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御殿で味わう伝統料理「本丸御膳」

 よみがえる熊本城本丸御殿 のつづき

 昨日、熊本城本丸御殿について紹介しましたが、一か所飛ばしてしまったところがありました。

 「大御台所」 当時、藩主に出す料理をこの大きな台所で調理していました。
 武家屋敷でこれほど大きな台所は大変珍しいとのこと。
熊本城本丸御殿(大御台所d)

 2階部から見下ろした「大御台所」 大きな囲炉裏が二つあります。
熊本城本丸御殿(大御台所e)

 囲炉裏とかまどの煙を抜くため、天井が吹き抜けになっています。大きな丸太の梁が何本もめぐらされて迫力ありますので、ぜひ頭上を見上げてみてください。
   熊本城本丸御殿(大御台所a)

 当時、藩主が食したという祝いの膳がレプリカ展示されてました。
   熊本城本丸御殿(大御台所b)

 
 実は、この「大御台所」にて、上の写真のような伝統料理を再現した「本丸御膳」が食べられるというのです。
 
 お料理は頂くには事前予約が必要で、一日50食限定です。(後述します)
 一人前3000円というリーズナブルな価格で、二人以上から申し込めます。

 スタッフに名前を告げると、大御台所の2階に案内されます。この日は一番乗り!
 食事処は小屋根裏みたいな感じのところです。燭台のやわらなか明りが灯り、雰囲気出てます。
熊本城本丸御殿(大御台所c)

 席に通されると、すぐお膳が出てきました。
 食器類も漆塗りに金の蒔絵が施されており、豪華です。これは楽しみ・・・。
本丸御膳1



 器の蓋を開けてみました。熊本に伝わる古文書をもとに再現された料理です。
 スタッフの方が逐一料理の内容を解説してくださいます。

 お料理は、市内にある「青柳」さんという日本料理店が担当しているのですが、本丸御殿は文化財なので火が使えないため、お店で調理したものを保温して、こちらに持ってきているということです。 
本丸御膳3


 【御膾】鱸(スズキ)昆布締め 和蛸   煎酒・梅醤
 
近世初期にはまだ醤油が存在しないため、お刺身は下の2つの調味料をつけて頂きます。
 “煎酒”は醤油の普及以前、室町時代末からある調味料で、酒と削り鰹、梅干等を煮つめ濾して作ります。この御膳では熊本古来の“赤酒”を使用。
 “梅醤(うめびしお)”は梅肉を裏ごししたものに砂糖を加えた調味料です。
 そういえば、以前紹介した「謙信公のかちどき飯」でも同じ感じで出ていましたね。
   本丸御膳2


 【御汁】くしいと  そゝろ麩

 “くしいと”とは、ポルトガルから伝来した料理「コジイド(ゆでた肉)」に由来するといわれています。
 “そゝろ麩”は万延元年(1860年)、藩主・細川慶順初入国を祝う御祝御能の膳(上方のレプリカの写真)にも使われました。
   本丸御膳7


 【御飯】菜飯  【御香物】味噌漬いろいろ

 享保15年(1730年)刊『料理綱目調味抄』の菜飯に、しらす干しをあしらいました。
 ※ご飯は白米ならお代わりできます。
   本丸御膳5


 【御平椀】 くずたたき 鯛 青菽乳(あをまめとうふ) 蚕豆 水前寺菜
 
 “青菽乳”は天明二年(1782年)刊『豆腐百珍』の料理です。春らしく蚕豆をあしらいました。
 “水前寺菜”は、熊本市の伝統特産「ひご野菜」に指定されています。一見、ワカメに似ていますね。
   本丸御膳4


 【御猪口】 玉子ふわふわ 熊本黒皮かぼちゃ きくらげ 胡椒

 “玉子ふわふわ”は『料理物語』を始め江戸時代の料理書に多出し、とき卵にだしを加えふんわりと固めた料理です。今でいう“茶碗蒸し”よりもふんわり仕上がった感じ。
 “熊本黒皮かぼちゃ”は水前寺菜とともに熊本市の伝統特産「ひご野菜」に指定されています。

   本丸御膳6


 【御肴】 鮑かまぼこ 鱚(キス)の金魚焼・海老・たまごかすてら焼
     とふこ味噌  一文字ぐるぐる  辛子蓮根 豆腐味噌漬


 “鮑かまぼこ”(手前)はあわびと鯛でつくります。かまぼこは当時最高級のもてなし料理でした。
 “鱚の金魚焼”(左の串)は山吹焼ともいわれ、卵黄をひいて山吹色に焼き上げる料理です。
 “たまごかすてら焼き”(左の串)は、くわいを混ぜてかすてらおようにふっくらと焼いた厚焼卵です。
 “辛子蓮根”は、熊本藩細川家初代藩主・忠利の滋養のためにつくられたといわれています。蓮根の断面が細川家の家紋「九曜紋」にも見えることから、明治維新まで門外不出だったとか。
 “とふこ味噌”(右上の黒枡の中)は「桃香味噌」等とも記され、けし実、生姜、きくらげなどを加えたなめ味噌の一種です。
 “一文字ぐるぐる”(上の焼物小皿)はわけぎ(ネギ)を巻いたものに酢味噌をかけたものです。(“ぬた”みたいな感じ)
 “豆腐味噌漬”(右の白い小皿)は濃厚なクリームチーズのようなもの。

 本丸御膳8


 なお、【御肴】は熊本名物“辛子蓮根”をはじめ、しっかりした味付けのものなので、思わずお酒が欲しくなるような料理でした。
 私は日本酒がダメなので、せめてビールくらい頼もうと思ったら、「城内のため、お酒・ソフトドリンク等は提供しておりません」とのこと。
 出てくる飲み物は日本茶のみです。。。
 (※茶碗の蓋に、細川家の家紋である九曜紋がありますね)

   本丸御膳10


 【御菓子】 朝鮮飴 妙解寺納豆 干こる豆

 熊本銘菓の“朝鮮飴”は江戸時代熊本藩細川家から幕府への献上品でした。この御膳では、絹ぶるいを通した上白もち米と白砂糖を使う極上のレシピに、くるみを入れました。
 飴といっても、柔らかな餅菓子みたいな感じです。
 “妙解寺納豆”は、細川家の菩提寺妙解寺の寺納豆(塩辛納豆)です。“干こる豆”は糸引納豆の塩漬を干したもので、熊本に伝わる保存食品です。
    本丸御膳9


  
 おかげ様で、綿密に考証された、本格的な武家の儀礼料理をゆっくり味わうことができました。
 ひとつひとつの料理に、「もののふ」の心を感じます。
 

 「本丸御膳」実は本丸御殿が復元されて以来、かれこれ4年近く提供されているのですが、以前はお客さんが殺到していて、私は予約しそこねたことが2度あったのです。
 「三度目の正直」といいますか、今回やっと予約することができました。土日祝は込み合うことが予想されるので、日程が決まったら、早めに予約電話を入れておいたほうがよいかと思います。

 予約先は「郷土料理 青柳」(℡096-325-0092)まで。食材の都合があるので、予約日の3,4日前までに申し込んでください。

 なお、通常お料理の提供時間は11時半から14時までですが、平成24年9月1日~10月27日までの毎週土曜 、平成24年9月29日・30日、10月5日・12日 は熊本城の夜間開園にちなんで、夜の時間にも提供しているそうです。(詳細はお問い合わせください  ※熊本国際観光コンベンション協会(新着情報)参照)


 参考サイト 熊本城公式ホームページ(イベント情報)
       
       

       
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よみがえる熊本城本丸御殿

 熊本城 のつづき


 難攻不落、鉄壁の守りの熊本城を築いた加藤清正ですが、ひたすら軍事面を優先する城造りに徹したため、城主の居住スペースや行政の場を設ける平地が城内になくなってしまいました。
  
 そこで清正は、石垣に挟まれた登城道の上に御殿を建てることを考えます。これが本丸御殿です。
 本丸御殿は明治10年の西南戦争で焼失してしまいましたが、平成15年(2003年)より専門家、職人が総結集し、綿密な考証によって総工費54億円をかけて復元工事が行われ、平成20年(2008年)春に創建時の姿で蘇りました。

 不開門・須戸口門から登城しますと、本丸御殿の裏側の門に辿りつきます。
熊本城本丸御殿10


 中へ入ってみますと、「闇(くらが)り通路」と呼ばれる地下通路が。
熊本城本丸御殿4(闇り通路)

 
  実はここが、全国的にも例をみない御殿への地下玄関口(正式の)なんですね。
  熊本城本丸御殿5(玄関)


 本丸前広場に出て、見学客が入るため現在の入り口がココ。
熊本城本丸御殿6


 玄関を入り、写真には写っていませんが60畳の「鶴之間」からはじまり、「梅之間」(写真)、「櫻之間」、「桐之間」、「若松之間」と続きます。
 この辺りの部屋は壁や襖が真っ白ですが、確実な資料が残っていないとの理由で、文化庁が障壁画、襖絵の復元を許可しなかったためです。
熊本城本丸御殿3(梅の間)


 大広間の南側に延びる縁側。「広縁」「落ち縁」「濡れ縁」の三段で構成され、幅は約6mあります。
熊本城本丸御殿7(縁側)


 奥の「昭君之間」に続く「若松之間」。室内には瑞々しい若松の絵柄が描かれています。
熊本城本丸御殿8(若松の間)


 もっとも格式の高い部屋である「昭君之間」
 画題は中国の前漢時代、北方地帯を支配する匈奴へ嫁ぐことになった悲劇の美女「王昭君」を中心に描かれています。
 障壁画、襖絵を担当したのは豊臣氏と縁の深かった狩野光信の弟、源四郎言信。
 画題は判明していたものの、部屋の内部が具体的にわかる写真や下絵等の史料が無かったため、同時代の他所の建物等を参考に「推定復元」という形で文化庁から特別の許可が下りました。
 「昭君」を「将軍」と読み替えることで、清正が豊臣秀頼を迎えるために設けた部屋という説があります。
熊本城本丸御殿9(昭君の間a)


 この人が悲劇の美女「王昭君」
 なお、「昭君之間」「若松之間」ではカメラ撮影時は内装が傷むのを防ぐため、絶対ストロボを使用しないようにしましょう。(監視員から注意されます)
 熊本城本丸御殿2(王昭君)


 天井は「折上格天井」になっており、、四季折々の草花が丹念に描かれています。江戸後期の画家、杉谷行直(1790-1845年)が描いた「御城内照君之御間合天井図」という史料が残っており、それを参考に復元されました。
熊本城本丸御殿1(昭君の間b)



 なお、本丸御殿にはそのほかにも藩主の居間や大天守へつながる通路などがありましたが、現状を鑑みて今回は復元されませんでした。
 本丸御殿を復元したことで、観光客数も大幅にアップしたそうです。
 加藤清正が築いた、桃山時代の絢爛豪華な文化を体感できる貴重な建物なのです。


                    御殿で味わう伝統料理「本丸御膳」へつづく
 
 

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熊本城(日本100名城)

 日本三大名城の一つである熊本城
 熊本へ来たら、まず真っ先に行ってみたい観光スポットです。
 先月下旬と先日の二度にわたって再度熊本城を訪れました。あまりの壮大さに感嘆すると同時に、いつまでいても飽きない城、それが熊本城です。
 それではさっそく登城してみることにしましょう。(一部過去に撮影した写真あり)

 市街から眺めた熊本城。以前初めて熊本へ来たとき、この風景を見てワクワクしたのが思い出されます。
熊本城7


 城への入り口、行幸橋口に立つ加藤清正公像
 清正は戦国きっての猛将として有名ですが、同時に名うての築城名人でもありました。
 「賤ヶ岳の戦い」で“七本槍”の一人として名を挙げた清正は、その後幾多の戦を経験しますが、豊臣秀吉による朝鮮出兵・・・「慶長の役」で経験した蔚山城での激しい攻防戦を教訓として、完全防備、無敵の居城を築き上げました。熊本城には戦国武将としての彼の気概が感じられます。
  加藤清正公像


 城の南方、坪井川沿いにある242m!にも及ぶ長塀。重要文化財。
熊本城6(長塀)


 西出丸の薬研堀と戌亥櫓および土塀(復元)かつては堀の底がV字形になっていました。(現在は形状が異なっています)
熊本城12(戌亥櫓・土塀)

 
 二の丸広場にて年に一回開催される「武田流騎射流鏑馬」(2009年秋撮影)お城をバックに、古式ゆかしく執り行われる流鏑馬神事。
 もののふの心を今に伝えます。
熊本城5



 西大手門(復元) 加藤家が改易された後、肥後に入封した細川忠利が初めて入城する際に駕篭から降り、清正の遺徳を偲んで門前で深々と一礼したという話が伝わっています。
熊本城14(西大手門)


 西出丸から空堀を隔てて眺める三層五階の宇土櫓。城内一の高さを誇る石垣を含めた眺めは壮観です!
 清正が慶長3年(1598年)以前に建てた旧天守ではないか、という説があります。かつての宇土城の天守を移築したという伝承もありましたが、平成元年(1989年)の解体修理時の調査により否定されています。西南戦争での焼失を免れた貴重な遺構です。重要文化財
熊本城8(宇土櫓)

 


 頬当御門(復元) 二の丸への入り口に立つ。屋根の無い簡便な形式の門。
 ツアーなどで来ると、ここから入城する人が多いのではないかと思います。受付に100名城のスタンプも設置されています。
熊本城11(頬当御門)


 大天守、小天守。残念ながら、西南戦争の時に籠城していた新政府軍に放火されて焼失してしまいました。現在のものは昭和35年に外観復元された鉄筋コンクリート製。
 先週の土曜日(25日)、天守前では名古屋から“武将隊”の人々が応援にかけつけ、パフォーマンスが行われており、観光客で人だかりが出来ていました。
熊本城13(大天守、小天守)


 天守前広場にある銀杏の木。清正は城内にたくさんの銀杏の木を植えましたが、有事の際にギンナンの実を食料とするためだったともいわれています。熊本城の別名「銀杏城」の由来。
 「この樹が天守の軒に届く頃、きっと戦乱がおきるだろう」
 と清正は予言したといいますが、はたして明治10年(1877年)に起きた西南戦争で熊本城は戦場と化し、奇しくも清正の予言通りとなったという次第。
 谷干城率いる熊本鎮台は城に立てこもり、西郷軍を相手に五十日余りの籠城を耐え抜きました。不世出の英雄、西郷隆盛をしても、加藤清正には敵わなかったわけです。
    熊本城9(銀杏)

  

 「武者返し」決して敵を寄せ付けない鉄壁の反り返り。
   熊本城(武者返し)

  
 先述しましたが、「慶長の役」における蔚山城の籠城戦において辛酸を舐めた清正は籠城に備えるべく、水源の確保のため城内に井戸をたくさん備えました。
  熊本城10(井戸)

 
 父の仇を討とうと、清正の暗殺をたくらんだ横手の五郎という怪力の若者が、首にかけて運んだといわれる「首掛石」 重さが1.8tもあるんだとか!
  熊本城(首掛石)



 本丸南西隅にある「二様の石垣」
 右側が清正の時代のもの(「清正流石垣」)で、左側は細川氏時代に増築されたもの。
 清正は石垣積みを得意としていました。正確には有能な石垣職人を配下に抱えていたということです。「天下普請」で築かれた名古屋城の天守台の石垣も清正が担当しています。

 ところで、大河ドラマ「天地人」の第一回目の放映で、ここでロケが行われたのご存じですか?
 「大坂城」の設定だったらしいですが、わざわざ遠い熊本城で、何でロケしたのが意味不明です。
熊本城16(二様の石垣)


 各所にある石垣と石段。まるで石の迷路に迷いこんだような錯覚を感じます(汗)。
 自分が甲冑に身を包み、武具を抱えて攻め込んだなら、相当難儀したことでしょう。
熊本城4



 清正の重臣・飯田覚兵衛ゆかりの「飯田丸五階櫓」(復元)城内にはかつて、五階建の櫓が5基も備えられていました。
熊本城3(飯田丸五階櫓)


 城の鬼門にあたる北東に位置する櫓門「不開門」(あかずのもん) 城内にはかつて18の櫓門がありましたが、現存するのはこの門だけ。
熊本城2(不開門)

 以上ざっと見てきましたが、実はまだまだ多くの櫓等があり、見どころがたくさんあってとても紹介しきれません。お城見学には時間に余裕をもって行かれることをおすすめします。
 あまり難しく考えず、城の威容を体感できればいいのではないでしょうか。
 それから、去年の震災で一時途絶えたものの、中国、台湾、韓国などから来た外国人観光客もとても多いです。「もののふの心」を感じて帰っていただければ幸いです(笑)

気が付くと、いつの間にか日が傾き、あたりは夕闇に包まれていました。。。
 難攻不落の城、熊本城。さすがは天下の名城です!
熊本城1

おかげ様でお天気には恵まれましたが、熊本はとても暑かったです。。。


             よみがえる熊本城本丸御殿 へつづく


 参考サイト 熊本城公式ホームページ


より大きな地図で 熊本城 を表示



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おしらせ

 すみませんが、3日くらいお休みさせていただきます。
 (週明けの更新になります)

    ZZZ・・・
  文京区ぬこ2



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生誕450年記念展 加藤清正(熊本県立美術館)

 熊本県熊本市にある熊本県立美術館では、現在
「生誕450年記念展 加藤清正」展を開催中です。(9月2日まで)

     「加藤清正」展

 【展示趣旨】
 1562年に尾張(現愛知県)で生まれ、戦国の乱世を駆け抜けた加藤清正。豊臣秀吉子飼いの武将として、政権を支える役割を担いました。また、1588年に肥後熊本の領主となった清正は、熊本の歴史や文化にも大きな足跡を残しています。絶大な人気を誇り、いまも「清正公大神せいしょうこうだいじん儀ぎ」として信仰されるゆえんです。
 清正の生誕450年目を記念して本展では、菩提寺・本妙寺に伝来した品々や愛用の《片鎌鎗かたかまやり》(東京国立博物館所蔵)といったお馴染みの作品、熊本初公開となる《賤ヶ岳合戦図屏風しずがたけかっせんずびょうぶ》(大阪城天守閣所蔵)や《虎頭蓋骨》(徳川美術館所蔵)など、ゆかり美術工芸品や歴史資料を一堂に集め、その生涯を紹介します。
 加えて本展では、神として人々に親しまれてきた「清正公大神儀」にもスポットをあてます。熊本を起点に全国的な広がりをみせた清正公信仰の実像を示す絵画や歴史資料も、みどころのひとつです。



 私が生まれてから、初めて知った戦国武将は加藤清正(1562~1611年)でした。
 というのは、私の実家および母の実家が日蓮宗の信者だったからです。周知のように、清正は日蓮宗の大檀越であり、私の親戚の者たちも「清正公」と呼びとても尊敬していたので、子供のころからそれを聞かされていました。

 そうしたこともあり、私自身も幼いころから何となく清正に親しみを感じていたわけですが、世間的に見ても、清正という人は名だたる武将のうちでも一際人気が高いように思います。

加藤清正公像(熊本市 本妙寺)
    加藤清正銅像


 清正は様々なエピソードに事かかず、また歴戦のツワモノでもあり、天下の名城たる熊本城を築きました。
 しかし、清正の死後、息子の忠広の代に加藤家は改易されてしまいます。
 そのため、清正関係の品々というのはあちこちに散逸してしまったんですね。
 加藤家の後、肥後熊本に転封した細川家などは「永青文庫」もありますし、年がら年中展示会を開催しているのですが、加藤清正についてはなかなかそういう訳にいきませんので、今年が生誕450年という節目の年でもあり、満を持しての大型企画展となりました。
 全国から集めた豊富な史料を通じて、秀吉を支え、常に戦いの日々にあった清正の生涯を辿っています。

 見どころとしては、清正のトレードマークとも言える「片鎌槍」や、長烏帽子の兜といった武具、甲冑類。朝鮮出兵時、有名な「虎退治」の証拠品ともいえる「虎頭蓋骨」など、この辺りはいかにも清正らしい遺品というべき品々だと思います。
 また、清正の人生のターニングポイントともなった「賤ヶ岳合戦図屏風」(六曲一双 大阪城天守閣所蔵)や、慶長の役における「蔚山城の攻防戦」を描いた「朝鮮軍陣図屏風」(六曲三隻 鍋島報效会所蔵)なども迫力がありました。
 また、清正が肥後半国の大名に取り立てられてからの領国経営の様子なども古文書などからよくわかりました。

 そして、秀吉の死後、清正は徳川家康に急接近していくのですが、このあたりの清正の微妙な立ち位置についても触れられていました。
 清正は生涯豊臣家に忠誠を誓った「忠義に厚い武将」という印象がありますが、実際には自分自身が家康の養女を継室として迎えていたり、娘二人を徳川家関係に嫁がせていることなどから、リアリストとしての側面も窺えました。
 そして、清正の死後、加藤家が改易されてからも、民衆の間で清正は伝説の人として信仰の対象となっていく経緯についても締めくくりの一章を割いており興味深かったです。
 
 欲をいえば、彼が築いた熊本城や加藤家改易についてもう少し詳しく取り上げてくれると尚よかったと思いましたが、清正の人生に重点を置いた結果でしょうか。

 実はこの展示、先月会期がスタートした直後に行ったのですが、夏休みに入ったこともあり、子供さんをはじめ若い方の姿も多く、大変盛況の様子でした。
 書状など、多くの古文書にも逐一釈文がつけられ、解説文も大変わかりやすいものでした。
 上の方に掲載したポスターも、清正のイメージを喚起させるというか、いい感じです。

 先述したように、清正関係の展示でこれだけのモノが集結するというのは滅多にないことですので、会期終了が迫っておりますし、是非この機会にご覧になるようおすすめいたします。
 先日の本多忠勝関係の展示も面白かったですが、清正展もそれと比肩するくらい大満足の展示であったことを申し添えておきます。
 

        ※図録あり

  関連記事 加藤清正の墓(本妙寺「浄池廟」)
         熊本城(日本100名城)


  参考サイト 熊本県立美術館
  熊本県立美術館


   熊本市二の丸2  ℡096-352-2111
  
より大きな地図で 熊本県立美術館 を表示



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岡崎市「旧本多忠次邸」 (後)

 つづき

 階段で二階へ上がります。ベッドが置かれた寝室。
本多邸14


 あつらえた家具にはすべて、下の写真のような「お印」が付けられています。
  本多邸11


 寝室に続き、主人が使用した書斎。6つの窓があり採光はバツグンです。1階にあったサンルームのちょうど上になります。机、椅子とも当時のもの。
本多邸10


 昭和初期頃流行した「アール・デコ」様式のお茶室。写真には写っていませんが、手前の入り口付近に水道の蛇口が備えつけられており、ここでお茶を入れることができます。
本多邸17


 2階の面積の約半分を占める3間続きの和室(一番奥が客間)モダンな印象の強い館にあって、やはり日本人ならではの趣向。
本多邸16


 2階にも浴室がありました。
本多邸13

  海の中を魚が泳ぐステンドグラス。洒落たデザインです。
 本多邸12


  廊下には消火栓が設置されており、防災についても考慮されています。
  本多邸15


 館の主人、故本多忠次氏。氏は建築関係の資料を集め、西洋風の家を所有するお宅へ実際足を運んでデッサンする等研究を重ね、この家を設計されました。
 先日終了した企画展「徳川四天王本多忠勝と子孫たち」(岡崎市美術博物館)の中で、設計図や氏が参考にした建築資料が紹介されていました。
   本多忠次氏


 それにしても昭和初期に建築されたとは思えないほど工夫の凝らされた館であり、逐一感心しながら見学しました。
 照明や家具、ステンドグラスもほぼ当時誂えたものですので、細かい箇所にも注目です。

 歴史的にも建築的にも価値のある同邸ですので、本来なら小金井にある「江戸東京たてもの園」あたりで保存してくれればよかったのに・・・とも思いましたが、おそらく予算的に厳しかったのでしょう。しかし、愛知県岡崎市の尽力で取り壊しを免れ、こうして復元保存されたことは大変喜ばしいことでした。
 同邸は先月公開が始まったばかりだそうですが、土日祝は一日200人以上が見学に訪れ、なかなか盛況だとか。
 ボランティアガイドさんが数人常駐され、詳しい説明を伺うこともできます。
 今回、あるボランティアの方に「この後、岡崎市美術博物館へ行きます」と何気なく言ったら、その方もちょうど用事があって同館へ行くというので、車で送ってくださいました。親切なご対応に感謝申し上げます。



 参考サイト 旧本多忠次邸(岡崎市ホームページ内)
 

  愛知県岡崎市欠町字足延40-1  ℡0564-23-5015 
 
より大きな地図で 岡崎市「旧本多忠次邸」 を表示




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昭和の洋館 岡崎市「旧本多忠次邸」 (前)

 先日、岡崎市美術博物館にて開催中の展覧会「徳川四天王本多忠勝と子孫たち」を紹介しましたが、この展示は本多家のご子孫が所有していた洋館を移築復元し、一般公開がされたことの記念として開催されました。
 展示を見学するに先立って、その洋館を見学しに行ってきました。

 岡崎市「旧本多忠次邸」
本多邸1

 岡崎市旧本多忠次邸は、本多忠次(1896~1999年)が昭和7年(1932年)に東京・世田谷の敷地・約7,100㎡内に建てた住宅と壁泉の一部を移築復元したものです。
 建物はフランス瓦の屋根で外壁は色モルタル仕上げとするなど、当時ブームとなっていた田園趣味を反映させたスパニッシュ様式を基調としています。
 1階は西側に車寄せをつけた玄関、南側中央には三連アーチのアーケードテラス、続く東端には2階まである半円形のベイウインドを配置しています。また前庭ではスパニッシュ建築様式には欠かせないといわれる壁泉のある大きなプールが設置されています。(パンフレットより)



 本多忠勝のご子孫である故・忠次氏は36歳の時に、東京・世田谷区野沢に広い土地を購入し、自らが設計デザインを行い、この洒落た洋館を建てられ、長年にわたり暮らしました。
 忠次氏は平成11年(1999年)に逝去されましたが、その時この洋館は老朽化が進み、もう人が住めない状態になっており、個人では維持管理が難しい状態になっていました。しかし、ご遺族が取り壊すには忍びないということで移築先を探していたところ、本多家のかつての領地であった岡崎市が名乗りを上げ、数年にわたる修復作業を経て、このたび一般公開の運びとなったものです。
 予想以上に素敵な洋館でしたので、以下写真でご案内いたします。
 
 
 前庭には壁泉つきのプールが設置されています。
本多邸2

 
 車寄せ付きの玄関
本多邸3



  玄関を入ったところにある壁泉
   本多邸4


 1階団欒室 手前にテーブルを囲み、4つ椅子がありますが、右から2番目が忠次氏の定席だったとか。
本多邸6

 団欒室の隣にある食堂。窓辺のステンドグラスがアクセントになっています。家具、照明等も当時のもの。
本多邸7


  部屋の廊下側の壁にも設置されているステンドグラスの小窓。
    本多邸5


 和室に続いて設置された日光室(サンルーム) 忠次夫人がここで読書したりして過ごしていたそうです。
 窓からは庭のプールが眺められます。
   本多邸8


 タイル張りの広々とした浴室。ステンドグラス付の窓が3つ設置され、明るい印象です。ゆっくりバスタイムが過ごせそうですよね。
 復原にあたり、タイルは当時のものに近いものを貼り直ししているようです。
本多邸9



       つづく 

※すみませんが、2,3日お休みさせていただきます。


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【終戦】鈴木貫太郎の墓

 鈴木貫太郎(1868~1948)

   鈴木貫太郎

 旧関宿藩士の子として大阪にて出生。
 明治20年(1887)海軍兵学校卒業。日清戦争に従軍。31年(1898)海軍大学校卒業。日露戦争では日本海海戦に従軍。海軍省人事局長、第2次大隈内閣海軍次官、海軍兵学校校長、呉鎮守府司令長官、連合艦隊司令長官などを歴任。大正14年(1925)海軍軍令部長。昭和4年(1929)侍従長兼枢密顧問官に就任。侍従長在任中の11年(1936)、2・26事件により襲撃を受け、一命をとりとめるが辞職。19年(1944)枢密院議長、翌年昭和天皇の大命を受け、第42代内閣総理大臣に就任。無条件降伏による戦争の終結を導いた。


 鈴木の墓は彼が晩年を過ごした旧関宿町(現・千葉県野田市)の実相寺(日蓮宗)にあります。
  鈴木貫太郎の墓


 吉田茂の発案により「鈴木貫太郎記念会」が組織されたことを契機に記念館が建設され、昭和41年に開館しました。
 鈴木が着用した軍服や日常生活品などの遺品、肖像、御前会議の絵などが展示されています。
 昨年でしたか、同館に泥棒が入り、展示品が数店盗まれたとか・・・(全くもって不届き千万です)

 なお、写真の右手にある「為萬世開太平」の文字。これは鈴木内閣で内閣書記官長を務めた迫水久常の手による揮毫で、迫水が草稿を作成した終戦詔勅の中の一節(「堪へ難きを堪へ忍ひ難きを忍ひ以て万世の爲に太平を開かむと欲す」)です。

 鈴木貫太郎記念館


 今日もテレビで終戦特集番組をやっていましたが、敗戦の色が濃厚となっても終戦工作は困難を極めていたことが明らかとなっています。
 最終的には、天皇の「聖断」という非常手段をとらざるをえなかった鈴木の苦衷が偲ばれます。


  
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三船敏郎、加山雄三 他

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 ※今後も墓参りを通じて、戦没者の慰霊、平和の祈念に努めてまいります。




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徳川四天王本多忠勝と子孫たち~岡崎藩主への軌跡~(岡崎市美術博物館)

 ロンドンオリンピック盛況のおかげで、かれこれ10日以上もブログを更新していませんでした。
 ですが、実のところここ最近もあっちこっちへ出かけていたのです。
 夏休みということで、博物館美術館等の展覧会情報を・・・。

 愛知県岡崎市にある岡崎市美術博物館では、現在
「徳川四天王 本多忠勝と子孫たち~岡崎藩主への軌跡~」を開催中です。(8月19日 日曜まで)
    徳川四天王本多忠勝と子孫たち

 【展示趣旨】

 本多忠勝は天文17年(1548)現在の岡崎市内に生まれた生粋の三河武士です。武勇の誉れ高く、徳川四天王の一人として酒井忠次・榊原康正・井伊直政とともに、徳川家康の天下統一に大きく貢献しました。本多家は忠勝が上総大多喜に大名として取立てられて以降、16代にわたり譜代大名として幕府を支え、伊勢桑名、播磨姫路、大和郡山、陸奥福島、播磨姫路、越後村上、三河刈谷、下総古河、石見浜田、三河岡崎と転封を重ねており、これらの地には本多家の足跡を示す様々な資料が伝わっています。中でも江戸時代後期から明治維新まで約100年にわたり、岡崎城主としてこの地を治めており、岡崎とは非常に縁の深い大名家です。今年7月6日には、この本多家の分家筋にあたる本多忠次氏の旧邸宅が、東京都世田谷区から岡崎市東公園内に移築され、復原公開されます。
 今回の展覧会は、この旧本多忠次邸復原を記念して、譜代大名本多家260年の歴史をたどるものです。本展では本多忠勝所用の黒糸威胴丸具足(重要文化財)をはじめ、歴代当主の甲冑などの名宝や同家ゆかりの品々を一堂に展示するとともに、譜代大名本多家の全貌に迫ります。
 さらに旧本多忠次邸の開館にあわせて、邸宅の図面や家具調度のデザイン画、忠次氏の住宅思想を育んだ当時の建築・住宅書など貴重な資料の数々を特別公開します。本展を御覧頂くとともに、昭和初期を代表する近代建築である旧本多忠次邸にも、是非足をお運び下さい。


 
 本多平八郎忠勝(1548~1610年)
 上記にもある通り、徳川家康股肱の臣であり、武勇の誉れ高く「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」とも謳われました。
     本多忠勝

 家康の関東移封により、忠勝は上総大多喜10万石の大名となりますが、その後関ヶ原合戦の武功により、伊勢桑名10万石を与えられます。
 こうして、本多忠勝の子孫は譜代大名として幕末まで存続しますが、その間本多家は意外にも10回も転封しているんですね。
 明和6年(1769年)、本多家は石見浜田より先祖ゆかりの地である三河岡崎へ国替えとなり、やっと落ち着き先が見つかったという感じです。以降、約100年にわたりこの地を治めました。

    岡崎城
   岡崎城


 さて展示の方ですが、忠勝所用の「黒糸威胴丸具足」をはじめ、見どころがたくさんありました。
 この「黒糸威胴丸具足」ですが、失われた袖の部分を除き、上の忠勝の肖像に描かれたものの実物が大切に保管されてきたのです。鹿角の脇立の兜と、袈裟がけにした大きな数珠がなかなかインパクトあります。
 それから、忠勝の次男・忠朝が「大阪夏の陣」で討死した際に着用していたというボロボロの具足。これは数年前に千葉の大多喜城で見たことがありますが、胸の一部に鉄砲で打ち抜かれた痕があり、戦の激しさを物語っています。
 
 忠勝亡き後の本多家ですが、忠勝の孫である忠刻が二代将軍・徳川秀忠の長女・千姫を嫁に迎え、主家である徳川家との絆を一層深めていきます。

 しかし、宝永6年(1709年)、七代・忠孝が早世し、本来なら無嗣断絶となるところを先祖の功をもって分家筋から養子を立てることを許されるものの、知行高は5万石に減らされてしまいます。お家のピンチです。本多家では家臣のリストラを断行し、これをしのぎました。
 岡崎に国替えしてからも藩は財政難に陥ったため、二度にわたり大規模な財政改革が断行されました。
 三河以来の譜代の家といえども、そのお家事情は苦難の連続だったことがよくわかりました。

 このほか、本多家のご子孫の方が昭和初期に東京都内に建てた洒脱な洋館(以下リンクをお読みください)に関する資料の展示で締めくくられていました。

 関連記事⇒昭和の洋館 岡崎市「旧本多忠次邸」(前)
        岡崎市「旧本多忠次邸」(後)


 全体を通して、甲冑、武具、文書、絵図などが多数展示され、充実した内容となっており、閉館ぎりぎりまでじっくり拝見させていただきました。
 「本多忠勝」と聞くと戦国武将モノといった第一印象ですが、今回の展示はどちらかというと、江戸時代年間の本多家に焦点が当てられていた感じです。
 私は先月下旬に行ってきたんですが、ちょうど夏休みに入ったばかりとあって、小中学生のお子さんの姿も多くみられました。夏休みの自由研究の課題にもなりうるかもしれません。

 展示は今週末の19日までですので、お近くの方はぜひご覧になってみては如何でしょうか。

         ※図録あり

 
  岡崎市美術博物館(岡崎市高隆寺町字峠1番地 岡崎中央総合公園内 ℡ 0564・28・5000)

 同館へはこれが初めてでしたが、ガラス張りの洒落た建物です。展示場は地下にあります。
 名鉄東岡崎駅からやや遠く、バス便も少ないのがちょっと残念です。(自家用車のある方は車で行かれたほうがいいかも)
  岡崎市美術博物館


   
より大きな地図で 岡崎市美術博物館 を表示 
 
 
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ロンドンオリンピックが終了しちゃって、さびしい・・・

 先日、17日間にわたって開催されたロンドンオリンピックがとうとう閉幕してしまいました。

 日本は過去最高の38個のメダルを獲得。
 連日ブログ更新そっちのけで、完全オリンピックモードになってしまいました。今回は開催地であるロンドンと時差がありましたので、連日寝不足の状態が続きました。
 こうして宴が終わってしまうと、今ものすごくさびしい気分です。

 それにしても、連日日本人選手の健闘ぶりには目を見張るものがありました。
 今回ラッキーなことに、金メダルを獲得した7人の方の試合はすべてリアルタイムで中継を見ることができました。
 レスリングとかボクシングとか、全然ルールもわからないのに、ついつい熱中して見入ってしまいました。
 
 全体的な印象を申しますと、“なでしこJAPAN”をはじめ、松本薫さん(柔道)や、伊調さん・吉田さん(レスリング)など女性の活躍が目立ちました。(もちろん、男性陣も頑張ってましたけど!)
 のびのびと、そして強かに戦っていた姿が心に残りました。個人的には、小原さん(レスリング)の涙の金メダルがウルッときましたけども。

 それから、「○○年ぶりのメダル獲得」「○○年ぶりの出場」という言葉もよく聞かれました。世界のレベルが高くなって、一時期日本人がなかなか勝たせてもらえなくなった競技(レスリングなど)でも今回健闘された事はきっと今後につながることと思います。


 一方、柔道や陸上などは物足りない点がありましたが、4年後に向けて気持ちも新たに対策を練っていただきたいと思いました。
 今回のオリンピックは審判の問題等、トラブルも多々ありましたが、そのさ中で果敢に戦った選手の皆さん、本当にお疲れ様でした。

  *****************************

 週末の土曜日、東京・晴海で開催された「東京湾大華火祭」というのに行ってきました。
 そこで打ち上げられた「五輪花火」


 五輪花火

 さあて、そろそろ当ブログも再開しましょうかね(笑)



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謙信公の「かちどき飯」その二

 謙信公の「かちどき飯」その一  の続き

 JR高田駅前のビジネスホテル「高田ターミナルホテル」の一階に食事処があり、こちらでも上杉謙信ゆかりの「かちどき飯」を提供しているということで、夕食で行ってきました。
 こちらの店も、食材調達の都合があるので、4日前くらいまでに要予約です。

  旬魚料理地酒の店 大黒屋
  高田ターミナルホテル(大黒屋)


  席に案内されると、すでに食事の用意が整っていました。
  こちらでも「毘の膳」(2500円税別)を注文しましたが、松風園さんのものと一部を除きほぼ同内容です。

  まず食前酒から。「かちどき酒」といい、当時の酒を再現しています。清酒に近いそうですが、私にはちょっと強かったような。
  毘の膳g


  「けずりもの(するめ)」(左)と「糠味噌煮」(鰯、なす、蒟蒻、筍)
 毘の膳h


  「戦国さしみ」 白身魚2種とくらげ。当時は醤油がなかったため、ずんだ(枝豆)酢または煎り酒につけていただきます。
 毘の膳d

  「炙り焼き」 焼いた鰯、合鴨、海老、里芋 ミニコンロの上で軽く炙り、「松の実味噌」(下の下の写真の黒米の右上側)をつけていただきます。
 毘の膳c

  「黒米」と「香の物」
 毘の膳a

   「胡桃浸し」 ゆでた野菜と胡桃を和えたものです。  
   毘の膳b

   「集め汁」いわゆる味噌汁です。出汁をとった小魚が野菜と一緒に丸ごと入ってます。
   毘の膳f

   「水菓子」季節の果物です。こちらでは「メロン」が出てきましたが、戦国時代には当然ありませんでしたがそこはご愛嬌。当時だったら、さだめし「瓜」になりますかね(笑)
   毘の膳e


 お店の方の話ですと、この「かちどき飯」は12年?くらい前から観光振興企画としてスタートしたのですが、当初周知がされず、せっかく食材を用意していても、注文ゼロの日が続き、泣く泣く廃棄していたそうです。
 3年前の大河ドラマ「天地人」の関連で広く紹介され、その年は多くの注文が入ったとおっしゃっていました。
 先述しましたが、「醤油」と「砂糖」不使用の料理ということで、健康にもよさそうな料理ですし、お財布にも優しい価格なのでおすすめです。


 上越市では協力店数店でこの「かちどき飯」をいただくことができます。
 詳しくは社団法人「上越観光コンベンション協会」(℡025-543-2777」へお問い合わせください。
 


  
より大きな地図で 大黒屋(高田ターミナルホテル内) を表示


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A☆六文銭

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日本100名城完全制覇と有名人の墓めぐり(掃苔)
日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

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