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ひろしまの城と戦(広島県立歴史博物館)

 広島県福山市にある広島県立歴史博物館では、現在、冬の企画展
「ひろしまの城と戦」を開催中です。(2月5日まで)
 広島県立歴史博物館

 【展示趣旨】
 広島県では、中世、各地域の国人領主や自治的なムラ組織などにより、自らの生命・財産や権益を守るため、1,300か所にのぼる山城が作られています。
 その後、武器や戦の方法、領地支配の方法などの変化に伴い、山城は、近世城郭へと変化を遂げますが、中世から近世における政治・経済・軍事などの様子を知る重要な資料となっています。
 今回の展示では、城の位置付けや中世山城から近世城郭への移り変わりを軸に、当時の社会の様子を紹介します。

     ひろしまの城と戦


 ここ数年、日本100名城制覇へ向けて(昨年無事達成しましたが)全国各地を行脚してまいりました。ニワカではじめた城巡りでしたが、もう少し城について詳しく知りたいと思っています。
 そんな折、同館で城に関する展示を開催すると聞き、新幹線で福山まで行ってきました。
 
 なんでも、広島県内には遺構が確認されている城だけで、実に1300箇所以上もあるのだとか!これには少々驚きました。
 展示では、近年行われてきた発掘調査の成果や、城にまつわる古文書がいろいろと紹介されていて、面白かったです。
 地理的にいって、やはり圧倒的に山城が多いですね。展示を見ていますと、またぞろ城攻めへの意欲がフツフツと沸いてきます(ただ、広島はちょっと遠いなあ。。。)
 山城攻めは地理的な知識や、それなりの装備をしないとけっこう大変なのですが、ハマるとある種のロマンを感じるんですよね。。。訪れる人もほとんどいない場所で、ひとり目を閉じると戦国の息吹を感じたりします(笑)最近、その楽しさがわかってきました。
 中国地方の室町時代後期~戦国時代は群雄割拠してましたから、各所に山城が多く築かれたのもわかるような気がしました。みんな、自分の所領を守るのに必死だったんだなあという感じです。
 展示は手堅い内容でよくまとまっており、遠路はるばるでかけた甲斐がありました。

 会期は今週末までですので、広島県内の城について知りたい方はどうぞお急ぎください!広島県立歴史博物館はJR福山駅から歩いて2分くらいのところにあるので、アクセスも便利ですから、私のように車が運転できない人はとても助かります。

 展示で紹介されている主な城
 【中世の城】 
 ・家ノ城
 ・薬師城
 ・加井妻城
 ・牛の皮城
 ・池田城
 ・有井城
 ・末近城
 ・平家ヶ城
 ・見近島城
 ・能島城
 ・郡山大通院谷遺跡
 ・小倉山城
 ・新高山城
 ・吉川元春館跡
 
 【近世の城】
 ・三原城
 ・広島城
 ・福山城
 
  参考サイト 広島県立歴史博物館HP

  関連記事 長州藩福山城攻撃の史跡めぐり
 

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湯築城(二)

 つづき

 遮蔽土塁 内堀と外堀の間がもっとも狭い箇所にあり、その役割は大手からの視線を遮ることと、上級武士館の防備のため設けられたということです。遺構がよく残っています。
 湯築城19


 土塁模型  目立たない位置にありますが、考古学の好きな人が喜びそうな展示です。中世にあった土塁は現存する土塁よりもさらに規模が大きかったようです。
 湯築城18

 城の東側の方を見てみましょう。(「庭園区」)
 湯築城20


 庭園の池。池のすぐ側に建物の礎石が出てきたところから、この場所に庭園が築かれていたと思われます。
 湯築城17

 
 何やら大きな穴が。。。中世、ゴミ捨て場として使われていた穴の復元のようです。ただし、2007年に行った時は説明板があったのですが、今回は外されてなくなっていました。
 湯築城21


 外堀。現在でも幅が広い箇所で20mくらいはありますが、中世にあった堀はこれより更に大きな規模だった模様。しかし、現在に至るまでに埋め立てられてしまったようです。〈向こう側は子規記念博物館)
 湯築城22


 最後に道後公園の中央部にある見晴らし台へ行ってみましょう。左側に石垣が見えますが、当時のものなのでしょうか???
 湯築城16

 
 階段を上がってみると・・・。
 湯築城13


 お天気だったこともあり、良い眺めです。道後と松山市街を一望できます。そして、遠く右手に見える小高い山には!?
 湯築城15


 松山城の天守が見えました~(´∀`)♪ 望遠で撮影しましたが、私のコンデジではこれが限界です。
 湯築城14


 こうして、湯築城は二度目の訪問だったわけですが、「城」というより「館」といったほうが正しいかもしれません。
 また、城全体の3分の1しか発掘が行われていないので、まだまだ未解明の部分も多いようです。
 なお、この地を長く治めていた河野氏は、豊臣秀吉の四国平定の折に小早川隆景に降伏して、湯築城を開城しました。
 城を明け渡した最後の当主・河野通直という人は小早川隆景の領地である竹原で閑居させられ、従来病死したといわれてきましたが、最近の研究ですと、どうやら秀吉の意を受けた毛利輝元に殺害されてしまったようです。この辺にはキナ臭い謎がつきまといます。私も四国の歴史にはそれほど詳しくないので、もう少し勉強してみたいと思いました。

 松山城を見てしまうと、湯築城にはどうしても地味な印象を抱きがちですが、ぜひこちらのお城もじっくり見学していただきたいものです。1時間~1時間半もあれば回れます。

 まだまだ松山にはいろんな見所がありますが、少々長くなってしまったので、また別の機会にご紹介したいと思います。


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湯築城(一)

 子規記念博物館に隣接して、「道後公園」があります。
 一見普通の公園に見えますが、実はここに「湯築城」という中世の城がありました。国指定史跡であり、平成18年(2006年)には日本100名城に選定されております。
 私自身は2007年7月にスタンプをゲットし、昨年8月に再訪して写真を撮り直してきました。

 湯築城は南北朝時代(14世紀前半)、河野通盛によって築かれ、14世紀後半頃河野氏の居城となったと考えられています。
 天文4年(1535年)、当主・河野通直によって二重の堀と土塁をもつ平山城へと改修されました。
 しかし、その後の天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国平定に伴い、秀吉の命を受けた小早川隆景が伊予に侵攻し、河野通直は降伏し、湯築城を開城します。その2年後、福島正則が伊予に配されますが、その頃湯築城は廃城になったとみられます。
 河野氏は平安末期より続く豪族で、鎌倉時代は御家人、室町時代は守護として勢力を張っていましたが、かの秋山兄弟も、ご先祖は河野氏につながるといわれています。

 湯築城7

 
 公園の中に入って、まずは湯築城資料館へ行きましょう。こちらの受付で100名城のスタンプを押印してください。
 小さな資料館ですが、河野氏や湯築城の歴史を紹介したビデオを見ることもできます。
  湯築城5


 公園内の模型です。実はここにはかつて「道後動物園」がありました。その後、昭和63年に動物園が砥部町に移転したため、その跡地について発掘調査が行われました。
 すると、土の下に埋もれていた中世の城跡が400年ぶりにその姿を現しました。道後は温泉地でもあり、一時は観光関連の開発の話も出ていたそうですが、地元有志の熱心な保存運動が実り、史跡公園として整備されることになったそうです。
 こうした面が評価されて、「日本100名城」に選定されるに至ったと思われます。

 余談ですが、砥部へ移転した動物園は、その後人工哺育で育てられて話題となったホッキョクグマの赤ちゃん「白くまピース」で全国的に有名になりました。
 
  湯築城6


 発掘調査が行われ、復元整備されたゾーンを見てみることにしましょう。(下の写真は土塀)
  湯築城11


 土塀の先の小さな門をくぐると、武家屋敷が推定復元されていました。発掘調査した時、礎石が出てきたそうです。
 この辺には上級武士の館(あるいは当主の館の可能性も)があったとみられます。
  湯築城1


 戸が開いていたので、中を覗いてみますと。。。数体の人形がお出迎え。
 屋敷の主を中心に、「連歌」の会の模様を再現しています。
  湯築城12

 となりの台所では、もてなしの料理を作ってました。
  湯築城2


 少し離れた場所に、もう一軒屋敷が復元されていました。(手前)
  湯築城4


 こちらの屋敷の内部はミニ展示室となっており、発掘調査の際の出土品が多数展示されていました。
  湯築城8


 皿や壷といった陶磁器をはじめ、刀装具、硯等がいろいろ展示されていましたが、ちょっと面白かったのが、ネコの足跡がついていた皿。。。(=^・^=) うにゃ~
    湯築城9


 建物を出て、周囲を見てみます。
 発掘された道路と排水溝。
  湯築城3

 湯築城には二重に堀が巡らされていましたが、内側に設けられた堀(内堀)と土塁です。
  湯築城10

 
 写真の枚数が多いので、つづきます。

 (所用により、2~3日お休みさせていただきます)


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子規記念博物館

 道後へ来たら、温泉の他にもう一箇所時間があったら立ち寄っていただきたいところがあります。
 「子規記念博物館」です。
 
 子規記念博物館

 こちらの博物館では、松山が生んだ明治の俳人・正岡子規を記念して開館されました。およそ6万点の資料・書籍を所蔵し、常設展示では子規の一生を紹介し、その他年に2~3回の特別展・企画展を開催しています。
 この3年ぐらいは、NHKスペシャル大河ドラマ「坂の上の雲」を放映していたので、子規や秋山兄弟関連の展示が多かったようです。
 私がこちらへ伺った時は、秋山好古の書いた軸装になった書が展示されていました。
 現在は、常設展示室で「館蔵秋山兄弟資料・・・第二回 秋山真之と子規」を開催しているそうです。(今年3月まで)


   「坂の上の雲」

 ドラマを見ていて思ったのですが、あの物語の中で正岡子規の存在というのはとても大きかったように思います。とかく、重苦しくなりがちなストーリー展開の中で、子規が登場する場面は一抹の明るさを感じました。子規の短い生涯のうち、後半の人生はほとんどが病との闘いで苦しんでいたはずなのですが、彼の生み出した作品には何故か悲壮感があまり感じられないのです。おそらく、最後まで高い志と希望を持って生きていただろうと思われるんですね。
 また、子規役の俳優・香川照之さんの迫真せまる演技も好感がもてましたし、印象深かったです。

 ですから、第二部で子規が病のためこの世を去り、子規の登場しない第三部というのは全体的に救いがないというか、どんよりした雰囲気が漂っていたような気がします。


 参考サイト 松山市子規記念博物館 (開館時間等詳細はこちらをご参照ください)


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白川義則(陸軍大将)の墓

 無事、宇宙から帰還しました。

 ところで・・・松山の続きです。

 道後・鷺谷墓地にある秋山好古の墓のすぐ近くに、白川義則の墓がありました。
 白川義則


 白川義則(1869~1932年) 陸軍大将

 この人は秋山兄弟と古くから親交が厚く、兄弟双方の臨終を看取った方です。
 とくに、秋山真之が亡くなる直前に枕元へかけつけ、陸軍に対する真之の「遺言」を聞いています。

 「今日の情態のままに推移したならば我国の前途は実に深慮すべき状態に陥るであらう。総ての点に於て行詰を生じ恐るべき国難に遭遇せなければならないであらう。俺はもう死ぬるが、俺に代わって誰が今後の日本を救ふか」
 
 ※この辺について、司馬遼太郎は何故か「坂の上の雲」の中では取り上げておりません。

 旧制松山中学で弟・真之と同級で、気も合って、仲良くなったようです。義則は松山中学を中退した後、代用教員を経て、陸軍へ入ります。このため、好古から後輩として可愛がられ、一時好古宅で下宿していたこともあります。
 なかなか軍人としては優秀だったので、陸軍大将まで出世しますが、昭和7年(1932年)上海事変のため派遣軍司令官として赴いた後、停戦交渉中に開催された天長節祝賀式典の場にて、朝鮮人が投げつけた爆弾により重傷を負い(上海天長節爆弾事件)、その時の傷がもとで亡くなりました。
 墓は東京の青山霊園にもあります。

 
 白川義則の墓


 こうして私は墓参りにいそしみましたが、良い子の皆さんは是非道後温泉を楽しんでくださいませ。
                 つづく


 
より大きな地図で 鷺谷墓地 を表示


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宇宙へ!

  すぺーすわーるど


 ☆所用により、2日位お休みさせていただきます。。。

秋山好古の墓

 つづき

 道後温泉にある公営墓地である「鷺谷墓地」へやってきました。ここには「坂の上の雲」の主人公である
秋山好古(1879~1923年)のお墓があります。
   yoshihuru akiyama

 好古の墓は案外すぐにわかりました。
 秋山好古の墓2

 好古は大正5年(1916年)に陸軍大将になり、7年後の大正12年に予備役に編入されています。
 その後、乞われて故郷・松山にある私立北予中学校(現在の愛媛県立松山北高校)の校長に就任しています。陸軍大将までなった人が一地方の私立校の校長になるというのは異例だったそうです。彼は松山城側にある実家で単身生活を送りながら、校長の職を全うしました。(⇒過去記事「秋山さん(兄)家のお雑煮」参照)
 そもそも好古は陸軍士官学校に入る前に大阪師範学校で学び、短期間ではありますが大阪と名古屋の小学校に勤務していたわけで、若い頃から教育関係には深い関心があったのでしょうし、第二の人生の選び方としては地味ではありますが、真面目な彼らしい選択だったのではないでしょうか。
 昭和5年4月で校長職を辞任したその7ヵ月後、糖尿病の悪化により死去。享年71歳でした。
 秋山好古の墓1



 好古の本当の墓は東京の青山墓地にありますが、故郷松山の有志が願って松山にも分骨墓を建てる運びとなりまして、秋山家の先祖と共にこの鷺谷墓地に眠っています。


               つづく


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「道後温泉」で一休み、と思ったが・・・

 松山城の麓から市電に乗って10分くらいで、四国屈指の名湯・道後温泉に着きます。実に3000年もの歴史を誇る温泉なわけですが、温泉街として整備されたのは、寛永12年(1635年)に松山へ入封した松平定行公(久松松平家)に始まります。
 定行は入封した翌年から道後温泉の施設整備にとりかかって、今の繁栄に至っているわけです。
 有名な「道後温泉本館」の建物は明治27年に建てられたもので、レトロな外観はとても風情があります。

 せっかくここまで来たことですし、一風呂浴びて・・・と思いましたが、いつもの事ながら史跡巡り等で時間がなくなってしまったため断念!昭和天皇が昭和25年に行幸された際に使用された皇族方専用の「又新殿」や、夏目漱石ゆかりの「坊ちゃんの間」などはささっと見て、泣く泣く退出。
 その後、昨年も道後へ来たのですが時間がなくて入れず。。。どうも縁がありません。ま、でも次の機会の楽しみにしておきましょう。
 道後温泉

 
 温泉を断念し、向った先は・・・観光ホテル街を抜けて、その裏手にある小高い丘。
 石段を登っていきますと、墓地になっています。そうです。恒例の墓巡りです。
 鷺谷墓地

 こちらには、あの秋山好古のお墓があると聞いてやってきました。
 その前に、無縁仏となった人々の墓石群の中にある人物の墓を認めました。

 三浦啓之助の墓。
 啓之助は幕末の思想家・佐久間象山の妾腹の息子です。父・象山が京都で暗殺された後、父の弟子であった山本覚馬(会津藩士)に仇討ちを勧められ新選組に入隊しますが、粗暴な振舞いが目立ち、ついに脱走してしまいます。
 明治維新後、父の威光を笠に着て司法省へ出仕するも喧嘩沙汰をひきおこし免職、その後松山県裁判所判事として松山に赴任しますが、明治10年(1877年)2月26日、食中毒で頓死しました。
 経歴をみると父・象山とは似ても似つかないどうしようもない人物ですが、墓の面倒をみる身内もいなかったとみえて、無縁仏として墓が整理されてしまいました。(鷺谷墓地は公営のため)
 なお、墓石には「司法省十二等出仕佐久間君之墓」と刻まれております。
 三浦啓之助の墓

  
 この後、秋山さん(兄)の墓を探します。    つづく


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テーマ : 国内、史跡・名勝巡り
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伊予松山城

 年頭に写真を掲げた伊予松山城の紹介です。2007年6月より100名城スタンプラリーを開始し、6番目に登城したお城でした。
 松山城は関ヶ原合戦の功績で20万石の大名となった加藤嘉明(1563~1631年)が道後平野の中心に位置する勝山に築城したのが始まりです。
  松山城9

 慶長7年(1602年)より25年の歳月をかけて築城されましたが、完成目前に嘉明は幕命により会津へ転封させられ、後に入った蒲生忠知が完成させました。
 加藤嘉明が建てた天守は五層のものだったそうですが、寛永12年(1635年)に松平定行が三層三重に改築。しかし、その後落雷にあって焼失し、現在のものは嘉永5年(1852年)に再建竣工されたものです。いわゆる「現存12天守」の内の一つです。
 大天守は三層三重地下一階の「層塔型」、これに小天守、南隅櫓、北隅櫓が多門櫓・廊下と結ばれている「連立式」の構成で、天守の構えとしてはもっとも堅固な造りとなっています。
 
   「松山や 秋より高き 天守閣」 子規
 
   松山城1

 一見、太鼓櫓の向こうに天守が見え直進できるように見えますが、実は櫓の手前を右へ進むのが正しいルートです。
 松山城5

 「戸無門」 早朝撮影したので逆光気味です(汗)。その昔、門限に遅れ、開門を拒まれて自殺した腰元の幽霊が夜な夜な「門を開けて」と叫ぶので、戸を無くしたという伝説が伝わっています。
 このほか、門が多く設けられているので、天守まで辿りつくのが大変です。
 松山城4


 せっかくですので、大天守に上ってみましょう。晴れた日はとても眺めが良いです・・・ということは、敵の動きもまた一目瞭然だったというわけですね。
 この城を築いた加藤嘉明といえば、「賎ヶ岳の七本槍」の一人で、豊臣秀吉の子飼いの武将でした。嘉明もまた、加藤清正と並んで築城の名手であったことがわかりますが、彼は家臣に有能な職能者をそろえており、そのうちの一人が普請奉行であった足立重信という人でした。
 重信は大量の瓦を麓から山頂へ運ぶ際、近隣の農民を多数動員して、麓から山頂まで一列に並ばせ、リレー方式で瓦を運び上げたといいます。しかも、それを三方向から行ったため、たった一日で使用する瓦をすべて運びあげたといいます。こうした巧みな人海戦術が功を奏し、このような立派な城が出来上がったのです。
 松山城3


 大天守から見た「小天守」。瓦には松平家が入封した後、「葵紋」が入れられています。
 松山城2

 
 「野原櫓」 日本で現存する唯一の「望楼型」の櫓です。天守の原型になったともいわれています。
   松山城13


 「乾門」 松山城は、廃城となった近隣の城で使われていた資材をリサイクルして使用しました。この乾門は伊予松前城から転用されたもの。
 松山城10


 本丸の売店では「いよかんソフト」を売っていますのでちょっと一休み。冬季は躊躇してしまいますが、いよかんの甘酸っぱい風味が絶妙ですから、ぜひ味わってみてください。
  松山城8

 なお、100名城のスタンプですが、本丸の料金所の人に頼んで、シャチハタ式のスタンプを出してもらってください。(実はもう一箇所外に出してあるゴム印式のスタンプもありますが、そちらは状態が良くないので)


 ****************************

 この日、往路はロープウェイで昇ったのですが、復路は黒門口登城道を徒歩で下りました。
 城山は今でこそ木々が茂り、うっそうとした森になっていますが、加藤嘉明が築城する前は禿山だったということです。
 松山城7


 登城口を降りていくと、やがて二の丸跡に出ます。二の丸にはかつて御殿がありましたが、現在は史跡庭園として整備されています。
 松山城11



 二の丸跡で忘れずに見ていただきたいのは、この大井戸です。東西18m、南北13m、深さ9mという石組みの大井戸で、発掘調査の末、復元されました。籠城戦に備えての貯水庫として設けられたのでしょう。
 松山城12

 

 これらの写真を撮影した時はまだ100名城巡りをはじめて間もない頃でしたので、、今振り返ると撮影し忘れた箇所などもあり、少々後悔しています。
 加藤嘉明が渾身で築いた攻守に優れた立派な城で、天守、櫓等21もの重要文化財を擁していますので、できれば時間に余裕をもって城内を歩いてみていただきたいものです。
 これだけの堅固な城を築いて、嘉明は会津へ転封させられてしまうのですが、おそらく松山城に後ろ髪引かれる思いで去っていったに違いありません。
 なお、蛇足ですが加藤家は嘉明の息子・明成の代にとある事件があり、改易させられています。


   
より大きな地図で 松山城 を表示

 
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水野廣徳(反戦軍人・ジャーナリスト)の墓

 水野廣徳(1875~1945年) 海軍元軍人 ジャーナリスト
 水野廣徳


 水野廣徳は秋山好古・真之兄弟の遠縁にあたる人物で、明治8年(1875年)に松山に生まれました。
 幼くして両親と死別し、苦学して江田島の海軍兵学校に入学し、海軍軍人になります。明治38年の日本海海戦では水雷艇長として従軍しています。水野はなかなか筆の立つ人物であったようで、後にこの時の体験をもとに書いたルポタージュ『此一戦』(明治44年 博文館)はベストセラーになりました。
 大正5年より二度にわたり、『此一戦』の印税収入などをもとに第一次世界大戦前後のヨーロッパに私費で視察に赴きます。この時、フランスやドイツの戦場を廻り、特に敗戦国となったドイツの悲惨な状況を目の当たりにし、次第に彼の心の中で戦争への疑問が芽生え、やがて非戦への思いを強くしていきます。
 大正10年(1921年)に『東京日日新聞』に連載していた『軍人心理』の中で、軍人にも参政権を与えよと書いた内容が海軍刑法に触れたたため謹慎処分を受け、それを契機に最終階級・海軍大佐をもって退役し、評論家へと転身します。
 
 この後、水野は評論誌等で精力的に軍縮論や軍部批判を展開していきますが、その思想を当局から危険視され、明治7年(1932年)以降は筆を折らざるをえない状況へ追い込まれます。執筆した論文が発禁処分となったり、憲兵隊より取り調べを受けるなどの言論弾圧を受けます。
 水野は失意の中、同郷の秋山真之、秋山好古の伝記の編纂に参加します。水野が監修したという伝記『秋山真之』(昭和8年 秋山真之会)・『秋山好古』(昭和11年 秋山好古大将伝記刊行会)は、司馬遼太郎が小説「坂の上の雲」を執筆の際に参考文献にしたと思われます。
 やがて日本は戦争に突入しますが、昭和18年水野は病気療養のため郷里である愛媛県の伊予大島へ疎開しています。

 昭和7年に刊行した日米戦のシュミレーション記『打開か破滅か・興亡の此一戦』の中で、水野は東京が空襲を受ける模様を描いていましたが、果たして現実に彼の予言通りとなり、昭和20年3月の東京大空襲で水野の自宅も焼失。同年8月に日本は終戦を迎えます。
 終戦から約二ヶ月後の昭和20年10月、水野は今治市内の病院で腸閉塞によりひっそりとその生涯を終えました。
 なお、終戦間近に一人息子の光徳がフィリピンで召集されていましたが戦死。息子の死を知らぬまま水野はさびしくこの世を去ったという話は涙なくしては語れません。
 軍人でありながら、後に思想転換し、以後一貫して軍縮・非戦を提起していったという稀有な人物だと思います。


 水野の墓は松山市柳井町3丁目の蓮福寺にあります。(2007年7月撮影)
 水野廣徳の墓1

 墓の後ろには水野の年賦が刻まれた碑が建っています。
   水野廣徳の墓2

 
 参考サイト 水野広徳ミュージアム (郷里松山で有志によって顕彰されています)
 
 
 
 
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秋山好古が学んだ藩校・明教館

 年明けから何ですか身の回りがバタバタしており、なかなかブログ更新できませんでした。そんな中、先日主人の親戚の方が急死してしまい、葬儀に参列してきました。年末に脳出血で倒れ、緊急手術の末一命を取り留め、ご家族も安堵されていたところ、3日前に容態が急変し、帰らぬ人となってしまいました。とても良い人柄の方で、主人の実家とも長年懇意にしており、私共の結婚式にも参列してくださったので、家族共々正月早々悲しみに暮れております。
 

 ところで、年が明け、この前の日曜日には今年の大河ドラマ「平清盛」が放映スタートしてしまいましたが、私個人はあまりその時代に関心が薄いので、今更という感もありますが、年末に放映終了したSP大河「坂の上の雲」の関連史跡を若干ですが紹介したいと思います。放映が終了したので観光客の数も一段落して、かえって落ち着いて見学できるかもしれません。

 こちらは秋山好古が学んだ藩校・明教館の講堂です。明教館(めいきょうかん)は、文政11(1828)年、松山藩主松平家11代当主松平定通(さだみち)公が、藩士の文武稽古所として二番町に建てられました。当時、明教館は敷地面積2500坪もの広さがあったそうです。

 昭和12(1937)年、旧松山中学校(現松山東高等学校)の敷地の一画に移築され、今日に至っています。
 明教館1

 明教館3

 内部は108畳の広さがあります。ここで論語などの講義や、入門式等の行事が行われました。
 明教館2


 明治になってから、明教館の敷地に学校が開設され、後に旧制松山中学となり、秋山真之や正岡子規も同校に学びました。彼らのほか、同校からは多くの人材が輩出しました。
 秋山兄弟

 正岡子規の外祖父・大原観山(儒者)も明教館で教授をしていました。
  正岡子規


 昭和20年(1945年)7月の松山空襲の際、同校の建物のほとんどが焼失しましたが、同校に学ぶ中学2年生の生徒たちが必死で消火活動を行い、この講堂だけは焼失を免れました。
 なお、見学の際は見学希望日の一週間前までに松山東高等学校 電話089-943-0187 へ申し込みが必要です。

 これらの写真はドラマ放映前の2007年夏に松山を訪問した際に撮影したものです。


                            つづく 


 関連記事 秋山さん(兄)家のお雑煮


   
より大きな地図で 松山東高等学校 を表示



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銀座「岡半」で「寿喜焼」を

 先日、主人の身内の方たちと新年会があり、東京銀座にある「岡半」さんへ行ってきました。
 岡半さんは新橋にある老舗料亭「金田中」のグループとかで、並木通りにある金田中ビル内にありました。
 いつも庶民的なお店しか紹介できないので、新春ですし、たまにはこういうお店も良いでしょう。
 銀座岡半1


 エレベーターで七階の寿喜焼・しゃぶしゃぶの店のほうへ。八階の方は鉄板焼の店です。
 銀座岡半10 

 玄関にはお正月飾りが。予約していたので、中のお座敷へ通されます。
   銀座岡半11


 メニューはこちら。「寿喜焼(すき焼)・しゃぶしゃぶ」16800円~。それなりのいいお値段ですね。。。(ため息)
 今日は主人の両親の奢りですので、値段を気にせず、楽しみたいと思います。(`・ω・´)
  銀座岡半2


 最初にお通しが出てきます。きくらげとキュウリの胡麻和え。
   銀座岡半12
 

 次に「朱杯盛 五種の前菜」 まぐろの刺身やウニ、筍などが朱色の杯にのっていて、ちょっと洒落ています。
 銀座岡半4


 ここで「寿喜焼」のお肉登場。松坂牛だそうです。一枚あたりの肉がデカい!ボリューム満点です!!
 銀座岡半5


 もちろん、付け合せの野菜(椎茸、ネギ、三つ葉、しらたき)もありますよ~。お肉の後に入れるのですが、椎茸やしらたきなどお肉の旨味を吸っていて美味しかったです。
 銀座岡半6


 お肉を焼くのは全部お店の方がやってくださいます。グラニュー糖と生醤油をかけ、後から昆布出汁を注ぎながら焼き付けるのが「岡半」流。
 銀座岡半7


 溶き卵につけて、さっそくいただきます~(・∀・)まいう~♪ 上質の柔らかなお肉をゆっくり味わいます。
 銀座岡半8


 〆は「じゃこ茶漬け」を。お肉をいただいた後でしたから、あっさりとした風味で良かったです。他に茶蕎麦、稲庭うどんも選べました。
 みんなお肉でお腹一杯になってしまったため、デザートは頼まず、お開きとなりました。
 銀座岡半9


 こうして新年早々、美味しいお肉をいただき贅沢な気分を味わいましたが、主人の家の新年会なのに、肝心の主人は体調不良のため欠席で、嫁の私は出席。ちょっと主人がかわいそうでした。。。
 来れずに残念だったね~。ま、将来出世したら改めて連れてきてくださいネ。。。(遠い目)


 参考サイト 岡半本店ホームページ


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テーマ : こんなお店行きました
ジャンル : グルメ

亀山本徳寺

 松の内は親戚宅へ正月の挨拶へ行ったりしていたので、なかなかブログ更新できませんでしたが、やっと落ち着いたので先日の続きです。

 NHKBS時代劇「新選組血風録」を見たという話をしましたが、そのロケ地の一つをご紹介します。

 姫路市亀山にある「亀山本徳寺」 浄土真宗のお寺です。
 こちらのお寺の本堂は、かつて新選組の屯所が置かれていた京都の西本願寺の北集会所を明治維新後に移築したものだそうです。当時としてはなかなか立派な建物です。
 数年前のNHK大河ドラマ「新選組!」の中でもたしか紹介されていました。
 亀山本徳寺4
 亀山本徳寺5


 時代劇「新選組血風録」の中では、本堂前の庭で隊士たちが剣術の訓練を行っているシーンが放映されていました。
 このアングルですね。
 亀山本徳寺3

 お寺の受付へ行ってお願いすると、中を拝観させていただけました。
 隊士たちの足跡が今にも聞こえてきそうな板敷きの縁です。縁のふちに腰掛けて、しばし隊士の気分を味わってみました。
 亀山本徳寺1

 
 本堂の由来が説明されていました。慶應元年(1865年)3月に新選組がこちらを屯所として使うため移転してきたとのこと。
 亀山本徳寺7


 「刀傷⇒」と書かれた案内板があり、私はこの角の柱のことかと思ったのですが、どうもこの右手の廊下側の柱に隊士が傷つけたと思われる刀傷があった模様です。(気がつかず、撮影しそびれてしまいました)
 亀山本徳寺6


 本堂の内部。ここで隊士たちが寝泊りしていたのでしょうかねえ。
 新選組の屯所といえば、壬生の八木邸・前川邸が有名ですが、こちらの建物も当時の雰囲気をよく残していて、リアル感がありました。
 亀山本徳寺2


 以上は2008年11月に、姫路城へ行った帰りに撮影しました。山陽電鉄亀山駅から歩いてすぐのところにあります。
 姫路城からですと、車で10分強くらいでした。
   
より大きな地図で 亀山本徳寺 を表示


 ところで、今年の3月に東京と京都で「新選組検定」試験が実施されるとのこと。
 ここ数年、各地で「○○検定」流行りではありますが、ついにここまで来たか!という感じです。詳細を見ると新選組にゆかりのある自治体などが後援していますし、本格的な試験になりそうです。
 
 参考サイト 新選組検定 公式ホームページ

 なお、受験者には非売品の「松平容保ピー」(ご当地キューピーですね)がもれなくプレゼントされるとのこと。これだけでも欲しい感じですが、自分は新選組の知識は高校時代で止っているので、ちょっと受験は無理そうかも。。。
 自信のある方はこの機会にぜひ受験されてみては如何でしょうか。申し込みは2月16日までですから、まだしばらく余裕ありますね。


 
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テーマ : 国内、史跡・名勝巡り
ジャンル : 旅行

NHKBS「新選組血風録」(再放送)を見てみた

 この年末年始、TVを見ていると以前放映していたドラマの再放送があったので、うちのダンナと共に見てみました。
 中でも、司馬遼太郎原作の「新選組血風録」というのを面白く拝見しました。

 参考サイト NHK BS時代劇「新選組血風録」
 

 なにせ司馬の同名の原作を読んだのがたしか高校1年の頃。何度か読み返したり、過去に近藤勇、土方歳三等メンバーの墓参りもしたりしたのですが、私はフリークになるまでには至りませんでした。
 
   
新選組血風録 (角川文庫)新選組血風録 (角川文庫)
(2003/11)
司馬 遼太郎

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 しばらく原作ともご無沙汰なので、懐かしく見させてもらいました。全話ぶっとおしで見ましたが、前半は割と原作に忠実で落ち着いて見られたが、後半がイマイチの出来。
 
 
 ここからネタバレ↓ 本放送が終了して半年以上経つのでそのまま書いてもいいのですが、ストーリーを知りたくない方はここでお引取りください。あくまでも個人的感想です。









 それは、原作にはない土方を密かに恋する「お美代」という名の女性というのが登場して、白けてしまったんですよね。。。(演じていた女優さんは品があって良かったです)
 で、この女性が土方の密偵として陰で活躍する。
 ドラマを面白くしようとして、オリジナルストーリーを考えたのでしょうが、実際の土方の性格からして素人の女性を間者に使うというのはありえないというか、これでは新選組の面目丸つぶれです。土方はそこまでして裏から手を回すような人物ではないと思います。
 それから、土方と桂小五郎(長州藩)が出会ったりするのも、いくらフィクションとはいえ現実味が感じられず、よくないのでは。。。と思いました。

 別にオリジナルストーリーを入れなくても、原作がしっかりしているのですから、原作通りに淡々とドラマを作ってくれればいいのに。。。といつも思います。
 それでもあえてオリジナルを入れる場合は、違和感がないように、設定をぬかりなくする必要があります。

 かつて昭和40年代、NET(現テレビ朝日)で放映されていた同名のドラマがありましたが、これは結束信二という名脚本家によるものだったのですが、多少のオリジナルが含まれているものの原作の世界観を損なわない珠玉の出来のため、見ていて違和感がありません。原作者の司馬遼太郎も高く評価していました。
 当時まだ無名だった栗塚旭さんや島田順司さんなどの出世作になったことでも有名な作品です。

    
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 話を戻して今回のドラマですが、演じている役者さんはどの方もとても良かったですね。隊士役には私が不勉強でお名前を存じ上げない若手の役者さんが起用されていましたが、皆さん演技力がありましたし、何より真剣さが伝わってきました。
 有名どころでは、伊東甲子太郎役の鶴見辰吾さんと、芹沢鴨の愛人「お梅」役の井上和香さんがいい味を出してました。
 鶴見さんといえば、私の世代だと昔「大映ドラマ」でおなじみだったわけですが、歳を重ねられて、最近円熟味が感じられるようになりました。また時代劇にはぜひ出演していただきたいものです。

 土方歳三を演じた永井大さんは少し違うかな。。。という印象。彼は明るい二枚目なので、もう少し影のある役者さんのほうが良かったのでは。。。と思いました。例えば、高橋克典さんみたいな感じでしょうかね。

 まあ、それでも大河ドラマ「江」に比べれば格段に良かったので、後味は悪くなかったです。
 現在、時代劇が下火になってしまってますが、近い将来またブームが到来するような予感もしますので、若い役者さんには今のうちからぜひ「殺陣」の練習をおすすめいたします。

    
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 ところで司馬の原作ですが、この作品が書かれてから実に半世紀近く経っているのですが、司馬が執筆していた頃には詳細が判然とせず、その後これまでに研究が進んで判明した事実も少なからずあるので、そういう部分をもう少し盛り込んでも良かったように思いました。


 過去記事 総司忌 2011
 

      りらっくま
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テーマ : 2011年 テレビドラマ
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日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

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