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関鉄之介の墓(「桜田門外ノ変」)

 先日、テレビ朝日で放映した「遺恨あり」という時代劇を紹介しましたが、昨年上映された「桜田門外ノ変」も故・吉村昭の原作です。
 「桜田門外ノ変」については、以前当ブログ上で水戸の千波湖の畔に建設されたオープンセットを紹介しましたが、以前撮影した写真ギャラリーを再見していたところ、主人公の関鉄之介(1824~1862年)のもう一つのお墓の写真があったので、一応アップしておきます。墓地があるのは、水戸黄門の「格さん」と同じ、常盤共有墓地内です。同墓地は墓が多すぎて、お参りしたことをすっかり忘れていました。
関鉄之介の墓(常盤共有墓地)

 映画をご覧になった方はご存知だと思いますが、関鉄之介は「桜田門外の変」で大老・井伊直弼を暗殺した水戸浪士のうちの一人で、襲撃を指揮した人です。
 事件後、鉄之介は逃亡し、各地を転々としますが、文久2年(1862年)越後にて捕らえられ、小塚原で刑死。享年37歳。
 当然のことながら、小塚原の回向院にも墓があります。
関鉄之介の墓

 手元の資料では記載がありませんが、回向院にあった遺骸を水戸の方へ改葬したものか?とも思います。
 小塚原で刑死した人で特に政治犯の場合、関係者らが一般の罪人と同じ処に遺骸がうち捨てられることを嫌ったらしく、吉田松陰ですとか橋本左内なども、何とかして遺骸を掘り出して、別のところへ改葬しています。

 吉村昭の書いた「桜田門外ノ変」ですが、私の好きな作品のひとつです。純文学から始まり、作家人生の後半はすぐれた歴史小説を残した方ですが、追い詰められた人間の孤独な心情を描くのが非常にうまいです。
 淡々とした語り口ながら、いつの間にか読者の方も主人公の気持ちに寄り添っているのが不思議です。

 吉村がこの作品を書いた頃、関鉄之介のお孫さんの奥さんが健在で、その家に残されていた鉄之介の遺品や日記を見せてもらったんだそうです。その他、わざわざ東大史料編纂所まで行って丹念に史料を探すなど、渾身で描いた佳作です。

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 昨年当ブログで書いておきながら、ついつい映画を見そびれてしまいました。4月くらいにDVDで出るそうなのでそちらを見ようと思います。
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(2011/04/21)
大沢たかお、長谷川京子 他

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 N●Kなども、こういう骨太な作品を3ヶ月くらいのドラマに仕立ててくれるといいんですがね。(ただ、20年くらい?前に「桜田門外の変」をドキュメンタリータッチで追った特集番組があって、そこでは俳優の故・川谷拓三さんが関鉄之介を演じていたのを拝見したことはあります)

 今日で2月も終わりです。そろそろ水戸についてもエンディングの方向で。


 関連記事 映画「桜田門外ノ変」オープンセット!


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tag : 有名人の墓(さ行)

「アド街」とドラマSP「遺恨あり」を見る

 深夜12時をまわり、日付が変わってしまいました。土曜日の夜はたいてい我が家では、テレビ東京で放映中の「出没!アド街ック天国」を見ています。
 しかし、今夜は同じ時間に、テレビ朝日で時代劇、それも私の好きな作家・吉村昭原作のドラマを放映とのことで、正直どちらを見ようか迷いました!
 結局、アド街を見て、ドラマのほうは録画することにしました。

 今回紹介された街は、「水戸」でした。なんという奇遇・・・この前水戸へ行っていたので、恒例の梅まつりで賑わう偕楽園をはじめ、水戸の様々なスポットが紹介されていました。水戸城もちゃんと含まれていましたね。
 私も数度水戸へは行っていますが、まだまだ知らない所が多いですね。毎度、食事処やお土産処などは自分の旅でもちょくちょく参考にさせていただいてます。
 この番組もかなり長いので、最近ちょっとマンネリ化しつつあるように思うのですが、今回の水戸はそうでもなくて、見ていて楽しかったです。


   ***************************
 
 「アド街」が終わった後、チャンネルを変えてテレビ朝日へ。
「遺恨あり 明治十三年 最後の仇討」(←あらすじを知りたい方は左記公式サイトへ)

 これは幕末から明治にかけて実際におきた事件(仇討)を作家の故・吉村昭が短編小説として書いた「最後の仇討」が原作となっています。
 現在は「敵討」 (新潮文庫)の中に所収されております。


  
敵討 (新潮文庫)敵討 (新潮文庫)
(2003/11)
吉村 昭

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 主演は藤原竜也さん。その他、「ゲゲゲの女房」でブレイクした松下奈緒さんや、吉岡秀隆さん、小沢征悦さん、北大路欣也さんなどが脇を固めています。
 まだ録画したものを最初から見ていないのですが、割合落ち着いて見られたと思います。普段は明朗な印象の藤原さんが暗いうなり声を出していたりして、両親を惨殺され、両親の敵と自らの運命を呪って生きてこざるをえなかったという主人公の役にすっかりなりきっておられたようでした。

 それから、「山岡鉄舟」役の北大路さんが良かったですね。北大路さんは、山岡鉄舟のような剣客ははまり役だと思いますし、圧倒的存在感がありました。
 過去の大河ドラマですと、「独眼竜政宗」の伊達輝宗(政宗の父)役は本当に良かったです。逆に、北大路さんのキャラクターからすると、某ドラマの徳川家康は残念ながらあまり似合っていらっしゃらないような気がします。
 最近はCMでも新たな一面を開拓された人気の北大路さんですが、やはりこの方は時代劇になくてはならない方だと思います。

 それから、藤原さんを裁く裁判官の役で吉岡秀隆さんが出ておられましたが、この方も是非時代劇に出ていただきたい俳優さんの一人です。
 後半の方では、「斬られ役」の福本清三さんが、衛視?の役で出ておられたみたいで、微笑ましかったです。(松下さんと台詞のやり取りしてました)

 やっぱり、原作がしっかりしているとドラマもいいですね。原作の吉村昭さんは5年前に病気で亡くなられたのですが、死後もこのようにドラマの原作になるなど、読み継がれていることを嬉しく思います。
 吉村さんの作品は史実を忠実に追い、細かい点まで行き届いた取材をもとに描かれた力作ばかりです。吉村さんの作品を原作に選んだこのドラマの制作者はよく本を読んでおられるようで感心しました。
 余談ですが、吉村さんの地元である東京都荒川区では、吉村さんの文学館設立の話が持ち上がっていると聞きました。(詳細はまだ未定のようです)
 
 まだまだ書き足りないのですが、眠気が襲ってきましたので今日はこの辺で。

 
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春の訪れ 水戸・偕楽園
映画「桜田門外ノ変」オープンセット!


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安政大地震で圧死した藤田東湖(後)

 つづき

 水戸藩第九代藩主・徳川斉昭に認められ、斉昭の進める藩政改革に参画し、大活躍の藤田東湖でしたが、その人生に突如暗雲が立ち込めます。
 弘化元年(1844年)5月、斉昭に随行して江戸へ出府しますが、いきなり幕府から斉昭の致仕謹慎処分が下されました。なおかつ、家臣である東湖も連座して御役御免の上、蟄居を命じられ、江戸藩邸の一室へ幽閉されてしまいました。好事魔多しとはこのことです。斉昭の処分の理由は、どうやら藩政改革の上で寺院破却と梵鐘没収を行い、代わりに一村一社の鎮守制と寄子制を進め、幕府の政策である寺請制度を否定したことに仏教界が反発し、幕閣に対して突き上げがあったことによるものと考えられます。(これを「甲辰の国難」という)
 俸禄、自宅も没収された東湖は厳しい謹慎生活を送りますが、おのれの境遇を嘆息しつつも、自らを励ましながら、『回天詩史』、『和文天祥正気歌』(通称『正気歌』)を草し、『弘道館述義』を著しました。これらの著作は、後に尊攘志士たちに広く愛読愛唱され、彼らの精神昂揚に一役買ったということです。

 しかし、東湖が表舞台へ復帰する機会は意外にも早く訪れます。嘉永6年(1853年)、アメリカのペリー提督が浦賀に来航し、未曾有の国難ということから幕府は徳川斉昭を海防参与として幕政に参画させることを決め、東湖も江戸藩邸に召し出され、幕府海岸防禦御用掛を命じられ、再び斉昭のもとへ近侍することになりました。安政元年(1854年)には失脚前の役職であった側用人に復帰出来ました。

 老体に鞭打ちながら、職務に励む毎日を送っていた東湖でしたが、悲劇は突然訪れます。
 安政2年(1855年)10月2日、突如として大地震が起こり、その時江戸藩邸にいた東湖は一度は脱出するものの、部屋に忘れ物をしたという母親が再び邸内に戻ろうとしたので東湖も母親を追いましたが、その時上より太い梁が落下してきたため、母親の身を守ろうと咄嗟に自らの肩で受け止めましたが力尽き、その下敷きとなって圧死しました。東湖の娘の証言では即死だったということです。時に東湖50歳。

 東湖の遺骸は水戸へ送られ、葬儀が執り行なわれた後、常盤共有墓地にある藤田家の墓へ葬られました。
藤田東湖の墓

 「一寸先は闇」という言葉がありますが、一度は幕命により失脚したものの、再び返り咲いて、さあこれからという時に安政の大地震で亡くなった東湖ですが、本当に気の毒な運命といわざるをえません。
 東湖は人徳、教養に優れ、人付き合いも良かったらしく、横井小楠、橋本左内、佐久間象山、西郷隆盛など多数の著名人と交流があったといい、東湖の死を知らされると、それぞれが哀惜の念を吐露したといいます。そして主君の徳川斉昭こそ自らの片腕と頼んでいた東湖の死は相当ショックだったことでしょう。

 藤田東湖の墓へは4年前の2007年に参詣していますが、それから長らくあまり思い出すこともなかったのですが、先日、同じ常盤共有墓地内にある「格さん」の墓を紹介したので、これから現地へ行かれる方は是非東湖の墓もお忘れなきようにと記した次第です。お墓は墓地の北端のほうにあります。  合掌(-人-)
                    
 参考文献
 
藤田東湖 (人物叢書)藤田東湖 (人物叢書)
(1997/12)
鈴木 暎一

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tag : 有名人の墓(は行)

安政大地震で圧死した藤田東湖(前)

 先日起きたニュージーランドの大地震には驚きました。そして、現地へ留学していた日本人の方たちが被災し、倒壊した語学学校の建物の下敷きになり、閉じ込めらている人たちが多数いて、日本からも災害救助隊が駆けつけましたが、救出作業が難航しているとのこと。いまだに救出されていない方たちの安否が心配でなりません。
 今回の地震で被災された日本人の方たち・・・ほとんどが留学生だそうですが、圧倒的に若い女性ばかりでした。彼女たちは向学心もあり、真面目な事から夢を持ってはるばる留学したのでしょう。折からの就職難ということで、語学スキルを身につけたという希望もあったものと思われます。行方不明の方たちが一刻も早く救出されることを願ってやみません。

 さて、このところ水戸黄門関係の史跡を辿ってきましたが、ここらで少し話題を変えて、幕末の話です。水戸藩は幕末に尊皇攘夷の旗頭であったため、歴史に名を残した人たちが多数輩出しています。
 そのうちの一人、藤田東湖(1806~1855年)を紹介します。幕末史に関心がないと、ちょっと?な名前や事項が出てくるかもしれませんがご了承ください。

 藤田東湖は文化3年、水戸学者・藤田幽谷の次男として水戸城下に生まれました。名は彪(たけき)、字を斌卿(ひんけい)、通称は虎之介といいました。
藤田家は元々百姓だったそうですが、東湖の祖父の代で水戸へ出てきて古着屋を営む町人となり、父・幽谷は学問に優れていたため、異例の抜擢で彰考館の館員、後には総裁にまでになった人です。
 後年使用する「東湖」という号は、彼の生家が千波湖の東にあるという事にちなんだものだということです。現在、生家跡には東湖産湯の井戸と東湖の銅像、および石碑が建っております。ここではよく知られた「東湖」の号で呼ぶこととします。
藤田東湖生誕の地
藤田東湖像

 父親は教育熱心な人だったようで、幼年の折から息子の東湖を厳しく教育したそうです。
 東湖が14歳のとき、父・幽谷と共に江戸へ出府し、神道無念流・岡田十松の道場・撃剣館に通うようになります。
 文武両道に励む東湖でしたが、文政7年、水戸藩領の大津浜(現・北茨木市)にイギリス船が来航し、乗組員たちが上陸するという事件が起こりました。この事態を憂慮し、異国人を非常に警戒していた父・幽谷は東湖に対し、船員達を暗殺するよう命じ、東湖は父からの命を受けて現地へ赴きましたが、時すでに遅く、船は退帆した後でした。東湖はその生涯で、三度死を決意したといいますが、その最初の出来事でした。
 その二年後の文政9年(1826年)、父の幽谷が急死したので、東湖が家督を継ぎました。二百石で進物番兼彰考館勤務を命じられます。

 その頃、水戸徳川家の藩主は八代・徳川斉脩という人でしたが、この人は病弱な人で、正室の将軍・徳川家斉の息女・峰姫との間には子がなく、峰姫に遠慮して側室も持てず、世継がいませんでした。
 文政12年(1829年)、斉脩が病で危篤状態となると、後嗣を巡って藩内に揉め事がおこりました。将軍家斉の子で峰姫の弟である清水恒之丞を推す一派と、死んだ斉脩の弟である敬三郎を推す一派とが対立を深めていました。この時、東湖は敬三郎を推す一派に与し、二度目の決死の覚悟で脱藩して、同志と共に急遽江戸へ出府しました。東湖、時に24歳。
 やがて、藩主斉脩は没し、枕元から遺言が見つかったということで、世継は弟の敬三郎に決まり、第九代藩主に就任しました。この敬三郎こそが、後の烈公・徳川斉昭です。

 この後、新藩主である斉昭に認められた東湖は順調に昇進を重ね、斉昭が目指す藩政改革に従事します。
 斉昭の改革の目玉の一つであった藩校開校にあたって、東湖は心血を注いで「弘道館記」を起草し、その甲斐あって、天保9年(1838年)に藩主斉昭の名で発表されました。こうして東湖は藩校「弘道館」の建設に尽力しました。
弘道館正庁

 長くなるので続きます。


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「格さん」(安積澹泊)の墓 

 先日は、水戸黄門を支える「助さん」「格さん」のうち、「助さん」こと佐々介三郎を紹介しましたが、今度は「格さん」の方です。
 フィクションである「水戸黄門漫遊記」では「渥美格之進」という名前ですが、モデルとなった実在の人物は安積澹泊(あさかたんぱく)といいます。
安積澹泊

 ドラマの方では今回新しいキャストになって、的場浩司さんが演じられています。先日ドラマを見てみましたが、ちょっとビミョーな感じでした(笑)。ただ、私個人は的場さんは率直なお人柄でそのキャラをけっこう気に入っているので、今後を楽しみにしたいと思います。

 「格さん」のお墓は、水戸市内にある常盤共有墓地という所にありました。この墓地は徳川光圀が築かせたもので、家臣の者たちが宗派にとらわれず墓を建てることが出来るようにしたということです。ですから、水戸藩の関係者で歴史に名を残した人々が多数葬られています。共有墓地はここと、他にもう一箇所(酒門共有墓地)あります。(2007年7月参詣)
 常盤共有墓地

 安積澹泊は僧侶から転進した佐々介三郎とは対照的に、祖父の代から水戸徳川家に仕える家に生まれました。名を覚、通称は覚兵衛といいました。
 澹泊は寛文5(1665)年に江戸へ出て、朱舜水(明出身の儒学者)に師事します。
 5年後の寛文10(1670)年に水戸へ帰り、大番組(200石)となり、その後小納戸役に昇進。天和3(1683)年に彰考館編修となり、元禄6(1693)年には彰考館総裁に任じ、『大日本史』編纂の主導的役割を果たしました。
 
 ドラマの中の「格さん」は棒術が得意で、見事な立ち回りを演じますが、実際の安積澹泊は文系そのものの人物だったようです。学問一筋だったんですね。博識な人で、特に歴史が詳しかったようです。新井白石、荻生徂徠、室鳩巣などとも親交がありました。

 広い墓地内を歩き回って、ようやく彼のお墓を見つけましたが、墓の側には「格さんの墓」という幟旗がひらめいていました。きっと、多くの人々が参詣に訪れているのでしょう。
安積澹泊の墓1

安積澹泊の墓2

 安積澹泊は彰考館総裁になった直後、大方村(現・常陸太田市)のある庄屋の家に寄っていた光圀を訪れており、久しぶりに澹泊と会見した光圀はその再会の喜びを五言絶句にしています。
 その後、4ヶ月ほど彼は主君である光圀の側近くで過ごしました。この時、『大日本史』編纂について、色々語り合ったのではないかと思われます。
 澹泊は元文2(1737)年、82才で他界しましたが、亡くなる直前まで修史の編纂等に従事していたということです。『大日本史』編纂事業にその生涯の大半を費やしたということになります。

 常盤共有墓地の入口には、水戸黄門と助さん格さんの石像がありました。三人ともほのぼのとした感じです。
水戸黄門ご一行石像

 余談ですが、茨城県内のある所には「風車の弥七」のモデルになった人のお墓もあります。ちょっと遠いのでまだ行けていませんが、何かの機会に立ち寄ってみたいと思っています。

  
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ブログ開設1周年

 お陰様で、本日2月22日を持ちまして、当ブログ開設1周年になります。手さぐり状態でブログを書きつづって参りましたが、本当にあっという間の一年だったように思います。
 お恥かしい程の徒然の駄文ではございますが、あまたあるブログ、サイトの中から幾人かの方々に目を通していただくことが出来、うれしく思っております。色々とご教示、お励ましなどもいただき、有難うございます。
 今後とも、ネタと気力が続く限りは続けていきたいと思っておりますので、どうぞ宜しくお願いいたします。
 熟読してくださる方がいる反面、通り過ぎていかれる方が圧倒的に多いのですが、もしよろしければ、ご意見ご感想などお寄せいただければ幸いです。コメントは非公開にも出来ますので、お気軽にお声おかけいただければ、と思います。
 それから、リンクを快諾して下さった皆様には改めて感謝申し上げます。

 ブログの方は水戸黄門関係ですが、体調不良のため、また明日以降更新させていただきます。

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「助さん」(佐々宗淳)の墓

佐々宗淳の墓2


 TBS時代劇「水戸黄門」ですが、若干書き忘れたことがあったので付け足しておきます。私、二十歳ぐらいの時に家族の者と京都太秦の映画村へ行ったんですが、その時ちょうど「水戸黄門」の撮影をしていたんですね。ご老公一行に会えるかな、と思いましたが、結局拝見できたのは「飛猿」役の野村将希さんだけだったんです。
 先ほど、夜8時から久しぶりにドラマを見てみました。水戸黄門は里見浩太朗さんですが、お供の「助さん」「格さん」が新配役になったというのは聞いていました。
 今回、お墓を紹介する「助さん」は、なんと東幹久さんになっていました!ちょっとビックリのキャスティングではありますね(笑)。見たところ、まだ役が板についていないという印象でしたが、これから徐々に馴染んでいかれるのではないか、と思います。
 私がよく見ていたのは、里見さんやあおい輝彦さんが「助さん」だった頃ですので、あれから随分時間が経ったのだなあとつくづく思いました。

 さて、「助さん」のモデルになった、徳川光圀の家臣・佐々宗淳(介三郎)のお墓です。常陸太田市の「正宗寺」内にあります。
 佐々宗淳の家は、戦国~安土桃山時代の武将で、豊臣秀吉の命により切腹させられた佐々成政の姉の子孫だということです。

 宗淳の父親はもともと、肥後熊本の加藤清正の家臣だったといいますが、二代忠広の代に加藤家が断絶し、その後、讃岐高松の生駒家に仕官しました。
 しかし、その後生駒家でお家騒動があり、それがきっかけで父親は生駒家を致仕したらしく、一家は流浪してしまいます。そんな中、寛永17年、宗淳は瀬戸内海のある島で生まれたんだそうです。
 15歳で京都の妙心寺に入り、僧侶になりましたが、後に考えるところがあったとみえ、還俗(一般人に戻ること)します。
 その後、江戸に出た宗淳は、延宝2(1674)年、35歳の時に縁あって水戸藩に出仕します。宗淳の経歴等が光圀の目に留まったものと思われます。ここで、彼は小石川の藩邸にあった「大日本史」編纂を行う「彰考館」の一員になります。
 こうして、宗淳は「大日本史」編纂のための史料集めのため、全国各地を巡ります。遠く九州へも足を伸ばしたそうです。今で言うなら、学芸員さんのような仕事をしていたんですね。
 その他、「那須国造碑」の修復と調査や、徳川光圀が尊敬してやまなかった楠木正成を讃える「楠公碑」の建立の監督もしました。
 元禄9(1696年)年に彰考館の総裁になりますが、同年に辞し、西山荘にいる主君・光圀に仕えます。
 その二年後の元禄11(1698年)宗淳は59歳でこの世を去りました。主君である光圀よりも約2年早い死でした。

 前半生はお坊さんだったという異色の経歴を持つ「助さん」ですが、最晩年には彰考館総裁を辞してまで光圀の側近く仕えていたことからも、光圀から信頼を寄せられていたことがわかります。
 なお、墓碑の撰文は「格さん」こと安積澹泊によるものだそうです。実際の二人も仲が良かったのでしょうか。


佐々宗淳の墓1

 
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西山荘 (茨城県常陸太田市)

 今回、たまたま水戸へ行った事で、水戸黄門こと徳川光圀について書いています。当ブログのある読者様が、水戸へ行かれるということで手前味噌ではありますが何か参考になれば、と思い、綴ってみたのですが、その方が先日水戸を訪れた際、雪が降ってしまい、思うように身動きが取れなかったそうでお気の毒なことでした。次回、またいらっしゃるというお話なので、是非リベンジなさってください。

 こうして振り返りますと、私の中で時代劇「水戸黄門」には自分で思っていた以上に思い入れがあることをしみじみ感じました。そりゃそうですよね。昔は年がら年中、見ていたのですから。ちょうど学校から帰宅すると、再放送をやっていたので、おやつを食べつつ見ていたものです。
 先日、うちの家人と水戸黄門について話をしていたところ、「月形龍之介の水戸黄門はイイよ!」と勧められました。そして、先日はブログの読者様からやはり月形龍之介のそれを勧められましたので、レンタルビデオ屋で探して見たいと思います。
 私は古い時代劇にそれほど詳しくありませんが、月形龍之介もたしか悪役などが多かった俳優さんではなかったか、と思います。ドラマでも東野英治郎さん、西村晃さんは悪役も多くこなした方でした。何かの本で読んだのですが、「水戸黄門」役には案外、悪役経験のある俳優さんが向いているのではないかと書いてありましたが、私もそれには同感です。

 さて、光圀が晩年を過ごした隠居所が茨城県常陸太田市にあります。西山荘です。
 昨年?くらいまで、時代劇「水戸黄門」のオープニングで、西山荘が映っていたので、ご存知の方も多いだろうと思います。(現在はまた葵の御紋に戻ってしまったようですね)

 以下の写真は2007年の初秋です。ちょっと古い写真になりますが、ご了承ください。
 さて、光圀は徳川一門の長老として・・・「天下の副将軍」と言われる所以なのですが・・・の位置にあったわけですが、その矍鑠たる気性ゆえ、時の将軍・徳川綱吉の治政、とくに「生類憐れみの令」については批判的だったようです。もちろん、表面上は波風立たぬよう配慮して付き合っていたようですが、次第に綱吉の方でも「ご意見番」たる光圀のことをうっとおしく思うようになっていきます。
 綱吉との微妙な関係もさることながら、老境にさしかかり健康不安などもあったようで、そろそろ自分は身を引く時期であろうと光圀は考えました。元禄3(1690年)、養嗣子(実は兄・頼重の息子)である綱條に家督を譲り、隠居しました。
 そして、父・頼房や母・お久の方の墓の近所である新宿村(現在の常陸太田市)の西山という場所に自らの隠居所を建てることにしました。建物の工事が終わらないうちに入居したといいますから、よほどこの土地が気に入ったのでしょう。
 建物自体は、残念ながら文化年間に火事で焼失し、現在のものは規模を縮小して建て直したものですが、光圀が晩年の日々を過ごした雰囲気を十分味わうことができます。
 うっそうとした森林に囲まれ、「深山幽谷」というにふさわしい自然の豊かな所です。私が行った時はちょうど紅葉の始まりかけのときでした。
 ドラマですと、この西山荘からご老公一行の旅が始まるのですが、実際の光圀は諸国を漫遊していません。しかし、藩内は巡検していて、民人らと交流を持ったそうです。松茸狩りなども好きで、よく出かけていたという記録もあります。

 西山荘1

 西山荘4

 西山荘2

 西山荘3

 建物の中に、読書に励む水戸老公の等身大の人形があって、いきなりそれが目に入った時はちょっとびっくりしてしまいました(笑)本当の人間がいるように見えたのです。
 西山荘の水戸黄門

 ドラマでは、ここをスタートして、兄・頼重の養子となった実の息子である頼常がいる讃岐高松へ行くというパターンが多いですね。
 しかし、実際の光圀は結局高松へは行かれませんでした。頼重が病の床にあった時、光圀は是非とも高松まで見舞いに行きたいと考えていたのですが、身分柄、そう簡単に旅が出来る筈もなく、そうこうしているうちに頼重は亡くなってしまったということです。

 西山荘5
 西山荘6

 なお、光圀は隠居後死ぬまでずっと西山荘にいたわけでもなく、江戸へ行ったりもしていますが、その時に小石川藩邸において、藤井紋太夫を手討ちにしています。
 そして、西山荘へ移り住んでから9年目の元禄13(1700)年、光圀はここ西山荘にて七十三歳の生涯を閉じました。養子の綱條によって「義公」と諡名されました。
 なお、光圀の墓のある瑞竜山の水戸徳川家墓所は非公開のため、行っておりません。
 
 次回は、ご老公を支えた側近中の側近、助さん、格さんのお墓の紹介です。お楽しみに!

  
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頼重と光圀―高松と水戸を結ぶ兄弟の絆― 

 水戸といえば、何を連想するでしょうか。やはり多くの人がこの人物の名を挙げるのではないか、と思います。
 「水戸黄門」です。
 JR水戸駅前。水戸老公と助さん格さんご一行の銅像が出迎えてくれます。
水戸黄門ご一行

 私も親や祖父母がTBSドラマ「水戸黄門」のファンでしたので、幼い頃からドラマをよく見ていました。
 とくに、二代目黄門役の故・西村晃さんの黄門様が好きでした。初代の故・東野英治郎さんの黄門様も素朴で親しみやすくて良かったのですが、西村さんの黄門様には単なる「田舎じじい」ではなく、大藩の、それも徳川御三家の当主であった人の「気品と威厳」が感じられました。ストーリー自体は奇想天外なものですが、西村さんが演じられたことで、実際の黄門様もこんな感じだったのではないか?というリアリティを感じさせられたものです。
 西村さんが降板されてからの水戸黄門はあまり見なくなってしまって、西村さんが亡くなられた時は本当にがっかりしたものです。しかし、今でも再放送などで元気な時のお姿を拝見できるので、今もご健在でいらっしゃるような存在感があります。

 ところで、水戸市内を歩いていて、二箇所で黄門様こと徳川光圀公の銅像を見つけました。
水戸黄門2

 こちらは千波湖のほとりにあったと思います。
水戸黄門1

 私たちが映画やドラマで知っているおなじみの「水戸黄門」のストーリー・・・黄門様が助さん格さんのお供を従えて、諸国を漫遊する・・・は明治20年代くらいから講談などで語られるようになったのだそうです。
 実際、水戸黄門は諸国は漫遊しなかったのですが、弱気を助け、強気をくじく黄門様に、大衆の「世直し」への願いが投影されたものが物語りとなって広まっていったのでしょう。

 それでは、実際の黄門様はどんな人物だったのでしょうか。

 現在、水戸市にある茨城県立歴史館では特別展「頼重と光圀 ―高松と水戸を結ぶ兄弟の絆―」(←県立歴史館のサイトへ飛びます)が開催されています。
 茨城県立歴史館
光圀と頼重

 以前、徳川光圀に関する伝記を読んだことがあるのですが、光圀は「望まれない子」としてこの世に生を受けました。

 光圀の父、徳川頼房はある時、水戸家の奥向きに仕える老女の娘・谷久子を見初め、これに手をつけました。やがて久子は身篭りますが、頼房はその子を「水にせよ」つまり堕胎しろと命じました。
 頼房には正室はいなかったのですが、お勝ノ方という第一の側室がいて、嫉妬深い彼女に遠慮してそう命じたのです。
 これを哀れんだ重臣の三木之次夫妻が懐妊中の久子を引き取り、ひそかに子供を生ませました。これが光圀の兄である頼重(後の讃岐高松藩主)です。頼重は三木夫妻の手で京の寺へやられてしまいました。

 ところが、後になって頼房は再度久子を孕ませてしまい、またもや「水にせよ」と堕胎を命じます。今度も三木夫妻が久子の身を預かり、密かに出産させました。この子が光圀です。嫉妬深いお勝ノ方に知られぬよう、三木夫妻は光圀を世間から隠すように養育しました。(下の写真は光圀生誕の地 現在は小さなお社が建っています)
義公生誕ノ地

 ところが、数年後、水戸家ではある時跡継ぎを早急に決めなくてはならない事情が生じ、元来「望まれない子」として生まれてきた光圀に白羽の矢が立つのでした。
 しかし、光圀は同母兄である頼重を差し置いて年少の自分が世継になったことを深く悩みます。兄の頼重は世継を決める時に重い疱瘡に罹ってしまい、世継候補から外れてしまったのでした。
 思春期の少年のやり場のない思いはやがて放埓な行状となって表れます。父の頼房の期待を裏切るかのように、光圀は不良少年になっていくのです。
 この頃の光圀は派手な格好をして遊里に繰り出し、ある時は辻斬りまでしていたということです。
 放蕩な生活を送る光圀でしたが、ある事がきっかけとなって立ち直り、御三家の当主としての人生を歩きはじめます。

 この続きはぜひ、上記の特別展でご覧ください。タイトルが示す通り、光圀の生涯の他、兄の頼重との「兄弟の絆」について重点が置かれています。通常なかなかお目にかかれない貴重な史料もありますので、じっくり見てみてください。
 展示内容は歴史館のHPを見ていただくとして、今回の展示で私が注目したのは、光圀の祖父である徳川家康ですが、将軍継嗣のスペアとして、当初は尾張と紀伊の二家しか想定していなかったという話です。徳川義直(尾張)、頼宣(紀伊)の二人は正室もしかるべき大藩から娶っているのに、水戸家の頼房は正室を娶らなかったという事がそういう背景を如実に物語っています。私も不勉強ですので、この事は正直、初耳でした。
 水戸徳川家が尾張、紀伊の二家とは同等ではなく、一段格下の存在として扱われていたことの証左なのでしょう。(水戸家からは将軍を出せなかった)「御三家」となるまでの成立過程を知ることが出来ました。

 なお、会期は3月21日までとなっています。


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水戸城をゆく3 薬医門・空堀など

 つづき
 水戸城址の学校ストリートをまっすぐ歩いていますと、まもなく左手に大きな椎の木が見えてきます。樹齢400年!戦国時代から水戸城の変遷を見守ってきた木です。
水戸城大シイ

 そのまままっすぐ行きますと、県立水戸第一高校の入口へ着きます。城跡に学校が建っているというケースはとても多いのですが、昨今の不届き者のせいで、学校の敷地へ入るのもいちいち気を遣います。(この日は日曜で学校はお休みでしたが)
 私は女なのでまだ印象は良いほうですが、一般の方たちの城巡りのブログ等を読んでいると、男性の方はカメラを持って学校の敷地に入る時はどうしても遠慮がちになる、と書いている人が少なくないです。
DSCF0739.jpg


 ここから先は本丸だったところです。枡形虎口になっています。
水戸第一高校

 その真下には本丸と二の丸を仕切るように大きな空堀が。現在は線路になっています(複線化の工事中だったようです クリックで拡大します)。
水戸城本丸空堀2水戸城本丸空堀1

 学校の入口を入ると、すぐ右手に薬医門(橋詰門)が建っています。(下の地図でブルーの目印)これが水戸城で唯一残されている建物です。間口五間五尺の堂々たる門で、佐竹氏の頃の物と推定されています。昔は茅葺でしたが、現在は銅版葺に葺き替えられています。
 明治維新後、いったん城下の寺へ払い下げられたそうですが、後になって再び現在の地へ移築されたんだそうです。(県指定文化財)
水戸城薬医門

 高校の駐車場の背後が土塁になっていたので、一応撮影しておきました。
水戸城本丸土塁



       ***************************

 水戸一高の敷地はそれ以上入れませんので、元来た道を引き返し、弘道館の裏手へ行ってみましょう。
 


より大きな地図で 水戸城 を表示

 三の丸跡には現在、茨城県三の丸庁舎(旧茨城県庁)や図書館などがあります。この三の丸庁舎は古い建物なので、よく映画のロケなどに使用されています。
茨城県三の丸庁舎

 三の丸庁舎の前には大きい空堀が残っています。(上の地図でピンクの目印)こちらも忘れずに見ておきましょう。
水戸城三の丸空堀


 以上で水戸城の紹介は終わりです。先述の通り、城の外郭は大規模だったことはわかるのですが、昔の建物などもほとんどなく、学校などの現在の建物で遮られ、想像をたくましくしないとお城のイメージを脳内で喚起するのは難しいです。



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水戸城をゆく2 城址は学校ストリート

 水戸城の歴史は古く鎌倉時代まで遡ります。常陸大橡・馬場資幹という人がこの地に館を建てたそうです。那珂川と千波湖とに挟まれた舌状の洪積台地の先端に築かれました。
 応永33(1426)年になって、江戸通房が馬場氏を追い出し、館を拡張して、「水戸城」と改称しました。
 その後、豊臣秀吉の小田原攻めの後に佐竹氏に常陸、下野の国が与えられると、佐竹義宣は江戸氏を水戸城から追い出して、自らの居城としました。
 しかし、関ヶ原の戦いで佐竹氏は西軍に与したため、戦後に秋田へ国替えさせられたため、その後に徳川家康の息子である武田信吉(5男)、頼宣(10男)、そして最終的に頼房(11男)が入封し、「御三家」の城として整備されました。家康がこの水戸の地に息子を入れたのは、東北諸藩への監視の意味があったものと思われます。

 藩校「弘道館」を出るとすぐに、大手橋があります。(2007年撮影)現在の橋はもちろん再建されたものです。前のエントリーで書いたように、幕末、城内にいた尊攘派と、弘道館にいた佐幕派との間で、この橋を挟んで戦闘が繰り広げられました。
水戸城大手橋

 橋には隣接して大手門がありましたが、明治初年に取り壊されてしまいました。
水戸城大手門跡

 橋を渡ると、目の前に土塁と水戸城址の案内板があります。水戸城は一言で言うと天然の地形を活かした土塁の城なのです。
水戸城土塁

 ここから先は二の丸で、御殿をはじめとする主要な建物がありましたが、現在は小学校、中学校、高校が置かれて、なにひとつ往時の面影はありません。この日は日曜だったので、さすがに人影も疎らでしたが、以前平日に行った時は歩道上に下校中の学生さんたちの姿が多数見受けられました。
水戸城二の丸跡

 googleの地図で見るとこんな感じ。

大きな地図で見る


 中学校の跡地には「大日本史編纂の地」の石碑が。水戸黄門こと水戸藩第二代藩主・徳川光圀によって始められた「大日本史」の編纂事業は最初は江戸の藩邸で行われていましたが、後に水戸へ移されました。
 以前来た時は石碑のすぐ後ろに校舎があったのですが、今は何故か取り壊されてました。
大日本史編纂の地

 道路を挟んだ斜め向かい側の高校の敷地には、かつて御三階櫓がありましたが、残念ながら先の大戦時の空襲で焼失してしまいました。
水戸城御三階櫓跡

 以前、水戸駅前のビジネスホテルに宿泊した時、そこに置いてあったペーパークラフト?の御三階櫓です。この建物が残っていたら、またお城の印象も違ったものになったでしょうに。残念なことです。
PICT0093.jpg


                      つづく

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水戸城をゆく1 弘道館

 たまたま今回水戸へ行ってきたので、日本100名城である徳川御三家の城、水戸城をご紹介します。実は関東地方の100名城登城はすべて終了済みなのですが、ブログに書く機会がなかなかありませんでした。

 100名城スタンプラリーが始まったのが2007年の6月くらいからだったのですが、水戸城は同年の7月に訪問し、スタンプはゲットしています。巡った100名城の中で4番目に行ったので、かなり初期の頃に登城しています。

 水戸城址の最初の印象はあまり芳しいものではありませんでした。当時の私の100名城メモを見ますと、
「城の遺構がほとんど残っていないので、尾張や紀伊のように復元を望みたい。弘道館と薬医門くらいがかろうじて往時を偲べた」
とわずかな感想が書いてあるだけでした(汗)

 水戸は幕末の混乱があり、明治以後は建物が取り壊されたり、昭和20年の空襲にも遭っているため、建物などがほとんど残存していないこともあって、何故この城が100名城に選定されたのかよくわからないというのが正直なところでした。当時、まだお城ビギナーだったこともあり、自分自身が抱く「お城」のイメージ・・・姫路城や松本城みたいな天守閣などが残っているようなお城・・・とは程遠かったからです。
 ですから、これからご紹介する水戸藩の藩校「弘道館」は、僅かに残された江戸時代を偲ばせる貴重な建物だと言えます。なお、スタンプラリーのスタンプは、ここの券売所で押印出来ます。

 弘道館は天保12年、水戸藩第九代・徳川斉昭公が藩政改革の一環として、人材育成のために建設された藩校です。当時の藩校としては、全国でも最大の規模を誇ったそうです。
 元々、藩校の構想自体は二代藩主である徳川光圀(水戸黄門)の頃からあったそうですが、「大日本史」編纂事業が多忙で実現しなかったため、だいぶ後になりましたが斉昭がその遺志を継いで実現したということです。
 藩士の子弟は15歳から入学出来ましたが、「学問に終わりなし」という斉昭公の方針で、「卒業」という制度はなかったそうです。
 
 幕末の水戸藩は藩内に「尊攘派」と「佐幕派」の二者の対立が激しく、藩内抗争がエスカレートして、とうとう内乱状態に陥りました。幕府崩壊後は弘道館に佐幕派が立て篭もり、城内の尊攘派との間で戦闘が行われ、弘道館内は流血の惨事に陥り、建物も相当の被害を受けました。
 そして、昭和20年の水戸空襲で焼失した建物もあり、わずかに、正門、正庁、至善堂だけが残されました。(国指定重要文化財)

 弘道館正門 (以下4点は2007年7月撮影)
弘道館正門

 弘道館正庁 
弘道館正庁

 至善堂 藩主の休憩所として、また藩主の子弟の勉強の間として使用されました。斉昭の7男で、後の15代将軍・徳川慶喜も少年時代、この部屋で勉強したそうです。また、大政奉還後の一時期、ここで謹慎生活を送っていました。
至善堂


 徳川斉昭夫妻の写真
PICT0024.jpg

 なお、弘道館公園内も梅の木が多数植えられており、今月下旬には見ごろとなることでしょう。

 今回、弘道館の裏手を歩いてみました。今でも一部、土塁が残っていました。
弘道館の土塁

 この後、水戸城を偲ぶ僅かな痕跡を辿ります。  

                  つづく


参考サイト 弘道館公園ホームページ


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春の訪れ 水戸・偕楽園

 先週、茨城県の水戸に用事があって行ってきました。そのついでに、梅の名所である「偕楽園」へ寄ってきました。偕楽園は過去に2,3度来たことがあるのですが、梅の時季に来たのは初めてです。
 偕楽園は天保13(1842)年、水戸藩第九代藩主・徳川斉昭によって「衆と偕(とも)に楽しむ場」として造られました。金沢の兼六園、岡山の後楽園と並んで日本三大名園の一つに数えられています。

偕楽園1

 園内には約100品種、3000本もの梅木があります。ただ、まだ梅見には早かったみたいで二分咲き程度でした。ほとんどの木が蕾の状態でした。見ごろは今月下旬くらいからでしょうね。白梅、紅梅、いろいろな種類の梅が植えてあります。
偕楽園2

偕楽園3

 現代のお花見というと桜を見ることがメインですが、江戸時代の人々は梅見というのもけっこうポピュラーだったようで、お酒や弁当を持って梅の名所を訪れたりしていたようですね。
 ほのかに漂う梅の香に癒されます。(*^^*)

偕楽園の梅2

偕楽園の梅1

 一昨日など東京でも雪が降り、とても寒かったんですが、こうして見ると春の訪れを感じます。私などは4月生まれでやはり春が一番好きですので、早く暖かくならないかなあと待ち遠しいです。

 さて偕楽園の中には「好文亭」という木造三階建ての休憩所があります。これは昭和20年に空襲で焼失していて、現在のは再建の建物です。今回は観光客が多くいたので、入りませんでした。(有料)
好文亭

 遠くに千波湖際に建てられた映画「桜田門外ノ変」のオープンセット(←過去記事参照)が臨めました。昨年8月の終わり頃現地へ行ったのですが、結局映画の方は忙しくて見れず仕舞いでしたが、今度DVDで見ようと思います。
映画「桜田門外ノ変」オープンセット

 なお、恒例の梅祭りは2月20日(日)~3月31日(木)とのこと。期間中は様々なイベントが行われます。

 参考サイト 速報偕楽園


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横山松三郎の墓

 つづき
 先日、東京両国にある江戸東京博物館の展示で見た横山松三郎(1838~1884年)という幕末~明治時代の写真師ですが、4年前に北海道・函館を旅行した際に、たまたま墓参りをしていました。
 横山は明治17年に東京で亡くなるのですが、故郷である函館の大龍寺に葬られました。ご子孫がおられるようで、墓参することが出来ました。

大龍寺


 お墓は寺の裏山にあり、海が臨める眺望の良いところにありました。(右側が横山の墓)
横山松三郎の墓

 横山は若い頃から肺病を患っていたらしいのですが、横山の弟子が書き残したものによると、亡くなる直前、自らの死期をさとった横山は函館へ帰って親族へ挨拶した後東京に戻り、弟子たちを集めて話をし、衣服を新しいものに改めて床に入り、そのまま静かに息を引き取ったそうです。享年47才。なお、東京の泉岳寺には弟子達によって彼の遺髪塚が造られたそうです。
 「幕末の三舟」のひとり山岡鉄舟の最期も見事だったそうですが、この時代の人は死に際まできっちりとしているというか心得がしっかりしていますね。

 4年前現地へ行った際、この人についてあまり詳細を知らなかったんですが、こうして全国を行脚していますと、後々振り返る機会もありますね。

 
より大きな地図で 大龍寺 を表示


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日本100名城完全制覇と有名人の墓めぐり(掃苔)
日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

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