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また消える懐かしい風景・・・長野電鉄屋代線

 本日、2012年3月31日をもって、開業90年の歴史を誇る長野電鉄屋代線が廃止になります。
 実はこの路線が廃止になるという事を昨年聞いてにわかに信じられなかったのですが、とうとうこの日が来てしまいました。今日は「さようなら、ありがとう 長野電鉄屋代線」ということで地元では記念イベントが行われた模様です。

 長野県民でもなく、熱心な鉄道ファンでもない私がなぜ屋代線の廃止について思いを寄せるところがあるかと言いますと、実は使用車両が旧営団地下鉄日比谷線で使われていたものを転用していたからなんですね。
 私の実家は日比谷線の沿線にあるもので、幼い頃から生活の足として頻繁に利用してきました。
 長野へ旅行に来て、はじめて屋代線に乗車した時、どこかで見たことのある車両だなあと思ったら、子供の頃日比谷線を走っていた車両だと聞いて納得しました。この時、懐かしい電車に再会出来て、なんだか嬉しく感じたことを覚えています。
 
 屋代線(屋代~須坂)は大正11年(1922年)に開業した長野電鉄で最も歴史ある路線です。にもかかわらず、マイカーの普及や少子高齢化によって、年々利用者数が落ち込み収益が悪化。累積赤字は50億円を超えたそうです。また設備の老朽化が進み、この先維持費として30億円もの費用がかかることから、とうとう廃止という結論に達したということでした。

 「これは廃線になる前にぜひ乗っておかねば!」ということで、私共夫婦は昨年の12月、「記念乗車」してきました。
 実は私もここ4,5年はこの方面へやって来るとバス利用が多く、屋代線を利用していませんでした。(バス便の方が移動時間が短くて済むので便利という理由からだったのですが、今にしてみればもう少し電車に乗っておけばよかったと少々後悔しております)

 
 長野電鉄屋代駅からスタート。
 長野電鉄屋代線6(屋代駅b)


 時間があったので、駅のホームを少し撮影します。木造の古びた待合室。
 長野電鉄屋代線1(屋代駅a)

 上方に時刻表がありましたが、近年は一日14本の運行だったんですね。
 長野電鉄屋代線8(屋代駅d)


 ちょっと暗くなってしまいましたが誰もいない待合室の中。時代を感じます。
 長野電鉄屋代線7(屋代駅c)


 
 車両は日比谷線3000系を転用したものです。
 長野電鉄屋代線3(屋代駅e)

 
 車両へ乗り込みます。子供の頃乗った日比谷線の車両そのままです。(調べてみると、平成7年(1995年)くらいまで日比谷線で使用されていたそうです)
 この後電車が動きはじめましたが、お客さんの数はまばら。
 長野電鉄屋代線2


 乗車中、隣にいた主人が懐かしそうに言いました「子供の頃、ドアの窓から何か見えないかと思って、よくつまさき立ちして外を見ようとしてたんだよね~結局真っ暗だから何も見えないのにね(笑)」
 この頃のドアの小窓は上方にあって、小学校低学年くらいだと背が届かないのです。主人の言葉に、ああ、自分にもそんな事があったっけかなあ・・・。
 長野電鉄屋代線18


 車窓を眺めたり思い出話をしているうちに、下車予定の松代駅へ近づいてきました。
 直前、車窓からは松代城が見えました。(後述します)
 長野電鉄屋代線5


 松代駅へ到着。
 長野電鉄屋代線11(松代駅g)

 (※写真数が多いので、追記をクリックしてください↓)

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昭和の仙台・街とくらし(仙台市歴史民俗資料館 旧第四連隊兵舎)

 JR仙台駅より東方約1km、宮城野大通りの左手の丘にある「榴岡公園」。その名の通り、昔はこの地はツツジの名所であったといいます。伊達政宗が岩出山から城を移す際、新しい城の候補地の一つであったそうです。
 元禄年間に、四代藩主・伊達綱村が生母・三沢初子の冥福を祈るため京より一千本の桜木を取り寄せて植栽したことから、今度は桜の名所として有名になり人々の憩いの場となりました。
 
 時代が変わって明治8年(1875年)、編成された第二師団歩兵第四連隊が仙台城二の丸から移転・駐屯しました。
 当然、兵舎が建てられたわけですが、そのうちの一棟が現存し、現在仙台市歴史民俗資料館の建物として使用されています。
 木造2階建ての寄棟造、瓦葺の兵舎は宮城県内で最古の洋風建築です。
 仙台市歴史民俗資料館1

 仙台市歴史民俗資料館2

 明治28年頃の第四連隊の兵舎を描いた絵です。(同資料館所蔵)
 仙台市歴史民俗資料館4

 このブログでは有名人の墓やお城関係が主ですが、その一方で、実は古い建物を見て歩くのが好きだったりします。
 外観だけ見て帰ろうと思いましたが、雪が降っていたこともあり、中へ入ってみることにしました。
 先述したように、この建物は元兵舎でしたので、展示室の一部に当時の内部の様子が復元されていました。
 仙台市歴史民俗資料館3

 ところで、同館では現在、特別展「昭和の仙台・街とくらし」を開催中です。(4月15日まで)
 
 【展示趣旨】
 戦前から「杜の都」として知られていた仙台の街は「昭和」という一時代に、空襲と戦後の復興で中心部の様相は大きく変わりました。一方、人々のくらしは昭和30、40年代の「高度経済成長」と「エネルギー革命」の中で大きく変わっていきました。
 この特別展ではわずか数十年の時間の中で姿を変えた、仙台の街の風景とくらしの道具について写真と実物資料でご紹介します。


 この資料館では民俗資料や、仙台の近現代史に関する事を扱っているようです。展示品のほとんどが市民の方々からの寄贈だと聞きました。
 今回の展示でも、昭和時代に使われていた電化製品とか、生活用品とか、そういったものが多数展示されていました。撮影するのを忘れましたが、昭和40年代くらいに初めて売り出されたものすごくでかい食器洗浄機が置いてあってびっくりしました。(元所蔵者の方の家で最近まで物置に眠っていたそうです)
 仙台市歴史民俗資料館6
 仙台市歴史民俗資料館5

 正直なところ、私はあまりこの手の民俗資料には関心がないのですが、戦前から戦後の仙台市内の様子を撮影した写真も色々展示してあって、これには興味がもてました。
 たまたま学芸員さんがおられ、話を伺ったところ、昭和20年7月30日の仙台空襲の際、連隊の駐屯地であったこの場所はなぜか空襲に見舞われず、むしろ仙台城方面がやられたとのこと。すなわち、あの段階では国民の戦意をそぐため、軍の施設よりもむしろ民間の居住区を狙ってB29が焼夷弾を落としていったことがわかります。
 最後にこのような一枚の写真が。昭和33年ごろ、地元の小学校で行われた運動会での一コマです。
 仙台市歴史民俗資料館7

 この写真はポスターにも使用されていたのですが、ちょうどこの写真が撮影された当時、仙台が戦争のつめ跡から復興を遂げつつあった頃で、子供たちの笑顔にそれが現れています。
 昨年、仙台は大震災に見舞われたこともあり、子供たちの笑顔こそが復興の証であるというメッセージがこの一枚の写真に込められているような気がしました。

 それにしても、この建物自体明治時代に建てられたという古いものですが、学芸員さんにお尋ねしたところ、昨年の大地震では壁面の剥がれなどが数箇所あった他は建物にはほとんと被害がなかったそうです。
 平成12年に同館が開館するにあたって耐震補強工事を施していたことが幸いだったようです。全国的に見ても旧軍関係の施設はほとんどが取り壊されてしまい現存していませんし、震度7という大地震にも耐えた貴重な建物ですから、これからも大事に保存していただき、次世代へ伝えていってほしいものです。


 この後、仙台駅の近隣で買い物などをし、駅ビル内のレストランで牛タンを食べて帰京しました。
 今回はカメラのトラブルなどもあり予定通り廻れませんでしたが、また仙台には近々足を運びたいと思っています。

  (仙台篇 終わり)


 参考サイト 仙台市歴史民俗資料館
 


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文学と格差社会(仙台文学館)

 仙台での墓参中に、カメラの調子がいよいよおかしくなりましたので、やむなく墓参を中止し、「企画変更」することにしました。
 外にいても寒いだけなので、仙台市青葉区北根にある仙台文学館へと向かいました。
 仙台文学館

 この日、同館では特別展「文学と格差社会~樋口一葉から中上健次まで~」を開催中でした。(3月20日で終了済)
  文学と格差社会

 【展示趣旨】
 日本近代文学史においては、「貧困」とそこに生きる人々を描いた作品が数多く残されています。本展は、樋口一葉から中上健次まで、貧困や社会の底辺を描いた作家たちを取り上げ、近代文学の百余年を「格差社会」という視点から俯瞰します。また文学が描いた社会の真実と様々な問題が、現代日本の現実とどのように繋がっているのかをもとらえ返すものとします。


 この展示は、元々昨年の今頃開催する予定だったのに、3月11日の大震災で開催中止になってしまったそうです。関係者の熱意もあり、今年改めて開催にこぎつけたということです。
 しかし、震災によって分かれてしまった運命・・・助かった人と助からなかった人、家や財産、仕事を失った人、失わずにすんだ人、というように、予想だにしなかった「新たな格差社会」が生じ、担当した学芸員さんも複雑な心境だったといいます。

 展示で取り上げられていた作家は古い時代の作家が多かったです。中には今では忘れられてしまったような作家もいて、よほど文学が好きでないとピンとこないかもしれません。
 しかし、昔の作家は貧困や差別などにあえいでも、けっして運命に屈しない強さがあったように思います。社会の不条理や逆境などをものともせず、やるせない思いや憤りを懸命に綴り、「文学」という形に昇華していったのです。

 それに比べて現代の「文学」はかつての日本文学にあったような社会性を失っているように思います。私見を申しますと、いろんな「文学作品」が散乱していますが、そのほとんどが男女関係や自分の内面がどうのこうの、といった問題を扱った作品ばかり。私も人に勧められたり書評などで好評だった小説などをたまに手にとってはみますが、感動がないというか、自分の心に何ら残るものがないのです。
 
 なお、同展は4年前ぐらいに東京・駒場にある日本近代文学館で開催したものとほぼ同内容の巡回展だったようですので、展示されていた原稿などは原本も多く、見ごたえがありました。(仙台市民の方にしてみれば東京まで来なくても貴重な資料を見学できたのではないでしょうか)私は学生時代、国語が好きだったので、紹介されていた文学者をほぼ知っていたということもあると思います。
 テーマはなかなか良いところをとらえていたように思いますが、主催者が意図していた「文学が描いた社会の真実と様々な問題が、現代日本の現実とどのように繋がっているのかをもとらえ返すものとします」という部分が正直なところ私にはあまり感じられなかったです。戦前の社会と、現代とでは社会状況がまったく異なっていますからしたがって「格差」の性質も自ずから異なっていますし、この辺の差異を明確にしてほしかったというか、もう一工夫何かあると良かったのでは・・・と思いました。
 仙台は大都市だけあって「文学」が盛んな土地柄と聞いていますが、あの震災に直面した市民の皆さんの目にこの展示はどう映ったのでしょうか。
 
 <取り上げられていた主な文学者>
 樋口一葉 横山源之助 石川啄木 長塚節 幸徳秋水 北一輝 中里介山 大杉栄 伊藤野枝 
 竹久夢二 古田大次郎 和田久太郎 河上肇 小林多喜二 葉山嘉樹 中野重治 徳永直 佐多稲子
 葛西善蔵 嘉村磯多 林芙美子 石川達三 松本清張 水上勉 安岡章太郎 中上健次 
 

  ********************************

 館内にレストランがあったので、ここでお昼をいただくことにしました。
 特別展関連メニューとして、小林多喜二の代表作「蟹工船」をイメージしたという「希望の光膳」を注文してみました。
   希望の光膳
 内容は「蟹のせご飯」「黒酢あんかけ蒸し」「ほっけの塩焼き」「「味噌汁」「昆布佃煮」で1000円でしたが、アイデアは良かったのですが、全体的に味が薄すぎてマズーでした。。。(´д`;)ざんねん


 参考サイト 仙台文学館
 


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伊達な墓巡り 政岡墓所

 仙台サンプラザホテルに隣接する場所に、伊達家ゆかりの墓地「政岡墓所」(仙台市宮城野区榴ヶ岡5-4)があります。
 政岡墓所1

 
 ここには、三代藩主・伊達綱宗の側室である三沢初子、二代藩主・忠宗の正室・徳川振姫、四代藩主・綱村の正室・稲葉仙姫の三人が眠っています。
 三沢初子は「伊達騒動」を扱った歌舞伎「伽羅千代萩」に登場する乳母・政岡のモデルといわれる女性で、墓所の名はそれに由来しています。
 江戸時代はこの場所に、初子と振姫の廟所がありましたが、明治維新後伊達家が神道に改宗したため霊廟は取り壊され、代わりに墓が建てられました。
 昭和30年(1955年)に万寿寺に葬られていた綱村夫人・仙姫の墓がこちらに改葬されました。
 政岡墓所2

 
 調べてみますと、三沢初子の実家は元は滅亡した尼子氏の家臣であったということです。初子は少女の頃両親を亡くし、叔母の「紀伊」に引き取られます。「紀伊」は姫路藩主・池田輝政の娘で、後に二代将軍・徳川秀忠の養女として仙台藩二代藩主・伊達忠宗に嫁ぐ振姫の老女を務めますが、その縁で初子も振姫の侍女となります。
 初子は容姿端麗・天性聡明であったので、忠宗振姫夫妻に気に入られ、忠宗の嫡男・綱宗の側室に上がり、後に四代藩主となる綱村を生みます。
 夫・綱宗は不行跡により21歳の若さで隠居させられたため正室を迎えることがなかったので、初子が実質的な奥方として伊達家の奥向きで重きをなしたといいます。
 後の寛文事件(伊達騒動)では、まだ幼少であった息子・綱村を身をもって守りぬいたといわれています。
 貞享3年(1686年)2月4日歿 享年47。法名:浄眼院殿了岳日巌大姉
 
 仙台市博物館には、初子所用の帯が12条所蔵されています(国指定重要文化財)。
 江戸前期の服飾関係の資料で今日まで残されているものはあまり例がなく、初子所用の帯は初期の細帯から幅広い帯への過渡期の様相を如実に示すもので、かつ多彩な江戸前期の染織技法を伝える資料としても極めて貴重であるということです。
  三沢初子所用の帯

 
 墓所は以前は参詣できたようなのですが、現在墓所の門扉には鍵がかかっており中へ入れませんでしたので、表だけ撮影しています。
 なお、松音寺での撮影時からデジカメの調子が悪くなり、とうとう液晶画面に変なまだら模様まで出始めたため、こちらでやむなく墓参を中止いたしました。(´;ω;`)

 この時、霊障を疑いましたが、どうやら雪が降っている中(気温が氷点下だった)で撮影していたのが災いしたみたいです。。。予定の半分も廻れませんでしたが、また暖かくなってから再訪したいと思います。
 今後も伊達家の方々の墓参の続行を予定しています。
 

 関連記事  伊達忠宗・同綱宗の墓


 
より大きな地図で 政岡墓所 を表示

 

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伊達な墓巡り 墓参り中にデジカメが・・・orz

つづき

 五峰山松音寺(曹洞宗 仙台市若林区新寺4-6-28)は、寛正年間(1460~1466)伊達政宗の五代前の先祖・成宗の菩提寺として現在の福島県伊達郡国見町松ヶ蔵に創建されたといわれています。
 天文17年(1548年)に寺は14代・稙宗の隠居に伴い丸森に移りますが、仙台開府に伴って慶長7年(1602年)現在地付近へ移転し、約4万平米の土地に堂塔伽藍を建立しました。
 元和4年(1618年)、伊達政宗の5男・宗綱(母は正室・愛姫)が16歳で亡くなり、同寺に葬られたため、宗綱をもって中興開祖とし、江戸時代を通して伊達家の庇護を受けました。

 下の写真の左側の墓が開祖の伊達成宗、右側が中興開祖の宗綱の墓です。(※白っぽい粉みたいのは雪です)
 伊達成宗・宗綱の墓

 松音寺2


 松音寺の山門は、政宗の隠居所であった若松城の正門を移築したものだということです。
 松音寺


 この写真を撮影している最中、突如デジカメの調子がおかしくなりまして。。。レンズカバーが半開きの状態になり、うまく撮影できなくなってしまったのです。
 もしかして、霊障か何かでしょうか。。。!? さてさてこのあと、どうする??? ヽ(´Д`;)ノ

                                 つづく


  関連記事 伊達政宗の墓 瑞鳳殿

 
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伊達な墓巡り 栽松院

 去る3月10日、昨年の大震災から一年経った宮城県仙台へやってきたことは先述しました。

 過去の訪問で、仙台城や瑞鳳殿(伊達政宗の墓)などはすでに訪問しましたので、今回の日帰り旅の主たる目的は伊達家の方々の墓参りということで参りました。

 JR仙台駅の東口を出て歩きます。駅東部へ来たのは初めてです。折しもこの日は朝から雪模様。吐く息も白いです。

 まず最初にやってきたのは耕徳山「栽松院」(曹洞宗 仙台市若林区連坊1丁目3-18) 
 伊達政宗の祖母・久保姫の位牌所として、慶長6年(1601年)に政宗によって創建されました。
 ※下の写真の白っぽい斑点は雪です。
 栽松院2


 久保姫は陸奥国磐城領主・岩城重隆の娘で、伊達政宗の祖父・晴宗の正室となった女性です。
 久保姫は美人として名高く、当初白河城主・結城氏のもとへ嫁入りすることになっていましたが、輿入れの道中、伊達晴宗が強引に久保姫を略奪したという逸話が残っています。(随分、乱暴ですね。。。)
 衝撃的な出会いをした晴宗との夫婦仲は良好だったようで、政宗の父・輝宗をはじめ6男5女!に恵まれています。
 
 また、久保姫は母親から疎んじられていた幼少期の政宗を慈しんだと伝えられ、政宗もまたこの祖母を大変慕っていたようです。
 晴宗が息子の輝宗に家督を譲ると、晴宗・久保姫夫妻は米沢から福島の杉目城へ移住。天正5年(1578年)に晴宗が亡くなると、久保姫は髪を下ろし、亡き夫の菩提を弔う日々を送ります。
 その後、豊臣秀吉の奥州仕置により、伊達家が信夫・伊達両郡を失ったため、政宗は岩出山城へ、それに伴い久保姫も白石城(現・仙台市泉区根白石)へ移ります。
 文禄3年(1594年)久保姫は亡くなり、亡骸は晩年を過ごした白石城内の屋敷跡に葬られました。法名は裁松院殿月盛妙秋禅尼大姉。
 政宗は亡き久保姫の供養のため、仙台城下に彼女の法名から寺名を採った栽松院を創建し、位牌所としました。
 下の写真は久保姫の供養塔です。
  栽松院供養塔

 久保姫供養塔の傍らにあった、政宗遺愛の樫の木。樹齢400年以上!ということになりますね。
 栽松院3


 本堂の傍らにあった観音堂。仙台の地名の由来とされる千躰佛を祀っています。
 栽松院1


                              つづく

 関連記事 伊達政宗の墓 瑞鳳殿

 
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壬生城再現シンポジウム「よみがえれ!幻の本丸御殿」

 壬生町シンポジウム

 去る3月11日(日)に栃木県壬生町で開催された「壬生城再現シンポジウム~よみがえれ!幻の本丸御殿」に参加しました。
 これは、すでに紹介した壬生町歴史民俗資料館で開催していた企画展「壬生城本丸御殿と徳川将軍家」の関連行事として行われたものです。

 パネラーは西ヶ谷恭弘(日本城郭史学会代表)、浅野伸子(放送大学准教授)、笹崎明(日本城郭史学会委員)の各氏。

 最初にお三方による講演が行われました。お城の専門家として有名な西ヶ谷氏は、壬生城の成立過程や特徴などについてお話されました。氏によると、この城は北条氏長(小田原北条氏の一門)や山鹿素行の軍学の影響を受けているとのご指摘でしたが、興味深かったです。なお、西ヶ谷氏は40年前くらいに壬生城址に来られたことがあるそうです。

 次に日本建築史がご専攻の浅野伸子先生が、壬生城と宇都宮城、古河城など他の「宿城」との比較について、複数の絵図を参照しつつ、わかりやすく解説されました。
 最後に、今回お城の模型を手作りされた笹崎明氏が、模型制作の過程や壬生の城下町の成り立ちなどについて、ユーモアを交えながら語られました。

 その後、お三方と壬生町長・小菅一弥氏が加わり、討議が行われました。パネラーの方たちからは、将来東追手門だけでも復元してみては?という提言がなされました。
 最後に小菅町長からは壬生城の歴史的価値を今一度思いおこし、今後も歴史や文化を尊重した町作りに生かしていきたいという旨まとめられました。(この町長さんは話の端々に教養が感じられ、感心しました)
 こうして和やかな語らいのうちに、シンポジウムは閉会しました。

 聴衆はざっと数えて、150人~160人くらい。地元の方がほとんどだったと思いますが、皆さん熱心にパネラーの方々の話に耳を傾けていました。遠い方で兵庫県姫路市から来訪されていたそうです。(おそらく、日本城郭史学会の関係者と見られますが) 
 私も壬生町とはまったく関係がなかったのですが、約3時間半ほどの間、パネラーの方々のお話を楽しく拝聴させていただき、古代から歴史ある町ですので、今後も城址や史跡などを大切にしていただきたいと思いました。

 なお、シンポジウムの途中の午後2時46分、東日本大震災への弔意表明のため、全員で黙祷が行われました。

 

 
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興光寺(官修墓地)

 つづき

 壬生城の西側300m、「蘭学通り」沿いに深度山興光寺(浄土宗)があります。(壬生町通町7-13)
 興光寺1

 もともと壬生城下には浄土宗の寺がなかったそうですが、三代将軍・徳川家光が死去し、遺骸を日光東照宮大猷院廟へ葬送するというので、徳川家の宗旨が浄土宗であることからわざわざ隣村の福和田から移転してきて、ここで家光の仮通夜が行われたといいます。
 ということで、山門の上部には葵紋が見られます。
 興光寺2


 寺の本堂の右手に広がる墓地内に、戊辰戦争で戦死した新政府軍の兵士を葬った官修墓地があります。
 慶應4年(1868年)4月、大鳥圭介率いる旧幕軍は壬生城を経て宇都宮入りを計画しましたが、藩論が勤王に傾いた壬生藩はこれを拒絶したため、やむなく壬生を避けて間道から合戦場宿へ迂回し、鹿沼から宇都宮城の占領に成功します。
 ちょうどその頃、新政府軍は壬生へ入っており、4月21日、姿川から壬生城北方の安塚宿の間で両者の激しい戦闘が行われました。当初旧幕軍が優勢だったものの、壬生城で苦戦の急報を得た河田左久馬は味方を大いに励まして陣頭指揮を執り、予備隊の砲撃も手伝って戦況は一変。旧幕軍は後退し、近隣の民家に火を放ち、西川田へと退却していきました。
 これを「安塚の戦い」といい、旧幕軍6,70名、新政府軍17名の死者を出しました。

 さて官修墓地ですが、墓石の一部が根こそぎ倒れていたりして少々荒れ果てていました。。。(´д`)
 壬生藩士1名、吹上藩士2名、因州藩士1名、土佐藩士7名、松本藩士2名、山国隊3名が祀られています。享年を見ると、10代、20代の若者が多く犠牲になっています。
 興光寺5

 墓石に「土佐」「土州」などの文字が見えます。国吉栄之進、武市権兵衛、半田擢吉の墓。このうち国吉は戦闘中重傷を負い、もはやこれまでと自刃したため、首級は興光寺へ送られ、胴体は安塚南端の地へ埋葬されました。
 興光寺3

 因州鳥取藩に帰属していた草莽の士・山国隊3名の墓。右側の新井兼吉は戦闘中行方不明となり、後に戦死と認定されましたが、昭和45年(1970年)になって山国護国神社によって墓が建てられました。
 昨年、鳥取市歴史博物館で「因州兵の戊辰戦争」という展示を見たので、何かの縁を感じました。
 興光寺4


 松本藩・尾花忠兵衛の墓は根こそぎ地面に倒れていました。昨年の大震災の影響でしょうか?
 興光寺7

 誰の墓がよくわかりませんでしたが、「慶應四」「四月」などの文字が刻まれていました。
 興光寺6


 戊辰戦争からかれこれ150年以上の月日が経過しているので墓石の磨耗などはやむをえないとは思いますが、それにしても墓石が地面に倒れてそのままであったり少々荒れており痛々しさを感じました。史跡指定を受けていないんでしょうか?
 できましたら、もう少し整備していただけます様お願い申し上げます。
 その他、同寺には「太田胃酸」の創業者の墓があるようでしたが、案内板などもなく、場所がわかりませんでした。

 壬生町にはこの他にも色々と史跡があるようでしたが、車で来ないと無理な場所にあるようでしたので、以上で今回の壬生町の史跡巡りは終了です。


  関連記事 因州兵の戊辰戦争(鳥取市歴史博物館)

 

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常楽寺(鳥居家・壬生家菩提所)

 つづき

 壬生城の北東200mくらいの所に、向陽山常楽寺(曹洞宗)があります。
 壬生城主・壬生胤業が寛正3年(1462年)に創建した寺院で、江戸時代には壬生藩鳥居家の菩提寺になりました。
 寺の敷地は割りと広く、山門の前に象の石像がありました(かわいい・・・)
 なお、同寺では鳥居家にまつわる歴史的資料が所蔵されており、つい最近、壬生城を詳細に描いた絵図が発見されました。
 常楽寺


 まず鳥居家累代の墓(壬生町指定史跡)に参詣。墓塔が一基だけでした。
 鳥居家の墓1

 墓石に刻まれた文字を読むと、昭和4年にご子孫の方が合葬墓にされたようです。
 なお、鳥居家の菩提寺ですが、江戸にも2箇所くらいあるようです。
  鳥居家の墓2


  壬生家歴代の墓。(壬生町指定史跡)
 「壬生城」の所でも述べましたが、壬生氏は小田原の陣で北条氏に与し、小田原開城後当主が跡継なくして急死したため、所領を没収され、没落しました。
 霊屋の中に五輪塔が3基、石塔が1基ありました。
 壬生家歴代の墓


 斎藤家歴代の墓(壬生町指定史跡)。斎藤家は壬生藩に仕えた医者の家系でした。
 二代・斎藤玄昌(1809~1872年)は蘭方医として活躍し、壬生ではじめて人体解剖や種痘を行い、かの二宮尊徳が晩年病に罹った時治療にあたったことで地元では有名だそうです。
 (どのお墓が玄昌のものかわかりませんでした)
 斎藤家歴代の墓



 関連記事 壬生城本丸御殿と徳川将軍家


                              つづく

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精忠神社

 つづき

 壬生城の北西隅に、壬生藩鳥居家の家祖・鳥居元忠を祀る「精忠神社」があります。(城址公園に隣接)
 精忠神社1


 鳥居元忠(1539~1600年)は徳川家康の幼少時から仕えた「股肱の臣」であり、関ヶ原合戦の前哨戦である伏見城の攻防戦では石田三成軍に攻められ、壮烈な最期を遂げた武将として有名です。
 家康の天下統一の過程で、いわば「捨石」にされたといっても過言ではないでしょう。
  鳥居元忠画像


 小さい社の裏手には、元忠が伏見城内で自害した時の「血染めの畳」が埋められたという「畳塚」があります。
 家康は元忠の「血染めの畳」を江戸城伏見櫓の階上に置き、登城した大名たちに元忠の精忠を偲ばせたといいます。
 明治維新の際、江戸城が開城された時に、「血染めの畳」は持ち出されて精忠神社隅へ埋められ、供養されました。
畳塚2(精忠神社)

 
  畳塚1(精忠神社)

 元忠の命日〈旧暦8月1日)には勇壮な武者行列が行われていましたが、昭和の初期頃廃れたそうです。
 なお、同神社では鳥居家ゆかりの品を所蔵しており、このうち「馬標」が歴史民俗資料館で展示されていました。

 
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壬生城

 昨年でめでたく日本100名城スタンプラリーも終了しましたので、今後は関東近郊の城巡りをしていきたいと思います。

 東武宇都宮線壬生駅で下車します。
 壬生駅

 駅前の道路をまっすぐ100Mくらい行きますと、「蘭学通り」と呼ばれる道に突き当たるので右手(北方面)へ進みます。
 「蘭学通り」の名前の由来は、江戸時代後期、この地で蘭学が盛んだった事から名付けられたようです。
 この辺り、個人商店がいくつか立ち並んでいましたが、コンビニが一軒もありませんでした。
 蘭学通り

 300Mくらい歩いて古い門構えの家の角を左折し(西方向)進むと、城址公園が見えてきます。駅から歩いて10分弱くらいです。
 壬生城7


 道路沿いに復元ですが壬生城の二の丸門があります。一昔前までここに中学校があったそうなのですが、平成元年に城址公園として整備されたということです。ここから中へ入ってみます。
 壬生城1


 壬生城は文明年間(1469~86)に壬生綱重によって築かれたといわれます。その後、綱雄の代まで居城として機能し義雄の代で居城を鹿沼城を移し、壬生城には城代を置きました。
 天正18年(1590)、小田原の陣に際し時の当主であった壬生義雄は北条方に与しましたが小田原城は開城、北条氏は滅亡します。義雄はその直後に病死。跡継の男子がいなかったことから所領を没収され、壬生氏は没落します。
 その後、壬生城には日根野氏、阿部氏、三浦氏、松平氏、加藤氏と短期間に城主が入れ替わり、正徳2年(1712)に鳥居忠英が3万石で入城してからは、明治維新まで鳥居氏7代の居城として存続しました。


 
 復元された土塁。壬生城には本丸、二の丸を中心に、三の丸、東郭、下台郭、正念寺郭の6つの郭があり、これらの郭は土塁と塀で囲まれていました。
 壬生城5

 ただし、当時ここには水堀はなく、本来は空堀だったようですね(現地案内板写真より) 石垣は築かれない土塁の城ということで、典型的な関東の城ということが言えると思います。
  壬生城2


 この辺りが壬生城の本丸だったわけですが、前回の記事でも書いたとおり、明治4年に城が下げ渡され、廃藩置県よりも前に取り壊されてしまったので、当時の面影は全然残っていませんでした。なお、壬生城には天守や櫓といった建物は建てられませんでした。また、当時の城門が小山市の民家に移築され残っていると聞きました。
 噴水の向こうにある中央公民館の辺りに、徳川将軍の宿所であった本丸御殿があったそうです。
 敷地内には公民館のほか、図書館、歴史民俗資料館という文化施設が建っています。
 壬生城3


 ところで、壬生城の外郭にはかつて「丸馬出」「三日月堀」があったというんですね。資料館で開催中の展示(過去記事⇒「壬生城本丸御殿と徳川将軍家」参照)にもそれらが記された絵図が展示されてました。(いずれも現存せず)
 お城ファンの方なら、この二つを聞くとピンと来ると思うんですが、どうやら江戸時代の初めに城を整備した際、甲州流の築城術の影響を受けているんですね。これにはちょっと驚きました。
 元禄年間に3年ほど松平(大河内)家が入封していたのですが、その頃城普請が盛んに行われたようで、しかも松平家の重臣に大河ドラマ「風林火山」の主人公・山本勘助の係累の人がいたそうなんですね。おそらく、「丸馬出」「三日月掘」が築かれたのはこの人の影響ではないか、と思われます。


 城の遺構があまり残っていないのはさびしい限りですが、公園内をぐるぐる廻って、少しだけ見つけました。

 七代藩主・鳥居忠宝が隠居所を造る際、近隣にある「吾妻古墳」から石を持ってきて、庭石にしました。
 壬生城6

 これも「吾妻古墳」の玄門で、同じく忠宝の隠居所に設置されました。いったい、何に使ったんでしょうかね!?
 お殿様も古墳から石をかっぱらってくるとは、随分強引というか、あまり関心しません(汗)
壬生城4

 
 蛇足ですが、壬生町には古墳がいくつか存在するようで、古代から開けていた土地だと考えられます。

                     
                       つづく
 


    
より大きな地図で 壬生町城址公園 を表示


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壬生城本丸御殿と徳川将軍家(壬生町立歴史民俗資料館)

 栃木県下都賀郡壬生町にある壬生町立歴史資料館では現在、企画展
「壬生城本丸御殿と徳川将軍家」が開催中です。(3月18日まで)
 壬生城本丸御殿と徳川将軍家

 【展示趣旨】
 壬生城の本丸御殿は、徳川将軍家が日光東照宮社参の帰途で宿泊する将軍家宿所であったことから、新発見資料を交えながら往時の本丸御殿を検証していく企画展。
 壬生城の変遷が分かる絵図7点、二条二の丸御殿黒書院のふすま(元離宮二条城事務所蔵、国指定重要文化財)3点、徳川将軍の肖像画3点のほか、最高のもてなしとされる5の膳から成る将軍のための献立なども紹介。


 壬生という地名ですが、つい京都の新選組が屯所を置いてた場所を思い浮かべがちですが、今回は下野国の壬生です。
 ここには中世に築かれた城があり、江戸時代には壬生藩という小藩が置かれていました。
 明治維新後、すぐに城は下げ渡されてしまい、残念ながら現在では城の遺構はほとんど残っていません。
 しかし、かつてこの城は徳川将軍が日光社参の折に宿泊した「宿城」として重要な通過点でもありました。それゆえ、将軍御成のための立派な御殿が建てられていたといいます。
 今回の展示では、残された城絵図などの史料から、本丸御殿の概容を中心に、城下町形成の過程などに迫った内容となっています。
 意外だったのが、各所に壬生城の絵図が複数伝えられていたことです。その上、最近の調査で、城のすぐ近所にある常楽寺という藩主・鳥居家の菩提寺から城内の様子が詳細に記された絵図があることが判明し、今回出展されていました。

 興味深いのが、将軍の御成御殿は藩の管轄ではなく、あくまでも幕府が管轄していたらしいというのです。ですから、藩主の屋敷は二の丸の方に造られていました。
 現在、復元工事が進行中の名古屋城本丸御殿はその最たるものです。
 その他、岩槻城、古河城、宇都宮城などにも日光社参の折の御成御殿がありました。

 そして、今回の目玉は京都の二条城から黒書院で使用されていた松の絵が描かれた襖が3点貸し出されていたことです。しかも国指定重要文化財!おそらく、壬生城の御殿にもこれと似たような、狩野派によって描かれた襖が存在していたことでしょう。
 (現在では御成御殿が現存しているのは二条城しかないので、他所で御殿を考証する際などは二条城で使用されている建具や室礼、障壁画がモデルになります)
 二条城ではこうした貴重なものを滅多に他所へは貸しださないそうなので、今回特別な計らいをいただき大変有難かったと学芸員さんも喜んでおられました。
 それから、もう一つの見どころは、同館の隣にある図書館で司書をしておられる笹崎明さん(日本城郭史学会委員)という方が手作りした壬生城本丸御殿の模型です。
 笹崎さんという方は趣味で城の研究をされている(しかも、かなり本格的になさっている)そうなのですが、仕事の合間をぬって御殿の模型を作成されました。〈地元紙でも取り上げられ、ちょっとした町の有名人だそうです)
 奥さんや娘さんの協力もあってなかなかの力作ですので、ぜひ注目してみてください。
 

 「城」というと、一般的には「戦のための防御施設」としての城を思い浮かべますが、今回の展示では戦に関係しない、平和な時代に築かれた城とはいかなるものだったか、という点を取り上げたのがユニークだったと思います。御成御殿のある城についてはそのほとんどが現存しないことから詳細不明な点も多く、現在研究が進められているそうです。
 狭い展示室内に60点ほどの史料が所狭しと並んでいましたが、絵図が多くてわかりやすい展示でした。テーマのつかみ方が良かったと思います。
 地元の方の反応も上々で、すでに図録は完売してしまったとか!
 展示は今月18日(日)までですので、ぜひお近くの方はご覧になってみては如何でしょうか。
 それにしても、今回はじめてこの地へ来たのですが、東武線の乗り継ぎが悪くて、自宅から3時間近くかかってしまいました。少々遠いな。。。という印象です。
 この後はお城と恒例?の墓参りをしてきたので、その辺について記述する予定です。

    開館時間 9:00~17:00(火曜日は13:00~) 月曜休
    壬生町立歴史民俗資料館


 関連記事 壬生城再現シンポジウム「よみがえれ!幻の本丸御殿」
 

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震災から1年の仙台へ行ってきました

 東日本大震災から一年の仙台へ行ってきました。(3月10日)本当は昨日記事を書いたほうが良かったのですが、少々疲れてしまい、今日になってしまいました。
 朝5時過ぎくらいに自宅を出て、JR東京駅へ。雪が降っていて寒い朝でした。
 東京駅から「MAXやまびこ」に乗りこみました。MAXやまびこですが、いつもはなかなか2階席に空きがないのですが、今回は運よく予約できました。
 MAXやまびこ

 
 栃木県を抜けて福島県へ入ると、一面の雪景色です。
 福島雪景色



 東京から2時間20分くらいでJR仙台駅へ着きました。
 震災後仙台へ着たのは昨年の9月の来訪に続き、2度目になります。
 (過去記事⇒「震災から7ヶ月後の仙台」参照)
   JR仙台駅(2012年3月)


 駅の外へ出ますと、福島県ほどではないもののやはりが降っていました。下の写真は夕方時のもので、お昼過ぎからは雪が雨に変わりましたけれど、一日通してとても寒かったです。。。
 そういえば、昨年3月11日もこんな風にかなり寒かったはず。地震直後に駅構内や周囲にいた方々は大変だったに違いありません。
 JR仙台駅前(2012年3月)


 震災から丸一年ということで、様々な思いがよぎります。多くの方々が津波の犠牲となり、いまだに行方不明の方が約3000人いらっしゃると聞きました。大切なご家族、ご友人を亡くされた方々の癒えぬ悲しみは察するに余りあります。
 そして、肝心な震災復興です。4,5日前に宮城県知事の村井さんがTVのニュース番組に出ておられたのですが、一向にガレキ処理が進まず復興の妨げとなっており、全国で協力を仰ぎたいと頭を下げていました。
 なんでガレキ処理が進まないかというと、放射能を含んだガレキに対する警戒感があるからです。一部では他県への持ち込みについて反対の声が上がったりしているようです。
 放射能の拡散を懸念する気持ちもわからぬわけではありませんが、やはり検査をして放射線量に問題のないガレキは出来るだけ速やかに受け入れ、処理すべきだと思います。
 
 このようにガレキ処理が一向に進まない原因を作っているのは、ハッキリ申しますと福島原発の事故のせいです。これだけは本当に余計でした。
 そして、問題の東京電力です。未曾有の大地震でしたし、100歩譲ってあのような大事故がおきたのはやむをえなかった面はあったかもしれません。
 しかし、その後の事故処理や対応について、東電の誠意がまったく感じられません。法人や個人向けの電気料金を値上げすると表明していますが、その前に社員の賃金カットや年金削減など、身銭きる覚悟はないものでしょうか。
 先日も社長は記者会見に姿を見せなかったとか。福島県の住民をはじめ、これだけ多くの人々に迷惑をかけているのというのに、それはないだろうと思いました。
 今すぐに原発を0(ゼロ)にするということは不可能でしょうが、今回の震災で東電がお題目のように唱えていた安全な原子力運用の「限界」が見えてしまったわけですし、段階的に縮小せざるをえないのではないか、と個人的には考えています。
 (実は今まで自分の考えを何らかの形で書き綴りたいとは思っていましたが、今までガマンしていました。でもここまでくると、ガマンも限界です。)
 
 
 ところで、仙台駅構内コンコースでは、「がんばろう東北 絆フェア」というミニイベントを開催していました。(3月20日まで)
 ご当地宮城県をはじめ、被災3県の物産がいろいろと並んでいました。
 下の写真は銘酒のコーナーでしたが、出張帰りや観光客の方が足を止めて、商品を手にとっていました。残念ながら私は下戸なのでお酒は購入できなかったんですけどね。
 他の土産物コーナーでも多くの人々がお土産品を買い求めていて、少しでも被災地の力になりたいという思いが伝わってきました。
 ひとりひとりの小さな善意が被災地への励ましとなり、力となります。
 JR仙台駅構内(2012年3月)

 震災以降、「絆」の一文字がそこかしこで聞かれます。この意味を私なりに考えてみました。
 先日テレビを見ていたら、防災関係のイベントに出ていた人がインタビューでこう答えていました。
 「やっぱり遠くの親戚より近くの他人なんで、少しでも協力しあうのが大事だと思ったんで(ここへ)来ました」
 この言葉、グッとくるものがありました。やっぱり困ったときはお互い様というか、助け合いなんですよね。

 私などヘタレなもので、初対面の人たちと打ち解けるのが苦手なのでボランティアなどにも参加できず、微々たる額の寄付をしただけで、本当に申し訳なく思っています。ですから、被災地で救助活動にあたった自衛隊やボランティアの方々など、その勇気には本当に頭が下がります。

 被災地への協力はひとり一人が今出来る範囲のことをすればいいのではないか、と思っています。ですから、時間的金銭的余裕のある方はできましたら東北地方、とりわけ被災3県に足を運んでいただきたいものです。
 東北新幹線はやぶさの導入で、東北へのアクセスが格段に良くなりました。これから暖かな春を迎えますし、日帰りや一泊旅行など是非ご検討してみては如何でしょうか。

 ※この続きはまた数日後書かせていただきます。
 
 

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北関東の戦国時代~戦国の終焉~(栃木県立博物館)

 栃木県宇都宮市にある栃木県立博物館では、現在テーマ展
「北関東の戦国時代~戦国の終焉~」を開催中です。(4月1日まで)
 栃木県立博物館

 【開催趣旨】
平成23年度の北関東自動車道の全面開通に伴い、北関東3県(茨城・栃木・群馬県)相互の交流が重要視されるようになりました。
 そこで本展では戦国時代の北関東地方に注目し、とくに戦国末期の下野の状況を中心に、さまざまな資料から北関東の戦国時代の特質に迫ります。
 なお、本展は茨城県立歴史館・群馬県立博物館との共催により、北関3県共通テーマとして開催するものです。
 著名な戦国大名である上杉謙信・北条氏康・武田勝頼らの書状のほか、今回あらたに発見された皆川俊宗(下野国皆川城主)の書状(初公開)などを展示します。


 上記にもあるように、昨年より茨城県立博物館・群馬県立歴史博物館そして栃木県立博物館の3館リレーで、戦国時代の北関東について展示を行ってきました。
 そして、今回栃木県立博物館がその最後になります。(私は昨年、群馬県博の展示は見てきました)
 今回の展示で扱われていたのは天正10年(1582年)の「本能寺の変」の前後から、羽柴秀吉による「宇都宮仕置」まででした。
 この時代、関東では小田原の北条氏が勢力を拡大していましたが、宇都宮氏や佐竹氏など北関東の武将たちはこれに激しく抵抗していました。
 北条氏は織田信長と関係を強化することで、関東における覇権をゆるぎないものとしようとし、信長もこれにはまんざらでもなかったようで両社は良好な関係を築くにいたりました。
 ところが、天正10年に「本能寺の変」がおこり、信長が死ぬと状況が一変します。信長の後継をめぐって、羽柴秀吉と徳川家康との間で戦がおこります。これは濃尾平野で展開された「小牧・長久手の戦い」といって有名なものですが、これに連動して関東でも北条氏と宇都宮・佐竹氏など北関東の武将たちとの間で「沼尻合戦」という戦がおこりました。

 下の写真は、北条氏と佐竹・宇都宮氏ら連合軍が対陣した「沼尻古戦場」です。栃木県南部にある「三毳山」の南山麓にあります。(2007年4月撮影)
 私は5年前に現地を散策したのですが、目だった遺構も残っておらず、ただひたすら山をバックに農地が広がるだけでした。
 沼尻古戦場

 この「沼尻合戦」ですが、戦闘では両陣営とも大きな成果をあげられず、長期にわたる「にらみ合い」の末、結局和平とあいなりました。和平交渉では北条氏側が有利に立ち、北条氏による関東統一は目前と思われました。
 ところが、徳川家康との争いに勝ち、信長の後継におさまった羽柴秀吉は佐竹氏ら北関東の諸将に介入工作を行い、このことで北条氏は秀吉の「敵対者」として位置づけられた結果次第に窮地へ追い込まれ、やがては天正18年(1590年)の小田原攻めにより滅ぼされました。

 展示では文書類がほとんどで、この一連の経過に関連するものが約40点ほど紹介されていました。同館が所蔵する「那須文書」(北関東の豪族・那須氏に伝わった文書)の中にある有名武将の書状や、信長・秀吉・家康の朱印状などが目立ちましたが、中には庶民に関する史料がありました。北条氏の支配下にあったある四つの村の人々が、戦になった時家財が略奪されるのを防ぐため、それらを俵に詰め、それを古河にある蔵元へ預けていたところ、いざ戦が済んだら蔵元がそれを返却してくれないというので、訴訟沙汰になったという史料がありました。
 この時代、戦で略奪などされないように、庶民が自分の家財を俵詰めにして預かり所へ預けておくといったことが行われていたんですね。初めて知りましたが興味深かったです。 
 その他、最近「那須文書」の中にあった差出人不明のある書状が皆川俊宗という武将の書いたものと最近確認されたそうです。これは、熊本大学に寄託されている「細川家文書」〈熊本藩細川家に伝わった文書)の中に俊宗の書状があることが最近見つかり、その書状と那須文書にあった差出人不明の書状の花押などが一致したので判明したという話でした。こういう偶然もあるのですね。

 このようにひとつひとつの史料は面白い点もあったのですが、展示全体としての流れがわかりにくかったです。普段、文書などに親しみのある玄人向きの展示という印象でした。また、予算の関係で図録も発行されていなかったのも残念です。
 展示を記念して、来る3月24日には同館にてシンポジウムが行われるそうですが、地元の方を中心に人気が高く、すでに満員御礼だそうです。

 なお、今回の展示の元ネタになったのは、江戸東京博物館学芸員の斎藤慎一さんが2005年に出された『戦国時代の終焉~「北条の夢と秀吉の天下統一~』という本だと思います。
 従来あまり一般的には知られていなかった「沼尻合戦」について詳述されており、秀吉の天下統一までの関東の戦国史をわかりやすく叙述していますので、ぜひご一読されるといいと思います。
   
戦国時代の終焉 - 「北条の夢」と秀吉の天下統一 (中公新書(1809))戦国時代の終焉 - 「北条の夢」と秀吉の天下統一 (中公新書(1809))
(2005/08/26)
齋藤 慎一

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  参考サイト 栃木県立博物館

 
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A☆六文銭

Author:A☆六文銭
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日本100名城完全制覇と有名人の墓めぐり(掃苔)
日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

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