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鳥居忠春の墓/阪本天山の墓

 武田信虎の墓があった桂泉院から続く眺望を楽しみながらゆく小道を「文学の径」と呼び、峰山寺(伊那市高遠町東高遠2317)という曹洞宗のお寺まで続いています。
 峰山寺には高遠藩の初代藩主であった鳥居忠春とその生母の墓があります。
鳥居忠春の墓

 鳥居忠春(1624~1663)は出羽山形藩・鳥居忠政の三男として生まれますが、兄の忠恒が跡継ぎのないまま死ぬと改易されましたが、祖父である鳥居元忠(関ヶ原前夜、伏見城籠城戦で討死)の功績により忠春に信州高遠藩3万2000石の所領が与えられました。
 しかし、この忠春という人は暴君だったようで、重臣たち7名を斬殺したり、領民に対しては苛政を敷き百姓が逃散したりしたため、悪政を憂えた侍医・松谷某に斬りつけられ、それがもとで死んだそうです。


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 阪本天山の墓
阪本天山の墓

 阪本天山(1745~1803年)は高遠藩の砲術指南。わが国初の可動式砲台「周発台」を開発しました。「周発台」は現在、高遠町歴史博物館に残されています。
 39歳で郡代の要職に抜擢され、藩の産業開発、文武の興隆に尽くしましたが、天明7年(1787年)に故あって失脚。家禄は没収されました。
 その後、さらに学問を究めるため西国へ赴き、長州では多くの門人に砲術や儒学を指導。その後、平戸藩へ迎えられました。
 享和3年(1803年)、病をえて長崎で客死。遺骸は長崎晧台寺へ葬られました。ですから、こちらの墓は子孫の人が建てた参り墓のようです。

 高遠城の大手門へ向う坂の中腹に、天山の屋敷跡があり、井戸が残されています。(高遠交番のすぐ裏)
阪本天山屋敷の井戸



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tag : 有名人の墓(た行) 有名人の墓(さ行)

諏訪御寮人(武田信玄側室 勝頼母)の墓

 2007年のNHK大河ドラマは井上靖原作の「風林火山」でした。4年前ですので、ご記憶の方も多いかと思います。
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 私はこの原作を小学6年くらいの時に初めて読みました。とても好きな作品で、何度も読み返して表紙もくたびれた本が今も手元にあります。
 ドラマ化されるというのでwktkしながら見たのですが・・・あまりにも原作とかけはなれているというか、まったく別のお話になっていたのでひどく失望しました。
 あのお話は、主人公の山本勘助と主君である武田信玄、その側室である諏訪頼重の女(作中では由布姫)の三角関係の話なのです。ところが、ドラマではその辺がしっかり描かれておらず、尻切れトンボで終わってしまったような感を受けました。
 そして、ヒロインである由布姫は某有名俳優さんと女優さんの娘が演じたのですが、この人がまた全然華がない感じで、この役は新人の彼女には荷が重かったようでした。
 最終回も酷い終わり方(首実検のやり方がおかしかった)だったので、せっかく全回録画していたものをすべて消去いたしました。唯一、板垣信方役の千葉真一さんだけが存在感がありました。

 ところで、私が学生時代、新田次郎原作の大河ドラマ「武田信玄」を放映していました。中井貴一さんが武田信玄を演じました。
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 こちらもヒロインは諏訪頼重の女で、実名がわからないので新田次郎は「湖衣姫」と名付けました。ドラマでは「ナンノ」こと女優の南野陽子さんが演じました。
 最近、DVDで見直してみたのですが、やはり南野陽子さんの「湖衣姫」のほうが断然良かったです。南野さんといえば、私の世代のアイドルで「スケ番刑事」のヒロインで一世を風靡したのですが、元々綺麗な方ではありますが、お姫様にふさわしい美しさ、華やかさがありましたね。
 (余談になりますが、このドラマで武田信玄は中井貴一さんが演じたのですが、聞いた話ですと、当初は松平健さんが信玄役で起用予定だったらしいです。しかし、スケジュールの都合で実現しなかったという話です)

 それから、古い作品になりますが、三船敏郎が山本勘助を演じた映画もあります。このDVDは我が家にもあるのですが、原作のイメージ通りの佳作です。ヒロインの「由布姫」は佐久間良子さんが好演しています。
 信玄が中村錦之助、上杉謙信が石原裕次郎という豪華キャストなので、未見の方は是非一度ご覧になってみてください。
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 前置きが長くなりましたが、今回のお墓は「由布姫」または「湖衣姫」こと「諏訪御寮人」のお墓です。高遠の「建福寺」(伊那市高遠町西高遠1824)という臨済宗の寺にあります。法名は「乾福寺殿梅厳妙香大禅定尼」です。
諏訪御寮人の墓1

 諏訪御寮人は武田信玄の妹婿で、後に信玄によって滅ぼされた諏訪頼重の妾腹の娘でした。彼女は亡父の敵である信玄の側室となり、一子勝頼を生みました。
 しかし、彼女の人生についてはまったくといってよいほどわかりません。わかっているのは信玄の側室になって勝頼を生み、弘治元年(1555年)にわが子・勝頼の成長を見ることなく若くして身罷ったことだけです。
 ですから、その生涯がいかなるものだったか、そして本名すら伝わらない「悲劇のヒロイン」なのです。
 諏訪御寮人の享年は24,5歳だったそうですが、後に息子の勝頼の代で武田家が滅亡したことを思えば、それを知らずに死んでかえって幸せだったのかもしれません。

 建福寺には、諏訪御寮人の墓(右)と並んで、武田氏滅亡後に高遠城主となった保科正直(中)、正光(左)のお墓があります。
諏訪御寮人の墓2

 三人とも死んだ年が隔たりがあるにもかかわらず、なぜかこの三基の墓は同じ形をしています。
 その理由ですが、後年、保科松平家の子孫が保科正直、正光の墓を建て替えた時、近くにあった諏訪御寮人の墓を保科家の所縁の者と勘違いして、同じような形の墓で建て直してしまったそうなんですね。
 ちなみに、保科正光は二代将軍・徳川秀忠の妾腹の子、保科正之の養父となった人です。

 このお寺さんの山門下には、江戸時代後期に造られた石仏が並んでいました。当時、高遠には守屋貞治という石匠がおり、彼とその弟子の作品だそうです。つい気づかずに通りすぎてしまうような場所にありますが、風情がありますね。
建福寺


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tag : 有名人の墓(さ行)

戦いの記憶

 武田信虎の墓のつづき。

 桂泉院には、織田信長の嫡男、信忠の軍勢が信濃に攻め入った時、飯田の方にある寺を焼討ちし、かっぱらってきたという梵鐘が残されています。陣鐘として使用したのだとか。
桂泉院梵鐘


 それから、同寺には信忠の軍勢に攻められて自害した仁科盛信の位牌が安置されています。
仁科盛信位牌殿

 運命を共にした家臣たちの位牌に守られるようにして、盛信の位牌があります。戒名は「蒼龍院殿源晴清公成嶽建功大居士」と記されてあります。諱が「盛信」ではなく、旧名の「晴清」となっていることが注目されます。
仁科盛信位牌

 仁科盛信は落城寸前、子供たちを他所へ避難させたため、今でも血筋を受け継ぐ子孫の方がおられ、供養も行われているようです。
 地元の人が遺骸を葬ってくれたり、位牌も残されているなど、仁科盛信が高遠城主であった期間はわずかな年月ではありましたが、彼の記憶は風化することなく、その後400年にわたり地元の人々に偲ばれていることがわかります。盛信がすぐれた武将であり、領民に愛された領主であったという証でしょう。


関連記事 仁科盛信の墓



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田中実さん自殺

 訃報です。俳優の田中実さんが自殺しました。
 昼過ぎのニュースで聞いてわが耳を疑いました。「いったい、どうして・・・」という感じです。

 田中さんですが、大ファンというわけではないのですが、好きな俳優さんの一人でした。彼のデビュー作となったNHK朝の連続テレビ小説「凛凛と」も見てましたしね。(最近ではまったく朝ドラを見ないのですが、この当時はよく見ていたんです)

 それから、今から数年前にTBS系列で「温泉へ行こう」という昼ドラマを放映していたんですが、私はこのドラマをよく毎回楽しみに見てたんです。田中さんは主演の加藤貴子さんの相手役で出演されていたのですが、肩の凝らないなかなか面白いドラマだったんですよね。きっとご覧になったことのある方も多いのでは?

 何で自ら命を絶ったのですかねえ。刑事ドラマや2時間SP、それから子ども向け特撮に至るまでいろんなドラマにも出ておられましたし、CM等でもよく見かけました。背も高く、さわやかな二枚目でいらしたのに。
 いつも真面目そうな印象でしたし、きっと繊細な方だったのでしょうね。悩みとかあっても、全部自分の中に溜め込みすぎてしまったのでしょうか?
 田中さんは仲代達矢さんの「無名塾」のご出身で、その辺のぱっと出の俳優とは一線を画してたのに、とても残念です。ほんとにもったいない。何も死ぬことはなかったのに。
 今日はちょっと凹み気味ですので、ブログの続きは明日書かせていただきます。田中さんのご冥福をお祈りいたします。
 
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武田信虎の墓

 この土日、出かけておりましたので更新がストップしまして失礼しました。

 さて、高遠の続きです。高遠城の中に「法幢院曲輪」という曲輪があることは先述しましたが、もともとそこには「法幢院」というお寺があり、後にこの寺は城外に移って「桂泉院」(伊那市高遠町東高遠2322)と名を改めました。
 桂泉院には、甲斐の国主であった武田信虎のお墓があります。武田信玄のお父さんです。

武田信虎の墓

 武田信虎といえば、息子である信玄によって国外に追放されたことで有名です。
 信虎には息子の逍遙軒信綱(信廉)によって描かれた肖像画が伝わっていますが、良くいえば容貌魁偉、悪くいうなら「タコ入道」みたいなおっさんです。ドラマや小説などではエキセントリックに描かれることが多いようです。
 信虎は明応3年(1494年)正月六日、武田信縄の子として生まれました。蛇足ですが、信虎は生年月日がはっきりと記録に明記されているのでこれは当時としては珍しいです。なお、子の信玄も生年月日の記録が残っています。
 永正4年(1507年)、父の死により14歳にて家督を継ぎます。しかし、信虎の家督相続早々、かねてより父・信縄と対立していた叔父の信恵が近隣の有力氏族と共に反旗を翻したため、信虎はこれを討ちとります。
 それから先も、近隣の領主や駿河の今川氏とことごとく対立したため、信虎にとっては戦に継ぐ戦で気の休まる時がありませんでした。
 永正16年(1509年)に信虎は甲斐府中に躑躅ヶ館を築き、守護所を移しました。翌永正17年(1510年)には長らく対立していた国人の大井氏と和睦し、大井氏の娘を正室として娶りました。(大井夫人)
 大永元年(1521年)、今川氏配下の軍勢が府中に迫ってきたため、いったん要害山城に退きます。ここで大井夫人との間に出来た長男の晴信が誕生しています。

 その後も詳しい経緯は省略しますが、信虎は相模の北条氏と争ったり、信濃を攻略したりと常在戦場の日々でした。こうして信虎は苦労して甲斐国内を統一していきます。

 しかし、戦につぐ戦でやがて家臣も領民も疲弊してくるわけです。当然のことながら、身内の中から不満も募ります。
 天文十年(1541年)5月、信虎は信濃国小県郡へ息子の晴信と共に攻め入り、勝利した翌月、長女の婿である駿河の今川義元の所へ赴いたのですが、晴信が兵を出して駿河と甲斐の国境を封鎖してしまったため、信虎は国へ戻ることが出来なくなってしまいました。
 このクーデターは家臣の板垣信方や飯富虎昌が晴信を担ぎだしたことで実行されました。また、「甲陽軍鑑」には信虎が長男の晴信を嫌い、次男の信繁(典厩)に家督を継がそうとしたため、晴信が父親を排斥することにしたと記されています。
 甲斐の領民たちはかねてから信虎の苛政に苦しめられていたので、皆この追放劇を歓迎したといいます。
 しかし、越後の上杉謙信などは、晴信が親を追放したことを非難しています。

 こうして息子と家臣によって追放された信虎はしばらく駿河の今川義元の元に滞在しましたが、義元の後を継いだ氏真と不和となったため上京して、足利将軍の相伴衆になっていたということです。
 息子の信玄の死後も甲斐に戻ることは出来なかったものの、孫である勝頼と対面を果たし、信州高遠にて最晩年の一時を過ごしました。
 そして、天正2年(1574年)3月、81歳をもって死去しました。当時の記録によると、葬儀だけは甲斐の寺で行っているようです。
 信虎の人生は波乱万丈でしたが、息子の信玄よりも長生きしていますし、最期は孫の勝頼と対面を果たせて良かったですね。
 なお、山梨県甲府市にある大泉寺にも信虎の供養塔があります。
 
 桂泉院ですが、信虎の孫である仁科盛信の位牌があります。それは次のエントリーにて。


 ※関連記事  武田信玄、同信虎、武田家家臣、秋山信友の墓
 
 
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tag : 有名人の墓(た行)

仁科盛信の墓

 天正10年(1582年)3月。武田信玄亡き後も甲斐攻略を虎視眈々と狙っていた織田信長の命を受け、その嫡男信忠率いる5万の大軍が高遠へ攻め入りました。
 その時、城を預かっていた信玄の5男で当主・勝頼の異母弟である仁科五郎盛信とその家臣らは攻め寄せる織田勢相手によく防いだものの敵方の猛攻の前にやがて力尽き、高遠城内において壮烈な最期を遂げました。高遠城は落城します。

 盛信の首級は敵方にもっていかれましたが、織田軍が甲州へ向けて去った後、地元の領民が残された遺骸を三の丸の南の池で清め、三峰川のほとりに葬りました。後に城の南にある小高い山に祠を築き、そこへ祀りました。
 盛信の墓があるその山を、人々はいつか「五郎山」と呼ぶようになりました。
五郎山

 麓から歩くと25分くらい。車だと10分弱で行かれます。
 仁科盛信の墓。死んだ時、まだ25,6歳という若さでした。
仁科盛信の墓2

 仁科盛信の石像。父・信玄譲りの豪胆な武将でありました。落日の武田家にあって兄・勝頼を支え、死力を尽くして戦いました。
仁科盛信石像

 この日、山奥の墓だし誰もいないだろうとタカをくくって行ったところ、お墓のところで山登り中のご年配のグループに出くわしてしまいました。
 そのうち去るだろうと思っていたら、皆さんお墓の前で敷物を敷き、お弁当タイムになってしまいました。
 いつもなら、墓前で静かに祈りを捧げるのですが、これでは無理ですので、早々に退散しました。
 ああ、なんと間が悪い・・・。以前からずっと墓参りをせねば!と思い入れていた武将なのに。

仁科盛信の墓1

 当ブログでは天晴れな「もののふ」の足跡を追い求めていますが、仁科盛信はそれにふさわしいし、好きな武将です。
 五郎山もそろそろ桜色に染まる頃でしょう。


 関連記事 戦いの記憶

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絵島の墓

 つづき

 自らの失態が招いたこととは言え、大奥ひいては江戸城表の抗争に巻き込まれ、信州高遠へ終身預けの身となった大奥・大年寄絵島のことを紹介しました。
 絵島は高遠の地で27年という長きにわたり幽閉生活を送ったわけですが、晩年は城下にある日蓮宗の寺へ通うことを許され、住職の説法を聞き、心の平安を得たといいます。

 寛保元年(1741年)、絵島は病を得てこの世を去りますが、「もし相果て候はば、日蓮宗にて候」との遺言だったため、遺骸は晩年通った蓮華寺(伊那市高遠町105)へ葬られることになりました。

 お墓は寺の奥まったほうにある七面堂の右方にあります。(案内板があるのですぐわかります)この日は私共のほか、訪れる者もなく、境内はひっそりとしていました。
絵島の墓1

  絵島の墓2

 絵島の生涯を哀れに思う人が少なくないようで、高遠を訪れた文人墨客は絵島の墓も忘れずに参詣したとか。

 絵島の墓の左手には、彼女をかたどったと思われる女性の石像が置かれた永代供養墓がありました。ここには身寄りのない女性が入れるお墓となっているようです。
絵島の墓3

 仏教の中でも、女人成仏を説いているのは法華経の中の「提婆達多品第十二」だけです。おそらく彼女はそこに救いを求めたのだろうと思います。

 ところで、絵島が贔屓にしていた美男役者の生島新五郎とはどういう関係だったのでしょうか。これについては詳細はよくわかっていないようです。果たして、単なるファンと役者の関係だったのか、それとも二人は恋愛関係だったのか。
 古くからこの点について興味をそそられる向きが多いと見え、近年でも芝居やドラマの題材となっています。
 最近では女優の仲間由紀恵さんが絵島を演じた映画がありましたね。
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 それにしても、大奥って女性の欲望と嫉妬が渦巻く世界というか・・・もし私が江戸時代の人で、旗本御家人の娘だったとしても、こういう世界ではとても勤まらないような気がしています(汗)

 
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絵島囲み屋敷

 つづき
 高遠町歴史博物館に隣接して、小さい木造の平屋があります。これを「絵島囲み屋敷」といいます。
絵島囲み屋敷1

 江戸時代中期、江戸城大奥で権勢を極めた絵島という名の上臈がいました。
 絵島は御家人の娘で、最初紀伊徳川家の奥向きに仕えていましたが、やがて甲府の徳川綱豊(後の六代将軍家宣)の側室であるおきよの方のもとへ出仕します。
 甲府綱豊が将軍になると、おきよの方に伴い絵島も大奥に移りますが、彼女は才色兼備であり、細やかな気働きもあったようで、おきよの方からの信頼も厚かったといいます。
 正徳二年、家宣は51歳でこの世を去りますが、家宣の子はおきよの方が生んだ四歳の鍋松丸しかいなかったので、この鍋松丸が世継となり、七代将軍・家継となります。
 おきよの方は髪を下ろし「月光院」と名乗るようになりますが、将軍の生母として大奥で権勢を振るうようになります。月光院の引き立てもあって、絵島は「大年寄」という大奥の女中達を取り仕切る地位にまで出世します。

 正徳4年、絵島はお供を従えて前将軍家宣の墓参に出かけますが、その帰り、木挽町にあった山村座という芝居小屋に立ち寄ります。山村座にはこの頃生島新五郎という当代きっての美男役者がいて、おそらく彼がお目当てだたったのでしょう。
 芝居見物の後、生島新五郎ら役者を呼んで御茶屋で酒宴となりましたが、時がたつのも忘れ杯を重ねていたところ、大奥の門限に遅れてしまいます。大奥七つ口の門限は午後4時ごろだったということです。

 この一件が江戸城中で評判となり、幕閣もこれを問題視したことから、たちまち一大スキャンダルに発展してしまいました。
 当時、大奥では前将軍家宣の正室である天英院と、将軍世子の生母である月光院が対立していましたが、かねてから月光院の権勢を苦々しく思っていた天英院はまさに好機到来といわんばかりに絵島の門限破りの一件を利用し、月光院やその子・家継に仕える新井白石、側用人間部詮房らを追い落としにかかりました。

 こうして、政争の具に利用された絵島は罪に問われ、死一等は減じられて信州高遠藩へお預けになってしまいました。実質的な流罪です。この事件で山村座は廃座となり、生島新五郎も三宅島へ流罪と決まりました。実に1500人もの処罰者が出たという大事件に発展したのです。

 高遠に流された絵島は、最初お城から一里ほど距離のある場所へ幽閉されますが、5年後にこの地に移動させられたということです。
 なお、絵島の囲み屋敷は当時の絵図に基づく復元です。間取りは以下の写真のように狭いです。
絵島囲み屋敷6

 絵島が幽閉の日々を過ごした八畳の間。罪人ということで、一年中裸足のままで、冬でも足袋を履くことを許されなかったとか。 
絵島囲み屋敷3

 しかし、窓には「はめころし」と呼ばれる格子戸がつけられ、庭にも一切出られません。(写真は2007年時)
絵島囲み屋敷4

 絵島の居室に隣接して番人の詰所があり、絶えず監視下に置かれます。これでは気が休まる間もありません。
絵島囲み屋敷5

 至るところに格子戸が付けられ、外界と接触できないようになっています。屋敷の周りも「武者返し」のついた塀で厳重に囲まれていました。(写真は2007年時)
 絵島囲み屋敷2

 絵島はこの牢屋敷で、寛保元年(1741年)61歳で死ぬまで27年間を過ごしました。油断して羽目を外しすぎたことが彼女の人生を狂わせました。ただ、前にも書いたように政争の具に利用され陥れられたという背景があり、気の毒な限りです。
 この屋敷は5分くらいあれば見られます。(内部には入れません) 
 次はかわいそうな絵島さんのお墓参りを⇒「絵島の墓」へ。

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高遠町歴史博物館/96城目制覇

つづき 
 桜を見に行ったのに、全然咲いてない・・・というトホホな結果だったのですが、ここまで来たら100名城のスタンプは忘れずに押印して帰らねばなりません。
 以前、スタンプは城址公園内の「高遠閣」の中にあったそうですが、昨年あたりに高遠町歴史博物館というところに移されたというのでまずそこへ向います。

 公園の南ゲートを出て、南へ向って歩きます。途中、出店が出ていたので「さくらソフトクリーム」を。「すずらん牛乳」という信州産の牛乳を使用しているんだとか。私はアイス系は大好きなので、ちょっと気を取り直しました(笑)
さくらソフトクリーム

 歩いて5分足らずで高遠町歴史博物館に到着。高遠の郷土関係の史料を収蔵しています。
 桜の時期は、城址公園入場券を提示すれば入館料を100円割り引いてくれます。(通常料金 大人400円 小・中学生200円) 4月中は無休で開館しています。
高遠町歴史博物館

 入口を入ったところに100名城スタンプを発見し、無事押印。これで96城目です。
高遠城スタンプ

 同博物館では春の収蔵展が開催中でした。武具や古文書等が展示されており、さらっと見学。
 受付でこの後の恒例の墓めぐりについて、係の方に相談。ていねいに対応していただけました。

 無事スタンプもゲットし、博物館を出ます。入口を出てすぐ左手に、保科正之とその正母・お静の石像がありました。4年前に来たときはなかったので、最近出来たものと思われます。
保科正之公像・お静地蔵

 保科正之(1611~1673)というのは、徳川幕府二代将軍・徳川秀忠の妾腹の子で、三代家光の異母弟にあたる人物です。なかなかの名君として知られ、幕閣の重鎮でもありました。
 徳川秀忠ですが、正室は今年の大河ドラマの主人公であるお江。姉さん女房をもらったということだけあって、お江には頭の上がらなかった恐妻家というのが定説です。ただ一度だけ、「出来心」からお静という女に手をつけてしまい、お静は懐妊してしまいました。月満ちて生まれた男児は幸松と名付けられます。これが後の保科正之です。
 嫉妬深いお江をはばかった秀忠は幸松の扱いに困り、自分の子として認知せず、幸松を武田信玄の娘で穴山信君夫人であった見性院に託します。
 長じて幸松は信州高遠藩主・保科正光の養子となり、保科家の人となります。
 ですから、この高遠は保科正之が若き日を過ごしたゆかりの土地でもあるわけです。
 このように保科正之は複雑な生い立ちでしたから、人一倍気配り上手でもあり、異母兄にあたる家光からもその人柄を愛され、信頼されていたということです。

 だいぶ以前から、高遠町では「保科正之を大河ドラマに!」という大河ドラマ誘致運動に力を入れていて、署名活動なども行っているようです。
 保科正之・・・なかなかひとかどの人物でもあり興味深いのですが・・・。
 一年間のドラマの主人公としてはどうでしょう。彼にまつわるエピソードですとか、少々ドラマ性に欠けるような気がしないでもありません。地元の方々の熱意に水を差すようで申し訳ないのですが、私見で言わせていただくと少々難しいものがあるように思いました。
 結局、大型ドラマの主人公というのはやっぱり限られてくるんですよね。どこぞのドラマのように、事跡がほとんどわからない人を無理やりヒーローやヒロインに仕立て上げても、ドラマが進むにつれて次々と話に無理が出てくるんですよね。
 ですから、お正月の特集ドラマなどでやる分には良いのではないか、と思われます。

 博物館の付近からは高遠湖と南アルプスが見えました。私は海よりも山のほうが好きなので、信州の山並みを眺めると癒されます。
 南アルプス

 博物館脇の駐車場の桜。数厘咲いていて、どこかのバスツアーの客がその下でお花見弁当を食べていました。
 DSCF1520.jpg

 次回は恒例の高遠お墓巡りです。


 おかげ様で96城制覇。いつも応援有難うございます↓
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春色に染まる高遠城3

つづき

本丸から南曲輪へ架けられた橋を渡ると南曲輪へ出ます。
高遠城南曲輪
下の写真は南曲輪から本丸を眺めたところです。高遠城は曲輪ごとの堀切が比較的良好に残っています。
高遠城本丸付近
高遠城堀切2

 
南曲輪と法幢院曲輪を結んだ橋を「白兎橋」といい、昭和13年に地元の広瀬省三郎という人が架けるまで、ここに橋はありませんでした。
高遠城白兎橋

法幢院曲輪。かつてここに、法幢院という寺があったのですが、後に城外へ移り、桂泉院と名を変えました。(後述)
高遠城法幢院曲輪1

高遠城法幢院曲輪2

まだ桜が咲いていなかったので、冠雪している中央アルプスが遠望できました。
中央アルプス

この辺も掘切がよく残っています。
高遠城堀切

以上で高遠城を見終わり、南ゲートから外へ出ました。
振り返れば、1時間もいなかったように思います。桜がないと本当に見所の少ないお城のように思います。
南ゲートを出たすぐのところの木に、たった二輪ほど花がついていた。。。
高遠城南ゲート桜

「春色に染まる高遠城」というタイトルをつけてみましたが、いかんせんちょっと早すぎました。
どこかの観光客の「去年はとっくに咲いてたのにねえ・・・」とため息まじりの声が聞こえましたが、やはり今年は少々開花が遅かったようです。高遠の観光サイトによると、今日(18日)やっと満開になったそうです。
 同行した連れは桜が見られずがっかりしていましたが、お城については「高天神城のほうが良かったかも・・・」と言っていました。
 高遠城はやはり桜がメインになるという感じですね。桜が無いと取り立てて見所が少ないです。
※なお、「勘介曲輪」だけ撮影し忘れました。三の丸の道を挟んだ目の前の広い駐車場になっているところです。この時期は大型バスがたくさん停まっています。名前からしてわかるように、武田信玄の軍師といわれた山本勘助が縄張りしたといわれています。

 参考サイト 高遠さくら祭り2011

 次はお城の周辺の史跡めぐりなどを。

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春色に染まる高遠城2

 高遠城は三峰川と藤沢川の段丘上にある山城です。天文14年(1545年)、甲斐の武田信玄が高遠城に拠っていた諏訪氏の庶流である高遠頼継を追い出し、自分のものとすると、大規模な改修を行いました。すなわち天然の要害に築かれた城だということが出来ます。

 桜の時期は城址公園に入るのは有料(大人500円 小人250円)となります。通常は四つのゲートがありますが、今年は太鼓櫓老朽化に伴い安全確保のため西ゲートが封鎖され、グランドゲート、北ゲート、南ゲートの3箇所から出入りできるようになっています。
 どこから入ってもいいのですが、藩校進徳館まで来てしまったので、道を挟んだ目の前にある北ゲートからスタートします。
高遠城地図


 ゲートを入るとすぐ左側にあるのが高遠閣。この時期は予約制の休憩所になっています。昭和11年(1936年)に建てられた木造建築で、現在は登録有形文化財に指定されています。

高遠閣

 二の丸跡。桜の時期、出店が並びます。本丸に比べて広いスペースとなっています。
高遠城二の丸跡

 二の丸の西側に桜雲橋とその向こうに問屋門があります。ここも満開時には桜で覆いつくされて、絶好の撮影ポイントになるのですが、残念ながらまったく咲いていませんでした。。。(泣)
桜雲橋

 橋の下は堀切になっていて、ここからのアングルもおススメなんですけどね。。。咲いてないのでイマイチ。
桜雲橋2

 問屋門の右手の方には「高遠公園の碑」があります。
高遠公園碑

 いよいよ本丸です。本来ならこちらもコヒガンザクラが満開になるのですが、全く咲いていませんでした。なお、城址公園のコヒガンザクラは古くからあるものではなく、明治時代になってから植えられたものです。
高遠城本丸跡

 蕾が膨らみかけて、もうあとちょっとで咲きそうな感じだったんですけどね。
 高遠城本丸桜

 新城藤原神社。ここには武田信玄の五男で高遠城主だった仁科盛信が祀られています。仁科盛信は織田信忠の軍勢に攻められ、壮烈な自害を遂げました。(仁科盛信については後述します)
 廃藩置県後、高遠藩内藤家の祖神である藤原鎌足公と合祀されました。
新城藤原神社


 太鼓櫓。これは明治時代以降のものだったかと思います。
  高遠城太鼓櫓

 以前は中に入れたのですが、昨年ぐらいから老朽化が目立ち、周囲には柵がめぐらされ、立入禁止になっていました。下の写真は2007年時のものです。
  高遠城太鼓櫓 2007

 ※太鼓櫓の向こう側になる笹曲輪は通行禁止になっていて入れませんでした。

 以上ご覧のように、城址公園の方の桜は蕾のままでほとんど咲いていませんでした。少々テンションが下がり気味で先に進みます。

           つづく

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春色に染まる高遠城1

 高遠は少々アクセスが不便な場所にあるのですが、近県の方はほとんどが車利用で来られるようです。うちは車がないので公共交通機関を使うことにし、高速バスを利用して東京から伊那市街まで出て、路線バスに乗り換えて現地へ赴きました。でも路線バスは桜の時期ですらも一時間に一本しかないので、出来れば車で来たほうが楽だと思います。

 バスの発着所は「高遠駅」となっています。
 高遠駅1
 高遠駅2

 高遠駅のすぐ裏手にコヒガンザクラが一本あり、3分咲きくらいでした。これならお城の方も期待できそうかな…。
 高遠駅3

 wktkしながら、城址へ向けて歩くこと10分弱。
 大手門跡。石垣が残っています。戦国時代の高遠城の大手は東側にあったようですが、江戸時代の正保年間くらいに西側に大手を変更したようです。
 高遠城大手門跡

 そのまままっすぐ坂を上ると左側に三の丸が。高遠城の旧楼門が移築されて残っています。
 高遠城楼門

 しかし…残念ながら桜はまだ蕾の段階。満開だったら下の写真(2007年時)のようになるのですけどね。うーん、ちょっと来るのが早すぎたか。
 高遠城 2007楼門

 楼門を右に見ながら城址公園には行かずに、そのまま道をまっすぐ行くと左手に藩校・進徳館があります。万延元年(1860年)に高遠藩主・内藤頼直によって創建され、藩士の子弟の教育機関でした。明治4年に廃校になりましたが、ここの出身者は長野県内で教員になった人が多かったそうです。
 進徳館の周りも本来なら桜で彩られるのですが、今年はまだ固い蕾の木ばかり。
進徳館1

 門の内部には茅葺の建物が当時のまま残っています。
 進徳館2

 
 ちなみに2007年時はこんな感じで満開の桜が楽しめました。
 高遠城 2007進徳館


 お城の外郭の桜はまだ蕾の段階でしたが、城址公園のほうはどうでしょうか?少々不安になりつつ、城址公園へ進みます。
                  つづく



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日本100名城途中経過報告 2011

 義母の入院や震災の影響で遠出を控えておりましたが、今年もすでに4月。気候も暖かくなってきたし、そろそろ始動しなければ・・・と思いはじめていました。
 しかし、あの3月11日の震災があまりにも酷いものであり、毎日のようにおこる余震もあって、遠出するにも不安がよぎるというのが正直なところだと思います。
 各地でもイベントが軒並み自粛になったりしていますが、これはやむをえないだろうと思います。レジャーなどを楽しみたい人は各々個人単位で動けばよいのでは・・・とも思います。

 さて、2007年からずっと続けております日本100名城巡りの旅ですが、昨年末の時点で95城を終了し、その後足踏み状態が続いていました。
 あと残りは5城
 すなわち、根室チャシ群、松前城、五稜郭 (北海道) 松本城、高遠城(長野県)
 長野の一部と北海道が残ってしまっています。
 しかしながら、五稜郭、松本城、高遠城はスタンプラリーが開始になる以前に一度行っておりますので、スタンプをもらいに行くだけの再訪となります。
 本当にあと一息なんですけどね。スケジュールを立てるのがなかなか。

 そこで、今年最初の100名城は主人とも相談し、長野県の高遠城に行くことにしました。
 高遠城は春はコヒガンサクラの美しい桜の名所ともなっています。ちょうど春の時期にふさわしい城ということで決めたのです。

 実は4年前(2007年)の春に、私は一度ここを訪れています。学生時代の友人に誘われて、バスツアーで来たんですね。
 おかげ様でちょうど桜が満開の時期だったのですが、現地はすさまじい混雑振りで道も大渋滞。あと少しで城址というところで駐車場待ちの長蛇の列にはまってしまい、やっとの事で駐車場にたどり着くも、無情にも添乗員がひとこと「滞在時間は1時間です!」
 あわてて城内を巡ろうにも、案の定、城址公園の中も見物客でごった返していて、なかなか前に進みません。写真撮影しようにも、写るのは桜よりも人の顔ばかりでなかなか良い写真が撮れません。
 正直、桜を楽しむどころではありませんでした。(´д`;)

 2007年時の写真をいくつかアップしておきます。たしかに桜は満開だったのですけどね。自分としては落ち着かなかった記憶しかありません。
高遠城 2007a
高遠城 2007b
高遠城 2007c
高遠城 2007d

 行く前に伊那市の観光課へ電話して、今年の桜の状況を聞いたところ、9日頃に開花予定というので、込み合う満開の時期をちょっとはずして3分~5分咲きくらいでもいいかなと思い、先日行ってきました。
 さて、今年の高遠の桜はどんな風だったでしょうか・・・。

                つづく

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支倉常長とサン・ファン・バウティスタ号

 2008年に行った宮城県の旅もこれで締めくくりとしたいと思います。

 多賀城を見た後、晴れていれば名勝・松島を見ようと思っていましたが、雨が降り止む気配もなく、付近を通りかかったところ中国人観光客の団体が目に入り、とても騒々しかったので車窓から眺めるだけにして通り過ぎてしまいました。また次の機会に・・・と思ってしまったのです。
 今思えば、あの時ちゃんと見ておけば良かった・・・ととても後悔しています。私たちはこの後、石巻市へ向って海岸沿いを北上していたのですが、その時通った辺りも3月11日の大地震による津波の襲来があったところで、多くの犠牲者が出たことを知りました。

 石巻には、「仮面ライダー」や「サイボーグ009」で有名な故・石ノ森章太郎さんの記念館「石ノ森萬画館」があって、毎年同館目当ての多くの観光客で賑わっていたそうです。
 JR石巻駅から「萬画館」へ至る道筋は「いしのまきマンガロード」と呼ばれ、石ノ森さんの作品のキャラクターの人形が19箇所に置かれていました。
いしのまきマンガロード

 おなじみ、仮面ライダーですね。
仮面ライダー(いしのまきマンガロード)

 ところが、3月11日の震災でこの商店街の周辺も津波による被害を受けたそうです。朝日新聞の記事を見たところ、私が見たこの仮面ライダーの人形はかろうじて残っていたそうです。(記事はコチラ

 私も「仮面ライダー」や「009」の世代ですので、「萬画館」に是非寄っていきたかったのですが、同行者に「時間がないから」と却下されてしまいました。
 同館もまた津波の被害で、一階部分が浸水してしまったそうですが、石ノ森さんの貴重な原画などは上階にあったためかろうじて難を逃れたとか。不幸中の幸いでした。
 記事にもあるとおり、同館では再開へ向けて始動しているということで、一日も早い復旧を願いたいものです。

 「マンガロード」を通りぬけ、向った先は船のある博物館でした。
 「宮城県慶長使節船ミュージアム」

 仙台藩主・伊達政宗が藩内でのキリスト教布教を容認するのと引き換えに、ノビスパニア(メキシコ)との直接貿易を求めて、イスパニア(スペイン)国王およびローマ教皇のもとに使節を派遣しました。慶長18年(1613年)のことです。正使には宣教師ルイス・ソテロ、副使として家臣・支倉常長(?~1622年)が選ばれ、仙台藩内で築造された洋式帆船・サン・ファン・バウティスタ号に乗って、月の浦(石巻市)からイスパニアへ向けて渡航しました。

 同ミュージアムの展示室の様子。
慶長使節船ミュージアム1

 左から支倉常長、伊達政宗、ソテロ、船長です。ロボット展示。使節派遣に至るまでの一シーンを表現しています。
慶長使節船ミュージアム3

 異国の支倉常長。これもロボットでした。
支倉常長(慶長使節船ミュージアム)

 このほか、立体映像で使節船の旅を体感できる「シュミレーションシアター」がありました。(撮影不可だったので写真はありません)俳優の本郷功次郎さんが出演していたように記憶しています。

 一行は最初メキシコに寄港し、そこでほとんどの乗組員が船を降りてしまい、支倉常長ら使節団はスペイン艦隊に便乗してスペインへ向いました。この時、常長は日本人としてはじめて大西洋を渡ったのです。
 1615年1月に常長はスペイン国王・フェリペ3世に謁見し、主君から託された手紙を渡し、宣教師の派遣とメキシコとの交易の許可を願い出ますが、国王から良い返事は得られず、支倉らは8ヶ月もマドリードに留めおかれてしまいました。
 国王側との交渉が難航したため、やむなく常長はローマ教皇にスペインとの交渉の仲介を依頼することにし、1615年10月にローマに至り、ローマ教皇・パウロ5世に謁見しました。この時、ローマ教皇に渡した伊達政宗からの手紙は金箔銀箔を散らした和紙に日本語とラテン語で書かれた華麗なものでしたが、現在もヴァチカン図書館に保管されているということです。
 
 ローマ教皇から宣教師派遣の許可を得た支倉らは、再びスペインとの交渉に臨むためマドリードに戻りますが、スペイン側は交易を許可するどころか、追い立てられるようにセビリアへ移動するよう命じられました。
 結局、支倉の努力もむなしく、交渉は失敗に終わったため、やむなく支倉はマニラ経由で帰国することになりました。こうして7年の歳月はすべて徒労に終わったのです。

 支倉が渡欧している間に、日本国内では幕府が禁教令を出しキリシタンの弾圧を始めたため、当初は布教に寛容な姿勢であった伊達政宗も藩内でキリシタン禁令を発し、取締りを強化することになってしまいました。すなわち、支倉が日本にいない間に状況が激変していたのです。
 帰国後の支倉常長については詳細が判然としていません。帰国して2年後に失意のうちに亡くなったというのが定説なようですが、閑居して80代までひっそりと生きたという異説もあるようです。400年前の国際人であった支倉の生涯は遠く歴史の彼方へと消えていってしまいました。
 なお、支倉が持ち帰った品々は国宝に指定され、前に紹介した仙台市博物館に所蔵されています。

 ところで、「慶長使節船ミュージアム」では支倉ら一行が乗船したサン・ファン・バウティスタ号を復元しています。
サン・ファン・バウティスタ号
 
 船内も見学でき、下の写真のように人形を使って渡航の様子を表現しています。
慶長使節船ミュージアム2

 3月11日の大地震による津波で、船を取り巻くようにあったドッグ棟の展示室は残念ながら壊滅してしまったそうですが、船の方は奇跡的に一部破損で済んだそうです。
 震災後、同ミュージアムも避難所になっており、現在閉館中だということです。

 このたびの震災で石巻市内では多数の犠牲者が出たということで、いまだに行方がわからない方が2700人以上いるといのことです。被災された住民の方たちのご心労はいかばかりかとお察し申し上げます。
 亡くなられた方々のご冥福をお祈りすると共に、一日も早い復旧を願うばかりです。いつの日にか必ず、あの時見た静かな海沿いの町が蘇ることを信じて、この項を終わることにします。

 
 参考サイト 宮城県慶長使節船ミュージアム
 関連記事 百万石のお墨付


 
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