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高知城(再々訪)

 こうして、今月上旬土佐山内家墓所を訪問(過去記事⇒「土佐山内家墓所探訪」参照)したついでに武市半平太や土佐勤王党関連の史跡を中心に綴ってきましたが、一応キリのいいところで一旦おしまいにします。(あとストックは半月分くらいあるのですが、また後日まとめてからいうことで・・・)

 最後に高知城の写真を数枚のっけておきます。高知城へはかれこれ3度めなのですが、過去2度とも曇⇒雨になってしまったため、今回「三度目の正直」でやっと晴れてくれました。おかげさまで青空をバックに撮影することができました。
 なお、高知城については一昨年書いているので、詳細はそちらをご参照ください。

 過去記事  高知城(89/100)
         高知城〈二)
         高知城(三)
         高知城(四)


 追手門前から天守を望めるのは高知城だけ。
 高知城25



 天守をバックにした「板垣退助」像。この人や後藤象二郎はアンチ勤王党でした。
 高知城26(板垣退助)



 三の丸から見た天守 山内一豊が築いた初代天守は享保12年(1727年)に焼失。現在の天守は寛延2年(1749年)に再建されたもの。
 高知城21


 詰門付近
 高知城24



 天守と本丸御殿(懐徳館) 御殿が天守に接続しているのは珍しい。 
 高知城27



  ***************************

 以前紹介したときに、「三の丸」跡をアップし忘れたので、ついでに掲載しておきます。詰門を見ると、ついつい本丸方面へ急いでしまうのでこちらもお忘れなく。
 江戸時代、三の丸には「大書院」と呼ばれる広い建物があり、主に儀式などで藩士が集合する場所として使われていました。
 高知城23

 三の丸跡から発掘された長宗我部時代の石垣。長宗我部元親は天正16年(1588年)岡豊城よりここ大高坂山に移り築城しましたが、水害などで思うような城下町作りがかなわず、3年後に浦戸城へ本拠を移転しています。
 (過去記事⇒「浦戸城」参照)

 付近からは豊臣家との関係を示す「桐紋瓦」が出土しました。
 高知城28


 水路遺構  高知は多雨なため、石垣に泥水が入り目詰まりによるゆるみが生じないよう、排水しやすい工夫がなされています。この先は「石樋」に接続しています。
   高知城22


    
より大きな地図で 高知城 を表示


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テーマ : 城めぐり
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開成館跡 「維新の三傑」が集結

 高知市九反田に「東九反田公園」という△形をした広場がありますが、ここには慶應2年(1866年)に殖産興業・富国強兵などを目的として設置された「開成館」がありました。
 山内容堂の強い支援のもと、後藤象二郎が中心となって運営し、軍艦局・貨殖局・勧業局・火薬局など11の局が設けられ、土佐藩の近代化に重要な役割を果たしました。なお、開成館では中浜万次郎、岩崎弥太郎、細川潤次郎なども活動しています。
 下の方の地図を見てもらえばわかる通り、鏡川沿いの港にも近い場所に建てられたのは水運も考慮してのことと思われます。
 明治2年(1869年)、開港地における府藩県の商会所禁止によりその機能を失ったため、翌明治3年(1870年)、建物は「寅賓館(いんひんかん)」と改称され、外来客の接待所となりました。
 開成館跡

 上の写真の石碑にも刻まれていますが、明治4年(1871年)には西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允がここへ来訪し、板垣退助・福岡孝弟と会談。三藩より「御親兵」〈後の近衛兵)を献上する旨の話し合いが行われたといいます。
saigou ookubo kido

 現在は石碑しかありませんが、それにしてもすごいメンツが集ったものですね。「維新の三傑」が一堂に会したわけですから。

 昭和17年(1942年)、高知の政治家・実業家で作る「大松倶楽部」が開成館跡地に板垣退助の旧邸を移築し、「憲政館」と名付けました。(現地案内板より)
 憲政館1

 昭和40年(1965年)、憲政館は高知市によって建て替えられましたが、それもやがて老朽化し、平成16年(2004年)に取り壊されて、現在の公園になりました。
 ですから、現在は「憲政之祖国」と刻まれた大きな石碑がそれを伝えるのみです。
 憲政館2


   
より大きな地図で 開成館跡 を表示


  ***********************

 なお、開成館の正門は県立高知小津高校(高知市城北町1-14)の敷地内に移築されて現存しています。
 開成館正門


 関連記事 板垣退助の墓 
        木戸孝允夫妻の墓


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テーマ : 国内、史跡・名勝巡り
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山田橋番所・獄舎跡/薫的神社

 JR高知駅の南東、江ノ口川に架かる山田橋(高知市はりまや町3町目)という狭い橋がありますが、かつてここは土佐北街道の起点であり、藩主が参勤交代のため江戸へ向う際も必ずここを通ったといいます。橋の南詰西側に番所が、東側には獄舎が置かれていました。
 山田橋番所/獄舎跡

 文久2年(1862年)に青蓮院宮の令旨を得て、藩主の父で前々藩主の山内豊資を担ぎ出し藩の勤王化と藩政改革を推し進めようとして山内容堂の逆鱗に触れた間崎滄浪、平井収二郎、弘瀬健太らが投獄され、切腹したのがこの山田橋の獄舎です。
 その他、多くの勤皇党員が入牢させられ、武市半平太の弟・田内衛吉の服毒自殺、島村衛吉の拷問死、他に斬首3名、禁錮7名、岡田以蔵は獄門になるなど、厳しい処分を受けました。この獄舎ではいわゆる「政治犯」を収容していたようです。
 現在は上の写真のように案内板が立つだけで、周囲は宅地となり、当時の面影は何もありません。


   ***********************

 高知市洞ヶ島町5にある「薫的神社」 江戸時代前期に宗門のトラブルで藩の意向に抗議したあげく投獄され憤死したという「薫的和尚」を祀る小さな神社があります。
 薫的神社2


 こちらの境内に、山田橋の獄舎の一部が移築・保存されております。高知市街は空襲もあったのに、今までよく残っていたなと感心しました。 
 薫的神社1



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テーマ : 国内、史跡・名勝巡り
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武市瑞山邸跡

 武市半平太の墓や桂浜の龍馬像を訪ねた翌日、土佐山内家墓所を訪問する前に、少しだけ時間がありましたので、高知市街を歩いてみました。

 高知市菜園場町1丁目・横堀公園内に武市瑞山(半平太)邸跡の石碑があります。
     武市半平太

 武市家の家督を継いだ後の嘉永2年(1849年)、半平太は吹井の生家を手放し(過去記事「武市瑞山旧宅」を参照)、妻の冨と祖母を連れて城下へ引っ越してきます。新しい家のすぐ真向かいに妻の実家である島村家の家があったことがこの地を選んだ理由のようです。
 安政2(1855)年の春、半平太は門口6間、奥行4間(11×7.3m)の道場を新築しました。午前中は妻の叔父・島村寿之助が槍術を教え、午後は半平太が剣術を教えていました。
 この頃、半平太は藩の命令で、土佐の東部にある安芸郡や香美郡へ剣術の出張指導へ出かけていますが、この地方の郷士が後に半平太の影響で勤王運動へ身を投じていく由縁となっています。
 門人数は120名を数え、若き日の中岡慎太郎や岡田以蔵が門人として名を連ね、もちろん坂本龍馬も武市家とは遠縁ということもあってよく出入りしていました。
 なお、実際に道場があったのはここより東へ30mほど行った辺りだったといわれています。
 武市瑞山邸跡4
武市瑞山邸跡1


 公園の脇には半平太や龍馬らの名が書かれた幟旗が閃いていました。
   武市瑞山邸跡3


 石碑の傍らにあった「半平太と冨さんのラブストーン」 カップルで来た方たちは、この白い石に名前を書いて、互いに交換し、愛を深めあってください、とのこと。
 以前にも書きましたが、半平太とお冨の間には残念ながらお子さんがいなかったのですけれども、琴瑟相和する仲だったといいます。半平太が死を賜った後もお冨は再婚せず、マッチ作りなどの内職で糊口をしのぎながらひたすら亡き夫を偲ぶ日々を送っていました。終生、夫への愛を貫いた女性だといえます。そんな武市夫妻にあやかって、ということでしょうか。
  武市瑞山邸跡2

    関連記事 武市半平太の手紙
           武市瑞山旧宅
           武市半平太・冨夫妻の墓
           「龍馬伝」武市半平太の死


   
より大きな地図で 武市瑞山邸跡(横堀公園) を表示



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「一領具足」の悲劇/長宗我部元親

 夕暮れに包まれる桂浜も見たので、そろそろ高知市街へ帰ろうと思っていたんですが、その道すがら「一領具足供養の碑」(石丸神社)がありました。龍馬記念館から南西200mくらいの、黒潮ライン沿い(県道14号線)にあります。
 標識は出ていますが、地元の人のための小さな墓地内にあり、車も一台停めるのがやっとという場所でわかりにくいです。

 「一領具足」とは長宗我部元親が兵力増強のため募った、いわゆる「半農半士」の下級武士団のことです。具足は一領、馬は替馬なしの一頭で戦場を走り回るため、「一領具足」と呼ばれるようになりました。
 ところが、関ヶ原合戦で西軍についた長宗我部氏の改易が決まると、「一領具足」たちは長宗我部氏に一郡でも残すよう要求し、浦戸城明け渡しを拒み、籠城します。彼らの抵抗は長宗我部の重臣・久武親直らによって鎮圧され、籠城した「一領具足」273名の首は大坂の井伊直政のもとへ送られました。これを「浦戸一揆」といいます。
 首をとられた「一領具足」らの胴体はこの地に葬られたそうです。彼らの供養のため、後に「石丸神社」が建立されました。(下の写真左の小さい社)
 六体地蔵

 お社の脇には「六体地蔵」がありますが、昭和14年(1939年)、野市町〈現・香南市)の吉祥寺住職・堀川善明尼という人が「一領具足」の供養をするため広く浄財を募り、桂浜の坂本龍馬像建立にも尽力した野村茂久馬らの後援を得て建立されたそうです。
 一領具足供養の碑

 地図を見ていて偶然知った場所ですが、ああここが以前から聞き知っていた「一領具足」の悲劇を伝える場所なんだということがわかりました。

   
より大きな地図で 一領具足供養の碑 を表示
  


 お社と地蔵様に供養の祈りを捧げ、帰路を急ぎます。これで今日の日程は終了!と思ったのですが・・・。
 黒潮ライン

 
 途中で長宗我部元親の銅像を見つけてしまいました。「若宮八幡宮」(高知市長浜6600)の敷地内にあります。元親の「初陣」時の銅像だそうですが、凛々しい若武者ぶりが感じられる良い銅像だと思います。
  長宗我部元親像


 この近所に元親のがあったらしいのですが、もう日没寸前でしたので今回は潔く諦めました。
 また次回の課題にしておきたいと思います。


 過去記事 高知県立歴史民俗資料館(長宗我部氏展示)


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浦戸城

 高知県立坂本龍馬記念館のすぐ目の前に、木々がこんもりと茂った一画がありました。
 ここはかつて、長宗我部氏の城であった「浦戸城」の天守跡だということです。
 鎌倉時代末期に築かれたとされ、その後本山氏の勢力下におかれました。本山氏滅亡後、長宗我部元親の家臣・横山友隆が城番となったといいます。
 元親は天正16年(1588年)、岡豊城から大高坂城(現・高知城)に拠点を移しましたが、治水に問題があったため大高坂城を放棄して、浦戸城に居城を移しました。
 以降、元親の子・盛親が関ヶ原合戦で改易されるまでの約10年間、土佐の政治・軍事の中心部として機能していました。
 以前発掘調査をしたところ、石垣の一部が出てきたそうです。
 浦戸城1


 中の茂みに入ってみました。現在は小さい社が二つあるだけです。ここに、2層3階の天守があったというのですが、当時をイメージするのは至難です。
 浦戸城2

 浦戸城3

 
 桂浜へ向う道沿いに、明治28年に建てられた「浦戸城址」の石碑がありました。この付近は「三の丸」だった模様。
   浦戸城4


 この石碑のすぐ側に土佐藩の「浦戸砲台場跡」がありました。
 江戸時代後期、外国船が日本近海に出没したため、文化5年(1808年)にこの付近に大筒を配備、文久3年(1863年)に本格的な砲台場を築いたということです。案内板の側に崩れた石垣らしきものがありました。
 浦戸砲台場跡

 
 その付近にあった空堀と思われる場所。(写真だとちょっとわかりにくいですが) こんな所にも城跡の痕跡がわずかながら見られます。
 浦戸城5


 
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GO!GO!桂浜

 高知市仁井田の武市半平太の墓を訪れた後、一路坂本龍馬の銅像がある桂浜へ向います。

 桂浜には「高知県立坂本龍馬記念館」があります。外壁は鏡張りの、一風変わった建物でした。
 高知県立坂本龍馬記念館

 実はここへ来るのは初めてだったのでどんな風か少々興味があったのですが、龍馬が最期を迎えた「近江屋」の再現などがあり、写真を撮っている方もチラホラいました。
 地下フロアに龍馬の生涯が紹介されていましたが、個人的にはあまり面白くなかったかな。見せ方にもう一工夫あるといいような感じです。中には熱心に見ている方も・・・きっと龍馬のファンなのかもしれません。
 なお、現在冬の企画展として「野根山二十三士ゆかりの北川家資料」展というのを開催中(3月31日まで)なのでご興味のある方はどうぞ。
 (「野根山二十三士」とは、安芸郡の郷士で尊王攘夷派の清岡道之助以下23名が、捕縛された武市半平太の解放と藩政改革を求めて集結した一件で、これに対して土佐藩は強攻策をとり、23名を捕縛、全員死罪という結果に終わりました。
 今回の展示ではその中の一人、新井竹次郎の子孫の人が寄贈したという史料の一部でしたが、書画が多く、事件に関する史料はあまり出ていなかったようです)

 記念館でお土産品などを眺めて少々ダラダラしてしまい、気がついたら17時近くだったので、あわてて記念館を出、龍馬像を見に行きました。
 以前、悪天候のため断念したので、リベンジを果たしたという感じです。これはお約束ですね(笑)
   坂本龍馬像1(桂浜)


 その後、海岸へ降りて、ざぶーんざぶーんと打ち寄せる波うち際を少々散策。でも夕暮れ時でしかも海風が強くて、寒いのなんの!観光客もさすがに少なかったです。
 桂浜


 気がつけば、空にはうっすらと白い月が・・・さよなら、龍馬。(^ω^)ノシ(さぶ~)
  坂本龍馬像2(桂浜)


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テーマ : 展示会、イベントの情報
ジャンル : 学問・文化・芸術

武市半平太・冨夫妻の墓

 つづき

 瑞山神社の右手にある石段を登ると、武市一族の墓があります。
 前列左が武市半平太夫人の冨の墓、その隣が半平太のお墓(国史跡)、その他半平太の両親等親族が眠っています。
  武市一族の墓


 半平太の後半生を簡単に記しておくと、文久元年(1861年)江戸で「土佐勤王党」を結成し、時の参政・吉田東洋に「一藩勤王」を説くも退けられ、翌文久2年(1862)年4月、東洋を暗殺し、藩論を勤王化へと導きます。
 同年10月、半平太は「柳川左門」と称し、副勅使・姉小路公知の雑掌として護衛にあたり、江戸へ向います。
 同年12月、留守居組〈上士)に昇格、翌文久3年(1863年)には京都留守居役加役となり、他藩の志士たちとも誼を通じます。
 ところが、同年「8月18日の政変」により状況は一変し、藩政に復帰した隠居の山内容堂は腹心の吉田東洋を暗殺した土佐勤王党員らの捕縛・弾圧を開始、9月に土佐へ戻った半平太も捕らえられ、入牢します。
 2年後の慶應元年(1865年)閏5月11日、南会所にて切腹。享年37歳でした。

 1年数ヶ月にわたる牢獄生活で、半平太は妻の冨に宛てて、実に200通もの手紙を書きました。妻への思い、政事のこと、自白した岡田以蔵への恨みつらみ、獄中生活の辛さ等々、時には得意の絵をまじえて、率直な気持ちをつづった手紙を送ったのです。
 半平太はやがて恩赦が下るのでは、という淡い期待を抱いていたようですが、容堂の半平太に対する怒りはおさまらず、ついに死を命じられました。
 切腹の日、長い牢獄生活のため半平太の身体は衰弱していましたが、泰然とした態度で見事に三段に腹をかき切ったと伝えられています。その時、介錯をつとめたのは妻・冨の弟・島村寿太郎と半平太の義理の甥・小笠原保馬の二人でした。保馬は半平太の壮烈な最期を目の当たりにしたことがトラウマとなって、一生顔面神経痛を患ったということです。
 (余談ですが、土佐藩は武士が切腹する場合、介錯は親族が行う事が多いようです)

 中岡慎太郎の言によれば、半平太は薩摩の西郷隆盛と肩を並べる程の人物であったといいます。半平太の死から二年後に「大政奉還」が行われ、維新の夜明けはもうすぐそこまで来ていましたが、勤王の夢破れ、あたら命を落としました。

  武市半平太の墓
  武市半平太の墓1

 墓の後方にある石碑に「明治四十年」と刻まれているので、この墓石が建てられたのはだいぶ後年になってからです。世間をはばかるということもあったでしょうし、その後困窮した武市家ではなかなか墓も建てられなかったものと思われます。
    武市半平太の墓2


 半平太の死後、跡継ぎのいない武市家は没落。未亡人となった冨の生活は困窮をきわめ、マッチ作りの内職によって細々と食いつなぐ日々を送っていました。
 半平太の名誉回復が最初に行われたのは、明治10年(1877年)3月のことで、高知県令渡辺国武によって士族の族籍と家禄が回復されました。
 明治政府は明治24年(1891年)、半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村虎太郎に正四位を追贈します。同年5月、未亡人の冨は皇后美子(後の昭憲皇太后)に拝謁し、白縮緬と金100円を下賜されました。東京九段坂の富士見軒において、祝賀会も開催されました。
 その後、冨は元土佐勤王党員で新政府で出世した田中光顕の強い支援を受け、養老金3000円を下賜され、かつての主家である山内家からも終身慰労年金200円が交付されました。
 大正6年(1917年)、冨は満87歳をもってこの世を去りました。半平太を失ってからの長い歳月を、ひたすら亡き夫を偲びつづけた人生でした。
 二人の間に強い愛情と信頼がなければ、冨も逆境を強く生きることはできなかっただろうと思います。

   武市冨の墓
  武市冨の墓


 冨の亡骸は半平太の墓の隣に葬られ、この夫婦はやっと安らぎを得ました。私は半平太、冨夫妻、および一族の方々の墓に合掌し、冥福を祈りました。(ー人ー)
 なお、武市家には後年他家から養子が入り、その方のご子孫が半平太の遺した書簡、その他を大切に保管していました。


  関連記事 武市半平太の手紙
         「龍馬伝」武市半平太の死



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瑞山神社

 つづき

 「武市半平太旧宅及墓」の標柱を右手に進みます。
 武市瑞山旧宅3


 石段を登った小高い場所に「瑞山神社」があります。その名の通り、武市半平太(瑞山)を祀っているのですが、小さなお社の目の前が記念館になっています。昭和40年に瑞山没後100年を記念して、地元有志によって設置されました。
 だいぶ以前、ここに来たことのあるうちの主人によりますと、当時はコンクリート打ちっぱなしの寒々とした建物だったそうですが、ここ最近リニューアルされた模様です。
 中は半平太の生涯に関するパネル展示になっていましたが、内部撮影禁止により写真はありません。
 瑞山神社5


 こちらがお社。記念館の裏手のドアを開くとお参りできます。
 瑞山神社3


 記念館の玄関先に、銅製の刀がおもむろに置いてありました。「何じゃこりゃ?」と思ったのですが、高知県須崎市に昭和54年半平太の銅像が建てられた時の刀だそうです。銅像のほうは半平太本人に似てなくて地元の評判が悪かったため取り壊され、新たに建造しなおされたそうです。
 そこで、初代の刀だけがこうして残っているというワケです。
 瑞山神社4

 境内にある石碑。半平太が獄中で詠んだという漢詩が刻まれています。
 「花依清香愛 人以仁義栄 幽囚何可恥 只有赤心明」
 この漢詩は、半平太が牢屋の中で鏡を見ながら描いた自画像に添えられています。
  瑞山神社1


 もう一つ石碑。こちらは半平太の生涯について書かれているようです(よく読めませんでしたが)。
  瑞山神社2


 つづいてお墓なのですが、少々長くなるので、ここで一旦切らせていただきます。

                           つづく


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武市瑞山旧宅

 つづき

 この日は当初、高知城下を墓参をはじめ、くまなく廻ろうと思っていたのですが、滅多にない晴天だったため、急遽午後から予定を変更して少々遠方の史跡巡りをすることにしました。
 高知駅前のレンタカー屋へ行き、最初の一軒で断られたものの、お隣のレンタカー屋で配車OKということで車を借り、一路高知駅から南東を目指します。
 車に乗ること25分くらい。高知市仁井田というところに着きました。
 ここには、「土佐勤王党」の盟主であった武市瑞山(半平太)の旧宅があります。
    武市半平太

 県道仁井田竹中線沿いに標識があるのですぐわかります。道路沿いに車5台分くらいの駐車スペースもありますのでそこへ車を停めます。
 武市瑞山旧宅1


 細い私道を進むと突き当たりに旧宅が見えました。ただし、現在は個人所有のお宅になっており、無断立入厳禁となっています。
 武市瑞山旧宅2


 旧宅脇にある標柱と案内板。昭和11年(1936)9月に国史跡の指定を受けています。
 武市瑞山(諱・小盾 通称・半平太)は文政12年(1829年)、長岡郡仁井田郷吹井村で生まれました。もともと武市家は代々郷士(知行50石)の家柄で、祖父・半八の代に御材木方や御蔵方など様々な職務での勤務ぶりが評価され、「白札」に昇格しています。
 嘉永2年(1849年)、半平太21歳の時、郷士・島田源次郎の娘・冨と結婚。
 翌嘉永3年(1850年)3月、妻・冨と祖母を連れて高知城下の新町田渕へ転居しますが、この家と土地を手放しています。
 ですから、彼が家督を継ぐまでの少年時代を過ごした家だということですね。
 武市瑞山旧宅3


 標柱の左手にある玄関先まで行くと、庭につながれている番犬がキャンキャンワンワン吠えはじめました!しかも2匹もいます!
 「御免くださーい」と何度か呼びかけたのですが応答なし。犬もまったく吠えやむ気配がなくやかましかったので、やむなく撤収しました。前から言っておりますが、自分は犬、猫といった動物が苦手です。(標柱のあたりでも気配で吠え出すようなのでご注意ください)

 後で調べたら事前に教育委員会だかに相談すれば見学できたらしいです。(半平太が暮らしていた奥の母屋は国の史跡なので、本来なら一般公開しなければならないはずですので)
 仕方ないので、旧宅の右手の瑞山神社〈後述)から撮影しています。右の建物が半平太が暮らしていた母屋です。庭には小さな池もあって、当時の面影をよく伝えています。
 武市瑞山旧宅4

 
 次回は武市半平太の墓参りなどを。

 
 関連記事 武市半平太の手紙
        「龍馬伝」武市半平太の死


 土電バス前浜行き「瑞山神社前」下車すぐ
   
より大きな地図で 武市瑞山旧宅 を表示


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龍馬!慎太郎!半平太!三志士が集結!!(JR高知駅前)

 過去記事「井口事件の現場」のつづき

 JR高知駅前では、現在「志国高知 龍馬ふるさと博」が開催されております。
 そして、昨年7月に除幕された武市半平太(左)、坂本龍馬(中)、中岡慎太郎(右)の3人の像が仲良く並んで立っておりました。
 龍馬ふるさと博1

 この3志士の像も、高知駅前に設置されるまでスッタモンダがあったらしいですね。なんでも、当初は桂浜の坂本龍馬銅像のところに中岡と武市の像を並んで建てるとかいう話で、それが地元の人たちの反発を買い、結局高知駅前に設置されることで落ち着いたんだとか。
 ちなみに、三名の像は発砲スチロールやウレタン製だということです。私的な感想をいえば、中岡慎太郎のはあまり似てないような。
 それにしても、三人とも非業の死を遂げたわけですが、このように像が建てられたりして顕彰されていることをあの世でどう思ってるんでしょうか。



 その後、駅前パビリオン会場に新しく設置されたNHK大河ドラマ「龍馬伝」で使用された龍馬の生家セットを見学しました。ここに入るのに大人500円とられます。
 撮影終了してセットも用済みでしょうから、こうして「再活用」したんでしょうね。
 龍馬ふるさと博2

 番組で使用された衣装や小道具なども展示してありましたが、著作権フリーらしく、写真撮影OKでした。
 ちなみに下の写真は二階にあるという設定の龍馬の部屋。
 龍馬ふるさと博3

 この日は土曜日だったのですが、閑古鳥とは言えないまでもお客さんは少なかったですねえ。それにしても、「龍馬伝」放映中に高知へ来た時は観光客がわんさかいましたから、大河ドラマの影響恐るべしです。
 逆にいえば、ほとぼりが冷めた現在はゆっくり観光したい人たちにとっては穴場というか、ちょうどいいかもしれませんね。
 個人的にはあまり見るべきものもなく、10分くらいで出てきてしまいました。


 夜、高知駅前にもう一度来てみると、三志士の像がライトアップされてました。
 龍馬ふるさと博4

 こうしてみると、少々不気味な感じがwwww


 参考サイト 志国高知 龍馬ふるさと博


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墓を壊すな(怒)

源頼朝の墓、壊される 男が墓塔上部を押し倒す? 鎌倉


 11日昼過ぎ、神奈川県鎌倉市西御門2丁目、国指定史跡の法華堂跡で、源頼朝の墓塔の一部が壊された。鎌倉署は同日、包丁を隠し持っていたとして、大和市に住む無職の男(46)を銃刀法違反の疑いで現行犯逮捕したと発表した。目撃者の話などから、同署は男が事件と関係があるとみて調べる。

 同署や市によると、墓塔は台を含めて高さ240センチ。壊されたのは上部の65センチで、男が囲いの中に入って押し倒し、周りにあった灯籠(とうろう)なども壊したとみられる。男はその後、白旗神社のこま犬を蹴り倒して逃げたという。

 市によると、頼朝は1199年に亡くなり、後に法華堂と呼ばれる持仏堂に葬られた。墓塔はその後、島津重豪(しげひで)により整備されたという。法華堂跡は1927年、国史跡に指定された。1989年にも墓塔の一部が壊され、翌年に復元された。
 
 (朝日新聞 2月11日付配信より引用)


 今日は一日用事があって出かけてたんですが、帰宅早々このニュースを読み、嫌な気分になりました。
 うちは実家が信心深い人間ばかりで(日蓮宗の檀信徒)、私も子供の頃からすでに所謂「墓マイラー」の萌芽があったものですから、小学生の頃鎌倉へは度々赴き、もちろん頼朝の墓にも何度かお参りしました。墓前で私が笑顔で佇んでいる写真もたしか実家に残っていたと思います。
 こういう輩が増えると、墓が非公開になったり、普通の人がお参りできなくなります。このような嘆かわしいことが続かないよう祈るばかりです。

 余談になりますが、多くの人はお墓について無関心、あるいは軽く考えていますが、実はけっこう厄介だったりします。へんな話、霊障などもありますので。。。((((;゚Д゚)))
 他人のお墓も大切に考え、真摯な気持ちでお参りするのが鉄則です。ましてや墓を壊すなど言語道断です!


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今冬インフルエンザ対策で大人気の○○を入手!

 現在、全国的にインフルエンザが猛威を奮っていると聞きます。
 私は今のところ幸か不幸か罹っておりませんが、もともと丈夫なほうでもありませんし、これからがコワイところ。
 インフルエンザ対策にはいったい何をしたらいいのか!?予防接種なども効果アリ、といいますが、反面注射したのにかかってしまった、という人も少なくないといいます。
 ということで、私が注目したのはコレ↓↓↓



    明治ヨーグルト「R-1」 
   R-1ヨーグルト

 なんでも、佐賀県の小学校だかで、このヨーグルトを全児童に食べさせていたところ、ほとんどの子がインフルに罹患しなかったとか。テレビの情報番組で紹介されたせいで、現在品薄状態とのこと。
 近所のスーパー等でも、「申し訳ございませんが、現在入荷が困難になっております」などと注意書きが貼ってありましたが、今日近くのコンビニに行ったらたまたまドリンクタイプとハードタイプが一個ずつあったのでさっそく買ってみました。

 気休めに過ぎないかもしれませんが、どうかインフルになりませんように。。。(ー人ー)

 参考サイト 明治ヨーグルト「R-1」

  

 
 ※高知行きの続きはもうしばらくお待ちください。


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「井口事件」の現場

 文久元年(1861年)3月4日の夜、節句祝いの宴会帰りだった上士・山田広衛と茶道方・益永繁斎が井口村にある永福寺の門前で、たまたまた通りかかった下士・中平忠次郎と肩が触れた触れないで口論となり、両者の間で斬り合いとなりましたが、山田が中平を殺害しました。
 永福寺(浄土真宗)は坂本家墓所から歩いて3分くらいの所にあります。未確認ですが、先日紹介した坂本家や平井家の墓域はもともと永福寺の所有だったようです。
 現地は道が細くて、車一台通るのがやっとという風で、幕末当時は今以上に道幅が狭かったということです。お寺さんにはこの事件を伝える石碑や案内板など見当たりませんでした。
 永福寺

 その時、中平と同行していた宇賀喜久馬は中平の兄・池田寅之進に急報し、駆けつけた池田は弟の仇である山田と同行していた益永の両者を殺害しました。
 この結果、藩が下した裁定は下士側に厳しく、宇賀喜久馬および池田寅之進は切腹させられました。
 この事件により下士の不満が募り藩政への反発が強まっていき、約半年後に武市半平太が下士200名近くを集め、「土佐勤皇党」を結成する契機となりました。

 坂本家墓所の下方に井口事件関係者他の墓がありました。時間がなかったためまとめ撮りしていますが、手前がとばっちりで殺害された益永繁斎の墓です。
 井口事件関係者らの墓


 永福寺のすぐ近所には、「植木枝盛先生誕生地」の碑がありました。植木枝盛(1857~1892年)は土佐藩士の子として生まれ、明治前期の自由民権運動の理論的指導者して活躍した人ですが、明治25年第一回総選挙を目前に36の若さで急死しました。
 この辺りはお城からも遠く、下士が多く住んでいたといいますが、中には上士も住んでいたみたいです。
   植木枝盛先生誕生地

 
 この後、山内家墓所見学会に参加するため、集合場所へ急行しました⇒過去記事「土佐山内家墓所探訪」

 
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A☆六文銭

Author:A☆六文銭
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日本100名城完全制覇と有名人の墓めぐり(掃苔)
日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

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