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浅井三姉妹 初と京極展(丸亀市立資料館)

 ※先日は体調不良のため、ブログお休みさせていただきました。お見舞いのお言葉いただいた方、ご心配おかけしました。
 <(_ _)>

 今年の大河ドラマ「江」が昨日で最終回だったようです。ところが、あいにく自分は熱のためぶっ倒れておりましたので、これを見ておりませんでした。
 今回の記事は全放送が終了してから書いても仕方がないような気もしますが、一応記しておくことにします。

 今月はじめの香川県滞在時、時間があったので丸亀市にある丸亀城を撮影しなおしに行きました。
 丸亀城に関しては、昨年の春、このブログをはじめて間もない頃に詳しく書きましたので、そちらをご参照ください。
 
 過去記事 丸亀城〈一) ~ 丸亀城(四)

 ところが、あいにく晴れマークがついていた天気予報がはずれ、曇天の上、小雨まで降ってきたので城の再撮影を途中で諦めました。
 仕方がないので、城山の麓にある丸亀市立資料館で開催中だった
「浅井三姉妹 初と京極展」(先日27日にて終了しています)
を見てきました。
 丸亀市立資料館
  浅井三姉妹・初と京極展

 実は昨年も同館へ来てみたことがあるんですが、施設も古めかしくて、失礼ながらパッとしない資料館という印象でした。ほとんど展示らしい展示もなく、20分くらいで退出した記憶があります。
 丸亀藩は、一度は無嗣断絶した後再興された京極家が幕末まで治めていたこともあり、今年になって大河ドラマ関連の展示を行い、リニューアルしたようです。
 下の写真のように、浅井三姉妹のキャラも登場して、関連イベント等もやっていた模様です。
 浅井三姉妹

 で、展示のほうは一階の展示室一杯に100点の史料が展示され、そこそこボリュームがありました。
 中でも目玉であったのは、お江が実娘で姉・お初へ養女にやった初姫に宛てた手紙というのが2通展示されていました。これは、東京の京極家の御子孫宅で見つかったようです。
 内容はどちらも贈答品のやり取りに関することや「息災ですから安心してください」みたいな他愛ないものでしたが、生んですぐ養女にやった娘に対してもお江が実母としての心遣いをしていたことがわかります。
 
 その他、お初が葬られた若狭・小浜に伝わる関連資料や、徳川家康や秀忠の書状、豊臣秀頼が京極忠高へ与えた脇差など京極家に伝わった品々がありましたが、おそらく戦後京極家が手放したと思われるものが実にこの資料館にまとまって所蔵されていたんですね。これまで所蔵していながら、あまり展示もされていなかったようです。
 毎年のことですが、大河ドラマの放映により今まで一部の人にしか知られていなかったものや、未発見の史料が発掘されたりするので、やはり全国放送のドラマのが及ぼす影響は多大なものがあります。

 この日は休日だったこともあり、多くの見学者が訪れていました。ご年配の方々が目立ちましたが、「お江が云々」など同行者と話しが弾んでいる様子が見られました。(昨年来館時閑古鳥が鳴いていたのがウソのようです)
 これより前に、松江歴史館で見学した京極忠高の展示よりも展示点数が多く、それなりに見ごたえがあったのに、予算不足だったのか図録が作られていませんでした。(無料のパンフはいただけましたが)
 かれこれ1時間くらいゆっくり見学し、同館を退出しました。

 丸亀市立資料館
 
より大きな地図で 丸亀市立資料館 を表示


 ☆大河ドラマ「江」全話終了アンケート!(お時間のある方のみお答えください)
  
 
 
   ******************************

 ところで、資料館のすぐ前で今流行りの「ご当地ゆるキャラ」を発見しました。
  京極くん

 私は知らなかったのですが、帰宅後調べてみたら「京極くん」というご当地キャラだそうです。今年の夏に登場したばかりとのこと!なかなかの好青年?です(笑)
 こちらが不思議そうに眺めていたのを察知したのか、中の人がポーズをとってくれましたので一枚パチリ。この日、お城でミニイベント開催のため出陣中だったようです。
 
 丸亀は最近観光客の誘致に力を入れているようです。私などは城下町の名残があって道がわかりやすく、箇所は少ないながらも周辺の史跡巡りがしやすくて良かったのですが、残念ながら駅前の商店街が少々寂れてしまっており、昨年来た時もそうでしたが、車はそこそこ多いのですが、人の影がほとんど見当たらず、歩いていてさびしかったです。
 私見ですが、おそらく交通網の発達により人の流れが岡山方面へ行ってしまっているのではないか、と思われます。
 「京極くん」のようなご当地キャラの登場で、今後歴史ある町として各方面へアピールしていくことが期待されます。
 

  丸亀ご当地キャラ「京極くん」
  京極くん2
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テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
ジャンル : 学問・文化・芸術

柳沢吉保と甲府城(山梨県立博物館)

 山梨県笛吹市にある山梨県立博物館では、現在
企画展「柳沢吉保と甲府城」を開催中です。(今月28日まで)

 参考サイト 山梨県立博物館
 
  山梨県立博物館
    柳沢吉保と甲府城

 【展示趣旨】
  将軍徳川綱吉の絶大な信頼を得て、江戸幕府の大老格にまで出世し、元禄の世を動かした柳沢吉保。甲斐源氏の末裔として生まれた吉保は、やがて先祖の地である甲斐国を拝領して「甲斐国主」と称するとともに、甲府城とその城下町を整備し、「是ぞ甲府の花盛り」という評判が立つほどの繁栄をもたらしました。
  本展では、柳沢家ゆかりの山梨や奈良 大和郡山に遺された、新発見・初公開を含む数々の名品を通して、吉保の足跡や甲府城の変遷、さらに柳沢家に受け継がれた文化や伝統、信仰の様子を紹介します。


 山梨県立博物館は過去に数回足を運んだことがありますが、甲斐国ということもあって、その大半が武田信玄関係がテーマでした。
 ですから、ネタ的に出尽くした感がなきにしもあらず(失礼)と思っていたところ、予想に反して?大型企画が来ました(笑)。
 
 柳沢吉保といえば五代将軍・徳川綱吉に気に入られたことで軽輩の身から側用人を経て、大老格まで大出世した人物として有名です。
 そして、時代劇等では元禄赤穂事件(いわゆる忠臣蔵)では、必ず事件の黒幕として登場します。事件の裏で糸を引く人物という扱われ方ですね。
 私自身、吉保に関しては「謎の人物」というか、ミステリアスな存在という印象が強かったわけですが。。。

 今回の展示では、吉保の実像について多くの史料を検討することで迫ろうとする内容となっています。
 先述した赤穂事件についても、史料上からは吉保がどれだけ関知していたのかよくわからないということです。

 彼が仕えた将軍・綱吉はかなり気難しい人であることが知られていますが、その綱吉に気に入られたぐらいですから、吉保はかなりソツのない、細やかな人物だったことがわかります。
 たとえば、吉保が嫡男の吉里に与えた訓戒状というのが残っていますが、天下の悪法ともいわれる「生類哀れみの令」の影響のせいか、「犬が吠える」という言い方はせず、「犬が鳴く」と言いなさい、というように、一言一句実に細かく教え諭しているのです。

 その他、タイトルが示す通り、甲府城関連の史料もありました。当初、甲府城は徳川一門が領していましたが、宝永元年(1704年)、将軍綱吉より甲斐・駿河15万石余を与えられます。
 この後、20年にわたり、吉保・吉里父子が治めることになり、甲府城もこの時改修・整備されますが、吉保は幕閣としての仕事が忙しく、ついに甲府城には入城せずに終わってしまったそうです。

 せっかく甲府城を与えられたのに、一度も入封することなく生涯を終えた吉保ですが、実は吉保自身、先祖が甲斐武田氏の一門であり、かつては武田家の旧臣であったことから、先祖縁の地に領地を与えられたことを生涯身の誉れと感じていたのでした。
 そんな彼ですから、武田信玄や勝頼に関する書状や、武田家ゆかりの刀をわざわざ他所に頼んで譲り受けたりして、リスペクトしていたようです。
 また、以前にも書きましたが、自分の墓を甲斐国内に築かせたのもそういう心の現われだと思われます。(吉保は死後、「永慶寺」という彼専用の菩提寺に葬られたが、柳沢家が大和郡山へ転封される際、「恵林寺」へ改葬された)
 
 関連記事 柳沢吉保の墓

 なお、吉保の死後、息子の吉里の時代に柳沢家は大和郡山(奈良県)に転封されますので、今回の展示では大和郡山から借りてきた史料が目立ちました。
 他にも色々貴重な品々が出展されていましたが、これ以上記すとつまらなくなるので、会期終了まで間近ではありますが、ご関心を持たれた方はぜひご覧になってみてください。
 全体的な感想としては、一見してわかりやすい展示であり、ていねいな調査がなされていて感心しました。

 ところで、同博物館の庭では少しずつ紅葉が始まっていました。これを撮影したのが先週ですから、今頃はもう少し色づきが進んでいるだろうと思われます。
 今年の秋は気温が高めなせいか、各地で紅葉の進み具合が遅いようですね。

  これはヤマボウシ?だったかな。。。
    山梨県立博物館・紅葉2

  こちらはモミジです。
  山梨県立博物館・紅葉1

 
 山梨県立博物館
  
より大きな地図で 山梨県立博物館 を表示


 
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 博物館の帰り道、暮れ方になり冷え込んできたので、「甲州ほうとう 小作」石和駅前通り店へ寄りました。
  甲州ほうとう 小作
 
 ここのお店はチェーン店ですから、山梨県内のあちらこちらでよく見かけます。
 私は「豚肉ほうとう」(1300円)を注文しました。
 しばらくして、具沢山でアツアツの「ほうとう」が運ばれてきました。
  豚肉ほうとう
 久しぶりに美味しくいただきましたが、「ほうとう」ってボリュームがありすぎますね。完食しましたが、食後少々お腹が苦しくなりました。。。。(汗)年齢のせい?もあって、段々量が食べられなくなってきました。



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テーマ : 紅葉
ジャンル : 旅行

浮世絵戦国絵巻~城と武将~

 東京・原宿にある浮世絵-太田記念美術館では現在、特別展
「浮世絵戦国絵巻~城と武将~」を開催中です。(今月27日まで)
 
 参考サイト 浮世絵-太田記念美術館
 
 太田記念美術館

   浮世絵戦国絵巻

 
 【展示趣旨】
 天下統一をかけて争った戦国の武将たち。その波乱の生涯は多くの人々を魅了し続けてきました。また彼らが各地に築いた城の数々は、幾多の攻防の舞台となり、残された遺構は戦国の名残を今に伝えます。
 近年、ドラマや映画、小説、あるいはコミックなどの影響で、若い世代の女性も含め、戦国武将や各地の名城への人気が一段と高まっています。
 江戸や明治の人々にとっても、英雄たちが活躍した戦国時代への憧れは強かったと見え、浮世絵師たちは数多くの作品を迫力に満ちた筆致で描いています。本展は、浮世絵に描かれた名城や戦国の武将たちに焦点を当てる展覧会です。


 私自身、あまり浮世絵には関心がないのですが、ある日、「日本100名城スタンプラリー」を主催している日本城郭協会のHPを何気なく見たところ、今回太田記念美術館と共催で同展を開催するという告知が掲載されていたので、行ってみることにしました。
 この展示、先月から開催していたのですが、前期(10/1~10/26)が「群雄割拠の時代~本能寺の変」、後期11/1~11/27)が「天下統一~戦国時代の終焉」ということで展示替がありました。私が行ったのは前期のほうです。
 前期展示では戦国時代前期ということで、武田信玄、上杉謙信、織田信長などの姿を描いた絵が目立ちましたね。江戸時代の人々も戦国時代の合戦・・・たとえば「川中島合戦」であるとか「長篠の戦い」など・・・については描く方も見る方も関心が深かったとみえ、それにちなんだ絵が多数描かれていたことがわかります。
 ただし、江戸時代は浮世絵を描くにも一定の「規制」があって、「太閤記」や、徳川家康に関して描くのはNGだったそうですし、検閲もことのほか厳しかったみたいです。
 また、江戸時代の後期になると、お上の検閲が厳しいことから、世情をそのままダイレクトに描くことが出来ないため、戦国時代を借景として同時代の事件等を描いていたりするので、その辺の暗喩を読み解くことが必要になってきます。もっとも、江戸時代の人たちは、描かれた浮世絵に隠された真のテーマを、見る側もちゃんと把握出来てたわけですね。
 まあ、その辺はあまり難しく考えずに、眺めているだけでも楽しいかもしれません。
 それからお城の絵に関しては出品数が少なかったですが、姫路城の築城をテーマにした絵や、羽柴秀吉による「高松城の水攻め」の絵などがあって面白かったです。
 ただし、お城によっては当時石垣がないのに絵には描かれていて、その辺は「ご愛嬌」です。

 後期展示も面白そうだったが、いかんせん時間的余裕がないので、図録を買ってそれで済ますことにしました。今頃は真田幸村とか伊達政宗とか「歴女」にも人気の武将を扱った展示があるはずです。
 


   ***************************

 展示を見た帰りに、原宿駅前にある「九州じゃんがら」に2,3年ぶりに寄ってみることにしました。
   じゃんがら2
  
 独身の頃は職場や家が近かったこともあり、この原宿店や赤坂店などはよく行ったものですが、結婚後引っ越してしまってからは滅多に行かなくなってしまいました。
 知らない間にいろいろメニューが増えていました。昔は並んで入ったことが多かったように記憶していますが、この日は空いていてすぐ入店できました。
 注文したのは「九州じゃんがら全部入り」(1000円)で、久しぶりに美味しくいただくことが出来ました。
  じゃんがら1

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テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
ジャンル : 学問・文化・芸術

昭和大鉄道展(香川県立ミュージアム)

  昭和大鉄道展

 現在、香川県高松市にある香川県立ミュージアムにおいて、
「昭和大鉄道展」が開催されています。(今月27日まで)

 参考サイト 香川県立ミュージアムHP

 【展示趣旨】
 鉄道は1872(明治5)年の開業以来、めざましいスピードで全国に路線網を拡大し、旅客・貨物輸送に重要な役割を果たしてきました。 香川県では、1889(明治22)年に初めて讃岐鉄道が開業し、大正から昭和初期にかけては、観光地を結ぶ電車網が整備されました。戦後になると、車両の改良やダイヤ改正などにより、より速く便利な輸送の実現に取り組みました。 鉄道は、毎日の生活に欠かせない交通手段であり、進学・就職・結婚など「旅立ち」の場面とともに記憶に刻まれています。 本展では、香川県に鉄道が開通し発展してきた過程や、人々の思い出に残る鉄道の姿を実物資料や車両模型、写真等によって紹介します。


 こちらの展示は、私がというより、うちの主人が興味を引かれて同行したものです。
 主人も東京出身ですので、四国にはまったく縁がないのですが、学生時代、四国を鉄道旅行したことがあり、多少関心があったということです。
 私は正直、あまり鉄道には関心がないのですが、「100名城巡り」の過程で、四国内の移動の際、数度利用させていただきました。
 
   予土線(JR窪川駅にて)
  予土線

   高徳線(JR高松駅にて)
  高徳線

  

 展示室入口から入ってすぐ、昭和30~40年代の高松市内?と思われる町の風景(食堂や映画館など)が原寸大の模型で再現されており、来場者は当時にタイムスリップしたかのような感覚に見舞われます。
 やはり鉄道に関する展示ですので、列車のヘッドマークや行き先表示板など、鉄道コレクターの方が収集したものが目立ちました。中でも、山本不二男(1896~1982年)さんという個人の方が収集していた乗車券のコレクションというのが圧巻でした。山本さんは特に交通資料のコレクターとして全国的に有名な方だそうで、彼が集めたコレクションは現在、奈良県の天理大学に所蔵されているそうです。
 また、戦前の旅行パンフレット(香川県ですので金比羅さん関係のもの)等もいろいろ置いてあって、以外とカラフルに作られていたのが印象的でした。

 来場者は子供さんからご年配の方たちまで様々でした。鉄道は生活に密着していますので、広い世代で共感を呼んだのだと思います。もちろん、鉄道マニア?っぽい方たちも目立ちました。
 マニアの方たちは展示物を見ながら色々語らっているのですが、小耳をそばだてていたところ、かなりディープな内容で、ここではうまく再現できません(笑)しかも、語らっている同士、どうも知り合いという訳ではなく、その場でお互い初対面のマニアさん同士で話が弾んでいる模様でした。
 
 展示の一番最後のところで、事前に香川県民の方たちから四国内の鉄道や廃止された宇高連絡船の写真を募集したものが数多く展示されていました。
 そのほとんどが、応募者のご家族が必ず写っているのです。「○○年、亡父が撮影したものです」「娘が幼い頃の写真です」等のキャプションがありました。
 こうしてみると、鉄道や連絡船は市民の方々の「家族の思い出」と密接に結びついていたのでした。それらを見ていて、見ているこちらまでどこか懐かしく感じられ、そして暖かい気持ちになりました。歴史資料もいいのですが、私的に気を引かれたのはこのエピローグの部分でした。
 私自身あまり鉄道には詳しくなく、四国に土地勘がないためうまく概要を説明できないのがもどかしいですが、多数の展示資料から四国4県の交通網の発展の歴史が辿れるようになっており、素人から見ても構成が良く出来ていたと思います。(担当したのは女性の学芸員さんだそうです)
 
 展示は27日(日)までですので、近隣の方はどうぞご覧になってみてください。しばし、ノスタルジアにひたれることと思います。
 
 

 アナゴ君
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テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
ジャンル : 学問・文化・芸術

宇喜多家三代秘話展(岡山城天守閣)

 今年の秋も、各地の博物館、美術館で秋季の催しが開催されています。先月から今月にかけて、私もいくつか観にいったのですが、その中から印象的だったものをアトランダムに書いていきます。
 会期終了間近なものや、すでに終了してしまったものもありますがご了承ください。なお、感想はあくまでも個人的なものですので、くれぐれも鵜呑みにされませんようお願いいたします。


 今月の初め、香川県高松へ行ったと書きました。
 (過去記事 「さぬきうどん参上!(高松空港)」参照)
 その時は香川県内の史跡巡りをする予定でしたが、現地で急遽予定を変更し、岡山へ行ってしまいました。
 高松から岡山行きの電車が出ていまして、その車中で心変わりしてしまいました(汗)

 電車にゆられて一時間くらいで岡山へ着きました。
 岡山駅前から路面電車に乗り、岡山城へ。
 実は「100名城めぐり」をはじめてから岡山城へ来るのは今回で3度目になります。
 しかし、過去2度はあいにく雨に見舞われてしまい、良い写真が撮れませんでした。この日も天気予報では午後から晴れるという予想でしたので撮り直しに来たのですが、見事に予想がはずれまして、雨こそ降りませんでしたが厚い雲が立ち込めていたため、撮影は諦めました。天気ですから仕方がないのですが、運が悪いなあという感じです。
 岡山城


 この日、天守閣内では秋季特別展
「宇喜多家三代秘話展―備前の覇者の盛衰―」が開催中でした。(今月23日まで)
  DSCF8138.jpg

【展示趣旨】
 戦国時代、備前の国の在地勢力から、57万石余の大大名に上り詰めた宇喜多家。当地の有力武将浦上氏の重臣として活躍した能家(生年不詳~1534年)、そして知謀を駆使し備前・美作の両国を掌中に収めて戦国の大名にのしあがった直家(1529年~81年)、その子で豊臣政権の五大老となり関ヶ原の戦いで敗れた秀家(1572~1655年)は、今日の政令都市岡山の基礎を築き上げました。
 本展では、岡山の礎を築いた宇喜多家の三代を中心に、彼らを取り巻く人々との絆や秘話をゆかりの品々約60点から紹介します。


 幼少時から豊臣秀吉に可愛がられ、五大老の一人となった宇喜多秀家は、最近では「イケメン武将」として「歴女」などからも大人気です。
 宇喜多氏の出自についてはあまりよくわかっていないようですが、記録にその名が出始めるのは秀家の曽祖父である宇喜多能家にはじまります。展示では能家が赤松氏の重臣であった浦上氏の家臣として、浦上氏の勢力拡大に貢献しましたが、同じ浦上氏の家臣である島村観阿弥の急襲を受け、自害します。この能家襲撃には、能家の台頭を恐れた主家の浦上氏が黙認していたという話もあります。
 能家の子・興家という人は暗愚な人であったといわれパッとしませんでしたが、興家の子〈すなわち能家の孫)・直家の代に宇喜多家は再興されることになります。

 宇喜多直家は私が説明するまでもなく、「下克上」を地で行った人物で、成人後は浦上氏に仕え、次々と手柄を重ねて実力を発揮していきますが、一方で舅の中山信正を殺害し、その居城であった亀山城と領地を奪取するような策謀家でもありました。そして、天正3年(1575年)には旧主である浦上氏を打倒して、備前国と美作国東南部および播磨国南西部を領国とする戦国大名に出世するのです。
 能家の晩年の子である嫡男の秀家は、毛利攻めで出陣してきた羽柴秀吉〈後の豊臣秀吉)に見出され、実の子のように可愛がられ、やがて秀吉の養女で前田利家の娘である豪姫を妻とします。
 父・直家が手にした岡山城を豊臣政権下の有力大名にふさわしいものとするため、秀吉の指導のもと8年の歳月をかけて大改修します。こうして、五重六階の天守は慶長2年(1597年)に完成します。
 ところが、秀吉の死後、関ヶ原合戦で西軍の主力となって敗走し、しばらく薩摩の島津家の庇護下にありましたが、3年後の慶長8年(1603年)に伏見城へ出頭し、死一等は減じられて八丈島へ配流となります。
 以後、八丈島にて流人としての生活を送り、明暦元年(1655年)84歳で亡くなります。
 しかし、秀家は父親に比べれば武将としては少々弱い面があるように思うんですが、流罪になってからの長い人生を生き抜いたというのは彼の内面に強靭な精神力が隠されていたのかなあと思ったりします。

 宇喜多家の興亡をふまえて展示のほうですが、60点ほどの出品物があったんですが、やはり断絶した家なので当然のことながらまとまった資料というのがあまりないんですね。苦労して四方八方から寄せ集めてきたという感じです。資料の一つ一つにつながりが感じられませんでした。
 いただいた展示目録を参照しながらこの文章を書いているのですが、正直あまり記憶に残っていないんですよ。あえていえば、宇喜多家の家臣で、家中の内紛により秀家のもとを離れ、徳川家に臣従した花房家の資料ぐらいですかねえ。花房家は秀家のもとを去ったものの、旧主である秀家の配流後はなぜか援助を行っています。
 それと、今回の展示ではじめて知ったんですが、秀家と豪姫には今まで知られていた二男二女のほか、もう一人「幻の娘」がいたそうなんですね。その娘さんに関する資料が展示されていました。「ふり」という名の娘は前田家の身内として遇され、ある寺の住職夫人として平穏に暮らしたようです。

 でも、私自身、展示を振り返ってみて全体としての印象が薄いというか、イメージがわいてこなかったんですよね。。。たとえば、秀家の頃の家臣団の内紛等、もう少し掘り下げがあってもよかったかなあと。
 これは展示の内容のせいばかりでなく、自分がこれまであまり宇喜多氏や中国地方の歴史に関心が薄かったというのもあるかと思います。残念ながらピンとくるものがないまま、お城を後にしました。
 それから、地元の新聞社をはじめ協賛があるにもかかわらず、展示図録が作られてなかったんですよね。予算の問題なのかどうかわかりませんが、出来れば簡単なものでも良いので図録を作って欲しかったですね。
 同行した主人は「面白かった」と言ってますので、感想は人それぞれです。会期中、入館者が一万人突破したそうですから、見る人が見れば興味が引かれるかもわかりません。

 同展は23日(祝)までで会期終了が迫っていますので、近隣の方は足を運ばれてみては如何でしょうか。


 岡山城天守閣 (開館時間 午前9時~午前5時半 入館料 15歳以上800円 5歳以上400円)
 
より大きな地図で 岡山城天守閣 を表示
 

 
 りらっくま
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堀尾吉晴の墓

 松江城を築いた堀尾吉晴(1543~1611年)は、岩倉織田氏の家臣・堀尾泰晴の子として天文12年に尾張国丹羽郡御供所(愛知県丹羽郡大口町)で生まれたと伝えられています。
  堀尾吉晴像

 岩倉織田氏が同族である織田信長に滅ぼされると、堀尾父子は牢人し、永禄7年ごろに信長の家臣である木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に仕えるようになります。
 以後、吉晴は秀吉のもとで数々の戦に出陣しますが、本能寺の変後、秀吉が明智光秀と戦った山崎の戦いで功を挙げ、天正11年の賎ヶ岳の戦いの後に秀吉から丹羽長秀の旧領であった若狭国高浜に1万石で配され、大名の仲間入りを果たします。
 天正13年には近江の佐和山城に4万石で入封します。
 天正18年、小田原の北条氏滅亡後、秀吉は徳川家康を北条氏の旧領であった関東に国替えさせると、空いた土地に子飼いの武将たちを配します。吉晴は一時期家康が本拠を置いた遠州浜松に12万石の加増を受けます。
 吉晴が浜松にいたのは約10年でしたが、この時浜松城の改修を行っています。
  浜松城

 このように秀吉から認められていた吉晴でしたが、秀吉の死後は徳川家康に接近します。
 しかし、関ヶ原合戦直前、吉晴は浜松から越前府中へ向う途中、三河国池鯉鮒にて水野忠重と供に宴席の場にいた際、加々井秀望という者が忠重を斬殺するという事件がおきます。その時、吉晴は忠重の家臣らに犯人と勘違いされ、斬りつけられてしまいます。
 この事件で重傷を負った吉晴は命からがら浜松へ帰り、関ヶ原合戦に参陣できなくなってしまいました。代わりに息子の忠氏が東軍として本戦に参加し、戦後の論功行賞の結果、出雲・隠岐24万石を与えられ、かつて尼子氏の居城であった月山富田城へ入ります。この頃、吉晴は息子・忠氏に家督を譲り、隠居の身となったと考えられます。

 しかし、富田城は地理的に領国の東側に偏っており、周囲を山に囲まれ、町場を多くとれない事や水運と陸上交通の上で不便な土地であることから、幕府の許可を取り、日本海に近い宍道湖のほとりに拠を移し、新たな城と城下町を築くことになります。
  松江城選定の図


 ところが、跡継ぎの忠氏が蝮に咬まれ急死するという悲劇がおこります。(過去記事「松江城選定の地 床几山」を参照のこと)
 忠氏の子・忠晴はまだ6歳という幼児であったため、吉晴は後見人として政事を見ることになります。
 松江城は、このような状況のもと、吉晴が老体に鞭うって、渾身で築いたお城なのです。
 松江城天守b


 松江城の築城には様々な困難が伴いましたが、そんな中で今度は後継者を巡って「お家騒動」がおきてしまいます。
 吉晴の長女「勝山」は、一番家老の堀尾河内守に嫁いでいましたが、河内守との間に掃部という15最になる息子がいました。河内守夫妻は甥にあたる6歳の忠晴を廃し、自分たちの子である掃部を堀尾家の跡継ぎにしようと企み、忠晴の暗殺を謀ります。
 やがてこの陰謀は露見し、堀尾河内守・掃部は死罪となりました。
 また、吉晴は次女である小那姫が婦人病を患ったことを苦にして、二十歳の若さで自殺するという悲哀も味わいました。

 厳しい戦国の世を生き抜いてきた吉晴でしたが、晩年はこのように不遇でした。
 そして、慶長16年(1611年)6月、城の完成を待たずして吉晴は亡くなりました。享年69歳。

 遺言により、亡骸は松江ではなく、富田城下に葬られました。
 下の写真は島根県安来市広瀬町の月山富田城下「巌倉寺」境内にあります吉晴の墓です。(2008年撮影)
  堀尾吉晴の墓2


 「地 水 火 風 空」を象ったといわれる五輪塔です。
  堀尾吉晴の墓1


 
 堀尾吉晴は加藤清正や、藤堂高虎等と並び、普請上手だった人ですが、清正や高虎と比べるとどちらかといえば地味な存在でした。
 私の手許にある戦国武将のガイドブック等にも、堀尾吉晴はまったく紹介されておりません。
 今年、「松江開府400年祭」ということで、このように吉晴の人生にも光が当てられたことは良かったのではないかと思います。
 昨年は彼の出身地である愛知県丹羽郡大口町から有志の方々が団体で墓参りに来られたということです。
 なお、京都にある堀尾家の菩提寺・春光院には吉晴の木像が安置されていますが、その頬には刀傷が刻まれているそうです。戦乱の時代を生き抜いた吉晴の実像が伺えます。

 関連記事 松江城(一)
        堀尾忠晴の墓


   
より大きな地図で 堀尾吉晴の墓 を表示
 
 
  松江400年祭キャラクター「あっぱれくん」
 あっぱれくん
 吉晴公の墓は松江にはないので、くれぐれもご注意くだされ!
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テーマ : 歴史
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宍道湖の夕日

 つづき

 こうして松江で一日観光を楽しんだわけですが、季節は秋となり、日が暮れるのが早くなっています。
 そろそろ帰り支度をしなければならない時刻です。
 
 帰京する前に、どうしても見ておきたい風景がありました。
 宍道湖から眺めた夕日です。
 3年前(2008年)、一応夕日を見たのですが、撮影した位置が悪かったのか、あるいは多少雲が出ていたこともあり、イマイチの写真になってしまいました。
    宍道湖 2008年

 
 宍道湖の夕日を見るには、宍道湖畔にある島根県立美術館の裏手がおススメスポットだということで、さっそく行ってみました。(床几山からの帰り道でしたので)

 参考サイト 島根県立美術館HP (日没時間等の記載があります)

 すでにそこには、夕日目当ての人々が大勢集まっていました。
 旅行客らしきグループ、サラリーマン風の方、恋人同士の方、近所の散歩中の方など様々です。
 皆一様に、デジカメやカメラ付携帯電話などを向けて、夢中で撮影しています。
    宍道湖4

 私が現地についたのは夕日が沈んでいくギリギリの時間だったようで、撮影できたのはほんの数枚に過ぎませんでした。
 (写真はクリックで拡大します)
  宍道湖2

 
  宍道湖1

 
 あーあ。撮影開始してから、ものの5分くらいで、太陽はたちこめた雲の彼方へ消えていってしまいました。。。(´・ω・`)
 夕日を拝めるのって、ほんの一瞬ですね。この季節、日没が早いというせいもあるかと思います。
  宍道湖3


 実はこの直前、うちの主人は「陽のあるうちに、石碑?を撮りに行く」などと言っているので、彼には勝手に先へ行ってもらい、私は袂を分かつことにしました。こんなキレイな夕日よりも石碑のほうが大事とは。。。わが夫ながら、信じられません(呆)
 おかげで夕日をバックに自分の姿は撮影してもらえませんでしたが、仕方ないですね。
 前回よりは雰囲気ある写真が撮れて満足です。次、いつまた松江に来れるかわかりませんので。。。
 旅の最後を彩る、美しい風景でした。
 
 

 夕日の写真を友人に写メで送ったらとても喜んでもらえました。


 少々長くなってしまいましたが、以上で松江の旅については終了です。

 


  松江400年祭キャラクター「あっぱれくん」
 あっぱれくん
 お城も良いが、宍道湖の夕日もサイコーじゃのう。あっぱれあっぱれ♪
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松江城選定の地 床几山

 つづき

 堀尾家の菩提寺である圓成寺をお参りした後、おもむろに地図を取り出し見ていたのですが、寺から東へ250mくらいのところに「床几山」と記されているのが目に留まりました。
 たしか、床几山というのは、堀尾吉晴・忠氏父子が松江城を築くにあたって、その山から場所を選定したといういわれがあったことを思いだしました。
 すでに夕暮れ時にさしかかっていたものの、まだ帰路につくには早い時間だったので、思いつきで行ってみることに。

 地図といっても簡単な略図だったので、その方向を目指して歩いていたのですが、小丘陵みたいなのは見えるものの、「床几山」と記された標識などが見当たりません。

 仕方がないので、たまたま歩いていた年配の主婦の方にお尋ねしてみると。。。
「この道を右へ行って、左へ行って、昔NHKがあったとこかな。ちょっとあの辺わかりにくいのよね。。。」ということでしたが、なんとなく方向がわかったので、御礼を言って言われた通りに歩いてみました。
 しかし、先へ行っても案内板等が見当たらないので、また別の通りがかりの主婦の方に尋ねてみると、
「この辺一帯床几山なんですけどね。。。うーん」と首をかしげている。そこへ、散歩中と思われる年配の男性が向こうからやってきました。
「あら、お父さん!」
 どうやら、その年配の男性の方は主婦の方のお父さん(あるいはお舅さん)だったようです。主婦の方がお父さんを呼んでくれました。
「スミマセン、堀尾公が登ったという場所を探しているのですが」
「ああそうですか、じゃ途中までわたしも行きますよ」
ということで、お父さんに途中まで案内していただきました。
「この辺はここ30年くらいで宅地造成が進んじゃいましてねえ。だいぶ様子が変わってしまったんですよ」
 歩きながらお父さんが教えてくれました。
「この先へ行けばわかるでしょう」
ということで、案内してくれた方へお礼を言って別れました。親切な方で助かりました。

 しかし、またもや一向に床几山の標識などがまったく出てこないので、あちこち見渡しながらうろうろしていたところ、廃墟みたいな建物?があり、建物の上に立ち入れそうだったので、登ってみました。
 そこから遠くを見ると。。。

 松江城の天守が見えました。(^ω^)♪ (クリックで拡大します)
 床几山より松江城遠望A

 後でわかったのですが、この建物は松江市の水道事業創設時の施設で、大正5年(1916年)7月に造られたものとわかりました。大正7年(1918年)6月に通水を開始、昭和58年(1983年)12月末に閉鎖されたといいます。平成元年(1989年)、通水開始70周年を記念し、場内がミニ公園として整備されたようです。
 なにしろ、事前の調べなく行ったもので、この建物が文化財とは知らなかったので、門のところしか撮影しなかったです。。。(この門も国指定有形文化財だそうです)
  旧床几山配水池門

 たしかに、ここからもお城は見えたんですけれども、「床几山」を示す標識のあるところが別にあるはずです。
 建物を出て、付近をうろうろしていると、偶然連れが「床几山入口」と書かれた案内板を見つけました!彼はこの辺の嗅覚は鋭いです。
  床几山3

 細い坂道を登っていくと。。。
 やっと辿りつきました。「床几山公園」という小さい公園になっていました。奥のほうには何故か仏像が。。。???
  床几山1

 園内にはちゃんと「床几山碑」もありました。
   床几山2


 堀尾吉晴と息子の忠氏は新しく城を築くにあたり、当時「元山」と呼ばれていたこの丘陵地に登って、場所選びにとりかかりました。二人は床几に腰掛けて話合ったというので、「元山」は後に「床几山」と呼ばれるようになります。
 父の吉晴は、かつて毛利氏が富田城の尼子氏を攻めた際に陣を置いた宍道湖畔の「荒和井山」〈今の松江温泉のあたり)を主張し、子の忠氏は尼子氏の支城が置かれた亀田山(現在の松江城がある場所)を推しました。
下の絵は、元山から城の選定にとりかかる堀尾親子を描いたものです。(安達不伝・画 座っているほうが堀尾吉晴 傍らに立っているのが忠氏)
    松江城選定の図


 こうして城を築く場所を巡って親子の意見が食い違ってしまったのですが、慶長9年(1604年)8月、息子の忠氏が富田城への帰途、蝮に咬まれたことが原因で26歳という若さで急死してしまいます。
 父・吉晴は突然の息子の死に悲嘆にくれましたが、生前忠氏が選んだ亀田山の地に城を築くことを決意し、さっそく築城に取り掛かりました。
 

 現在、床几山公園から遠望しますと、残念ながら手前のビルに阻まれ、松江城の南櫓がかろうじて確認できるだけで、天守はビルの陰になってしまっていて見えません。。。orz
 床几山より松江城遠望B

 眺めとしては、先に紹介した旧床几山配水池の場所からのほうが良さそうです。
 なお、蛇足ですが、この床几山、標高が41mほどしかなく、島根県で最も低い山とされているのだそうです。

 ほとんど思いつきで行ってしまった結果、我々は床几山の裏手から入ってしまったため少々迷ってしまいましたが、北側の津田街道(国道9号)のほうから行けば案内板も出ていたようで、もう少しわかりやすかったようです。
 (下の写真は津田街道方面から眺めた、中央奥のこんもりした森みたいなところが床几山です)
  床几山4



 松江市上乃木1 (緑のアイコンが配水池跡で、ピンクのアイコンが床几山公園です)
 
より大きな地図で 床几山 を表示

 

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 堀尾父子の絆を感じさせる話じゃのう。不覚にも涙が。。。
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堀尾忠晴の墓

 松江城から南へ約2kmほどの松江市栄町というところに松江開府の祖・堀尾氏の菩提寺「圓成寺」があります。
  圓成寺

 関ヶ原合戦後、出雲・隠岐24万石に配せられた堀尾吉晴ははじめ月山富田城へ入りますが、その後松江へ移るにあたり、富田にあった菩提寺を松江に移し、「瑞応寺」を建立します。開山は吉晴と共に浜松から移ってきた春龍和尚という人で、この方は「松江」の命名者とも伝えられています。
 その後、堀尾氏は吉晴の孫である三代・堀尾忠晴が後嗣なく亡くなったため、「お家断絶」となり、その後入封した京極忠高によって「瑞応寺」は春龍和尚の別荘があった現在の場所に移され、忠晴の法号にちなんで寺名を「圓成寺」と改めます。
 後述しますが、堀尾氏は三代で断絶してしまうため、松江で堀尾氏を偲ぶことのできる唯一の場所となっています。

 こちらのお寺に、三代・堀尾忠晴(1599~1633年)のお墓があると聞いて、お参りしてきました。
 忠晴の墓は本堂の裏手の方にひっそりとありました。墓所の門前には「松江開府400年祭」の幟旗が閃いていました。
  堀尾忠晴の墓3

 堀尾忠晴は慶長4年に、二代堀尾忠氏の子として生まれますが、慶長9年に父の忠氏が蝮にかまれて急死してしまった時、忠晴はまだ数えで6歳だったため、すでに隠居の身であった祖父・吉晴が藩政を見ることになります。
 慶長16年、忠晴ははじめて江戸へ参勤し、二代将軍・徳川秀忠より「忠」の字を賜り、諱を「忠晴」と名乗るようになります。
 忠晴が参勤から帰国した直後、やっと一人前になった孫を出迎え、安心したのでしょうか、忠晴の後見人であった吉晴が亡くなってしまいます。

 その後の忠晴の事績はあまりよくわからないようです。
 寛永10年(1633年)に病のため江戸で死去。享年35歳という若さでした。跡継ぎの男児がなかったため、堀尾家は三代で無嗣断絶してしまいました。
 夫人は奥平家昌の娘・ビン姫〈徳川秀忠養女・家康の曾孫)で、夫の死後実家の奥平家へ戻りました。娘が一人おり、後に石川廉勝(近江膳所藩の世嗣)に嫁ぎました。
 堀尾吉晴の墓1

 墓前の水鉢に刻まれていた堀尾家の家紋。もともと堀尾氏の家紋は「抱き茗荷」でしたが、豊臣秀吉から「分銅紋」を拝領し、吉晴はこれを旗印にも使用していたようです。
 孫の忠晴の代には、右側の「六目結」を多用していたそうです。
   堀尾忠晴の墓2

 なお、「圓成寺」には忠晴夫妻の木像が安置されております。
 この他、京都にある春光院、東京・文京区の養源寺にも忠晴のお墓〈供養塔?)があるようなので、今度機会があれば行ってみたいと思います。


   
より大きな地図で 円成寺 を表示

 
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 堀尾公がせっかく松江城を築いたのに、孫の代で断絶とは気の毒じゃのう。。。合掌
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ぐるっと松江「堀川めぐり」

 400年の歴史を刻む松江の町はとても風情があります。松江市や地元の方々の努力で、街中が整然としていて塵ひとつ落ちていないので感心させられます。

 それと、松江を語る上で欠かせない事の一つに、松江城を囲むように宍道湖から水をひいた「お堀」があります。松江の町が「水の都」とも呼ばれる由縁です。
 前回、松江に来た時、乗客を乗せた小舟が幾艘もお堀を行き来しているのを見て、ちょっと乗ってみたいなあ、と思っていたのですが、その時はお城探索等で時間がとられ、乗ることが出来ませんでしたので、今回はリベンジということで早速お堀巡りをしてみることにしました。(写真はすべてクリックで拡大します)
 松江お堀遊覧1

 
 参考サイト(こちらのサイトをご参照の上、お読みください⇒) ぐるっと松江 堀川めぐり 


 遊覧船乗り場は3箇所にあります。私たちは殿町の「大手前広場」乗り場からスタートしました。乗客は14人くらいまでしか乗れません。
 松江お堀遊覧3

 この小型遊覧船は手漕ぎではなく、モーター付きの小舟です。ですから、思った以上に早いスピードで進んでいく感じです。
 うっかり景色に見とれていると、写真を撮り逃してしまいます。

 お堀遊覧ですから、あまり難しいことは考えずに風景を楽しんでいればいいのですが、どうしてもこういうモノに目がいってしまいます(笑)
 松江お堀遊覧5

 西側にはこのように石垣が築かれているのですが、北側のほうへ行くと石垣は作られていません。現在では草木が生い茂っています。
 松江お堀遊覧7

 これは松江城建設時、予算的に厳しかったことや、領主の堀尾吉晴がお城の完成を目前にして亡くなってしまったため、やむをえず「未完」のまま築城を終了しなければならなかったからなんですね。


 ところで、お堀巡りの一つの目玉として、大小16箇所の橋めぐりがあります。これが最初に通る橋です。
 松江お堀遊覧4

 

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ぼてぼて茶

 つづき

 松江に行く前、テレビの旅番組でたまたま松江について取り上げられていました。そこで見たのですが、松江には昔から
「ぼてぼて茶」と呼ばれるお茶があるそうで、うちの主人がちょっと試してみたいということで、松江城二ノ丸跡にあるお茶屋さんへ。ちょっと休憩です。
  ちどり茶屋

 お店のおねーさんへ、「ぼてぼて茶」を注文します。一人前450円。
 しばし待って、出てきました。
  ぼてぼて茶

 煮出した番茶を丸い器に入れ、茶筅で泡立てます。その時、「ぼてぼて」という音がすることから、こういう名前がついたのだとか。
 そこへ、おこわ、煮豆、糸昆布、刻んだ漬物・高野豆腐などを入れます。(具材はありあわせのものでいいそうです) それを箸など使わないで一気に流し込んでいただきます。
 頂いた感想は、いわばお茶漬けっぽい感じでしたね。あっという間に飲み干してしまいました。

 この「ぼてぼて茶」ですが、元々、奥出雲のたたら製鉄の職人達が高温で過酷な作業の合間に、立ったまま口に流し込んでいた労働食に由来するという話があります。また、松平不昧公の時代の非常食だったと言う説や、上流階級の茶の湯に対抗して庶民が考え出した、趣味と実益を兼ねた茶法だとする説等いわれているそうです。
 松江の方は家庭でも「ぼてぼて茶」をいただくそうですが、現代の感覚ですと、「おやつ」っぽいノリでいただく感じでしょうかねえ。
 松江城の御茶屋さんだけでなく、市内の喫茶店や郷土料理屋さん等でも提供しているそうなので、どうぞ探してみてください。




 松江400年祭キャラクター「あっぱれくん」
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 この「ぼてぼて茶」、器を片手でもって一気に飲み干すのはけっこう難しいんじゃよ。ぜひお試しあれ
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松江歴史館

 つづき

 前回のエントリーでは、今年3月19日にオープンした松江歴史館で先月開催していた特別展について先書いてしまったのですが、同館について少し補足しておきます。
 (写真はすべてクリックで拡大します)
  松江歴史館

 松江歴史館が建設された場所というのは、もともと松江藩の家老の屋敷跡ということで、外観も武家屋敷をイメージした造りとなっています。
 幕末の画家、堀櫟山(ほりれきざん)の絵を参考に、隅櫓(すみやぐら)を設けています。
  松江歴史館2

 敷地の一部には、松江市指定文化財である「家老朝日家長屋」があり、ここからは松江城の天守を眺めることができます。
  松江歴史館 復元長屋


 中の常設展のほうですが、堀尾吉晴が松江城を築いて以来の歴史について取り上げられています。
 「松江城誕生物語」を映像で紹介。
  松江歴史館 常設展示2

 古文書等のみならず、模型や絵などが並び、主に江戸時代の松江城下の様子をわかりやすく紹介しています。
  松江歴史館 常設展示3

 元々は家老屋敷であったことから、一部発掘現場の礎石の様子が見えるようになっています。
  松江歴史館 常設展示1

 ホールにあった「LEGO」の松江城。すごくリアルに出来ていて感心しました。
  松江城(レゴ)



 今年オープンしたばかりですから施設内はトイレ等も含めてキレイなので居心地がいいです。廊下もすべて畳敷きなので歩きやすかったですし・・・それに喫茶室などもあるので、途中でちょっと休憩もOKです。
 なお、館内の隅のほうに、千利休ゆかりと伝わる茶室が復元されていたのですが、慌てていたので見てくるのを忘れてしまいました。(同館サイトでご確認ください)
 1時間半~2時間もあれば、企画展と常設展あわせてゆっくり見学できると思います。あいにくの雨模様の日などはこちらで雨宿りもかねて、しばし松江の歴史に触れるのもいいかもしれません。
 職員の方の対応も丁寧で、今後も順次企画展やイベントを準備しているということなので、同館のホームページを事前にチェックして、是非立ち寄ってみてください。


 参考サイト 松江歴史館

 関連記事 “江”の姉“初”、ダンナが侍女に産ませた子を殺そうとしてた
 
  
 松江市殿町279番地 電話0852-32-1607 開館時間:4月~9月 8:30~18:30 10月~3月 8:30~17:00
 休:毎月第三木曜  松江城との共通券あり
  
より大きな地図で 松江歴史館 を表示

 


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 「歴史館」は我が町の新たな観光の目玉じゃて、これからもよろしくのう
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“江”の姉“初”、ダンナが侍女に産ませた子を殺そうとしてた

 「松江城(三)」のつづき

 松江開府400年祭にあわせ、今年の3月、松江城の東側の堀端に松江400年の歴史と文化を紹介する新たな観光拠点として、「松江歴史館」という施設がオープンしました。ところが、3月11日の震災もあり、ひっそりとしたデビューとなってしまったようです。
 今回、時間がありましたので寄ってみることにしました。(以下、写真はクリックで拡大します)
  松江歴史館

  参考サイト 松江歴史館ホームページ


 この日、ちょうど同館では秋の特別展
「松江藩主・京極忠高の挑戦」という展示を開催中でした。(10月30日にて終了しています)
 「京極」ときけばピンとくる方もいらっしゃることと思いますが、京極忠高というのは、今年の大河ドラマのヒロイン“江”の次姉である“初”の夫である京極高次の庶子になります。おそらく大河ドラマ関連ということで取り上げられたのだろうと思われます。
  京極忠高の挑戦

 こういってはアレですが、実は私、今年の初め頃には例年のように大河ドラマ関連のイベントでも出かけてみようなどと考えていたのですが、ドラマが展開していく中で「清洲会議」の辺りからどうしてもその内容についていけなくなってしまい、自分の中で盛り下がっていく一方だったので、従って大河ドラマ関連イベントにはまったく足を運んでいませんでした。
 今回、偶然このような展示を見たという次第です。
 
 正直、あまり期待もせず見てみたのですが。。。その展示内容がいささかショッキングなものでした。

「追記の開閉」をクリックしてください↓

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「さぬきうどん」参上!(高松空港)

 先日(11/2日)、所用があって香川県高松市に行ってきました。
 羽田から飛行機で行ったのですが、高松空港に到着し、飛行機を降りて空港の出口へ行く途中、こんなモノを発見!(写真はクリックで拡大します)
   高松空港 手荷物コンベア2

 な、なんと。。。手荷物受取所のコンベヤーに、うどん鉢のサンプルが二つ置かれていて、ぐるぐる廻っているんです。
 おおー、いつの間にこのようなモノが!たしか、今年の夏来たときは無かったもので。

 どこかのTV局のカメラまで入ってました(汗)
   高松空港 手荷物コンベア1

 
 帰京してから、ニュースでやっていたことを知りました。(撮影していたのは多分コレか?)

 高松空港 コンベヤーにうどん〈NHKニュースサイト) ※リンク切れご容赦

 香川の名物「さぬきうどん」をPRしようと、高松空港の手荷物の受取所で、器に入ったうどんのサンプルがベルトコンベヤーで流れてくるユニークな取り組みが始まり、到着客を楽しませています。

 この取り組みは、高松空港ビルの管理会社が国内線の手荷物の受取所で今月から始めました。荷物と一緒に流れてくるのは、生卵を混ぜて食べる「釜玉うどん」と、天ぷらをのせた「天ざるうどん」の2種類のサンプルです。うどんの器はそれぞれ直径およそ30センチで、特産の庵治石が使われています。受取所では、うどん店の雰囲気を出すために「さぬきうどん」と書かれたのれんを取り付け、メニューも置いています。高松空港に到着した観光客やビジネス客などは、手荷物と一緒に流れてくるうどんのサンプルを物珍しそうに眺めたり、写真に収めたりしていました。東京から観光で訪れた25歳の女性は「うどん目当てで香川県に来ましたが、まさか空港で目にするとは思っていなかったので驚きました。これからすぐに食べにいきたいです」と話していました。高松空港ビルの山下幸男社長は「少しでも多くの人にこのうどんを見てもらい、『香川に来たのだな』と喜んでいただければ」と話していました。



 ふーん (´・ω・`) なるほど。。。さすがは香川名物「さぬきうどん」といったところですね。
 この手のニュース性のあるものは後で書くと色あせてしまうので、とりあえずのっけておきますね。
 いわずもがな、自分も高松でうどん食べてきましたけど。。。(美味しいお店でした)

 
 しかし、このような食品のサンプルが空港手荷物受取所のコンベヤー上で廻っているのは高松が最初ではないと思う。
 以前、大分空港で見たことがありましたから。(2007年秋撮影) 大分のほうは「寿司」でしたけどね。

大分空港 手荷物受取所1 大分空港 手荷物受取所2


 次回はまた松江行きの続きを。



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A☆六文銭

Author:A☆六文銭
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日本100名城完全制覇と有名人の墓めぐり(掃苔)
日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

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