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和みの静岡市美術館と「慶喜コーヒー」

 「静岡戦國祭」の帰りに立ち寄った静岡市美術館ですが、昨年オープンしたばかりとあって、当然のことながらとてもキレイな美術館だったので感心しました。内装も洒落た造りとなっています。変な話、トイレなどもピカピカでしたしね。
 静岡市美術館

 ミュージアムショップも充実。美術関係の書籍や図録等が置いてありました。
 静岡市美術館ミュージアムショップ

 ふと今回の展示関連のコーナーを見れば、図録のほか、最後の将軍・徳川慶喜が愛したというコーヒーなるものを発見。明治の頃、慶喜が飲んだというコーヒーを再現したということです。
 徳川慶喜コーヒー1

 コーヒー豆で売っていたので、あいにく我が家にはコーヒーを挽くやつがなかったので、お土産では買えませんでしたが、併設のカフェで頂くことが出来るというので、注文してみました。お味の方は・・・。
徳川慶喜コーヒー2

 いたって普通でした。(^^) しかし、私は胃が弱くて、コーヒーの種類によっては飲んだ後胃が痛んでくることがたまにあるのですが、こちらのコーヒーは大丈夫だったです♪

 こうして、帰りの新幹線を待つ間をのんびり過ごすことが出来ました。静岡駅からも近く、素敵な美術館でしたので、また静岡へ来た際にはぜひ寄ってみたいものです。

 次回は再び福岡の黒田家の話題に戻ります。


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テーマ : 展示会、イベントの情報
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「家康と慶喜」(静岡市美術館)

 先週、静岡・駿府公園にて開催された「静岡戦國祭」の続きです。桶狭間のシンポジウムが終わった後、帰りの新幹線が来るまで2時間半くらい時間が出来てしまいました。駿府城近辺の史跡巡りは以前してしまったし、さてどうやって時間つぶそうかな、と思ったところ、静岡駅の側にある静岡市美術館で歴史系の展示をやっているということで最後に行ってみることにしました。
 その美術館は、その名も「葵タワー」というビルの中にありました。以前静岡に来た時はたしかなかったような・・・。どうやら美術館は昨年オープンしたばかりらしいですね。
葵タワー


 「家康と慶喜」 静岡にゆかりの深い、江戸幕府最初と最後の将軍を取り上げています。これまで、徳川家康や慶喜については、いろんな博物館等で展覧会はありましたけれども、今回は美術史的なアプローチを試みた趣旨で開催されたということです。
 家康と慶喜

 徳川記念財団全面協力のもと実現した展覧会ということで、なかなか充実していました。当然の事ながら、家康に関しては久能山東照宮、慶喜に関しては茨城県立歴史館から借りてきたものが多かったですが、未見の品も多く、楽しみながら拝見しました。

 まず家康ですが、一番印象に残ったのは、まだ「竹千代」と名乗っていた少年時代、人質先の今川義元からプレゼントされたという「紅糸威腹巻」です。こんなモノが残っていたんですね~。
 家康が今川義元の所に人質でいた時期というのは、一般的には家康の苦難の時代と思われがちですけれども、こうやって義元からのプレゼントを大切に保管していたところを見ると、人質とは言え、家康は義元によくしてもらっていたようですね。
 ただ、その後の家康は義元から偏諱を受けた「元康」という名を捨ててしまったり、義元の姪で正室であった築山殿と疎遠になったり、やむを得ない事とは言え、今川時代を払拭するかのような行動を見せているのですけれどもね。しかし、心のどこかでは義元への謝恩の思いはあったかもしれませんね。遺されたこの品が、家康の隠された思いを語っているような気がしました。
 それから、家康が使用していたという金箔が貼られた扇形のでかい馬標というのがありました。これも自分にとっては未見だったのですが、幕末になって、14代将軍徳川家茂が長州征伐の際に使用したんだそうです。

 それから、重要文化財の「刀 義元左文字」というのがありました。南北朝時代に作られた刀だそうですが、所有者の変遷が面白い。まとめてみると…
 三好宗三が武田信虎(信玄の父)に贈る→信虎の娘が今川義元へ嫁ぐ時に持参→今川義元の愛刀に→桶狭間で義元が戦死 織田信長の戦利品に→本能寺の変で信長死す→豊臣秀吉がかっさらう→子・秀頼が相続→大坂の陣で秀頼死す 徳川家康の戦利品に→徳川家に伝来→明治維新後に信長を祀った神社に奉納

 という経過だそうです。つまり、天下人を魅了した刀だということですね。刀に限らず、茶道具などでもこういった天下人がリレーで所有していた品がよくありますね。これも未見だったので興味深かったです。

 
 一方、最後の将軍徳川慶喜関連の史料ですが、そのほとんどが彼が撮影したという写真でした。慶喜が写真に深い関心を持っていたことはよく知られていますが、今回、所有先の茨城県立歴史館で新発見されたものをはじめとして多数の写真が展示されてました。茨城県立歴史館は一橋徳川家から多くの関連史料を寄贈、寄託されています。
 慶喜が将軍を退いてから世を去るまでの長い歳月、彼が趣味の世界に生きたことはよく知られています。失意の中で隠遁生活を送る彼の慰めになったものは主に写真撮影でした。
 今回展示されているもので、明治に入ってから家族を撮影したものが圧倒的に多いということですね。奥方や側室、多くの子女、親戚など実にたくさんの人々が被写体になっています。
 それから、意外だったのが写真のほかに、慶喜は油絵にも興味を持っていたようで、今回彼が描いたという油絵数点が展示されていました。
 慶喜と言う人は、幕府崩壊寸前に大坂城に多くの将兵を置き去りにして、自分は開陽丸に乗って逃げ帰ってきたエピソードなどを聞くに、将軍としてはイマイチの人物だったと私などは思っているのですが、このような芸術の才能は一級のものがあったようです。

 この日は日曜日とあって、観客も多く展示室内は混雑していました。ご年配の方から小学生ぐらいの子供さんまで熱心に見学していました。学芸員さんの話によると、静岡の人は元々歴史が深い土地柄だけに、今回の展示へ関心を寄せる方達が多かったようです。江戸幕府崩壊後、徳川宗家は家臣団を連れて一時期静岡へ移住していますので、幕臣だった人の子孫なども少なくないのではないでしょうか。

 こういう人たちにもっとアピールして、「戦國祭」へ誘導したらよかったんじゃないですかねえ、とつくづく思いました。

 なお、展示の方は美術館のHPを確認したところ、昨日(30日)で終了していました。2月くらいまでやっているかなあと勘違いしていました。あしからず。

            つづく

 参考サイト 静岡市美術館公式サイト

 
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駿府城

駿府城巽櫓

 今回、イベント参加のため静岡の駿府公園=駿府城跡へ行ったわけですが、ついでですので、駿府城について簡単に記しておきます。上の写真は復元された巽櫓および東御門で今回撮影したものですが、以下の写真は特に断りがない限り、2008年9月撮影のものです。
 桶狭間合戦で織田信長によって滅ぼされた今川義元の居館があったといわれる場所に、天正13年に徳川家康が城を築いたのが駿府城のはじまりです。しかし、この最初の城の詳細についてはわかっていません。その後、豊臣秀吉の小田原攻め(天正18年)により、家康は関八州に転封されたため、代わりに中村一氏が入封しました。なお、関ヶ原合戦以後は家康の異母弟である内藤信成が城主となっています。
 将軍職を息子の秀忠に譲った家康が、自らの隠居所として選んだのが駿府城でした。慶長12年(1607年)より西国大名に命じて城を大改修し、三重の堀を巡らし、五重七階の天守を築かせました。
 家康は何故駿府城を隠居所としたかという理由を江戸・増上寺の僧侶に問われて、次のように語ったということです。

一 自分が幼少の折に過ごした場所であり、故郷に近い印象
二 冬に暖かいこと
三 米が美味しいこと
四 西の安倍川、さらにその西南に大井川、北東に富士山や箱根山のある要害であること
五 諸大名が江戸と領地を往来する際、必ず駿府に立ち寄ることが出来る


なるほど・・・。一言でいえば、駿府は年寄りにとって過ごしやすいってとこですかね。しかし、彼の本音は大坂城にいた豊臣秀頼や豊臣方の大名に睨みをきかすことだったらしいですが。

 さて駿府城の本丸・二の丸の跡地である駿府公園の方を見てみましょう。

大手御門虎口 枡形がよく残っています。
DSCF6886.jpg

復元された二の丸東御門 入場するには200円支払います。
駿府城二の丸東御門

発掘調査で復元された本丸堀
駿府城本丸堀

同じく発掘された二の丸水路 (※今回撮影)
駿府城二の丸水路

徳川家康の銅像 趣味だった鷹狩りの扮装をしています。
徳川家康

家康お手植えのミカン 木の周りに柵が設けられていた。
家康お手植えのミカン

東御門内の展示室にあった五重七階の天守の模型。残念ながら、寛永12年(1635年)火事によって焼けてしまい、その後は再建されませんでした。
駿府城天守閣模型

二の丸跡地から発掘された青銅製の鯱
DSCF6777.jpg

なお駿府公園の南側にある静岡県庁分館のビルの上階に展望室があって、お城の外観を見ることができます。展望室の隣に、たしかレストランがあり、主に県庁に勤めている公務員の方たちが利用していますが、3年前に行った時は私も城を眺めながらランチを頂くことが出来ました。(今もあるのかな・・・?)
DSCF6849.jpg


それと、たしか12,3年前ぐらいでしたか、駿府城の天守を復元するという話があったんですよね。しかし、ちらっと聞いた話では、その復元話はどうやらボツになってしまったらしい。火事で焼失した天守の詳細が判明せず、はっきりしないものに多額の予算はかけられないと判断されたようです。その代わり、天守台の復元はやぶさかではないらしい。とはいえ、私も県民ではないので詳細がわからぬので、ご存知の方、是非ご教示くださいませ。

このお城は維新後、明治29(1896)年になって陸軍の歩兵34連隊が入ってきて、天守台の石垣は破壊され、本丸堀も埋められてしまったんですよね。ですから東御門を入ると、本当にただの広場というか、公園です。
ですが、地元の方たちの憩いの場所となっていることは確かです。
3年前に駿府公園の周囲だけでなく、三の丸堀の周辺も歩いてみたのですが、かなりの規模の外郭で歩き疲れてしまったことを付記しておきます。


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宮下英樹氏『センゴク外伝・桶狭間戦記』

 静岡戦國祭に協力した漫画家の宮下英樹氏の原画パネル展が、祭の当日(23日)より駿府公園内の巽櫓で開催中です(2月27日まで)東御門、巽櫓の入場料として200円かかります。
DSCF0320.jpg

 宮下氏は『センゴク』という歴史漫画を連載していたということなのですが、私はこの手の漫画をほとんど読みませんので、残念ながらストーリーがわかりません。
 ただ、イラストそのものはなかなか迫力がありました。

 この日、午前中メイン会場では宮下氏のサイン会が行われていましたが、午後のシンポジウムの後もミニサイン会をしてくださるということで、メイン会場の受付で予め3冊ほど氏の漫画本を購入しておき、シンポ終了後に3冊ともサインしていただきました。
宮下英樹

 ファンを大切にされているみたいで、丁寧にサインしていただきました。3冊の中の1冊、イラスト入りのものをご紹介します。描いてくださったのは織田信長の横顔でしょうか?
DSCF0377.jpg

 帰ってから漫画を少し読んでみましたが、首実検のシーンなど細かい部分の考証がよく出来ていました。かなり勉強されているというか、取材力があるように思いました。元々歴史がお好きなのでしょうね。歴史がお好きで、しかも絵もお上手なのは羨ましい限りです。
 宮下先生、どうも有難うございました。

 宮下先生の作品はコチラ↓↓↓
センゴク外伝 桶狭間戦記(5) <完> (KCデラックス)センゴク外伝 桶狭間戦記(5) <完> (KCデラックス)
(2010/12/29)
宮下 英樹

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 以上で「第一回静岡戦國祭」の記事は終わりです。全体的な感想ですが、人出がイマイチだったかなあと。もうひとひねり、企画を立てたほうがいいかも、と思いました。まあ最初で告知不足もあるでしょうし、今後の展開に期待したいところですね。
 最後に、「Shizuoka城と戦国浪漫」のHPをご紹介しておきます。(←クリックでHPに飛びます)
 これによると、なんと静岡県内には700以上もの城跡があるんだとか。私などはこれまで、せいぜい両手で数えるくらいしか行ったことがありませんが、今後の城巡りの参考にさせていただきます。(かなり詳しいです)

              この項終わり




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シンポジウム『桶狭間を語る!!』

 「第一回 静岡戦國祭」の続きです。午後からは県立図書館の方で記念シンポジウム『桶狭間を語る!!』が開催されました。このシンポに参加するには事前申し込みが必要でした。
 聴講者は200人くらいでしたが、このうち半数以上の方たちが私も含め、静岡県外からの参加だったようです。

 司会は加藤理文氏(織豊期城郭研究会)、パネラーは小和田哲男(静岡大名誉教授)、中井均(長浜城博物館館長)、本郷和人氏(東大准教授)、宮下英樹氏(漫画家)の各氏です。

桶狭間を語る!!

 今回のイベントに協力した漫画家の宮下氏が『センゴク外伝桶狭間戦記』という作品の中で桶狭間合戦について描かれ、それにちなんで、桶狭間合戦の意義について語り合うというのが今回のテーマでした。

 若き日の織田信長が今川義元を討ち取った有名な桶狭間合戦ですが、長らく劣勢の信長が勝利したのは、信長勢による迂回奇襲策が成功したため、とされてきました。

 しかし、近年研究家によってこの定説に疑問が出され、新説が提起されております。
 藤本正行氏(歴史家)は『信長公記』首巻を今一度検討され、正面攻撃説を主張されました。また、黒田日出男氏(東京大学名誉教授 立正大学教授)は『甲陽軍鑑』を元に藤本説を否定され、今川軍の兵士たちが「乱取」に夢中になって陣が手薄になったところを、信長勢が直接今川義元の本陣へ攻め込んだという説を提起されております。

 これらの状況を踏まえて、桶狭間合戦について様々な観点から議論が行われました。1時間40分くらいの討論でしたが、パネラー各氏の発言内容も示唆に富んでおり、拝聴していて面白かったです。
 各発言内容すべてに言及するのは無理なので、一応、私的に印象に残ったことをまとめておきます。

 東大の本郷氏は、『信長公記』の内容に少々疑問を持たれているそうで、よく信長軍2000と言われますが、実際には1万5千くらいの軍勢はいたのではないか?という事を指摘されておられました。この頃の織田の尾張領と、今川の駿河、遠江、三河三国の石高はほぼ同等だったらしいという話でした。
 本郷氏によれば、『信長公記』の作者である太田牛一が、劣勢であった信長が数の上での大差を乗り越え今川方に勝利したことを強調するために、あえて軍勢の数を少なく記したのではないか?ということです。

 中井氏は、「自分はお城に関することしか言えません」とおっしゃり会場を沸かせた後、「唯一断言できるのは、信長が桶狭間で勝利しなかったら、安土城のような近世城郭の誕生は無かったということ。多分、土の城のままで石垣が築かれることはなかっただろう」と述べておられました。その他、静岡県内のお城について語っておられました。

 漫画家の宮下氏は、代表作『センゴク』を描く上で静岡県内を度々取材で訪れ、従来のひ弱な武将というイメージを払拭し、新しい今川義元像を描くことに力を入れたということでした。宮下氏は取材の過程で、かなり勉強していらっしゃる印象を受けました。

 小和田氏は当然のことながら静岡県の歴史には地元ですからとてもお詳しかったのですが、徳川家康と今川義元との「関係」に言及されていました。よく、家康幼少期の人質時代は辛苦に満ちたものと言われますが、実際は今川義元から厚遇されていたということでした。
 だからこそ、晩年の家康はかつて自分が人質生活を送った駿府にあえて隠居所を設けたというのです。


 以上簡単に内容を記しましたが、なかなか面白いお話が伺えました。結論的には、今川義元の復権や静岡県内の史跡に関心を持ってほしいといったところでしょうか。
 聴講者の方達も歴史に関心のある層だったと見え、皆一熱心に伯仲する議論に耳を傾けていました。

 歴史に詳しい専門家を招き充実した内容だったので私は満足でしたが、あえて一言苦言を申し上げるなら、会場となった県立図書館がメイン会場である駿府公園から少々遠かったことです。これはちょっと・・・と思います。
 県立図書館は静岡駅からバスで30分位の場所にあり、私はあいにく1時間1本しかないバスを逃してしまいました。仕方がないので、JR草薙駅まで電車で行き、そこからバスに乗りました。(40分位かかってしまいました)
 出来れば、次回からはもう少し駿府公園や静岡駅に近い所に別会場を設けていただきたいものです。(県内や近県の方は自家用車で行けばいいのでしょうが、遠方からの来場者はそうもいきません)

 パネラーの人選、テーマについては企画の方向性に真摯なものが伺えたので、ぜひ次回も楽しい企画が開催されることを願っています。
                    つづく
 


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「静岡戦國祭」に行ってきました (^^)♪

駿府城


 ブログは筑前黒田家の途中ですが、ここで昨日静岡で開催された歴史系イベントの報告です。こういうキャッチーな話題はあまり時間が経ってから書いても新鮮味が薄れてしまいますので、今記しておこうと思います。(黒田家の方は後日アップします)

 第一回静岡戦國祭 (←クリックで公式サイトに飛びます)
 事前にネットの告知で知ったのですが、「静岡戦国プロジェクト実行委員会」の皆さんが、昨今の戦国ブームにちなんで、静岡県内のゆかりの地をPRするために企画されたのだそうです。一言でいえば、「観光誘致」活動ですかね。
 歴史ファンの中で、こういう戦国系イベントが大好きな人というのはけっこういらっしゃるのですが、実は私自身はあまりこの手のイベントは好きじゃないんですよね。というより、みんなでワイワイ騒ぐのが昔から大の苦手なのです。一緒にイベントへ同行出来るような友人もいませんし、一人で行ってもかえって孤独感を感じてしまうからです。それよりも、ピンで静かな山城で石垣でも見ていたほうが気が休まるのです(苦笑)。
 しかし、今回は興味を引かれるところがありましたので、意を決して出かけてみることにしました。

 早朝新幹線に乗り、静岡へ。午前9時頃静岡駅へ到着し、駿府公園の方へ歩きました。上の写真のとおり、良いお天気です。
 実は駿府公園=駿府城には過去に2回は来ています。100名城に選ばれているからです。スタンプの方は三年前にゲットしています。
 また、静岡県へは観光で数度訪れています。やはり気候が暖かいのはいいですね。若い頃は伊豆の方の温泉へよく行きました。あとお茶が好きなので、お土産に買って帰ったりしています。

 公園内の広場に開設された特設会場へ行くと、すでに人々の姿が。報道陣の姿もちらほらと。
  静岡戦國祭1

  ステージ上には来賓の方々がスタンバイ中。どこかでお見かけしたような顔も・・・(後ほど紹介します)
  静岡戦國祭3

  9時半くらいからイベント開始です。他県より応援にかけつけた甲冑隊の皆さん。どの方も気合十分で、マジで決まってます。こういう方たちって、レプリカとはいえ重い甲冑を抱えて各地へ参陣していらっしゃるそうですが、けっこう大変なのでは?と思います。
  静岡戦國祭2

  この日は晴れていたのですが、やはり北風が冷たくて、体が冷えてきました。辺りを見回すと、屋台がいろいろと出ています。ステージを離れて、ついつい屋台の方へ。
  DSCF0337_20110124214218.jpg

 まず、やきそば屋さんで売っていた温かい豚汁を。体が暖まります。
DSCF0334_20110124214158.jpg

 屋台が混雑する前に早めの昼食を取ろうと、富士宮やきそばと浜松餃子もゲット。美味しくいただきました。(^^)
DSCF0335.jpg DSCF0336.jpg

 本部受付のほうで今回のイベントの記念グッズを販売していたので、一応記念に買っておきました。(限定品だそうです)手ぬぐいとストラップです。
  DSCF0376.jpg

 イベントはまだまだ続きます。



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黒田長政の墓

  黒田長政の墓

 黒田如水(孝高)の隣には息子さんの長政(1568~1623年)の墓がありました。
 天正5(1577)年に父が織田信長に臣従すると、まだ松寿丸といっていた長政は信長の元へ人質に出され、羽柴秀吉に身柄を預けられます。この時、彼はまだ数えで十歳でした。
 それから5年後の天正10(1582)年、長政は秀吉の中国攻めに従軍したのを皮切りに、秀吉の数々の戦に加わっています。
 天正17年に父・孝高の致仕によってその所領を継ぎました。
 天正19年からの朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも加わっており、二度とも朝鮮に渡っています。このうち、慶長の役での有名な蔚山城の籠城戦で加藤清正の救援に向った長政でしたが、その折に敵軍をあえて追撃しなかったことを軍奉行が秀吉に報告したため、秀吉はこれに怒り、長政は蜂須賀家政と共に謹慎蟄居の上、領地部分没収の憂き目に遭います。この時の事で、石田三成の息がかかった軍奉行が己のことを讒言したものと考え、三成を恨んだ長政は、秀吉の死後は徳川家康に急接近します。秀吉の養女として嫁いできた正室(実は蜂須賀正勝の女)をわざわざ離縁し、家康の養女となった保科正直の娘を娶るのです。この辺の変わり身の早さには脱帽です。

 後は皆様ご承知の通り、関ヶ原では積極的に家康に与し、裏では根回し交渉を行う等目覚しい働きを見せています。(吉川広家などは見事引っかかりました)この辺は父親の血を見事受け継いでいますね。すなわち、機を見るに敏なのです。
 そして、戦後の論功行賞で52万石で筑前一国を与えられ、長政は晴れて「国持ち大名」となったのです。

 結果論ですが、長政はなかなかうまくしてやったなあという感じです。幼少の折から人質生活を送り、戦を重ねる中で情勢を冷静に見る目が養われたのでしょう。如水―長政の二代のリレーで、過酷な戦乱を乗り越え、やがて到来した泰平の世では大藩の大名として子孫は幕末まで続きましたとさ。めでたしめでたし(-人-)
 
 
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tag : 有名人の墓(か行)

黒田如水の墓(黒田家墓所)

 博多崇福寺(黒田家墓所) のつづき


黒田如水の墓



 黒田家のお墓の紹介はやはりこの人から。豊臣秀吉の名参謀であった黒田如水(孝高 通称・官兵衛 1546~1604年)の墓です。如水というのは剃髪後の号ですが、ここでは一般的にも有名な如水の名をもって記します。
 
   黒田孝高


 黒田如水については、もはや説明不要かと思われます。お正月の民放の時代劇でもやってましたね。(私はあいにく見ませんでしたが・・・)荒木村重によって長期にわたり土牢に幽閉され、そのせいで足を痛め、救出されたときには片足が跛(びっこ)になってしまうという辛苦を味わいました。
 秀吉の中国攻めの折に秀吉に臣従して以来、秀吉が歴戦を乗り越えてきたのは如水の存在があってこそでした。彼は非常に交渉術にたけた人であったので、戦による犠牲を最小限にするためなるべく戦わずして敵を臣従させたい秀吉の意向に沿った働きが出来たものと思われます。世に言う「高松城の水攻め」は如水の献策によるものだということはあまりにも有名です。そして、小田原攻めでも如水は活躍し、無血開城させることに心血を注ぎました。 
 このように如水は「智謀の人」であり、秀吉も如水の能力を高く評価する一方で警戒しており、「官兵衛がその気になれば、自分に代わって天下を治めるだろう」と語ったとか。その結果如水に与えられたのはたかだか豊前中津の17万石に過ぎなかった話がありますが、策謀の士である如水にもし高禄を与えれば、自分の権力の座が脅かされかねないという秀吉の懸念があったものと思われます。

 秀吉の天下統一の過程で、常にこの人が側にあったわけですが、やがて内政を司どる石田三成の台頭によって、徐々に秀吉と如水の間には距離が出来ていきます。関ヶ原で息子の長政と共に東軍に与したのはこの辺の事情によるものです。

 ところで、黒田如水はあの小早川隆景と仲が良かったといいます。友人同士というよりは、むしろ双方とも権謀術数にたけた「好敵手」といった関係だったかもしれませんが。
 しかし、隆景は死の間際、「筑紫大名(如水のこと)には上方への往復途中に休憩したいからと言って、毛利の領内に休息地を貸し与えてはならない」と遺言したといわれます。如水について、上辺は親交を結んでいた隆景もまた油断も隙もならない男だと見ていたんでしょう。
 関ヶ原のとき、如水は中津にいて天下を伺っていたといいますが、あれもどうなんでしょう。
 戦後、凱旋してきた息子の長政は、徳川(家康)殿は長政の働きに対して手を取って喜んでくれたのだと父・如水に報告しましたが、それを聞いた如水は「それはどちらの手だ」と問い、長政は「右手でござる」と答えた。それに対して如水は「そのとき、お主のもう一方の手は何をしていた」と叱責したという逸話がありますが、あれは多分後世の作り話でしょう。論功行賞により筑前に封じられた子の長政に従って引っ越した最晩年の如水は、悠々自適の隠居生活を送っていたようです。
 如水の真価は、むしろナンバー2であり続けたことにこそあったと言えるのではないでしょうか。

 さて、肝心のお墓の方ですがご覧のようにかなりでかいです。高さが2メートル以上はゆうにありましたから。
 そして、墓石の側面には如水の生涯について朱筆で碑文が記されています。朝鮮の役で小西行長の通訳をしていた対馬の僧侶が書いたということです。
  黒田如水の墓b



 如水は高山右近の勧めで一時キリシタン(洗礼名 ドン・シメオン)になりましたが、秀吉の禁教令により棄教しています。
 なお、京都の大徳寺龍光院にも如水のお墓があるそうです。如水は伏見で死んでいますので、死後直後には一旦大徳寺の塔頭に葬られたのかもしれません。

 合掌 (-人-)


 【追記 2013年8月】
 去る8月5日に、来年のNHK大河ドラマ「軍師・官兵衛」の主演・岡田准一さんが黒田孝高の墓参りをされたようです。その影響なのか、ここ数日、アクセス数が若干上がっております。有難うございます。
 同墓所訪問時、快く拝観させてくださいましたお寺様には感謝申し上げます。


 関連記事 謹賀新年2014(再訪しました)



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tag : 有名人の墓(か行)

博多崇福寺(黒田家墓所)

 福岡・柳川行きの途中、少々時間に余裕がありましたので、博多で墓めぐりを行いました。
 博多へは何度か来ていますが、いつも福岡空港利用のためのみで、史跡めぐりはあまりしたことがありません。
 以前福岡に来た時に時間切れで行けなかった史跡を辿ります。

 崇福寺 臨済宗の寺院です。筑前藩主黒田家の菩提寺です。
崇福寺

 こちらをお読みの方の中には、「またお寺ですかあ?」と飽き飽きされている方も中にはおいででしょうが、ところがどっこい。
 お寺さんには、廃城となった城の遺構が移築されて残っている場合がとても多いのです。こちらのお寺の山門も、実は福岡城の本丸表御門だったものを、大正時代に払い下げられたということです。
 崇福寺にはこのほかに福岡城から二基の櫓が移築されていましたが、現在は解体保存されているということです。

 門をくぐり中に入りますと、さすがに黒田家の菩提寺とあって広い境内でした。
 このお寺にはもう一つ、お城の遺構があるのです。

 こちらの唐門は、小早川隆景ゆかりの名島城の遺構と伝えられています。門前の紅葉がとても鮮やかでした。
崇福寺 唐門

 唐門を撮影した後、黒田家墓所へと向かいます。墓所は境内の奥まった場所にありました。
 しかし、門扉には鍵がかかっています。
黒田家墓所

 仕方がないので、一旦引き返して庫裏の方へ伺い、呼び鈴を鳴らすと、中から作務衣を着た女性の方が出てこられまして、三つ指つかれて丁重に挨拶されてしまいました。(多分、住職夫人) 用件を告げますと、墓所の鍵を貸していただけました。出てきて下さった住職夫人?はとても丁寧な物腰で、行き届いた方だなあと思わず感心してしまいました。

 墓所の門扉を開けて、中に入ります。芝生の上に墓塔が数基建っております。
 なお、現地の案内板によると、平成17年3月の福岡の地震で墓塔が被害を受け、一部造り直したものもあるようです。
黒田家墓所2

 次回はあの有名戦国武将のお墓をご紹介します。


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柳川藩主立花家別邸 「御花」

 「立花宗茂展」の展示会場だった史料館は、柳川藩主立花家別邸の「御花」という施設の中にありました。「御花」とは江戸時代中期より、藩主の側室やその子供たちが暮らしていた別邸です。柳川城からはやや離れています。
 維新後、立花家は華族になりましたので、この御花の地に洋館を含むお屋敷を建てて、当主とその家族の住まいとしました。
御花1

 戦後になって、立花家では今まで暮らしてきた屋敷を利用して、料亭経営を始めます。それが元となり、現在ではホテルや食事処、史料館を備えた文化施設となって、柳川の観光スポットになっております。
 柳川には一日半いたのですが、土日とあって、多くの観光客が訪れていました。
 洋館の建物も素敵でしたが、あいにく中で結婚式の準備をしていて、内部はよく見ることが出来ませんでした。
御花2

 本館(和風建築)の入口には、立花宗茂の等身大の人形があって出迎えてくれました。
PB200088.jpg

 松濤園。国指定名勝の庭園。クロマツが多数植えられており、手入れが行き届いています。左側に大座敷があります。(この日は何かの集まりがあって宴会場になっていました)
松濤園

 折角ですので、「御花」の中にあったレストランで食事していくことにしました。あいにくこの日、私は風邪気味で微熱もあって、体調がイマイチだったため、他所のお店を探すのも億劫な感じだったんですね。館内に2,3箇所食事処がありましたが、団体さんや結婚式?関係の人たちがいたので、「集景亭」というレストランが空いていたため、そこへ入りました。柳川といえばウナギが有名なので、一度はウナギを食べてみたいと思っていましたので、注文してみました。「うなぎのせいろ蒸し」2300円?くらいでした。ウナギがやわらかくて美味しかったです。
PB200097.jpg

 ただ・・・お料理は良かったのですが、そこにいた店員の態度に疑問が。
 たまたま私が入店した時、先客は誰もいなかったんですけれども、私たちが食事している隣のテーブルで店員二人が配膳の練習をしてるんですね。隣席には「予約席」の札があり、どうもそこに後からコース料理の客が来るらしい。
 で、先輩らしき店員が若い店員に、「これはこうやってお出しして・・・」と大声を出して、身振り手振りで「予行演習」を色々やっているわけです。後ろにいる我々にはお構いなく・・・。そういう事は厨房でやればいいのに。

 こちらには水やお茶のお代わりも持ってこないし、まったく無視されているようで何だかなあ・・・と思っていると、その予約の客二人がやってきました。私が予想した通り、その隣席の客はコースを注文していたようで、店員達は私たちには見せない笑顔で愛想よく「予行演習」通りに配膳していましたが。(そりゃそうですよね。コースの客のほうが正直儲かるのですから)

 やれやれと思い、会計をして店を出ましたが、入口に「立花宗茂弁当」の告知を発見。史料館での「立花宗茂展」の関連企画メニューということで、店の人に聞いてみたらランチのみでしか提供していないとのこと。
 じゃあ、明日もう一度お昼に来てみようと思い、レストランを後にしました。
PB210264.jpg

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立花宗茂の墓

 今回の福岡県柳川行きは、御花史料館にて開催された「立花宗茂展」を見るのが主な目的でしたが、やはりここまで来たらお墓参りも忘れてはいけません。
 立花家の菩提寺は、福厳寺という臨済宗黄檗派のお寺です。
 福厳寺本堂

 境内には立花家代々の御霊屋がありました。
 PB210332.jpg
 

 立花宗茂(1567?~1643年)のお墓です。しかし、宗茂は江戸で死んだので、実際亡骸が葬られたのは下谷にあった「広徳寺」というお寺です。「広徳寺」は後に練馬の方へ引っ越してしまい、どうやら一般の拝観は不可らしいのです。
 ですから、柳川のお墓には分骨や遺髪などが葬られているのではないかと思われます。
 立花宗茂の墓

 宗茂の義父・戸次鑑連(立花道雪)の墓  道雪は天正13(1585)年に73歳をもって陣中で病没してしまい、立花山の麓に埋葬されました。ですから、本当の墓は福岡県新宮町にある梅岳寺という寺にあります。柳川の方は供養塔?と思われます。
 立花道雪の墓


 「立花宗茂展」のところでも書きましたように、跡継ぎである息子に恵まれなかった立花道雪は一人娘の千代(1569~1602年)に男児と同じように家督を相続させ、千代は若干七歳にして立花山城の女城主となりました。
  立花千代

 そして、道雪は千代の婿として高橋紹運の嫡男・統虎を養子に迎えました。後の立花宗茂です。「お宅の息子さんをうちの婿養子に」と道雪から懇願された高橋紹運の方は当初難色を示したといいますが、道雪に押し切られた形で息子を手放しました。

 こうして、宗茂と千代は夫婦になったわけですけれども、どうも千代の方は父から跡継ぎとしての教育も受けており、男勝りの性格もあって、夫に唯々諾々と従うような妻ではなかったらしい。婿養子の宗茂は宗茂で、養子という負い目もなく、一家の主として堂々と振舞う。
 これでは家の中に主人が二人いるような風になってしまい、加えて二人の間に子供も出来ず、夫婦仲はしっくりいかなかったんだそうです。
 豊臣秀吉の九州仕置によって、宗茂は柳川城を与えられたのですが、奥さんの千代は慣れ親しんだ立花山を離れたくないと駄々をこね、渋々柳川へ引っ越したものの、城には入らず、外堀の外、宮永という場所に屋敷を建てて別居してしまいます。
 夫の宗茂の方は重臣達の勧めもあって、美女の誉れ高い家臣の矢嶋秀行の娘を側室として迎えてしまい、宗茂と千代の夫婦関係の破綻は決定的となってしまいました。
 宗茂が関ヶ原後、改易されると、千代はここでも夫に従うことなく、肥後国玉名郡腹赤村の百姓屋へ移り、2年後に失意のうちに34歳の若さで死んでしまいました。

 宗茂と千代は心の通いあわない夫婦でしたが、宗茂の方は義父の道雪から託された千代を片田舎の百姓屋で死なせてしまったことにやはりある種の後ろめたさがあったものか、後に柳川藩主として帰還してから、千代の菩提を弔うために「良清寺」というお寺を建てました。
 (今回、時間がなくてこちらへは行けませんでした)

 現代でもそうですが、婿養子を取るというのはなかなか難しいものがありますね。余談ですが、生涯を通して宗茂は三人の妻を娶りましたが、結局実子が出来ませんでした。宗茂は戦につぐ戦で多忙だったこともありますが、子胤が無かったんでしょうか?


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tag : 有名人の墓(た行)

田中吉政の墓

 柳川城主だった立花宗茂が関ヶ原の戦いで西軍に与したため、徳川家康によって改易されたわけですが、その後釜に座ったのが三河岡崎城主であった田中吉政(1548~1609年です。
 田中吉政は近江の出身で、出自等ははっきりしない事が多いということですが、どうも今年の大河ドラマのヒロインと同じ近江の浅井郡の生まれらしく、元は農民だったらしいです。
 その後、国人領主だった宮部氏に従って侍となり、姉川合戦の後に宮部氏が羽柴秀吉に帰順したため田中吉政もそれに従いました。
 その後、縁あって秀吉の甥である羽柴秀次の宿老となり、秀次領の近江八幡の領国経営に従事しました。
 天正18(1590)年の秀吉による小田原攻めの際にも秀次麾下として功があり、三河岡崎城主(5万7400石)となります。(後に10万石に加増)
 文禄4(1595年)のいわゆる関白秀次事件の際には、何故か吉政は連座を免れています。
 秀吉の死後、吉政は徳川家康に接近し、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、配下の者が西軍の将である石田三成を捕縛するという功を挙げています。戦後の論功行賞の結果、吉政は柳川32万石をもって移封となるのです。
 田中吉政については、私なども不勉強で、関ヶ原の際の石田三成の捕縛で名前を知っているくらいでしたが、柳川で購入した資料を読んでいると、彼が筑後柳川城へ移封された後、城や城下町の整備、治政に力を尽くしていることがわかりました。柳川城の五層の天守も田中吉政時代に造られたものです。

 そのような功績が見直されているのか、前述した柳川お堀めぐりの途中、堀端に吉政の銅像がありました。数年前に建てられたらしいです。
 PB210309.jpg
 田中吉政

 しかし、吉政は慶長14(1609)年に伏見で客死してしまいます。亡骸は京の黒谷に葬られたそうです。現在も黒谷のとあるお寺さんに彼のお墓があるそうですが、柳川にも田中吉政の菩提寺及び墓があると聞いて、行ってきました。

 田中吉政の菩提寺・真勝寺(浄土真宗)
 真勝寺本堂

 お寺の方(多分、住職夫人)に吉政の墓は何処でしょうか?と尋ねたところ、お寺の方が言われるには、「この本堂全体が吉政公のお墓なので、まずはお上がり下さい」とのこと。
 早速本堂に上がらせて頂き、御本尊の阿弥陀仏に参拝させていただきました。
 その後、お寺の方が「こちらへどうぞ」と案内された先には・・・本堂の床下に小さい木口が。床下ですから、当然のことながら屈みつつ前進します。
真勝寺本堂2

 なんと、この木口の先に吉政のお墓があったんですね。(-人-)
田中吉政の墓

 つまり、お墓の上に本堂を建てたということなんですね。詳細はわかりませんが、京の黒谷に葬られた田中吉政の遺骨を息子の代になって移したか、あるいは分骨、遺髪などが葬られているのかもしれません。

 さて、田中家のその後ですが、吉政の死後、四男の忠政が継いだものの、彼は後嗣がないまま36歳の若さで死んでしまい、とうとう田中家はお家断絶になってしまいました。
 こうして、主のいなくなった柳川に、再び元の領主であった立花宗茂が戻ってくるというわけです。



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オノヨーコさんと柳川

 つづき
PB210227.jpg

 川下り結婚式の舟を見送った後も、私たちを乗せたどんこ舟はのんびりと進んでいったのですけれども、途中に水車みたいなのがありました。昔はこのような水車が各所にあったらしいですけれども今はここだけらしい。

 途中でまた別の会社の船乗り場があり、そこを通過した時にしつこく明太ちくわを勧められたので買いました。この乗り場では犬を飼っていて、またこの犬が人なつっこくて、尻尾を振り振り通過していく乗客にエサをねだっています。
PB210228.jpg

 舟を漕ぎながら、船頭さんが柳川の観光情報などを説明してくれるのですが、途中に故ジョン・レノン夫人のオノヨーコさんの祖父の生家という家の前を通過しました。ちょっと見にくいですが、木の向こう側にある屋根だけ見えている家がオノさんの祖父・小野英二郎氏(元日本興業銀行総裁 1864~1927年)が昔住んでいた家だということです。
(よく「オノヨーコ、生家、柳川」で検索してくる人がいますが、オノヨーコさん自身は東京生まれなので、柳川出身ではありません
PB210241.jpg

 調べてみると、オノヨーコさんのご先祖様は立花宗茂と、宗茂が関ヶ原で改易後に加藤清正に仕えた小野和泉守鎮幸という人です。小野氏は後に立花家が柳川に返り咲くと帰参して再び立花家家臣となっています。
 つまり、
      小野鎮幸
        |
        |
      (数代)
        |
      小野英二郎
        |
      小野英輔
        |
      オノヨーコ
 
 ということですね。
 オノさんといえば、「世界一有名な日本人」として知られます。その証拠として、彼女はツイッターをなさっているのですが、なんと116万人のフォロワーがいるのだとか!この年末も、大新聞に意見広告を出しておられましたが・・・。
 オノさんのルーツは柳川にあったのですね。


 【追記】
 先日、柳川を再訪する機会があり、柳川市教育委員会の方に問い合わせたところ、オノさんのご先祖様は柳川藩士ではありますが、小野(和泉守)鎮幸とはまた別の家系の小野家だということがわかりました。教育委員会の方のお話だと、世間で少々間違って伝えられているとのことでした。
 もちろん、小野鎮幸の系統もご子孫がいらっしゃるそうです。
 ここに上記の内容を訂正し、お詫びいたします。(2012年10月記)



 一方、オノさんの母方は有名な安田財閥の一族。オノさんの母方曽祖父は安田善次郎(安田財閥創始者 東京大学安田講堂を寄贈)です。母方の家系の方が一般的には有名ですね。
 オノヨーコさんの生き方を見ていると、あの御年の方としてはとてもパワフルに、アグレッシヴな人生を歩んでこられたように思うのですが、その芯の強さはやはり武家の血を引いているというところにあるのではなかろうか、と思いました。
 ワールドワイドに活躍されているオノヨーコさんですが、でももう先祖の土地である柳川を訪れる機会はなかなかなさそうですね。(ちょくちょく帰国はされているようですが)

 その他、柳川にゆかりのある人物として、船頭さんは俳優の妻夫木聡さんや、阪神タイガースの真弓明信監督の名を挙げていました。妻夫木さんは柳川市内で生まれたものの、小学生くらいの時に横浜へ引っ越してしまったのだそう。真弓監督は柳川商業(お堀端にありました)のOBということです。
 
 こうして舟はつつがなく進んでいき、御花の脇を通り過ぎて、あとちょっとで終点というところで、ちょっとしたアクシデントが発生してしまいました!(追記の開閉をクリックしてください↓↓↓)

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柳川お堀めぐり

 柳川は水郷の町でもあり、観光の目玉としてお堀めぐりが有名です。
 私も市街を歩いているときに、お堀めぐり中の渡し舟(「どんこ舟」と呼ぶらしい)を見つけました。
柳川お堀めぐり

 お城めぐり、お墓めぐりもいいのですが、やはりここまで来たらフツーの観光もしてみたいのが人情。
 その時、運よく近くに船乗り場を見つけましたので、すでに何人かの乗客を乗せて今にも漕ぎ出そうとしていた渡し舟に乗ることが出来ました。
 なお、船乗り場は市街に6箇所あって、それぞれ担当の運行業者さんが違うそうです。
 私が乗った舟の船頭さんは若い人で、まだ20代という話でした。
PB210215.jpg

 舟に乗ってすぐのところに、「柳川城堀水門」がありました。現地案内板によると、この水門は城内に入るための唯一の水門で、城の防禦のために築かれたということです。有事の際、この水門を閉め、矢部川の堤防を切り崩して水を入れると、城内、柳河、宮永を残して周辺は水浸しとなり、あたかも島のような状態になるということです。つまり、柳川城は水城ということですね。
 同様の水城には佐賀城(佐賀県)ですとか、小説「のぼうの城」で有名になった忍城(埼玉県)などがあります。
 柳川城堀水門1

 上から見た水門。
 柳川城堀水門2


 ここで舟はいったん元の船乗り場の方へ引き返し、ゆっくりと終点の御花方面を目指して進んでいきます。
 途中に出会った白鷺。人慣れしているのか動ずることなく水浴び中でした。のどかな風景です。その他、鴨や亀などにも遭遇しました。
 白鷺

 柳川のお堀ですが、かなり幅がありますね。ただし、この日は直近で雨の日が少なかったため、水量も少なかったです。
 PB210223.jpg

 その時、船頭さんの「前方をご覧ください。あちらから嫁入りの舟が来ましたよ!」との声。
 和装姿の花婿と花嫁、そして親族の方たちが乗った舟が近づいてきました。船頭さんによる寿ぎの唄?が聞こえてきます。澄みわたる秋の空のもと、嫁入り舟は御花方面からやってきたのでしょう。なかなか風流な結婚式ですね。

 新郎新婦は私と同世代かちょっと上くらい?にお見受けしましたが、落ち着いた大人のご夫婦といった雰囲気でした。お二人とも緊張した面持ちでしたが、こみ上げてくる喜びを噛みしめておいでのようでした。
 もちろん、同行している親族の方たちも一様に楽しげです。なんだかこちらまで幸せを分けてもらったような、そんな感じでした。
 「袖振り合うも多生の縁」と昔から申します。こちらの舟とすれ違いざま、私たちは「おめでとうございます!」と手を振って、祝福させていただきました。
PB210225.jpg

                     つづく


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日本100名城完全制覇と有名人の墓めぐり(掃苔)
日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

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