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NHKのトーク番組に出演しましたが・・・(その1)

 閑話休題。いささか雑談風の話になるのでご了承ください。

 7月下旬のある日、当ブログのメールフォームから以下のような一通のメールが届きました。

「A☆六文銭様
 はじめまして。突然のメールで失礼します。私はNHKで放映中の「○○」番組の制作担当ディレクターKと申します。
 実は現在、「○○」では戦国時代が好きな方で出演者を募っております。
 もしご興味ありましたら、収録に参加してみませんか?ご検討願います」

 いきなりこのようなメールだったのでびっくりしましたが、先方の会社連絡先等も明記してあったので、参加か否かの即答はせず、おそるおそる内容問い合わせのメールを出してみますと、先方から
「関ヶ原の戦いと戦国武将をテーマにトークをするので、是非参加してみてほしい」
とのレスと、20問にわたるアンケートが送られてきました(驚)

 番組は前編、後編2本建てということで、前編は「関ヶ原合戦で西軍を勝たせるにはどうしたらいいか」というのを考えてもらうということで、正直面くらいました。しかも、出演者は全員女性だといい、いま流行りの「歴女」によるトークというのを企画しているという話なのです。
 といえ、私自身岐阜県の関ヶ原へ行ったことが一度もなく、史実では結果的に敗北した西軍を勝たせる方法など考えもおよばなかったので、一体どうしたものか、と困惑気味だったんですね。このブログを見てもらってもわかる通り、戦国武将に対してとりわけ深い思い入れがあるというわけでもなかったですし。

 ただし、先方がおっしゃるには、出演者を30名集めなければならないところ、私と連絡とれた時点でまだ定員すべて集めきれてない、とのことだったので、いきがかり上何となく出演することが決まってしまいました。。。(´д`;) 
 ディレクターさんは当ブログもちゃんとご覧いただいていたというのも有難いと思いました。

 ところで、天下分け目の戦いといわれる、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦ですが、読者の皆様なら東軍派(徳川家康)、それとも西軍派(石田三成)どちらに味方されますでしょうか?

 アンケートを用意してみましたので、お時間のある方だけでかまいませんので、ぜひご投票ください↓
           


 私はこの問いに対し、「正直どちらでもない」と思ったのですが、それだと番組にならなさそうだったので、とりあえず「西軍」にしておきました。。。
 正直言って、あんまり徳川家康が好きじゃなかったんですよ。ただし、対する石田三成もどうかな。。。。という感じで、ホンネはどっちつかずだったんですが。。。(笑)

 ちなみに、出演女性30人にアンケートしたら、ほぼ9割の方が「西軍」と答えました。なぜか、石田三成、島左近などのファンが多かったようです。
 なんで石田三成ってそんなに人気があるんでしょうかね。判官びいきというところなのかなあ。
 私に言わせると、三成は武将というよりも、むしろ官僚だと思うんですけどね。
 おそらく、司馬遼太郎の小説「関ヶ原」の影響もあるのかな、と。そんなことを思ったりしました。


               つづく
 
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テーマ : NHK
ジャンル : テレビ・ラジオ

上杉鷹山の藩政改革を支えた家臣の墓

 昨今の日本の政治状況を鑑みますと、毎度「改革」のかけ声倒れで終わり、成果を得た例というのはほとんどありません。
 仮にリーダーといわれる人がどんなに高い理想を掲げていたところで、配下にいる人たちをうまく動かせなければ政治は良い方向へ進みません。

 江戸時代中期、深刻な財政難に陥った米沢藩の藩政改革を断行した上杉鷹山には、彼が目指した藩政改革を支える有能な家臣たちがいました。
 その中の3人のお墓をご紹介いたします。

 
 竹俣当綱の墓 (米沢市南原横堀町 常慶院)
 米沢藩上級武士の家に生まれる。前のエントリーで紹介した藁科松伯の家塾グループの一人。
 関連記事⇒藁科松柏の墓
 藩政の刷新を目指し、専横著しかった8代藩主・上杉重定の寵臣・森平右衛門を誅殺した。
 上杉鷹山の安永・明和の改革において、奉行(家老)筆頭として改革政治をリードする。漆・桑・楮の百万本植立や、成島焼、縮織を始めるなど積極的な産業の開発を行う。
 しかし、天明2年(1782年)、上杉謙信の命日に禁じられた酒宴を行い、その他不行跡を突きつけられて隠居させられる。失脚後も「国政談」「農家立教」など数々の建言書を書いた。
 墓の碑文は細井平州によるもの。
    竹俣当綱の墓



 莅戸善政の墓 (米沢七軒町 長泉寺)
 中級武士の出であったが、財政に明るかったため鷹山から抜擢され、後に奉行(家老)まで出世した。藁科松柏の家塾「菁莪館」グループの一人で、竹俣当綱と共に安永・明和の改革を担う。
 やがて鷹山の財政改革は行き詰まり、それに伴い天明3年(1783年)に隠居の身となる。
 しかし、寛政3年(1791年)、隠居の身でありながら藩政に復帰し、やがて奉行に就任して藩政改革を主導した。
 寛政12年(1800年)には飢饉救済の書である「かてもの」を執筆した。
 莅戸善政の墓


 黒井忠寄の墓(米沢市鍛冶町 高国寺)
 鷹山の農業政策は竹俣当綱・莅戸善政ら重臣によって立案されたが、実際に担当した一人である。
 忠寄は若年の折から和算に長じ、18歳の時「中西流」の最高免許を授けられた。
 安永元年(1772年)勘定頭になると赤字の実態把握に努め、寛政元年(1789年)より金蔵の管理を任されるなど財政再建に従事する。
 寛政年間、北條郷の村々に用水路を巡らすことを進言し、自ら設計してのべ30数kmにわたる水路を建設し、「黒井堰」と命名された。
 寛政11年(1799年)、飯豊の穴堰工事が始まったがまもなく脳卒中で倒れ、53歳で他界した。
 なお、お墓は近藤勇の首塚と同じ寺にあります。関連記事⇒【新選組】近藤勇の首塚
 黒井半四郎の墓


  
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テーマ : 歴史
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藁科松柏の墓

 米沢藩中興の祖といわれる9代藩主上杉鷹山(1751~1822年)には彼を支えた優秀なブレーンがいました。今日はその方のお墓です。

 藁科松柏は上杉鷹山の御側医を務めた医者でもあり、儒学の素養もありました。若き日の鷹山の能力を見出し、教え、導いた人でもあります。
 松柏12歳のとき父親を亡くしましたが、21歳で江戸御留守番を務め、23歳で8代藩主・上杉重定の御側医に就きました。
 家塾「菁莪館」を開き、それまでの藩政を憂える家臣たちを集めました。そのグループは後に鷹山の藩政改革に参画することになります。
 明和元年(1764年)、両国橋の袂で辻講釈をしていた儒者・細井平州を知り、その才あるを見抜いて、主君である鷹山の学問師範として推薦します。(細井平州はその後、米沢藩へ招かれて鷹山のブレーンとなり、鷹山に大きな影響を与えました)
 しかし、明和6年(1769年)、松柏は33歳という若さで亡くなりました。

 昨年2月、藁科松柏の墓がある日蓮宗・善立寺(米沢市相生町7-113)を訪れました。
 ところが、境内に降り積もった深い雪のために墓前に到達することが出来ませんでした。下の写真は遠くから望遠で撮影したものです。(中央の墓石)
 藁科松柏の墓a


 今年5月、再訪してやっとお参りすることが出来ました。(-人-)
 善立寺1
 善立寺2
 藁科松柏の墓b


 しかし、一番上の写真のようにお墓が雪で埋まってしまった場合、故人の命日が冬場の時は納骨や供養等はどうするのでしょうか???
 地元の方に話を聞いたところ、地球温暖化のせいなのか、米沢はこれでも昔に比べれば雪の量が減ったということでした。
 でも、やはり雪国における冬場の墓参りはあまりおススメできないです。。。


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【新選組】近藤勇の首塚

 昨年の2月、たまたま米沢へ用事があり、空いた時間でいつものように史跡巡りをしていますと、たまたまあるお寺さんの前へ通りかかりました。
 高国寺(米沢市鍛治町4586) 曹洞宗のお寺ですが、戦国時代に開かれた古刹だそうです。
高国寺

 墓参りをはじめ、史跡巡りの際は予め書籍やネットの情報で行くところを決めていますが、こちらのお寺はまったく予定外でした。
 そのままスルーするつもりだったのですが、寺の入口付近に「近藤勇」と記された幟旗が目に入りました。
 よく見れば、案内板がありましたので読んでみると。。。
 高国寺2

 幕末、新選組の局長としてならした近藤勇(1834~68年)の従兄弟にあたる近藤金太郎という人・・・この人はもともと上州桐生の出身で、招かれて米沢織物に貢献したそうですが・・・が、勇が板橋宿で処刑された際に密かにその首を持ち出し、遠路運んできて高国寺にある自分の家の墓に葬ったと書かれています。
 

 でも、待てよ。。。近藤勇の首って、京へ送られ三条河原へ曝されて、その後行方不明じゃなかったっけ?新選組にあまりくわしくない私ですが、それぐらいは聞いております。
 とりあえず境内に入ってみる。2月という冬まっさかりの時期でしたから、墓はご覧のとおり。深い雪のために側には近寄れませんでしたが、近藤勇の幟旗が数本立っていましたし、墓石にも「近藤家之墓」と記されているのですぐわかりました。
 高国寺・近藤勇の首塚

 
 勇の首を持ち出して葬ったという近藤金太郎という人ですが、勇の従兄弟という話なんですが、勇自身もともとは宮川家という農民の出で、天然理心流の宗家である近藤周斎のもとへ養子へ行った人です。だから直接の血縁関係はないのではないかなあ、などと思ったりしました。
 事の真偽はさておき、米沢にも近藤ゆかりの人物が存在したことは確かなようです。
 米沢の有志の方々によって、毎年供養も行われているそうです。
 まさか、江戸からも京からも遠い米沢の地で近藤勇の首塚に出会うとはビックリでしたが、このように、何気ない墓巡りには思いもかけない「発見」があります。
 帰宅してから調べてみると、愛知県のある寺にも「近藤勇の首塚」と伝えられている墓があるのだとか。いつか機会があれば行ってみたいと思います。
 


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上杉家廟所

 米沢城からやや離れた北西の地に、米沢藩主上杉家廟所があります。(米沢市御廟1-5-30)
 昭和59年(1984年)に国の重要文化財に指定されています。
 深閑とした杉林の奥に墓所はありました。(以下、2007年夏撮影) 大河ドラマ「天地人」の放映前だったので、訪れる人の姿もまばらで静かにお参りすることができました。
    上杉家廟所1

 中央には上杉謙信の墓が、以降左右に交互に11代藩主(謙信から数えると12代)・斉定まで歴代藩主の墓が立ち並んでおります。
  上杉家廟所2

 上杉謙信の墓。謙信は天正6年(1578年)3月に他界しましたが、その遺骸は甲冑を着せられた後、甕に納められたそうです。そして春日山城下の林泉寺に葬られました。
 しかし、上杉家が会津若松に移ることになり、謙信の遺骸も会津へ引っ越すことになりました。さらに関ヶ原合戦後、上杉家は米沢へ移封させられますが、またもや謙信の遺骸も一緒に引っ越すことになり、米沢城内に安置されました。
 明治維新後、廃藩置県により米沢城が廃城となると、謙信の遺骸はこの上杉家廟所に移されました。
 結局、謙信の遺骸は都合3回も引っ越したことになります。甕ごと移設したのですから、運んだ人たちも大変だったでしょうねえ。
    上杉謙信の墓

 
 謙信の墓の向って左隣に初代藩主・上杉景勝の墓があります。景勝は元和9年(1623年)3月に亡くなりましたが、その時にこの地に廟所が築かれました。
 しかし、私が米沢で得た情報によれば、景勝の遺骨は高野山に築かれた墓に安置されているとのことです。土葬ではなく、火葬されたということなのか???どちらが本当のお墓なのか、ちょっとはっきりしません。。。
 上杉景勝の墓

 「名君」と謳われた米沢藩中興の祖、上杉鷹山(治憲)の墓です。上杉景勝の玄孫(外孫)にあたります。
 日向高鍋藩主・秋月種美の次男として生まれますが、8代藩主・上杉重定の養子となります。
 米沢藩の財政窮乏を救うため、藩内守旧派の頑なな「抵抗」に遭いながらも、様々な藩政改革を打ち出します。
 「なせばなる なさねばならぬ 何事も ならぬは人の なさぬなりけり」という言葉は有名です。

 なお、景勝から8代重定までは霊廟が社造りでケヤキが使われていますが、藩の財政難ということもあり、鷹山以降の藩主の霊廟はスギやヒノキを用いた宝形造りに変更されています。
 上杉鷹山の墓


 
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春日山林泉寺 上杉家および家臣の墓

 直江兼続夫妻の墓がある春日山林泉寺はもともと越後・春日山(新潟県上越市)にあった上杉家の菩提寺です。しかし、上杉家が会津を経て米沢に移ったことから、寺も移されることになりました。しかし、寺丸ごと引っ越したわけではなかったようで、春日山の林泉寺も一度衰退したものの再興されて今に続いています。

 参考サイト⇒春日山林泉寺ホームページ
         上越・春日山林泉寺ホームページ

 さて、林泉寺の墓域は広く、上杉家の方々が眠る廟所と、家臣のお墓があります。その中から、名を知られている人の墓を一部紹介します。お墓には「○○の墓」と明記されているところが多いので、安心して参詣することができます。
 なお、寺の境内に立ち入るのに100円、本堂(本尊や上杉家の位牌を安置している)を拝観するのに別途300円納めたような記憶があります。

 上杉家廟所
 林泉寺・上杉家廟所


 仙桃院の墓  上杉謙信の姉で、長尾政景に嫁して二代・景勝を生む。
           慶長14年2月、米沢城内にて死去。享年82歳。当時としては長生きされたほうだと思います。
 仙桃院の墓

 
 菊姫の墓   武田信玄の娘で上杉景勝正室。信玄亡き後、長篠合戦で兄・武田勝頼は織田・徳川連合軍に敗北し、それまでの外交方針を転換して上杉家と「甲越同盟」を結ぶことになります。それに伴って菊姫は上杉景勝のもとへ嫁ぐことになりました。
 残念ながら景勝との間に子は出来ませんでしたが、武田信玄の娘ということで上杉家でも丁重に扱われていたようです。
 豊臣秀吉の命により人質として京へ上り、亡くなるまで伏見の屋敷で暮らします。慶長9年(1604年)に夫に先立ち42歳で死去。京の妙心寺塔頭に葬られましたが、後に林泉寺へ改葬されました。
 彼女の同母兄である仁科盛信の墓参りをしていますので兄妹の墓参りをしたことになります。
 過去記事⇒仁科盛信の墓
         武田信玄の墓


 菊姫の墓


 媛姫(はるひめ)の墓   会津藩主・保科正之の娘で、三代藩主・上杉綱勝の正室。
 媛媛の実母・お万の方は夫・正之の妾腹の娘・摩須が大藩である加賀前田家に嫁ぐにあたり、実娘よりも家格が上に嫁入りすることに腹を立て、妬み心から祝宴の席でこれを毒殺しようとして、手違いで実娘である媛姫に毒があたってしまい、19歳という若さで亡くなってしまいました。
 父である正之は娘の早すぎる死を悼み、大きな墓を建てたといいます。
 6年後、夫である綱勝が跡継ぎを残さずに早死にしたため、通常ならお家断絶になるところを、老中であった保科正之の口添えで改易は免れ、30万石から15万石に減知されての存続が許されました。
 媛姫の墓


 お豊の方の墓    九代藩主・上杉鷹山(治憲)の側室。四代藩主・上杉綱憲の六男・勝延の娘。 
 夫である鷹山には正室がいましたが重度の障害者で早世したため、お豊は事実上の夫人となります。
 鷹山より10歳も年上の「姉さん女房」でしたが、文字通り「内助の功」で夫を支えます。81歳まで長生きしたそうです。
 なお、伝国の杜・上杉博物館内の「上杉鷹山シアター」では女優の紺野美沙子さんがお豊の方を演じています。
 お豊の方の墓



 *************************************

 武田信清の墓   武田信玄の六男(あるいは七男)。武田家滅亡後、高野山へ身を隠していたといいますが、姉である菊姫の縁を頼り越後の上杉家へ逃れます。上杉景勝は信清に3000石の知行をもって遇したといいます。
 以後、子孫も代々上杉家家臣として仕え、現在に続いているということです。
 上杉景勝の懐の深さがしのばれます。
 武田信清の墓


 甘糟景継の墓  越後上田衆・登坂加賀守清高の子として生まれるが、後に上杉謙信の命により甘糟家を継ぐ。
            徳川家康の会津征伐の折、守っていた白石城を留守にしていたところを伊達政宗の軍に急襲され、城を奪われたために主君である上杉景勝の不興を買ったともいわれます。槍と大刀の名手であったそうです。
 甘糟景継の墓

 
  その他、林泉寺にはまだまだ多数の家臣の墓がありましたが、長くなりますので、また機を改めて紹介したいと思います。 


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直江兼続の墓 附墓石の有効活用

 山形県米沢市内にある春日山林泉寺(曹洞宗)。こちらのお寺は上杉家の菩提所であり、上杉家の一族の墓や家臣の墓が多数並んでいます。
 林泉寺(米沢)

 特筆すべきは、NHK大河ドラマ「天地人」の主人公にもなった直江兼続(1560~1619年)の墓です。兼続の人となりについては、ドラマでも放映されましたし、ネット上でも多くの人々が取り上げているので省略いたします。上杉謙信、景勝二代に仕え、その才覚を豊臣秀吉にも認められ、関ヶ原合戦後上杉家が米沢へ移封された後は執政として米沢藩の基礎を築いた人物です。
 私が訪れましたのは2007年の夏ですので、大河ドラマが放映される前になります。この時はまだ訪ねてくる人もいなくて、寺の境内はひっそりとしていました。
 直江兼続の墓1


 ご覧のように、妻のお船と供に仲良く眠っています。しかし、実はこのお墓は改葬されたもので、事情があって彼が亡くなってから二度ほどお墓が移されています。最終的に林泉寺へ葬られることになったものです。
 直江家はその後子孫が続かなくて断絶してしまい、関ヶ原直前、一度は徳川家に逆らったということで江戸時代に入ってからはあまり省みられることがなかったようです。
 しかし、九代藩主・上杉鷹山の代になって、鷹山が兼続の藩政を手本としたことから、鷹山によってねんごろに供養も行われています。
 直江兼続の墓2

 さて今回は墓石の話です。兼続夫妻の墓ですが、ちょっと他所では見慣れない形をしています。屋根があって、その下の土台の中はくりぬかれて、側面には穴が開いています。さらに、この中に五輪塔が置かれているんですね。
 このユニークな形の墓石・・・米沢でよく見られる独特のもので、「万年塔」といいます。「万年塔」は直江兼続によって考案されました。

 これはいざ戦になった時にバリケードにしたり、川の氾濫で洪水がおきた際は中に土をつめ、土嚢代わりとしたのだそうです。
 実は、当初私はこの「万年塔」というのは、冬は深い雪に覆われる米沢で、墓石が降雪で傷まないようにする囲いのようなものと思っていたのですが、本来の「活用法」を知り、改めて直江兼続の深謀遠慮を思い知った次第です。
 どの城下町でも、寺は有事の際に一種の砦のような役割を果たします。まさか、墓石にまで有事の際の工夫をしていたとは、直江兼続なかなかやるなあと感心しました。

 この後は米沢市内の歴史上の人物のお墓を若干ですがご案内します。
                                   つづく
 

     かねたん・おせんちゃん


 ※ブログ1~2日休ませていただきます。

 
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前田慶次郎供養塔

 【駅弁】牛肉どまん中 「花の慶次」ヴァージョン のつづき

 米沢ゆかりの武将・前田慶次郎のお墓(供養塔)の紹介です。
  前田慶次郎供養塔
 (2007年8月撮影)


 前田慶次郎の生年は諸説あって判然としていません。加賀藩の史料によれば、死んだ年から逆算して天文2年(1533年)頃の生まれといわれています。
 生まれ年不肖に加え、彼の出自もよくわかっていません。有力な説としては、織田信長の家臣であった滝川一益の甥である益氏の子として生まれますが、故あって生母が慶次郎を連れて前田利家の兄である利久に再嫁したので利久の養子となり、前田姓を名乗るようになったといわれます。
 養父・利久は尾張荒子城主(2千貫)でしたが、永禄十年(1567年)10月突如主君である織田信長より弟の利家に家督を譲るよう命じられたため、利久は無理やり放逐されてしまいます。
 この後しばらく利久・慶次郎父子の消息は判然としませんが、天正9年(1581年)に叔父である前田利家が信長より能登一国を与えられた頃前田家に帰参したとみられ、利家に仕えることになります。
 慶次郎は天正12年(1584年)、末森城の合戦や翌年の阿尾合戦にも参戦し、佐々成政を破って越中阿尾城を預かるなどの働きを見せています。
 しかし、天正18年(1590年)頃、慶次郎は突如前田家を出奔します。理由は利家との間に不和を生じたらしいと見え、また天正15年に養父・利久が亡くなったので、前田家との義理もなくなり、その事も起因していたかと思われます。

 その時の有名な逸話としてこんな話があります。慶次郎という人は日頃から奇行が目立ち、律儀者である叔父の利家はそのことを心配し、ちょくちょく説教をしていたが、慶次郎はそれを疎ましく思い、ついに利家のもとを離れることを決意しました。
 ただ出奔するのでは面白くないというので慶次郎は一計を案じます。
「これまで叔父上に数々のご心配をおかけし、申し訳ございません。つきましては、改心の証として拙宅にて茶の湯をいたしますので、ぜひお運びいただきたい」
と慶次郎が頭を下げるので、利家もやっとわかったか、と機嫌をよくし、あくる日慶次郎宅を訪れます。
 すると慶次郎が、
「今日は寒うございますから、茶の席の前に一風呂浴びては如何でしょう」
と利家を湯殿へ案内し、いざ利家が湯に浸かろうとすると果たしてそれはすぐにも凍えそうな冷たさの水風呂でした。
 これに怒った利家が供の者に慶次郎を連れてくるように命じると、すでに慶次郎は利家の愛馬・松風を奪って逃げたあとだった云々。

 その後、慶次郎は妻子を国に残したまま、単身京都で牢人生活を送っていたと思われます。やがて、上杉景勝の重臣・直江兼続の知遇を得、それがきっかけとなって上杉景勝のもとへ出仕することになります。上杉氏の記録では、直江兼続配下の「組外衆」として1000石で召抱えられたそうです。
 「東の関ヶ原」といわれる慶長出羽合戦では慶次郎も参戦し、長谷堂城の戦いで最上勢と対峙し、やがて撤退を余儀なくされたときは殿をつとめ、目覚しい働きを見せたと上杉家の史料に書かれています。

 慶長6年7月、上杉景勝は徳川家康への謝罪のため会津を立ち伏見にて家康と対面を果たしますが、この時家康の下知により景勝は会津120万石から米沢30万石への移封を命じられます。
 このとき、慶次郎は京におり、他家からの仕官の話もありましたが、「今度の戦で諸大名の心を見限った。我が主人は景勝ただ一人しかいない」とすべて断り、同年10月、上杉景勝、直江兼続の後を追って米沢へ赴きます。この時慶次郎が記したと思われる道中日記が現在に伝わっています。(写真は影印本)
 前田慶次道中日記

 晩年、慶次郎は米沢近郊の堂森という場所に隠棲し、慶長17年(1612年)に亡くなりました。享年は70歳前後だったといいます。
 慶次郎の亡骸は米沢城下の北寺町の一花院という寺に葬られたとの記録がありますが、一花院はその後廃寺となっており、残念ながら慶次郎の墓も残っていません。
 昭和55年に慶次郎が隠棲した堂森にある善光寺というお寺さんに供養塔が建てられました。
 堂森善光寺

 慶次郎は数々の「やんちゃ」な逸話が残る自由奔放な気質でありながら、一方で和歌や漢詩にも通じた名うての風流人だったといわれます。その辺のギャップが、「かぶき者」と言われる由縁なのでしょう。型にはまらない豪放な人物だったようです。

 なお、この寺の近くに「慶次清水」と呼ばれる慶次郎も利用したという湧き水があるということでしたが、結局場所がわかりませんでした。また再訪したときに行ってみたいと思います。
 米沢市内にある宮坂考古館には慶次郎所用と伝わる甲冑(朱漆塗紫糸素懸威五枚胴具足)が展示されています。
 宮坂考古館

 
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : 有名人の墓(ま行)

【駅弁】牛肉どまん中 「花の慶次」ヴァージョン(JR米沢駅)

 今年もはや9月になり、当ブログでも訪れた各地のことについて色々と書きつづってきたわけですけれども、どうしても書き漏らしてしまったことが出てきます。ブログネタにしようと思っていた件の2割くらいは書き漏らしではないか、と思います。
 ブログをはじめて一年半くらいになりますが、どうやったら効率よく書けるのか、自問自答の日々です(汗)。

 ところで、今年の4月と5月の二度にわたって、山形県米沢に用事があって行ってきたんですが、どうもその前後体調不良や他の地方を書くのが長引いたため、その時見た上杉博物館の特別展については書いたのですが、その他のことはつい書きそびれてしまいました。
 関連記事 上杉氏のルーツ

 その時のことを少しだけ。
 JR米沢駅

 この頃、3月11日の地震の煽りを受けて、米沢は観光客もまばらで、ひっそりとしていました。タクシーの運転士さんに聞いてみると、米沢は大きな被害こそ出なかったものの、その煽りを受けて閑古鳥が鳴いているといいます。
 毎年、米沢ではGW中に「米沢上杉まつり」というイベントを開催しているのですが、今年は地震で中止になってしまい、それが響いたと運転士さんは嘆いていました。

 しかし、地元の人々の熱意もあって、今秋に延期されて実施が決まり、昨日から上杉まつりが開催されています。(よかったですね・・・)
 米沢上杉まつり公式ホームページ
 

 かつて上杉氏の居城があった米沢城・・・現在は上杉神社になっていますが、地震で鳥居にひびが入ったとかで修復工事をしていました。(4月) 翌月行ったときは直っていました。
 上杉神社

 上杉家に伝わる宝物を公開している宝物館「稽照殿」は地震で建物が損傷を受けたとかで、耐震工事のため閉館中でした。実はここに、大河ドラマ「天地人」でも有名になりましたが、直江兼続の「愛」の前立てがついた甲冑(「金小札浅葱糸威二枚胴具足」)が所蔵されています。
 まあ、自分は数年前に見学済みなのでよかったですが。
 このとき、再開館未定ということだったので、行かれる方は要確認ですね。
 稽照殿

 神社内には、いつの間にか「天地人」の銅像・・・上杉景勝と直江が仲良く語らっている銅像が出来ていて驚きました。
 「天地人」像


 5月のGW中には、上杉博物館のあたりでご当地キャラクター「かねたん」が愛嬌を振りまいていました。上杉まつりでもきっと大活躍していることでしょう。
    かねたん


 で、本日の本題です。帰りの新幹線内で食べようと思って、駅弁を買うことにしました。
 JR米沢駅前にある調整元「新杵屋」さん。こちらは、有名デパートの駅弁大会でも定番人気の「牛肉どまん中」を発売しています。
 新杵屋

 もちろん、駅構内にもスタンドがありますよ。
 新杵屋2

 で、「牛肉どまん中」(1100円)を買いました。「牛肉どまん中」自体買うのは初めてではありませんが、今回はパッケージがいつもと違っていた。
 「牛肉どまん中 花の慶次ヴァージョン」だそうです。“いざ 米澤へ参られよ!”
   牛肉どまん中(花の慶次)a

 『花の慶次』というのは、加賀百万石で有名な前田利家の甥で、「かぶき者」としてならした前田慶次郎を主人公とした人気コミックです。最近ではパチンコ台のキャラクターにもなっているようですね(笑)
   
花の慶次-雲のかなたに 1 (ゼノンコミックスDX)花の慶次-雲のかなたに 1 (ゼノンコミックスDX)
(2011/05/20)
原 哲夫、隆 慶一郎 他

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 原作は作家の故・隆慶一郎が書いた時代小説「一夢庵風流記」がもとになっています。
    
一夢庵風流記 (集英社文庫)一夢庵風流記 (集英社文庫)
(1992/12/15)
隆 慶一郎

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 で、この前田慶次郎というのは、事情があって前田家を出奔したあと浪々の身だったのですが、ある時伏見で直江兼続と知り合いになり、その縁で上杉氏の食客となり米沢へ招かれます。
 言い伝えによると、慶次の晩年は米沢近郊の堂森という場所に隠棲し、ひっそりと生涯を終えたといいます。今年は慶次の没後400年ということで、慶次のキャラクター登場とあいなったようです。

 で、駅弁ですが、パッケージのサイドには前田慶次郎の史跡なども紹介されていました。歴史ファンにはちょっとうれしいコラボレーションですね。
 牛肉どまん中(花の慶次)b

 中身はとくに通常版と変わっていません(笑)。しっかりした味付けがされた牛肉の薄切り&そぼろ煮がぎっしりとご飯の上にのって、定番の味というかおいしく頂くことができました。
 牛肉どまん中(花の慶次)c

 
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テーマ : 鉄道旅行
ジャンル : 旅行

東京の交通100年博 附かなわなかった父の夢

 先週、東京・両国にある江戸東京博物館で開催されていた「東京の交通100年博」を見てきました。(9月10日にて終了済)
東京の交通100年博

 【展示趣旨】
 東京都交通局は本年8月1日に創業100周年を迎えます。100周年の節目を迎えるに当たり、ご愛顧いただいたお客様や、都民の皆様に感謝の気持ちを込めて、都営交通100周年記念特別展「東京の交通100年博~都電・バス・地下鉄の“いま・むかし”~」を7月14日(木)から9月10日(土)まで、江戸東京博物館にて開催します。

 本展は、明治から大正、昭和、平成に至る東京の交通100年の歩みを、交通局所蔵品を中心とする様々な資料(車両模型、都電系統板、乗車券、ポスターなど)で振り返ります。

 また、函館市企業局ササラ電車(旧東京市電ヨヘロ1形)、旧東京市営バス(愛称 円太郎バス)、都電6086号車の実車を展示するほか、ヨヘロ1形の実物大モックアップ(模型)を展示するなど、大人から子供まで親子三代で楽しみながら、交通の発展の歴史を学べる構成となっています。

 この特別展を通じて、東京の懐かしい姿に思いを馳せていただくとともに、都営交通へのご理解と愛着を更に深めていただければ幸いです。



 今年の江戸東京博物館の特別展は震災の影響もあって、「不作」の年です。今年は正月に開催されていた「大河ドラマ 江」展しか見てませんでした。私は江戸博「友の会」という組織の会員なのですが、会員だと観覧料が割引になるなど特典があるのです。しかし、このままでは「宝の持ち腐れ」になってしまいますので、久しぶりに足を運んでみることにしました。

 会期終了日の前日に行ったのですが、平日にもかかわらず、多くの人たちで混雑していたので驚きました。
 鉄道ファンとおぼしき人たちもさることながら、親子連れやご年配の方など、幅広い年齢層の人たちが来ていたように思います。やはり、交通機関ということだけあって、身近な存在だけに、多くの人々の関心をひいたと思われます。
 歴史関係の展示よりははるかに人数が多かったので、やはり鉄道というテーマは万民受けしやすく、食いつきが違うなあと思いました。

 私は東京生まれ東京育ちということで、かつてうちの実家の近所にも都電が通っていました。しかし、あいにく私が生まれたときには荒川線を除き、都電は廃止になっていました。
 実家が山手線の沿線にあるものですから、ほとんど山手線で事足りていたので、正直都営交通で頻繁に利用していたのはバスくらいなものなんですよね。 都営荒川線に乗ったのも結婚して引っ越してからはじめて乗った次第です。30歳過ぎてからですね。
 展示では、都電の模型であるとか、写真であるとか、いろいろあったのですが、初めて知ることの方が多かったです。やはりコレクターの方がおられて、カラフルな「都電系統板」が壁一面に展示してあったのは圧巻でした。
 あと、記念乗車券のコレクションなどはイベントにちなんだものが多く、当時の歴史を辿るような感じで面白かったですね。

 私には縁がありませんでしたが、街中を走る都電の写真や、映像などを見ると、戦後復興時というまだ未来に希望があった時代の様子が見られて、思わず涙が出そうになりました。
 今年は大地震とか放射能漏れの問題とかあって、未来に暗雲が立ち込めているような状態でしたから、余計そう思ったのです。

 撮影OKだったのは僅かでしたので、展示会場の雰囲気だけでも知っていただきたいと思い、少ないですが写真をのっけておきます。展示室内の面白そうな資料は当然のことながらほとんど撮影不可でしたので、鉄道ファンの人にとってはちょっと物足りなかったかもしれないですね。


 屋内展示してあった旧東京市電ヨヘロ1系の実物大模型。
  旧東京市電ヨヘロ1形 a

 運転席。
  旧東京市電ヨヘロ1形 c

 座席。
  旧東京市電ヨヘロ1形 b


 屋外展示の都電6086号車。個人宅に長く保存されていたということですが、鉄道博物館学芸員だった故・岸由一郎氏に尽力により、荒川電車営業所に戻され、修復されました。岸氏は2008年の岩手・宮城地震で被災、若くして他界されたそうです。
  都電6086 d

 都電6086 b

 運転席の様子。
 都電6086 a

 座席の様子。
 都電6086 c


 写真で撮りそびれましたが、車両の背後に映画「ALWAYS 三丁目の夕日’64」の撮影に使用されましたセットが組まれていました。それにちなんで、車内広告が細部にまで凝っていて面白い。
 当時の雑誌の広告ですが、作家の名前がみな一文字づつ違えています。
 山岡荘八→山岡荘七  井上靖→井下靖
    都電6086 e

 サブマ?式ドロップス(笑)
    都電6086 f


 76年ぶりに里帰りした函館市電除雪車両(ササラ電車)
 ササラ電車

 
 最後に、私事ですがうちの父親の話です。うちの父も東京で生まれて東京で育ったのですが、近所に都電が通っていたこともあり、都電は身近な存在でもあったので、父の子供の頃からの夢は「都電の運転手になること」だったそうです。
 大学卒業後、東京都の採用試験を受けてめでたく合格し、交通局での採用を待ったのですが、あいにくその頃都電が廃止の方向で動いており、人員削減をしていたそうなんですね。その煽りを受けて、父は2年採用されるのを待ったのですが、結局交通局に空きが出なくて、運転手になることを断念し、別の道に進みました。
 
 うちの父は寡黙で、息子だったらもう少しこの手の話もしたのでしょうが、あいにくうちは娘二人だったのであまり昔の思い出話とかもしたことがありません。
 しかし、「都電の運転手」を目指していた話というのはよほど悔しかったからしたのでしょうね。時代の趨勢により、夢がかなえられなかった父がかわいそうな気もします。
 上の写真にもありますが、運転席のハンドルを見たとき、父のかなわなかった夢について思い出した次第です。

 うちの父にこの展示の話をしようと思っていたのに、この夏は色々忙しくて実家に帰れず、とうとうしそびれてしまったのが心残りです。
 うちの父に限らず、ある年齢以上の方は、都電の歴史の中にご自身の思い出を蘇らせたかもしれません。


    
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(2011/06)
井口 悦男、白土 貞夫 他

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釧路市湿原展望台/釧路市丹頂鶴自然公園(終)

 つづき
 
 丹頂の見える店「どれみふぁ空」さんで食事をした後、外へ出ると、さきほどまで空は晴れていたはずなのに、段々雲が厚くなってきてしまいました。
 帰りの飛行機までにあと3時間半くらいという中途半端な時間だったので、旅行も最後ですし、釧路湿原を歩いてみたいと思い、釧路市湿原展望台(釧路市北斗6-11)へと向かいました。

 展望台に周囲には遊歩道が整備されていて、トレッキングできるということでしたが、展望台の駐車場へ着いた頃、ぽつりぽつりと雨が降ってきてしまいました。聞いていたFMラジオによれば釧路地方に大雨注意報が出たということでした。
 釧路市湿原展望台1

 中の展望台から湿原を眺めると、いつの間にか濃い霧が立ち込めてきています。歩いている途中、大雨にやられるのも嫌なので、トレッキングは断念することに。ちょっと残念でしたが。
 釧路市湿原展望台2


 企画変更で、釧路空港の近所にある釧路市丹頂鶴自然公園へ行ってみることに。この旅、最後の観光スポットです。
 ⇒釧路市丹頂鶴自然公園ホームページ

 同園は絶滅の危機に瀕していたタンチョウの保護、増殖を目的として、昭和33年(1958年)に開園。現在、18羽を飼育しています。
 丹頂鶴自然公園1

 園内の様子はこんな感じ。8つのゲージの中でタンチョウが飼われています。
 みんな番(つがい)で飼われていましたが、その内、2カップルにヒナがいました。
 あるカップルのヒナが表に出てきてくれたので、撮影。ヒナはまだ生後1ヶ月くらいみたいです。かわええのう。。。(´д`*)
 丹頂鶴自然公園5

 とにかく、両親がヒナをすごく大事にしていましたね。園内で飼育されているとは言え、キタキツネとか外敵の侵入もなきにしもあらずだそうで、絶えず子供のことが気にかかるようです。少し過保護気味な気もしますが、一生懸命子育てしている姿が微笑ましいです。健やかに成長してほしいものです。
 丹頂鶴自然公園4

 こちらは子なしのカップル。現在、子有り、子なし合わせて8カップルがいましたが、なぜか姉さん女房が多かったです。こちらも夫婦仲むつまじい様子。
 丹頂鶴自然公園3

   
より大きな地図で 釧路市丹頂鶴自然公園 を表示


 これにて、全日程終了です。いやはや、北海道は本当に広かった!!!
 ちょっと長めの連載になってしまいましたが、今回の旅は100名城制覇という主たる目的も果たせ、また北海道の雄大な自然に触れられたのが大きかったです。リピーターになる人が多いのも頷けます。楽しい三日間でした。
 最後までお読みいただき、どうも有難うございました。
 釧路空港3

 
 今後の予定 香川県高松市、愛媛県松山市、新潟県長岡市等・・・。
 すぐに書ききれないので、もうしばらくお待ちくださいませ。


 関連記事 釧路空港⇒JR釧路駅⇒快速ノサップ号


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テーマ : 北海道旅行
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【墓巡り強化月間】乃木希典の墓

 100名城も無事達成し、一段落したので、城巡りの前からやっていた墓参りの方にシフトしていきたいと思っていましたが、先月新潟県で墓巡りをしたのですが、ものすごい暑さもあり、すっかり消耗してしまいました。。。夏場はどうしても蚊の襲来を受けるため、涼しくなるこれからのシーズンが墓巡りには最適となります。
 今月は秋のお彼岸ということもあり、勝手ながら「墓巡り強化月間」とさせていただきたいと思います。


 乃木希典 嘉永2年(1849年)11月11日~大正元年(1912年)9月13日
 nogi

乃木希典は長府藩(萩・毛利家の支藩)藩士の子として江戸に生まれます。維新後は軍人の道を選び、明治4年(1871年)陸軍少佐に任官し、萩の乱、西南戦争に従軍しました。
 同20年(1887年)戦術研究のためドイツへ留学します。同27年(1894年)日清戦争では歩兵第1旅団長として従軍し、旅順を占領。同29年(1896年)第3代台湾総督に就任。さらに同37年(1904)陸軍大将へ昇進します。
 同37年(1904年)日露戦争では第3軍司令官として指揮を執った旅順攻略は難航し、一万五千人以上の兵が犠牲となりました。なおこの時、乃木の二人の息子も前線で戦死するという悲哀を味わいます。
 戦後、軍事参議官となりますが、同40年(1907)より明治天皇の意向のもと学習院の院長を兼任し、明治天皇の孫である迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)の教育にあたります。
 大正元年(1912年)9月13日、明治天皇大喪の日の夜、妻静子とともに殉死しました。

 命日を見ていただければ一目瞭然ですが、今日は乃木希典夫妻が自害してからちょうど99年目。。。すなわち100回忌の命日にあたります。

 毎年、9月12日、13日(命日)の両日にわたり、東京赤坂にある乃木邸(乃木希典旧宅)の内部が一般公開されているのですが、今年は3月11日の震災で建物が被災し、現在修復中とのことで一般公開は中止になりました。

 以下の写真は、5年前(2006年)の今日、撮影したものです。見学に訪れた多くの人々が行列しており、観光バスまで来ていたのには驚きました。
 乃木邸1

 乃木宅の玄関。この日は大雨が降っていました。
 乃木邸2

 乃木夫妻が自害した部屋。今も畳表に血の痕が生々しく残っています。
 乃木邸3

 その他、乃木夫妻の遺品や邸内の別の部屋も撮影してきたのですが、今日はFC2のサーバーの調子が悪いため省略いたします。

 その後、同じ港区にある青山墓地へ行き、乃木夫妻の墓参りをいたしました。
 この日は乃木神社から神主さんが来て例祭が行われていたようで、お墓も清められていました。
 乃木家の墓

 乃木希典の墓。乃木の遺書によれば、西南戦争の時に連隊旗を敵に奪われたことで自責の念にかられ、その時から自殺願望にさいなまれていたそうなのですが・・・。
 彼の本心というのは今となってはわかりませんが、自分を高く買っていてくれた明治天皇が崩御したのがきっかけで、燃え尽きちゃった部分があったんでしょうかね。
 乃木希典の墓

 静子夫人の墓。夫人は死の当日夫と運命を共にすると決めたようです。結婚当初は乃木が自暴自棄から来る放蕩生活を送っていたため、相当苦労させられたということです。
 乃木静子の墓


 なお、ネット上で交流させていただいている酔いどれJohnny 2nd様のブログ
「意外と身近にある歴史散歩」
 は墓参りの上で大変参考になります。実際にご自身の足で歩きながら、毎日更新されていらっしゃいます。
 当ブログと合わせてご覧いただければ幸いです。


 
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テーマ : 歴史
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tag : 有名人の墓(な行)

丹頂の見える店 どれみふぁ空

 釧路湿原はタンチョウの生息地ということは先述しましたが、飛来するタンチョウを眺めながら食事できるカフェ・レストランがあると聞いて行ってみました。
 
 丹頂の見える店 どれみふぁ空 阿寒郡鶴居村鶴見台(TEL 0154-64-3987)という所にあります。
 ど・れ・み・ふぁ・空1

 お店の庭には各種ハーブが植えられています。お店で出す料理に使用しているようです。
 その向こうの野原には、10月~6月にかけてしばしばタンチョウが飛来するということです。
 残念ながら、8月はタンチョウの“オフシーズン”ということですね。
 ど・れ・み・ふぁ・空2

 
 こちらのお店のイチオシは、お店オリジナルの「丹頂カレー」(1250円)ということで、うちの連れが注文しました。
 タンチョウをイメージした白いカレーだったのですが、一口食べてみたのですが甘みのあるカレーでしたが、ルーにはココナツミルクと数種類のハーブが入っているようです。なお、お米は十穀米を使用しています。
 ど・れ・み・ふぁ・空 丹頂カレー

 カレーには野菜とハーブのサラダがつきます。
     ど・れ・み・ふぁ・空3


 私は小腹がすいていたので、ビーフシチューセット(1250円)を注文しました。パンとサラダとゆでジャガイモ、トマトスープがついてきます。
 こちらも美味しかったです。
 ど・れ・み・ふぁ・空 ビーフシチュー

    ど・れ・み・ふぁ・空4

  
 食べている最中、壁に貼ってあった「今日のおススメ」の品を連れが注文してしまいました。
 野菜とハーブたっぷりの「ラーメンサラダ」(850円)です。彩りも鮮やかで、美味しくいただくことができました。
 ど・れ・み・ふぁ・空 ラーメンサラダ

 最後にデザートで、ミニソフトクリームをいただきました。
        ど・れ・み・ふぁ・空5

 
 残念ながらタンチョウはまったく見られなかったのですが、新鮮な野菜とハーブたっぷりのお料理で、大満足でした。
 今回の北海道旅行は、食事はまったくハズレがなくて、こうしておススメすることが出来てよかったです。
 なお、こちらのお店のメニューは季節により変更があるようですのでご注意ください。
 北海道旅行も残すところ、あと一回です。

 ※お店へのアクセスは、直接⇒「どれみふぁ空」ホームページをご覧ください。 

 
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標茶町郷土館/釧路集治監本部跡

 昨日のエントリーで展望台から眺めた塘路湖の湖畔に、洒落た洋風の建物があります。外壁はあわいブルーで塗られています。
 標茶町郷土館です。
 標茶町郷土館1

 その外観から、昔この辺のお金持ちでも住んでいたような建物に思えますが、実はこれ、明治時代の釧路集治監(刑務所の前身)の本館として使用されていたのだそうです。建物は明治19年に建てられたそうで、昭和61年に元あった場所から塘路湖畔に移築復元されたということです。
 現在は標茶町の歴史を辿る資料館になっております。
 
 中へ入ってみますと、いきなり廊下に大木をくり貫いて造ったような小舟がありました。塘路湖で使用されていたんですかねえ?
 標茶町郷土館5

 そして、やっぱり生き物の剥製が・・・。今回の旅ではあちらこちらで剥製を見ましたが、ちょっともうおなか一杯という感じです。。。
 その他、ある部屋にはドアを開けた途端、部屋中昆虫の標本が飾ってあって、私は虫が苦手なので入らずにすぐドアを閉めてしまいました。。。
 標茶町郷土館2

 二階の出窓のある部屋。釧路集治監の歴史に関する展示室になっていました。
 釧路集治監に収容されていた囚人たちは、鉱山で硫黄採掘にあたったり、硫黄を運搬する釧路鉄道や道路の敷設、以前紹介した太田屯田兵村の建設など、厳しい労役を課せられていました。
 厳しい環境で重労働に従事させられていたため、囚人らは次々と病に倒れ、死亡する者が後を絶たなかったそうです。
 集治監には殺人犯など重罪人が多く収容されていたそうですが、彼らの犠牲によって北海道の開拓は進んだのでした。
 なお、大津事件でロシア皇帝・ニコライ2世を襲った犯人である津田三蔵もここで労役に服していたそうです。
      標茶町郷土館3

 建物の模型。その他、郷土館にはアイヌ関係の資料や、古道具等の民俗資料が多く収蔵されていました。(すべて撮影OKだそうです)
 標茶町郷土館4

 郷土館に隣接して、塘路駅逓の建物がありました。もともとは漁業番屋で、明治28年(1895年)頃から昭和3年(1928年)まで駅逓として使用されていました。その前に見た奥行臼の駅逓よりも粗末な造りでした。
 塘路駅逓


 郷土館の学芸員さんに聞いたところ、ここから約20キロ北上した標茶町にある標茶高校の敷地に、集治監の建物がもう一軒残っているといわれました。
 よく聞くと、標茶高校の敷地が元集治監の跡地なのだそうです。
 高校へ電話してみると、職員の方が出られ、見学OKということなので車を走らせて行ってみることに。

 標茶高校へ着きました。高校としてはかなり広い敷地でした。なお、明治18年(1885年)に設置された釧路集治監は明治34年(1901年)には廃止(機能を網走へ移転→網走刑務所の設置)され、跡地には軍馬補充部川上支部が置かれたそうです。
 標茶高校4

 高校の職員の方の案内で、集治監の書庫として使用されていた建物を見学させていただけました。
 前日、高校は夏休みに入ったばかりで生徒さんの姿はなく、ご迷惑がかからなくて幸いでした。
 標茶高校1

 現在、この建物は標茶高校の記念館として使用されています。
 一階部分には、軍馬補充部時代のものと思われる鞍などの道具が置かれていました。
 標茶高校2
 
 二階部分は標茶高校の歴史を辿る写真などの資料が展示されていました。
 標茶高校3


 親切に対応していただいた職員の方にお礼を言って辞去しました。そろそろ、帰りの飛行機に乗る時間が近づいています。あと二回くらいで北海道の旅は終わりです。
 長くなってスミマセン~。
 
 
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A☆六文銭

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日本100名城完全制覇と有名人の墓めぐり(掃苔)
日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

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