武田信虎の墓
この土日、出かけておりましたので更新がストップしまして失礼しました。
さて、高遠の続きです。高遠城の中に「法幢院曲輪」という曲輪があることは先述しましたが、もともとそこには「法幢院」というお寺があり、後にこの寺は城外に移って「桂泉院」(伊那市高遠町東高遠2322)と名を改めました。
桂泉院には、甲斐の国主であった武田信虎のお墓があります。武田信玄のお父さんです。
武田信虎といえば、息子である信玄によって国外に追放されたことで有名です。
信虎には息子の逍遙軒信綱(信廉)によって描かれた肖像画が伝わっていますが、良くいえば容貌魁偉、悪くいうなら「タコ入道」みたいなおっさんです。ドラマや小説などではエキセントリックに描かれることが多いようです。
信虎は明応3年(1494年)正月六日、武田信縄の子として生まれました。蛇足ですが、信虎は生年月日がはっきりと記録に明記されているのでこれは当時としては珍しいです。なお、子の信玄も生年月日の記録が残っています。
永正4年(1507年)、父の死により14歳にて家督を継ぎます。しかし、信虎の家督相続早々、かねてより父・信縄と対立していた叔父の信恵が近隣の有力氏族と共に反旗を翻したため、信虎はこれを討ちとります。
それから先も、近隣の領主や駿河の今川氏とことごとく対立したため、信虎にとっては戦に継ぐ戦で気の休まる時がありませんでした。
永正16年(1509年)に信虎は甲斐府中に躑躅ヶ館を築き、守護所を移しました。翌永正17年(1510年)には長らく対立していた国人の大井氏と和睦し、大井氏の娘を正室として娶りました。(大井夫人)
大永元年(1521年)、今川氏配下の軍勢が府中に迫ってきたため、いったん要害山城に退きます。ここで大井夫人との間に出来た長男の晴信が誕生しています。
その後も詳しい経緯は省略しますが、信虎は相模の北条氏と争ったり、信濃を攻略したりと常在戦場の日々でした。こうして信虎は苦労して甲斐国内を統一していきます。
しかし、戦につぐ戦でやがて家臣も領民も疲弊してくるわけです。当然のことながら、身内の中から不満も募ります。
天文十年(1541年)5月、信虎は信濃国小県郡へ息子の晴信と共に攻め入り、勝利した翌月、長女の婿である駿河の今川義元の所へ赴いたのですが、晴信が兵を出して駿河と甲斐の国境を封鎖してしまったため、信虎は国へ戻ることが出来なくなってしまいました。
このクーデターは家臣の板垣信方や飯富虎昌が晴信を担ぎだしたことで実行されました。また、「甲陽軍鑑」には信虎が長男の晴信を嫌い、次男の信繁(典厩)に家督を継がそうとしたため、晴信が父親を排斥することにしたと記されています。
甲斐の領民たちはかねてから信虎の苛政に苦しめられていたので、皆この追放劇を歓迎したといいます。
しかし、越後の上杉謙信などは、晴信が親を追放したことを非難しています。
こうして息子と家臣によって追放された信虎はしばらく駿河の今川義元の元に滞在しましたが、義元の後を継いだ氏真と不和となったため上京して、足利将軍の相伴衆になっていたということです。
息子の信玄の死後も甲斐に戻ることは出来なかったものの、孫である勝頼と対面を果たし、信州高遠にて最晩年の一時を過ごしました。
そして、天正2年(1574年)3月、81歳をもって死去しました。当時の記録によると、葬儀だけは甲斐の寺で行っているようです。
信虎の人生は波乱万丈でしたが、息子の信玄よりも長生きしていますし、最期は孫の勝頼と対面を果たせて良かったですね。
なお、山梨県甲府市にある大泉寺にも信虎の供養塔があります。
桂泉院ですが、信虎の孫である仁科盛信の位牌があります。それは次のエントリーにて。
※関連記事 武田信玄、同信虎、武田家家臣、秋山信友の墓
さて、高遠の続きです。高遠城の中に「法幢院曲輪」という曲輪があることは先述しましたが、もともとそこには「法幢院」というお寺があり、後にこの寺は城外に移って「桂泉院」(伊那市高遠町東高遠2322)と名を改めました。
桂泉院には、甲斐の国主であった武田信虎のお墓があります。武田信玄のお父さんです。
武田信虎といえば、息子である信玄によって国外に追放されたことで有名です。
信虎には息子の逍遙軒信綱(信廉)によって描かれた肖像画が伝わっていますが、良くいえば容貌魁偉、悪くいうなら「タコ入道」みたいなおっさんです。ドラマや小説などではエキセントリックに描かれることが多いようです。
信虎は明応3年(1494年)正月六日、武田信縄の子として生まれました。蛇足ですが、信虎は生年月日がはっきりと記録に明記されているのでこれは当時としては珍しいです。なお、子の信玄も生年月日の記録が残っています。
永正4年(1507年)、父の死により14歳にて家督を継ぎます。しかし、信虎の家督相続早々、かねてより父・信縄と対立していた叔父の信恵が近隣の有力氏族と共に反旗を翻したため、信虎はこれを討ちとります。
それから先も、近隣の領主や駿河の今川氏とことごとく対立したため、信虎にとっては戦に継ぐ戦で気の休まる時がありませんでした。
永正16年(1509年)に信虎は甲斐府中に躑躅ヶ館を築き、守護所を移しました。翌永正17年(1510年)には長らく対立していた国人の大井氏と和睦し、大井氏の娘を正室として娶りました。(大井夫人)
大永元年(1521年)、今川氏配下の軍勢が府中に迫ってきたため、いったん要害山城に退きます。ここで大井夫人との間に出来た長男の晴信が誕生しています。
その後も詳しい経緯は省略しますが、信虎は相模の北条氏と争ったり、信濃を攻略したりと常在戦場の日々でした。こうして信虎は苦労して甲斐国内を統一していきます。
しかし、戦につぐ戦でやがて家臣も領民も疲弊してくるわけです。当然のことながら、身内の中から不満も募ります。
天文十年(1541年)5月、信虎は信濃国小県郡へ息子の晴信と共に攻め入り、勝利した翌月、長女の婿である駿河の今川義元の所へ赴いたのですが、晴信が兵を出して駿河と甲斐の国境を封鎖してしまったため、信虎は国へ戻ることが出来なくなってしまいました。
このクーデターは家臣の板垣信方や飯富虎昌が晴信を担ぎだしたことで実行されました。また、「甲陽軍鑑」には信虎が長男の晴信を嫌い、次男の信繁(典厩)に家督を継がそうとしたため、晴信が父親を排斥することにしたと記されています。
甲斐の領民たちはかねてから信虎の苛政に苦しめられていたので、皆この追放劇を歓迎したといいます。
しかし、越後の上杉謙信などは、晴信が親を追放したことを非難しています。
こうして息子と家臣によって追放された信虎はしばらく駿河の今川義元の元に滞在しましたが、義元の後を継いだ氏真と不和となったため上京して、足利将軍の相伴衆になっていたということです。
息子の信玄の死後も甲斐に戻ることは出来なかったものの、孫である勝頼と対面を果たし、信州高遠にて最晩年の一時を過ごしました。
そして、天正2年(1574年)3月、81歳をもって死去しました。当時の記録によると、葬儀だけは甲斐の寺で行っているようです。
信虎の人生は波乱万丈でしたが、息子の信玄よりも長生きしていますし、最期は孫の勝頼と対面を果たせて良かったですね。
なお、山梨県甲府市にある大泉寺にも信虎の供養塔があります。
桂泉院ですが、信虎の孫である仁科盛信の位牌があります。それは次のエントリーにて。
※関連記事 武田信玄、同信虎、武田家家臣、秋山信友の墓
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