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豊烈神社 附・水野三郎右衛門銅像

 山形城址(霞城公園)の東側に、最後の山形藩主・水野氏を祀る豊烈神社があります。
 豊烈神社

 
 鳥居をくぐってすぐ右方に、水野家家老・水野三郎右衛門元宣の銅像が佇んでいます。
  水野元宣銅像

 戊辰戦争の折、山形藩〈水野氏)は当初官軍方に与しますが、官軍側参謀・世良修蔵の横暴さに憤慨した仙台、米沢の両藩の呼びかけに応じ、東北各藩とともに奥羽列藩同盟を結成し、官軍に抗することになりました。
 しかし、時経たずして同盟側の各藩が降伏するに及び、山形藩も後追いせざるを得ない状況に陥ります。折悪しく、藩主は江戸滞在で留守、山形藩の命運は若干27歳の家老・水野三郎衛門の肩にかかっていました。
 三郎右衛門は「山形藩の責任はすべて自分一人にあり、他の者には寛容の御処置を」との嘆願書を提出し、敗戦の責任を一身に背負い、長源寺の庭で処刑されました。
 三郎右衛門の死により、山形藩は戦火を免れ、後の人々は山形を救った人として彼を顕彰し、豊烈神社に合祀された他、明治34年には銅像が建てられました。第二次世界大戦時に銅像は金属回収のため供出されてしまい、現在のものは戦後再建された二代目だということです。
 
 「最上義光」歴史館の脇に、水野三郎右衛門邸跡の碑がひっそりとありました。
 水野元宣邸跡

 幕末の山形藩は5万石という小藩で、実質石高はこれよりさらに少なかったといいます。ですから、お城ばかりが大きい反面、他藩のように洋式兵制も編成できず、苦しい状況下に置かれていたことが窺えます。
 水野三郎右衛門の死は、維新期における小藩の悲劇ということが言えると思います。
 なお、山形市内にある長源寺というところに彼のお墓があると聞きましたが、今回は時間がなくて参詣できませんでした。



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駒姫の墓

 「最上義光の墓 附・最上家親・義俊の墓」のつづき 

 最上義光には「駒姫」(別名「お伊万の前」)という娘がいて、彼女は美女の誉れ高く、義光にとっても自慢の娘でした。
 天正19年、九戸政実討伐の折、豊臣秀吉の甥、秀次が帰路山形城に立ち寄った際、挨拶に出た駒姫を気に入り、義光に対して駒姫を自分の側室として差し出すよう命じたといいます。
 やがて15の歳を迎えた駒姫は、文禄4年(1595年)京へ上ります。ところが、夫となるべきはずの秀次は秀吉の怒りを買って、突如高野山へ追放され、切腹を命じられます。
 秀吉は秀次の妻子らにも処刑を命じますが、この中に駒姫も含まれていました。実はこのとき駒姫は、まだ秀次と対面を果たしていなかったという説もあります。
 この報に驚いた父・義光はかねてから懇意にしている徳川家康に娘の助命嘆願を行いますが、願いもむなしく、駒姫は秀次の妻妾らと共に三条河原の露と消えました。
 義光は娘の死をいたく嘆き、元は高擶村(現・天童市)にあった浄土真宗の寺を山形城下へ移し、亡き娘の菩提寺と定めました。

  専称寺(山形市緑町3-7-67) ※2007年撮影
 専称寺


 墓地の一番奥に駒姫の供養塔がひっそりとありました。(写真が少々暗めになってしまいました)
 処刑された秀次の妻妾の中で、駒姫は一番最年少でしたが、従容として死地についたといいます。
 駒姫の墓


 三条河原での処刑の日、駒姫は11番目に斬られ、遺骸は他の妻妾らと共に、河原に掘られた一つ穴に投げこまれました。
 駒姫の辞世の句
「罪をきる弥陀の剣にかかる身の なにか五つの障りあるべき」

 この辞世は駒姫愛用の着物で表装され、京都国立博物館に現存しています。下の写真は京都・瑞泉寺(豊臣秀次と妻妾の供養塔がある)で撮影した複製です。(※2008年撮影)
 駒姫辞世


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ジャンル : 旅行

ダメだわ、このオッサン・・・(日本終了のお知らせ)

    野田首相


 周知の通り、消費税増税法案が衆議院を通過してしまいました。
 おそらく、このままで行くと消費税が大幅にアップすることは確実でしょう。
 しかし、この長引く不況下で大増税となれば、ますます国民生活を圧迫することは目に見えています。

 消費税増税に意欲を燃やしていた上の写真のオッサンですが、もう少しまともな人かと思ったら就任早々財務省のお役人に丸めこまれるわ、しかも、IMFへ5兆円も拠出するのだと寝ぼけた事を言っているのですから、とても正気の沙汰とは思えません。おそらく、増税分をIMFへ“献金”しようと企んでいるのでしょうが、日本はIMFの財布ではありません。
 
 これで、旅行などもおいそれと出来なくなるでしょうし、更なる節約、倹約生活に励まなくては・・・。
 クルマなどの大型消費財も、今のうちに購入しておいた方がいいかもです。
 
 過去を振り返ると、消費税を最初に導入した故・竹下元首相や、税率を3%→5%にアップした故・橋本元首相などもその晩年は不遇でした。まさに「消費税の呪い」とでもいいましょうか。オッサン、貴方も他人事ではありませんよ。
 ここに書くのも虚しいのですが、景気回復の見込みもたたない今、残念ながら日本もじきに立ち行かなくなることでしょう。
 最後に民主党にも失望しましたが、これからは政党ごとではなく、個々の政治家単位で、彼らがどういう政策や志向を持っているのかで判断したほうがいいのかもしれない、などと考えたりしています。

 

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最上義光の墓 附・最上家親・義俊の墓

 山形市鉄砲町2-5-7にある曹洞宗・光禅寺
 羽州57万石の大名・最上義光(もがみよしあき)の菩提寺です。寺の案内板によると、慶長七年(1602年)に義光が大石田黒滝、向川寺九世春林禅寺冬和尚を拝請して山形城下・七日町に開創したのがはじまりとのこと。寺は掘を巡らした七堂伽藍が配されていたといいます。はじめ、「慶長寺」と称していましたが、徳川幕府が年号を寺号に使用することを禁じたため、「光禅寺」と改称しました。
 最上氏が三代で改易されると、山形には鳥居忠政が入部しましたが、光禅寺の建物を父の菩提寺として定め「長源寺」とし、光禅寺を城下の南部・三日町に移してしまいます。
 この時、最上義光および殉死した家臣四名の墓も一緒に改葬したということです。
光禅寺


 光禅寺は実は桜の名所として地元では知られているということで、この日朝早く墓参へ行ったのですが、すでにカメラを手にした人の姿がチラホラ見られました。
光禅寺2


 最上義光は天正15年(1546年)、最上義守の長男として生まれますが、父との折り合いが悪く、家督を相続するまでに苦労しています。
 近隣の小豪族との戦いに打ち勝ち、天正18年の豊臣秀吉による小田原攻めに際しては落城寸前ギリギリの段階で秀吉に拝謁し、所領を安堵されます。(奥州仕置)
 慶長5年(1600年)の上杉景勝攻めにあたり軍功を認められた義光は村山・最上・庄内、および秋田県由利郡の57万石を有する出羽山形藩の初代藩主となりました。

   最上義光銅像b

 義光は山形城および城下の整備を行いますが、晩年は家臣団の対立から長男・義康を謀反の疑いありとして暗殺、しかし後には長男を死に追いやった事を後悔し、義康を厚く弔っています。やがて、義光は病気がちとなり、慶長19年(1614年)1月に死去。享年69歳でした。
 最上義光の生涯については、「最上義光歴史館」のサイトをぜひご参照ください。


 義光の墓は奥の墓地にありました。江戸時代中は霊屋もあったようですが、明治27年(1894)の大火で堂宇と共に焼けてしまったようです。
最上義光の墓1

   最上義光の墓2


 私が最初に最上義光を知ったのは、中学時代に放映していたNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」で、俳優の故・原田芳雄さんが演じていたのを見たことからでした。
 よく知られているように、伊達政宗の母・義姫は義光の妹にあたりますから、義光と政宗は伯父・甥の関係になります。ドラマで描かれた義光は政宗のライバルとして、どちらかというと「悪役」として描かれていたように思いますが、原田さんが権謀術数にたけた義光を好演されていたのが強く印象に残っています。
 聞いた話では、当初最上義光役には故・松田優作さんがキャスティングされてましたが、松田さんが断ったため、原田さんにオファーが行ったということです。結果的にこの配役は成功だったといえるでしょう。

  
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 義光の墓の傍らには殉死した家臣(寒河江十兵衛、寒河江肥前守、長岡但馬守、山家河内守)四名の墓がありました。
最上義光の殉死者の墓


 そして、義光の次男で二代藩主の家親(右)およびその子の義俊の墓です。
 家親は若年の頃より徳川家康に近侍し、13歳で元服の後、家康の偏諱を受けて家親と名乗ります。その後は家康の子・秀忠の家臣として側近く仕えており、江戸の留守居役を命じられるなど、その功により秀忠より名刀を拝領しています。

 兄・義康が不慮の死を遂げていたため、最上家の家督を継ぎますが、家中には父・義光時代から根深い家臣団の対立がありました。家臣には弟の義親を支持する者もいて、家親は後に義親を自刃に追い込んでいます。
 元和3年(1617年)、家親は山形城にて36歳という若さで急死します。家親の突然の死は様々な憶測を呼び、家臣の家で馳走を受けた後苦しみだし、帰城したその夜に死んだという説や、能楽観賞後に腹痛をおこして死んだとする説、侍妾に刺殺されたという説などの風説がたったようです。
 
 家親の死後は息子の義俊が13歳で家督を継ぎましたが、家臣団の対立は依然として根深く、家中の内紛を治められないとしてこれを問題視した幕府より改易の沙汰が下り、57万石の領地は召し上げられてしまいます。その後、義俊は近江大森藩1万石に入封しますが、寛永8年(1631年)に亡くなりました。享年27歳。
 なお、義俊には義智という息子がいて、交代寄合として5000石を拝領し、家名は存続されました。
最上家親・義俊の墓


                           つづく

 関連記事 伊達政宗の墓 瑞鳳殿
        駒姫の墓(最上義光の娘さんです)


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山形城(三)

 先日書き忘れたので付記しておきますが、JR山形駅の南東400mくらいの場所に、山形城の三の丸土塁が一部残っています。
 ※2007年夏撮影 今回は夜通りかかりましたが、様子は変わっていませんでした。
 山形城三の丸土塁

 上の写真の裏手(歌懸稲荷神社)から見た土塁の様子。三の丸は広範囲に及びましたが、この辺りは家臣の屋敷地が多かったようです。
 山形城三の丸土塁
 
  山公ビル角バス停側
   
より大きな地図で 山形城三の丸土塁 を表示


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山形城(二)

 つづき

 二の丸の広場に石垣に使用された石が数個野外展示してあります。石垣には下の写真のように刻印が打たれており、調査によると60種類も見つかったそうです。この刻印は石垣造りに携わった石工集団を示すものと考えられ、鳥居氏在城時のものだそうです。
  山形城12

 この日、特設テント内で山形城の発掘調査に関する展示が行われていました。山形城からは下の写真ような「金瓦」が発掘されています。
 金瓦というと織豊系の城・・・たとえば安土城や大坂城で見られましたが、日本海側の城としてはきわめて珍しいということです。
  山形城3


 復元された本丸一文字門石垣。明治以降、堀と共に埋め立てられてしまっていました。
 この石垣の上にかつて櫓があったのですが、記録が残っていないため復元に至っていません。
山形城15


 下の写真は2007年に行った時のものですが、当時は工事中で立入禁止でした。
  山形城2007


 橋をわたって本丸内へ入ってみると、ご覧の通り。発掘調査中なのか所々シートがかかっていました。
 市では本丸御殿の復元を目指しているそうですが、古写真等の資料に乏しく、なかなか着工できないとのこと。
 ですから、山形城を写した古写真や立面図などの資料をご存知の方はお知らせくださいと掲示してありました。
山形城11


 本丸と二の丸を隔てる土塁と堀も大きい規模のものです。明治29年歩兵第32連隊が駐屯時に堀は埋め立てられてしまったので、近年掘り戻して復元しました。
 山形城16


 【感想】
 前回訪城時は雨が降っていて、かつ工事中の箇所が多く、二の丸東大手門と本丸一文字石垣だけ見て帰ってしまったので、全体を把握できませんでしたが、今回は土塁上を歩いてみて、改めてその規模の大きさを思い知った次第です。「100名城」に選定されたのも納得できます。
 最上義光は文禄慶長の役の時、堺や肥前名護屋に滞在中に書状で城普請について色々と指示を出しており、城の改修に並々ならぬ熱意を持っていたことがわかります。57万石にふさわしい城を築いておきながら、孫の代で改易されてしまったのを悔しく思っていることでしょう。
 行政側は史実に忠実な山形城の復元に意欲的な姿勢でいますが、いかんせん復元のための良質な資料が見つからなくて困っている模様です。これは、何度も転封が繰り返されていたため、各大名家に記録が残りにくかったものと思われます。まあ、無理に復元することもないのでは・・・と思いますけどね。
 なお、復元整備事業が進むと、公園内にある野球場もいずれ取り壊されるということです。

 なお、100名城のスタンプは霞城公園に隣接している「最上義光歴史館」や公園内にある「山形市郷土館」に設置されています。
  最上義光歴史館


   
より大きな地図で 山形城址(霞城公園) を表示



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山形城(一) 山形緊急城攻め八

 このところ、ブログ記事を書く余裕がなくて更新が滞っていましたが、ぼちぼち再開していこうと思います。

 今回ご紹介するのは山形県山形市にある山形城です。
 同じ山形県鶴岡市にある「鶴ヶ岡城」へ訪城した翌日になります。(過去記事⇒「鶴ヶ岡城その2」 のつづき)
 山形城は最上氏の祖・斯波兼頼が延文2年(1357年)に築いたのが始まりとされています。
 慶長5年(1600年)、関ヶ原合戦で東軍に与し、上杉景勝軍を退けた最上義光は軍功により村山・最上・庄内、および秋田県由利郡の57万石を有することになり、同時期に自らの居城を十数基の櫓を備えた大規模な平城に改修します。山形城の原型はこの時に築かれます。
 最上氏が藩内の内紛が原因で改易された後に鳥居氏が入封し、城門や堀などの大幅な改修を行っています。
 鳥居氏の後は親藩・譜代の城となり、短期間での転封が繰り返されますが、最上氏時代に57万石を誇った石高は大幅に減らされ、最後の水野氏はわずか5万石で入封しています。

 実は100名城のスタンプラリーが開始された5年前に一度来ていますが、その折はまだ整備工事中で入れなかった箇所が多く、今回再訪してみて、山形城の威容を再認識した次第です。
 この日、ちょうど桜がほぼ満開で、絶好のお花見日和だったのですが、あれからだいぶ日が経ってしまいました。すでに季節はずれの写真ですがご了承ください。

 山形城の模型 山形城は三重の堀がめぐらされ、東西約1.6km、南北約1.5kmの壮大な輪郭式の平城であり、本丸に天守は築かれませんでした。
山形城4

 
 平成3年に木造復元された二の丸東大手門。明和年間に入封した秋元家の御用大工の家に伝わった絵図をもとに復元したそうです。
山形城5


 東大手門前より、山形新幹線「つばさ」が走り去っていくのが見えました。
山形城2


 二の丸は公園として整備されています。
山形城1


 山形城を大改修した最上義光(もがみよしあき 1546~1614年)の銅像。勇壮な武将の姿がうまく表現されており、青空に映えてなかなか存在感のある銅像だと思います。皇居前の「楠公像」に似ていなくもないですが(笑)
 なお、義光については後述します。
最上義光銅像


 日清戦争後、山形城本丸、二の丸跡地に歩兵第32連隊が入りますが、日露戦争(1904~1905年)後、将兵らが凱旋記念として1000本の桜を植えました。現在、城址公園が桜の名所となっているのはこのおかげです。
  山形城13


 この日、東大手門の櫓の内部を公開していました。山形城の発掘調査や復元事業等についてパネル展示がありました。
山形城17


 この後、二の丸の土塁に登って、ぐるっと歩いてみることにしました。土塁上にも桜が何本も植わっているので、多くの人たちが花見がてら散歩を楽しんでいました。
山形城10


 北大手門跡。石垣が残っています。
山形城9


 西大手門跡。
山形城8


 南大手門跡。枡形を確認することが出来ます。
山形城7


 復元?整備された巽櫓の石垣。ベンチで休憩中の人たちがいたので、後方より遠慮しがちに撮影です。
山形城6


 かつて、土塁上には塀がめぐらされていましたが、発掘調査の結果、その礎石が確認できました。
   山形城14


  写真が多いので、続きます。

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ヨコハマ・ヨコスカ ストーリー -二つの港町の戦後文化-(神奈川県立歴史博物館)

 ※現在、多忙によりしばらくのびのびの更新となりますので、ご了承ください。

 神奈川県横浜市にある神奈川県立歴史博物館では、現在特別展
「ヨコハマ・ヨコスカ ストーリー -二つの港町の戦後文化-」を開催中です。
 ヨコハマヨコスカストーリー

 【展示趣旨】
 このたび、昭和20年代の戦後復興をふりかえる特別展「ヨコハマ・ヨコスカ ストーリー -二つの港町の戦後文化-」を開催いたします。
 太平洋戦争の末期、県内主要都市は大規模な空襲により、大きく荒廃しました。そして戦争終結以後、連合国軍が相次いで進駐を開始すると、横浜や横須賀は外国の町と見間違えるかのように外国人兵士の姿であふれていきました。戦争に敗れ食べる物や住むところもない人々にとって、彼らは別世界の存在であったことでしょう。また、彼らは音楽、映画、洋服、食物などの外国文化をもたらす存在でもありました。そして、その文化に人々は興味をいだき、受け入れながら、戦後復興の道を歩んで行きました。
 横浜・横須賀という二つの都市を舞台に展開した昭和20年代の様相を、音楽や映画、ファッションや食物などにまつわる資料約130点を通じて紹介します。本展を通じて、戦後復興の歩みについて理解を深めていただければ幸いです。



 先週、横浜の方に用事があり、ついでに“馬車道”で下車して見てきました。
 私は都内で育ったので、今回の展示のテーマである横浜や横須賀について馴染みがなく、たまに出かけるようになったのも大学時代以降だったのです。ですから、当初この展示にもあまり興味を引かれなかったのですが・・・。
 いざ見学してみると、面白く拝見させていただきました。
 ちなみに、展示タイトルは、企画担当者がかの「港のヨーコ、ヨコハマ、ヨコスカ~♪」より着想したとのこと。
 一階の展示室を入ってすぐにでかい「ジープ」が置いてあり、少々ド肝を抜かれましたが、これは個人のコレクターの方が所有しているもので、戦後追浜の工場で生産され、後にフィリピンへ移送されていたものを購入し、車検も通して公道でも走れるようにしたものだということです。
 同館の玄関からバックで搬入したという話でした。
 
 昭和20年(1945年)8月の敗戦後、間を置かずすぐに聯合国軍が上陸してきて、占領支配がはじまったわけですが、横浜や横須賀の人々は昨日まで敵国であった占領軍に畏怖の念を抱きつつも、やがて兵士たちが持ち込んだ「異文化」を吸収しはじめていくわけです。
 進駐軍の兵士たちが帰国する際、日本からの土産品としてシルクスカーフやブリキ製のおもちゃなどが生産され、これらは復興期の横浜の重要な産業として成り立っていたといいます。
 一方、横須賀でも“スーベニアショップ”(土産物店)が盛況であり、背中に龍などの派手な刺繍をほどこした「スカジャン」も兵士たちのリクエストから生まれたものだということです。(現物が展示してあった)
 背中のロゴはもともと「Japan」でしたが、後に客からのリクエストで「YOKOSUKA」と改められたそうです。

 こうして、二つの町は古いものと新しいものとが混在した、独特の異国情緒にあふれた町として発展していきました。

 それから、展示の後半でやはり横浜と横須賀を語る上ではずせない、音楽文化について取り上げられていました。
 二つの町とも進駐軍がいたせいもあって、戦中は敵視されていたポピュラーミュージック、とりわけJAZZ音楽が急速に広まっていったんですね。
 そこで、日本のJAZZ界の大御所であるテナーサックス奏者の原信夫さん提供の資料が多数展示されていました。
 原信夫さんといえば、ビッグバンド「シャープスアンドフラッツ(♯&♭)」を主催し、4年前に解散するまで、五十数年にわたりJAZZ音楽をリードしてきた方です。

 私は大学時代に、たまたま楽器を習っていた先生が♯&♭の楽団員だったので、何度か♯&♭のリサイタルを聴きに行ったことがありました。メンバーの方々の写真も展示されていましたが、私が習っていたころはまだお若かった先生も今ではすっかり老けてしまい、歳月の流れを感じました。

 最後の展示室で、♯&♭のナンバーが流れていて、懐かしくて思わず涙が出そうになりました。久しぶりに聞いたので、この展示室で30分以上時間を費やしてしまいました。
 図録の方には原さんのインタビューが掲載されており、戦後の音楽文化を知る上でも大変貴重なオーラルヒストリーであり、これだけでも読む価値がありました。
 
 下の写真は入口ロビーを写したものですが、原さん提供の♯&♭の赤い譜面台が並んでいました。
 ヨコハマヨコスカストーリー2

 バンドを解散してから4年ぐらい経ちますが、原さんご自身はご高齢にもかかわらずお元気で、2週間位前に奥様と一緒に見学に来られていたそうです。
 お元気な秘訣は、たぶんサックスを長年吹かれていて、肺が鍛えられているせいだと思います。
 私も社会人になってから、仕事で必要に迫られたためアルトサックスを1年くらい習っていたのですが、全然モノになりませんでした(涙) 

 なお、同展示は今週末17日(日)までの会期となっています。どちらかというと、ご年配の方向きの展示だと思います。

 
 
 
 
   神奈川県立歴史博物館
   神奈川県立歴史博物館


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戊辰戦争~慶応四年下野の戦場~(栃木県立博物館)

 このところ、野暮用で少々忙しいのですが、その合間をぬって先週栃木県宇都宮市にある栃木県立博物館へ行ってきました。同館では現在、企画展
「戊辰戦争~慶応四年下野の戦場~」が開催中です。(6月10日まで)
戊辰戦争

 【展示趣旨】
 下野は江戸幕府の聖地、日光を擁し、日光神領のほか、広大な幕領もありました。さらに下野の東には親藩の水戸藩、北には徳川将軍家の親族の名門、会津藩が控えています。下野は親幕府的地域や藩が多く、戊辰戦争で西国諸藩が次々に新政府側に立って参戦したのとは、少々状況が異なりました。
 この企画展は地域に残された様々な資料から戊辰戦争に下野の人々がどのように関わり、どのような形で明治時代を迎えたのかを改めてたどっていこうとするものです。

 慶応四年一月の「鳥羽伏見の戦い」で新政府軍が勝利したその翌月、新政府側は東山道・東海道・北陸道の三手に別れ東進を開始します。
 そのうちの東山道軍ですが、同年4月11日に江戸城が無血開城された後、江戸を脱走した旧幕府軍と交戦するに至り、下野が本格的な戦いの舞台となったのです。
 展示ではおおまかな戊辰戦争の概容と、下野というローカルな場所に特化した各藩の動向を示す関連史料を豊富に展示してありました。
 でも、下野の各藩は譜代も多かったのに、結果的に全部が新政府軍に恭順してしまうのですけどね・・・。地勢的にも仕方がなかったのかなあという気もします。
 古文書や絵図が圧倒的に多かったですが、その他にも戊辰戦争で使用された武器(主に銃関係)も特集し、外国から新式の銃を入手した新政府軍が旧幕府軍を圧倒していった武力格差も一目瞭然になっており興味深かったです。
 私もここ10年くらい全国を行脚していますが、4,5年前から栃木県内の戊辰関連史跡を巡っておりましたので、そのまとめという意味でもいろいろ勉強になりました。
 ただ欲をいえば、県内各所に戊辰戦争で戦死した人の墓を初めとして関連史跡がけっこうあるので、そういう所も出来れば写真パネル等で紹介してほしかったです。
 下野で旧幕府軍をうちやぶった東山道軍はこの後、東北方面へと進軍していきます。

 ところで、上の展示ポスター写真を見ていただくと、幕末を彩る二人のイケメンの肖像が写っていますが、左が会津藩の山川大蔵、右が新選組の土方歳三です。ちなみに、土方歳三は宇都宮の戦いで足を負傷し、その後会津へと転戦していきます。
 このポスター(&ちらし)の影響からか、展示には新選組ファンと思われる若い世代の方の姿がちらほら見受けられました。とてもセンスを感じさせるポスターだと思います。
 会期が今週末までとなっているので、幕末史に関心のある方は是非ご覧になられると良いと思います。


   栃木県立博物館 宇都宮市睦町2-2
  栃木県立博物館

 
 
 

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【駅弁】やまがた花回廊弁当(JR山形駅)

 米沢城で花見を楽しんだことは先述しましたが、この日はお天気だったため、あらかじめJR山形駅で購入しておいた駅弁で「お花見弁当」をいただくことにしました。

 その名も「やまがた花回廊弁当」(1000円) 調整元は新杵屋さんです。
 パッケージもピンクを基調としてかわいいイラスト入り、春らしい印象です。
  やまがた花回廊弁当1


 鶴岡では雨天のため外でお弁当を食べられなかったので、今回はワクワクしながらさっそく紐を解いて、中をあけてみますと・・・豪華な二段重ね!
 中身はこんな感じです。
  やまがた花回廊弁当2


 (左)さくらご飯と牛肉ご飯・塩引き寿司・さくらんぼ漬け・すいか漬け・蔵王漬けそうめんかぼちゃ
 (右)山形牛と椎茸の串焼き・たらの芽の天元豚ベーコン巻き・野菜の板麩巻き・そば団子・桜葉生麩・山菜の天ぷら・厚焼き玉子・かまぼこ・にしん煮・山形のいも煮と玉こんにゃく
 素材に県内の特産品を使い、見た目豪華なのもさることながら、とにかくボリューム満天です。おかず類が豊富ですし、味付けも飽きのこない味わいとなっています。

 最後に、容器の片隅にこんなものが・・・
  将棋の駒!?いえいえ、実はこれ「将棋もろこし」 落雁みたいな堅めのクッキーみたいな食感でした。将棋の駒といえば「天童」が有名ですから、それにちなんだお菓子でしょう。
 私は「銀将」でしたが、一方うちの主人は「王将」が出てきました~♪
  やまがた花回廊弁当3

 「やまがた花回廊弁当」はこの春の新作駅弁だったみたいですが、これはかなりヒットです。山形県内の駅弁はいろいろ工夫が感じられて、個人的にはポイント高いです。(^ω^)♪
 季節限定なのかわかりませんが、山形新幹線の発着するいくつかの駅の売店で置いているようです。もし見かけたら、ぜひ味わってみてください。十分満足していただけるハズです。


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テーマ : これは美味い!!
ジャンル : グルメ

米沢城(山形緊急城攻め七)

 米沢城の歴史は古くは鎌倉時代にさかのぼるとの伝承がありますが、はっきりしません。
 天文年間(1532~1555年)、伊達稙宗・晴宗父子の間で一族・周辺氏族を巻き込んだ「天文の乱」が勃発しますが、後に和睦し、天文17年(1548年)晴宗は陸奥西山城より本拠を米沢城へ移し、城と城下町を整備しました。
 天正19年(1591年)、豊臣秀吉の命により蒲生氏郷が42万石で配されると、伊達政宗は岩出山へ転封し、伊達氏の米沢支配はここで終わります。
 慶長3年(1598年)、上杉景勝が会津120万石で入封すると、家臣の直江兼続が城の改修を行ったといいます。
 ところが、慶長5年(1600年)、関ヶ原合戦で西軍に属した景勝は戦後30万石に減封られ、米沢へ移されますが、この後二の丸を普請し、そこに居館を置きました。
 慶長13年より城の本格的な整備が行われ、三の丸及び外堀の造営、本丸・二の丸の改修が行われました。幕府への遠慮もあり、石垣は築かれず、天守も建設されませんでした。
 松川の西岸扇状地に立地する米沢城は本丸を二の丸が囲み、さらに三の丸が囲む輪郭式の平城となっています。本丸には明治以降、「上杉神社」が鎮座しています。
 観光的には、JR米沢駅よりやや遠い(歩いて30分、車で10分強)のが玉にキズです。

 米沢へは昨年もこの時期に2度来ていますが、桜の開花前と開花後でちょうど満開の時期を逃してしまいましたので、今年は桜開花が例年より遅れたこともあり、7分咲きくらいで見ごろだったのが嬉しかったです。
 やはり、一年を通して桜の時期が最も観光客で賑わいますし、撮影より一月経過してしまいましたが、春の名残を感じていただけますでしょうか。

米沢城e

米沢城f



 毎年恒例の「上杉まつり」を翌日に控えており、城址付近にはたくさんの出店が並んでいました。
米沢城b


  たなびく「龍」の旗印
  米沢城a


 参道にある米沢藩・中興の祖、上杉鷹山の像。ここで記念撮影する人も多いです。
 上杉鷹山


 その向かい側の広場にある上杉謙信の像。この写真を撮影していたら、近くにいたカップルに「すみませんが、カメラのシャッター押していただけますか」と言われました。やはり人気があります。
 上杉謙信像

 
 昨年設置されたばかりの、「天地人」直江兼続(右)、上杉景勝の像。
 造った方には申し訳ありませんが、見ていると観光客の反応はイマイチな印象(存在に気づかず、スルーしている人たちも多い)銅像設置にあたっては、それぞれ単独で造ればよかったのに・・・と個人的には思います。
直江兼続・上杉景勝像


 「伊達政宗生誕の地」の石碑 奥州の雄・伊達政宗はこの米沢城にて出生しました。
米沢城d


 参道の左手の土塁を上がると、かつて上杉謙信の遺骸が葬られていた祀堂跡があります。明治以降、謙信の遺骸は上杉家廟所へ改葬されました。周囲では大学生ぐらいの若い人たちがシートを敷いて、花見に興じていました。
米沢城g


 上杉謙信祀堂跡より眺めた伝国の杜・上杉博物館。
 かつてここには真言宗の20の寺院があったとされ、発掘調査の結果大乗寺など8寺院が確認されました。その跡地に博物館が建てられました。
 なお、明治以降大乗寺の僧侶が還俗して神官となり、その子孫が上杉神社の宮司をされています。
上杉博物館B



 明治9年、旧本丸奥御殿跡に設けられた上杉神社。日頃は閑散としていますが、この日は参詣者が行列していました。
上杉神社


 上杉神社の右手奥にある宝物館「稽照殿」。ここには有名な直江兼続の「愛」の前立付兜や、上杉氏ゆかりの品々が納められています。
稽照殿


 昨年3月の震災で建物が被害を受けたため数ヶ月にわたり休館していましたが、現在第一展示室のみ公開しています。(この日は時間がなかったので見学しなかった)
 稽照殿2


 本丸南西隅に鎮座する春日神社。上杉鷹山が学問・武芸に励むことや、行動や賞罰に不正の無いこと等を誓った誓詞を奉納しました。
春日神社


 本丸南にある菱門橋。この景色も桜の時期ならでは。この橋の右手にかつては馬出が設けられていました。(現存せず)
米沢城c



 前日行った鶴ヶ岡城と比較するとやはりこちらの方が一回り小規模な感じがしました。

                   つづく


過去記事   ご当地キャラ♪「かねたん」
         【駅弁】牛肉どまん中 「花の慶次」ヴァージョン(JR米沢駅) ※昨年4月来訪時の記事



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日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
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東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

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