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武士の家宝

 5月の連休中から、ちょろちょろと各地へお出かけしていたのですが、ブログに書くのが追いつきません。なるべく、歴史好きな方へ向けてタイムリーな記事を・・・と思っているのですが、1日1記事をアップするのもやっとという感じです。反省点としては五稜郭を冗長に書きすぎました。気長に読んでいただける方のみ、よろしくお願いします。

 ところで先日、長野県千曲市にある長野県立歴史館へ行ってきました。この博物館へ来るのは今回が初めてです。
 長野県立歴史館

 現在、企画展「武士の家宝~かたりつがれた御家の由緒~」が開催されています。(7月3日まで)
 武士の家宝

 戦国時代、武田信玄・勝頼二代にわたって仕えた佐久地方の小豪族・依田信蕃(よだのぶしげ 1548~1583年)という武将がいて、この人は駿河の蒲原城代、田中城代、遠江の二俣城代を務めていたといいます。武田家滅亡後、信州は徳川方と後北条方とで武田の遺領を巡る争いがおきますが、このとき信蕃は信州の小豪族の中ではいち早く徳川方へ臣従し、近隣の小豪族に対して調略を行い、かの真田昌幸を徳川方へ引き込むことに成功しています。
 今回の展示では、この時依田信蕃が真田真幸を徳川方へ味方させたことに対する褒美として、徳川家康から拝領したという「金銀象眼短筒」というのが出展されており、銃身に雷神の絵が施されていて、印象に残りました。

 その後、信蕃は岩尾城を攻略中に受けた傷がもとで36という若さで死んでしまいます。
 後を継いだ長男・康国は父の功により家康から松平の姓を許されます。しかし、彼もまた小田原攻めの最中に陣中で殺害されてしまい、跡目は弟の康真が継ぎます。
 康真は家康に認められ、上州藤岡城で3万石を与えられます。天下普請を命じられる等、城持ち大名としての地位を築きつつあった最中、故あって家康の家臣と諍いをおこし、殺害してしまいます。
 家康の怒りを恐れた康真は高野山へ蟄居し、大名の地位を追われてしまいます。しかし、その後康真は名前を「加藤康寛」と改名し、縁あって家康の次男・結城秀康に出仕することになります。
 こうして、康真の子孫は代々、福井藩で家老を務める家柄となりました。

 それから260年後・・・明治維新後、康真の子孫は福井から先祖の土地である信州へ戻ったといいます。もちろん、長櫃に入った先祖伝来のお宝を持って・・・。
 しかし、なぜかこの康真の家に伝わった「家宝」は、その後理由は不明ですがまったく血縁関係のない同姓のあるお宅へと引き渡され、そのお家で大切に保管されてきたというのです。
 一方、本来の康真の子孫の方の所在は現在、不明だとのことです。
 
 こうして400年の歳月を経て、紆余曲折の中で伝えられた依田家の「家宝」ですが、武具、調度品などのほか、徳川家康の判物や豊臣秀吉の朱印状など、貴重な古文書も多く含まれていました。
 依田家の資料が一般公開されるのは今回が初めてで、まだまだ未解明の部分も多いそうですが、お近くの方はちょっとご覧になってみては如何でしょうか。

 それにしても、信州は昔から代々住んでおられる旧家の方が多く、いまだに「戦国時代」の話が語り継がれたりしているようです。長野県在住の知人から聞いた話しですが、「○○さんのお宅とは戦国時代、敵同士だった」とか、けっこう微妙な部分もあるのだとか(苦笑)
 信州の小豪族というと、私などはつい真田家を思い出してしまいますが、歴史館の学芸員さんに訊いたところ、依田氏というのは真田氏とほぼ同等くらいの家格だったそうです。
 私は信州の旅が好きで、度々訪れていますが、いつも出かける度に何かしら新しい発見があります。

 
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テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
ジャンル : 学問・文化・芸術

総司忌 2011

 去る25日(土)、新選組の一番隊隊長であった沖田総司(?~1868年)の墓参りへ行ってきました。
 私は取り立てて新選組のファンというわけではありませんが、これまで近藤勇、土方歳三、山南敬助、井上源三郎等の墓参りを行ってきましたので、主要メンバーの一人であった沖田の墓も・・・と思うのは自然のなりゆきだったのですが、彼の墓参にはある困難が伴っていました。
 その訳は、彼の菩提寺が沖田の墓を非公開にしていたからです。なんでも、今から三十数年前くらいにテレビドラマの影響で新選組のブームがあったとき、心無い人々が沖田の墓石を削り取って持ち去るなどのことがあり、それ以来、長らく墓参は認めていないということでした。
 その後、ある新選組の愛好団体が年に一度だけ寺に頼んで、沖田の慰霊祭を行う日は特別に参詣を認めるという話をだいぶ前に聞きました。ところが、新選組に詳しい人に聞いたところ、慰霊祭参加は有料だというのです。金を支払ってまで参詣したいとは思わなかったので、ずっとそのままになっていましたが、今年の慰霊祭は金を取らないという話を聞いて、初めて出かけてみた次第です。

 墓地の開放は25日の午前11時~12時までのわずか一時間のみということですので慌しく出かけましたが、沖田の菩提寺である東京・港区の専称寺(東京都港区元麻布3-1-37)へ着いたのが11時半ごろ。
 六本木ヒルズのすぐ裏手にある小さい寺でしたが、本堂の前には焼香の順番を待つ人たちで行列が出来ていました。
 専称寺3

 待つこと10分くらいで焼香を済まし、裏手の墓地へ。しかし、こちらもすでに長蛇の列が出来ていました。見たところ、9割方が10代~20代くらいの若い女性でした。ファン層も明らかに世代交代の波が来ているようです。
 専称寺2
 
 やはり10分程度待って、やっと墓地の中へ。狭い墓地でした。で、沖田の墓はこちら。彼の墓の脇に60代くらいのおじいさんが立っていて、いちいち見張ってるんですよね。関係者の人だか知りませんが、なんか圧迫感を感じ、落ち着いて墓参どころではありません。
 結局、彼の墓前にいたのはたった3秒くらいです(汗)。墓標を見ましたが、予想以上に墓石が朽ちており、刻まれているであろう戒名などがほとんど読めない状態でした。
 沖田総司の墓


 これまで、47都道府県で様々な寺参り、墓参りをしてきましたが、98%は檀家ではない一般人も墓参できるのが普通です。一方、墓地や拝観自体を非公開にしているのは圧倒的に禅宗(臨済宗、曹洞宗)の寺院が多いです。
 沖田の菩提寺は浄土宗らしいですが、浄土宗のお寺さんで墓地を非公開にしているというのは大変珍しいです。
 しかも、問い合わせの電話すら拒否している・・・というのは首をかしげたくなる面もなきにしもあらず、です。新選組ファンの人のHPやブログを見てみると、「専称寺へは問い合わせの電話は絶対にしないでください。一人でも電話する人がいたら翌年から墓参が出来なくなります」の文言が必ず記されているのですが、少々閉鎖的すぎるのでは・・・と違和感があります。
 
 お寺さんもそれぞれお考えや都合があると思うので、拝観・墓地非公開はやむを得ない面はあると思っています。私もそういうお寺さんに無理にお願いしてまで墓参をしようと思ったことは一度もないですし、最初から墓参はいさぎよく諦めてます。
 ただ、個人的には今年は増上寺さん(こちらも浄土宗です)ですら徳川宗家の了解のもと、お江や徳川将軍の墓がある徳川家墓所を特別公開したりしていますし、他のお寺さんでも大名家や明治の元勲のようなエライ人の墓も何の気兼ねもなく普通に参詣することが出来ます今日、沖田の菩提寺ももう少し、一般人に対して許容性があっても良いのでは・・・とも思うんですね。

 専称寺1


 沖田総司がここまで「人気」を博したのは、やはり「新選組血風録」「燃えよ剣」を書いた司馬遼太郎の影響が大きいと思います。司馬の描き出した「幻影」に影響されている人たちがいまだにあまりにも多いのです。
 司馬があのように、明るく無邪気でありながら、剣をとっては滅法強い沖田のキャラクターを生き生きと描きださなければ、あそこまで人気を博すことはなかったでしょう。
 これだけ多くの人たち・・・しかも妙齢の女性たちが偲んでくれるとは、結核のため早世し、「薄幸の美剣士」のイメージがつきまとう沖田総司にとっては幸せなことなのかもしれません。
 司馬は偉大なストーリーテラーだった・・・などとしばし感慨にふけりながら、寺を後にしました。
 門前には、名残惜しいのか墓参終了後もたむろしている若い女性たちが多く見られました。



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tag : 有名人の墓(あ行)

黒駒勝蔵の碑 (「甲州街道&アウトローの史跡」その4)

 東京・府中郷土の森美術館主催のバスツアーもこれで最後です。

 黒駒勝蔵の碑(笛吹市御坂町上黒駒町)
黒駒勝蔵の碑

 黒駒勝蔵は天保3年(1832年)、甲州八代郡上黒駒村の名主・小池嘉兵衛の次男として生まれます。彼もまた国定忠治のように、後に侠客にはなりましたが生家はある程度の家柄だったわけです。
 幼少期には村内神座山の檜峯神社神主武藤外記の私塾「振鷺堂」に学び、武藤外記の国学思想に影響を受けたといわれます。

 25歳のとき渡世人となり、隣村の侠客・竹居安五郎の子分となります。文久2年(1862年)、安五郎が獄死すると勝蔵は手下たちをまとめ、上黒駒村に勢力を張る甲州博徒の大親分に「成長」します。
 慶応4年(1867年)、勝蔵は黒駒一家を解散し、「赤報隊」に入隊。官軍側に与し、戊辰戦争に参加。仙台での戦にも従軍していたそうです。
 しかし、明治4年(1871年)正月いきなり捕縛され、同年10月明治新政府の手により斬罪に処されました。ひとたび維新が済んでしまうと、勝蔵のようなアウトローは新政府にとっては都合が悪かったわけで、侠客だった頃の因果を含められて死に追いやられていったのです。
 有名な清水次郎長と対立していたため、芝居などでは「敵役」のレッテルを貼られることが多い勝蔵でしたが、近年の研究で「草莽の志士」としても位置づけられております。アウトロー出身とは言え、新しい時代を願いながら、自らが与した官軍=新政府に裏切られて死んでいったある意味「悲劇の人」といえると思いますし、「明治維新」の負の側面でもあります。


 
【バスツアーの感想】歴史に詳しい学芸員さんが行程を組んだので、甲州街道沿いのマイナーな史跡を歩くことが出来て、いろいろ勉強になりました。府中市はこうした文化活動に力を入れているみたいで感心しました。

 
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柳沢吉保の墓

 柳沢吉保夫妻の墓
 柳沢吉保の墓1

 柳沢吉保(1658~1714年)は5代将軍・徳川綱吉にその才を愛され、一藩士から大名まで出世した人です。よく元禄赤穂事件(忠臣蔵)を扱った小説やドラマなどでは「黒幕」として登場しますが、実際はどうだったんでしょう。私も彼の事績を詳しく追ったことはないのですが、目端の利く、実務的能力があったことは確かなようです。また、東京駒込にある六義園を造成したことでも有名です。

 柳沢吉保の墓2

 吉保の先祖は、もともと甲斐武田氏に仕え、武田氏の支流であったといわれます。武田家滅亡後、その旧臣たちの多くが徳川家康に召抱えられたのですが、吉保の祖父もまたその一人でした。
 綱吉の引き立てにより、吉保は甲府15万石の大名に出世します。吉保にしてみれば、先祖ゆかりの土地に栄転して戻ってきたという感慨があったことでしょう。吉保は恵林寺を保護し、武田信玄の法要を執り行なったり、寺の修復をしたということです。
 正徳4年(1714年)に57歳で亡くなった後、甲府の永慶寺に葬られますが、跡を継いだ子の吉里が大和郡山へ転封となり、急遽恵林寺へ墓を移転・改葬しました。向って左側の墓塔は先に亡くなった正室・定子のものです。
 同寺の宝物館には吉保ゆかりの品々が納められています。

 これで恵林寺は終わりです。  つづく


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節電の夏にこの一言!心頭滅却すれば・・・ 快川和尚の墓

 武田勝頼を滅ぼした織田軍は恵林寺へ押し寄せ、潜伏保護されていた六角義弼らを引き渡すよう快川和尚に命じましたが拒否され、怒った信長は三門に快川和尚ら約100人の僧侶らを閉じ込め火を放ちました。
 天正10年(1582年)、快川和尚が壮絶な火定を遂げた際の一句が刻まれた石碑が三門の脇にあります。
 「安禅不必須山水 あんぜんかならずしもさんすいをもちいず
  滅却心頭火自涼  しんとうめっきゃくすればひもおのずからすずし」

心頭滅却すれば

 
 快川紹喜は臨済宗妙心寺派の僧侶で、美濃国の崇福寺住職でしたが、斎藤義竜(斎藤道三の息子)と折り合いが悪く、永禄4年(1561年)頃甲州へ逃れました。その後、武田信玄に迎えられ、恵林寺の住職となります。
 なお、信玄の葬式の際は導師を務めています。
 下の写真は快川和尚ら焼死した僧侶の遺骨塚です。
 快川紹喜の墓

 「心頭滅却すれば・・・」の一句は現在でも暑い最中、精神主義で乗り切ろうという意味で用いられることがありますが、今年もすでに熱中症で病院へ運ばれている方が多数おられたということで、中には命にかかわるほど重症の患者もいるとのこと。
 節電の夏とは言え、あまり無理しないようにしましょう。

                     つづく

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武田信玄、同信虎、武田家家臣、秋山信友の墓

 恵林寺 つづき

 夢窓疎石作庭の庭園を楽しんだあとは、恒例の墓参りです。


①武田信玄の墓 
 元亀4年(1573年)三河に攻め入った武田信玄は野田城を落とした後、病を得、甲斐へ引き返す途上に亡くなります。その遺言は「3年間、自分の喪を秘すように」というものでした。
 跡を継いだ息子の勝頼はこの遺言を守り、天正3年(1575年)4月当寺において快川和尚を導師として父・信玄の葬儀を行いました。
 現在の墓石は、信玄の100回忌の際に武田家縁者と旧家臣の子孫によって建てられたもののようです。
 墓へは本堂を通っていくので、拝観料を納めないと参詣できません。

 関連記事 武田家武将の墓/野田城
 
 武田信玄の墓

 
②武田信虎供養塔
 三門を入って、左手、一般人の墓地へ向う途中にポツンとあった信玄の父・信虎の供養塔。後年造られたものでしょう。
 そういえば、この間行った高遠にも供養塔がありました。

 関連記事 武田信虎の墓

 信虎は高遠で死んだ後、甲府の大泉寺で葬儀が行われており、そちらが菩提寺です。
武田信虎供養塔


 ③武田家家臣の墓
 主君信玄の墓の左側にありました。墓というより供養塔と思われますが、あの世でも主君をお守りしているということでしょうか。
 武田家家臣の墓

 
 ④秋山信友夫妻の墓
 「武田24将」の一人・秋山信友は元亀4年に美濃の岩村城を落とした後、女城主であった織田信長の叔母(遠山景任未亡人)と結婚し、岩村の城将となりますが、天正3年の長篠の合戦後孤立した岩村城を織田信忠の軍勢が取り囲み、やむなく城を開城したもののすぐ捕えられ、妻と共に逆さ磔にされたということです。
 ですから、この供養塔は秋山氏の一族が後年建てたものと思われます。墓は境内の左手、一般人の墓地にあります。
 秋山信友夫妻の墓

                           つづく

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tag : 有名人の墓(た行) 有名人の墓(あ行)

2013年NHK大河ドラマ「八重の桜」主演は綾瀬はるかさん

 今日の午後知ったのですが、再来年のNHK大河ドラマについてNHKより正式発表があり、タイトルは「八重の桜」、主人公の新島八重を演じるのは女優の綾瀬はるかさんだそうです。

 ⇒ソース NHKドラマHP

 先日、速報を掲載した(過去記事⇒「2013年NHK大河ドラマの主人公は新島八重」参照)ので、誤報ではなくてホッとしています。私は主人公は松下奈緒さんかなあ・・・と予想していたのですが、見事にはずれてしまいました。脚本は「ゲゲゲの女房」を書いた方だそうです。

 でも、速報時のエントリーでも書いたのですが、脚本がまずいとどうしようもありません。会津藩や戊辰戦争についてしっかり描いていただけるよう、会津市長さんや会津の方たちは今からしっかりとNHK側に要望しておいたほうがいいと思いますよ。
 でないと、最近の傾向から言えば、主人公が長州や土佐の人間といつの間にか「お友達」ということにもなりかねません。
 とりあえずは会津藩内や新選組である程度前半の話の筋は作ることが出来ると思いますけどね。。。


 ところで、当ブログの人気記事のトップ10を調べたところ、数日のうちに一位になったのが新島八重に関することなので、この一件に関する世間の関心の高さをうかがわせます。(右カラムをご覧ください⇒)


☆関連アンケート☆(お時間のある方だけお答えください)



 
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テーマ : NHK
ジャンル : テレビ・ラジオ

恵林寺 (「甲州街道&アウトローの史跡」 その3)

 つづき
 「アウトロー」とは直接関係ありませんが、甲州街道近辺でどこか古刹の寺に寄ろうという学芸員さんの意向で、乾徳山 恵林寺へ寄ることにしました。
 恵林寺は元徳2年(1330年)に、甲斐国の守護職であった二階堂貞藤(道蘊)が笛吹川上流の所領牧荘を寄進し、夢窓疎石を招き開山。二階堂氏邸を禅院としたのが始まりだということです。、後に戦国大名・武田信玄が菩提寺と定めた臨済宗妙心寺派のお寺です。

 四脚門(国重要文化財)
 黒門を入り参道を上がると見えてくるのが四脚門(赤門)で、織田信長によって全山が焼討ちにあった後、徳川家康によって再建された門。1606年の棟札が掲げられております。
 恵林寺四脚門


 三門(県文化財)
 甲斐武田氏を滅ぼした織田軍は恵林寺まで押し寄せ、寺に潜伏していた六角義弼を引き渡すよう快川和尚に要求したが拒否され、怒った信長が三門に快川和尚をはじめ100人の僧侶たちを閉じ込め、火を放ちました。
 天正10年(1582年)、快川和尚が壮絶な火定を遂げた際の一句「安禅不必須山水 滅却心頭自涼」はあまりにも有名です。
 恵林寺三門


 本堂内の参詣は有料です。受付で拝観料を支払います。(学芸員さんが一括して納めてくれましたが)
 恵林寺本堂

 玄関のところに、老師が筆を執った「風林火山」の衝立が。
 恵林寺 風林火山

 なんといっても見所なのは、夢窓国師が築いた池泉回遊式庭園です。昭和17年(1942年)に国指定名勝となりました。
 あいにく小雨模様の天気でしたが、雨に濡れた緑が鮮やかで、かえってそれも乙なものです。
 恵林寺庭園

 この日はあやめ?が見ごろでした。春夏秋冬、季節の折々に様々な表情を見せてくれる庭園です。
 恵林寺庭園2

 本堂を入り、うぐいす廊下を抜けたところにある明王殿に、武田不動尊が安置されております。
 武田信玄が31歳で出家したとき、京より仏師の斉藤康清を招き、対面で模刻させたという等身大の不動明王です。在りし日の信玄の表情をよく伝えているといいます。
 恵林寺 不動明王

 そういえば、大河ドラマ「風林火山」の中でもオープニングでも登場しましたね。
 

 このドラマもテーマ曲はとても良かったのですが、内容がイマイチでしたね。前にも書きましたが、当方小学生のときに原作を読んで常に手許へ置いて何度も読み返した好きな小説でしたが、ドラマのほうが中途半端な脚本、演出で終わってしまいとても残念でした。
                               つづく
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バスツアー「甲州街道&アウトローの史跡」 その2

つづき

③猿橋(名勝 大月市猿橋町猿橋)

 富士山の溶岩流の割れ目を侵食した桂川の深い渓谷に架かる橋。山口の錦帯橋、徳島のかずら橋と並ぶ日本三大奇橋の一つで、水面まで約30m、長さ約33m。
 西暦600年頃、推古天皇の時代に来日した百済の僧が、猿が繋がって対岸にわたる姿を見て築いたという伝説がある。現在の橋は1984年に架け替えられたもの。

 猿橋1

 谷が深く、橋脚を立てることが出来ないため、両岸から桔木(はねぎ)を4段に差出し、互いにせり持たせた上に橋桁をのせる構造になっています。
 猿橋2

 先日のエントリーで紹介した国定忠治が役人に追われ、この橋から川へ飛び込んで逃げたという逸話があります。
 猿橋3



 ④柏尾古戦場跡
 旧幕府若年寄の大久保一翁の命によって派遣された、新選組局長・近藤勇(幕命により大久保剛と変名)率いる「甲陽鎮撫隊」と、東山道先鋒(官軍)とが衝突し、戦闘が行われた場所。
 慶応4年(1868年)3月6日、わずか一日で甲陽鎮撫隊は壊滅し、生き残った者も散り散りとなって落ち延びていった。
 大久保一翁から渡された御手許金5千両、大砲二門、小銃500挺を貰いうけ、旧新選組の生き残り組とその他寄せ集めの兵を引き連れた鎮撫隊の一行は、ちんたら甲府へ向っていたら、一足先に官軍側に甲府城を占拠されてしまいました。
 せっかく持っていった大砲も組立てに手間取るなどしているうちに官軍がやってきて、あっという間に勝敗が決してしまいました。
 
 柏尾戦場跡1


 「誠」の旗を掲げた大久保剛こと近藤勇の石像がありました。
 柏尾戦場跡2


 関連記事⇒【新選組】近藤勇の首塚

                つづく

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バスツアー「甲州街道&アウトローの史跡」 その1

 先日のエントリーで紹介した東京・府中市にある府中郷土の森博物館で開催中の特別展「アウトローたちの江戸時代」の関連イベントとして、5月下旬に日帰りバスツアーというのに参加しました。
 参加者は約40名で、私は他所者でしたが、ほとんどの方が地元府中在住の方だったと思います。朝8時半に京王線府中駅前より出発いたしました。
 案内人は、今回の特別展を担当した学芸員Hさん。気象予報士の半井小絵さん似の女性です。
 この日はあいにく、関東地方は梅雨に入ったばかりとあって、朝から小雨の天気でした。
 京王バス

①小仏関所 (八王子市裏高尾町420-1)
 戦国時代にはその名の通り、小仏峠に関所があったが、天正8年(1580年)北条氏照が山麓の駒木野に関所を移した。後北条氏滅亡後、徳川家康も防衛上の重要な関所として整備した。

 小仏関所

 上の写真の手前のほうに平たい石が二つ見られますが、上の方が道中手形を置いた手形石で、下の方が通行人が手をついて通過の許しを乞うた手つき石で、両方とも当時のものだそうです。


②小原宿本陣(相模原市緑区小原698-1 電話042-684-4780 月曜休)
 小原宿本陣は、江戸時代に信州の高島・高遠・飯田三藩の大名及び甲府勤番の役人が、江戸との往復の時宿泊するために利用した。神奈川県下には東海道と甲州道中合わせて26軒の本陣があったが、現在でも建物が当時のまま残っているのはこの小原宿本陣のみで、平成8年に県の重要文化財の指定を受けた。
 この建物の当主清水家は後北条氏の家臣だったが、後北条氏減亡後当地に土着し、江戸時代は本陣・庄屋・問屋を兼務していたという。
 建物の建造年代は記録がなく定かではないが、築200年くらいと推定される。規模は、間口12間、奥行7間で土間妻側の裾を兜とした入母屋造りとなっている。
 小原宿本陣1

 鬼瓦にも「本陣」と記されています。
 小原宿本陣5

 大名が宿泊した上段の間。
 小原宿本陣2

 控えの間(手前)から上段の間を見る。庭園も当時の面影を残しています。
 小原宿本陣4

 建物の二階は薄暗かったが、江戸時代には養蚕に使用されていたとのことです。
 小原宿本陣3


 この小原宿は、江戸から9番目の宿で、小仏峠を前にして重要な宿場で、片継ぎの宿場(小仏宿から来た人や荷物を、与瀬宿を通り越して吉野宿まで継ぎ立てる。そのかわり江戸の方へは、与瀬宿から小原宿を通り越して小仏宿へ継ぎ立てる)として特殊な継ぎ立てをしました。
 旅籠は7軒あり、一般の旅人の他、富士山や身延山参拝の講の人たちも多く泊まらせたといいます。

                        つづく

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国定忠治の墓

 前回のエントリー(過去記事⇒「幕末維新遊侠列伝」)で紹介した、江戸時代後期の侠客・国定忠治(1810?~1851年)の菩提寺・養寿寺(天台宗 群馬県伊勢崎市国定町1丁目1235)です。写真はすべて2007年撮影です。
 養寿寺


 前回のエントリーで国定忠治の生涯をかいつまんで書きましたが、忠治は磔に処せられた後、その首は密かにこの寺へ運ばれました。
 当時の住職は忠治が子供の頃、読み書きを教えた人だったとかで、ここに忠治の墓(首塚)が建てられました。
 国定忠治の墓2

 伊勢崎市近辺は昔から博打のメッカでもあり、近代に入ってからもギャンブルに手を染めている人たちが忠治にあやかろうとして彼の墓石を削り取って持ち帰ったため、墓石はボロボロに傷み、今では墓石保護のため鉄柵で囲いがされています。
 その後、お寺さんでは忠治の墓石の隣に、「長岡忠治之墓」という大きな供養碑を建てました。(古いデジカメで撮ったので写りが悪いですが)
 国定忠治の墓1

 岩波新書「国定忠治」を著した高橋敏・国立歴史民俗博物館名誉教授が群馬大学にご在職の折、ゼミの学生さんたちを連れてたまたまこの寺を通りかかり、忠治の墓に参ったことからインスピレーションを得たのだそうです。
 その後、群馬県内でフィールドワークを重ね、少ない史料を読み解き、「国定忠治」をお書きになりましたが、忠治と彼が生きた時代をあますところなく描きだしています。
 
 近年地元では忠治を顕彰する動きもあったそうですが、いまだに忠治に対してネガティブなイメージを抱く人も多く、昨年でしたか忠治関連のイベントが中止になってしまったとか。
 彼の墓も地元教育委員会から史跡指定は受けていません。ですから、忠治の墓の案内板はお寺さんが独自で立てたものです。
 高橋先生のご著書にもある通り、天保飢饉の折に忠治が民衆を救ったことは史実であり、同時代に生きた代官で、水野忠邦の天保改革にも参与した官僚・羽倉外記でさえ、忠治のことを「劇盗」と呼び、単なる悪党ではない、という事を書き残しています。もう少しあたたかい目を向けてもよいのではないでしょうか。

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テーマ : 仏教・佛教
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tag : 有名人の墓(か行)

幕末維新遊侠列伝

 先日、東京・府中市にある府中郷土の森博物館にて「アウトローたちの江戸時代」という展示を見たと書きましたが、その関連行事として、5月下旬に講演会が行われました。
 講師は高橋敏・国立歴史民俗博物館名誉教授です。講演テーマは題して「幕末維新遊侠列伝」。
 高橋敏

 数年前、千葉県佐倉にある国立歴史民俗博物館において「民衆文化とつくられたヒーローたち」という展示があったのですが、それを企画されたのが当時同博物館にご在職だった高橋先生でした。たまたま私はその展示を興味深く拝見しましたが、その折の展示でも江戸時代に士農工商のシステムから落ちこぼれた人たちについて焦点をあてた内容となっていました。
 今回の府中郷土の森の展示でも、先生から数々の助言をいただいたとのことです。

 【講演要旨】
 「遊侠」の歴史は、どのように扱ったらよいのか。なぜ日本史(正史)から落ちこぼれたのか。歴史は少数の支配者、政治・経済・文化のエリートと羊のように従順な虐げられた大多数の民衆でつくられているわけではない。さまざまな顔、癖をもった種々雑多なひとびとが存在した。一部に社会制度、体制、生活組織からはみ出したり、排除されて枠外に生きるひと、また両者を行き来するひともいた。今回の府中博とパルテノン多摩の勇気ある展示は、これらのひとびとに光をあたえ、正史から稗史へ、稗史から正史へと、日本歴史の世界に引き戻そうとする画期的試みである。いわば、地域文化の創造のヌーベルバーグであるといっても過言ではない。
 もうそろそろ、歴史学が核になって関連諸分野、語学と連携して独自の歴史叙述と資料の編纂に着手すべきときがきたのかもしれない。


 
 先生は講演の中で、江戸時代後期から幕末にかけて「活躍」した5人の侠客を取り上げました。
 そのうち、一番話が長かったのが「国定忠治」です。かつて新国劇で演じられ、ご年配の方なら「赤城の山も今宵かぎりか」という忠治の名台詞はご存知かもしれません。しかし、最近の若い人にはあまり知られていないかもしれません。
 
 忠治は本名を長岡忠次郎といい、赤城山の麓、上州佐位郡国定村の豪農の家に生まれました。ですから元々下層階級の出というわけではなかったようで、忠治は幼い頃は寺子屋へ通い、読み書きも出来たということです。しかし、故あって若いうちから家を出て、所謂「無宿」になってしまい、実家の農家は忠治の弟さんが継いだそうです。
 
 生来剛毅な性格から、博徒の中でも信望を集め、やがて上州勢多郡大前田村の大前田英五郎の縄張りを継いで親分となり、かねてから英五郎と敵対していた間宿境町を拠点とする博徒・島村伊三郎を殺し、その縄張りを奪います。その後、一家を形成して上州に広く勢力を張る大親分となり、忠治に従う子分は200~300人ほどもいたといわれます。
 忠治が活躍したエリアはもともと、各藩の飛び地や旗本領などが複雑に入り組んでおり、そのため治安が悪く、こうしたアウトローたちが生み出されやすい土壌があったようです。

 折りしも、天保年間に大飢饉がおこると、忠治は自ら賭場で儲けた私財を貧窮にあえぐ民百姓へ配って救済したということです。この結果、忠治は博徒の大親分でありながら、地元の農民たちからも信望を得ました。
 
 ところが、幕府にしてみればこういうアウトローが勢力を伸ばすことはお上の権威にもかかわることで、忠治一派の摘発に乗り出すのです。やむなく忠治は赤城山を降りて、会津へと落ち延びますが、その間により所を失った子飼いの子分たちは次々と幕府に捕縛され、命を落としていきました。
 ほとぼりが冷めた頃、忠治はひそかに会津から戻ってきますが、あれほどたくさんいた子分たちも姿を消し、忠治自身「中風」に罹りほぼ再起不能となって知り合いの農家へ潜んでいたところを役人たちに急襲され、とうとう捕縛されてしまいます。

 そして直接の罪状は「関所破り」ということで、忠治は衆人注視の中で磔に処せられてしまいます。享年41歳。
 しかし、忠治の死後、地元の人々は天保大飢饉の時の救済を忘れずにおり、彼は「民衆のヒーロー」として伝説化していくというお話でした。

 忠治はたしかに賭場を経営し、人を殺したりもしているので今日の感覚からいけばどうしてもネガティブな印象を持たれがちですが、その一方で義理人情にも厚く、お上の代わりに飢饉にあえぐ民衆を救済したという一面を持ちます。ですから、一概に「悪人」と決め付けられないところがあります。
 
 私は同内容の講演を数年前に聞いているので、今回は「復習」といった感じで拝聴しました。詳しくは11年前に先生がお出しになった岩波新書「国定忠治」に出ているので、ぜひそちらをご一読いただければと思います。
 地域史や民衆史といったアプローチからも示唆に富んでおり、先生の代表作ともいえる一冊です。

 
国定忠治 (岩波新書 新赤版 (685))国定忠治 (岩波新書 新赤版 (685))
(2000/08/18)
高橋 敏

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 このほか、幕末に活躍した侠客のお話などもあったのですが、この短いスペースでは書ききれないので、改めて別のエントリーで書くことにします。
 この日の講演にも府中市民の方をはじめ多くの人が集まり、興味深く耳を傾けていました。先生のお話を聞いて、歴史は歴史ドラマで取り上げられるような有名人だけが作りあげていくものではなく、歴史の大きな波の中で埋もれていった人びとにも目を向けるべきだろうと思いました。

 関連記事 国定忠治の墓

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アウトローたちの江戸時代

 東京・府中市にある府中郷土の森博物館では、現在、特別展「アウトローたちの江戸時代」を開催しています。(6月26日まで)
 参考サイト⇒府中郷土の森美術館
  府中郷土の森博物館


 【展示趣旨】
 アウトローとは「OUT LOW」、つまり法から外れた無法者のことです。
 江戸時代のアウトローというと、国定忠治・清水次郎長などの侠客(きょうかく)、鼠小僧次郎吉・日本左衛門などの盗賊を思い浮カベる人が多いのではないでしょうか。もちろん彼らは紛うかたなきアウトローですが、この他にも江戸時代の戸籍である「宗門人別改帳」(しゅうもんじんべつあらためちょう)から名前を削除された舞暗(むしゅく)や、仕えるべき主君を持たない浪人など、様々なアウトローが各地を巡り歩いていました。

 江戸時代後期になると、彼らは江戸幕府の衰退と比例して社会問題化する反面、歌舞伎に登場し浮世絵に描かれるなど、庶民文化の中でヒーローとして取り扱われています。このような現象が起こった時代背景や社会動向を、様々な資料にあらわれてくるアウトローの姿から手繰ります。


 上の展示趣旨を読んでいただければわかる通り、江戸時代には士農工商のシステムから漏れてしまった人たちがけっこういました。無宿、博徒、囚人といったいわゆる「アウトロー」の実態は歴史の表層からはあまり見えてきません。
 しかし、彼らもまたたくましくその時代を生き抜いていました。しかし、時代が下るごとに彼らは社会のトラブルメーカーともなっていきます。
 今回、こちらの展示では江戸時代の府中近辺のアウトローについて古文書などの史料から浮かび上がらせた展示となっています。しかし、もともと人生の「裏街道」を歩いている人たちのことですから、彼らを物語る史料は少なく、ましてや府中近辺となると本当に限定されてしまいます。

 展示を拝見して、展示品の少なさを感じ、また府中近辺に土地勘がないとイメージがつかみにくいように思いましたが、その分、講演会や関連行事でフォローしていたという印象です。
 私は虚無僧がかぶっている「天蓋」という籠みたいなのと尺八がやけに印象に残りました。(虚無僧がアウトローかどうかはちょっと微妙ですが・・・)ある寺に保存されていた当時のものだということです。
 お近くの方は休みの日でもちょっと寄ってみては如何でしょうか。園内は緑豊かな自然に囲まれ、今ごろはあじさいが見ごろだと思います。
 加えて、同博物館にはプラネタリウムもあり、単に星空を映すのではなく、ストーリー性のあるプログラムなので、小中学生くらいのお子さんに人気です。

関連記事 
      幕末維新遊侠列伝
      バスツアー「甲州街道&アウトローの史跡」その1
 


 なお、東京・多摩市にあるパルテノン多摩歴史ミュージアムにおいても現在、「幕末任侠伝」というアウトローに関する展示を行っているそうです。(こちらは未見です)
 参考サイト⇒パルテノン多摩ミュージアム

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榎本武揚の墓

榎本武揚(1836~1908年)の墓
 榎本武揚の墓a


 函館「五稜郭」について書いてきましたので、その最後は箱館に「蝦夷共和国」という独立政府の樹立を目指しながら夢破れた幕臣・榎本武揚のお墓です。
 
 榎本武揚は天保8年(1836年)、江戸下谷御徒町に生まれました。父親の箱田良助はもともと備後国安那郡箱田村の郷士の出、後に伊能忠敬の弟子になった人で、後に幕府御徒士・榎本武兵衛という人の婿に入り、榎本円兵衛と名乗るようになりました。
 この円兵衛の次男として生まれたのが釜次郎、後の武揚です。父・円兵衛は自らは技術者であったにもかかわらず、息子には官吏の道を歩かせたかったようで、武揚は昌平坂学問所に入所します。しかし、学問所での成績はかんばしくなく、武揚は父と同じ技術者の道を志向するようになります。同じ頃、中浜(ジョン)万次郎の英語塾にも通っていたそうです。
 嘉永7年(1854年)、武揚は堀利ひろの小姓として蝦夷地へ赴き、樺太を巡検しています。この時の経験が、「蝦夷共和国」の原点ともなるのです。
 翌安政2年(1855年)、オランダの協力で長崎海軍伝習所が設立され、武揚も入所します。ここでは教官も感心するほど優秀な生徒だったようです。熱心に蒸気機関学、造船学、さらに物理や化学の教養も身に付けます。
 万延元年(1860年)、幕府はアメリカへ使節団を送ることになりました。この時、咸臨丸の艦長はかの勝海舟でしたが、海軍伝習所の卒業生の中から乗組員を選出したものの、武揚は選に漏れてしまっています。この頃から海舟と武揚は肌合いが合わなかったようです。

 文久2年、武揚は幕府よりオランダ留学を命じられ、専攻は蒸気機関学、軍艦運用に関わる諸科目と自然科学を学びます。
 この間、武揚は「観戦武官」としてデンマーク戦争を観戦します。その後、ライデンへ赴き国際法の勉強をします。
 慶応3年(1867年)3月、榎本は幕府が発注して完成した軍艦「開陽」に乗り、他の留学生と共に帰国します。
 帰国した武揚は軍艦役並として開陽への乗組を命じられます。技術者として歩んできた武揚に用意されたポストは「軍人」としての道でした。(慶応4年には海軍副総裁に任じられ、事実上の海軍トップになります)

 takeaki enomoto


 武揚が留学している間に国内の政治情勢は一変し、事態は風雲急を告げていました。武揚も一環して倒幕派との抗戦を主張します。
 慶応4年1月、鳥羽伏見の戦いで倒幕側との戦闘が開始されます。それに先立ち、海上でも薩摩の軍艦との戦闘が開始され、「開陽」は薩摩軍艦を攻撃し、追い込んだことで、武揚は開陽の実力を認識し、自信を深めます。
 鳥羽伏見の戦いで幕府軍の旗色が悪くなると、大坂城にいた将軍・徳川慶喜は側室や一部の側近を連れ、無断で開陽に乗船し、江戸へ逃げ帰ります。
 この時、将軍不在となった大坂城は大混乱に陥りますが、武揚は急いで城から武器、什器、書類、御金蔵からは御用金を富士山丸へ積み込み、負傷兵を艦隊へ収容しました。この時の武揚の冷静沈着な行動より多くの幕臣たちから人望を得たようです。

 新政府軍側の西郷隆盛と幕府側の勝海舟との間で話し合いがもたれ、江戸城が無血開城されると、徳川家に対する新政府の処置を不満として、武揚は抗戦派の旧幕臣とともに開陽、回天、蟠竜、千代田形、神速丸、美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸の8艦から成る旧幕府艦隊を率いて脱出します。途中暴風により咸臨丸は清水沖へ流され新政府側に拿捕、その他の船もぼろぼろという有様で仙台湾へ入港します。
 この頃、すでに会津藩をはじめ旧幕側の東北諸藩の敗色が濃厚となっており、武揚は新選組や奥羽越列藩同盟軍、桑名藩藩主松平定敬らを収容し蝦夷地へと向います。
 そして、箱館の五稜郭を占拠し、徳川家臣団の移住の地として「蝦夷共和国」という独立国家を樹立、入札(選挙)の実施により武揚は総裁となりました。国際法を熟知していた武揚は、多くの外国船が行き交う津軽海峡は国際海峡であり、箱館は重要な寄港地でもあり、そこで戦闘がおこれば必ずや欧米諸国が調停に入り、新政府も蝦夷の独立政権を認めざるをえないだろうと踏んだのです。

 五稜郭遠望


 しかし、追撃してきた新政府軍の猛攻はすさまじく、各地で戦闘に破れ、もはや劣勢が決定的となった頃、蝦夷征討軍海陸軍総参謀黒田了介(後の黒田清隆)は共和国政権へ降伏を呼びかけます。
 しかし、この時武揚は黒田の勧告を拒否し、オランダ留学時代から肌身離さず携えていたオルトラン著「万国海律全書」を灰燼に帰すのは惜しく、新政府の海軍提督へ伝えたいとして、黒田へ宛てて贈ります。(下の写真は札幌にある黒田清隆の銅像)
黒田清隆像

 5月18日、ついに武揚は松平太郎、大鳥圭介、荒井郁之助と共に五稜郭を出、新政府軍へ降伏しました。

 この後、武揚らは江戸辰口の牢獄へ収監されました。長州の大村益次郎らは武揚らの処刑を主張しましたが、薩摩の黒田清隆は武揚の傑出した才を惜しみ、新国家設立へ協力してほしいと助命嘆願を行い、2年余の後、武揚は釈放されます。
 
 その後、武揚は北海道開拓使として出仕しますが、明治新政府への参加は心の葛藤があったでしょうし、当然世間の武揚を見る目は厳しく、あの福沢諭吉なども武揚の変わり身の早さを批判したりしています。さぞかし肩身が狭かったことでしょう。
 それからの武揚の状況を簡単に記しておくと、明治7年(1874)海軍中将兼駐露公使となり、翌年樺太・千島交換条約を締結。海軍卿、駐清公使を経て第1次伊藤内閣逓相に就任。黒田内閣農商務相・文相、第1次山県内閣文相、第1次松方内閣外相等を歴任しました。
 そのほか、北海道開拓の経験から農業の重要性を認識し、東京農業大学の前身である徳川育英会育英黌農業科を設立して、自ら黌長を務めました。
 
 明治41年10月26日、榎本武揚はその波乱に満ちた生涯を終えます。享年73歳。東京都文京区にある吉祥寺に墓が建てられました。
 彼は晩年、功績により子爵に列せられたのですが、そのせいでしょうか、墓所も他の一般ピープルと比べかなり広かったです。門が設置され、一般の人たちは中へ入れません。
 榎本武揚の墓b

 榎本武揚にとって、薩摩の黒田清隆との出会いが第二の人生を決定づけたのですが、この時相手が黒田でラッキーだったと思います。黒田清隆は酒乱で奥さんを斬り殺したり、あまり良い話は伝わっていないのですが、榎本の助命の件は特筆すべき美談だと思います。
 薩摩武士はひとたび戦い、負けた相手には寛容なところをみせますが、黒田にもそういう一面があったということだと思います。榎本武揚と黒田清隆は生涯刎頚の交わりを結び、お子さん同士を結婚させたりしています。
 


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2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
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