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山形緊急城攻め2012(桜が見頃です)

 先日~今日と一泊二日で、山形県へ行ってきました。そのうち三箇所を巡りましたが、ちょうどが見ごろを迎え、東北にも遅い春がやっと来たという感じでした。
 今年は体調不良のため東京で花見が出来ませんでしたので、遅くなりましたがやっと桜を楽しめました。
 GWに突入しましたし、地元や近県の方はどうぞお運びいただきたいと思います。

【鶴岡】
 昨日行ってきました。鶴岡は初めての訪問です。
 下の写真は鶴ヶ岡城・・・庄内藩14万石のお城です。桜がほぼ満開で、あいにく途中で雨に見舞われました。すでに散り始めている所もありました。お花見にはこの2~3日が勝負と思われます。
 鶴ヶ岡城2012


【山形】
 今日の午前中行ってきました。桜がほぼ満開です。山形城(日本100名城)へは2度目の来訪ですが、あまり桜が美しいので感動して思わず涙が出てきました。今年は36年ぶりの大雪だったそうで、やっと遅い春がやってきました。今日は気温も上がり、絶好のお花見日和。撮影に熱中し、途中で時間が足りなくなってしまいました。
 現在、二の丸東大手門(復元)内部公開中です。
 山形城2012


【米沢】
 今日の午後行ってきました。米沢城のお堀端の桜は7~8分咲きといったところ。今年は桜の開花が遅れたためGWに花見が楽しめます。
 明日29日より恒例の「米沢上杉まつり」が開催されます。(5月3日まで)
 米沢城2012


 ※史跡等の詳細は来月アップ予定です。


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テーマ : 国内旅行
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将軍家光のご落胤

 増上山広度院大善寺はもともと小早川隆景の居城・新高山の麓にありましたが、隆景が三原城に拠点を移したことに伴い、寺も三原城下へ移転しました。この寺は隆景夫人“問田の大方”の菩提所でしたが、彼女は隆景亡き後、毛利氏の転封に伴い山口へ引越し、そこで亡くなったのでここに墓はありませんん。
 大善寺

 その代わりといってはあれですが、寺の境内に三原浅野家第四代・浅野忠義の母・月渓院の墓があります。
 月渓院は実は三代将軍・徳川家光の「ご落胤」だということです。
 墓は塀で囲まれ、一般人が入れないようになっていました。
 月渓院の墓1

 伝えられた話だと、なんでも月渓院は江戸城中でひょんなことから三原浅野家第三代・浅野忠真と出会い、彼に「一目ぼれ」したのだとか。忠真にはすでに正室がいたにもかかわらず、彼女のたっての願いにより、忠真の許へ側室として輿入れしたということです。いわば「押しかけ女房」ですね。後に月渓院は跡継となる息子の忠義を生みました。
 その話を裏付けるように、大善寺は徳川家より5000石の化粧料を受けていたといいます。

 この徳川家光の落胤の話はあまり世の中では知られていないのではないでしょうか。将軍の姫君が「認知」されず、大名ではなくて陪臣のもとへ嫁ぐというのもイマイチよくわからない話です。
 その昔、「三原には過ぎたるものが3つある。3万石にふさわしからぬ大きな城(三原城)、葵の紋所大段幕、そして過ぎたる智者鈴木方衛(日光東照宮の難工事にあたった)」といわれていたそうです。このうち、2番目の「葵の紋所大段幕」がこの大善寺と月渓院にあたります。
  月渓院の墓2

 
 ※すみませんが、所用のため2~3日お休みさせていただきます。

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三原浅野家の墓

 元和5年(1619年)、広島城を無断で改修したとして福島氏が改易されると、替わって紀州より浅野家が42万石で入封します。そして、三原城には筆頭家老・浅野忠吉が入り、以後明治維新まで浅野氏が代々城主を務めました。
 今回紹介するのは、三原浅野氏の菩提寺・無量山正寿山妙正寺(日蓮宗)です。

 妙正寺はJR三原駅の北西にあります。急な坂をひたすら登っていきます。坂の右側は桜並木となっており、その風景を写生している人がいました。
 妙正寺1

 
 山門に着きました。
 妙正寺2


 このお寺は桜の名所で有名みたいです。この日、境内の桜がほぼ満開だったのでカメラ片手に参詣されている方の姿もちらほら。
 妙正寺3


 三原浅野家の墓地へ。門扉の鍵が閉まっており、中へ入らせていただきたかったのですが、あいにくこの日、本堂で声楽のリサイタルが行われており、中から女性たちの声で滝廉太郎の「花」が聞こえてきます。「春のうららの隅田川~♪」という有名な歌です。
 叙情あふれる美しき日本の歌。「もののふの心」と共に、大切に後世へ伝えていきたいものです。
  


 お寺の方たちもイベントでお忙しそうだったので声かけは遠慮しました。
 最近はお寺でも法要以外のイベントを色々やってますね。
 しかし、私の場合「花より墓」のため、仕方がないので墓地の裏手から撮影&合掌 
 歴代のお墓が良好な形で残されています。
 妙正寺4

 最近新しくお読みいただいている方、どうも有難うございます。申し遅れましたが、私はここ数年ほど、全国を墓参りで行脚しております。もともと墓参りがメインでしたが、最近はお城の方にもシフトしています。宜しくお願いします。

 ところで、妙正寺さんのある付近は三原でも桜の名所みたいで、すぐ近所の公園も桜が満開。地元の方たちがのんびりとお花見を楽しんでいました。
 私も正直、もう少し花見を楽しみたかったのですが、まだまだ廻らねばならない箇所があり、後ろ髪引かれる思いで春爛漫の公園を後にしました。
 妙正寺5


                 
                       つづく

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福島正之の墓/浅野忠長の墓/宗光寺七重塔

 よみがえる「小早川隆景」像 のつづき

 三原の宗光寺で小早川隆景の修復された肖像画を見学した後、本堂の左側にある墓地で墓参をしました。


 福島正之の墓

 福島正之(1579~1601年)は「賎ヶ岳の七本槍」の一人である福島正則の養子(正則の姉の子)です。正之は関ヶ原合戦においても軍功を挙げ、合戦後に正則が広島に入封した際には三原城に正之を配しました。
 ところが、後に正則の実子・正勝が生まれると、次第に正之は正則から疎んじられるようになり、ついには正則が駿府にいた徳川家康の許へ正之が乱行に走ったと申し立てたため、正之は幽閉され、その後すぐに死んだといいます。その実は正則によって殺害されたようです。時に正之23歳。哀しい逸話の残るお墓だと思います。法名:宗光寺殿天英公大禅定門

 正之は徳川家康の養女・満天姫(実は下総関宿藩主・松平康元娘)を妻にしていましたが、短い結婚生活の間に一子をもうけていました。夫の死後、満天姫は家康の命により正之の忘れ形見を連れ子して、津軽信牧に再嫁、数奇な運命を辿りますが、その話はまたいずれかの機会に。(青森県弘前へ行った時、満天姫の墓参りもしております)
   福島正之の墓

 

 浅野忠長の墓

 元和5年(1619)福島正則が広島城を修理した事を幕府から咎められ改易後、広島には浅野家が入封し、三原には家老の浅野家が入ります。
 浅野忠長(1592~1660年)は三原浅野家第二代、甲斐守と称す。忠長は慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、翌年の夏の陣ともに参陣しました。
 元和8年(1622年)頼兼新開、正保元年(1644年)横山新開を拓く。寛永6年(1629年)、同14年(1637年)には糸碕八幡宮を修理しました。
  浅野忠長の墓

 
 宗光寺七重塔
 
 大工「心阿」の銘が残る鎌倉時代の石塔。斉藤五、斉藤六(「平家物語」に出てくる斉藤実盛の息子)のいずれかの供養塔だと伝えられています。
 この日、周りの桜がきれいでした。
   宗光寺七重塔


   
より大きな地図で 宗光寺 を表示



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毛利家の至宝~大名文化の精粋~(サントリー美術館)

 東京・六本木にあるサントリー美術館では、現在サントリー美術館・東京ミッドタウン5周年記念として
「毛利家の至宝~大名文化の精粋~」展が開催中です。(5月27日まで)
 毛利家の至宝

 【展示趣旨】
 東京・港区にある「東京ミッドタウン」建設地は、旧防衛庁跡地として知られますが、遡れば江戸時代当時、長州藩毛利家の下屋敷があった由緒ある土地でした。今回の展覧会は、山口県防府市にある公益財団法人 毛利報公会(毛利博物館)の特別協力を仰ぎ、毛利家ゆかりの宝物の中から、毛利家の基本史料である文書類や、肖像画、甲冑武具、調度類、華麗な能装束、茶道具を中心に、かつて毛利家に伝来した貴重な作品も併せて、絵画・工芸の名品を一堂に展示します。
とくに会期中は、室町時代の水墨画の巨匠・雪舟等楊が描いた国宝「四季山水図(山水長巻)」の全長を一挙公開し、存分にご鑑賞いただける貴重な機会となります。
 毛利元就(1497-1571)や毛利輝元(1553-1625)に代表される毛利家の歴史を辿りつつ、そのゆかりの美術作品を通して、江戸時代の大名がはぐくんだ文化の精粋をご堪能いただければ幸いです。



 このところ、毛利元就の三男・小早川隆景の史跡を辿ってきましたので、この展覧会の情報を聞き、まさに「渡りに船」といった感じで先週見に行ってきました。
 上記の展示趣旨にある通り、サントリー美術館のある「東京ミッドタウン」の土地は江戸時代、長州藩毛利家の下屋敷があったという所縁から、このたびの展覧会開催に至ったということです。
    東京ミッドタウン

 
 今回の展示では雪舟筆の国宝「四季山水図(山水長巻)」が展示の一番の目玉ということでしたが、私は10年前東京国立博物館で開催された「雪舟」展で一度見たことがあったので、それほど大きな感慨はありませんでした。しかし、東博で見た時はものすごい混雑で、芋を洗うような状態で見たので、今回は比較的ゆっくり観賞できたと思います。毛利博物館では長らく「門外不出」としてきたこの作品、水墨画の深遠な世界を間近で味わえるまたとない機会であることは確かです。

 今回の展示は開催地の「六本木」にちなんで、6つの章立てになっていました。
①戦国武将の雄 毛利元就から輝元まで
②「山水長巻」の世界 雪舟と水墨画
③受け継がれた美意識 毛利家の典籍と絵画
④暮らしにみる大名文化 婚礼調度と雛飾り
⑤能楽と茶の湯の世界 毛利家ゆかりの道具類
⑥毛利家と江戸麻布屋敷 近世から現代へ

 このうち、私が一番注目したのは、やはり①の毛利元就・輝元に関する部分でした(笑)

 展示室を入りまして真っ先に目に入ったのが、毛利元就所用の「色々威腹巻 兜・大袖・喉輪付」(重要文化財)、そしてその後方にある毛利元就の肖像画(重要文化財)でした。
 先日、三原で息子の小早川隆景の肖像画を見てきたばかりでしたので、今回父・元就の肖像画に接し、やはり親子だなあと(笑) 隆景は父・元就の資質を最もよく受け継いだといわれますが、両者の風貌は特に目元がよく似ておりました。

 それから、その並びには長男の隆元が描いたという自画像の下絵がありました。この隆元という人、父の威光が強かったせいか武将としてはイマイチの評価ではあるのですが、実は非常に絵を描くのが上手く、芸術的才能があった人です。(第三章のところで、隆元筆の絵が展示されています)

 それに続いて、有名な「三矢の訓」の逸話の元にもなった「三子教訓状」が展示してありました。
 これは、弘治3年(1557年)11月25日、反毛利氏の一揆を制圧するため、周防国富田に出陣した元就が、三人の息子・毛利隆元、吉川元春、小早川隆景に与えた自筆の書状です。
 実は、隆元、元春、隆景の三人の兄弟仲はあまりしっくりいっていなかったんですね。特に元春、隆景はそれぞれ養子先の事情もあり、どうしても実家のことは後回しといった風があったようです。
 その三者の関係を憂慮した元就が、毛利家存続のためには三家の結束が何よりも大事だということを繰り返し諭しているんですね。
 この書状からわかることは、元就は手紙をうまく使って、子供たちとのコミュニケーションを密に取っていたという事です。そして、それには多分に教育的内容も含まれていました。元就の神経の細やかさが窺い知れます。
 そして、長男隆元の早世後は、隆元の子・輝元へも元就は幾度となく書状を送り、訓戒を与えています。

 それから大分後の事になりますが、輝元はなかなか世継に恵まれず、40すぎてからやっと秀就をもうけます。しかし、秀就というのが輝元以上に凡庸な人物で夜更かししては遊びほうけていたため、執務にも支障が出るほどだったといいます。
そこで、輝元はわが子に宛てて、書状で藩主としての心構えを諭すのです。今回の展示で、晩年の輝元が日常的に使用していたという「眼鏡」が出品されていますが、おそらく秀就に宛てて文を認める際にも用いたことでしょう。
 父から子へ、子から孫へと受け継がれていった毛利家の教育の有り様がうかがえる話です。

 その他、豊臣秀吉が臨終の際、五大老に宛てて「秀より(秀頼)事たのみ申候」と書いた有名な遺言状の写しが展示されていました(重要文化財)。
 これは、徳川家をはじめ、前田家、上杉家(宇喜多家は改易されたので仕方ありませんが)にも伝わらなかった貴重なものです。(おそらく、この三家では内容が内容だけに、早い時期に廃棄してしまったものと思われる)
 それから、徳川家康が毛利輝元・秀就親子に宛てて認めた周防・長門二カ国の所領安堵を明記した、「関ヶ原」後の慶長5年10月10付起請文(重要文化財)は、他家には与えられなかった非常にレアなものなので是非注目していただきたいです。(関ヶ原合戦に勝利したものの、この段階では家康はまだ豊臣政権下の筆頭大老であったため、自分の立場を明瞭にする書類を一切発行しなかった微妙な時期でした)
 この起請文は、家康からの「お墨付」ということで毛利家としても大切に扱い、江戸時代中は江戸の屋敷だと火災で失われる懸念があるため、領地の萩城内にて厳重に保管されていたといいます。

 これらの文書は資料集などでは目にしていましたが、原本を見たのはこれが初めてでしたので、何度か往復してしっかり目に焼き付けてきました。

 それと残念ながら、というか当然のことながら、「両川」の吉川元春や小早川隆景に関するものはほとんどなかったのですが、父・元就と元春、隆景の短冊和歌が3軸並んであったので、親子の絆を感じたというか、これだけでも見ることができて幸いでした。

 この日はやや混雑していたということもあり、結局全部見終わるのにたっぷり2時間以上かかってしまいました。後半のほうは能関係や茶道関係など私にはあまり馴染みがなく私の浅薄な知識では語ることは出来ませんが、きらびやかな大名道具の美を是非堪能していただきたいものです。
 会期は5月27日(日)まで。なお、5月9日より後期展示替があります。

 その他見所
 ★古今和歌集巻第八〈高野切) 国宝
 ★史記(呂后本紀第九)   国宝
 ★菊造腰刀   国宝
 ★紅萌葱地山道菊桐文様片身替唐織(毛利輝元が豊臣秀吉から拝領) 重要文化財


 ※同展示の混雑状況ですが、私は2度見学しましたが、なるべく夕方を狙って行かれることをおススメします。(正午すぎから15時頃まで年配の主婦っぽい人が多く、そういう方々は夕方近くになると帰宅の途に着きます)

 
 ※次の記事はまた三原の話に戻ります。

 参考サイト サントリー美術館

 過去記事 南蛮美術の光と影(サントリー美術館)


   開館時間 10:00~18:00(金・土は20:00まで開館)
  
より大きな地図で サントリー美術館 を表示


 
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よみがえる「小早川隆景」像

 今回の広島県三原の旅の一番の目的は、実は小早川隆景の肖像画が特別公開されるというのではるばる遠方からやってきました。

 泰雲山宗光寺 (曹洞宗)
 この寺はかつて「匡真寺」(臨済宗)といって、隆景が父・毛利元就、母・妙玖夫人の供養のために新高山城内に建立した寺でした。後に新高山から三原城下の現在地へ引っ越しました。
 
関連記事 新高山城(二)
       新高山城(三)

 関ヶ原合戦後、新たに安芸・備後を領することになった福島正則によって曹洞宗に宗旨替えさせられ、現在に至ります。
 なお、山門は新高山城の大手門を移築したものと伝わります。(国指定重要文化財)
 宗光寺1
 宗光寺2

 
 実はこの寺には小早川隆景の紙本著色の肖像画が眠っており、約10年前に寺で発見されました。2009年に三原市教育委員会が調査したところ、傷みが激しく上半分はほぼ失われ、かろうじて隆景の顔と胴体の部分の絵だけが残っている状態でした。
 昨年4月より1年かけて京都の業者のもとで修復作業が行われ、今回の特別公開という運びになりました。
 拝観には事前申し込みが必要でしたが、約170人ほどの応募者があったということです。
 
  宗光寺4

  特別公開にあたり、修復作業にあたった京都・墨仙堂さんによる修復作業の経緯説明と、広島大学大学院の本多博之氏による解説が行われました。
  宗光寺3

 
 肖像画そのものは文化財のため撮影不可だったので、現物をご紹介できないのが残念です。しかし、専門業者さんの手により、現状を損なわない形で隆景の肖像画が蘇り、最新技術の見事さにはつくづく感心させられました。
 現物写真が中国新聞のサイトに出ていましたので、詳しくはそちらをご覧ください。(リンク切れご容赦)

 小早川隆景画像を特別公開へ(2012年3月10日付中国新聞)
  
 特別公開での説明にもありましたが、宗光寺の隆景像は、隆景の墓がある米山寺(※過去記事 「小早川隆景の墓」参照)が所蔵する「絹本著色 小早川隆景画像」(国指定重要文化財)とかなり酷似しているということで、同じ下絵を元に作成されたか、あるいは一方を模写したものではないか、と考えられるといいます。

 いずれも隆景の晩年を描いた寿像で、聡明で落ち着きのある風貌が見てとれました。それと、目元が父・毛利元就によく似ているように私には思われました。
 周知の通り、小早川家は隆景の跡を継いだ養子の秀秋の代で断絶してしまい、宗光寺にあった隆景像も日の目を見ることなく、400年もの間忘れさられており、現代に隆景像が鮮やかに蘇ったことは隆景ファンとしてはとても嬉しく有難いことでした。

 今回貴重な文化財を間近で拝見させていただくことが出来、遠路やって来た甲斐がありました。

                福島正之の墓/浅野忠長の墓/宗光寺七重塔 へつづく


 参考サイト 宗光寺蔵 小早川隆景画像を市重要文化財に指定しました(三原市教育委員会)


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【駅弁】三原城址で「浮城弁当」を(JR三原駅)

 JR三原駅は、かつてお城の天守台のあった所に築かれたという話は先述しました。
 天守台には上ることが可能です。

 駅の改札を出て右手に行くと天守台への入口があり、そこを出て階段を登ると。。。
 三原城天守台2


 天守台へ着きました。かつてここには「天守」は築かれず、多門櫓と連結した二重櫓がありました。
 三原城天守台1


 天守台には桜が2本植えてありました。(向こう側は三原駅) 根元にはブルーシートが敷かれており、誰かがここでお花見しようとしてたみたいです。
 三原城天守台6


 城主であった小早川隆景の気分になりきって、天守台のへりから外を眺めてみます。城の北東。
 三原城天守台3

 北側。桜山が遠望できます。
 三原城天守台4


 北西側。現在、堀端は整備中なようです。堀の水が濁っていて汚かったのが少々残念です。
 三原城天守台5


 天守台は小さな公園みたくなっており、ベンチがありましたので、ここで朝食にすることにしました。この日、早朝にホテルを出て、何も食べていなかったんです。
 三原駅改札外のコンビニで買った駅弁・・・その名も三原城にちなんだ「浮城弁当」(1050円)。
 調整元は先日紹介した「元祖珍辨たこめし」や「あなご重」と同じ、「浜吉」さんです。
 掛け紙には城の絵が描かれていますが、お城をモチーフにした駅弁というのは全国的にも珍しいのではないでしょうか。
 浮城弁当1


 中身は至って普通の幕の内です。
 白いご飯に梅干。おかずは、焼き鮭、かまぼこ、ボール、卵焼き、海老天、煮筍、レンコン、から揚げなどが入っていました。
 個性はありませんが、ボリュームはけっこうありました。味も合格点だと思います。
 浮城弁当2

 空腹を満たしたところで、三原城下を歩いてみることにします。
                                             つづく


 関連記事 【駅弁】あなご重/元祖珍辨たこめし(JR福山駅)


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三原城

 戦国時代、中国地方の雄であった毛利元就の三男で、「毛利両川」の一方の要として毛利本家を支えた小早川隆景(1533~1597年)についてもうしばらく続けます。

 
 JR三原駅。山陽新幹線の停車駅ですが、いつも通り過ぎてばかりで今回初めて下車しました。
 実はこの三原駅、小早川隆景が築いた三原城の跡地にあるのです。
 かつての城跡に鉄道が敷かれた例としては、他にもJR長岡駅(新潟)、JR甲府駅(山梨)、JR福山駅(広島)がありますが、三原駅の場合、三原城の天守台に線路が通っているのが特徴です。
 下の写真は南口の方ですが、駅の北側に石垣が残っているので見てみることにしましょう。
 JR三原駅


 
 城跡を見る前に、三原駅改札外構内に三原城のCG映像を見られる映像BOXがあります。実は三原城の遺構はほとんど残っておらず、ほとんどが市街地になってしまっているので、これを見ておくと城の全体イメージが把握できるかと思います。
   DSCF8984.jpg

 
 南口外壁にあった三原城を描いた絵。(クリックで拡大)
 
 先述した新高山城に本拠を置いていた小早川隆景でしたが、永禄10年頃から「三原浦」と呼ばれていたこの地に新たに城を築きはじめます。水軍を率いていた隆景は、軍事面や交易の観点から瀬戸内航路の完全掌握を目指しており、「小早川警個衆」の新たな基地を置く必要性に迫られていたのです。
 城は湾内にあった大島小島をつなげて築かれ、主郭<本丸)は大島にあったといいます。沼田川が瀬戸内海に注ぐ河口デルタ(三角州)に城は築かれたわけです。(毛利輝元の広島城も同じような三角州に築かれています)
 その姿は海に浮かぶように見えたので、別名「浮城」とも呼ばれました。豊臣秀吉や徳川家康も三原城に宿泊したことがあり、大いに感嘆したといわれます。
 三原城7

 
 江戸時代の三原城の絵図。(現地案内板より クリックで拡大)
 三原城8

 

 駅のガード下にある三原城天守台の石垣。この風景は全国広しといえども三原城だけ。
 三原城1



 天守台上から見た三原駅。
 三原城6



 三原城の石碑と案内板。石垣は「あぶり積み」という工法で築かれました。毛利氏にはお抱えの石垣職人集団がいたので、多分その系統かと思われます。
 石垣に使われた石は、新高山城からの転用だという話は先述しました。
 三原城3


 
 北東側から見た三原城天守台。かつては石垣の上に多門櫓で連結した二重櫓がありました。
 三原城4


 明治27年(1894年)、日清戦争が契機となり、物資輸送のため城を貫いて山陽本線が築かれました。
 三原城2


 石垣の向こうに見える桜山には、かつて「甲の丸」と呼ばれた砦があったといいます。
 三原城5



 三原駅西口前広場にある小早川隆景の石像。
 文禄四年(1595年)、養子の秀秋に家督を譲った隆景は、三原城を隠居所と定めて暮らしたわけですが、現在の城のあまりの変わり様には冥界の隆景もびっくりでしょう。
 生涯戦いにあけくれた隆景としては、眼前に広がる海を眺めながら余生を送りたかったのかなあと私には思われました。
 小早川隆景石像


                           つづく

  
より大きな地図で 三原城 を表示



 関連記事 新高山城(一)
        小早川隆景の墓

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【駅弁】あなご重/元祖珍辨たこめし(JR福山駅)

 閑話休題・・・。
 今回の山城攻めですが、恒例の駅弁にすることにしました。
 一般的には駅弁は列車内でぱくつくものだと思いますが、私の場合、城跡で食べることも少なくないです。

 JR福山駅改札内売店
 ここには老舗の調整元「浜吉」さんの駅弁が各種販売されています。
 「浜吉」さんは福山の業者さんかと思いこんでいたら、実は今回行った三原の業者さんでした。  
 JR福山駅駅弁売店

 私は福山へ来る度に「浜吉」のロングセラー駅弁である「元祖珍辨たこめし」を買っていたので、今回は気分を変えて、あえて別のものを購入することに。

 広島名物「あなご重」 950円也
 広島名物「あなご重」1
 広島名物「あなご重」2

 ご覧のように、煮あなごが三切れほどご飯の上にのっています。つけ合わせはカブの漬物、小さな卵焼き、煮豆でした。
 感想は・・・。

 ちょっと味が薄いという感じでした。可もなく不可もなく、という感じです。やはり、アナゴとご飯が大半だと途中で飽きてきますね。

 一方、主人は「タコ」が好物ですので、今回も迷わず「元祖珍辨たこめし」をチョイス。写真を撮る前にすでに食べはじめていたので、過去写真よりアップします。

 元祖珍辨たこめし1
 元祖珍辨たこめし2


 ご飯の上にプリプリのタコ、錦糸卵、海老、山菜、漬物、うずら、椎茸、タケノコ、柴漬けなどが色々のっていて賑やかです。私は主人と同様、コチラにしておけばよかった。。。と少し後悔。
 さすがに、50年以上の販売実績を誇るロングセラー駅弁であります。もはや定番の味ですね。


 なお、本当は城の頂上でランチタイムにしたかったのですが、今回は登るのに困難が予想され、荷物を極力減らすために麓の駐車場にていただきました。


 関連記事 【駅弁】三原城址で「浮城弁当」を(JR三原駅)


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新高山城(四)

 新高山城(三)のつづき

 内容が少々長くなってしまい、すみません。今回で最後です。


 本丸から北側にある「釣井の段」(井戸郭)を眺める、というか見下ろす。本丸とかなりの高低差がありますので、降りるのに急な斜面を下るので少々難儀します。この時、麓から借りてきた竹杖、あるいは登山用のストック(トレッキングポールというらしい)があるととても助かります。転んで怪我などしないよう注意して下りましょう。
 新高山城36


 「釣井の段」に降りたところ。急な斜面がわかりますでしょうか。
 新高山城35

 
 斜面の途中には石垣の痕跡が。
 新高山城34



 説明板。ここには大小6つの井戸跡があります。
 事前に三原市教育委員会へ問い合わせたところ、この城では山上で生活していた形跡があるとのこと。
 いざ籠城となっても、これなら飲み水の確保もOKですね。
 新高山城37


 今でも水をたたえている井戸。
 新高山城39
 新高山城33


 「釣井の段」全景
 新高山城40


 「釣井の段」に咲いていた山桜。7分咲きでしたが、この春最初の「お花見」でした。
 新高山城41


 「釣り井の段」より「ライゲンガ丸」(後方)の土塁を眺める。「ライゲンガ丸」とは一体何なんでしょう???
 新高山城38



 「釣井の段」より斜面を上がって、中の段に戻ります。
 中の段の北側に「船木への下山道」という看板があり、この脇の細い道をまっすぐ行くと、三の丸方面へ行かれます。
 人ひとりやっと通れるほどの道で、落葉が多く滑りやすいので要注意です。
 新高山城42


 「石弓の段」より、西の丸、北の丸を眺める。階段上になっているのがわかりますでしょうか。
 新高山城45


 そのまままっすぐ行くと、西端の「北の丸」に出ました。
 新高山城44


 説明板。
 新高山城43


 ※「北の丸」の南西方向に「堅堀群」があったようなのですが、雑木で覆われてよく見えなかったです。
 北側に「船木への下山道」が続いていたようで、登山風のおぢさんがそちら方面へ消えていきましたが、「道なき道」といった感じで不安でしたので、ここで私たちは「中の丸」へ一旦戻り、元来た登山道を使って下山しました。

 

 【感想】
 自然の地形を活かした山城という印象で、石垣の跡や土塁など遺構もよく残っていて、山城ビギナーにも登りやすいお城だと思います。
 以前登城した、毛利元就の吉田郡山城(100名城)と雰囲気が似ているように感じました。いわば「毛利氏の城」といったところでしょうか。
 非常に堅固な造りの城ですが、幸か不幸か、この城は戦いの現場になることはありませんでしたので、血なまぐさい話などもなく、その点ホッとさせられます。(落武者の霊に遭遇する等の心配がない)
 それから、城の主・小早川隆景ですが、彼も戦やら外交やらでとても忙しい身でしたので、この城で果たしてどれぐらいの期間過ごしたのか気になりました。でも滞在時は山上で過ごしていたようなので、昇り降りが大変だったでしょうね。

 今回、10人くらいの人たちとすれ違いましたが、そのうち3人くらいがお城ファンと思われ、後は「里山歩き」で来られたような感じでした。
 整備されているので登りやすいですが、急な斜面や足場の悪い場所も所々ありますので、山登りに準じた用意をして登るのが賢明です。下山中、急に小雨が降ってきましたので、雨具の用意も忘れないようにしてください。これから気温も上がり、蚊やハチなどの虫も増えそうですから、虫除け対策もお忘れなく。
 冗長な文章で綴るよりも、「百聞は一見にしかず」で、写真を見ていただいた方がわかりやすいと思いましたので、長くなりましたが、ここまで読んでいただいてどうも有難うございました。



 左手が今回登った新高山城。沼田川を挟んで右手が高山城。(今回体調不良により、断念しました)
 新高山城46



 全国の廃城を特集しているムック。私も昨年購入しましたが、とても参考になります。
 「新高山城」もちょっとだけ掲載されています↓↓↓
  
廃城をゆく (イカロス・ムック)廃城をゆく (イカロス・ムック)
(2010/06/28)


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 今後も各地のお城を紹介していくつもりなので、どうぞよろしくお願いします。
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新高山城(三)

 新高山城(三)のつづき

 
 中の丸から本丸に行くには、このゴロゴロとした巨石群を超えなければなりません。
 これらもおそらく、かつてあった石垣を崩した跡だと思われます。
 新高山城25


 本丸へ着きました。 (´・ω・`)ふぅ
 新高山城24


 縄張図を確認します。(クリックで拡大)
  新高山城縄張図2

 
 かつてはここに本丸の建物があったと推定されます。毛利元就・隆元がこの城を訪れた際、この辺りで連歌の会が催されました。
 新高山城22


 北側にある「大手門跡」 現在の登山道は南側から登りますが、昔は北側に「大手道」があった?可能性があります。
 新高山城23


 下の写真は三原市にある宗光寺の山門(国指定重要文化財)ですが、この門はかつて新高山城の大手門であったと伝わっています。 
   宗光寺a


 本丸に東側にある詰の丸へ。ここにも巨石がごろごろ。
 新高山城29

 
 巨石の合間に石仏が。なんだか和みます。
 新高山城28

 不動明王?江戸時代の人たちが彫ったのでしょうか。
 新高山城27

 

 東端の詰の丸。ここは眺望が良いので、お弁当タイムにしてもいいかもしれません。私もここで20分くらい休憩を取りました。
 音声ガイドBOXが設置されていますから、ボタンを押して説明を聞きましょう。
 新高山城30



 目の前には中世小早川氏の居城であった「高山城」が見えます。
 新高山城31


 沼田川を眼下に。少し晴れ間も覗いてきました。
 新高山城26


 広島空港が近いので、見上げると飛行機が見えました。(JAL機)
 広島空港は2,3回利用したことがありますが、新高山城の上空を飛んでいたのかなあと実感しました。
  新高山城32


  
 次で最終回になると思います。長文になってしまい、スミマセン!     つづく
 
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新高山城(二)

 新高山城(一)からのつづき

 山道をさらに登っていくと、「匡真寺跡」に出ます。
 現地案内板によれば「小早川氏の菩提寺跡で、隆景は、天正5年(1577年)亡父毛利元就の七回忌、亡母妙玖尼の三十三回忌に際して、ここに匡真寺(現在三原市宗光寺)を建立し、法会を盛大に営んだ。
 寺跡は東西41m、南北72mに及ぶ広大なもので、全面に瓦片が散乱し、築庭を思わせる湧水池、築地塀の跡などが残っている」
 説明にもあるように、この寺は後に三原城下に移され「宗光寺」と名を改めますが、このお寺については後述します。
 新高山城17


 庭園の池の痕跡?と思われる水たまり
 新高山城15

 石積の痕跡。この辺りに何らかの建物があったのでしょう。
 新高山城14


 「匡真寺跡」全貌 中央辺りに巨石があり、少々驚きました。
 新高山城13


 永禄四年(1561年)三月下旬、小早川隆景の実父である毛利元就と兄・隆元がこの新高山城を訪問し、数日間滞在しました。(『毛利元就父子雄高山行向滞留日記写』 小早川家文書)
 元就・隆元の滞在中、連日饗応が行われましたが、この石碑には閏三月二日に催された連歌の会の折に詠まれた歌が刻まれています。句の内容から、ここよりさらに上方の本丸内の建物で連歌が行われたと推測されます。
 
 若木より見ん世も久し花の春  元就
 霞の月にかはす松が枝   隆景
 山風はのどかなる夜の明けそめて  隆元


 新高山城16

 山城攻めには「想像力」(あるいは「妄想力」)がないと楽しめません。
 毛利元就、隆元、隆景親子が一堂に会した風景を脳内で蘇らせてみます(笑) 彼らはその折何を語らったのでしょうか。


 ちょうどこの匡真寺跡が中間地点くらいになります。(標高140m)
 新高山城縄張図


 匡真寺跡よりさらに山道を進みます。
 新高山城20


 山道の所々にあるベンチ。地元の方たちが用意してくださったようです。マメに休憩が取れますし、とても嬉しいご配慮です。(^ω^) 有難うございます。
  新高山城19

 

 ゴツゴツとした岩肌の斜面に沿って登っていくと。。。
 新高山城18

 
 「中の丸」の虎口へ。
 DSCF8607_20120412092017.jpg


 さすがにここまで来ると眺望も開けてきます。曇りがちの天気だったのが残念。
 DSCF8609.jpg


 中の丸の案内板
 新高山城21

 
 中の丸より西の丸方面を眺める。中の丸より東側に本丸が、西側に西の丸・北の丸があります。
 土塁も設けられていますので、よく見てみましょう。
 DSCF8638.jpg


 この後、いよいよ本丸へ進みます。
                                            つづく


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新高山城(一)

 小早川隆景の墓参をした後、小早川氏の居城であった新高山城へ向かいました。
 この旅は一月前から準備してきたわけですが、体調不良により取りやめようかとも思ったのですが、遠方ですし次何時来られるかわからなかったので、主人に車の運転を頼み、同行してもらいました。
 実は以前、ちょうどこれぐらいの時季に岡山の津山城を訪れた際も体調不良を押して行ったところ、現地で40度の熱を出し、救急で地元の病院にお世話になったという苦い経験があり、今回も途中で限界が来たらその時点で諦めて中止することにしました。

 小早川氏は安芸国沼田(ぬた)荘の地頭で、代々沼田川東岸にある「高山城」を居城としていましたが、天文21年(1552年)沼田小早川氏を継いだ隆景が沼田川の対岸に新しい城である「新高山城」を築き、そちらへ移りました。
 慶長元年(1590年)、隆景が隠居所と定めた三原城へ本拠を移したため新高山城は廃城となり、新高山城にあった石垣はその大半が三原城の改修に利用するため運ばれたといいます。

 新高山城の縄張図です。(クリックで拡大) 山城の場合、縄張図はある程度頭に入れておきましょう。
新高山城縄張図



 麓の駐車場から見た新高山城。峻険な山城です。(標高190m)体調不良の中、久しぶりの山城攻めです。気をひきしめて行かないと。。。
 新高山城は山城としての難易度は低~中程度だと思いますが、急斜面を登り降りする場合があるので登山靴とまではいかなくても、しっかりとしたトレッキングシューズで行くのがおすすめです。
 飲料水やちょっとした食べ物(チョコレートなど)も必ず持参しましょう。
 新高山城9



 三原市本郷南7丁目に三原市の水道施設がありますが、道沿いに看板が出ていますので見落とさないように。
 なお、向こう方に見える山は今回行かれなかった「高山城」です。
 新高山城3


  民家のわき道を入っていきます。
 新高山城4


 細い道をしばらく行くと、山道への入口に案内板があります。ここに竹製の杖が置いてありますので、自分の背丈に合った竹杖を借りていくと後々役立ちます。登山用ストックを持参するのもいいでしょう。
 新高山城1

 新高山城2


 山道は整備されていますが、けっこう急な斜面もあり、すぐ息が上がってしまいます。
 するとのっけから、石垣の痕跡が。
 新高山城8


 最初の曲輪である「鐘の段」への入口。登山道を離れ、矢印方向へ行ってみます。
 新高山城7


 ここが「鐘の段」。
 現地案内板によると、「城山の南斜面中腹に、半独立的な小丘をなしている郭で鐘の段とよばれる。
 この鐘の段は、北方背後に土塁も設けた二郭、東側に大小二郭、西南側に三段の郭を配している。
 鐘の段を中心としたこれらの郭は、地形、縄張りなどから見て、中世初期の独立した山城(丘城)の形態をなしており、この部分の築城年代は古いものと思われる」とあります。
 つまり、ここには新高山城築城以前から砦のようなものがあったと思われます。
 なお、下の写真にも映っていますが、ここに仮設トイレがあります。(あまりおススメできないが、どうしてもガマンできなくなった方に)
 新高山城10

 奥の斜面を登ると高台になっていましたが、今は雑木が生い茂って城下への見晴らしはよくありません。
 新高山城11


 元来た登山道へ引き返し、しばらく登ると「番所跡」の入口があります。
 新高山城6

 
 案内板
 新高山城5

 
 湾曲した土塁があります。今は雑木が生い茂ってしまっていますが、木々の合間から城下が見えたので、番所が設けられていたというのが想像できます。
 新高山城12


                                 つづく

 過去記事 ひろしまの城と戦(広島県立歴史博物館)
 
 
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小早川隆景の墓

 先日、体調不良を押して広島県三原市へ行ってきました。

 三原市沼田東町にある東盧山「米山寺」(曹洞宗)
 嘉禎元年(1235)に沼田小早川氏の氏寺として創建されました。
 山門の屋根瓦に、小早川氏ではなく、毛利氏の家紋である「一文字三つ星」が見てとれます。
 DSCF8526.jpg

 
 山門の東側に「小早川氏墓所」があります。20基の宝篋印塔が前後2列に10基ずつ、整然と並んでいます。
 DSCF8478.jpg

 DSCF8524.jpg


 前列右端にある墓塔が、小早川隆景の墓(県指定史跡)です。
 小早川隆景は天文2年(1533年)毛利元就の三男に生まれ,安芸の国人領主竹原小早川家に養子に入りますが、やがて天文19年(1550年),沼田(ぬた)小早川家を継ぎ,兄の吉川元春と共に「毛利両川」体制の一翼を担いました。
 兄の隆元亡き後は隆元の子・輝元の後見人となり、毛利家の政務・外交面で活躍しました。父・元就の資質を一番よく受け継いでいたといわれます。戦国きっての知将であり、かの豊臣秀吉も一目置いていたほどです。
 慶長2年(1597年),65歳で三原城に没し,米山寺にある小早川氏歴代の墓地に葬られたといいます。
 DSCF8471.jpg


 小早川隆景は好きな戦国武将の一人でもあり、前々から墓参しようと思っていたのですがなかなか都合がつかず、今回やっと参詣することができました。
 これで、約4年がかりで毛利元就、隆元(長男)、吉川元春(次男)、毛利輝元(隆元長男)、そして隆景(三男)と、毛利ファミリーの墓参りをすませることができました。(-人-)

 墓所の左手後方には、高さ2.5mほどの宝篋印塔(国指定重要文化財)は鎌倉時代に建てられたもので、大工念心の手によるものです。念心は広島県中央部に多くの石造物を残しました。
   DSCF8508.jpg


 なお、同寺には国指定重要文化財「小早川隆景像」が所蔵されていますが、今回は見学することが出来ませんでした。
 また、隆景の養子で関ヶ原で東軍へ寝返って顰蹙を買った小早川秀秋の墓は当然?のことながらありませんでした。

  《参考文献》
    
小早川隆景のすべて小早川隆景のすべて
(1997/10)
新人物往来社

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 過去記事 「歴女」たちの怪気炎にタジタジ(TV出演その2) 附小早川秀秋の墓
        黒田如水の墓 (隆景と親交があった)

 

 最寄駅より若干距離があるので、車利用をおすすめします。
 
より大きな地図で 米山寺 を表示




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2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
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