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大横須賀と金沢

 いつもご覧いただいている皆様、こんばんは。ちょっと遠方へ出かけていたりで、ブログの間が開いてしまい、毎日見ていただいている方には申し訳ございませんでした。
 気を取り直して再開です。

 さて、神奈川県横浜市にある神奈川県立金沢文庫では、企画展「大横須賀と金沢」が開催中です。(明日7月31日まで)

 参考サイト 神奈川県立金沢文庫HP

   神奈川県立金沢文庫

 

【展示趣旨】
 江戸時代に金沢藩としてまとまっていた地域は、近代になると、国際貿易港横浜を核とした文化圏と、横須賀軍港を核とした文化圏の中間地帯となりました。昭和になると、戦前の大合併で横浜市の行政区画に組み込まれましたが、軍事的・経済的には海軍の管轄区域に組み込まれていきました。
 今回の展示では、横須賀軍港を中核とした金沢地域の近代化と、それに伴う協調と軋轢を資料から追うことで、横浜中心に考えがちな金沢の近代を再検討する素材を提示したいと考えています。




 ここでいう「金沢」というのは加賀100万石・石川県の金沢ではなく、横浜市の金沢八景の辺りです。今回の展示でわかったのですが、戦前この辺りは横浜の範疇ではなくて、横須賀の範疇に組み込まれていたそうなのです。
 ですから、横須賀の海軍関係の施設等があって、今回はそれに関する史料が大半を占めていました。あえていうなら、これらは「戦争の記憶」につながるものです。他の博物館・資料館でも、終戦記念日の8月前後は前の大戦に関する展示もよく見られます。

 今回の展示では、地元の関係者から提供された資料も少なくなかったとか。海軍航空隊や日本飛行機に関する資料が目を引きました。
 また、同展は6月から開催していたのですが、その間に展示を見たご年配の方からの教示などもあったそうで、今まで不明だった点が判明したりしたそうです。
 私には少々難しい展示内容というか、この付近に土地勘がない(今まで3,4回くらいしか来たことがありません)のでちょっとイメージしにくい点もありましたが、戦前の海軍について関心のある方や近隣在住の方には何かしら発見があるかもしれません。内容が内容だけに、観覧者はご年配の方が目立ちました。
 展示は明日までなので、お近くの方で時間のある方はぜひ寄ってみてください。

 今年は敗戦からすでに66年目・・・「戦争の記憶」は時間の経過とともに、段々と風化していくものです。
 この地域に限らず、前の大戦関係の資料・記録をお祖父さんや曽祖父さんなどが残していたというお宅がありましたら、「今更もう不要だから」と廃棄する前に是非お近くの博物館(県立や市立の)等に相談していただき、日本の将来のためにもなるべく後世に残していただけますようお願いいたします。


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テーマ : 展示会、イベントの情報
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ワーグマンの見た海-洋の東西を結んだ画家-

神奈川県立歴史博物館

 現在、神奈川県横浜市にある神奈川県立歴史博物館において、特別展「ワーグマンが見た海-洋の東西を結んだ画家-」を開催中です。(7月31日 日曜まで)

 【同館ホームページより展示趣旨】
  
 2011年は、日本の文明開化に大きな影響を与えた英国人報道画家、チャールズ・ワーグマンCharles Wirgman(1832-91)が来日してちょうど150年目にあたります。この節目を記念して、彼が見た世界と幕末明治の日本の姿、そして彼が日本に伝え広がった様々な技術や思想を、関連する作品や資料なども交えながらご紹介したいと思います。
 1832年、イギリスに生まれたワーグマンは、25歳の時、同国で発行されていた新聞『イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ』の外国特派員となります。地中海、紅海を経て、当時の中国に赴き、アロー戦争を取材し、多くの絵を同紙に掲載しました。その後、1861年、文久元年、開国間もない当時の日本を欧州へ紹介すべく来日しました。横浜に住まいを定め、同紙に挿絵や記事を提供するほか、風刺誌『ジャパン・パンチ』を発刊し、報道画家として活躍しました。また、慶応元年(1865)には近代日本洋画界の先駆けとなった五姓田義松が、そして翌年には高橋由一が入門し、彼らに西洋絵画技術を伝えたことでも知られます。その意味では、まさに近代日本美術史の幕開けの年でもあります。
 本特別展では、今回の準備段階で新たに発見されたワーグマンの作と考えられる作例を初公開いたします。それらは多くが幕末明治の日本を描いたものであると考えられ、貴重な記録でもあります。報道画家・ジャーナリストとしての厳しい一面、ユーモアあふれる漫画家としての一面、あるいは指導者など多様な側面をもつワーグマンは、幕末明治という変革の時代ならではの存在でしょう。ワーグマンの多面的な活動を通して、胎動する近代日本を感じて頂きたいと思います。



 横浜へはたまに遊びに行ったりするんですが、その折にみなとみらい線「馬車道」駅からほど近い神奈川県立歴史博物館へ寄ることがあります。
 しかし、ここ数年来、同館の展示を見ていますと、ちょっと自分のテイストから外れているというか、期待はずれの内容が多かったのです。
 しかし、今回の展示はなかなか興味深く、見ていて楽しめました。

 ワーグマンというイギリス人画家が描いた絵の数々は幕末から明治にかけての時代の変動期にあたり、あたかも写真を見ているかのように日本の様子が生き生きと描かれています。私はワーグマンという画家についてこれまで詳細は知りませんでしたが、彼の絵は歴史の本で何度も見かけたことがあります。
 彼はもともと専門的に絵画を勉強した人ではないそうで、絵に関しては天賦の才能をもって描いていたようです。
 ワーグマンは結局故郷には帰らず、日本人女性と結婚し、横浜で暮らしていました。文字通り、日本に骨を埋めたといえるでしょう。晩年彼が創刊した「ジャパン・パンチ」という風刺誌は、「ポンチ絵」の語源とも言われているのだとか。この頃のワーグマンの絵には彼一流の遊び心がうかがえます。
 ところで、上の趣旨にもある通り、かの「日本近代洋画の祖」高橋由一(代表作「鮭」「花魁」)が彼のお弟子さんとして入門していたらしいのですが、ワーグマンはあまり絵の指導には気乗りしなかったようで、由一は青い眼のお師匠さんの画法を見よう見真似で学んでいたようです。

 ワーグマンの死後、彼には一人息子さんがいた(名前を「小澤一郎」さんというw)のですが、息子さんの家が関東大震災で被災してしまったため、家に残されていたワーグマンに関わる記録が灰燼に帰してしまったことから、ワーグマンの生涯についてはわからない事が多いのだそうです。
 なお当初、イギリスにいるワーグマンの親族の方から絵を数点借りることになっていたようですが、3月11日の震災の影響で見送られたということで、少々残念ではあります。
 それでも同館所蔵のものを中心に、国内に残された総数約250点の絵は大変見ごたえがありました。歴史と芸術の二つの側面から、ワーグマンの絵は読み解くことができるからです。
 出展の絵は日本の情景を描いたものが大部分を占めますが、前半の方ではワーグマンの若き日、中国滞在時に描いた絵もあり、当時の中国の風俗などが細かいところまでよく描かれていて、こちらも面白いです。

 参考サイト 神奈川県立歴史博物館HP

 
 ★多忙により、ブログ2,3日お休みします。

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泉州堺を歩く (終)

つづき

 堺文化財特別公開のパンフレットに載っていた主要な史跡を巡った後、最後は堺市博物館へ向います。
 この日、博物館では三好長慶の肖像画(南宗寺所蔵)や三好氏の記録が紙背に書かれていることがわかった「己行記」(妙國寺所蔵)が特別公開されているというので見学することにしました。
 ところが、南宗寺の辺りから博物館まで歩いて30分近くかかるようなのです。まだ5月下旬にもかかわらずおそらく気温が30度は超えていたため、自分はやたら汗をだらだらかき、やや熱中症っぽいというか気分が悪くなりかけていました。
 しかし、タクシーなども全然拾えないし、バスもないようなので仕方なく歩くことにしました。(この辺の移動手段がないのはやや不便に感じました)

 やっとの思いで博物館に到着した頃にはヘロヘロ状態に。
 堺市博物館

 お目当ての三好長慶像などを見学しましたが、頭が朦朧としており正直よく覚えていません。
 この日、博物館では松永久秀に関する講演会があるというので、休憩がてら聞いていくことにしました。天野忠幸さんという三好氏の研究をなさっている学者の方による講演でしたが、色々示唆にとんだお話でした。
 なお、博物館の道を挟んだ目の前には、実は有名な巨大古墳である「仁徳天皇陵」があるのですが、帰りの新幹線の時刻が迫っていることもあり、今回はパスしました。

 夕方になり、再び南海電鉄堺駅の方へ戻ります。
 堺環濠の跡。町の周囲には防衛・水運の用途のために環濠が掘られ、その中で堺の町は繁栄してきたわけですが、天正14年(1586年)、大坂城を築く上で都合が悪いと感じた豊臣秀吉によって環濠はすべて埋め立てられてしまったそうです。そして、堺の商人たちも強制的に大坂城の近くに移住させられたとか。
 大坂夏の陣で堺の町は焼失しましたが、その後江戸幕府によって再び環濠が掘られ、以前のものより規模を拡大して造られたそうです。現在はその一部が残るのみ。
 堺環濠

 南海電鉄堺駅のすぐ裏手の土居川沿いにある「堺事件発生の地」の碑(左)および「天誅組上陸の地」の碑。
 「堺事件」については、「泉州堺を歩く 3」のところで取り上げました。
 文久3年8月15日、吉村寅太郎率いる尊王攘夷の浪士集団「天誅組」は公卿・中山忠光を奉じて大坂より海路で堺へ上陸しました。
 この後、一行は河内国を経て大和国へ至り挙兵しますが、たちまち幕府軍によって壊滅させられてしまいました。
 二つの碑が並んでいる辺りでは、地元のお子さんたちが鬼ごっこしていました。(いまどき珍しい光景というか、微笑ましかった)
 堺事件発生の地・天誅組上陸の地

 
 
【感想】
 事前に地図を見た限りでは楽勝と思っていた堺の史跡巡りでしたが、実際歩いてみたところ、予想以上に広範囲にわたり寺などの史跡があり、とても一日では廻りきれませんでした。ここの記述も、かなり省略している箇所が少なくないです。
 今回の文化財特別公開にあたっては、「堺幕府」という室町時代末期のわずか5年間の歴史に焦点を当てたということで、テーマのつかみ方が良かったと思います。地元のボランティアの皆さんも熱心に活動しておられました。
 なお、写真には撮りませんでしたが、この辺りは古くから住んでいる方たちが多いようで、隣同士ギリギリまで近接した住宅密集地であるにもかかわらず、軒先に花の植わった植木鉢が並んでいたりして、小奇麗に暮らしておられ、生活に潤いがあるように感じられました。東京でいえば下町っぽい印象です。
 史跡巡りの後半、暑さ負けで熱中症っぽい感じになってしまったのですが、今年がたまたま5月下旬としては例年以上に暑かったのかもしれませんが、また今後同様な催しを企画するなら、ゴールデンウィーク前後などもう少し時期を早めたほうが良いのではないか、と思いました。この頃、東京はまだしのぎやすい気温だったもので、正直あまりの気温差にびっくりしました。


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泉州堺を歩く 7 南宗寺(後) /大安寺

 つづき

 三好一族の墓  南宗寺は三好長慶によって建てられましたので、当然三好一族の墓もあります。しかし、この日墓前に見学のグループがいて、ガイドさんの説明を受けていましたので墓碑に近寄って逐一確認することが出来ませんでした。
 お墓の写真もご覧の通り、脇から撮影しなければなりませんでした。
  三好一族の墓


 ところで、この南宗寺にはにわかに信じがたい伝説が伝えられていまして、なんと慶長20年(1615年)の大坂夏の陣「八尾の戦い」において、徳川家康が後藤又兵衛の槍にかかって討死し、密かに南宗寺に葬られたというのです。
 「ホンマかいな」とつい思ってしまう話ですが、その後、家康の子で二代将軍秀忠、孫の三代将軍家光の御成があったとか・・・将軍がわざわざやってくるほどですので、あながち嘘でもない!? 果たして真相はいかに???
 幕府の公的記録によれば、家康は夏の陣の翌年、元和2年(1616年)に駿府城で死んだことになっているのですけどね。

 で、ガイドさんに案内された家康のお墓がこれ。。。「徳川家康墓」と記されている!
  徳川家康の碑

 と思ったんですが、実はこの墓は正確には家康の墓ではありませんでした。江戸時代、この場所に東照宮があり、戦災で焼けてしまったので、昭和40年代に水戸徳川家の家老の子孫が建てた記念碑だったのです。
 一方、家康が密かに埋葬されたという伝説の墓は、上の写真の三好一族の墓の真向かいにあった小さい墓標だったらしいのです。人が多くいたのと、何の案内板もない上、ガイドさんも何も言わないので気づかず通りすぎてしまっていたのでした。残念ながらポカをやってしまいました。また別の折に参詣したいと思います。これから行かれる方は注意してください。

 なお、故・隆慶一郎の「影武者 徳川家康」はこの辺のエピソードを元に小説化したものだと思います。
  
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(1993/08)
隆 慶一郎

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 そして、東照宮があった頃の唐門(国指定重要文化財)。葵の御紋が入っていました。
  南宗寺・唐門

 さらに、お寺さんの奥の方へ行くと利休好みの茶室「実相庵」がありました。(内部は見学不可)
  実相庵


 ********************************

 南宗寺の東側には、大安寺(臨済宗)というお寺があり、こちらの本堂は堺の豪商であった納屋(呂宗)助左衛門の邸宅を移築したといわれています。
 本堂内は撮影禁止だったため写真はありませんが、本堂の柱には三好長慶の家臣であった松永久秀がつけたといわれる刀傷が残っています。
 何でも、助左衛門宅に久秀が招待された折、久秀はその贅を尽くした建物を褒めましたが、いきなり太刀を抜いて、柱に斬りかかりました。久秀の言によれば、「あまりに満ち足りていて一寸の隙もないと、かえって災いを招くから」というのが斬りつけた理由だそうですが・・・。
 なお、本堂内には17世紀に狩野派によって描かれたという障壁画があり、本堂と共に重要文化財に指定されています。
  大安寺


 以上で堺市文化財特別公開の主要なスポットの紹介は終わりです。この後、暑さでヘバりながら最後の目的地である堺市博物館へと向います。
                      つづく
 
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tag : 有名人の墓(た行) 有名人の墓(ま行)

泉州堺を歩く 6 南宗寺(前)

 南宗寺(臨済宗) 南宗寺は弘治3年(1557年)、三好長慶が父・元長を追善するために大林宗套を開山に迎え造営した寺です。
 これまで見てきたお寺さんの中では一番規模が大きく、堂内も広々としていました。
 しかし、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の折に堂宇はすべて灰燼に帰してしまい、当時の住職であった沢庵と堺奉行・喜多見若狭守によって、元和5年(1619年)に再建されました。
 南宗寺

 甘露門(山門) 国指定重要文化財 正保4年(1647年)の建立
 南宗寺甘露門

 仏殿(大雄宝殿) 国指定重要文化財 承応元年(1652年)の建立
 南宗寺仏殿


 南宗寺は三好氏ゆかりの寺であると同時に、堺の町衆が帰依し参禅したりしていたので、墓碑にはその足跡が残っております。
 
 武野紹鴎の供養塔
 武野紹鴎供養塔

 津田一門(津田宗達・宗及ほか)の墓
 津田一門の墓

 千家一門の墓 表千家、裏千家、武者小路千家の供養塔
 千家一門の墓

 中央には千利休の墓碑が立っていました。墓碑には「利休」「宗易」の文字が読み取れましたが、利休の遺骸がここに葬られていたのかは不明。江戸時代になってから千家の関係者が建てたものかもしれません。
 千利休の墓

 堺市博物館付近にある千利休の銅像(※寺内にはありません)
 千利休像

  長くなるので続きます。

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原田芳雄さん死去

俳優の原田芳雄さん死去=個性派、映画やドラマで活躍
時事通信 7月19日(火)15時3分配信

 野性的な魅力で映画やドラマで活躍した俳優の原田芳雄(はらだ・よしお)さんが19日午前9時35分、肺炎のため死去した。71歳だった。東京都出身。葬儀は22日正午から東京都港区南青山2の33の20の東京都青山葬儀所で。喪主は長男でミュージシャンの喧太(けんた)氏。
 高校卒業後、会社勤務を経て俳優座に。1968年の「復讐の歌が聞こえる」で映画デビューした。精悍(せいかん)な容貌を生かして、はぐれ者やアウトロー的な役柄で魅力を発揮。「八月の濡れた砂」「竜馬暗殺」「祭りの準備」などの作品に出演し、1970年代の日本映画を代表するスターの一人となった。
 80年代以降も「ツィゴイネルワイゼン」「どついたるねん」「浪人街」「父と暮せば」など、メジャー、マイナーを問わず数々の問題作、話題作に出演。主役から脇役までをこなす個性派俳優としての地位を確立した。晩年は温厚な父親役や老人役なども演じ、演技の幅を広げた。
 他の出演作に映画「柳生一族の陰謀」「原子力戦争」「われに撃つ用意あり」「奇跡」、テレビドラマ「冬物語」「美味しんぼ」「義経」「高校生レストラン」など。
 16日から公開中の主演作「大鹿村騒動記」の完成後、腸閉塞と誤嚥性肺炎を併発して入院。11日の完成披露試写会に出席したのが、公の場に姿を見せた最後となった。





 工工エエエエエ(´Д`)エエエエエ工工
 原田芳雄さん、演技派で素敵な俳優さんでいらっしゃいました。つい最近、テレビのトーク番組に出て、共演者と談笑していたのを拝見したときはお元気そうだったのですが・・・。今日訃報を聞き、享年71歳、まだまだ一花二花咲かせられるご年齢なのに・・・と残念でなりません。
 直接の死因は「肺炎」だったとか・・・3年前くらいに癌の手術を受けていたそうですが、一度は克服したということでしたが、ひょっとしたら他の箇所へ転移していたのでしょうか。

 原田さんは長い芸歴で、数々の作品に出演されていらっしゃったのですけれども、私が最初に原田さんに出会ったのは、やはりNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」で、最上義光を演じられたときでしたね。
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 最上義光は伊達政宗の母親・義姫の実兄であり、実の伯父にあたるにもかかわらず、政宗を翻弄しつづけるというどちらかというと悪役だったんですが、このアクの強い複雑な役柄を原田さんは見事に演じられました。
 最後は政宗と和解とまではいかなくてもお互い理解しあって・・・という所で劇中で死ぬのですが、権謀術数、孤独な武将像をよくとらえていらっしゃったと思います。妹役の岩下志麻さんとの掛け合いも良かったです。
 以前、山形へ行ったとき、「最上義光記念館」というところへ寄ったのですが、そこではアンケートをとっていて、「最上義光役にふさわしい俳優さんを挙げてください」という設問があり、まよわず「原田芳雄さん」と書いてきたものです。
 若い世代の方で同作品をご覧になっていない人や、当時見ていなかった方もレンタルで出ていますので、ぜひ一度ご覧になってみてください。

 山形城内にある最上義光像
 最上義光像

 

 原田さんがお出になった映画はほとんどDVD等で見ることが多かったのですが、劇場へ行って見たのが黒木和雄監督作品「父と暮らせば」でした。神保町にある岩波ホールまでわざわざ出かけ、拝見したものです。
 この作品では、娘役の宮沢りえさんの恋路を心配する、優しいお父さんの役(原爆で死んだ幽霊なのですが)を演じられました。
 若いころの原田さんはアウトサイダー的な個性の強い役柄が多かったのですが、最近はこのような温和な父親役などもされて、新境地を開いたようにお見受けしました。
 (今朝になって思い出しましたが、黒木監督の戦争三部作では「TOMMOROW 明日」も原田さんは脇役でしたが、これも劇場で拝見しました)
 
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 最近の俳優さんはみんな線が細くて、原田さんのような野生的な風貌の男性は本当に見かけなくなりました。
 いろんな作品にお出になったので、コレが一押しというのはなかなか難しいのですが、原田さんが坂本龍馬を演じた「竜馬暗殺」は鮮烈で、奇妙な味わいの作品だったのでことさら印象に残っています。(うちではDVDで持ってます)
 原田さんは故・黒木和雄監督作品の常連でもありましたね。
 
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 ここ最近のテレビドラマですと、2年前くらいにNHKで放映した「火の魚」というドラマもとても味わい深い作品でした。文芸作品でしたが、もう一度見たいので、ぜひ再放送してもらえないですかね。

 ※追記 明日7月21日(木)午後10時より、NHKBSプレミアムで原田さんを追悼して再放送されるようです。ぜひお見逃しなく。
 「火の魚」公式サイト

 また良い役者さんが一人逝かれてしまい、寂しさを感じます。ご年齢的にも、老境にさしかかった役柄も期待されただけに、早すぎる死が惜しまれます。
 年を重ねられても骨太な男気が感じられ、カッコいい方でした。気さくなお人柄で、面倒見も良かったと聞いていますから、俳優仲間の皆さんもさぞかしがっかりされていることと思われます。
 原田さんのご冥福を心よりお祈りいたします。数々の作品で楽しませていただき、本当に有難うございました。
 (泉州堺紀行の途中ですが、すみません)

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泉州堺を歩く 5

 堺奉行所跡  江戸幕府の遠国奉行の一つ。その前身は、織田信長が堺を直轄地にした際、松井友閑を堺政所に任じたことに始まる。江戸時代中期以降は大坂町奉行の指揮下に入る。明治維新後は、同じ場所に堺県庁が置かれた。
 堺奉行所跡


 与謝野晶子生家跡  明治~昭和初期に活躍した歌人。歌集「みだれ髪」や、日露戦争へ出征した弟を詠った「君死にたまふことなかれ」で有名。苗字からわかる通り、与謝野馨経済財政担当相のお祖母さんです。晶子は堺の裕福な商家(和菓子屋)の出で、この場所で生まれました。
 現在は大道筋の西側道路沿いに石碑があるのみです。
 与謝野晶子生家跡


 千利休屋敷跡  千利休(1522~1591)は戦国~安土桃山時代の茶人。堺の商家の出で、武野紹鴎に師事し、茶の湯を極めます。
 豊臣秀吉より信頼され、北野大茶会をプロデュースするなど豊臣政権における文化面をリードしていましたが、天正19年(1591年)、突然秀吉の勘気を被り、自刃しました。死を賜った理由ははっきりしません。
なお、利休の先妻である「宝心妙樹」は三好長慶の義妹だったともいわれています。
 千利休屋敷跡1

 屋敷跡には利休ゆかりの井戸が残っていて、ボランティアガイドさんが熱心に説明していました。
 千利休屋敷跡2


 利休の屋敷跡の道を挟んだ目の前に空き地があり、「三好館」と称して臨時のお休み処が設けられていたので寄っていくことにしました。
 三好館1

 ここでは冷茶のサービスや、堺のお菓子の販売、それから三好一族ゆかりの徳島県から物産販売の出店が出ていました。
 徳島のブースでは、徳島の三好一族ゆかりの「勝瑞城」のパネル展示などがありました。
 徳島へは2度行ったことがありますが、昔から大阪とは船の往来がありましたから、大阪の文化圏に入るのではないか、ということに気がつきました。方言も関西弁に似ていましたし、エスカレーターに乗るとき、大阪と同じで進行方向の右側に立ってました。(大阪以外では普通、左側に立ち、右側を通路で開けておきますよね)
 三好館2

 ここでお土産品を買うと、売り上げの一部を東北の被災地へ寄付してくれるというので、ちょっと買い物を。
 「焼ちくわ」は青竹に魚のすり身を練ったものを巻きつけて焼いたもので、徳島土産で買っていくと喜ばれます。「かつ天」というのは初めて見ましたが、ちくわと共にビールのおつまみに合いそうな感じでした。
 DSCF2915.jpg

 堺の和菓子。他にもあったのですが、撮影する前に連れが食べてしまいました。市街にも和菓子屋さんがけっこうありました。
 DSCF2916.jpg

 実はこの日、堺は夏日で7月の気温くらいあったものですから、出来ればお客さん用の休憩スペースにもパイプテント等日を遮るものを用意していただきたかったです。(太陽がじりじりと照りつけ、あまりの暑さで大変でした) この暑さは地元の方も予想外だったろうと思われますが、来年、同様な催しがあれば工夫していただきたいものです。


 武野紹鴎(正しくは紹鷗)屋敷跡 堺の豪商(皮革商)。文亀2年(1502年)大和国(奈良)で生まれる。
 村田珠光の弟子に茶を学び、京で三条西実隆に和歌を学ぶ。堺では津田宗及、今井宗久、千利休に珠光のわび茶を伝える。特に今井宗久を娘婿とし、財産、茶器を譲ったということです。 
 武野紹鷗屋敷跡

 堺市博物館付近にあった紹鴎の銅像。
 武野紹鷗像


 今井屋敷跡  今井宗久の長男・宗薫の屋敷跡。織田有楽斎より譲られた土地だといわれる。祖父である武野紹鴎邸のすぐ近所にあります。父・宗久から茶の湯を学び、豊臣秀吉、徳川家康に仕えました。
 今井宗久屋敷跡

                       つづく

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泉州堺を歩く 4

  「堺幕府」を支えていた三好一族の総帥・元長・・・彼は有名な三好長慶のお父さんですが、その政権の内部では摂津国の国人衆との間に不協和音が生じ、とうとう元長は主君である細川晴元にも裏切られ、晴元にけしかけられた一向一揆衆が堺の町を取り囲みます。一揆の数10万余ともいわれ、もはやこれまでと観念した元長は家臣らおよそ80人と共に、拠っていた顕本寺(法華宗)にて壮烈な死を遂げたといいます。まだ32歳という若さでした。
 こうして大永7年(1527)~享禄5年(1532年)のわずか5年で、堺幕府は崩壊しました。

 元長主従が自刃したという顕本寺は、現在「開口(あぐち)神社」の付近にあったそうで、現在は「三好元長戦死跡」と記された石碑が建っているのみです。
 開口神社
   三好元長戦死跡

 その後、寺は元和の大坂夏の陣で焼失したため、現在地へと移転。主君に裏切られ無念の死を遂げた三好元長の墓がありました。
 顕本寺

 元長の墓前で、熱心にボランティアガイドさんの話を聞く歴女っぽい人がいました。元長が好きなんでしょうかね。目のつけどころがなかなかシブいですね。
   三好元長の墓

 この日は本堂で三好一族の家系図や、小唄で有名な「隆達節」の屏風(米ボストン美術館蔵)の複製などが展示されてありました。


     ************************************

 三好一族の中に、総領の元長とかねてより険悪な仲だった人物がいました。三好政長という人です。
 政長は細川晴元に讒言し、それがきっかけで晴元は心変わりし、一向一揆を使って元長を討たせたのです。
 とうとう元長を死へ追いやった政長は細川晴元政権で重要な位置を占めますが、政長の命運もそこまで。摂津国・江口城において、元長の跡を継いだ息子の長慶によって討たれてしまいます。(因果応報ですね)
 善長寺(浄土宗)には政長の墓がありました。法名や没年などが刻まれているのが読み取れましたが、墓石は傷んだ箇所を修復してあり、ずいぶん古い墓標でしたので、当時のものでしょうか。
  三好政長の墓

 こうして親の仇を討った三好長慶は細川晴元を追放し、畿内を掌握。三好政権の誕生とあいなります。
                    つづく


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泉州堺を歩く 3

 つづき

 広晋山妙國寺(日蓮宗)  三好長慶の弟・義賢(実休)は日蓮宗に深く帰依し、日上人に寺建設のため広大な土地を寄進しました。
 もともと三好一族は禅宗だったらしいのですが、この義賢という人が一族をみな日蓮宗に改宗させたということです。
 日上人が書いた日記「己行記」は中世都市堺の様子を知る上で大変貴重な史料となっていますが、最近になって日記の紙背に三好家に関する古文書が残っていたことがわかり、このたびの文化財特別公開に合わせて一般公開されました。
(この日、実物は堺市博物館で展示されていた)
 妙國寺1

 コンクリート製の大きな本堂でしたが、これは戦災で焼けてしまったため戦後建てなおしたものだそうです。
 妙國寺ですが、幕末史のとある事件の舞台となった寺でもあります。

 慶応4年(明治元年 1868年)2月15日、堺港に停泊していたフランス軍艦・デュプレクス号より乗組員が上陸し、堺港付近を徘徊しました。この頃、堺を警備していたのは土佐藩だったのですが、上陸してきたフランス兵を見つけ、捕らえようとしたところ、フランス兵らが逃げ出したため、これを一斉射撃しました。
 その結果、フランス兵の犠牲者は溺死を含め11名、5名の負傷者が出ました。
 この一件に激怒したフランス公使・レオン・ロッシュは新政府に対してフランス兵の死体の引渡しと求めるとともに、事件に関わった土佐藩関係者の処刑、賠償金15万ドルの支払いなど5箇条にわたる賠償請求を行いました。

 フランス兵を射撃した土佐藩士は29名いたといいますが、土佐藩では20名を切腹させることを決めます。もともと責任者である2隊長と2名の小頭は当然ながら責任を免れず、残る16人は土佐藩邸内にあった稲荷神社でくじ引きを行い、切腹する人間を決めました。
 2月23日、妙國寺境内にてフランス軍艦長・トゥアールが立会いのもと、20名の土佐藩士の切腹が行われました。彼らは腹を切る際に内臓を検分のフランス人たちに対して投げつけるなどしたため、そのあまりに凄惨な光景に、トゥアール艦長は11名が切腹し終わった時点で処刑の中止を外国局判事の五代才助(後の友厚)に要請し、その結果9名が処刑を免れました。フランス側犠牲者と処刑者が同数のところで政治的判断により中止になった模様です。
 
 同寺の境内には11名の土佐藩士が切腹した場所が今も残されています。この場所は本堂の脇にあるのですが、通常は表に鉄扉があって中に入れないため、お寺の方にお願いしてみたところ、入れていただけたので撮影してきました。
 「英士割腹跡」の石碑は、処刑の7ヶ月後に建てられた古いものです。この付近の土は、切腹した土佐藩士の血を吸っていただろうと思いました。
 妙國寺「英士割腹跡」

 その手前には大きなソテツの木が。かつて織田信長がこのソテツを安土城へ植え替えたたところ、ソテツが妙國寺を恋しがって夜な夜な泣いたというので気味が悪いということで元に戻されたという逸話が残っています。
 妙國寺ソテツ

 同寺には切腹した土佐藩士の遺品が伝えられていて、この日本堂の方で見学することが出来ました。切腹当日使用されたという血がついた三宝などが置いてありました。

 これが「堺事件」と呼ばれる顛末です。明治時代、森鴎外が小説に書いたことで有名になりました。
 この事件の悲劇は、お互い言語が通じなくて意思の疎通がはかられなかったことと、慶応3年の暮れに定められた「大坂表外国人貿易並びに居留に関する規則」において、堺では外国人の往来が許可されたいたことが警備を担当していた土佐藩側で周知徹底されていなかったためによるものです。

 なお、堺事件には後日談があります。
 切腹した11名の遺骸は、当初妙國寺に葬られることになっていましたが、当時の住職が何故かその日突然行方をくらましたため、やむをえず、道を挟んだ向こう側の「宝珠院」(真言宗)という別の寺に葬られることになりました。
 結局、妙國寺としては元皇室勅願所ということもあって、罪人を葬ることを嫌ったというのが真相のようです。

 お隣の宝珠院にある「土佐十一烈士墓」の石碑。
 宝珠院1

 11名の遺骸は大きな甕に入れられ、同寺へ葬られました。今もお墓が残っていますが、あいにくこの日、寺の門扉が閉まっていて、インターホンを鳴らしても不在のようだったので中へ入れませんでした。
 同寺は今は幼稚園を経営しているみたいで、遊具の先に11名のお墓が見えました。(ちょっとシュールな光景・・・)
 宝珠院2

 近隣の堺の住民をはじめ、大坂の人々はこの11名の土佐藩士の運命を気の毒がり、彼らを「ご残念さま」と呼んで、多くの人たちが墓参りに訪れたといいます。遺体収容に使われなかった9個の甕は宝珠院内に並べられ、こちらも「生き運さま」と呼ばれて人々の信仰を集めました。宝珠院の門前には縁日のような屋台まで出て、多くの参拝者で賑わったといいます。

 この様子を傍で見ていて悔しがったのが、遺体の埋葬を婉曲に拒否した妙國寺。土佐藩に対して墓の改葬を願い出たものの拒否されたそうです。(当たり前ですね)後悔先に立たずとはまさにこの事です。

 仕方がないので境内に彼らの供養塔を建てたり、3日3晩にわたる大供養を行ったりしたんだそうです。
 妙國寺2


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泉州堺を歩く 2

 つづき

 山口家住宅(国指定 重要文化財)
 山口家は江戸時代、「越前屋」という屋号で庄屋をつとめていたという裕福な町人で、建物は江戸時代初期に建てられたものだということです。
 堺の町は、「大坂夏の陣」の折に焼討ちに遭っているため、残存している建物の中では一番古いといわれています。
 もちろん、後年増改築が行われていますが、昔の堺の町家の様子が偲ばれます。二階建てのかなり広い立派なお宅で、土蔵などもありました。
 山口家住宅

 座敷
 山口家住宅b

 茶室
 山口家住宅c

 土間
 山口家住宅a



郷学所跡
 堺の町は商業活動の興隆により、町民たちは皆教育熱心だったといいます。商家の子弟は寺子屋で学ぶのが一般的でしたが、江戸時代後期の天保年間に、堺奉行所が町屋を買い取り、「郷学所」を発足させました。町民の子弟の多くが学び、近隣の農村からも入門する者がいたほどでした。明治3年に廃止されるまで存続したそうです。(現地案内板より)
 郷学所跡

 
堺刀司
 文化2年(1805年)創業の包丁屋さんらしいです。古そうなお宅だったのでたまたま撮影していましたが、市街には他にも刃物を扱うお店を何軒か見かけました。
 堺刀司


小西行長屋敷跡
 キリシタン大名として有名な小西行長の父親・隆佐は堺の薬商だったとか。息子の行長はここで生まれたという言い伝えがあるそうで、大道筋に石碑が残るのみです。
 関ヶ原の戦いで東軍に破れ、石田三成と共に処刑されたのは周知の通り。
 小西行長屋敷跡


                 つづく

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泉州堺を歩く 1

 去る5月20日(金)~24日(火)まで、大阪府堺市において「堺文化財特別公開~三好一族と堺幕府」という催しが開催されました。
  三好一族と堺幕府

  
 泉州堺というと、戦国時代、裕福な町人たちによる住民自治が行われ、二万貫の矢銭を吹っかけてきた織田信長に対して当初は抵抗しますが、後に臣従し、権力者にうまく取り入っていった歴史を思い浮かべがちですが、今回はそれよりも少し前、室町時代の後期、管領・細川家の家督争いの中で、細川氏の有力被官であった阿波の三好元長が将軍足利義晴の弟・義冬を奉じて堺にを置いた大永7年(1527)~享禄5年(1532年)のわずか5年間の歴史にスポットを当て、関連史跡を紹介するという内容の催しでした。
 過去に大阪へは何度か来ていますが、堺まで来るのは今回が初めてでした。
 
 参考サイト 堺観光ガイド


 阿波の三好氏については、私のテリトリー外でもあり、うまく説明できるかわかりませんが、何か参考になることもあるかもしれませんので、当日歩いた中で主な史跡について順次記していくことにします。

 早朝、東京から新幹線に乗って、大阪へ。地下鉄などを乗り継ぎ、南海電鉄・堺駅へ。
 南海・堺駅

 文化財特別公開中の土日に限り、無料で史跡を巡回するバスが出ているということでしたが、訊いてみると一方通行しか動いていないというのです。その順路だと一日のうちにとても見切れそうもないので、無料バスに乗るのを諦め、市電に乗って堺駅のもうひとつ隣の駅である七道駅方面へ向いました。これで40分くらい時間をロスしてしまいました。(最初から七道駅で降りればよかったのです) 逆順路で循環するバスもあれば便利でしたが、予算の都合もあるでしょうし、仕方ないですね。
 南海・七道駅

 駅出口の脇に、「鉄砲鍛冶射的場」および「放鳥銃定限記碑」がありました。堺は鉄砲の生産地として有名ですが、小浜民部丞という鉄砲名人がこの辺りに射的場を設け、子弟に対して砲術の訓練を施していたということです。
 鉄砲鍛冶射的場跡

 上の碑のある場所から駅を挟んだ逆側へと出て、街中を歩きます。この辺で、今回の催しのパンフレットを持った老夫婦に、「○○はどこでしょうか?」と道を尋ねられましたが、こっちも堺へ来たのは正直、今回初めてなので、「よそ者なのでスイマセンが・・・」と答えます(汗)

 海船政所跡 三好氏がこの付近に館を築いており、三好元長の頃「政所」の号を許されたといいます。往時は東西約650M、南北はその倍という当時としては相当の規模の館だったそうですが、今は石碑が残るのみ。
 海船政所跡


 鉄砲鍛冶屋敷跡 今も個人が住まっておられるようで内部は非公開でしたが、古い建物ですね。江戸時代のものだと思います。この辺りは鉄砲鍛冶の家が立ち並んでいたということです。
 鉄砲鍛冶屋敷跡


 ぷらぷら歩いて、先ほどの市電の通り道である大道筋(紀州街道)へ出ます。この道を南に向って戻っていくような感じで歩いていくことにします。
 紀州街道

      
 長くなるので続きます。


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大和大納言 豊臣(羽柴)秀長の墓

 当ブログですが、自分が実際旅したところを気の向くまま書いているのですが、最近ためしに統計をとってみたところ、全アクセスの6割近くがNHKの大河ドラマ関連で検索してきた人からのものでした。
 やはり全国放送ですから、それだけ影響が大きいと見え、ドラマを見てみて色々調べたり、関連史跡へ行ってみたり、という事を考える人が少なくないということでしょう。
 まあ、もっと他の記事にも出来れば目を通していただきたいと願うところですが、なかなか難しいものがありますね(苦笑)

 で、今年の大河ドラマ「江」に関するアクセスも割合多いのですが、ここ2,3回全然見ていなかったら知らない間に話が進んでいました。
 しかし、あまりに主人公の「江」がパワフル?過ぎて、豊臣秀吉をはじめ、周囲の男性たちの影が薄いのが気になります。
 そんな男性陣の一人が秀吉の弟である豊臣秀長(1540~1591年)。先々週くらいの回でとっくに亡くなっていました。もっと早くアップすればよかったのですが、一応書いておきます。

 豊臣秀長は豊臣秀吉の異父弟にあたります。よく秀長の内政面における働きが指摘されますが、軍事面でも多くの戦功を上げており、秀吉の傍らには常にこの人の姿がありました。秀吉の片腕ともいうべき人物です。秀吉が天下を取れたのも、ひとえにこの秀長の「縁の下の力持ち」の活躍ぶりがあってこそだろうと思います。
 温厚篤実な性格で他の武将たちからも人望があり、藤堂高虎など有能な家臣を多く抱えていました。
 天正13年(1585年)の四国攻めでは、秀吉の名代として10万の大軍を率い、長宗我部元親を下しました。この年の閏八月に大和・紀伊・和泉を与えられ、大和郡山へ居城、領国支配に力を注ぎます。

 大和郡山城
 大和郡山城


 天正15年(1587年)の九州の役では、1万五千の兵を率いて出陣し、日向・大隈方面から島津氏を追い、秀吉軍と挟撃して島津軍を撤退させ、島津家久が講和のため秀長のもとへ訪れています。この時の功績により、秀長は従二位大納言に叙任され、「大和大納言」と称するようになります。
 しかし、天正18年(1590年)頃より病が悪化し、小田原攻めにも参陣できないほどであったといいます。結局病は癒えないまま、翌天正19年(1591年)正月、大和郡山城にて秀長は病没しました。享年52歳。
 秀長の死後、箍が外れたように兄である秀吉の挙動はバランスを欠いたものとなっていきます。

 秀長のお墓は奈良県大和郡山市箕山町というところにあり、「大納言塚」と呼ばれています。
 大納言塚1

 秀長のお墓は土塀で囲まれ、五輪塔が建てられております。
 大納言塚2

 しかし、現地案内板によると、江戸時代になって秀長の墓地はかなり荒廃していたようで、安永6年(1777年)、秀長の位牌所となっている春岳院という寺の僧侶が現在のように整備したようです。徳川氏の世の中になって、秀吉の身内ということで、秀長のお墓も長い間省みられなかったということでしょうか。
 大納言塚3

 ※写真はすべて2008年6月撮影。


   
より大きな地図で 大納言塚 を表示
 
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松本駅・上田駅で買った駅弁

 JR松本駅で駅弁を買ったのですが、ちょうど間が悪かったというか、在庫がほとんどなかった。仕方がないので、売れ残っていたのを買いました。
 松本・イイダヤ軒さんの「山賊焼」
山賊焼1 山賊焼2

 ご飯の上にキャベツ、そのまた上に「山賊焼」と呼ばれる鳥のから揚げがのっていました。付け合せは、玄米ブッレド,山ごぼう,わさび漬,舞茸煮物,長芋天ぷら,杏ゼリー,レモン,パプリカ。お好みでふりかける塩が付いていました。
 感想は・・・味はまあまあというか、可もなく不可もなく、といった感じでした。これといって個性がない感じです。730円。価格が安いので、おトク感はありました。

 特急「しなの」の車内で食べました。「しなの」に乗ったのは実に15年ぶりくらい。
 この日は日曜日だったのですが、中はガラガラでした。
特急しなの


 ******************************

 帰京はJR上田駅から新幹線で。駅前の真田幸村像にバイバイしてきました。
 真田幸村


 午後5時過ぎですが、ここでも駅弁がほとんど売り切れていました。上田へは数回来ているんですが、もう少し早い時間でも毎度購入できる駅弁の種類が少ないなあ・・・という感じです。乗客数の関係上、あまり数量を置かないみたいですね。
 仕方がないので、「信州寺町弁当」(調整元・デリクックちくま)というのを買いました。1000円。
信州寺町弁当1 信州寺町弁当2
 
 栗おこわ・山菜おこわのお稲荷とか巻き寿司が入っていて、付け合せに信州アルプス牛の煮込みや信州ポークヒレかつ?が入っていました。味はまあまあ。自分的にはやはり特徴がない感じでしたが、それなりにボリュームはあったかも。男性の方にはおすすめかもしれません。
 以上でざっとですが、長野の小旅行は終わりです。
 
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荒砥城(後)

 つづき

 荒砥城の二の郭の櫓から本郭を見る。下側にあるのは二の郭の兵舎です。
 荒砥城8

 兵舎の中は小屋のようになっており、城の説明ビデオや2007年大河ドラマ「風林火山」でロケが行われたときの写真、台本などが展示してありました。「風林火山」のときは「海ノ口城」として撮影が行われましたが、たしか第8回くらいで登場したように記憶しています。 
     荒砥城9
    荒砥城10

 二の郭を出て、本郭へと進みます。
 荒砥城11

 本格には館(左)と兵舎があるのみでした。
 荒砥城12

 いざというとき、城主はこの小さな館へ入ります。寄せ手が本郭まで迫ったら、ここで切腹するんでしょうかね。
 荒砥城13

 本郭から二の郭を眺める。山城ですから、やはり景色が良い。戦国時代、敵の動きもここから一目瞭然だったことでしょう。
 荒砥城14

 これらの建物は発掘調査を元に、というより、どうやら推定復元なようですが、戦国時代の砦をイメージできる復元整備だということはいえると思います。
 今後も、大河ドラマをはじめとする戦国ドラマのロケ地として使用されるのでしょうね。
    荒砥城15

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日本100名城完全制覇と有名人の墓めぐり(掃苔)
日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

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