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夕闇に包まれる錦帯橋と岩国城 (よいお年を・・・)

 岩国行きの最後になります。
 夜、錦帯橋がライトアップされると事前に知り、ぜひとも見物してみたいと思いまして、史跡巡りの最後、午後5時過ぎにもう一度錦帯橋に向かいました。
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 河原に下りると、夜景を撮影しようとカメラを首からぶら下げた人たちがすでにスタンバイしていました。
 そうこうしているうちに、午後5時半過ぎから、錦帯橋のライトアップが始まりました。夕闇の中、錦帯橋が徐々に青色に染まっていきます。
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 同じくカメラを構えていた地元の方に聞いてみると、岩国城の方も6時くらいからライトアップされるといいます。
 ところが、川の側ですので、夕暮れと共に段々北風が冷たくなり、気温が下がってきました。
 午後6時を回りましたが、岩国城はなかなかライトアップされません。
(うー、寒い!早く始まってくれないかな?)
 普段気長な私も、さすがに寒くなってきて、イライラしてきました。
 さらに待つこと30分あまり・・・。






 6時半ごろになって、やっとお城が光に照らされました!
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 寒さに半ば凍えながら、撮った写真です。これで岩国紀行はめでたく終了です。(実はこの二日後、風邪をひいてしまいました)



 
 ブログを立ち上げて、まだ一年も経ちませんが、いつもお読みいただいている方々、本当に有難うございました。
 当初、自分のように取るに足らない者がブログを開いてもあまり意味がないようにも思っていたのですが、いざ始めてみましたら、夏には滋賀県の「近江路・歴女ブロガー」にも当選するなど、ハッピーな出来事も多々あり、やってみてよかったな、と素直に思いました。
 それと、ブログの趣旨ですが、本来はもう少しテーマを限定、掘り下げたほうがいいのかもしれませんが、なにせ典型的なB型人間のため、関心の向く先が「浅く広く」という風になってしまっております。これはこれで、まあいいのかな?と思ったりしています。(ただし、内容は日本史オンリーで限定しております)
 今月は岩国行きでほぼ終わってしまいましたが、実はこの10~11月にかけて、他に東北、四国、九州を旅しており、その時の記録は年明け順次掲載したいと思っております。今後も戦国武将、文化人、政治家、軍人など様々な人々が登場すると思いますので、楽しみにしていてください。

 話は飛びますが、最近の話題に一言。とある芸能人、文化人を巻き込んだ、男女の「三角関係」というか愛憎劇の話題が巷をにぎわせていました。
 詳細を聞くと、実に下らない内容です。
 しかし、ああいう下世話な話を聞いてふと思ったのは、わがまま自分勝手、嘘八百並べるような人間が幅を利かせるような世の中ではなく、地道に誠実に苦労、努力する人こそが報われるような社会であってほしいということです。

 最後に、明日2011年元旦、夜9時半からのNHKラジオ第一放送「歴女たちの『関ヶ原』」のほうもどうぞ宜しくお願いいたします。(しつこいようでスミマセン、お気が向いたらでかまいません)

 それでは皆様、良いお年をお迎えください。どうも有難うございました。

                               A☆六文銭
 

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新春スペシャル“歴女たちの「関ヶ原」”(2011年元旦、NHKラジオ第一)に出演します!

2011年1月1日 夜9時半より NHKラジオ第一放送

歴女たちの「関ヶ原」

に出演します。

 素敵なゲストを迎え、8人の歴女ブロガーたちが戦国トークを繰り広げます。
 炬燵やお布団の中でもいいので、ぜひラジオのスイッチをONにして、耳を傾けてくださいね!

 収録時の模様を記載した記事はコチラ!


テーマ : NHK
ジャンル : テレビ・ラジオ

岩国寿司

 そろそろ岩国行きの件も終わりにします。
 この日の食事処は、岩国の郷土料理である「岩国寿司」をぜひ食べてみたいということで、割烹料理「よ志多本店」というお店に行きました。
 「岩国寿司」を出してくれるお店は他にも何軒かあるようです。
  PB150529.jpg

 店の中はアットホームな感じ。
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 私たちが注文したのは「岩国寿司セット」。たしか2100円位だったと思います。
 「岩国寿司」というのは所謂押し寿司ですが、かつて岩国の殿様に献上されていたそうで、別名「殿様寿司」とも呼ばれているそうです。(一見するとちらし寿司みたいな感じですが、ご飯に錦糸卵や魚などを混ぜ込んで、木枠に詰め、押し寿司にしたものにレンコンを乗せる)
 その他、山女の入った温かいソーメン、子持ち鮎の煮付け、煮物、山女の稚魚の甘露煮、フルーツがついてきます。
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 岩国寿司はもちろん、山女ソーメンや鮎の煮付けも美味しくいただけて大満足。
 店の人の対応も感じが良くて、立ち寄ってみて良かったです。
 なお、よ志多さんですが、近所には新館もあって、こちらは団体さんも入れるようなビルになっていました。



より大きな地図で よ志多本店 を表示


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テーマ : おいしい店紹介
ジャンル : グルメ

岩国の城下を歩く(二) 吉香公園

 吉香公園内に史跡が集中しています。

香川家長屋門
 岩国吉川家の家老を務めた家の長屋門。元禄年間に建てられたという。香川氏の先祖(香川正矩父子)は、山陽山陰の戦国時代を記した有名な「陰徳太平記」の著者である。
 目の前の紅葉がとてもきれいでした。(内部には入れません)
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旧目加田家住宅
 屋敷の主であった目加田家は元々尼子氏の家臣だったが、尼子滅亡後は吉川氏に帰属したという。 
 外から見ると一見平屋建てなんですが、実はこれ二階があるんです。わざと屋根を大きく造ってある。
 藩主が近くを通る折、二階から見下ろすようになってしまうので、失礼がないようにこのような造りにしたとのこと。
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岩国徴古館
 戦時中の昭和17(1942)年より3年がかりで建てられた建物。
 中は資料館になっており、この日は錦帯橋に関する展示を開催中でした。
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岩国美術館 
 ロープウェイ山麓駅のすぐ脇にある。あるコレクターの方が収拾した甲冑、武具、美術工芸品を多数展示。
 時間の関係でざっと拝見しましたが、所狭しと展示品が置いてありました。
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佐々木小次郎像
 吉川英治の名作「宮本武蔵」では、岩国が武蔵の好敵手・佐々木小次郎の生まれ故郷であり、「燕返し」を会得した場所だという設定になっている。背後に岩国城天守閣が見えました。
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 とりあえず、岩国行きは年内で終わらせます。。。


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テーマ : 国内、史跡・名勝巡り
ジャンル : 旅行

「FC2ブログ おすすめブログ!」上で紹介されました

 この二日くらい用事が立て込んでいて、自分のブログの方もよく見られなかったんですが、ちょろちょろアクセス数が増えているようなので、チェックしてみたところ、なんと「FC2ブログ おすすめブログ!」のサイト上でこのブログが紹介されていました。
 掲載されたのはつい最近?と思われるのですが、先ほどまで全然気づかなかったです・・・運営の方、どうも有難うございます。<(_ _)> 

 今年2月から始めた当ブログですが、これまでなかなか認知されるのが難しかったため、素直に嬉しく思います。
 しかし、ブログというのは自分オンリーのものではなく、読者がいて初めて成り立つものですので、ちょくちょく読んでいただいている方々には心から感謝申し上げます。
 年内に岩国探訪の件も終わらせたいのですが、よんどころない事情で更新が遅れていますので、1,2日お待ちくださいませ。
 まずはご報告まで。


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テーマ : みんなに紹介したいこと
ジャンル : ブログ

【坂の上の雲】広瀬武夫 「軍神」と呼ばれた男

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 今夜、NHKのスペシャル大河ドラマ「坂の上の雲」を通して見ました。第二次旅順閉塞作戦で犠牲となった広瀬武夫中佐(1868~1904年)の最期でした。
 戦前は小学校の唱歌にも歌われ、「軍神」とあがめられてきた軍人です。
 上の写真は大分県竹田市にある、広瀬を祀った「広瀬神社」です。(昨年秋撮影)

 ドラマを見ていた人はわかる通り、広瀬は文武両道に優れ、大変魅力的な人物であることがわかります。しかも、「アリアズナ」という名の美しいロシア娘との純愛物語まで伝えらているほどです。島田謹二という学者が伝記に書き、それを元に司馬遼太郎が『坂の上の雲』でも取り上げました。彼にまつわるエピソードはドラマ化されるにふさわしいものです。
 しかし、広瀬はあくまでも都合三回にわたって行われた旅順閉塞作戦の犠牲者のうちの一人に過ぎませんでした。
 それが、どうして後に「軍神」と呼ばれるようになったのか?

 広瀬の壮烈な戦死の後、海軍兵学校で同期であった永田泰次郎(当時、聯合艦隊司令部副官)が広瀬の死を悼み、軍令部にいたやはり同期の財部彪らに送った電文の中に、
「人呼んで軍神と唱ふ。是敢へて過言にあらざるべきこと」
という一節がありました。
 永田は下の写真で後列右から二人目の人物です。(クリックで拡大します)
三笠司令部の人々


 これを、当時海軍軍令部参謀で海軍の広報活動をしていた小笠原長生中将(旧唐津藩主・小笠原長行の息子)が、本来機密事項であるにも拘らずマスコミに対して意図的にリークしたことに事に端を発しているということです。
 小笠原がリークした広瀬の死を新聞各紙が書きたて、後には唱歌(杉野はいずこ 杉野はいずや)まで作られ、多くの人々に歌われたことで、広瀬武夫は「軍神」として伝説化していきます。

 しかし、その陰で旅順閉塞作戦が失敗に終わった事を軍令部が何とか隠蔽しようとして、いわば広瀬の死を「美談」として扱い、喧伝することで情報操作した過程が読み取れるのです。
 余談になりますが、この小笠原という人、後には崇敬していた東郷平八郎の評伝を著し、東郷の神格化にも「貢献」しています。
 広瀬武夫はたしかに高潔な軍人であるのは事実なのですが、一少佐に過ぎず、しかも部下を探して退避が遅れ死傷者を出すという失敗をおかした彼が、後に国民から「軍神」と呼ばれ、奉られた伝説の人物になっていくには、このような裏事情があったということです。
 その一方で、同じく旅順閉塞作戦で戦死した軍人たちは他にも多数いましたが、広瀬の名声の陰に隠れ、長い歳月の中で忘れさられていきました。

 話は戻りますが、広瀬の故郷である豊後竹田の広瀬神社では、今まで広瀬ゆかりの品々を大切に保管してきました。
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 神社の境内には戦艦朝日の「カッター」が安置されていました。昭和12年に海軍より奉納されたということです。
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 最近になって、竹田市立歴史資料館の広場に新しく広瀬の銅像が建てられたと聞きました。
 竹田は広瀬の生まれ故郷ですが、どうも幼い頃に西南戦争で家が焼かれ、その後一家で飛騨高山に引っ越してしまい、竹田で暮らしたのはほんの短い期間だったそうですね。


より大きな地図で 広瀬神社 を表示
 

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テーマ : NHK
ジャンル : テレビ・ラジオ

岩国の城下を歩く(一) 吉香神社

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 岩国の続きです。元和の一国一城令で山上の城は取り壊されましたが、麓の一角に吉川氏の居館が置かれました。下の写真はロープウェイの中から撮影した居館があった場所です。(上方から見るとかつての館跡というのがよくわかります)
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 明治18(1885)年、横山の白山神社にあった社殿(享保年間に建てられた)を吉川氏居館跡地へ移したものが、現在「吉香神社」と呼ばれる吉川氏の氏神社です。なお、吉川氏はその昔、「吉香」と書いたのだそうです。本殿、拝殿、神門はいずれも国の重要文化財指定を受けています。

 神社の隅のほうに、明治18年に絵馬堂として建てられた「錦雲閣」があります。
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 お堀の外側から見ると、あたかも櫓のような感じです。
 この日は境内の黄葉したイチョウの木が目にも鮮やかで、多くの人たちが記念撮影していました。
 この神社を含めた広範囲の土地が「吉香公園」となっていますが、次回はそのご紹介を。
           つづく
 
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テーマ : 国内、史跡・名勝巡り
ジャンル : 旅行

緊急告知!NHKラジオに出演します!!

 突然ですが、緊急告知です!
 私ことA☆六文銭が、2011年元旦のNHKラジオ新春特番に出演することになりました。
 で、本日、東京渋谷にあるNHK放送センターまで収録のため行ってきました。

 実は、この秋に滋賀県主催の「近江路・歴女ブロガー」企画がご縁で、来年の大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」関連の番組に出演することになったのです。
 番組詳細です→新春スペシャル“歴女たちの「関ヶ原」” 
 
 番組ホームページをご覧いただければわかりますが、「歴女ブロガー」50人のうち、私を入れて8名が番組に登場します。
 そして、メインゲストは俳優の柴俊夫さん、「歴ドル」の美甘子さん、小日向えりさん、鹿児島大教授の原口泉先生の四人です。
 何せ、ラジオ出演は初めてなもので、お恥ずかしいことに昨日から変に緊張してしまい、昨夜はあまりよく眠れませんでした。朝食も喉を通らない始末(ほんと、ヘタレですね)

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 放送センター西口より中へ入ります。入口のところで、女優の松坂慶子さんらしき女性を発見してしまいました!
 あまり他人をジロジロ見るのは失礼なのでチラチラとお顔を拝見しましたが、やっぱり松坂さんでした。有名女優さんを間近で見てびっくりしてしまいました。ドラマの収録か何かで来館されていたようです。
 入口手前で他の出演者の方たちと待ち合わせし、そろった所で入館証を渡され、中へ入りました。
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 最初に特別に来年の大河ドラマの撮影スタジオの入口まで案内していただきました。撮影は順調に進んでいるということです。
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 その後、別館の控室へ。長い廊下を歩いて、その後エレベータに乗って降りて…。放送センターの中は広い!たった一人だったら、すぐ迷子になりそうです。
 控室では、他のブロガーさんとは初対面なので、互いにご挨拶しつつ、ぎこちない会話を…。両隣がブロガーの「しずか」さんと「ジャスミン大久保」さんだったのですが、幸いなことにお二人とも大変気さくな方で、こちらの緊張も徐々にほぐれてきました。
 番組の進行などの説明があった後、軽い昼食をとります。
 そして、13時過ぎよりスタジオに入り、収録開始です。
 下の写真はスタジオへ入ってからの一コマです。

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 タネあかしをすると、事前に制作者サイドから各ブロガーさんたちへアンケートがあり、その回答に基づき、「大体、こんな内容でお話ください」と言われていたので、要点をメモした紙を持ってスタジオに入ったんです。
 ところが、アナウンサーの方からの最初の質問で、私が話す予定だった内容がゲストの小日向さんや別のブロガーさんに先に言われてしまったんですね。思いっきり内容がかぶってしまい、「あちゃー」という感じです。
 
 ですから、次の質問からは他の発言者と内容がかち合わないように、家からメモしてきた事とは異なる内容を、自分の拙い知識の中から引っ張り出し、アドリブを交え話すよう心がけました。
 他のブロガーさんたちも同様の思いだったようで、番組の後半の方が各自アドリブが利いていて本音トークが盛り上がっています。ですから、ぜひ最後まで通してお聞きくださいね。
 
 終始和やかな雰囲気で進んだ収録は2時間強かかって、無事終了・・・。本当に疲れました。上手にしゃべれたかどうかは全くわからないです。
 収録後、記念撮影させていただきました。右から小日向えりさん、原口泉先生、美甘子さん、内藤啓史アナウンサーです。
 
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 小日向さんと美甘子さんは日ごろから深く掘り下げて勉強されているようで、まだお若いのに大変歴史の事にお詳しかったです。お二人とも堂々としていらっしゃいました。(写真をご覧ください。お二人の笑顔がステキ!)

 それから、解説の原口先生ですが、高名な歴史学者でいらっしゃるにもかかわらず、大変物腰の柔らかい方で、今回もとても面白く、ためになるお話が伺えました。
 実は私、原口先生とは過去に3度くらいお目にかかっており、今回思わぬ形で再会しました。うれしいことに、先生は私のことも覚えていてくださったようで、近刊のご著書まで頂戴してしまいました。先生、どうも有難うございました。<(_ _)>
 言い忘れましたが、原口先生、地元の鹿児島ではファンクラブもあるぐらい、人気のある方なんですよ。

 それと残念ながらお写真は撮影できませんでしたが、俳優の柴俊夫さんは大変歴史にお詳しく、収録中もわかりやすい例えを挙げて話されるなど、小気味良いトークをお聞かせいただきました。なお、柴さんですが「江~姫たちの戦国~」では黒田官兵衛の役で出演されます。

 最後に歴女ブロガーの皆さんですが、20代~50代までの素敵な女性たちが登場します。皆さん、本当に真面目で、率直な方たちでした。皆さんのブログにも各自のお人柄がよく表れています。
 欲を言えばもう少し長くお話させていただきたいとこちらが思ったほど、魅力的な方たちばかりです。
 番組進行役の内藤アナウンサー、番組のディレクターさん、ADさんにも細かいところまで気を遣っていただき、感謝申し上げます。

 “歴女たちの「関ヶ原」”は2011年1月1日、21時30分よりNHKラジオ第一放送にてOA予定です。どうぞご期待ください!



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テーマ : NHK
ジャンル : テレビ・ラジオ

【坂の上の雲】戦艦三笠の運命(三)

三笠司令部の人々

 明治38年時の聯合艦隊司令部の方たちの記念写真です。(↑クリックで拡大します)前列中央が東郷元帥、一番右が秋山真之です。お二人とも威厳のある顔立ちをしておられますが、自分がつい注目してしまったのは、後列の一番右側におられる清河純一大尉です。現代でも通用するような、男前の顔立ちをしておられました。(*^ω^*) (蛍光灯が反射して見にくいですけどね)
 東郷元帥のすぐ左側にいる人は当時参謀長だった加藤友三郎少将で、外見は痩せていて貧相な感じでしたが、後に政治力を発揮し、首相にまで登りつめます。

 
 厨房。それなりに美味しい食事が提供されていたらしい。
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 風呂&トイレ 
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 当時機関長だった山本安次郎が使用していた部屋。この下の甲板にこれと同仕様の秋山真之の部屋があった。(現存せず)
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 参謀長室? 何の部屋だったか失念しました。
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 司令長官の寝室。
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 艦長公室。日露戦争時は伊地知彦次郎(後に海軍中将)が艦長を務めた。
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 士官室。大尉~中佐までの公室。中尉以下はこの下の甲板にあり、「ガンルーム」と呼ばれていた。
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 司令長官公室。連合艦隊の作戦会議やVIPの晩餐会等が行われた部屋で、この部屋にある机は三笠が英国で建造された際に積み込まれたもの。両舷にはキャビン砲が備わっている。
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 司令長官居室。造付家具は英国製造時に設置したもの。明治天皇の御真影や現在の皇室の方々のお写真などが飾られていた。
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 東郷平八郎の遺髪が祀られていた。
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 以上、中甲板の展示はこのような感じです。これだけ甲板の中の部屋が広い戦艦も珍しいとのこと。
 戦艦三笠がこのように紆余曲折を経て、現在に至るまで保存されてきた経緯が少しでもお分かりいただけましたでしょうか。
 
 この日、見学会に参加した人たちはほとんどが60代~70代くらいのご年配の男性ばかりで、肩身が狭かったです。
 一人だけ私と同年配そうな女の人がいたので話かけてみたところ、はたして私と同い年だそうでラッキーでした(笑)。彼女はこういう軍事関係の歴史に興味があるんだそうです。女性なのに殊勝なことだと思いました。

 
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【坂の上の雲】戦艦三笠の運命(二)

 戦艦三笠の運命(一)のつづき

 上甲板の真ん中にビデオ室というのがあり、私たち見学者はそこへ案内されました。
 元広島東洋カープの衣笠さんに似た海上自衛隊OBで三笠保存会の役員の方が出てこられて挨拶があった後、日本海海戦に関するビデオを15分くらい見ました。
 その後、役員の方の説明をしばしお聞きしました。その方は山本権兵衛(海軍大将 後に首相)とアメリカ海軍のニミッツ提督(1885~1966年)をいたく信奉しておられるようで、特に戦後、荒れ果てていた三笠が復興出来たのはニミッツのおかげだとおっしゃっておられました。
 ニミッツは先の大戦の時に太平洋艦隊司令長官で、わが国もこの人のおかげで主力空母全滅という致命的な大打撃をくらわされたのではなかったか?と思うのですが、その役員の方によると、ニミッツは東郷平八郎をかねてから崇敬しており、その軍略を研究していたんだとか。彼は東郷元帥の葬儀にも出席していたそうです。
 だから、戦後三笠が荒れ果てていることを耳にしたニミッツはそれを嘆き、「文芸春秋」に『三笠と私』と題する論文を寄稿し、その一文が契機となって、日本人の間でも旧軍関係者などを中心に三笠復興への機運が高まったということです。

 今年の6月に秋山真之役のモックンが三笠へやってきて、撮影したポスターだそうです。
 本木雅弘(秋山真之役)

 その後、下甲板に降りて資料室を見学しました。いろんな資料が展示されていましたが、自分なりに印象に残ったものだけをご紹介。
 有名な東郷平八郎長官以下、司令部の人たちを描いた絵です。向かって左手上方に「Z旗」がはためいている。
東郷平八郎

 東郷さん着用の軍服など。
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 日本海海戦の絵。海面はかなり堅いそうで、砲弾が落ちるとあのような縦の水しぶきがおこる。
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 日本海海戦時の電信文一覧。当時、第二艦隊参謀だった山本英輔(権兵衛の甥 後に海軍大将)が保管していた。
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 「日進」に乗船していた当時少尉候補生であった山本五十六(太平洋戦争時、聯合艦隊司令長官)が、膅発(とうはつ 砲弾が砲身の中にあるうちに自爆すること)事故により左手の指を二本失い、右足も負傷という大怪我をした時の現場図。ちなみに、指を3本失うと退役させられるので、重傷を負いながらもかろうじて彼は海軍に留まれた。
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 ロシアの戦艦が掲げた白旗。後にテーブルクロスに転用(!?)されたという(笑)。
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 2番砲室にある15cm砲。4体の人形で操作法を示している。
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 他にもいろいろ展示物があったのですが、何ですか次第に疲労感を感じて、あまり撮影しませんでした。
 それから、他の展示室では特別展「日露戦争に見る武士道」というのを開催中でしたが、乃木希典や新渡戸稲造について展示がされていたようですが、あまり印象に残っていません。
 やっぱり、軍事ヲタでもない一般人が軍事関係の展示を見学すると、見ていて疲れてきますね。
 つづく。

 参考サイト 記念艦「三笠」公式ホームページ


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【坂の上の雲】戦艦三笠の運命(一)

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 先週、神奈川県横須賀市にある記念艦三笠の見学会へ行ってきました。あいにく、見学時強い風雨になってしまい、持っていたカメラも吹き付ける雨風にずぶ濡れとなってしまう状況で、外観はあまり良い写真が撮影出来ませんでしたので写真は期待しないでください。

 戦艦三笠は明治30(1897)年にいわゆる「六六艦隊計画」の最終艦として計画されました。イギリスのヴィッカーズ社バロー・イン・ファーネス工場にて造成されました。
 明治35(1902)年3月に竣工し、同年5月、横須賀へ到着、同年11月に常備艦隊旗艦となります。
 翌36(1903)年12月に聯合艦隊編成の折に旗艦となります。
 明治37(1904)~翌38年にかけて日露戦争に参加し、東郷平八郎聯合艦隊司令長官ら司令部が乗艦し、活躍したことは周知の通りです。
 ところが、戦争終了後、明治38年の9月11日、佐世保港内で弾火薬庫が爆発し、339名の乗組員が殉職します。この爆発事故は、どうも艦内にあったメチルアルコールを持ち出して酒盛りをしようとした不届き者がいたようで、それに引火したのが引き金だったようです。海軍はこの不祥事を火薬の自然発火として報告し、隠蔽したといいます。
 その後、大正7年から三年間はシベリア出兵で沿海州警備に従事しますが、大正10年9月、浦塩港外のアスコルド水道で座礁し、ウラジオストックで修理した後、舞鶴へ帰投します。

 同年11月よりアメリカのワシントンで開かれた「ワシントン会議」の中で、海軍軍縮条約が採択され、米英日仏伊、各国の航空母艦等の保有制限が決められたため、三笠は廃艦が決定しますが、大正12年の9月関東大震災の時に横須賀港で繋留岸壁と触衝し前部が浸水したため、9月20日をもって除籍となります。これで三笠は軍艦としての使命を終えました。
 その後、三笠は軍縮条約により廃艦後は解体される予定だったところ、日露戦争で活躍した三笠に対する保存運動が勃興し、現役に復帰できない状態にすることを条件に保存されることが特別に認められ、大正14(1925)年1月に記念艦として横須賀に保存することが閣議決定されました。
 同年6月18日に保存のための工事が開始され、舳先を皇居に向けて固定されます。同年8月には財団法人・三笠保存会が設立され、11月10日に工事完了、その二日後に記念式が行われました。

 こうして生きながらえた三笠でしたが、前の大戦で日本が敗北すると、連合国軍によって日本は占領下に置かれます。ソ連などは日露戦争時の恨みからか、三笠の廃棄を断固主張しますが、横須賀はアメリカ海軍の実権下に置かれていたため、三笠は米軍により接収され、かろうじて廃棄を免れました。
 三笠は米軍監視下に置かれますが、心ない米兵によって艦内の目ぼしい記念品は持ち去られました。やがて23年1月、米海軍基地の司令官は艦橋、マスト、砲塔、煙突を4月1日までに除去の上横須賀市による教育事業に転用することを許可しました。
 しかし、敗戦後の虚脱感もあって、横須賀市は三笠の管理に消極的だったらしく、湘南振興株式会社という民間企業に管理を委託してしまいます。湘南振興株式会社は、まっさらになってしまった上甲板上にダンスホールと水族館を設置、さらに艦内の司令長官室はキャバレーに、参謀長室はカフェにしてしまいます。三笠は米兵相手の遊興施設と化してしまい、あまり大きい声では言えませんが、風紀も乱れていたといいます。
 さらに、湘南振興株式会社は朝鮮戦争が勃発すると、艦内にあった鉄や胴、真鍮などあらゆるものを引き剥がして売り飛ばし、暴利を貪ったということです。
 
 前置きが長くなりましたが、上記の三笠の歴史を頭にとどめていただき、以下にお進みください。


 無線電信室 ここで「敵艦見ユ」の第一報を受信しました。三六式無線電信機のレプリカが展示されています。
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 この無線室のちょうど目の前の床板に注目です。三笠オリジナルのチーク材の床板が今もあります。幅広でとても堅い材質で出来ています。ここ以外のチーク材の床板はすべて、湘南振興株式会社が引き剥がし、売り払ってしまったのです。(復元された向こう側の床板は幅細で、別の木材が使用されています)
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 両舷にある8cm砲台。見学者が自由に向きを変えられるようになっています。
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 上甲板左舷側の中部にある4番15cm砲の砲室。写真が切れてしまっていますが、当時と同様なハンモックが吊られています。この砲室に配置された砲員はこの砲室で食事をし、このハンモックで眠りそして訓練をしていました。
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 前部司令塔内部
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 東郷平八郎司令長官や参謀らが立っていた露天の最上艦橋です。日本海海戦時、東郷は幕僚から装甲された司令塔へ移ることを進言されましたが、戦況が見渡しやすいこの場所に留まりました。東郷長官、参謀長の加藤友三郎少将、艦長の伊地知彦次郎大佐、参謀の秋山真之中佐の推定立ち位置が示され、右手にその模様を描いたレリーフがあります。
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 長くなるので、つづきます。



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テーマ : これからの日本
ジャンル : 政治・経済

過ぎ行く秋・・・岩国城麓の紅葉

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 岩国ですが、短い旅であったにもかかわらず書くことが多くて難儀しております。
 ここでちょっと閑話休題というか、目を通していただいている皆様も一休みしていただいて、紅葉の写真でも見て和んでください。
 吉川家墓所があった付近は寺町になっており、紅葉が多く植えられて、ごらんの通りです。

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 ゆっくり歩いていくと、「紅葉谷公園」という広場があります。この日はまだ3,4分程度の色づき加減でした。(今頃は終わりかけかもしれません)
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 公園内には六角亭という朱塗りの建物がありました。岩国出身で朝鮮総督を勤めた長谷川好道(元帥陸軍大将)が朝鮮から贈られたものを1918年 (大正7年) に移築したものだということです。
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テーマ : 紅葉
ジャンル : 写真

吉川経幹 吉川広嘉 吉川元春夫人の墓

 つづき
 吉川家墓所で写真撮影していたところ、デジカメのモニターの充電池表示が赤く点灯しはじめました。やばい…(´・ω・`) 
 実はこの旅の直前、日ごろ愛用している富士フィルムのコンデジが故障し、「ご入院」となったため、親戚の者からデジタル一眼レフを借りて撮影していたのです。2個の充電池も借りて携行していたんですが、予想以上に電池の減りが大きかった。この日、すでに1個電池を使い果たし、2個目でしたので、この最後の電池が切れてしまったら後の行程の写真が撮影できなくなります。やっぱり、専用の充電池オンリーしか使えないカメラは意外と不便ですね。普段使っているコンデジの方は、念のため3、4個を携行するようにしているんですが。
 やむなく、墓所では人物を最小限に限って撮影しました。撮影したのは以下の通りです。

12代 吉川経幹(1829~1867年)
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 幕末の吉川家当主です。前述した吉川広家の関ヶ原の一件があって以来、毛利家は吉川家の分藩を許さなかったので、吉川家は6万石を有しながら大名にはなれず、江戸時代を通して陪臣のままでした。当然、両家の仲はあまり芳しいとはいえませんでした。
 弘化元(1844)年に家督を継いだ吉川経幹は、主家である毛利家との関係改善に努め、文久2(1862)年には本藩藩主の毛利敬親の名代となって上京するなど、積極的に主家のために奔走します。
 江戸幕府による第二次長州征伐の折には芸州口の戦いにおいて本藩の兵と共に戦い、勝利しました。
 しかし、慶応3年(1867)年3月に39歳の若さで病死してしまいました。
 毛利敬親の命により経幹の喪は秘され、経幹がまだ生存しているものとして、本来幕府の認許によるべき叙爵を直接朝廷に願い出ます。12月には経幹の隠居を届け出て、官位が復旧されました。

 翌慶応4(1868)年3月朝廷から吉川家を毛利の末家となすという沙汰書を賜わり、続いて6月駿河守に任じられ従五位下に叙し諸侯に列する旨の宣下を得ます。江戸時代最末期にようやく経幹の功績によって岩国吉川家は晴れて大名に昇格することがかなったのでした。
 死後、大名昇格を果たした「実績」からなのか、墓所では裏山の吉川広家の墓に次いで高い位置に墓があります。

 
3代 吉川広嘉(1621~1679年)

  PB150498.jpg

 吉川広家の孫にあたる人です。延宝元年(1673年)、2年(1674年)と連年錦川に架橋工事を行い、錦帯橋を架橋したその人です。広嘉は元来病弱で、明からの帰化僧であった独立性易という人の治療を受けていましたが、その折に杭州の西湖の島々に架かるという6連のアーチ橋の話を聞いて、錦帯橋の構想を得たということです。
 街中に広嘉公の銅像がありました。
  PB150298.jpg


吉川元春夫人(?~1606年)
   PB150496.jpg

 熊谷信直の娘で吉川元春に嫁ぐ。吉川元長、繁沢元氏、吉川広家を生む。新庄局と称される。
 「陰徳太平記」などによると彼女は醜女であったとされるが、実際のところはよくわからないようです。
 なお、ご主人の元春公は広島県の北広島町に墓があるので、また別の機会にご紹介します。

 残念ながら上記の理由で、すべてのお墓を撮影できなかったのが心残りではあります。


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吉川広家の墓(吉川家墓所)

 岩国城ロープウェイの山麓駅の西方300mの寺谷という所に、岩国の領主であった吉川家の墓所があります。ここには六代当主を除いた吉川家代々の当主及びその家族が眠っています。
   PB150459.jpg

 まず、岩国吉川家初代である吉川広家(1561~1625年)から墓参りをするため、墓地の奥の方にある階段を登ります。広家と幕末の当主である十二代・経幹のみ墓所の裏手の山に墓があるのです。
   PB150463.jpg

 階段を登ると細い参道へ出るので、そこを右手の方に進むと広家の墓がありました。
   PB150494.jpg

 戦国史ファンの人なら、語らずとも吉川広家の事は知っておられると思うので、簡単に紹介だけ。
 「毛利両川」として名を馳せた吉川元春の三男であり、毛利元就の孫にあたる人です。兄・元長が早世したことにより、吉川家を相続しました。叔父である小早川隆景が死んだ後、毛利家の重鎮となったのがこの人でした。
 広家については、その存在がクローズアップされるのは関ヶ原の戦いです。彼は元より西軍の敗北を予想し、西軍派の安国寺恵瓊の口車に乗って毛利輝元が西軍の盟主として担ぎだされた後も諦めずに、東軍への内応工作を行います。
 関ヶ原の戦いではかねてから親しかった黒田長政を通じて、徳川家康に対して毛利輝元が罪無きことの釈明と毛利家の所領安堵を依頼し、家康の臣である井伊直政、本多忠勝からそれを保証する内容の血判つきの起請文をもらい、ほっと一安心の広家でした。自身は南宮山へ布陣して、毛利の軍勢を動かせないように努めます。ところが…。
 
 東軍の勝利で終わった関ヶ原、さっそく家康によって戦後処理が行われます。
 10月に入ってから黒田長政から届いた手紙を見て、広家は仰天します。そこには、「毛利輝元が奉行共に一味して、大坂城西ノ丸に入り、諸方への数々の廻状に署判を加えた上、西国へ出兵させたことが判明したので、領地を没収する。ただし、貴殿の忠節は内府様(家康)も承知だから、中国のうち一、二ヶ国を下されることが決まった」と書かれてあったのです。毛利家の所領安堵の約束は見事に反故にされていたのでした。

 つまり、家康の言い分としては、自分自身は直接毛利へ対して何ひとつ後日の証拠となるような文書を送っていない、というのでした。老獪な家康らしい言い分です。
 広家がうかつだったのは、家康自身と直接交渉せずに、黒田長政や井伊・本多などの陪臣とのやり取りのみで所領安堵の墨付きがもらえたものと早合点していたことでした。この期に及んで、家康の仕掛けた巧妙な罠に自らがまんまとはめられた事にやっと気づいたのです。
 やむなく広家は、家康側へ毛利家の存続を哀願する起請文を書き送り、やがて、家康からは広家に下される予定だった防長二カ国を毛利輝元へ与えるという決定が下されました。

 こうして、毛利家は防長二カ国へ減封となり、広家には岩国の3万石が下されました。
 広家はあくまでも毛利の陪臣の立場でしたが、家康からは岩国への築城を許され、慶長6年(1601年)より8年の歳月をかけて築城されたのです。その後の岩国城については前述の通り、元和の一国一城令で完成後わずか7年目で取り壊しの憂き目にあうのですが。
   PB150491.jpg

 主家である毛利家の大幅な減封はありましたが、家の存続は守られたことで吉川広家の一連の行動を評価する向きもある一方で、家康の計略にかかり、本州最南端の小国に追いやられたのは広家の手落ちと批判する向きもあります。私もどちらかといえば、何故最初から東軍に味方していたのか、広家の心情をはかりかねます。毛利輝元の動き次第では、西軍の勝利ということもありえたからです。
 広家としては、父や叔父の小早川隆景亡き後の、毛利の後見役という自負があったようですが、残念ながら叔父・隆景並みの深謀遠慮の域には達していなかったと私は思います。

 ただ一ついえるのは、広家は豊臣秀吉の朝鮮出兵に参戦しているんですね。その時の人間関係で、おそらく黒田長政や福島正則らと親しかったと思うのです。黒田とか福島たちは石田三成と犬猿の仲だったので、広家としても黒田らの動きに同調する流れはこの頃からあっただろうと思われます。

 墓の傍らには、「みみずくの手水鉢」が置かれていました。これは、かつて丹羽長秀の臣で茶人でもあった上田宗箇より、広家が贈った桜の返礼として贈られた品だということです。残念ながら、この手水鉢は広家の死後に贈られてきたそうで、長らくある寺にありましたが、近年になって広家の墓の側に移したという話です。
   PB150493.jpg

 ところで、墓地散策中にちょっと困ったことがおきました。長くなるので続きます。


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