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ある新選組隊士の墓

 足守の陣屋町の後、近くの古戦場に行ったのですが、その前にひとつ書き忘れていたことがありました。

 足守に、ある新選組の隊士だった人の墓があると聞いて、新選組大好きっ子(?)の主人と共に行ってきました。
 情報が少なく、地元の方に道を聞いて、やっと寺へ辿りつきました。

 旧足守藩士で、のちに新選組に入隊し、最後は箱館まで行った隊士に「安富才輔(才助とも)」という人がいます。
 
 その安富才輔の墓があるという田上寺(たがみでら)。
 地元の方に行き方を教わり、少々迷いながらたどり着く。足守陣屋の西、住宅地の裏手のわかりにくい場所にありました。住職がいない、いわゆる無住の寺だとか。
 小さなお堂?のようなものがあり、その裏手に新旧様々の墓がありました。
  田上寺

 
 安富の墓もお堂の右手の隅っこ、竹やぶを背後にした見落としそうな場所にひっそりとありました。主人と手分けして探して、私が先に見つけました。(^ω^)
  安富才輔の墓2


 安富才輔は足守藩の下級藩士でしたが、元治元年の新選組が隊士を募集した際に採用され、勘定方(会計)を務めていたといいます。
 その後、新選組が京を追われた後は副長であった土方歳三らと共に箱館まで転戦。
 土方歳三が戦死すると、東京・日野にある土方の実家へ宛てて、「早き瀬に力足らぬと下り鮎」との追悼の句を添え、訃報を知らせる手紙を送ったそうです。
 榎本武揚率いる箱館政権が官軍に降伏した後、才輔も拘束された後弘前の寺へ送られ、しばらく軟禁生活を送っていました。
 その後、身柄は故郷足守へ送られ、謹慎を仰せつけられ、失意のうちに明治6年(1873年)に35歳で亡くなりました。
 才輔の最後については、昔ある作家が「東京で暗殺された」という物語を書いたため、長らく一般的には暗殺されたものと思われていましたが、新選組研究家のあさくらゆうさんという方が古文書等を調査し、その後足守に墓があることを突き止め、才輔は故郷で短い一生を終えたことが明らかになったそうです。


 才輔の墓は妻との「夫婦墓」になっていました。没年を見ると、奥さんが先に文久3年(1863年)に亡くなっているので、おそらく奥さんの死が契機となって、何らかの志をもって新選組隊士募集に応募したものと思われました。
 墓の傍らには、あさくらさんが墓を発見した当時の新聞記事が貼ってある立て板がありました。
  安富才輔の墓1

 
 安富才輔のみならず、生き残った新選組隊士は新政府に遠慮して、明治の世の中をひっそりと隠れるように生きていかざるをえませんでした。
 明治も後半になって、やっと新選組の存在が顧みられるようになったようです。
 それにしても、墓を発見した研究家の方はよくここがわかったなあと感心しました。以前は墓が竹藪に覆われていたそうです。
 地元の方にうかがったところ、最近新選組ファンとおぼしき人がときどき墓参りに来ているとのことでした。

 小さな墓の向こうに、激動の幕末維新を生きた無名の人物の人生がおぼろげに見えてくるように思えました。(-人-)


 この後は近くの古戦場&お城へ・・・。


 関連記事 総司忌2011
  
 
 
 ※参考文献
 
 新選組関連の史跡巡りにかなり役立ちます↓↓↓

新選組を歩く―幕末最強の剣客集団その足跡を探して新選組を歩く―幕末最強の剣客集団その足跡を探して
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  田上寺 ※足守陣屋の西、歩いて10分弱くらいのところにあります。
  
より大きな地図で 田上寺 を表示



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足守メロンジュース

 ※すみませんが、2~3日ブログ休みます。


 陣屋町・足守のメインストリートの南側に「足守プラザ」という観光案内所みたいな施設があり、そこに併設して「洪庵茶屋」という食事処があったのでそこでお昼にすることにしました。

 お店の名前は見てのとおり、足守出身の蘭学者・医師である緒方洪庵にちなんでいます。
 洪庵茶屋1

 夏の限定メニューで、うな丼とお蕎麦のセットがあったのでそれを注文しました。価格を忘れましたが、800円くらいでした。
 その他、定食やうどん・蕎麦、喫茶のメニューがありました。
 暑くてそれほど食欲もなかったので、あっさり頂けました。
 洪庵茶屋2

 ふとメニューを見ると、「メロンジュース」(500円)、「メロンアイス」(350円)と書かれていて、さんざん迷ったあげく、メロンジュースの方を頼んでしまいました。(まあ、両方頼んでも良かったんですが、後でおなかが冷えてしまいそうだったので。。。w)
 喉が渇いていたので、あっという間に飲み干してしまいましたが甘くておいしかった。。。メロン大好きなので(^ω^)
 洪庵茶屋3


 実は足守はメロンの産地として有名なんだそうです。うちの方だとあまり西日本のメロンは流通していないので、初めて知りました。
 10月の第三日曜日には、毎年「足守メロンまつり」というイベントも開催されているとか。

 こうして一息ついたので、次の目的地に向かうことにしました。
 それにしても、足守の町はたまに車が通りますが歩いている人をほとんど見かけなくて、本当に静かな町でした。また何かの機会があったらぜひ寄りたいと思います。
 

 お食事処 洪庵茶屋 岡山市北区足守979 TEL086-295-2728(詳細はお問い合わせを)


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陣屋町・足守をゆく3(木下家菩提寺・大光寺)

 つづき

 前からお読みいただいている方はご存じだと思いますが、旅に出るごとに、時間の許す限り全国各藩大名家の菩提寺巡りをしております。

 足守陣屋の南西、歩いて10分弱くらいのところに足守藩主木下家の菩提寺「大光寺」があります。
 第三代藩主・木下利當(としまさ)が創建した臨済宗のお寺です。
大光寺1

 山門をくぐり、参道を進みます。秋になると境内の紅葉が見事と伺いました・・・。
 奥の方に方丈がありましたが中へ呼びかけても返答なし。
 それもそのはずで、前の住職さんが逝去されてから現在は無住となっており、前住職の身内の方が法事の時だけ余所から来られていると地元の方が言っていました。
  大光寺3

 本堂の南側に木下家代々のお位牌を祀った霊廟があります。
 資料によると、正面に豊臣秀吉と北政所夫妻の霊牌をまつり、その左右に木下家歴代藩主の霊牌が安置されているといいます。
 久しく無住のせいか、草が生え放題で、屋根瓦しか見えません。
 大光寺霊廟


  屋根瓦をよく見ると、やはりここにも豊臣家から賜った「五七の桐」紋がありました。
  大光寺2


 本堂の右手奥の竹藪の中を抜けていくと、木下家の墓所がありました。
 古いもの、新しいものとありましたが、古いものは墓石の文字が摩耗してしまっており判読しづらい。
 資料によると、六代藩主・木下きん定(※「きん」は「八」の下に「白」)、七代藩主利潔(としきよ)、十代藩主利徽(としよし)その他夫人、子供などの墓計三十基、二十二基の石造燈籠があります。
 藩主とその家族の一段下には、「杉原姓」の墓があって、おそらく家老の家のお墓だろうと思いました。
 なお、「白樺派」の歌人であった木下利玄の墓もあったようですが、現地にいるとき気が付きませんでした。
木下家墓所(大光寺)


 当然のことながらやぶ蚊が襲来し、気を付けてはいたのですが手の甲など数か所刺されてしまい、早々に引き揚げました。
 (*_*)


   岡山市北区足守219
  
より大きな地図で 大光寺 を表示


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陣屋町・足守をゆく2(近水園・吟風閣・緒方洪庵生誕地)

 陣屋町・足守をゆく1(旧足守藩侍屋敷・足守陣屋・木下利玄生家) のつづき

 木下利玄生家の北側に、木下家の大名庭園「近水園(おみずえん)」があります。
 近水園は木下家の居館の奥手に設けられており、小堀遠州流の「池泉回遊式庭園」となっています。江戸時代中期頃の作庭と考えられます。
 
 近水園は御殿山(宮路山)の麓にあります。
 近水園2

 池のほとりには数寄屋造りの「吟風閣」があります。
 六代藩主・木下きん定(※きんの字は「八」の下に「白」)が宝永5年(1708)に幕府の命により、京都の仙洞御所と中宮御所の普請を行った際に、残材を持ち帰って建てたといわれています。
 吟風閣1


 園内の管理人室をのぞいたら、管理人さんがおられたのでお声をかけたところ、建物の中に入っても良いとおっしゃってくださったので、入らせていただきました。(団体の場合は建物の床板が傷むので不可だそうです)

 管理人さんの説明では、江戸時代の建物は池に面した隅の一室だけで、他の部屋や玄関は明治以降の増築だそうです。この部屋でお殿様がお休みになったとか。
 この日はとても暑かったのですが、窓から涼しい風が吹いてきて、たった5分程度でしたが一息つくことができました。
 吟風閣2

 縁から見た風景。池の水は近くの足守川から引いているそうです。池には蓬菜島を兼ねた鶴島・亀島の2つの島が設けられています。向こうに見えるのは宇野山。
 大名庭園としては小規模ですが、なかなか趣のある、落ち着いた佇まいだなと感心しました。
 近水園1


  池には鯉がたくさん泳いでいました。
  近水園4


 池のほとりには、「白樺派」歌人の木下利玄の歌碑がありました。
 利玄は牡丹の花がお気に入りで、歌に詠んでいます。

 「花びらをひろげ疲れしおとろへに 牡丹重たく蕚をはなるる」
  近水園3


 やはり園内にあった隠れキリシタンの「マリア灯籠」 管理人さんに教えていただかなかったら、あやうく見すごくところでした。
 ということは、この足守にも隠れキリシタンがいたってことですかねえ?ちょっと謎めいています。
  近水園5


 近水園に隣接して、木下家に伝わった古文書等を保管してきた「足守文庫」がありました。
 管理人さんの話だと、つい最近木下家ゆかりの重要史料はすべてJR岡山駅側の岡山市デジタルミュージアムに移管されて、こちらはほぼもぬけの殻となっています。
 聞いた話では、以前はこちらに北政所(ねね)の遺品などもあったそうです。
  足守文庫


   ************************

 親切に応対していただけた管理人さんにお礼を言って辞去し、足守文庫の脇道を進み、足守川にかかった橋をわたった先に、「緒方洪庵誕生地」があります。(駐車スペースがないのでご注意)
  緒方洪庵誕生地


 緒方洪庵(1810~1863年)は文化7年、足守藩下級藩士・緒方瀬左衛門の3男として足守に生まれました。
 16歳の時、父が大坂蔵屋敷留守居役に就いたのに伴い大坂に出、蘭学と医学を学びます。その後、長崎に遊学してオランダ人医師のもとに入門します。
 天保9年(1838年)大坂に戻り、瓦町に医業を開業すると同時に、蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開きます。「適塾」からは福沢諭吉、大村益次郎、橋本佐内、大鳥圭介、佐野常民、高松凌雲など多くの人材が育ちました。
 故手塚治虫さんの曽祖父、手塚良仙も適塾に学びました。(「陽だまりの樹」)
  緒方洪庵銅像

 
 これで足守の町の史跡はほとんど見てしまいました。
 最後は恒例の墓参りを。。。

 
   青いマークが「近水園」、赤いマークが「緒方洪庵誕生地」です。
  
より大きな地図で 近水園・緒方洪庵誕生地 を表示 



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陣屋町・足守をゆく1(旧足守藩侍屋敷・足守陣屋・木下利玄生家)

 8月のある暑い日のこと、岡山県へ行ってきました。
 JR岡山駅から北西方向約13kmほどのところに、「足守」という町があります。駅前でレンタカーを借りて行ったのですが、だいたい30分強くらいで到着しました。

 
 足守の町は地元の方々の努力によって、江戸時代からの伝統的な町並みが残されています。
 下の写真はかつて商家が立ち並んでいた辺りで、時間のある方はゆっくり散策してみることをおすすめします。
 今はコンビニや普通の商店も見当たらなかったです。。。
 足守町並み



 下の地図をご覧いただくとわかりますが、足守川に囲まれた縦に細長い、こじんまりとした町です。
 江戸時代、「足守藩」木下家2万5千石の「陣屋町」でした。(※クリックで拡大)
   足守地図
   


 江戸時代、この地域を治めていた「木下家」ですが、豊臣秀吉の正室・「北政所」(ねね)の実家です。

 余談ですが、秀吉は若い頃、「木下藤吉郎」と名乗っていましたが、もともと秀吉は身分が低いため苗字がなく、「ねね」さんと結婚してはじめて名乗れた苗字だったといわれます。
この記事では便宜上、ドラマ等で知られた「ねね」という名で記載していますが、足守藩木下家に伝わる古文書や系図から、彼女の名は「寧(ねい)」さんと呼ばれていたようです。
  北政所

 足守藩は、北政所の兄・木下家定が、慶長5年(1600年)関ヶ原合戦後、播州姫路から国替えしたことに始まります。
 慶長13年(1608年)家定が死去し、江戸幕府が遺領を子の勝俊・利房の二人に分与します。しかし、北政所のはからいで兄・勝俊ひとりに相続させたため、領地を独占したとして徳川家康の逆鱗に触れ、翌慶長14年(1609年)に所領を没収されてしまいます。
 その後、一時浅野長政の次男・長晟が入りますが、元和元年(1615年)大坂夏の陣の功により木下利房が2万5千石で入封し、以後明治維新まで続きました。

 
 【旧足守藩侍屋敷遺構】
 足守藩の家老を務めた杉原家の武家屋敷。江戸中期ごろの建物が良好な形で残っています。江戸時代の様子を偲ぶことができる数少ない遺構です。
旧足守藩侍屋敷遺構a


 
 屋敷の内部
旧足守藩侍屋敷遺構b


 室内上部に見える「鶴雲」の変額は、第十一代藩主・木下利徳の書によるもの。
 ちなみに、署名は「豊臣利徳」となっており、あえて「豊臣」姓を記しています。
 旧足守藩侍屋敷遺構d

 屋敷内にあるお蔵の上部には、豊臣家ゆかりの「五七の桐」紋が見えました。
  旧足守藩侍屋敷遺構c



 【旧足守藩陣屋跡】
 足守藩は2万5千石の小藩でしたので、お城はなく、「陣屋」が置かれていました。
 寛永14年(1637年)、第四代藩主・木下利当(としまさ)が初めて入部し、陣屋と武家屋敷、町人町を整備したということです。
足守陣屋c


 陣屋跡地は現在、公園になっています。
足守陣屋a


 陣屋を囲む石垣と水堀が当時をしのぶ唯一の遺構。
 足守陣屋b


 【木下利玄生家】
 木下利玄(1886~1925年)は明治~大正時代の歌人。利玄が生まれて5歳まで育った家が陣屋跡に隣接して残っています。
 中学だか高校時代、国語の時間に大正期「白樺派」の歌人として、名前ぐらいは聞いた記憶があったんですが、ここへ来るまで長年すっかり忘れていました。
 ちなみに、利玄は第13第藩主・木下利恭の弟の息子(つまり甥)でしたが、利恭は跡継がなく死んだため養嗣子として木下子爵家の家督を継いだので東京へ移っています。
 写真に見えている荒壁の長屋門風の建物からは、後年木下家関係の重要な古文書が発見されたそうです。
 木下利玄生家a


 利玄の生まれた家は、実は陣屋に増築した建物の一部だったそうで、嘉永5年(1852年)と書かれた棟札が屋根裏から発見されたと説明板にありました。
 もちろん修復はされていることでしょうが、外観から見た感じでは保存状態は良好でした。入室不可。
 木下利玄生家b

 

                             つづく

    
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 ※次回更新は21日(金)以降になります。



   
  より大きな地図で 足守陣屋跡 を表示



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菅茶山と化政文化を彩る7人の巨人たち ー菅茶山とその世界Ⅳー(広島県立歴史博物館)

 広島県福山市にある広島県立歴史博物館では、現在企画展「菅茶山と化政文化を彩る7人の巨人たち
ー菅茶山とその世界Ⅳー」
を開催中です。(9月17日月曜まで)
広島県立歴史博物館


 【展示趣旨】
 いまから200年前の文化9年(1812),一編の漢詩集が世に出ました。江戸時代の後期,神辺に在住した漢詩人・教育者であった菅茶山による「黄葉夕陽村舎詩」です。この漢詩集によって,茶山はこの時代の「巨人」の1人として知られるようになりました。
そして松平定信,伊能忠敬,塙保己一など,「化政文化の巨人」たちとも交流を深める大きなきっかけとなりました。展示では,茶山の代表作「黄葉夕陽村舎詩」とその題名にもなった彼が起こした塾・黄葉夕陽村舎(廉塾),さらには「黄葉夕陽村舎詩」を通じて見えてくる茶山が交流をもった「化政文化の巨人たち」とその業績などについて紹介します。
また,今回,北海道を除く全国ではじめて,江戸時代の廉塾の姿を描いた蠣崎波響の「廉塾図」を特別展示します。


 「菅茶山」という人は全国的にはあまり知られていない人だと思いますし、私も不勉強であまりよく知らなかったんですが、「頼山陽」のお師匠さんにあたる人で、広島ではそれなりに有名な漢詩人であり、教育者だった人です。
 しかもこのお方は、有名無名を問わず、知己の多い人だったんですね。
 菅茶山と化政文化を彩る7人の巨人たち ー菅茶山とその世界Ⅳー

 老中・松平定信、画家・谷文晃、国学者・塙保己一、測量家・伊能忠敬などなど。。。同時代の錚々たる面々が茶山の「お友達」でした。展示では彼らと茶山との交流を物語る資料が並んでいますが、夏休み期間中に開催とあって、お子さんたちにも親しみやすいイラスト入りのポスターが貼られております。

 さて、展示なんですが、今回目玉として、画家で松前藩の家老であった蠣崎波響(1764~1826年)の画が数点、展示されていました。この波響という人はアイヌを描いた画などで有名な人なんですが、まさか、広島で波響の画を見るとは思いもよりませんで、意外に感じたと同時に嬉しかったです。
 蠣崎波響はもともと幼いころから画の才能に恵まれた人だったんですが、どうして彼が家老という重職にありながら多くの画を描いたかというと、単に趣味が高じて・・・というわけでもなかった。波響が家老を務めていた松前藩は一度幕命によって文化4年(1807年)にいきなり領地を召し上げられ、奥州の梁川(現・福島県)という所に転封させられてしまったため、どうしても古巣の松前に復帰したいという強い願いがあり、その運動資金ねん出のために、人の求めに応じてたくさんの画を描き、それを売って稼いでいたそうなんですね。

 ある時、波響は人を介して茶山と知り合いますが、両者が実際に会って話をしたのは生涯にたった2度だけだっにもかかわらず、終生文通をして交流がありました。
 そして、茶山の営んでいた「廉塾」の姿を、波響が想像で描いた画が今に伝わっており、今回はるばる函館の所有者の方から原本と複製が貸し出されてきていました。
 一方は芸州、一方は蝦夷地の人が、現在のような通信手段も無い時代にこれだけの遠距離でありながら、親しい交流があったという点が新鮮な驚きです。
 「廉塾図」のほか、波響が得意とした美人画もあり、これらの画を見るだけでも一見の価値があります。
 (※なお余談ですが、この蠣崎波響は新撰組の永倉新八のいとこにあたるそうです)

 この展示も明後日で会期終了となっていますので、お近くの方はどうぞご覧になってみてください。
 先日につづき、ギリギリの紹介で申し訳ありません。。。


 参考サイト 広島県立歴史博物館HP

   
より大きな地図で 広島県立歴史博物館 を表示

 
 
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発見された明治三陸津波の古写真(杉並区立郷土博物館分館)

 このところ、地方遠征記ばかり綴っていますが、時間を見つけて近隣の博物館等にも足を運んでいます。

 東京・荻窪にある杉並区立郷土博物館分館では、現在企画展「発見された明治三陸津波の古写真」を開催中です。

 杉並区立郷土博物館分館


 杉並区在住の古写真収集家・石黒敬章氏が所有している、明治29年(1896年)6月15日に発生した「明治三陸地震」の状況を写した写真45点が展示されています。
 「明治三陸地震」は岩手県沖の日本海溝に沿った地域で発生したマグニチュード8.2の大地震で、死者約2万2千人、家屋流出1万軒弱という大被害を出しました。
 この写真は明治時代の写真師・中島待乳が残したアルバムの中に収められていたものだそうです。私は不勉強で、この中島という人は知らなかったんですが、横山松三郎のお弟子さんだそうです。
 
 過去記事⇒横山松三郎の墓

 写真は岩手県釜石市から大船渡市まで、津波の被害に遭った集落を撮影していますが、やはり当時もかなり悲惨な状況だったようです。
 展示点数は少なかったものの、この時代も地震が発生してからすぐに記者やジャーナリストが現地へ飛んで、報道写真を撮影していることに驚かされました。
 しかも意外なことに、当時は新聞より雑誌の方が一早く報道していたそうです。
 また、写真には赤十字など災害支援に向かった人々の姿もありました。
 なお、これらの写真は中島が撮影したものではなく、どうやら中島の甥にあたる方とお弟子さんが撮影したらしい・・・とのこと。
 今回、写真を公開した石黒氏は、「これらの写真を今後の地震津波対策に役立ててほしい」と願っているそうです。

 また、展示室では釜石市在住の方が撮影した昨年3月11日の大津波の映像もビデオ上映されていました。撮影した地元町会長・瀬戸元さんは日頃から津波について独自に調べており、「そろそろ津波が来るのでは・・・」という予感があり、自宅の玄関先に常にビデオカメラをスタンバイさせておいたそうです。はたして、瀬戸さんの悪い予感は的中しましたが、地震発生時、混乱のさなか必死の思いで町が津波に飲みこまれていく模様をビデオ撮影したということでした。
 ものすごい勢いで津波が町を飲み込んでいく状況が撮影された20分ほどの映像でしたが、5分くらい見たところで、この津波で多くの方が犠牲になったことを思うととても辛くなってきてしまい、それ以上見れませんでした(それでも釜石市は防災意識の高い住民が多く、他地域よりも助かった方が多かった)

 私も昨年の大震災以来、災害については色々思うところがありましたので、また意識的に勉強してみたいと思っています。



 他にも書いておきたい事がいささかあるのですが、ちょっと今日は時間がないので展示の紹介にとどめ、また後日追記するかもしれません。会期終了が17日(月)までと迫っているので、お近くの方は足を運ばれてみては如何でしょうか。
 この展示に関しては大新聞が取り上げたこともあり、通常よりもかなり多くの来場者があったようです。
 杉並区立郷土博物館分館は今回初めて行ってみましたが、JR荻窪駅から歩いて10分弱くらいの住宅街にある公園内にありました。小さな博物館です。

                ※図録なし


三陸海岸大津波 (文春文庫)三陸海岸大津波 (文春文庫)
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 参考サイト 杉並区立郷土博物館






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【清正が愛した女性たち4】父・清正の遺品と信仰を受け継いだ瑤林院(八十姫)・・・再掲Ver.

つづき

 豊臣秀吉の死後、実力者である徳川家康へ急接近していた加藤清正は、関ヶ原合戦の前年、慶長4年(1599年)に家康の養女で、水野忠重の娘「清浄院」を正として迎えます。
 そして、慶長6年(1601年)に二人の間に清正にとっては次女となる娘・「八十(やそ)姫」が誕生します。
 「八十」という名前には「九(苦)のない幸せ」という意味が込められていたといいます。
 清正にとって八十姫は晩年にもうけた娘であり、目に入れても痛くないほどだったと思われます。

 慶長14年(1609年)八十姫が9歳の時、家康の十男頼将(のちの頼宜)との婚約が決まります。清正はことのほかこの縁組を喜び、多額の費用をかけて婚礼の準備を進めています。
 しかし、その9か月後、慶長16(1611年)3月、家康と豊臣秀頼が京都・二条城で会見を行ったのに同席した清正は、その帰路突如体調を崩し、帰国後の6月24日に急死してしまいます。享年50歳。

 愛娘の晴れの日を見届けることなく清正は亡くなったわけですが、元和3年(1617年)正月に八十姫と駿府城主となっていた頼宜の婚礼が無事執り行われました。八十姫は父・清正ゆかりの「片鎌槍」など遺品を多数持参して嫁いだので、これらが紀州徳川家に伝来しました。
 その後、八十姫は夫の転封に従い和歌山に移り、14年間を過ごします。

 しかし寛永9年(1632年)には実家の加藤家が突如改易の憂き目に遭い、八十姫もさぞや心を痛めたことと思われます。
 改易に伴い、異母兄の忠広の娘「亀姫」は信州松代の真田家に預け置かれましたが、八十姫は姪にあたる亀姫の斜面を幕府に願い、後に手元へ引き取り、旗本・阿部家に嫁がせるなど細やかな心遣いを見せています。
また、出羽庄内に配流となった忠広に代わり、八十姫は父清正・母・清浄院の供養を行いました。
 
 翌寛永10年(1633年)には江戸の紀州藩邸に移り、亡くなるまでそこで暮らしました。
 父・清正の信仰を受け継ぎ、八十姫もまた熱心な日蓮宗の信仰を貫きました。

 頼宣と結婚して50年、寛文6年(1666年)1月24日に死去。享年66歳でした。
 遺骸は池上本門寺で荼毘にふされ、遺骨は和歌山の要行寺(のちの報恩寺)に葬られました。


 以前に八十姫の墓参をしていますが、今年また和歌山へ行く用事があったので再訪してきました。

 
   白雲山報恩寺(日蓮宗)
  報恩寺1(和歌山)

 境内を入って、奥の方の石段を登っていくと、紀州徳川家の墓所があります。
  報恩寺2(和歌山)

 この門を入ってすぐ正面に、八十姫のお墓があります。
 残念ながら八十姫はお子さんに恵まれず、夫・頼宜が側室に産ませた光貞(二代藩主)を嫡母として養育し、光貞も八十姫の死後、なさぬ仲の八十姫を追慕して要行寺を「報恩寺」と改め、徳川家の奥向きの菩提寺として整備、ねんごろに供養を行いました。

 法名「瑤林院殿浄秀日芳大姉」
 瑤林院墓1

 

 生前、八十姫が寄進を行うなど縁の深かった東京・池上本門寺の紀州徳川家墓所にも、瑤林院の墓(供養塔)が建てられております。
  瑤林院2

 以前にも書きましたが、私の母親の実家が、八十姫が夫・頼宜の「現世安穏後世善処」を願って本門寺へ奉納した「妙見菩薩像」が今に伝わるお寺の檀家なので、幼いころから彼女の事はよく知っていました。そういえば、八十姫の父・清正も妙見信仰の篤い人でした。
 今年は春に八十姫の異母兄・忠広や、祖母・伊都の墓参りを行うことができたので、きっと冥界にいる彼女に喜んでもらえたのではないか、と思っています。
 なお、“熊本城おもてなし武将隊”のメンバーにも八十姫の役の愛らしい女性がいて、町おこしに一役買っていました。

 以上、清正を取り巻く女性たちの墓参を通して、晩年の清正は徳川家との関係を深めていたこと、また伊都から清正、そして娘の瑤林院(八十姫)へと日蓮宗の信仰が受け継がれていった強い「絆」を感じました。


  ※熊本の旅、いったん小休止します

 

 過去記事 加藤清正の娘・瑤林院の墓 (初回訪問時)
        加藤清正の墓(本妙寺「浄池廟」)
        清浄院(加藤清正継室)供養塔


  報恩寺 和歌山市吹上1-6-38
 
より大きな地図で 報恩寺 を表示 


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【清正が愛した女性たち3】清浄院(かな姫・加藤清正継室)供養塔・・・清正、家康の婿になる

 つづき

 熊本城下から南へ約7kmほどのところに、熊本藩の船着き場や御蔵があった川尻という町があります。
 そこに、加藤清正の継室・清浄院の菩提寺があると聞いて行ってきました。

  常妙山法宣寺 開山は清正と親交が深かった肥後本妙寺の日真上人です。
 法宣寺

 関連記事 加藤清正の墓(本妙寺「浄池廟」)


 清正にははじめ、正室・山崎氏という糟糠の妻がいたのですが、この方は若くして亡くなってしまいます。
 慶長3年(1598年)に清正の育ての父ともいえる豊臣秀吉が死去し、この後、清正は急速に徳川家康との関係を深めていきます。
 関ケ原合戦の前年の慶長4年(1599年)、清正は徳川家康の養女で、水野忠重の娘を継室に迎えます。この結婚は政略結婚であり、すなわち、清正は家康の婿になったわけです。
 新婦の名は水野家の資料によれば「かな」と呼ばれていた、18歳の娘でした。この時、清正は38歳で、なんと20歳差!という「年の差婚」でした。
 なお、新婦の実父・水野忠重というのは、家康の母・伝通院(於大ノ方)の弟であり、従って「かな」と家康とはいとこ同士になります。また、武将として名を馳せた水野勝成は「かな」の兄にあたります。

 結婚後、「かな」は大坂の屋敷に住んでいましたが、関ケ原合戦前夜、石田三成が各大名の奥方を人質として大坂城へ入城させようとしたので、家臣の機転により屋敷より脱出し、夫の待つ熊本城へ迎えられます。
 慶長6年(1601年)、二人の間には「八十(やそ)姫」(のちの瑤林院)が誕生します。慶長14年には清正と家康との取り決めで、八十姫と家康の息子・頼宣(後の紀州主)との間に婚約が交わされます。清正は愛娘の婚約をことのほか喜んだといいます。


 関連記事 【清正が愛した女性たち4】父・清正の遺品と信仰を受け継いだ瑤林院(八十姫)・・・再掲Ver.

 
 しかし喜びもつかの間、慶長16年(1611年)に夫・清正が急死。わずか12年という短い結婚生活でした。
 「かな」は髪を下し、夫に先立たれた悲しみに耐え、跡を継いだ清正の側室の子である忠広の嫡母として忠広を後見します。
 元和3年(1617年)には娘・八十姫と婚約者である徳川頼宜との婚儀が無事執り行われました。
 
 加藤家改易後はいったん実家の水野家に戻り、晩年は京都の本圀寺に隠棲し、明暦2年(1656年)に75歳で亡くなりました。


 どうして熊本の方に京都で亡くなった清浄院の菩提寺があるのかよくわかりませんが、川尻法宣寺の境内には彼女の供養塔が建てられていました。
 法名 清浄院殿妙忠日寿大姉
 清浄院供養塔

 お寺さんにお願いして本堂を拝観させていただいたところ、清正と清浄院夫妻の木造が安置されており、清浄院の木造は尼僧姿で、丸顔の愛らしい表情をしていました。

 清浄院の実家・水野家の宗派は曹洞宗なんですが、彼女は嫁いだ後、死ぬまで日蓮宗の信仰を貫いているので、おそらくご主人の感化を受けたものと思われます。
 政略結婚で、しかも「年の差婚」ではありましたが、二人の仲は良好だったようです。


   
より大きな地図で 法宣寺 を表示



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【清正が愛した女性たち2】加藤清正母「伊都」の墓・・・母子家庭で育った清正

 つづき

 加藤清正側室「本覚院」の菩提寺である「本覚寺」に隣接して、その北側に壽福山妙永寺(日蓮宗)があります。
 こちらの寺には清正の母「伊都」のお墓があります。
 妙永寺

 清正は永禄五年(1562年)六月二十四日、尾張国中村に父・加藤清忠、母・伊都のもとに生まれました。
 父の清忠はもともと美濃の斉藤氏の家臣でしたが、故あって武士の身分を捨て、鍛冶屋清兵衛のもとへ弟子入りします。ここで清兵衛の娘である伊都と出会い、やがて所帯を持ちます。
 ところが、清忠は清正が3歳の時に病のため他界してしまい、残された伊都と清正は「母子家庭」になってしまいます。今でこそ、ひとり親家庭でも何とか暮らしていける時代になりましたが、当時は生活していくのにかなり苦労したのではないか、と思われます。
 伊都は娘時代から日蓮宗の熱心な信者であり、清正が5歳の時、近くの日蓮宗・妙延寺に清正を預け、経書、仏法、書道を習わせたといいます。この事が清正の人間形成に深い影響を与えました。

 伊都は豊臣秀吉の母「大政所(なか)」と従姉妹同士だったといわれ、その伝手を頼って、清正が9歳の時に秀吉のもとへわが子を預けます。子供がいなかった秀吉・ねね夫妻のもとで清正が養われることになったのは周知のとおりです。


 本堂の手前に、清正の母・伊都の廟所がありました。
 このお堂の中に墓があるのかと思ったら、違っていました。お堂の中には伊都の木造が安置されているそうです。(外からは見えなかった)
 清正母廟所


 お墓はお堂のすぐ裏手にありました。うっかり見過ごすところでした。
 慶長5年(1600年)5月、関ヶ原合戦を目前に伊都は亡くなり、亡骸は高麗門外の現在地に葬られました。
 伊都の墓は朝鮮から運んだといわれる石で造られた五輪塔です。

 法名「聖林院殿天室日光大姉」

 なお伊都の三回忌の時に、墓所に寺が建立され、清正は最愛の母のためにねんごろに供養を行いました。
   清正母墓

 南無妙法蓮華経・・・母が伝えたお題目の七文字は、清正が出陣の折には旗印にも用いられ、武将としての生涯を支えることになったのです。


 なお、寺宝として縦二間・横三間の「涅槃図」が伝わっており、毎年2月15日の一日のみご開帳されているそうです。
 
 
 参考サイト 壽福山妙永寺

     熊本市中央区横手1丁目14−19
   
より大きな地図で 妙永寺 を表示
 



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【清正が愛した女性たち1】本覚院(加藤清正側室)の墓

 熊本城の南西に、「横手」という名の一画があり、寺院の密集する寺町となっています。もしかしたら、ここに寺を置くことで、加藤清正はある種の防御施設を想定していたかもしれません。

 その横手の町に、清正の側室「本覚院」の菩提寺である「本覚寺」(日蓮宗)があります。
 地元では「六角堂観音」として知られており、安産祈願に御利益があるとのこと。
  本覚寺3

 清正には正室のほか、数名の側室がいたことがわかっています。
 そのうちの一人、本覚院は菊池武宗の娘と伝わりますがはっきりしません。
 慶長4年(1599年)に清正の子・熊之助(忠正)を生みますが、悲しいことにわが子・忠正は8年後の慶長12年(1607年)に幼くして病死してしまいます。
 本覚院は熊本藩の御蔵があった川尻町の御茶屋に長く暮らしたので、「川尻殿」と称されました。
 寛永3年(1626年)4月9日死去。法名 本覺院殿月心日圓大姉。
 平成17年に本覚院第380遠忌を記念して寺内から墓を移設し、新たに廟所を建てたとのことです。

  本覚寺2

 廟所の中に墓が二基あり、右側の大きい方が本覚院のものです。
 左側の一回り小さい墓は、寺伝によると清正の三男・忠広の供養塔だということです。通常、忠広の母は正応院(玉目氏)とされますが、本覚寺の寺伝によると、実はその生母は正応院ではなく、本覚院だといいます。
 ただし、なぜか供養塔自体には女性の法名が刻まれているので、この辺りは判然としません。

  関連記事⇒加藤忠広(加藤清正息子)および母・正応院の墓 (山形県鶴岡にあります)

  本覚寺1

 ※なお、墓移設に際して発掘調査したところ、遺骨とともに副葬品が数点発見されました。

 参考サイト 本覚院殿(加藤清正側室)墓出土品 (熊本市HPより)


 清正は長男、次男に早世されており、このことは大大名となってからの加藤家の存続に際してもさぞや懸念されることではなかったか、と思われます。
 本覚院をはじめ、清正が愛した女性たちは出自や俗名など詳細が伝わらないためその素顔を知るのは難しく、唯一お墓が彼女たちの生きた証を残しています。


 参考サイト 六角堂観音 本覚寺

   熊本市中央区横手1-14-20
  
より大きな地図で 本覚寺 を表示


 すみませんが、二日くらいお休みさせていただきます。


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加藤清正の墓(本妙寺「浄池廟」)

 大河ドラマで「加藤清正」を! のつづき

 やっとここまで来ました。

 熊本城の北西、中尾山の中腹にある発星山本妙寺(日蓮宗)
 ここに、加藤清正の墓があります。
 天正13年(1585年)、清正が父・清忠の追善のため、大坂に寺を建てたのが始まりです。
 天正16年(1588年)に肥後に入封した清正は、同19年(1591年)に本妙寺を大坂から熊本城内へ移します。
 慶長19年(1614年)に城内にあった寺が焼失したのを機に、清正の墓がある中尾山へ移転しました。
 
 写真の数が多いのでちょっと長くなりますが、ご了承ください。
 写真は一部撮り直した分を除き、2008年秋撮影です。


 中尾山の麓に立つ仁王門。大正時代に寄進された、コンクリート製の山門です。
 本妙寺16(仁王門)


 仁王門をくぐると、長い参道があり、両脇には本妙寺の子院の寺が立ち並んでいます。
 本妙寺15


 「胸突雁木」と呼ばれる、176段もある急こう配の石段を登っていきます。ここの石畳は熊本城築城の際に余ったものを利用したのだとか。檀信徒が寄進した石灯籠も多くみられます。
 唱題しながら、ゆっくり登っていきます。
 本妙寺14(胸突雁木)

 
 石段のところに、猫がででんとねそべってました。この辺り、野良猫の数も少なくなさそうです。
   本妙寺12


 石段の中途に「六喜廟」があり、ここには清正の息子・忠広ら清正の家族6人が祀られています。
 今年の春、山形県鶴岡にある忠広とその母、正応院の墓参をさせていただきました。
 
 関連記事⇒加藤忠広(加藤清正息子)および母・正応院の墓

 本妙寺1(六喜廟)



 石段を上りきったところに、「浄池廟」と書かれた扁額のある中門がありますので、くぐります。
 本妙寺2

 

 正面に「拝殿」があります。
 本妙寺3(拝殿)



 拝殿のすぐ裏に清正の墓、「浄池廟」があります。廟の名は清正の法号「淨池院殿永運日乗大居士」に由来します。
 清正は慶長16年(1611年)3月に二条城における徳川家康と豊臣秀頼との会見に同席します。しかし、肥後への帰国途中の船内で発病し、6月24日に熊本城内で亡くなりました。享年50歳。
 家康から毒をもられたという説もありますが、死に際体が黒ずんでいたという話から内臓疾患(肝臓?)が死因だったようです。
 遺骸は熊本城と同じ高さにあたる城の北西・中尾山の中腹に埋葬され、廟が建てられました。
 明治維新後の廃仏毀釈の際、いったん廟は取り壊され、代わりに墓石が建てられましたが、明治27年に廟が再建されました。 
 
本妙寺4(浄池廟)


 「浄池廟」の説明板
 本妙寺5(浄池廟案内板)


 ★調べましたところ、過去にこのような歴史上の人物も清正の墓参をしています。

   頼山陽(陽明学者 漢詩人) 文政元年(1818年)、彼は感動して2度も墓参に来ており、長い詩を詠んでいます。
   頼山陽

   河井継之助(越後長岡藩家老 司馬遼太郎『峠』の主人公)安政6年(1859年)参詣
   河合継之助

   森鴎外(軍医 文学者) 明治32年(1899年)参詣
   森鴎外


 ※調べれば、もっと他にもいたかもしれません。。。

 
  加藤清正ゆかりの品々がおさめられた宝物館。時間があったら覗いてみましょう。
  今回、熊本県立美術館開催「加藤清正展」でも本妙寺所蔵の史料が多数出展されていました。

   本妙寺17(宝物館)



 大木土佐守兼能の墓。
 大木兼能はもともと佐々成政の家臣でしたが、成政が豊臣秀吉によって賜死した後、清正の家臣となります。
 清正の側近として活躍し、関ケ原合戦前夜、石田三成が諸大名の夫人を大坂城内へ人質にしようとした際、大坂の屋敷から清正夫人を脱出させるのに貢献しました。
 清正を追慕し、その死の翌日に殉死。法号:尭心院殿道了日解居士
 なお、大木兼能は加藤神社にも陪神として祀られています。

 この大木兼能なんですが、実は「水戸黄門」に出てくる「助さん」のモデルである佐々宗淳の母方祖父に当たります。おかげさまで、お祖父さんとお孫さん両方の墓参をさせていただきました。

 過去記事⇒佐々宗淳の墓

   本妙寺6(大木兼能墓)


 金宦(きんかん)の墓
 「金宦」とは会計職の意。本名は「良甫鑑」といいます。朝鮮出兵の折にまだ少年だった彼を清正が連れて帰りましたが、なかなか能力があったようで、清正のもとで会計の職に従事していたといいます。
 清正死後、七回忌の際に殉死しました。
 なお、「金宦」も加藤神社に陪神として祀られています。
   本妙寺13(金宦墓)


 この後、廟の裏手に回りますと、300段!の石段が待ち構えていました。
 本妙寺7


 ふーふー言いながら登っていくと、清正公の銅像が姿を現した!
 本妙寺8


 彫刻家・北村西望(長崎「平和記念像」で有名)作の加藤清正公銅像です。
 戦前に建てられたものは戦時中金属供出の憂き目に遭い、現在のものは唱和35年作の再建されたものです。
 本妙寺9(加藤清正銅像)


 銅像が建つ場所からは、熊本市街が一望できます。肥後の国づくりに心血注いだ清正が、今も熊本の町を静かに見守っています。
 本妙寺10

 
    ※拡大図(熊本城が遠望できます)
    本妙寺11(熊本城遠望)


 時間のある方はぜひ参詣してほしい場所です。
 この後、清正ファミリーの墓参りを。
                        つづく


 参考サイト 本妙寺

    熊本市花園4-13-1
   
より大きな地図で 加藤清正墓(浄池廟) を表示

 
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大河ドラマで「加藤清正」を!

 熊本夏の風物詩「清正公まつり」(加藤神社) のつづき

  加藤神社b


 加藤神社内で見つけた署名の記帳台ですがよく説明を見てみると、

 「大河ドラマで加藤清正公を取り上げていただくための署名活動です」
 
 とのこと。

 参考サイト 【「加藤清正公」を「NHKの大河ドラマ」に!】(※PDFです)


 これを見まして、私共も大いに賛同したので署名してきました。

 ところで、実は昭和51年(1976年)、第14作目の時に本当は加藤清正が大河ドラマの主人公になるはずでした。
 肝心の清正役は俳優の加藤剛さんに決まっていたといいます。原作は池波正太郎の「火の国の城」でした。

  
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 ところが、NHKの上層部のある人物がこれに異議を唱え、この企画は急きょ取りやめになってしまいました。

 そして、代わりに「平将門」を主人公にしたドラマに変更されたのです。
 これが海音寺潮五郎原作の「風と雲と虹と」です。

 
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 この「風と雲と虹と」なんですが、主役の加藤剛さん以下、ものすごい豪華キャストだったんですね。

 吉永小百合
 緒形拳
 草刈正雄
 太地喜和子
 山口崇
 露口茂    
      ほか(敬称略)

 おそらく、このキャストの皆さんは「加藤清正」をやるために選ばれた俳優さんだったはずです。
 故・緒形拳さんは豊臣秀吉役だったのでは・・・と推察しています。

 私はこのいきさつを初めて聞いたとき、本当にガッカリしてしまいました。おそらく、加藤剛さんだったら、清正のトレードマークである長烏帽子兜がよく似合う、清新な清正像を演じられたことでしょう。残念でなりません。

 私の推量ですが、秀吉の朝鮮出兵、いわゆる「文禄・慶長の役」が引っ掛かったものと思われます。

 しかし、この朝鮮出兵は最高権力者・秀吉の命で当時のオールスター武将たちが多数渡海しているわけです。この理屈でいけば、出陣した大名たちは誰ひとりドラマで取り上げられなくなってしまいます。

 30数年前はこういう状況でも仕方なかったのかもしれませんが、たかがドラマでさえいつまでも周辺諸国、とりわけ中・韓に異常なまでに「配慮」しているのは如何なものでしょうか。

 

 私は見ていませんが、今年の大河ドラマ「平清盛」も、先月など視聴率がとうとう7%台まで落ち込んでしまったとか。
 BSで多額の費用をかけて鳴り物入りで放映された「坂の上の雲」も、NHKが期待したほどの視聴率を上げることはできませんでした。

 この不振の理由は色々挙げることができますが、やはり取り上げる主人公がイマイチ魅力に欠けるというか、インパクトがないのです。
 普通に考えて、去年の「シエ」のように、ヒーロー、ヒロインになるに足りない人物を、あれこれ勝手に脚色して、無理やり仕立て上げているところにもともと無理があるのだと考えます。
 この辺の「人選」は、一体どういう了見でなさっているのか、理解に苦しみます。


 今まで大河ドラマの中でも、いつも脇役に甘んじてきた加藤清正ですが、誰もが知っていて、その遺徳が400年もの長きにわたり語りつがれている真の英雄こそ、国民的ドラマの主人公としてふさわしいのではないでしょうか。

  加藤清正銅像



 ぜひご賛同いただける方は、FAXや郵送でも受け付けているそうですので、下記リンクよりご協力をお願いいたします↓↓↓↓↓↓
 【「加藤清正公」を「NHKの大河ドラマ」に!】(※PDFです)



       参考文献:『NHK大河ドラマの歳月』(大原誠著)
             『実録テレビ時代劇史 ちゃんばらクロニクル1953-1998』(能村庸一著)
                        

 
 
 

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熊本夏の風物詩「清正公まつり」(加藤神社)

 御殿で味わう伝統料理「本丸御膳」 のつづき


 熊本城宇土櫓の空堀を挟んだお隣に、「加藤神社」があります。
 御祭神は言うまでもなく、加藤清正。清正といえば、熱心な日蓮宗信者として有名ですが、なんと神様にもなっていたんですね。
普段は木々に囲まれ、静かな佇まいの中にあります。
加藤神社

 加藤神社は、もともと清正の廟所、菩提寺であった浄智廟・本妙寺から明治元年「神仏分離令」を受けて神社を分け、城内に社殿を造営して「錦山神社」としたことに始まります。
 明治42年に「錦山神社」より「加藤神社」と改称し、現在に至ります。戦後、お社が現在地に移転したそうです。

 今回(7月21日)、たまたま神社へお参りに行ったら、毎年恒例の「清正公まつり」の前夜祭をやってました。
 「清正公まつり」は清正の遺徳を偲び、毎年7月の第四日曜日に開催されているそうです。
  清正公まつり1


 神社の敷地はそれほど広いわけではないのですが、夜店が立ち並び、特設ステージでは演芸、パフォーマンスが行われており、夏休みに入ったばかりとあって家族連れでにぎわっていました。
 なお、敷地からは熊本城の大天守、小天守が眺められます。
  清正公まつり2


 ********************************

 翌日、再び神社の近くを通りかかりますと、二の丸広場のところで、蛇の目紋の入った烏帽子兜に陣羽織を着、槍を手にした子供たちを見かけました。
 「千人清正」といって、清正に扮した子供たちが市中を練り歩くのだそうです。
 「エイエイオー」元気に勝どきの声を上げる子供たち。「もののふの心」を受け継ぎます。
 周囲にはお子さんたちの姿を写そうと、デジカメやビデオカメラを持った親御さんたちが多数見受けられました。
  千人清正


 神社の入り口付近は法被を着た方たちでごった返していました。これからお神輿が出るらしいのですが、しばらくその場で待ってみたのですが、なかなか行列が出発しません。私はこの後、帰り支度をしなければならなかったので、残念ながら行列を見ずに引き揚げました。。。
  清正公まつり3
 
 ※実はこの後、急な夕立が来てしまって、「千人清正」のお子さんたちもずぶ濡れになってしまったとか。私も熊本空港へ向かう途中、強い雨に降られました。みなさん、お疲れ様でした。


 ところで、神社の敷地内で何やら「署名活動」みたいなのをやっており、このような記帳台を発見しました。
    加藤神社b


          大河ドラマで「加藤清正」を  へつづく


参考サイト 加藤神社



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