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約1100年前に大地震に見舞われた多賀城

 つづき
 仙台城攻めを敢行も強い雷雨に見舞われ散々でしたが、翌日も雨が降り止まず、少々がっかりモードで次の城攻めに向かいました。
 仙台駅側にあるJRの駅レンタカーで車を借り、走ること2,30分でお隣の市の多賀城市に入ります。多賀城市は仙台のベッドタウンだそうです。道理で周辺は住宅街になっていました。

 住宅街を抜けていくと、多賀城址へ着きました。城というと、一般的には戦国時代以降のものが思い浮かびますが、こちらの城は珍しく奈良時代に建設されたものです。正直、私もあまり古代には興味がなく、高校時代学んだ程度の知識しかないので、ピンときませんでした。

 多賀城は神亀元年(724年)に按察使・大野東人が築城したといいます。天平宝字6年(762年)には改修が行われたそうです。この事は城址にある「多賀城碑」に記されています。碑は覆屋と呼ばれる小屋の中にあります。
多賀城碑


 多賀城4
 多賀城の模型です。この城は陸奥国府と鎮守府を兼ねており、約900M四方のいびつな四角形をしていて、周囲には築地や木柵を巡らせていました。

 城址ですが、ご覧のようにだだっぴろい広場に整備された礎石の跡や案内板があるだけでしたし、あいにくの雨ということもあってややさびしい感じがしないでもありません。
 100名城スタンプラリーで来たと思われる50代くらいのおじさんが一人、とぼとぼと歩き回っていました。
多賀城3

 城の中央部には重要な政務や儀式を行う政庁があります。下の写真は正面に位置する「正殿」の跡です。なお「正殿」の手前両脇には南北に長い「脇殿」がありました。規模からするとかなり立派な建物があったようです。
 なお、このたびの震災で「正殿」の箇所に被害があったようです。(被害の程度はわかりません)
多賀城2

 その他、発掘調査から推定される役所などの建物の位置を示す案内板がちらほらありました。
 履いていた靴が泥だらけになりつつも周囲を歩いてみましたが、やはり当時の城をイメージするのは難しいものがありましたね。ちょうど初秋でしたので、曼珠沙華が隅っこのほうで殺風景な城跡に唯一彩りを添えていました。
多賀城5

 多賀城ですが、8世紀~10世紀までに4期にわたる変遷があったそうです。
 中でも、第三期の頃の貞観11年(869年)には多賀城は大地震によって倒壊の危機に見舞われたんだとか!地震の後、城は復興し、平安時代半ばに廃絶するまで続きました。

 余談になりますが、この「貞観地震」というのは、マグニチュード8以上と推定されるかなりの規模だったようです。
 過去にある地震に関する専門家の方が、東京電力に対してこの「貞観地震」と同様の規模の地震の再来を警告していたにもかかわらず、東京電力はまったく聞く耳持たなかったということです。一応、その件の記事を引用しておきます。
 ソース 3月26日付 毎日新聞 「東電 『貞観地震』の解析軽視」

  東京電力福島第1原発の深刻な事故原因となった大津波を伴う巨大地震について、09年の経済産業省の審議会で、約1100年前に起きた地震の解析から再来の可能性を指摘されていたことが分かった。東電は「十分な情報がない」と対策を先送りし、今回の事故も「想定外の津波」と釈明している。専門家の指摘を軽んじたことが前例のない事故の引き金になった可能性があり、早期対応を促さなかった国の姿勢も問われそうだ。

 09年6月、原発の耐震指針の改定を受け、電力会社が実施した耐震性再評価の中間報告書案を検討する審議会。869年に宮城県沖で発生したマグニチュード8以上とみられる「貞観(じょうがん)地震」を、岡村行信委員(産業技術総合研究所活断層・地震研究センター長)が「非常にでかいもの(地震)が来ているのが分かっている」と取り上げた。

 当初の報告書案はこの地震に触れていなかった。東電は「被害はそれほど見当たらない」と答えたが、岡村さんは、宮城県から福島県の広い範囲で浸水したという最新の研究から「納得できない」と追及。その後に提出された報告書案は「(貞観地震と同規模の揺れは)想定内」とし、現在の耐震構造で問題ないとの見方を示した。

 岡村さんは、04年のスマトラ沖大地震のように、幅広い震源域がほぼ同時に破壊する「連動型地震」を想定した対応を求めたが、審議会の事務局は「最終報告書で検討する」という形で収めた。
 ◇専門家「貞観の再来」

 多くの専門家は、東日本大震災を「貞観地震の再来」とみている。同研究所などは05年以降、貞観地震の津波による堆積(たいせき)物を調査。同原発の約7キロ北の福島県浪江町で現在の海岸線から約1.5キロの浸水の痕跡があったほか、過去450~800年程度の間隔で同規模の津波が起きた可能性が浮かんだ。

 東電によると、現地で測定された地震動はほぼ想定内で、地震によるトラブルは少なかった。一方、非常用電源の喪失などの津波被害で、原子炉が冷却できなくなった。
 ◇「『想定外』は言い訳」

 東電の武藤栄副社長は25日の会見で「連動地震による津波は想定していなかった」「(貞観地震に対する見解が)定まっていなかった」と釈明。東電の対応に、岡村さんは「原発であれば、どんなリスクも考慮すべきだ。あれだけ指摘したのに、新たな調査結果は出てこなかった。『想定外』とするのは言い訳に過ぎない」と話す。【須田桃子、藤野基文】(引用ここまで)


 今更言っても詮無いことですが、やはり「歴史」を軽視すると、今回の原発事故のような手痛い「しっぺ返し」を食らうという結果になりかねないということですかね。
 長くなるので続きます。
 

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「百万石のお墨付」

 つづき
 仙台城を城攻めしていた最中、強い雨が降ってきてしまい、私の持っていた折り畳み傘が壊れてしまいましたので、雨宿りもかねて、お城の三の丸跡にある仙台市博物館(←博物館のサイトへ飛びます)へ寄ってみることにしました。
仙台市博物館

 この博物館には主に、仙台藩伊達家に関する史料が豊富に収蔵されています。ちょうどこの時(2008年9月)、たまたま「伊達政宗展」という特別展をやっていたので、これ幸いと見ることにしました。
 実は私、伊達政宗はあまり好きな武将ではありません。しかし、昨今の戦国ゲーム等で若い世代にも人気を博している政宗であります。


 広い展示室には、肖像画や書状、絵図といった史料がたくさん展示されていましたが、いかにも「歴女」っぽい娘さんや、出張帰りのサラリーマン風の人たちが足を留めて見入っていたのが、これ。
 伊達政宗所用の「黒漆五枚胴具足」 重要文化財です。
黒漆五枚胴具足

 ちなみに、後ろの日の丸の旗印は、政宗の父・輝宗の時に定められたものなのだそうです。
 
 しかし、私が注目したのは、これ。関ヶ原前夜、徳川家康が政宗を東軍へ引き込もうと、現在の伊達領58万石に加え、苅田・伊達・信夫・二本松・塩松・長井・田村の7郡49万石の所領安堵をちらつかせた、いわゆる「百万石のお墨付」です。
百万石のお墨付

 関ヶ原後の論功行賞で、結局この「約束」は家康によって反故にされてしまったのは有名な話です。政宗は老獪な家康にまんまとしてやられてしまったわけで、その時の政宗の心情やいかに・・・現物の史料はやはり迫力がありますね。

 ところで、政宗という人は毛利元就と並んで、自筆の書状を多く残した人でもあります。この時の展示にも、政宗自ら記した書状がいくつか展示されていました。印象的だったのが、俗説では政宗を嫌って、弟・小次郎の擁立を企んでいたといわれる母・保春院(最上義姫)に宛てて書いた手紙でした。これは、政宗が朝鮮出兵中に母に宛てて送ったもので、手紙の最後には「もし無事に帰国できたならば、ぜひお会いしたい」と記すなど、異国にいる自分の身を案じているであろう母に対する政宗の心情が伝わってくる内容となっています。
保春院宛伊達政宗書状

 この書状が残っていることからも、保春院と政宗との関係が、世間一般で言われるような険悪なものだったかは疑問が残るということです。

 なお、伊達政宗の書状については、佐藤憲一さんという方がこのような本を書いておられます。
伊達政宗の手紙 (洋泉社MC新書)伊達政宗の手紙 (洋泉社MC新書)
(2010/01/07)
佐藤 憲一

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 後世に伝わった政宗の書状のいくつかを紹介し、政宗の人間像に迫った内容です。この本は以前、「新潮選書」から出ていて私はそちらを読んだのですが、とても面白かったです。上記の洋泉社版はおそらくその復刊だと思います。
 詳細はこちらの本を参照していただきたいのですが、一言でいうと、政宗という人は表向きは権謀術数の人という印象ですが、それとは裏腹に、身内に対しては非常に細やかな気遣いをした人だということがわかります。
 ちなみに、著者の佐藤さんは、仙台市博物館の館長を務めた方で、長年伊達家文書の調査、研究に携わってこられたので、道理でお詳しいわけですね。


 江戸時代、仙台藩伊達家は「伊達騒動」のような危機に見舞われつつも、結局改易、転封されずに明治維新まで存続しましたので、このように良質な史料がたくさん伝わっているんですね。
 そのほとんどを、伊達家のご子孫が仙台市博物館に寄贈、寄託されたのだそうです。
 今まで全国の博物館、資料館を巡ってきましたけれども、こちらの博物館は5本の指に入るほど充実していましたし、見ていて飽きなかったです。
 ぜひ仙台城と共に、こちらの博物館にも立ち寄ってみることをお勧めします。(現在、震災の影響で休館中だそうです)
 なお、上記の「黒漆五枚胴具足」ですが、平成23年度も二度に渡って公開される予定だそうですから、まだ見ていないという人は要チェックですね。
 今年は開館50周年という節目の年だったそうで、一日も早い再開が待たれます。

 ★上の具足、史料の写真ですが、博物館の係の方に許可を得て、フラッシュ無しという条件で撮影したものです。

 ※追記 2011年10月、同館を再訪しました⇒「政宗の遺宝(仙台市博物館)」



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過去にも被災していた仙台城(後)

つづき

 仙台城の三の丸(現在、仙台市博物館がある)の裏手、巽門から本丸へ至る登城路上の門は清水門といい、現在は石垣だけが残っています。
仙台城清水門跡

 こちらの石垣もまた近年の地震で被災していました。昭和53年(1978年)の「宮城県沖地震」で被害が出て、石垣を積みなおしました。
 そして、平成15年(2003年)5月の「宮城県北部地震」で再びやられ、改めて修復工事が行われたそうです。
 以上見てきたように、宮城県は昔から現在に至るまで、何度も大地震に見舞われている土地柄だということですね。その都度、城の石垣も損害を受け、新たに積み直してきた歴史があったことがおわかりいただけたと思います。
 
 下の写真は仙台城本丸跡から眺めた仙台城下の写真です。今にも泣き出しそうな空の色からわかる通り、この日の城攻めの途中、雨が降ってきてしまい、そのうち激しい雷雨に見舞われたため、泣く泣く史跡巡りを断念したという経緯があります。おかげで伊達政宗の墓がある「瑞鳳殿」など見そびれてしまいました。
 ですので、そのうち再度仙台を訪問し、歩きなおそうと思っていたものの果たせないまま、今日に至っております。近い将来、復興して落ち着いた頃、ぜひとももう一度、仙台城を訪れたいものです。 
仙台城下遠望

 取り急ぎ仙台城について記しましたが、お城の写真が掲載しきれなかったため、また後日改めて加筆訂正する予定です。

 
伊達政宗―奥州より天下を睨む独眼竜 (新・歴史群像シリーズ 19)伊達政宗―奥州より天下を睨む独眼竜 (新・歴史群像シリーズ 19)
(2009/06)
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過去にも被災していた仙台城(前)

 おかげ様で、先日主人の母が退院しました。本当はもう2週間位リハビリをしなければならなかったようですが、合併症が無かったことや本人の希望もあり、少し早めの退院となりました。お見舞いの言葉をお送りくださった方々には感謝申し上げます。

 ところで、私は2007年から「日本100名城」巡りをやっておりまして、翌2008年という年は東北地方を多く廻った年でした。
 2008年の9月、私は生まれて初めて宮城県の仙台へ赴いたことは先述しました。JR仙台駅を降りて、真っ先に向った先は仙台城でした。
 
 仙台城は奥州の覇者・伊達政宗が築いた堅固な城でした。伊達政宗については大河ドラマ『独眼竜政宗』や最近のゲーム等でもあまりにも有名ですし、改めて詳述する必要もないかと思います。
 仙台城は明治維新後に城の建物の多くが取り壊され、昭和20年の空襲でも被災し、それまで残っていた大手門は焼失してしまいました。ですから、往時をしのばせる建物というのはまったく残っていないんですね。
 ですから、仙台城のシンボルといえば、本丸跡に立つ政宗の銅像になると思います。
 この日はあいにくの天気で、青空をバックに撮影というわけにいかず、少々残念でした。

伊達政宗銅像1

伊達政宗銅像2

 本丸跡にある事務所で例の100名城スタンプもゲットです。
  仙台城スタンプ


 仙台城は政宗が青葉山という天然の要害に築いた平山城です。関ヶ原合戦直後の慶長5年(1600年)12月24日より城の縄張りが開始されました。工事は翌々年の慶長7年(1602年)5月に一応の完成をみたといわれます。

 最近では「歴女」たちやゲームなどの影響で、若い世代も仙台城をよく訪れているらしいのですが、城の建物が昭和42年に復元された隅櫓以外何も残っていないので、城をイメージするのは想像をたくましくしないと難しいかもしれないですね。

 とはいえ、政宗が岩出山城に代わる居城をと見込んだ場所だけあって、お城玄人の方が見ればダイナミックなお城ということがいえると思います。
 今回は地震後ということもあり、広範囲に及ぶお城の一部のみ紹介します。

 本丸の北東部の石垣です。
仙台城石垣1

 この箇所は平成9年から平成16年にかけて、大規模な修復工事が行われました。正確に記録を取りながら、一個一個石垣を積みなおしていったそうですが、調査の結果、この石垣は3期にわたって積まれていたことが明らかになりました。

 第一期は、慶長6年~元和2年の頃のもので、基本は大型の自然石を使った野面積みで積まれました。傾斜角度は約48度という緩やかなもので、高さ5~6m毎に「犬走り」と呼ばれる小段がありました。
 本丸跡には第一期の石垣モデルが展示されています。
仙台城石垣2

 ところが、元和2年(1616年)に仙台は大地震に見舞われ、先の石垣は崩壊してしまいました。さっそく政宗は石垣の修復に取りかかります。自然石を使った野面積みが基本でしたが、一部に加工された石も使用され、傾斜角度も60度で以前よりも急になり、犬走りを設けずに一気に積み上げられました。裏側には第一期の石垣を用い、排水にも工夫がこらされていました。(第二期)

 それから30年後の正保3年(1646年)にまたもや大地震がおこり、櫓はもとより石垣も損壊してしまいました。二代藩主忠宗はさっそく修復にとりかかりました。
 しかし、22年後の寛文8年に三度目の大地震が襲ってきました。この時、第二期の石垣はほぼ全壊したといいます。
 
 仙台藩では幕府に石垣修理願いを申し出、延宝元年(1673年)~天和3年(1683年)にかけて再建に着手しました。第一期と二期の石垣を背後に取り込んで、加工した切石で仕上げられました。前の石垣に比べると強度も上がり、見た目も美しいものとなっています。今日見られるものは、この時積まれた石垣です。
仙台城石垣3

 私が行った時、上の写真でわかるように、付近を整備工事をしていました。三度の地震を乗り越え、その都度修復された石垣ですが、今回の震災では大丈夫だったのでしょうか?

 長くなるので続きます。


伊達政宗について書かれた司馬遼太郎の好短編集です↓
 
馬上少年過ぐ (新潮文庫)馬上少年過ぐ (新潮文庫)
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司馬 遼太郎

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関連記事 JR仙台駅の被害


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茨城県も多方面で被害が出ています!(震災の爪あと2)

 今朝の朝日新聞朝刊の「天声人語」にこんな事が書いてありました。

 いつもの週末に比べて、銀座や表参道の外国人は目に見えて少なかった。観光客ばかりか、出張者や留学生、外交官までが日本脱出を急いでいるらしい。物心の支援に感謝しつつ、この国は自らの手で立て直すしかないと胸に刻んだ。(後略)

 「天声人語」子の指摘される通りだと思います。外国人はたとえ日頃親日派を標榜していても、所詮は異国の人であり、放射能障害を怖れて、この国をとっくに見限って逃げ出しています。
 やはり、われわれ日本人同士が相互に助け合い、立てなおしていくしかないのです。
 被災地で復旧作業にあたっておられる方々、被災民のために働く医療関係者、ボランティアの方々、被災民を受け入れた各自治体の関係者の皆様など、本当に有難うございます。私などは無力で、ただおろおろするばかりで情けない限りですが、この方たちには声援を送りたいと思います。

 ところで、先日は宮城県のJR仙台駅について書きましたが、今度は茨城県です。宮城県や岩手県の大津波による甚大な被害と、福島県の原発事故ばかりがマスコミで大きく取り上げられていますが、実は茨城県も沿岸部を中心に多方面で被害が出ていることはこれまであまり報道されてきていないそうです。

 つい最近、私は茨城県の水戸について当ブログで紹介したばかりでした。続けてご覧いただいている方には、水戸城や周辺史跡など、記憶に新しいかと存じます。
 JR水戸駅

 ところが、先日NHKの関東ローカルニュースを拝見して仰天しました。JR水戸駅も地震により相当被害を被り、線路も損傷が激しく、復旧の目途がたたないということです。
 詳しくは以下の産経新聞のWEB記事をご覧ください↓↓↓駅名表示板が外れ、横から縦になってしまっています。
「JR水戸駅 駅名表示板が斜め、時計は発生時で停止」


 それから、私は水戸の締めくくりとして、水戸市役所側の美味しいとんかつ屋さんを紹介した(←過去記事参照)のですが・・・。
「とんかつ とん楽」
とんかつ とん楽

 地元に住んでいる方のブログ記事をたまたま拝見し、そのお店も被害に遭っていた事がわかりました。
 ブログ主様に快諾していただきましたので、そちらの記事をリンクさせていただきます↓↓↓
 「水戸の現状・・・。」
 (※「水戸~サラリーマン奮闘記」より wave attack様ありがとうございました)

 「とん楽」さんが入っている雑居ビルはたしかに見るからに古い感じではありましたが・・・。上記ブログ掲載の被害写真には思わず絶句してしまいました。だって、お店が崩壊してしまっているのですから!地震の時、おそらくお店も営業中だっただろうと思いますが、お店の従業員の方は大丈夫だったのでしょうか?

 また、他の方のブログにもありましたが、「とん楽」さんがある方面の駅南の方は建物の崩壊、道路の地割れや水道管が破裂していた等、各所で被害があったようです。
 水戸についてのブログを書いたとき、あえて触れませんでしたが、以前読んだ水戸の歴史に関する本によれば、あの辺はその昔、湿地帯だったらしいんですね。ですから、お城のある方面に比べると、元々の地盤が少々弱かったのかなあと思いました。
 それにしても、「とん楽」さんを初め、このビルのテナントは当面、営業再開は難しいのでは・・・と心配になりました。

 それでも、水戸はライフラインは一部でストップしたものの、しばらく時間がたてば復旧は早いだろうと思われました。その一方で、同県内でも、沿岸部、北部の被害はかなり深刻なようです。農作物への放射能被害も心配です。
 後出しで申し訳ありませんが、実は私は父方の祖父が茨城県の出身でした。しかし、昭和の初め頃東京へ出てきてしまっているので、現在ではほとんど茨城との接点はないのですが、地震の被害に見舞われたことに胸が痛みます。
 このたびの震災で被害に遭われた茨城県の皆様には、心からお見舞い申し上げます。

※WEB上で調べたところ、水戸の弘道館、偕楽園もかなり被害が出て、現在休館だそうです。せっかく梅祭りの時期なのに、本当に残念ですね。
 参考 弘道館ホームページ(←建物の一部が損壊しています)


 関連記事  地震による土浦城の被害状況


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JR仙台駅の被害(震災の爪あと)

 あの大地震から1週間がたちましたものの、いまだに自分のブログを書こうという気力が沸いてきません。落ち着いたら昨年秋に行った四国の紀行などを書こうと思っていたのですが、頭の中がまとまりません。

 TVニュースの画面で、ご家族を亡くされた被災者が号泣していたりする映像を見たりすると、私はその人とは直接何の関わりもないのに、深く気分が落ち込んでしまっております。
 それから、「地震酔い」というやつらしいのですが、なんですか「船酔い」みたいな感じで、常時周囲が揺れているような錯覚が頻繁におこっています。余震だか、「地震酔い」だかわからない、おかしな感覚が続いていて、気持ち悪いです。

 話は戻りますが、本当に酷い地震でしたね。これではしばらく東北方面へは観光どころではないでしょう。
 幸か不幸か、私がやっている日本100名城巡りですが、東北地方の城は昨年までにすべて終了していたのです。結果論ですが、早めに足を運んでおいて良かったと思いました。
 鉄道の被害も相当なもののようです。
 このたび、地震の被害を受けた宮城県仙台市のJR仙台駅も天井が落下するなど、営業再開の見通しが立たないということです。幸いなことに、駅構内での人的被害は無かったそうです。(※ソース 「JR、復旧めど立たず 仙台駅ホーム天井数十メートル落下」

 下の写真は2008年当時のものです。「杜の都」仙台へ来たのはこれが初めてだったのですが、やはり東北随一の街の駅だけあって、多くの人々が行きかっていてとても活気がありました。
   JR仙台駅1

 一体、何時になったらこの時の賑わいが戻るのでしょうか?
   JR仙台駅2

 仙台市内でも多数の死傷者が出て、被害が軽かったお宅でも生活物資が不足しているなど、大変苦労されていると聞きます。心を強く持って、お互い励ましあいながら、この難局を乗り切っていただきたいものです。


※3月23日追記 国土交通省は、4月中にも東北新幹線の全線で運転再開を見込んでいるとのことです。
 ソース 東北新幹線、4月中にも全線で運転再開 国交省見込み (←朝日新聞のサイトへ飛びます)
 一日も早い復旧が待たれます。


※追記 2011年10月、仙台を訪れました⇒震災から7ヶ月後の仙台

      2012年3月10日、震災から1年の仙台へ行ってきました

関連記事 過去にも被災していた仙台城(前)
       過去にも被災していた仙台城(後)
       スタンプ設置所が避難所になっていた…多賀城
       支倉常長とサン・ファン・バウティスタ号


 被災された方々には心からお見舞い申し上げます。一日も早い復興を願って、がんばろう日本!
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天皇陛下の「玉音放送」

 昨夜帰宅し、真っ先にテレビをつけましたところ、NHKニュースの中で、天皇陛下による「緊急ビデオメッセージ」の放送が行われており、少々驚きました。陛下が災害にあたってこのようなビデオメッセージを送られるのは初めてだということです。亡き昭和天皇は終戦時、ラジオにて「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び・・・」と全国民に対してお言葉を述べられましたが、まさか自分の代で今上陛下の「玉音放送」を聞くとは思わなかったです。


 被災地におられる特にご年配の方々をはじめとして、陛下のメッセージは大いなる慰めと励ましを得たことだろうと思います。天皇・皇后両陛下は、皇太子時代から被災地には必ず足を運ばれ、被災民をお励ましになってこられました。
 しかし、裏を返せば、陛下が緊急にお言葉を述べられたということは、それだけ事態は深刻であるとも言えます。

 大津波の被害もさることながら、福島の原発の問題です。一昨日の段階で、すでに放射能物質は首都圏にまで及んでいます。
 関係者は、人体に影響を及ぼすレベルではない、と繰り返し言っていますが・・・実際はどうなのでしょう。正直、あまり信用できないように思います。戦時中の「大本営発表」と同様に。
 福島原発の近隣住民や茨城県北部の方たちは、すでに危険な状態なのではないでしょうか?
 それが証拠に、ドイツやフランス、中国など各国大使館は、日本に滞在中の自国民に対して国外退去を呼びかけており、外国人たちは成田空港などから続々と出国しているそうです。変な話、外国の人たちのほうが正確な情報を持っていたりするものです。

 このような状況下で、危険をかえりみず作業にあたっている方々には本当に頭が下がる思いです。
 
 もし、臨界点を超えたら、原発の近隣住民および私たち首都圏の住民はどうなるのでしょう。
 私は東京生まれ、東京育ちで両親もそうですので、「田舎」というものがありません。西方へ疎開しようにも、頼るべき親戚縁者もおりません。
 放射能物質に覆われたTOKYOの空の下で、「玉砕」するしか道がないのでしょうか。

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TOKYO 小パニック(東日本大震災 続報)

 先日の東北大地震ですが、私たちの想像をはるかに超える被害が出ており、慰めの言葉も見つかりません。多くの方々が一瞬のうちに津波に飲み込まれ、命を落としました。いまだに行方のわからない方も多数でており、ただただ無力感にさいなまれるばかりです。また、苦しい避難生活を強いられていらっしゃる方々には心よりお見舞い申し上げます。

 今日はいつものように義母のもとへ見舞いに行こうと思っていたのですが、義母から連絡があり、「また電車がストップしちゃうと困るから、今日は来なくていいわよ」とのことで、お言葉に甘えさせてもらうことにしました。
 昨日、夕方近所のスーパーに行ったところ、ミネラルウォーター、パン、お米、、レトルト食品、トイレットペーパーなどすべて完売しており、陳列棚は空っぽでした。

 昨日は買いそびれてしまったので、気を取り直して、今日は午前中より買出しに出かけたのですが、昨日とは別のもう一軒のスーパーの開店5分前に行ったら、すでに長蛇の列が出来ていました。
 開店と同時にスーパーに入ったところ、みな一様にペットボトルのコーナーに殺到!私も何とか、お水のペットボトルを6本ゲットできましたが、たちまちすべて売り切れてしまっていました。
 お水をゲットした後、あわててお米のコーナーへ行きましたが、すでに陳列棚はもぬけの殻でした。パンなどもほとんど売り切れており、今日は買うのを断念して、お水だけ持ってレジへ。レジも長蛇の列で、自分の順番が回ってくるまで20分以上はかかりました。

 その後、いったん帰宅し荷物を置いてから、今度はドラッグストアへ向ったのですが、すでにトイレットペーパー、ティッシュ、使い捨てカイロ、赤ちゃん用・介護用おむつ(我が家には関係ありませんが)すべて品切れ。結局何も買わずに帰りました。
 親戚の者とも連絡を取り合ったのですが、やはり都内のスーパーではどこも行列が出来ており、水や食料品、日用品等軒並み品切れしているそうです。

 今あわてなくても、そのうち需は落ち着くような気もしますが、不測の事態に備えて買いだめしておこうという消費者の心理が働くのもやむをえないように思います。
 
 それから輪番停電!東京電力のgdgdな対応には呆れるばかりです。こういう緊急事態ですし、あまり批判したくありませんが、日頃から親方日の丸で来ているから、危機管理がまったく出来ていないのをつくづくわからせていただきました。

 そういえば、うちですが、懐中電灯が1個しかなかったんです。近所のホームセンターに問い合わせたら、やはり昨日のうちに完売してしまったそうです。
 しかし、ふと気になって物入れをチェックしていたら、4,5年前に誰かからもらったライト付きラジオというのが出てきました!取っ手をぐるぐる回すと充電出来る、すぐれモノです。付属のコードをつないで、携帯電話の充電もOKだそうです。もらったのをすっかり忘れていました。これで停電が来ても当面は何とか暮らせそうです。


 ところで、東北で被災している方々は水、食糧、日用品が不足しており、危機的状況が続いているそうです。
 そんな最中、大手企業のパナソニックが三億円+物品、東芝が五億円、ソニーが三億円+物品と、いち早く被災地への緊急支援を発表しています。(※ ソース 「ソニー、パナソニック、東芝、インフォテリア、キングソフトが震災義援金や支援物資 」

 多額の費用がかかる支援には普通、取締役会の承認などが必要なのでしょうが、いずれの企業も社長決済で今なしうる最大限の支援をお決めになったのでしょう。早急に支援を打ち出されましたこと、各企業の社長様以下、社員の皆様、本当にどうも有難うございます。
 これらの企業に続き、日用品メーカー、食品メーカー、医薬品メーカー、商社、流通等、多くの企業が次々と支援を表明しています。
 こちらも微力ながら、支援活動される企業様の商品は買い支えたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
 

  
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東北大地震!

 昨日の大地震、いきなり揺れが来て、びっくりしました!
 私はいつものように、義母が入院している病院へ見舞いに行っていたのですが、病院に到着し、義母と談笑している時に地震が来ました。揺れも強く、しかも長く続いたので生きた心地がしませんでした。
 万が一の時、義母をどうやって避難させたらいいか、そればかり考えていました。義母は手術してからまだ一週間しか経過しておらず、今杖を使わないと歩けない状態なのです。

 結局、交通機関がすべてストップしてしまっていたため、自宅へ帰れそうもなく、病院で一夜を過ごすことに。義母は個室に入院していますので、そこへ簡易ベッドを貸していただき、休ませていただきました。
 義母と消灯時間までずっとテレビを見ていたのですが、東京でも千代田区の某施設で天井が落下し、死傷者が出たというニュースがありました。実は私、数年前にこの施設で結婚式を挙げていまして、思い出の場所だったのです。たしかに、戦前の「帝冠様式」で建てられた古い建物だったので、耐震には弱かったのかもしれません。
 
 それにしても、こういう災害時、携帯電話は無力このうえないですね!自分の実家や、夫の実家や身内の者にもまったく電話がかかりません。NTTが発信制限かけているのです。メールだけはかろうじて通じましたが、自分の実家の両親はメールとか出来ない人たちなので、こちらも不安でした。
 おかげ様で、自分や夫の実家、親戚等も無事でした。(お見舞いの言葉を送ってくださった方、ご心配おかけしました。有難うございます)
 
 今朝、8時半頃病院を出て、電車を乗り継ぎ帰ってきましたが、JRはなかなか電車が来ず、しかもすし詰め状態!仕方なく、途中下車して地下鉄を利用し、迂回して帰宅しました。結局、3時間半くらいかかってしまいました。
 帰宅途中、スーパーに寄ったらパンやミネラルウォーターがすべて完売していました。
 案の定、家の中はかなり物が散乱していて、片付けが大変です。

 被災された東北地方の皆様には心からお見舞い申し上げます。私自身、母方の祖父(故人)が東北出身なので、母の遠縁の者が被災地域に在住しています。他人事とは思えないです。死者、行方不明者多数、津波、原発の被害など目を覆いたくなるような惨状に、言葉も見つかりません。
 今後、余震があるかもしれませんので、皆様も十分お気をつけくださいませ。
(現在も揺れが来ています!)

 

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テーマ : 地震
ジャンル : 日記

細川幽斎~古典へのあこがれ~

 東京・文京区にある永青文庫では、現在「没後400年 細川幽斎 ~古典へのあこがれ~」展を開催しています。
永青文庫

 永青文庫というのは、旧熊本藩主であった細川家に伝わる古文書や美術品などを管理・研究、展示している美術館です。(※永青文庫公式サイト)もと細川家のお屋敷だった土地にあり、周囲は田中角栄元首相の屋敷や講談社、椿山荘などがある閑静な住宅街の中にあります。
 細川家というのは、ひと昔前に連立政権で総理大臣を務めた細川護熙氏の生家ですね。

 細川家の祖である戦国武将・細川幽斎(1534~1610年)が亡くなってから昨年で400年目という節目の年でしたので、東京国立博物館「細川家の至宝展」(←過去記事参照)をはじめとして、京都や熊本において細川幽斎関連の催しが開催されたのですが、今回のものは一連の細川幽斎関連の最後をしめくくる展示となっております。
 昨年、東博の展覧会はブログにも書いたように足を運んだのですが、熊本県立美術館での展覧会はちょっと興味を引かれつつも、なかなか都合がつかなくて結局行かずじまいだったんですよね。

細川幽斎

 細川幽斎は将軍足利義晴の側近・三淵晴員の子として京都に生まれました。母は清原宣賢という学者の娘であり、幽斎の文化的素養はこの辺の生育環境によるもののようです。一説には、足利将軍の御落胤という説もあるようです。
 13歳のときに元服すると将軍足利義藤(後の義輝)から偏諱を受け、「細川藤孝」と名乗るようになります。
 長らく仕えてきた将軍義輝が暗殺されると、藤孝は弟の義昭を将軍に擁立しようと画策しますが、義昭と共に近江・若狭を流浪し、やがて越前の朝倉氏のもとに寄寓することになります。
 この時、義昭の支援を依頼したのが織田信長です。信長の助力で義昭は将軍に就任出来ましたが、やがて両者は対立するようになり、決定的な亀裂が生じます。
 この時、藤孝は一大決心して、義昭のもとを離れ、信長に臣従することを決めるのです。(その後、義昭は信長によって京を追われ、室町幕府は滅びました)

 こうした背景を頭に入れておいて、展示を見てみます。永青文庫では実に59通もの織田信長の書簡が伝えられています。
 上の写真を見ていただければわかるとおり、永青文庫の建物は小さくて、今回の展示もたかだか12畳くらいの狭い展示室での開催ですので、展示品は全部で30点くらいしかなかったのですが、その中でも信長関係の文書が多く展示されてあります。
 これらからわかることは、藤孝が主君である義昭と信長との取次ぎ役であったことを契機に、信長とも主従関係を結んでいるということなんですね。信長との遭遇が、藤孝にとって人生のターニングポイントであったということがいえると思います。
 
 それから、興味深いのが藤孝と明智光秀との関係です。藤孝の息子・忠興と、光秀の娘(珠 洗礼名ガラシャ)との婚姻は信長の命によるものでした。
 光秀も信長に臣従するまでは将軍足利義昭のもとにいたので、藤孝とは互いに同等の関係かと思っておりましたが、ともに信長に臣従後、軍事面では藤孝は光秀の指揮下にいたんですね。この両者の関係についてははじめて知ることでした。両者は単なる縁戚関係ではなく、このようなパワーバランスのもとにあったわけです。

 光秀が本能寺の変で信長を自害に追い込むと、縁戚関係であった藤孝・忠興親子に宛てて自分に味方するよう誘いの書簡を送りますが、二人はこれを拒否し、共に髻を切って信長への哀悼の意を表すのです。
 こうして、光秀は山崎の戦いで滅ぼされ、藤孝は家督を忠興に譲って、出家して「幽斎玄旨」と称するようになります。
 隠居後は、武将としてよりも一文化人として、重要な位置を占めるようになっていきますが、ただ文化的なことに勤しんでいるのではなく、豊臣秀吉の九州征伐の折には島津義久との交渉役を務めたりして活躍しています。

 それから、もう一点の見所は、関ヶ原前夜の田辺城の籠城戦についてです。
 幽斎は和歌や古典籍に関する教養が深かったため、三条西実枝という公家から見込まれて、「古今伝授」すなわち古今和歌集の秘説を伝授されたんですね。実枝は幽斎に、いずれ自分の息子の公国が成人したら「古今伝授」を伝えてほしいと依頼し、約2年にわたって講釈しました。
 その後、幽斎は実枝との約束通りその子息・公国に伝授しますが、公国は若くして亡くなってしまったため、以前から和歌を指導してきた八条宮智仁親王に伝授することにしました。
 しかし、世情は風雲急を告げるときでした。石田三成と徳川家康との衝突は避けられない情勢になり、幽斎の子・忠興は家康に従って東軍に付き、大坂玉造の屋敷で留守を守るガラシャは三成方の人質になることを拒んで自害。
 その知らせを聞いた幽斎は討死を覚悟で、わずか500の手勢で丹後田辺城に籠城し、城は石田方の1万5千の軍勢に囲まれますが、幽斎は多勢に無勢でありながらも抗戦します。

 幽斎から「古今伝授」の講義を受けている途中だった八条宮は幽斎に開城を勧めますが、幽斎はこれを拒否し、

「いにしへも今もかはらぬ世中に 心の種をのこすことの葉」

という一首を添えて、八条宮宛に「古今伝授」証明書を送りました。
 籠城は二ヶ月に及び、「古今伝授」の継承者が絶えることを憂慮した御陽成天皇が勅令を発し、関ヶ原合戦の二日前に和睦が成立し、幽斎は開城しました。
 今回の展示でも、八条宮に送った「古今伝授」証明書の写し(原本は宮内庁書陵部)や田辺城籠城の絵図があり、当時の緊迫した情勢を知ることができます。田辺城の絵図には、ペットボトル型のような石火矢(大砲のようなもの)の絵も描かれていました。籠城中の細川方は敵方から砲口を向けられていたことがわかります。

 今回の展示は武具や茶器などは一切なくて、ひたすら古文書関係のみ、それも限られた点数ではありますが、細川幽斎の人となりを知るにはなかなか良い内容だったと思います。
 「文武両道」という言葉がありますが、この展示を見るまで、細川幽斎という人はどちらかといえば「文」の人と思いこんでいましたが、戦国の世を生きた一武将としての激動の生涯を知ることが出来ました。
 もちろん、文化人としても第一級の人だったわけで、足利将軍家に仕えた経験から身につけた幽斎の有職故実に関する教養は、信長、秀吉、家康といった天下人たちも武家政権のバックボーンとして重要視していたため、幽斎は大いに重用されたのです。

 以前、永青文庫の史料を研究調査している熊本大学の研究者が、幽斎の記した古典注釈書の奥書を詳しく調べたところ、信長に臣従していた時代のものはほとんど無かったとか。ですから、「藤孝」時代は軍事面で忙しくて、正直文化的活動どころではなかったということがわかったのだそうです。

 私が見学した日は見学者が20人くらいいて、ご年配の方ばかりでした。なお、同展示は3月13日(日)までとなっています。
 永青文庫へは有楽町線の江戸川橋駅から徒歩か、またはJR目白駅で降りて都営バスで10分ほどで行かれます。

 
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越前かにめし

 史跡巡りはちょっとお休みして、駅弁の話題など・・・。旅先では駅弁の写真をけっこう撮影していますが、ついついブログに掲載しそびれてしまいます。
 近年、駅弁は某有名デパートの駅弁大会や、近所のスーパーなどでもたまに駅弁フェアをやっていたりして、普段でも容易に手に入りやすくなりました。
 とは言え、駅弁はやっぱり旅先でこそ味わうべきモノとも思ったりするわけです。車窓を眺めながら、駅弁をほおばるというのは旅の醍醐味の一つだと思います。

 昨年の福井行きもいつものようにスケジュール過密だったため、JR福井駅構内の売店で駅弁を買ってお昼に食べました。
 朝方出発する前に買ったので、あまり種類がありませんでしたが、やっぱり福井駅の名物といったら「越前かにめし」(調整元 番匠本店)。1100円です。ご覧のように袋に入っています。
  越前かにめし1

 赤い蟹をイメージした器に入っていて、蓋を開けるとご覧のようにズワイガニの雌であるセイコガニの赤肉と卵巣、みそなどをほぐし炊き込んだご飯の上に、カニのほぐし身がのっかっています。けっこうボリュームあります。
  越前かにめし2

 なお、赤い容器は耐熱容器で、電子レンジであたためOKらしいです。あたためなくても十分美味しかったですけどね。一見淡白に見えますけども、ご飯にもしっかり味付けがされていて、さっぱりと頂くことができました。同行したうちの主人も美味しかったとの感想です。
 大分以前になりますが、北陸を旅したとき、特急の車内で一度購入した記憶があります。現在でも車内販売はあるようですね。他の地域でも駅弁で「かにめし」を売っているところがありますが、番匠本店さんの「越前かにめし」こそが「かにめし」の元祖だそうです。ロングランの人気駅弁なんですね。(^^)



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柴田勝家・お市の墓

 天正11年(1583年)4月24日、北ノ庄城は落城し、柴田勝家とその妻・お市が共に自害したことは先述しました。
 勝家、お市夫妻の最期の模様が後世にも伝わっているのは、落城の折、話術に巧みな老女を一人だけ選び、自分たちの最期の様子を物語るよう逃がしたからだということです。(ルイス・フロイスの記録による)

 福井市内にある「光明山 西光寺」(天台真盛宗) 柴田勝家の菩提寺です。元々は一乗谷城主・朝倉貞景が家臣・上田兵衛尉に命じて創建させたといわれ、後に柴田勝家が一乗谷より北ノ庄に移し、自らの菩提寺にしたといいます。
 西光寺

 狭い境内の隅に、柴田勝家、お市、柴田勝景(勝家の甥で丸岡城主)、柴田孫次郎(勝家の子)の合祀墓があります。慶長年間に、豊臣秀吉の祐筆だった山中長俊が創建したものだということです。
柴田勝家の墓

 今から二十数年前くらいに、当寺で資料館を建てる際、この墓を移動したそうなのですが、その時に墓の内部を調べたところ、中から遺骨や遺品の類など何も出てこなかったということです。ですから、お墓というよりも供養塔といった方が正しいかもしれません。
 おそらく、落城の折に勝家らの遺骸は燃え盛る炎の中、すべて灰塵に帰したということでしょうか。
 
 墓の傍らには北ノ庄城の礎石が置いてありました。
北ノ庄城の礎石

 寺の小さな資料館。残念ながら鍵が閉まっていて、中に入れそうもありません。
 偶然、檀家の方らしき人が境内の清掃のお手伝いに来られていたのですが、お尋ねしたところ、あいにくこの日は住職が近所の小学校の運動会へ行ってしまっていて留守だということでした。
 中を拝見できず残念でしたが、ここには柴田勝家とお市の木像などが展示してあります。
 西光寺資料館

 ひっそりと建つ墓前で、しばし悲運の武将に思いを馳せ、寺を後にしました。
 次回の大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」では、とうとう北ノ庄落城を迎えますね。エンディングの「江 紀行」の中でもしかしたら紹介されるかもしれませんので、一応掲載しておきます。

※3月20日追記  地震の影響で一週間遅れで放送されましたが、やはり予想通り「江 紀行」で西光寺が放送されました。(←番組ホームページへ飛びます)

  
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北ノ庄城址(柴田神社)

 大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」ですが、ちょうど今、お市が兄・織田信長の重臣であった柴田勝家に再嫁し、越前北ノ庄城へ行ったところですね。
 昨年、福井へ行った際に柴田勝家の居城であった北ノ庄城の跡を見てきましたので、紹介しておきます。前回、ドラマの最後の「江紀行」でも紹介されていたようですね。

 実は12年前にも現地へ来たのですが、あまりその時のことをよく記憶していないんです。頭が耄碌してしまったのでしょうか(苦笑)

 JR福井駅より商店街を歩いておよそ5分くらいの路地に小さな鳥居があります。この鳥居は以前もあったと記憶しています。
柴田神社

 鳥居をくぐって細い参道を行ったその先に、北ノ庄城址・柴田神社があります。柴田神社は、江戸時代頃、地元の人たちが小さな祠を築いて元の領主であった柴田勝家の供養をしたことから始まるということです。
北ノ庄城址・柴田神社

 以前来た時はたしかこんな風ではなく、小さなお社があっただけだったように記憶しています。その後、ここらへんを発掘調査・整備したみたいです。
 柴田勝家の銅像。無骨な武将らしさがよく表されています。
柴田勝家

 お市の方の像。これは以前はなかったです。近年制作されたものでしょう。
 勝家との再婚は結局、1年にも満たずに城は落城。お市は夫・勝家に殉じる道を選びました。
お市の方

 現地説明板による北ノ庄城址の想像図。城は足羽川と吉野川(のちの百間堀)が合流した位置に築かれ、堀の一部に足羽川を使用していたと考えられています。天守は9層(7層との説も)構造で、安土城に匹敵する規模であったとか。今では、この地にそのような巨大な建物があったとはとても想像出来ません。
DSCF4948.jpg

 当時、宣教師であったルイス・フロイスは北ノ庄を訪れたことがあり、城ははなはだ立派で、屋根瓦は石で葺かれていたと記しています。屋根瓦に使用された石は近くの足羽山から採掘された笏谷石で、これが晴天の日には青みがかって見えて、それが一層城を際立たせていたんだそうです。

 発掘調査で出てきた城の石垣の一部。
北ノ庄城址石垣

 同じく発掘で出てきた堀の一部。
北ノ庄城址堀跡

 豊臣秀吉の軍勢に攻められ、落城が迫った時、柴田勝家はもはやこれまでと悟り、親族や家臣らを集めて盛大な酒宴を催したそうです。酒宴が済むと勝家はお市に娘たちを連れて城を出るように勧めますが、お市は首を立てには振らず、自分はここに残ると言いました。
 翌日、勝家は天守にお市や近習、侍女たちを集め、天守に火を放ちました。燃え盛る炎の中、勝家はお市を刺し殺し、自らは腹を十文字に掻き切って壮烈な死を遂げました。
 茶々・初・お江三姉妹は落城の前に城を出たことは周知の通りです。

 さらぬだに打ぬる程も夏の夜の夢路をさそふ郭公(ほととぎす)かな  お市
 夏の夜の夢路はかなき跡の名を雲井にあげよ山郭公     勝家

柴田勝家・お市・三姉妹

 その後、北ノ庄に入った徳川家康の次男・結城秀康は、北寄りの侍屋敷があった所に新たに天守を築き、北ノ庄城をうまく取り込む形で新しい城の外郭を築いていきました。
 城の名も、北ノ庄は落城したので縁起が悪いと、「福井」と改めました。これは以前、福井城の項で書きました。(←過去記事参照)

 聞くところによると、柴田勝家の系図は不明な部分も多いのですが、先祖のルーツがどうも越前にあったようですね。そういう縁もあり、主君である織田信長によって越前に配されたという理由も考えられるようです。


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「とんかつ とん楽」と「納豆味スナック」

 旅の楽しみのひとつにご当地グルメがあります。
 はじめて水戸へ来たとき、話のタネにでも・・・と某ホテルのレストランにて「水戸黄門ラーメン」なるものを食べたのですが、これがマズー (´д`;)といった感じだったので、その次の機会にガイドブックで調べて、良いお店を見つけました。 (ちなみに、水戸黄門が日本ではじめてラーメンを食べたという話ですが、茨城県立歴史館の学芸員さんの話だと、実は水戸黄門はラーメンを食べていなくて、「黄門様が日本で初めてラーメンを食べた」という本を書いた人が古文書を誤読しているということだそうです。)

 「とんかつ とん楽」というとんかつ屋さんです。お城とは駅を挟んで逆側の、水戸市役所のすぐ側にあるのですが、ここのとんかつがとても美味しいです。水戸へ来る度に必ず寄るようにしています。
 とんかつ定食や海老フライ定食のようなのもありますが、最近私がお気に入りなのは、「かわりとんかつ」とでもいいますか、とんかつに納豆と梅干しと大根おろしがのった「梅祭りかつ定食」というものです。
梅祭りかつ定食

 「特ひれ」「上ひれ」「上ロース」「ロース」の4種類があります。上記の写真は上ロース1800円です。
とんかつ とん楽メニュー
 水戸の名産の納豆がのっていますが、これもクセがなくて食べやすいです。

 実は私、若い頃胃腸が弱くて、とんかつなど揚げ物が大の苦手だったんですね。ところが、ここのとんかつは使用している油が良いのか、丁寧に揚げてあって、あっさりと食べられます。しかも、食後胃もたれすることもありません。
 店の人も感じが良く、お客に対して気さくに話しかけてくれますし、居心地がいいです。ですから、何時行っても地元のお客さんが入っています。
 なお、ご飯とお味噌汁とキャベツは各1回のみおかわりOKです。

 とんかつ とん楽 電話029-225-8078
(昨年まで年中無休だったようですが、今年から火曜休になった模様。詳細はお問い合わせ下さい)
   とんかつ とん楽

   
より大きな地図で とん楽 を表示


  *******************************

 水戸駅構内にお土産屋がありますが、いろいろ商品が置いてありますが、いつも「納豆味スナック」というやつを買って帰ることにしています。パッケージには水戸黄門・助さん・格さんのイラスト入りです。
なっとうスナック

 いわゆる「うまい棒」みたいなやつですね。梅味とからしマヨネーズ味の二種類があります。うまい棒と違うのは、食べていると納豆独特の粘り気が出てくるところです。一袋12本入りで300円くらいだったと思います。気の置けない友人などへのお土産にもOKです。
 
 
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A☆六文銭

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日本100名城完全制覇と有名人の墓めぐり(掃苔)
日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

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