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奥行臼駅逓ノスタルジア(前)

 本州から多くの屯田兵が入植した厚岸町を離れ、次の目的地に向います。

 下の写真のように、視界の開けた中を車を走らせ、終始心地よいドライブだったのですが、一点だけ気になることが。道東では普通らしいのですが、地元の方の車がものすごいスピードを出して走っていて、こちらが法定速度で走っていると、後続の車がいわゆる「煽り」みたいな運転をしてきて、反対車線にハミ出して追い抜いていくので、ちょっとイヤ~な感じだったんですよね。
 根室では、夕方霧が出始めたのですが、そういう見通しの悪いところでも背後からどんどん追い抜きをやっていく車がいて、ちょっとそれは危ないのではないか・・・とこちらはヒヤヒヤの連続でした。
 北海道は広いので、先を急ぎたい気持ちはわからぬでもないのですが、私たちのように他所から来ている旅人もいるわけですし、普通の道で100㌔以上出しての運転は出来ればご遠慮いただきたいものです。
 別海町

 そうこうしているうちに、別海町にある「奥行臼(おくゆきうす)駅逓」(国指定史跡・道指定有形文化財)に着きました。手持ちのガイドブックには掲載されておらず、ネットの情報を頼りにやってきました。
 うちの家族の者が言うには、だいぶ以前にNHKドラマ「エトロフ遥かなり」のロケ地として使われた場所だということです。その時、女優の沢口靖子さんが来られて、ここで撮影されたそうです。
 奥行臼駅逓1
 奥行臼駅逓2


 「駅逓」とは北海道独特の制度として、まだ鉄道が敷かれる以前、交通不便の地に駅舎と人馬を備えて、宿泊と運送の便をはかるために設置されたものだということです。
 現地案内板によりますと、「奥行臼駅逓」は第一期北海道拓殖計画に沿い、明治43年10月9日に当地草分けの世話役であった山崎藤次郎氏を取扱人として、馬3頭を配備して開設されました。
 昭和5年に廃止になるまで、数多くの入植者の世話をし、別海・西別・別当賀方面に向う交通の重要な拠点として、旅人に利用され、大変な賑わいをみせていたということです。
 建物は大正7年に一部建て替えられていますが、当時別海町に9箇所あった駅逓の内唯一残った貴重な建造物だということです。
 奥行臼駅逓3

 玄関を入ると、クマーがお出迎え・・・と思ったら、奥から管理人さんが出てこられました。ご近所の方だそうです。
 奥行臼駅逓4

 この駅逓ではタバコ屋もしていたそうで、玄関先の受付に昔のタバコがそのまま置いてありました。上の方にはキャラメルの箱が見えます。
 奥行臼駅逓5

 全体的な間取りはこんな感じです。客室が全部で8室ありました。
 奥行臼駅逓11

 玄関を入ってすぐ右手にはお茶の間が。その奥は仏間になっています。
 奥行臼駅逓6

 左手には囲炉裏のある居間があり、当時使われていたちゃぶ台が置かれています。
 奥行臼駅逓7

 さらにその奥は台所。昔の生活用品が所せましと並んでいます。
 奥行臼駅逓8

 置かれていた生活用品の中からちょっと面白かったものを。
 昔のです。管理人さんいわく、ある時、訪問客の中にたまたま瓶のコレクターの人がいて、見た途端「これは珍しい!」と声を上げ、「是非譲ってもらえないか」と言われたといいます。(もちろん譲りませんでしたが) お酒?の瓶でしょうかね。
  奥行臼駅逓10

 昔の乾電池。円柱型で高さが30センチ?くらいはあったかな・・・こういうでかいタイプの乾電池は生まれて初めて見ました。側面に「日本電業株式会社」「舟田式」「逓信型」と書いてあります。
  奥行臼駅逓9

 長くなるので続きます。



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厚岸の町に「葵の御紋」を発見!?(`・ω・´)

 お供山のチャシを見学した後、厚岸の町に郷土資料館があるというので行ってみました。
 カーナビに住所を入れて、車を走らせ5分足らず。
 着いたのは、「旧国泰寺跡」という国指定史跡でした。どうやら、この辺り一帯はお寺さんの敷地なようです。
 旧国泰寺跡

 敷地を入るとすぐに青い屋根の厚岸町郷土館(厚岸郡厚岸町湾月町1丁目14番地 TEL0153-52-3794 月曜・祝祭日の翌日休)がありました。小さな町の資料館といった感じです。※なお、同館は11月16日~4月15日まで冬季閉館しています。
 厚岸町郷土館

 管理人さんは40台くらいの女性の方でしたが、愛想の良い親切な方でした。
 狭い館内には、国泰寺の関係資料や、アイヌに関する資料が展示してありました。とくに、国泰寺の初代~9代住職が綴った「日鑑記」と呼ばれる寺務日記を含むお寺の関係資料は国指定重要文化財となっているそうです。
 管理人さんいわく、たまに東京方面からもこの地へ訪ねてくる人がいるということでした。

 郷土館のすぐ脇に、木の棒のようなものが数本立てられたものがあります。「イナウ」?とか呼ばれる、アイヌの祭祀に欠かせない祭具の一つらしいです。
 今でもアイヌの子孫の方がここに来て、年1回祭祀を行っているそうです。
    イナウ

 管理人さんに隣接している「国泰寺」にお参りしていくことを勧められました。
 国泰寺(臨済宗)は文化元年(1804年)、ロシアの南下対策の一環として、東蝦夷の守備とアイヌの教化を目的に建てられました。

 山門は江戸時代のものだそうですが、傷みが激しく、倒壊の危険性があるため立入禁止でした。
 国泰寺1
 
 「徳川第十一代将軍家斉公開祖」の立板も。
    国泰寺2

 山門をくぐらずに脇道から入ることにします。山門の裏側からよく見ると、扉に徳川家の家紋である「三葉葵」の御紋が彫られています。
    国泰寺4
 
 これを見ると、国泰寺が江戸幕府の意向のもと建てられたことがわかります。正直、北海道の小さな町で葵の御紋を見るとはちょっとビックリです。
  国泰寺5

 本堂にお参りし、浄財を投じてきました。
 国泰寺3

 本堂の裏手には歴代住職の墓がありました。
 国泰寺歴代住職墓

 左から二番目にあったのが、国泰寺初代、文翁上人のお墓です。文翁は相模国津久井郡にある寺の住職でしたが、幕命により国泰寺の住職として厚岸へ赴任することになりました。
 文化二年(1805年)に文翁住職は三人の僧侶と共に厚岸に着きましたが、そのわずか2ヵ月後に急死してしまいます。この時の住職の年齢はわからないのですが、おそらく、あまりの寒さに耐えられなかったのでしょう。  合掌(-人-)
    国泰寺初代住職・文翁墓


 当時、ロシアの人々がちょくちょく北海道に渡ってきており、アイヌたちへロシア正教を布教していました。これに懸念をもった当時の箱館奉行が、ロシアに対抗すべく、とりあえず現地で宗教対策を施す必要があると考えて、特に幕府に願い出てお寺を築いたようです。ロシアが北海道を狙っていたのは、スターリンよりもはるか以前からだったということですね。
 幕府は国泰寺のほか、伊達市有珠に善光寺を、様似町(日高)に等澍院を設置し、これらは「蝦夷三官寺」といわれました。
 近年の「お人よし」な日本政府よりも、むしろ江戸幕府の方が対外政策については緊張感があったのではないでしょうか。

 
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お供山のチャシ

 根室にてオンネモトチャシを見学し、無事100名城を終了したのですが、私の中では少々消化不良気味でありました。
 繰り返しになりますが、チャシとはアイヌ語で「城、砦」の意味があるのですが、このチャシについて、イマイチ実態がつかみかねていました。

関連記事 ∩( ・ω・)∩ 100名城完全制覇(前) ∩( ・ω・)∩
       ∩( ・ω・)∩ 100名城完全制覇(後) ∩( ・ω・)∩

 事前に調べたところ、厚岸の町にもチャシがあるということがわかり、せっかくなので寄っていくことにしました。ネットの情報のみを頼りに、「お供山」と呼ばれる高台の麓に着きました。形状がお供え餅に似ていることから、地元ではこのように呼ばれているようです。
 右手の方にある登り口の階段を登っていきます。
 お供山1

 道は整備されているので、ひたすら登っていきます。暑い最中だったので、急な坂道でけっこうしんどい道のり。周囲は木々に覆われています。
   お供山2

 10分強くらいで、お供山の頂上に着きました。草むらが広がっています。そのまま道をまっすぐ進んでいくと・・・
 鹿落しのチャシ1

 「鹿落しのチャシ」という標柱がありました。
 鹿落しのチャシ2

 説明板によると、ここら辺を発掘調査した際、鹿の骨が多数出てきたとのこと。おそらく、アイヌの人々はここで鹿狩をやっていたらしいのです。
 鹿落しのチャシ4

 説明板のすぐ裏は空堀になっていました。ここに鹿を追い詰めたのでしょうか。周りの木で出来た通路は立入禁止になっていました。
 鹿落しのチャシ3

 鹿落しのチャシの右手の方にお供山の展望台がありました。
    お供山展望台

 展望台からの景色。実に見晴らしが良いです。厚岸湖にかかる厚岸大橋及び厚岸の町が眺められます。
 厚岸湾1

 湖の中に神社のお社が見えました。
 厚岸湾2


 お供山にはこの他3つチャシがあり、東側には『逆水松チャシ跡』と『奔渡町裏山チャシ跡』が、西側には『松葉町裏山チャシ跡』があります。(松葉町裏山チャシは危険なため、立入らないでくださいとの表示あり)
 他のところも見たかったのですが、時間が無かったため、元来た道を引き返しました。
 こうしてみると、チャシは海や湖の見える、眺めの良い場所に設けられたことがわかります。空堀などは一般的な城跡となんら変わりないところが興味深かったです。


   
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激動を生きぬく―信濃武士市河氏の400年

 長野県千曲市にある長野県立歴史館では、企画展「激動を生きぬく―信濃武士市河氏の400年」を開催中です。(9月4日 日曜まで)
 長野県立歴史館a
 激動を生き抜く

 参考サイト 長野県立歴史館ホームページ

 【展示趣旨】
 市河文書147巻全巻複製完成にあわせ、市河文書に記されている内容から、市河氏が鎌倉~戦国時代という動乱の歴史をいかに生き延びたのかを紹介します。
 北信地方の一豪族に過ぎない市河氏は、鎌倉時代に婚姻関係を利用して中野氏の所領を取り込み、所領拡大をはかります。そして南北朝時代には中先代の乱、足利尊氏と弟直義の内紛(観応の擾乱)にも巻き込まれ、室町時代には信濃国守護小笠原氏に味方し大塔合戦を戦い、戦国時代には武田氏につき、のちには上杉氏の家臣になるなど、市河氏が激動の時代に大勢力とどのような関係を結び、どのような生き残り策をとったのかを探り、必死に生き延びようとした地方武士の姿を再現します。
 また、武田晴信の新出文書などにより、甲越合戦における市河氏の役割と山本勘助との関係についても紹介します。


 今年の6月に、同館にて開催された企画展「武士の家宝~かたりつがれた御家の由緒~」を拝見しました。「武士の家宝」展では信州佐久地方の小豪族・依田氏について取り上げましたが、今度は北信地方の小豪族である市河氏についての展示です。

 市河氏というのはかなり古い時代から続く小豪族の家なのですが、そのルーツは甲斐の身延にあり、その後信州の北信地方に勢力を張るようになったそうです。鎌倉時代は御家人として出仕し、末期になると執権・北条氏を見限って足利尊氏に従うようになります。
 室町時代を経て、戦国時代に入ると甲斐の武田信玄に従い、武田家滅亡後は上杉景勝に臣従します。その後、主家である上杉氏が関ヶ原合戦後に出羽国米沢に移封になるのに従い、長らくいた信州を離れて米沢に移ります。
 江戸時代は上杉家家臣として暮らしますが、明治維新後は屯田兵として北海道へ移住しました。
 米沢を離れるにあたって、市河家では事情があって、自分の家にあった古文書等の一部を手放してしまい、その史料が個人の手を経て、山形の本間美術館が買い取ったとのことです。これを「市河文書」といいます。この「市河文書」は、中世前期の良質な史料が多く含まれていて、長野県立歴史館では長らく、本間美術館の協力のもとで「市河文書」の複製を作っていたのですが、それがこのたび全16巻完成を見たことを記念しての企画展だということです。

 参考サイト 財団法人本間美術館ホームページ

 ですから、展示の大半は出来上がったばかりの「市河文書」の複製が中心です。主に南北朝時代の文書が多く、市河氏が混乱の時代にあって、日々戦いにあけくれていた様子がわかります。特に、新田義貞の花押が入った文書というのは非常に珍しいということでした。(後に市河氏は越前敦賀の金ヶ崎城に新田氏を攻め討ちます)

 今回の展示でもう一つの目玉は、NHK大河ドラマ「風林火山」でもおなじみになった武田信玄の軍師・山本勘助の名前が市河氏の文書の中に出てきたことで、勘助が実在の人物であることが判明したというものです。文書の中では、「山本菅助」と出てきます。
 この文書は、昭和44年(1969年)、NHK大河ドラマ「天と地と」を放映中に、当時北海道釧路市に在住の市河氏のご子孫宅で発見されて広く世に知られるようになりました。
 この文書も、後に子孫の方が手放してしまい、譲られた北海道在住の個人の方が長らく保管していましたが、2009年に山梨県教育委員会が購入しました。この山梨県教育委員会所蔵の史料については「市河家文書」と呼び、本間美術館所蔵の物とは区別しています。
 こうして、400年の歳月を得て、市河氏の関連史料がかつて市河氏の先祖が根を張った信州の地へ「里帰り」したとも言えます。

 余談になりますが 私は前回のエントリーにて、北海道の厚岸へ屯田兵として移住した米沢藩の家臣について書きました(⇒過去記事「北海道開拓と旧士族の明治」を参照)が、実は市河さんも、本庄繁長や柿崎景家の子孫と共に、厚岸へ移住していたのです。市河氏のご子孫が北海道で屯田兵になっていたことは前々から知っていましたが、先日旅した厚岸におられたことは今回初めて知りました。
 手前味噌になりますが、こういった細かい歴史の出来事が、偶然どこかで関連していたりして、日々新たな発見があります。
 北海道旅行を綴る中で、今日突然長野県の展示の話が出てきて、「アレッ?」と思われた向きもあるかもしれませんが、このような経緯があってのことでした。(話があちこちに飛び、わかりづらくなってスミマセン!)

 今回の展示では、中世の歴史を知る上で歴史的価値の高い史料であると同時に、市河氏という一豪族が辿ってきた長い長い家の歴史・・・それも決して平坦な道のりではなく、苦難の時期もあった・・・そういう二つの側面から大変興味深い展示でした。
 市河氏の史料については、山梨県ではなく長野県で購入しても良かったかもしれませんが、昨今自治体の予算も厳しいのでそうしたい希望はあっても難しかったのかもしれません。しかし、可能な限り、このような郷土の歴史を発掘しようと、良質な内容の展示を心がけている同館の姿勢には感心させられました。


長野県立歴史館 長野県千曲市大字屋代260-6 TEL:026-274-2000  
開館時間:午前9時~午後5時(ただし、入館は午後4時30分まで) 
休館日:毎週月曜日(祝日、振替休日にあたるときは火曜日)と祝日の翌日 年末年始
 
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テーマ : 展示会、イベントの情報
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北海道開拓と旧士族の明治

 北海道旅行の続きです。(過去記事 根室名物「エスカロップ」より)

 明治維新以後、北海道には北辺の警備と開拓のため、日本各地から屯田兵といわれる人たちが入植したことはよく知られています。屯田兵のほとんどは、維新後俸禄を失い、食いっぱぐれてしまった旧士族の出身でした。

 釧路から車で1時間弱のところに、厚岸(あっけし)という町があります。この町にもかつて、多くの屯田兵が移住してきました。

 
 太田旧屯田兵屋  厚岸町の太田地区という所には、屯田兵440戸が移住してきました。彼らが暮らす住宅は、明治22年(1889年)1月から翌年5月にかけて標茶集治監の囚人たちによって建てられました。
 ご覧のように、道路から少し奥まった方に建物があるので少々わかりにくいです。
 太田旧屯田兵屋2


 この家は兵屋番号119番で、明治37年(1904)の屯田兵制度廃止後も住宅として使用されていたものを、昭和46年(1971)に解体復元し、昭和48年所有者より町に寄贈されました。木造平屋建。
  太田旧屯田兵屋1

 兵屋の内部はこんな感じ。広さは17.5坪(58平方メートル)土間・6畳と4畳半の2部屋・居間・台所や押入れ・便所などからなっています。
 言うならば、「あばら家」みたい風で、木の板一枚で覆われただけの家屋ですから、近代的な暖房器具も無かった当時、冬の間はさぞかし厳しい寒さだったことでしょう。
 太田旧屯田兵屋5

 土間には農機具や日用品が展示してありました。
 太田旧屯田兵屋3


 屯田兵440戸の内訳。金沢藩・59戸、米沢藩57戸などをはじめ、9県27藩の士族が入植しました。東北、北陸の諸藩が目立ちましたが、意外にも山口藩(旧長州藩)からも入植者が31戸いました。
 太田旧屯田兵屋4


 この後、周辺を廻ってみました。
 太田屯田の桑並木。入植者たちはこの地で養蚕を試みましたが、あまりにも寒すぎて蚕が死んでしまい、結局うまくいかなかったようです。現在は一部に桑畑の名残が残っています。
 太田屯田の桑並木

 太田屯田の赤松。青森出身の屯田兵が、故郷から赤松の苗を取り寄せて植えたものだそうです。赤松は北海道では珍しいそうで、この地区には二十数本残っているそうです。
 太田屯田の赤松


 太田屯田開拓記念館 
 ここには、太田地区の屯田兵に関する資料が展示されています。 
 ( 厚岸郡厚岸町太田5の通り23番地1  TEL:0153-52-3599   
  開館時間 AM9:00~PM4:00 休館日 毎週月曜日、祝祭日の翌日、11月16日~翌4月15日)
 太田屯田開拓記念館

 展示物を見ていて驚いたのは、米沢藩(上杉家)からやってきた屯田兵の中に、本庄繁長柿崎景家のご子孫がいたということです。この両者は戦国時代からの上杉家の家臣で、武将としても有名ですからご存知の方も多いかと思います。

 特に本庄家は、上杉家家臣団の中でも上級家臣の内に入ると思いますが、明治維新後生活が逼迫したのでしょう。先祖代々伝えられた品々を持ってここ厚岸へ移住したものの、屯田兵としての生活は苦労の連続だったようです。
 彼らが故郷から持ってきた品として鎧櫃が置いてありましたが、肝心な甲冑は置いていなかった。おそらく、生活資金を得るためにめぼしいものは売ってしまったのでしょう。
 その他、上杉謙信の肖像画などが展示してありましたが、お国を離れても上杉家の家臣としての矜持を忘れなかったということでしょうか。
 厳しい生活に耐えられず、逃げ出した人々も多かったようですが、本庄さんと柿崎さんは頑張られたようで、今もご子孫がこの近隣におられるようです。
  太田屯田開拓記念館展示


 記念館近くにあった牧場の牛たち。カメラを向けると、「アンタ、誰?」とでも言いたげにこちらを見返していましたが、警戒心を解いたのか、やがてのんびりと草を食んでいました。これも北海道らしい、のどかな風景。
 厚岸町の牧場

                            つづく


 関連記事 激動を生き抜く―信濃武士市河氏の400年



 ピンクの目印が太田旧屯田兵屋  ブルーの目印が太田屯田開拓記念館です。
 
より大きな地図で 厚岸町太田地区 を表示

 
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がんばれ!東北応援 比内地鶏めし弁当

 JR大宮駅コンコースの駅弁屋にて、こんな駅弁が目に付いたのでさっそく購入してみました。

 がんばれ!東北応援 比内地鶏めし弁当
  比内地鶏めし弁当1

 掛け紙を見ると、売り上げの一部を大震災の義援金として日赤を通じ、被災地へ寄付します、と書いてあります。良い心がけですよね。こういった形で少しでも被災地を応援できれば・・・と思います。
 「秋田」と書いてあるので、秋田の調整元が製造しているのかしら、と思ったら違った。神奈川県海老名市にある、㈱サンフレッシュというところでした。お値段は1000円だったかな。

 中身はこんな感じです。味付け醤油ごはんの上に、鶏の照り焼きが二切れ、牛蒡入り鶏そぼろ、ひじき煮、山菜と、椎茸・筍・人参の煮物、錦糸卵がのっています。付け合せに沢庵と、口直しに黒豆が入っています。 
  比内地鶏めし弁当2


 これがめちゃウマー (´∀`)♪  最近食べた駅弁の中ではダントツで美味しかったです。花丸つけちゃってもいいぐらい。
 比内地鶏の美味しさが下のご飯にもしみこんでいる感じで、味付けもしっかりしています。
 大震災応援ということでの企画モノの駅弁なのでしょうが、ぜひこのお弁当、レギュラーメニューにならないかな。
 皆さんももし見つけたら、ぜひ試してみてください。東京駅などでも時々置いてあるようです。
 

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孫文と梅屋庄吉

 今月上旬、東京・上野にある東京国立博物館本館特別5室にて開催中の特別展「孫文と梅屋庄吉~100年前の中国と日本」を見てきました。(9月4日 日曜まで)
 東博へ来るのは1年ぶり?くらいですか、本当に久しぶりです。
 東京国立博物館
   孫文と梅屋庄吉1

 梅屋庄吉(1868-1934)は長崎出身の実業家で、「中国革命の父」と呼ばれる孫文(1866-1925)と国籍を超えて親交を持ち、物心両面で援助した人物です。梅屋は事業で儲けた金をほぼすべて孫文に援助し、貢いだ額は現在の貨幣価値でおよそ1兆円にものぼるということで、梅屋が亡くなった時には彼の財産はほぼすっからかんだったという話です。

 梅屋のもう一つの顔として、わが国における映画事業の草分け的存在ということが挙げられます。彼は日本最古の映画会社である「日活」の創設者の一人であり、白瀬中尉による南極探検の記録映画を製作したりしています。この時代の人にしては、バイタリティにあふれた人物だったそうです。

 ・・・とまあ、このように紹介記事を書いていますが、正直なところ、私はこの梅屋という人物についてほとんど予備知識を持たないまま、展示会場へ足を運んだわけです。「梅屋庄吉とは、いかなる人物だろう?」という好奇心あってのことです。

 孫文と梅屋庄吉2


 いざ、入場してみますと、全部で5章くらいにブースが分かれていたんですが、梅屋と孫文に関する展示はたった一つのブースのみで、残りは梅屋や孫文とは直接関係のない、19世紀後半~20世紀前半の中国や日本の風景写真で埋め尽くされているのです。
 それも、ほぼ東博で所有している写真ばかり。見ているうちに、「ん!?なんか、これは違うゾ」という違和感ばかりが沸いてきました。

 一言で言ってしまえば、この展示は単なる「風景写真展」になってしまっているんですね。孫文や辛亥革命に関する歴史的史料も皆無ですし、梅屋や孫文の人となりについても具体的な掘り下げが見られません。たとえば、梅屋は詳細な日記や書簡を残していたそうですが、それらに関する展示はなく、あるのは孫文や革命運動の志士、国民党の要人などと一緒に写った写真ばかり。
 これでは、梅屋がどうして全財産を投げうってまで、他国の人間である孫文を支援したのか、肝心なところの説明がないので、見学者にはまったく訳がわからないのです。
 どうやら、この展示を企画した人が美術系の人だったらしく、歴史的な視点に欠けているということが言えると思います。
 しかし、掲げたテーマと展示内容がここまでズレている展示は生まれて初めてで、「天下の東博なのに・・・」とびっくりしました。


  *********************

 戦後の日本と中国両者の関係は必ずしも良好なものとは言えません。現在の日本人も中国人も、それぞれの祖国をまったく別々のものとして考えていて、それで当然というところがあります。

 ところが、戦前までの日本人は、日本と中国というのを同じグループに属するものとして、モノを考えていたのです。
 すなわち、ヨーロッパ諸国を「西洋」と呼び、他方、日本と中国、それにインドを加えて、こちら側は「東洋」という風に、ひとつのグループとして考えていたのです。政治家、経済人、文化人、軍人に至るまで、このような考え方をしていた人物はとても多かったです。
 長くなるので今回は指摘だけに留めておきますが、おそらく、梅屋庄吉もそういう日本人の一人だったに違いありません。梅屋の場合、それが「大アジア主義」という思想に発展するのですが。

 日中関係史や思想史といった観点からもとても興味深い素材が折角用意されているにもかかわらず、「料理の仕方」を知らないというのか、見当違いの努力をしている展示内容だったので、ガッカリで帰ってきました。
 この日、梅屋の子孫で史料を所有しているレストラン日比谷・松本楼の社長の娘さんと、その父親である社長さんの姿をお見かけしました。
 蛇足になりますが、松本楼の社長夫人(この方は数年前他界されているという)が梅屋の孫娘にあたる方だったのです。現在は、その娘さん(梅屋の曾孫になる)が梅屋の史料を引き継いで管理されているということです。今回の展示は残念な内容でしたが、また別の機会にぜひ拝見させていただきたいものです。


 参考サイト 東京国立博物館ホームページ


 
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駿河小町

 先週ですが、どうも夏風邪をひいてしまったらしく、しかもこじらせてしまったようです。柄にもなく熱を出してしまいまして、とうとう声も思うように出なくなりました。
 今日も丸一日休養していましたが、どうもよくなりません、というか悪化してる!?
 現在頭痛も酷い!(頭がガンガンしております 泣)のでまとまった文章が書けませんので、伸び伸びの更新になりますことをご了承ください。このところ、気温の上下が激しいので、皆様も体調管理にはくれぐれもお気をつけください。

 ということで軽い話題を。先週、JR静岡駅改札外コンコースにある駅弁屋さんで駅弁を買ってみました。
 静岡へは何度か来ていますが、駅弁を買ったのは過去に1、2度くらいだったような気がします。(食事を済ませて乗車することが多い)

 今回買ったのは「駿河小町」という駅弁。調整元は東海軒さんで、一日限定20個とのこと。他にも色々置いてありましたが、ついネーミングに惹かれて購入してしまいました。
 価格は880円で、1000円出せばお釣りがきます。ご覧のように、緑色の不織布の風呂敷に包まれています。
  駿河小町1


 風呂敷を開いてみますた。。。(´・ω・`)
  駿河小町3

 中身はこんな感じ。
 左側に、南瓜、花形豆腐、里芋、人参、ごぼう、麩、さやの煮物。
 右側には、はんぺん磯辺揚げ、焼鱒、海老、茄子田楽、山葵菜おひたし、蓮根、すだち。それに、わさび塩が付いていました。白いご飯には梅ゆかりのふりかけが載っています。
  駿河小町2

 食べてみますと、美味しかったです。コンパクトで場所もとりませんし、量もちょうどいい感じ。あっさり頂くことが出来、私好みの味つけでした。男性の方にはややボリューム不足かもしれませんが。ネーミングからしても、女性向きなのかもしれませんね。
 

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江川坦庵とゆかりの人々

 静岡市のJR東静岡駅前にある複合施設「グランシップ」6階展示場にて、現在、「江川坦庵とゆかりの人々」が開催されています。(今月20日まで)
 江川坦庵とゆかりの人々

 江川坦庵(1801~1855)と聞いてピンと来ない人は、江川太郎左衛門英龍という名前なら聞いたことがあるのではないでしょうか。江戸後期に活躍した伊豆韮山代官で、早くから国防の重要性を認識し、西洋砲術を学んだり、韮山に反射炉を築いたり、農兵隊の組織化を提言したり、プライベートでは神道無念流の剣客でもあり、書画も巧みだったという実にマルチな才能を発揮した人です。

 伊豆の韮山に、「江川邸」といって幕府代官だった江川家が代々住まった屋敷が現在も残っています(重要文化財)が、そこに江川家に代々伝えられた古文書や物品等がたくさん残っていて、この10年で大学等の研究機関によって調査が進められていたものです。詳しく調べた結果、実に6万点!もの史料が発見されたといいます。
 その調査も最終段階に入ったことから、今回の展示が企画されたようです。6万点のうち、今回は約100点の史料が展示されております。

 私は過去に韮山にある「江川邸」や反射炉等を見学したことはあるのですが、江川について取り上げた展示というのは今まで聞いたことがなく、珍しいなと思い、はるばる出かけてみたのですが、現在夏休みということもあり、お子さんや「江川坦庵って誰?」という一般人向けの展示という印象がしました。古文書よりも、彼の書画や物品の方が多かった感じです。
 面白かったのは、江川が不穏な情勢にあった甲府の領内を、同じ神道無念流の剣友だった斎藤弥九郎と共にお忍びで廻った時の姿を描いた画(「甲州微行」)です。史料を調査した結果、その折に江川が来ていたと思われる着物が出てきたそうで、それも一緒に展示されていました。

 東京港区のお台場なども江川が築いたのですけれども、お台場の木製模型というのが展示されてました。それを見ると、今残っているお台場と形が違うんですよね。。。ですから、予算の関係等で事前の設計に大幅な変更が加えられていたということがわかります。
 それから、江川は日本ではじめて「パン」を焼いたというのでも有名で、パン業界からは「パン祖」と呼ばれているくらいです。なぜ彼がパンを焼いたかというと、保存のきく兵糧として考えていたからです。
 そのパンの製造法を記した紙が多数の史料の中から新発見されたそうです。
 それを元に、ある食品メーカーさんが復元した日本初の「パン」というのを頂くことができました。
 江川坦庵のパン

 実はまだ食べてませんが、触った感じは柔らかく焼いたクッキーみたいな風。実際食べた人によると、まるで乾パンみたいな味というか、現代人の口には合わないみたいです。
 会場には、当時実際パンを焼いたという大きいパン焼き皿がありました。(これは江川邸で見たことがありました)

 それとは別に、日本ではじめて「あんパン」を考案した東京銀座の「木村屋」さんのご好意で、土日に限り先着順で「あんパン」を配布しているということで、今回頂きました。こちらはすぐ食べてしまいましたが。
 DSCF5582.jpg

 
 展示の話に戻りますが、自分としては江戸幕府関係の史料が何かあろうかと思って行ってみたのですが、今回は文書関係がほとんどなくて、少々物足りなかった感じです。しかし、調査から戦国時代、江川氏が徳川氏に臣従する前、後北条氏の勢力下にあったことを示す史料が数点見つかった(地理的にいえば妥当だと思いましたが)というのがわかり、少しばかり参考になりました。
 会期はあと2日ですが、静岡ゆかりの偉人でもあり、小・中学生の夏休みの自由研究のテーマなどにも使えそうですので、お近くの方はぜひご覧になってみては如何でしょうか。

 ⇒グランシップ公式サイト 展示時間 10:00~17:00(入場は16:30まで) 入場料300円
 グランシップ


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根室名物「エスカロップ」

 根室への旅の締めくくりとして、根室名物「エスカロップ」なるものを食べることにしました。
 「エスカロップ」とはどういうものか説明は後ですることにして、「エスカロップ」を出してくれるお店は根室に数店あるということでしたが、ネット等で調べてみて評判の良いお店に行ってみることにしました。

 喫茶どりあん 洒落た感じの店先です。
 喫茶 どりあん

 中へ入ってみました。店内は落ち着いた雰囲気で、この日はジャズが流れていました。写真では写っていませんが、右方にカウンターがあります。
 どりあん店内

 窓際の席に座り、店員さんに「エスカロップ」(840円)を注文してみます。しばらくすると出てきました~。
 刻んだタケノコが入ったバターライスの上にとんかつがのっていて、その上にお店特製のデミグラスソースがかかっています。付け合せにポテトサラダも。
 エスカロップ

 評判どおり、ヽ(´∀`)ノ ウマー! あっという間に完食してしまいました。見た目の印象とは違い、案外あっさりといただけました。

 店内に「エスカロップ」の由来が書いてありましたが、それによると、戦後別海町の方の網元さんが喫茶店「モンブラン」を開店し、そこでシェフをしていた方が、かつて東京・新橋にある洋食屋さんで修業しており、習った料理をヒントにして考案したのが、「エスカロップ」なのだそうです。
 その後、「モンブラン」で働いていた方が暖簾わけして「ニューモンブラン」(こちらのお店も市街にあるそうです)というお店を開店し、「どりあん」のご主人はそこで修業していたそうで、後に自分の店を立ち上げられたということだそうです。
 「エスカロップ」は根室名物になっていますが、本来は東京発祥だったというのが面白いですね。

 メニューは他に、ライスの上に牛肉がかかっている「オリエンタルライス」もあったりして、こちらも美味しそうな感じでした。喫茶店ということですが、喫茶店兼洋食屋さんという印象です。
 デザートにクリームパフェなども心惹かれるものがありましたが、帰りの時間も迫っていたことから後ろ髪引かれる思いで店を出ました。
 前にも書きましたが、旅先でこういった落ち着いた喫茶店に出会う楽しみというのがありますね。ただ、こちらは旅人なのでゆっくり時間を過ごすというわけにはいかないのですが、しばし和みの時間を過ごしたいものです。

 
 こうしてチャシや納沙布岬などを見学し、「エスカロップ」もいただけたので、夕刻に根室発釧路行きの花咲線普通電車に乗って帰りました。
 ここまでかなり遠かったので、一生のうちにあと一回ぐらい来れれば・・・という感じですね。
 根室本線

 
 根室半島へは、釧路空港から向うべきか、中標津空港から向うべきか迷ったのですが、中標津~羽田間はANA一日一往復の便しかないので、やっぱり止めました。
 釧路からも行くにしても、根室まで車で2時間半以上はかかってしまうので、余裕のある日程で行かれたほうがいいと思います。
 この後は、釧路近辺を巡る旅です。

 ※関連記事 日本100名城制覇への道


 喫茶 どりあん 根室市常磐町2-9 電話0153-24-3403
 
より大きな地図で 喫茶どりあん を表示

 ☆お店の情報は変更になる場合があります。必ず事前に各自でお確かめください。



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テーマ : こんな店に行ってきました
ジャンル : グルメ

根室の史跡と心に残る風景

 根室での目的は100名城制覇のためでしたが、今後滅多に来られそうにもないので、若干ですが史跡巡りをしてみました。

【旧和田屯田兵村大隊本部被服庫】 (根室市西和田568)
 明治19年(1886年)、和田正苗を大隊長とする旧士族の約1000人が、福井、石川、新潟県等の北陸地方から移住し、北辺の警備および根室地方の開拓に携わりました。
 この被服庫はその前年、アメリカ西部開拓時代に用いられたバルーンフレーム様式で建造されました。土台から軒桁まで通しで柱を入れ、屋根には狭い間隔で垂木を配置し、三角形の小屋組をなしています。この形式では、梁や柱の数を減らし、広い空間を確保できることと、規格化された材料と形式のため、熟練度の低い者でも組み立てが可能であることから、開拓期の建物に採用されたといいます。屯田関係の建物では唯一現存する建物です。
 旧和田屯田兵村大隊本部被服庫

 近所の方が管理人をされていたので、お願いして内部を見学させていただきました。
 色合いの異なる柱は、最近になって耐震等のため補強として入れたとのことです。(ですから昔はありませんでした)かなりご高齢の方でしたが、親切に対応していただけました。有難うございました。
 旧和田屯田兵村大隊本部被服庫 2

 すぐ近所には和田屯田兵村の碑がありました。
 旧和田屯田兵村の碑


 【根室市明治公園第1・第2・第3サイロ】 (根室市牧の内)
 この付近の広大な土地には、かつて開拓使根室牧畜場がありました。この3つのサイロは、昭和7年(1932年)、昭和11年(1936年)に建てられた、イギリス積みのレンガ造りサイロ(搭状の倉庫)です。
 現在は公園になっていますが、北海道らしい風景です。
 根室市明治公園サイロ


 【高田屋嘉兵衛の像】(根室市琴平町1-4 金比羅八幡宮裏)
 高田屋嘉兵衛(1769~1827年)は箱館を根拠地として、択捉、国後、根室などの漁場を開き、廻船業で成功した人物です。後には江戸幕府に命じられ、蝦夷地経営に関与しています。1811年におきた「ゴローニン事件」の際に、解決に向けて尽力したことでも有名です。その生涯は司馬遼太郎の「菜の花の沖」にくわしい。
 そういえば、函館にも同じような銅像がありました。
 高田屋嘉兵衛像



 最後に番外編として、根室市内を走っていたときに眺めた夕陽。どこかの湖の近くだったと思うのですが・・・。実際はもっと美しい光景でしたので、車を停めてもらい、急いで写した一枚。
 根室夕景


 次回で根室行きは最後になります。


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根室市歴史と自然の資料館

 旅行二日目。一日目は根室に到着したのが午後1時過ぎで、結局半日しか観光できず時間切れだったので、二日目も若干ですが根室市内を廻りました。
 
 根室市歴史と自然の資料館 レンガ造りの建物ですが、これはもともと昭和17年(1942年)に大湊海軍通信隊根室分遣所として建設されたものです。戦後は小学校として使用されていたんだとか。
 根室市歴史と自然の資料館1

 なお、100名城スタンプラリーのもう一箇所のスタンプ設置所でもあります。スタンプの印影は良好です。※過去記事 「日本100名城制覇への道」参照
   根室半島チャシ跡群スタンプ2

   
 初日に寄らなかったのは、オンネモトチャシ跡から少々遠かったからです。

 博物館観覧は無料でした。展示物は自然関係のものが多い感じです。動物たちの剥製がやたら目立ちました。
 根室市歴史と自然の資料館4

 冬になるとオホーツクの彼方からラッコがやってくるそうです。他にも野鳥とかキタキツネなどの剥製がありました。
 根室市歴史と自然の資料館5


 私が注目したのはコレ。明治38年(1905年)のポーツマス条約締結時に、樺太の北緯50度を日露国境と定めた際の国境標石がありました。
 「大日本帝國」と菊の御紋が刻まれています。裏側はロシア側の表記。
 根室市歴史と自然の資料館2
 根室市歴史と自然の資料館3

 それと個人的に一つ発見があったのは、この標石をモデルに、函館にある石川啄木の墓がデザインされたということです。普通の方ならスルーしそうな事柄ですが(笑)
  (今年5月、函館にて撮影) ※過去記事 「石川啄木の墓」参照
   石川啄木の墓1

 戦前、根室と国後島をつないでいた電信電話用海底ケーブル。地元の方によって大切に保管されていたそうです。
 根室市歴史と自然の資料館6

 これ以外は北国の生活用品など、民俗資料が多かったですかねえ。

 職員の方にオンネモトチャシ以外のチャシへの行き方を尋ねてみたのですが、案の定先方はあまり気乗りしないご返事。奥歯に物が挟まったような言い方をして、教えてくれません。ですので、他のチャシを見学するのは諦めました。(根室市内には32箇所もチャシ跡があり、内24箇所は国指定史跡になっているにもかかわらずです) 皆はるばる遠方から来ているのですから、もう少し何とかならないものでしょうか?

 チャシに関する展示、刊行物などもなかったですし、正直わざわざ立ち寄るまでもなかったかも。。。何の収穫もなかったので、私たちも30分くらいで辞去いたしました。
 時間に余裕のない人は、私たちのコースのように、JR根室駅前の観光案内所でスタンプを押印し、そのまま直接オンネモトチャシへ行けばいいと思います。

                        つづく

  根室市歴史と自然の資料館 根室市花咲港209 電話 0153-25-3661 月・祝祭日・年末年始休
 
より大きな地図で 根室市歴史と自然の資料館 を表示
 

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納沙布岬で「特製 海の幸ラーメン」を

 連日の猛暑で、うんざりしてきますね。ついこの間滞在した北海道が懐かしいです。湿度が低くてカラッとしてましたし、何より本州と比べれば格段に涼しい!本当に過ごしやすかったです。

 さて、納沙布岬をうろうろしていたのですが、しばらくして旦那が「小腹空いた~」とか言い出しました。で、手持ちのガイドブックにも載っていた納沙布岬にあるお店に入ってみました。
 「お食事処 東灯」 年配のご夫婦で営んでいらっしゃいます。
 お食事処 東灯

 メニューはこんな感じ。せっかく海沿いの町へ来たものですから、「いくら丼」とかにも惹かれるものがあったんですが、気温が下がり涼しくなってきたせいもあり、二人とも「特製 海の幸ラーメン」(950円)を注文しました。
 東灯メニュー

 しばし待つと出てきました。具はホッカイシマエビ、トウダイツブ、イカ、昆布、カニむきみ、ホタテ。ちょっと見、しょっぱそうにも見えましたが、食べてみますと実はあっさり醤油ベースで、海鮮出汁がきいてます。
 海の幸らーめん

 (´∀`)ウマー♪  もちろん、スープも残さず完食です。
 実はこちらのお店、たばこ屋もやっていらっしゃるんだそうです。そうすると日本最東端のたばこ屋さんということになりますね。この日も地元の漁師さんらしきおじさんがたばこを買いに来て、店の奥さんと世間話に花が咲いていました。地元の方たちも気軽に立ち寄れる、アットホームな雰囲気です。
 
 夏が終われば、秋~冬と寒い季節になっていきますので、バイク乗りの方など冷えた身体をラーメンで暖めるのもいいかもしれませんね。


 「お食事処 東灯」 根室市納沙布33-6 電話0153-28-2463 朝8時~夜6時 不定期休
  
より大きな地図で お食事処 東灯 を表示

 ※お店の情報は変更になる場合があります。必ず事前に各自でお確かめください。


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納沙布岬より北方領土を望む(後)

 オンネモトチャシには人っ子一人いませんでしたが、納沙布岬の方には観光客がちゃんといました。
 旅番組や旅行雑誌などでもよく知られる納沙布岬の碑。ここでは、バイク乗りの方がここで記念撮影するのが恒例みたいで、皆さんこの碑のすぐ側にご自分のバイクを横付けしているのです。ただし、ここは撮影スポットなので、みんながそれをやられるとちょっと迷惑かも。
   納沙布岬1

 納沙布岬を散策してみます。
 納沙布岬2

 ふと目をやりますと、何やらのようなものが。「寛政の蜂起和人殉難墓碑」と記されています。
 案内板によりますと、寛政元年(1789年)5月、国後島およびメナシ(現在の標津町)にいたアイヌの人々が、当事この地域の場所請負人であった飛騨屋久兵衛の支配人らに脅され、わずかな報酬で労働を強いられたため、やむなく蜂起し、和人71人を殺害するという事件がおきました。
 このため、松前藩はノッカマップ(現・根室半島オホーツク海側)にアイヌの人々を集め、蜂起の指導者37人を処刑しました。(「寛政クナシリ・メナシ アイヌ蜂起」一件)
 明治45年(1912年)、この墓碑は納沙布岬から程近い珸瑤瑁の港に打ち上げられていたのが発見されました。墓碑に刻まれた文言によれば、墓碑が浜へ打ち上げられていたちょうど100年前の文化九年(1812年)に、アイヌに襲撃された和人の供養のため墓碑が造られたらしいのですが、誰が造り、どこに建てようとしたのか詳細は不明だということです。おそらく、海上輸送の途中に船が難破し、海中に没していたものと考えられるそうです。
 寛政の蜂起和人殉難墓碑


 「きぼうの鐘」 4島返還を祈りながら鳴らしてみましょう。
 きぼうの鐘

 「四島のかけ橋」 このモニュメントは4島の早期返還を祈念し、昭和56年(1981年)に造られたもの。
 四島のかけ橋

 最後に「平和の塔」という建物に入ってみました。(有料 大人900円) 戦後、「右翼」の大物であった故・笹川良一氏(元日本船舶振興会会長)によって建てられた高さ97Mの展望タワーです。
 朝8時30分~日没後15分後までオープンしていますので、時間のある方は美しい夕日が拝めるかもしれません。
 平和の塔

 最上階の展望室より。灯台や貝殻島方面を臨む。
 納沙布岬灯台2

 オンネモトチャシも遠望できました。
 オンネモトチャシ遠望

 
 納沙布岬にはかれこれ1時間半くらいいたのですが、夕刻に近づくにつれ風が強くなり、段々と肌寒くなってきました。私は春用のカーディガンを取り出して羽織っていましたが、雨や霧の日は気温が下がると思うので、夏場であっても何か一枚羽織物を持っていったほうがいいかもしれません。

                  つづく


 
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A☆六文銭

Author:A☆六文銭
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日本100名城完全制覇と有名人の墓めぐり(掃苔)
日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

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