばらく時間がかかりそうですが、工事が終了したらまた再訪したいと思います。
 「新島八重」の展示を見に、城址公園内の集古苑に寄った際、修復のための募金箱があったので、少額ではありますが寄付してきました。
 白河小峰城6


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新島八重の生涯と戊辰戦争展(白河集古苑・二本松市歴史資料館)

【近況】こんばんは。ここのところ諸事情により更新が滞っておりましたが、おかげ様で先日主人の両親共に退院しました。お見舞いのメッセージ送ってくださった方、どうも有難うございました。(個別にお返事できず、すみません) 
 

 そんなわけで、私も少々くたびれまして、正直ブログをアップする暇もなかったのですが、久方ぶりの更新です。
 先月の上旬、福島県へ日帰りで行ってきました。

 現在、白河集古苑(白河市)と二本松市歴史資料館の2会場において、来年のNHK大河ドラマ「八重の桜」関連のイベントとして、「新島八重の生涯と戊辰戦争展」が開催中です。(11月4日まで)

 白河集古苑
PA131709.jpg


 二本松市歴史資料館
PA131872.jpg


 ヒロイン・新島八重ゆかりの同志社大学の全面協力により、八重に関する資料100点が展示されています。
 新島八重

 来年の大河ドラマの「予習」的な意味で、八重の人となりやドラマの背景となる事柄が特集されていました。
 白河集古苑の方が八重の前半の人生を中心に、二本松歴史資料館の方が後半の人生が中心の内容となっていました。
 ネタバレすると面白くないのであまり書けませんが、八重の資料は一番豊富に所蔵しているのが二度目のご主人の新島襄が開いた同志社なのですが、意外なことにおよそ14年間にわたる二人の結婚生活に関する資料は同校にもほとんど残っていない、ということでした。とくに、二人の間で交わされた書簡は2、3通しか残存しておらず、おそらく八重あるいは関係者が処分してしまったかと推測されます。
 むしろ、ご主人が亡くなった後の方が数的にはやや多いそうです。
 しかし、彼女は死に際してゆかりの品々は身近な人たちに形見分けしてしまったそうで、遺品類はあまり残っていないという話でした。
 新島襄が着用していた洋服は現在まで伝えられてきましたが、八重が身にまとっているドレスは残存していないため、今回の展示にあわせ、同志社女子大の学生さんたちが写真をもとに復元し、二本松会場の方で展示されていました。(もっとも八重が洋装でいたのは、「宣教師の妻」として過ごした襄との結婚生活の間だけだったそうです。上の肖像写真もその時代のもの)

 今回展示された資料は、来年江戸東京博物館等で巡回展として企画されている展示会へ出品される予定とのことですが来年の展示は間違いなく有料(1200円くらい?)なので、今開催中の展示は無料で見学できるのがキモです。
 私が行った時は、やや客足が鈍いとお聞きしていましたが、先月中ごろ観客がのべ1万人を超えたそうです。(パチパチ)
 会期終了が今週末と迫っていますので、興味を持たれた方はぜひ足を運ばれては如何でしょうか。2会場とも回った方には特典として、特製パンフレットをいただくことができます。


  PA131756.jpg

 
 肝心のドラマの方も良い作品に仕上げてほしいものですが・・・さてさて、どうなりますことやら。せめて、八重の会津時代だけでも丁寧に描いてくれるといいんですけど。

 (もうしばらく更新が滞りがちになりますため、ご了承ください。せっかくご訪問いただいた方、スミマセン!)


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 参考サイト 新島八重の生涯と戊辰戦争展
       2013年NHK大河ドラマ「八重の桜」公式サイト


   白河集古苑
 
より大きな地図で 白河集古苑 を表示


   二本松市歴史資料館
 
より大きな地図で 二本松市歴史資料館 を表示
 


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