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福井市立郷土歴史博物館/福井県立歴史博物館

 福井の歴史を知るためには、博物館に寄って調べてみるのもひとつの方法です。

 名勝養浩館庭園に隣接して、福井市立郷土歴史博物館(福井市宝永3丁目12-1)があります。入口の脇には若き日の松平春嶽の銅像があります。
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 私が行った時(9月下旬)、ちょうど秋季特別展「福井城と城下町のすがた」を開催中でした。(現在は終了しています)
 かつてあった福井城の建物ですが、古写真こそあまり残っていませんでしたが、江戸時代に描かれたお城の絵図がけっこう豊富に伝えられており、興味深かったです。
 それらを使って、櫓なども復元できそうな感じもしますが、現在城跡には県庁と警察本部がででんとあるので難しいかもしれないですね。
 また、以前紹介した福井城唯一の遺構が残る瑞源寺(関連記事 瑞源寺(前) 瑞源寺(後) )さんからも瓦などの史料提供がありました。
 
 なお、こちらの博物館は越前藩主・松平家から豊富な史料を寄贈・寄託されているそうです。
 この時はたまたま、1Fの小スペースで「坂本龍馬と福井」に関するミニ展示が行われていました。(現在は終了しています)

 博物館の裏側には、福井城の外堀にあったという「舎人門」と石垣、土居が復元展示されています。
舎人門

 門自体は復元なのですが、瓦にご注目ください。越前産の「赤瓦」が使用されています。
 これと同様の赤瓦が、今年復元された北海道函館の五稜郭内にある「箱館奉行所」の建物にも使用されているんです。箱館奉行所跡の発掘調査から判明したため、今回復元にあたっても同じ越前産の赤瓦を葺いたということです。
 幕末、はるばる越前から船に乗せて、函館まで運んだんでしょうね。
 五稜郭は100名城の一つなので、来年再訪し、スタンプをもらってくる予定です。

 ところでこの時、福井県立歴史博物館(福井市大宮2-19-15 )の方では、特別公開「箱館五稜郭と越前赤瓦 ―土方歳三が見た赤い屋根」と題して、箱館奉行所の建物に使用されていた赤瓦が展示されていたので、ちらっと見学してきました。(現在は終了しています)
DSCF5200.jpg
 県立博物館の方はどちらかというと民俗資料や考古資料が多いような気がしました。

 以上、福井市内には市立と県立の博物館がありますので、混同しないようご注意ください。



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【龍馬伝最終回】中村達也さん(元BLANKEY JET CITY) 附トータス松本さん

 大河ドラマ「龍馬伝」とうとう終わってしまいました。残念ながら、最後まで疑問符???が点灯する内容でした。
 先日、当ブログで「坂本龍馬 人生最後の旅路(一)~(三)」を書きました。そしたら、今日の最終回、龍馬が越前で、松平春嶽(夏八木勲さん)と会見している場面がありました。
 それはいいのですが…。なぜかその場に同席していたのが、三岡八郎(中川家礼二さん)。これには驚きました。「坂本龍馬 人生最後の旅路(三)三岡八郎 龍馬の“志”を引き継ぐ」のところを参照していただきたいのですが、この時、三岡は藩内の抗争がらみで当の春嶽から不興を買って失脚し、謹慎処分でいたのですから、両者が同席するなどまったくありえない。春嶽の側にいる可能性ゼロなのです。このシーンは史実からして見ていておかしいです。
 それから、三岡と語らう場面がわずかでもあろうかと期待していたのですが、それもなし。(´・ω・`)少々ガッカリでした。
 最後なので少々厳しい意見になるのをお許しいただきたいのですが、「ドラマなのだから、史実は二の次でいいじゃん」という方も中にはいるでしょうが、やはり今回の「龍馬伝」あまりにも史実からかけ離れているというか、上記のような完全な誤りの部分が目立ちすぎました。(私のようなド素人でもすぐ誤りに気づいた程だったので)
 今年、龍馬や幕末関係の講演会などに何度か参加したのですが、幕末史の研究者の方たち(学者や学芸員さんなど)も、「龍馬伝」に関しては、ほぼ全員の人が「途中から見るのを止めました」と諦めの表情で言っていました。龍馬の出身地である高知県の有名な研究者の人ですら、「見てません」とキッパリ言っていたので。理由としては、やはり史実とドラマとのあまりにも大きな乖離や明らかに間違っている点が気になってしょうがないということでした。

 小耳にはさんだ話ですが、そもそもこの「龍馬伝」、企画の段階では当初龍馬が主人公ではなく、「岩崎弥太郎」が主人公のドラマが企画されていたんだそうです。
 ところが、それでは単なる「偉人伝」になってしまうため、途中で企画変更したのだとか。(聞いた話なので、どこまで本当かはわかりません)だから、ちょっと話の筋的に無理な部分があったのではないか、と想像しています。
 それから、出来れば脚本家の方は時代劇の作法を知っている、それなりに時代劇を書いた経験のある人に頼んだ方がいいかもしれないですね。
 来年、大河ドラマは50作目という節目の年なのですが、出来れば過剰なフィクションをふんだんに盛り込むことよりも、昔の作品のように史実を尊重する姿勢をもう一度取り戻していただきたいものです。

 さて、ドラマの方に話を戻しますが、近江屋に隠れていた龍馬を襲った佐々木只三郎率いる見廻組ですが、首領の佐々木役に眼光鋭いコワモテの役者さんが演じられていました。
 いったい、何方かと思ったら…(続きをクリックしてください)
 

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テーマ : 龍馬伝
ジャンル : テレビ・ラジオ

名勝・養浩館庭園(御泉水邸)

   養浩館

 名勝 養浩館庭園はその昔、「御泉水屋敷」と呼ばれた福井藩主松平家の別邸でした。現在の形に整備されたのは七代藩主吉品公(瑞源寺のエントリーを参照)の時で、吉品は屋敷の改造・整備に加え、その西側に隠居所を建てて暮らしていたそうです。
 明治維新後も松平家の所有であり、松平春嶽が明治17年(1884年)に「養浩館」と名付けたということです。
 残念ながら、昭和20年(1945年)の空襲で当時の建物は焼失してしまいましたが、江戸時代の絵図面が残っていたそうで、平成5年(1993年)に復元、一般公開されるようになりました。

  藩主一族の邸宅とあって、広々とした玄関口でした。
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  中に入ると「湯殿」がありました。湯殿は中世以来客へのおもてなしとして利用されてましたが、お湯を沸かすのに費用がかかるということで、江戸時代中期以降の設置は珍しいそうです。
   DSCF4840.jpg

 広いお座敷の奥の方で、抹茶を頂くことができます。(4月~6月、9月~11月初旬の土・日・祝日に開催 10時~16時30分) ※現在は春先まで休止中だと思います。
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 この時、私が建物の中に入ったのは時計を見ると午後4時半ギリギリだったのですが、
「あー、もうお茶席終わっちゃったんだね、ざんねん…」
と連れと話していたところ、係の女性の方が出てきて、
「今片付け途中でしたから、大丈夫ですよ。折角いらしたのだから、召し上がっていってください」
とおっしゃって下さり、サービス終了時刻であったにもかかわらずお茶をいただけることになりました!
 こういう時は「あいにく、終わっちゃったんですよ…」と申し訳なさそうに断られるのが普通なのに、本当に親切な方で、こちらの方がかえって恐縮してしまいました。

  DSCF4832.jpg DSCF4830.jpg

 お茶席の係の方(50代くらいの女性)とお話させていただきましたが、彼女がまだ女学生の頃、この養浩館の辺りも何も手入れされておらず、荒れていたそうです。
 係の方のご好意でお茶とお菓子を美味しくいただき、お礼を申し上げ、席を立ちました。(薮内流竹風会の親切な女性の方、どうも有難うございました)

 まだ閉館までには時間がありましたので、鯉のエサを買って、池に面している部屋の窓からばらまきました。池の中のたくさんの鯉が口をパクパクさせながらエサを求めて怒涛のように押し寄せてきましたが…(笑) 鯉のエサやりって、童心に帰るとでもいいましょうか、しばし無心になれるものですね。

 追記 後で調べてみてわかったのですが、こちらの建物には厠が全くないのだとか。図面にも描かれていないそうです。江戸時代、藩主の側室などが生活していたそうですが、用足しはどうしてたんでしょうか?

 参考サイト 養浩館ホームページ



より大きな地図で 名勝養浩館庭園 を表示

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坂本龍馬 人生最後の旅路(三) 三岡八郎、龍馬の“志”を引き継ぐ

 つづき

 下の写真は、中央公園内にある三岡八郎、後の由利公正の若き日の姿です。
三岡八郎1
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 慶応3年(1867年)11月1日、大政奉還を見届けた坂本龍馬は土佐藩士・岡本健三郎を伴い、再び福井を訪れました。表向きの用件は、後藤象二郎から預かった山内容堂の手紙を松平春嶽に届け、春嶽に上京要請することにありました。龍馬にはもう一つ、大事な用向きがありました。それは、以前知り合った三岡八郎に面会し、新政府建設の件で相談を持ちかけることでした。

 しかし、この時三岡八郎は藩内の抗争に巻き込まれ失脚、謹慎中の身でした。そこで藩に許可を取り、龍馬が投宿していた「たばこや(莨屋)」という旅館で面会することになりました。ただし、三岡には藩から二人の目付(監視人)が同行するというのが条件でした。
 三岡の回想によれば、朝8時頃、「たばこや」を訪れたということです。「たばこや」は明治になってから火事で焼失しているため、現在は跡地に石碑が残るのみです。

たばこや跡

「烟草屋(たばこや)へ入って龍馬と呼んだら、ヤー話すことが山程あるという。その顔を見るとすぐに天下のこと(大政奉還)は成就と思われた。自分は罪人であるから立会いの役人を連れて来たと断れば、おれも同様の付人がおる。健三来いよと呼ぶ。
 これは土佐の目付の下役で岡本健三郎という人だ、共に聞けよとの事で、土佐越前の役人を左右に置き、坂本と私と両人は炬燵に入って、徳川政権返上の次第、朝廷の事情等、具さに聞いた」

 当時11月の福井の寒さは格別なものがあったようで、二人は炬燵で寒さをしのぎながら歓談します。大政奉還に至る現状を三岡に説明した龍馬でしたが、新政府建設にあたり、財力も無いし、兵力もないと嘆きます。そこで三岡は、天下の安寧のためにはまず国の財政を整備することだと答えます。その方策として、かつて福井藩で試行した金札発行による富国策を提案しました。
 龍馬は三岡の意見に感服し、三岡に対して新政府では財政担当をお願いしたいと言いました。こうして、夜12時過ぎまで龍馬と三岡はとことん語りあかしたといいます。
 
 別れ際、龍馬は「明日出立する」と言って、三岡に自分の肖像写真をくれました。互いに何時の日かの再会を約束して、別れたに違いありません。

 それから数日後、三岡は家老の屋敷へ赴き、会見の顛末を報告しました。龍馬からもらった写真を懐に忍ばせて…。その帰路、川を舟で渡っているときに、あろうことか三岡は懐に入れていた龍馬の写真を川へ落としてしまうのです。ただちに探してみましたが、見つかりません。
 大事な失くし物をしてしまった三岡は虫の知らせというか悪い予感がしたものか、「大いに気掛かりで」京都からの便りを待っていたといいますが、やがて龍馬が暗殺されたことを知りました。そして、ひそかに三人の仲間と共に龍馬の供養を行ったと述懐しています。

 翌慶応4年正月、三岡は「五箇条の御誓文」を起草し、岩倉具視へ提出します。新国家の方針を掲げたこの誓文は、龍馬の船中八策が活かされたものでした。三岡が書いた草稿は、土佐藩の福岡孝悌、長州藩の木戸孝允の修正を得て、正式に布告されることになりました。
 (この前見学した、皇居・三の丸尚蔵館での展示会に「五箇条の御誓文」の控が出展されていました。原本は天皇陛下の御物なので、さすがに出ていませんでしたが…)

 明治維新後、由利公正と名を改めた三岡は、龍馬が願ったように新政府に参加し、数々の要職を歴任しました。
 明治10年(1887年)には子爵にも列せられました。
 そして、明治42年(1909年)、81歳で他界、天寿を全うしました。

 33歳の若さで逝った龍馬と、81歳まで長生きした三岡。龍馬と三岡が会ったのはたった二度でしたが、三岡は志半ばで凶刃に斃れた龍馬の志を継ぎました。
 三岡…後の由利公正ですが、晩年になって龍馬との思い出を回想という形で残しています。これは、明治5年に銀座築地の大火で、京橋木挽町にあった由利の邸宅が類焼し、維新前夜の記録がすべて焼失してしまったからです。
 もしこの時由利の邸宅が火事に遭わなければ、もしかしたら龍馬からの手紙などが伝えられたかもわかりません。
 
 松平春嶽や由利公正の他に福井藩の人物で龍馬と交流したのは村田氏寿という人がいます。それから、海援隊には越前出身者が6名ほどいたといわれます。
 最後に、龍馬が慶応3年の11月5日に福井から帰ってから風邪をひいてしまい、逗留先の近江屋で主人が龍馬の隠れ家として用意した土蔵では寒くてかなわないと言って、母屋へ出てきていたのが龍馬にとっては不運なことでした。
 歴史に「If」はありえませんが、この時もしも福井へ行っていなかったら…と考えるのは私だけではないかもしれませんね。
 

より大きな地図で 莨屋旅館跡 を表示 


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坂本龍馬 人生最後の旅路(二) 龍馬と横井小楠 三岡八郎

     横井小楠・三岡八郎

 松平春嶽は安政5年(1858年)、熊本藩士・横井小楠(写真左 1809~1869)を政治顧問として迎えました。かねてから小楠はその進歩的な思想が地元の熊本では受け入れられず、不遇の身を囲っていました。
 小楠は藩校明道館で講義をしながら、開国通商と殖産興業による富国強兵論を提唱し、福井藩の藩政改革を推進しました。その小楠から指導を受け、福井の特産品である絹や生糸を長崎から海外へ輸出してその富で藩の財政を立て直そうとし、結果として藩に50万両を貯えさせたという福井藩士・三岡八郎…後の由利公正(1829~1909年)です。上の写真は、小楠が熊本に一時帰国する際に、長崎での物資販路を開拓するため三岡と共に旅立った時の姿です。

 さて、坂本龍馬ですが横井小楠とは元治元年(1864 年)2月に熊本で会っています。その折、小楠から「国是七条」を説かれた龍馬は、小楠の考えに大いに心服したといいます。小楠の「国是七条」は、後に龍馬の「船中八策」の基となりました。
 このように、龍馬の思想というのはぶっちゃけ「耳学問」なんですね。一人の師について系統的に学問するというのではなく、いろんなところに出向いて偉い人の話を聞いて、その大意を知るというか・・・龍馬は理屈でというよりも、感覚で物を考えることに長けていたのではないか、と思われます。

 龍馬が二度目に来福した文久3年5月、龍馬、小楠、三岡の三人は互いに語らう時間を持ちました。この時、三岡は龍馬とは初対面でした。
 三岡の後年の回想によると、
「これより先は、勝海舟によって小楠を知り、熊本にも越前にも往来したので、私とも知り合いになった。
 小楠の邸宅は私の家と足羽川を隔てて向かい合って居た。ある日、親戚の招宴でおそく帰った処、夜半に大声で戸を叩く者がある。出てみると、小楠が坂本と一緒に小舟に棹さして来た。そこで三人が炉を抱えて飲み始めたが、坂本が愉快極まって――君がため捨つる命は惜しまねど 心にかかる国の行く末――という歌を謡ったが、その声調が頗る妙であった。翌朝、坂本は勝と大久保(一翁)に会いに行くという事で、江戸に向かった」
ということです。

 三岡八郎(由利公正)旧居跡の石碑 福井市毛矢1丁目
  DSCF4754.jpg

 龍馬が訪れたという三岡の家は、明治以降の河川工事により、足羽川の川底へ沈んでしまいました。
 現在は「幸橋」という橋がかかっていますが、当時は橋がなかったので、対岸に家があった小楠は龍馬を伴って深夜に小舟でこの川を渡ったのです。
  DSCF4758.jpg

 川の対岸にある横井小楠の居留宅跡 福井市中央3丁目
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                       つづく



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坂本龍馬 人生最後の旅路(一) 龍馬と松平春嶽

 NHK大河ドラマ「龍馬伝」も残すところ、最終話のみになってしまいました。月日が経つのは本当に早いものですね。当ブログも最近遅々として更新が遅れていますが、急がないと…。(´・ω・`)

 坂本龍馬の短い人生の中で、福井藩との遭遇は重要なキーポイントでもありました。福井藩は「佐幕」でも「倒幕」でもない第三局の立場にいました。
 福井藩代16代藩主であり安政の大獄後隠居していた松平春嶽(慶永)(1828~1890年)との出会いから、龍馬の人生もまた新たな展開を見せていくようになります。むしろ、彼の出身地である土佐藩よりも、ある意味縁が深かったとも言えるかもしれません。「龍馬伝」を見ていた方は前半を思い出してください。

 文久2年(1862年)7月、前福井藩主・松平春嶽は、幕府大老の職にあたる「政事総裁職」に就任します。春嶽は、幕閣専制を「私政」として批判し、幕府と朝廷、幕府と大名といった「公論政治」の実現を目指していました。坂本龍馬が春嶽と出会ったのもちょうどこの時期だったといいます。
 春嶽が明治になってから著した手記「逸事史補」には、龍馬が江戸で春嶽と初めて面会したことが書かれています。

「其以前余が惣裁職たりし時、坂本龍馬・岡本健三郎二人謁見を乞ふ。余面会、天下の事情と形勢を陳述せり。勤皇の志感ずべき也」

 龍馬との初対面の模様を、春嶽はこのように書いています。
 郷士という低い身分であったのにもかかわらず、春嶽は龍馬との面会を許しました。千葉重太郎あたりの紹介があって実現したという説もあるようです。
 春嶽の述懐によれば、龍馬に勝海舟横井小楠を紹介したのも春嶽だということです。
 下の写真は福井市立郷土歴史博物館の脇にあった若き日の春嶽の銅像です。

     DSCF4500.jpg
     松平春嶽3

 龍馬は福井へ3度来訪したといいます。
    福井城

 第一回目は文久三年(1863年)4月 大久保一翁から前福井藩主・松平春嶽に宛てた手紙を届けるためにやってきました。この時の詳細は残念ながら福井藩の記録には残っていないようです。
 第二回目は同年の5月、勝海舟の命により神戸に海軍操練所を建設するための資金援助を依頼するためでした。この時、春嶽は5000両の大金を融通しています。
 第三回目は慶応3年(1867年)11月1日。久しぶりの来福でした。春嶽宛ての山内容堂の親書を届けるのが表向きの用件でした。

 福井神社境内にあった春嶽晩年の銅像。

   DSCF4480.jpg
    松平春嶽5

 松平春嶽は身分にかかわらず、藩の内外から人材を登用した人でした。この辺が旧来の殿様と異なるところです。だからこそ、龍馬との面会もOKしたのでしょう。彼の回顧録にも龍馬の名が出てくるように、春嶽の中で龍馬との出会いは強い印象を残したようです。
 それから、春嶽は土佐藩の山内容堂とは公私共に特に仲良しでした。手紙や贈り物を頻繁にやり取りしていたことが知られています。
 こうして、殿様から始まった福井藩との縁で、龍馬は福井藩士たちとも交流を深めました。これについては後述いたします。

  下の写真は松平春嶽がもっとも好んで使った号「春嶽」の由来となった福井市内から見た山並みの風景です。
     DSCF4714.jpg


                つづく


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改革と学問に生きた殿様

 旅行記の途中ですが、またまた博物館見学記です。この秋は各地の博物館、資料館などで様々な企画展があり、土日や祝日に足を運ぶことが多かったため少々疲れ気味です。

 現在、栃木県宇都宮市にある栃木県立博物館では、企画展「改革と学問に生きた殿様~黒羽藩主・大関増業」を開催中です。

 今回の展示の主人公は、伊予大洲藩加藤家の出身で、黒羽藩大関家の養子として迎えられた藩主・大関増業(ますなり 1782~1845年)です。
 増業は藩財政が逼迫していた黒羽藩に持参金付きの養子としてやってきます。そして、重臣達の専横が目立つ旧態依然の藩政を問題視し、これを改革しようと様々な努力を重ねます。
 しかし、藩政改革に強い態度で望む増業に対して、事なかれ主義の家臣達は猛反発し、藩主就任13年目で無理やり隠居へ追い込まれてしまいます。
 家臣らによって隠居の生活にも制限が加えられた増業は、挫折感にさいなまれながらも自らを励まし、学問研究に没頭していく・・・というストーリーです。
 
 下野黒羽藩というのは、江戸時代を通して重臣達の専横が目立ち、増業の他にも他家から養子としてやってきた殿様を気に入らなくなるといじめて隠居へ追い込むという、「殿様いびり」がさかんに行われた藩として知られています。
 封建時代でもあり、「家臣の分際で何様!?」と思ってしまいますが、当時黒羽藩に限らず各藩の家臣の権限というのはあなどれないものがあったようで、藩主の方も日ごろの人間関係や政治には細心の注意を払わないと自らの藩主の座すら危ういという、けっして「殿様面」して悠然とはいられない事情があったようです。まさに「お殿様もツライよ」といった感じです。

 さて、展示の方ですが、黒羽藩の藩政記録は江戸時代を通して非常に良好な形で保存・保管されてきました。今回ご紹介した増業も藩政記録の保存について、大切に保存するよう努力しています。それは、養子先の家の歴史を大切にし、そこへ馴染もうとする気持ちの表れでもありました。そのおかげもあって、現在では大田原市(旧黒羽町)にある「芭蕉の館」という施設に大関家のご子孫から寄贈された史料が大切に保管されています。

 貴重な史料がたくさん展示されていましたが、私個人は増業が失意の中、隠居生活を送っていた時に自ら手作りしたという甲冑が展示されており、これが印象に残りました。増業お手製の甲冑は実家である大洲藩加藤家に贈呈されていたのですが、今回所蔵先である愛媛県歴史文化博物館よりはるばる貸し出されてきました。
 また、増業はなかなか社交的だったようで、老中松平定信や真田幸貫、松浦静山など有名な殿様たちとも交流していた記録があり、興味深かったです。
一人のお殿様の、決して平坦とは言えない人生模様を残された史料からうまく浮かび上がらせている内容となっています。
なお、同展示は23日(火)までとなっています。

 参考サイト 「改革と学問に生きた殿様~黒羽藩主・大関増業~」(栃木県立博物館HPより)


より大きな地図で 栃木県立博物館 を表示

 
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上城戸・下城戸跡 安養寺跡など 一乗谷城(六)

 そろそろ一乗谷もエンディングです。

 上城戸跡 朝倉氏遺跡の南側にある城下への出入り口です。現在は土塁の一部と濠跡が確認できます。
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 下城戸跡 朝倉氏遺跡の北側にある城下への出入り口です。福井方面(一乗谷駅方面)から来れば、県道18号線沿いにあり、大きな石碑が目印となってすぐわかると思います。
下城戸跡1

 裏側には巨石を用いた喰違虎口がありました。重さ45トン!もの巨石を積み上げて造られたんだとか。
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 朝倉景鏡(かげあきら)館跡  
 朝倉氏館より約700mくらい北側にあります。朝倉景鏡は義景の従兄弟で、最後に義景を裏切り、死へ追いやった人物です。主の首を織田信長に捧げ恭順し助かりましたが、後に一向一揆に攻められ、あえない最期を遂げました。
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 安養寺・義昭御所跡 
 上城戸の外側 国道18号を南(鯖江方面)へ下った東新町にあります。永禄10年に足利義昭が下向してきた際、ここにあった安養寺の敷地内に御所が築かれ、そこへ義昭が入りました。
 ハッキリとした表示板もなく、細い電信柱?に小さく「安養寺・御所跡」のプレートがあっただけで、車で来るとつい通りすぎてしまいます。近くにあった「一乗ふるさと交流館」の駐車場に車を停め、200mくらい南方へ歩きました。
 安養寺は朝倉孝景(敏景)が文明年間に創建した格式の高い寺で、天文年間には京から下向してきた公家の清原宣賢が「大学」「中庸」の講義を行ったとされる処です。
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 下の写真は寺の跡ですが、すぐ北隣の土地に御所が築かれたそうです。(御所跡の小さな石碑があったらしいが、よくわからなかった)
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 以上で一乗谷城については終わりです。一乗谷にはこの他にも山城跡や寺院跡、石仏などがあり、全部見てまわったら丸一日は必要で見所満載です。「つわもの共が夢の跡」という言葉にふさわしい史跡です。
 実は、福井県の旅はまだまだ続きがありまして、読み続けていただいている方、恐れ入りますがもうしばらくご辛抱ください・・・。


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朝倉義景の墓 一乗谷城(五)

 朝倉氏館跡の唐門をくぐり、右手奥の方に木々がこんもりと茂っている場所に、一乗谷最後の主となった朝倉義景(1533~1573年)の墓はあります。

    朝倉義景の墓2

 義景は第十代当主・孝景の子として生まれました。父が40歳の時にやっと生まれた嫡男でした。
 義景が数えで16歳の時、父・孝景の死により家督を継ぐことになります。

 永禄10年(1567年)に京から逃れてきた足利義秋(後の義昭)を迎え、歓待しますが、義昭が切望していた上洛に義景はまったく賛同しませんでした。(その結果、義昭は朝倉氏を頼りとするのをあきらめ、織田信長のもとへ去っていきます)
 その後、先に上洛を果たした織田信長からの上洛命令にも義景は従わず、かねてから越前に目をつけていた信長に、攻略の口実を与えてしまいました。
 義景が信長についてどう思っていたのかわかりませんが、義景にしてみれば、名家出身のプライドというものがあったでしょう。対する信長の家は元々守護代の家臣に過ぎないので、家格からしても格下の信長に唯々諾々と追従する気にはなれなかったに違いありません。
 信長との戦い(元亀争乱)の最中も、対陣が長引いた割には思うような戦果をあげることができませんでした。
 このようなグダグダな状況下で、義景に失望した家臣の中には、信長側のたくみな諜略も手伝って、信長方へ寝返るものも現れる始末でした。
 元亀三年(1572年)の十月、甲斐の武田信玄が徳川家康を討つべく挙兵し、義景の元にも協力を仰ぐ書状を送っています。うまくすれば、信長を挟撃しうる絶好のチャンス!
 しかし、同年十二月、なぜか義景は兵を越前に退かせてしまうのです。このような好機をみすみす捨てて撤退した義景の態度を激しく非難した信玄の文書が伝えられています。
 
 とうとう、天正元年(1573年)八月、信長軍によって次々と砦を落とされ、ついに同盟者の浅井長政とも連携をとることが不可能となり、「田部山の戦い」で大敗を喫した義景は敗走を余儀なくされます。
 重臣の一人であった従兄弟の朝倉景鏡の勧めによって、居城である一乗谷を捨て、大野に逃れましたが、そこで信長と通じていた景鏡に裏切られ、難を逃れて立て篭もっていた賢松寺を兵で囲まれます。もはやこれまでと観念した義景は、同年八月二十日、あえなくここに自刃しました。
 享年41歳。
 義景の母親・広徳院や側室の小少将、一子の愛王丸らは捕らえられ、皆殺しにされました。ここに十一代続いた越前朝倉氏は滅亡しました。
 信長軍によって一乗谷の城と城下は焼討ちにされ、三日三晩燃え続けたといいます。
 義景の首級は京で晒された後、浅井久政、長政親子と共に髑髏に「箔濃」を施され、信長の酒宴の肴として供されたのは有名な話です。

 こうして、ざっと義景の人生を見てみると、どうも名家のお坊ちゃまという印象が強いです。平時であれば、現状維持で万々歳だったのですが…。同時代に織田信長がおり、彼の標的とされたという不運もありますが、義景の優柔不断で、武将でありながらともすれば風雅に傾きがちであった気質、家中のとりまとめ役であった長老の朝倉宗滴の死後、不協和音の渦巻く家臣団をうまくまとめきれなかった事などが負の要因としてあったと思われます。

 
 【義景の辞世】 
 七顚八倒 四十年中 無他無自 四大本空 


    朝倉義景の墓1

 なお、このお墓は地元の村民たちが義景の供養のために建てた小祠だったものを、江戸時代に福井藩主・松平光通が現在の墓石を建立したということです。
 (-人-)合掌


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朝倉孝景の墓(英林塚) 一乗谷城(四)

英林塚

 朝倉氏第7代当主(戦国期朝倉氏 初代)朝倉孝景(1428~1481年)の墓 その法名より「英林塚」と呼ばれています。
 孝景は最初の諱を「教景」といいましたが、後に「敏景」→「教景」→「孝景」と改名しています。(まぎらわしいですね…)
 
 朝倉氏は代々越前守護代甲斐氏、尾張守護代織田氏と並んで、三管領筆頭で越前・尾張・遠江守護の斯波氏の宿老を務めていました。
 応仁の乱(1467)が勃発すると、孝景は当初は西軍に属し京都で戦いましたが、文明3年(1471)越前に帰国すすると、越前守護代甲斐氏に代わり守護代職を条件に東軍(幕府側)に寝返りました。
 このため甲斐氏との間に越前支配をかけた激しい戦いが繰り広げられ、その結果、文明7年(1475)には越前をほぼ平定しました。
 しかし、守護斯波氏は孝景の越前支配を「越前押領」とみなし、文明11年(1479)には、東軍(幕府側)に帰順した甲斐氏や二宮氏など被官人を引きつれ「朝倉退治」と称して越前に下国、一進一退の戦いが続いていた最中、文明13年(1481)7月、孝景は病死しました。
 歴史の教科書的には、戦国期の分国法である「朝倉敏景十七箇条」を制定したとして知られる人物です。

 お墓は宝筐印塔で、墓石が傷まないように堂宇で覆われています。朝倉氏館の背後の高台にあります。



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朝倉氏館と庭園を見る 一乗谷城(三)

 多忙によりブログ更新が遅れております。ちょくちょく覗きに来てくださっている方、申し訳ございません。気長にご覧いただければ幸いです。
 
 さて、一乗谷城の続きです。「復元町並み」を見学後、朝倉氏館跡の方へ行きました。ごく一般的な見学コースです。
 背後には城山がありますが、今回は時間の都合もありそちらはパスしています。(お城猛者はぜひどうぞ ただし蛇などが出たり、少々荒れている箇所もあると伺いました)
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 日本史やお城関係の本に必ず掲載されているのがここ「唐門」です。かつて、朝倉氏館があった当時、この場所にもう少し立派な平入形式の唐門が建っていたそうです。
 朝倉氏滅亡後、この地に朝倉義景の菩提を弔うため、彼の法名から名づけられた「松雲院」という寺がこの地に建立されましたが、唐門は豊臣秀吉が寄進したと伝えられています。(しかし、現在の唐門は江戸時代中期頃の再建だということです)
 朝倉氏館・唐門

 唐門から中へ入ると、整備された朝倉氏館の建物等の礎石群があります。(写真は上方から撮影)
 ここは発掘調査の結果、常御殿を中心に主殿や離れ座敷、台所、蔵、湯殿等16もの建物跡と庭園、花壇などの付属施設が発見されています。(花壇ですが日本最古の物なのだそう)

 土塁や濠をふくめた敷地面積は10,628㎡、土塁内部の平面6,425㎡もの広さを誇り、京の都にあった室町幕府の管領邸に匹敵する規模だそうです。
 現在の館跡は5代・朝倉義景の時期のもので、この頃(永禄年間)将軍・足利義昭の御成があったため、増築された建物もあったといいます。
 
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 館の東南斜面を背景に造られた庭園。国の特別名勝に指定されています。池に水を落とすために、つづら折れの石組水路が造られています。
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 庭園の裏手の斜面を登っていき、館跡の北側の高台にある南陽寺庭園。(特別名勝)朝倉義景が永禄11年(1568)の春、足利義昭を招き歌会を催した寺です。庭園といっても小さな枯れ池と滝石組があるぐらい。寺跡の敷地は広々とした広場になっています。
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 館の南側高台にある湯殿跡庭園(特別名勝)。朝倉氏館の中では最古の回遊式池泉庭園。庭園としては立派で価値があるそうですが、素人目には大きな石がごろごろ置かれているといった印象・・・(^ω^;)
 なお、この場所にどういう用途の建物があったのか記録もなく、発掘調査でも判然としなかったということです。
  湯殿跡庭園

 湯殿跡庭園から中の御殿跡の間に空堀のようなものがありました。石垣は当時のものかも…。
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 中の御殿跡。こちらは朝倉義景の母・広徳院の居館があった場所だそうです。朝倉氏滅亡後、長く畑として使用されていたため、遺跡の保存状態はあまり良くなかったらしく、ただの広場といった感じです。
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 諏訪館庭園。こちらは朝倉義景が側室・小少将のために造成させた庭園です。(特別名勝)。朝倉館の4庭園の中で最大の規模を誇ります。近年導水路の整備がなされ、四段組みの小滝に清水が流れ落ちて、往時をしのぶことができます。
 この日は9月下旬でも暑かったので、清水に手を差し入れたり、佇んでいる人たちが多くて、なかなかどいてくれず、20分くらい待ってやっと撮影できました。
 朝倉義景も自分の気に入りの女のためとあって、格段力を入れて造らせたのでしょう。素人目に見ても、なかなか趣のある庭園となっています。400年後の私たちが見ても、風情が感じられますね。今頃は紅葉が楽しめるかもしれません。
  諏訪館庭園

                   つづく



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戦国時代へタイムスリップ! 一乗谷城(二)

 つづき
 
 戦国時代、この辺りは「一乗」と呼ばれていたそうです。しかし、永正9年(1512年)頃より京の都から下向してきた公家や僧侶などの間で「一乗谷」という新名称で呼ばれるようになったんだそうです。 

 さて、「復元町並み」ですが、南側から見た風景です。ここののぞき穴から見た風景は・・・?
   DSCF4975.jpg

 一気に戦国時代へタイムスリップしたような感じです。12年前来た時には、この町並みを見ただけであたかも自分が戦国時代の住人になったような気分がし、感激したものでした(笑)
   一乗谷・朝倉氏遺跡

 観光客がちらほら出入りしていたので逐一写真は撮りませんでしたが、この南側の辺りは商家などの町屋が立ち並んでいました。

 さらにまっすぐ進んでいくと、武家屋敷の復元があります。実際にあった中級武士の館の北半分のみが復元されています。主殿や蔵、井戸、便所や茶室などもありました。
   DSCF4985.jpg

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 武家屋敷を見学中、なんと私たちは戦国武士に遭遇してしまいました! (@o@)
    DSCF4999p.jpg

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12年ぶりの一乗谷城 (一) (92/100)

一乗谷城

 福井行きの続きです。急な多忙により更新が遅れております。必ず書き終えますので(笑)、気長にお読みいただければと存じます。

 福井城を見た翌日は、レンタカーを借りて、100名城スタンプラリーのため一乗谷・朝倉氏遺跡へやってきました。
 一乗谷城は戦国大名・朝倉氏が一乗谷川沿いの自然の要害を拠点とし、城下町も越前の中心地として繁栄したものの、天正元年(1573年)の織田信長による朝倉攻めによって焼討ちに遭い、すべてが灰燼に帰してしまいました。そして、実に400年もの間、「埋もれた古城」となっていたものです。

 実はこの場所には12年前(1998年)に一度来ております。1995年に遺跡のメインである「復元町並み」が完成しましたので、私が来たのはちょうど復元後三年目でした。しかし、当時はまだ全国的にあまり知られていなかったのか、現地にはほとんど観光客がいなくて、城跡を独り占めといった感じだったのを覚えています。
 それから何かと忙しくて、再訪したい気持ちは多々あったのですが、なかなか北陸方面に来る機会がなく、今回やっと12年ぶりに再訪できて嬉しかったです。
 当時、まだ私も若く、しかもお城ビギナーだったので、「復元町並み」を見ただけで満足して帰ってきてしまいました(笑)。

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 最近、携帯電話のソフトバンクのCMのロケ地としてお城や歴史にさほど興味のない人々にも認知度が上がってしまったようで、この日も雨模様が続いてやっと晴れた週末だったこともあり観光客はけっこう多かったです。

 遺跡の手前に、「福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館」があります。ここでは、ジオラマですとか、発掘史料が展示されていますので、城跡の概要を知るためにも立ち寄って、知識を仕入れてから先へ進みましょう。
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 一乗谷・朝倉氏遺跡は南北1.7kmにわたる細長い城下町です。
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 「復元町並み」の出入り口は南北それぞれ一箇所ずつあります。今回は南側ゲートから入場します。

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 受付で入場券を買い求め、100名城のスタンプをお借りして押印。92城目制覇です!ヽ(^ω^)ノ

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                    つづく

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「知恵伊豆」と呼ばれた男・松平信綱と川越城

 多忙により更新が滞っております。気を取り直して再開したいと思います。出来ましたら、ブログランキングの応援も宜しくお願い申し上げます(モチベーションの励みになっています)。<(_ _)>

 さて、また博物館見学記です。こちらももうすぐ会期が終了してしまうため、先にご紹介します。このところ、なぜか会期の短い展覧会ばかり当たっています。
 埼玉県川越市にある川越市立博物館では、現在、「開館20周年記念特別展 知恵伊豆 信綱 ~松平信綱と川越藩政~」を開催中です。(11月14日まで)

PICT0013.jpg

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 川越市立博物館はたまに行くんですが、今年開館20周年という節目の年を迎えたんだそうです。きれいな博物館なので、設立してから20年も経過しているとは少々驚きです。
 川越は「小江戸」と呼ばれる城下町ですが、川越城や城下の大掛かりな整備を行ったのが、「知恵伊豆」として名高い老中・松平信綱(1596~1662年)です。博物館の記念展としてふさわしいテーマの人物だといえます。

 松平信綱は慶長元年(1596年)、代官を務める大河内久綱の長男として武蔵国に生まれました。後に叔父・松平正綱の養子となります。
 慶長9年に二代将軍・徳川秀忠の嫡男・家光が誕生すると、数日後信綱は家光付の小姓に選ばれます。以来、実に47年もの間、信綱は家光に仕えることになるのです。
 近習としての働きぶりを主君である家光から評価され、信綱は出世街道まっしぐらに進みます。元和9年、家光の上洛に供奉した折、従五位下伊豆守に叙任されます。
 寛永10年5月についに老中に就任し、加増を受け、3万石で忍城主となります。
 こうして信綱は家光の時代の幕政の中心人物として活躍することになります。
 
 彼の生涯でやはり特筆すべきは、寛永14年におこった「島原の乱」を鎮圧したことです。
 今回の展示で目をひいたんですが、信綱が島原の乱の折に原城からかっぱらってきた「戦利品」というのが出品されてました。信綱はそれらを神社に奉納したため、散逸せずに現在に伝わっているんですが、その内容というのがちょっと笑えるのです。
 蛇の卵だとか、蟹の甲羅だとか、変わった形の瓢箪、貝殻のような物だとか・・・。私などが見ると、単なるガラクタとした見えないのですが(笑)、一命をかけて、幕府軍総司令としてキリシタン一揆鎮圧のためわざわざ出陣したのですから、大任を果たした信綱にとってはとても大事な品々だったのでしょう。

 それから、信綱は幕政のみならず、領地内の民政にも力を尽くしました。
 信綱が川越城主になる前の寛永15年、川越で大火事があって城郭の大部分と城下町の繁華な部分を焼失したんだそうです。
 その後、大火の跡も痛々しい川越に信綱は入部しましたが、さっそく川越城の再建と城下町の復興に取りかかります。現在の川越の町の姿は、この信綱の代で形成されるのです。
 加えて、信綱は玉川上水や野火止上水の開鑿や新田開発などの農政にも積極的にあたりました。

 長年忠誠を誓って仕えた三代将軍・家光の死後、殉死した者も多数いましたが、信綱は家光の遺言により、家光の子である四代将軍・家綱の補佐のため引き続き老中を務めます。
 そして、寛文2年3月、老中職に在任のまま67歳をもって亡くなりました。生涯、幕政に尽くした人生でした。
 
 今回の展示では出展数はそう多くはなかったものの、信綱の功績や人となりを知るための、よくまとまった展示内容だったと思います。ひとつひとつの史料の解説文も簡潔でわかりやすかったです。
 信綱は幕閣としても、一藩主としても八面六臂の活躍をし、やはり政治家としてなかなか才能のある人だったんだと思いました。(現代の政治家さんたちも是非見習ってほしいものです 汗)ご本人の才覚もさることながら、家臣など人を使う能力もたけていたんでしょう。


 ところで、川越城本丸御殿は市立博物館の道路を挟んだすぐ目の前にあります。
 御殿へ前回来たのがたしか2年前だったのですが・・・。

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日本100名城完全制覇と有名人の墓めぐり(掃苔)
日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

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