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福井藩志士たちの密議の場 「丹巌洞」

 旅行前、福井県の史跡関係の本などを見て旅行の計画を練っていたのですが、その本の中に、福井藩主・松平春嶽や、家中の中根雪江、橋本左内、三岡八郎(後の由利公正)、そして横井小楠、橘曙覧など名の知れた人々が訪れたという場所が、当時のまま今も残っていると書いてありました。
 ネットを駆使して調べてみると、現在その場所は料亭になっているということで、午前中のみ見学可能といいます。
 早速先方の連絡先を調べ、旅行の数日前に現在の所有者の方へ電話してみました。いくら史跡ではあっても、現在は個人の所有なのですから、いきなり当日伺うのは大変失礼だと思ったからです。
 2,3度電話してみましたが不在で、やっとお電話がつながったとき、年配の女性の方が出られました。見学希望の旨お話したのですが、こちらの趣旨の伝え方が悪かったのか、私が用件を言い終わらないうちに電話を切られてしまいました。
 まあ、駄目で元々と思い、福井城を見学の後、現地へ行ってみました。タクシーを利用して行ったんですが、運転士さんの話だと、地元でも有名な料亭で、お偉いさんの接待や会合などでよく使われているお店だということです。

 こちらが松平春嶽や志士たちが頻繁に訪れたという「丹巌洞」です。足羽山の麓にあります。門前から見ると、うっそうとした森の中にあるようです。
 丹巌洞は、江戸後期に福井藩の御典医をしていた山本瑞庵という医者の別邸であり、明治以降隣家の住人が山本家からこの土地を譲られ、今に至っているという話です。
丹巌洞1

 門にかかる「丹巌洞」の扁額は、福井出身の政治家・岡田啓介(総理大臣、海軍大将)によるものです。岡田啓介といえば、226事件で難を逃れたことで有名ですね。この門も風情がありますが、明治以降のものらしいです。
 丹巌洞2

 恐る恐るインターホンを押してみると、中から物静かそうな40代くらいの男性が出てこられました。どうも現在の所有者である料亭のご主人のご子息?なようです。
「あのう、先日お電話した○○と申しますが…」と言うと、ご子息は
「どうぞ」
と静かに門扉を開けてくださり、
「ご自由にご覧になってください」
とおっしゃるので、こちらもホッとしました。事前の不安は杞憂に終わりました。
「有難うございます。お邪魔いたします」
と私共が頭を下げると、ご子息は頷いて、そっと母屋の方へ引き上げていかれたので、ご迷惑にならないよう、中を散策させていただきました。
 門を入り、すぐのところに松平春嶽の銅像がありました。
松平春嶽1
 この表情からすると、晩年の彼を投影しているようですね。
DSCF4510i.jpg

 そして、その右手の方に、小さな二階建ての建物がありました。もちろん、江戸後期に建てられたものです。この小さな草庵で、春嶽や志士たちが藩政や政局などを語り合う会合の場を持ったのでした。
 丹巌洞3
 
 前の記事でも書きましたが、福井は空襲や震災が相次ぎ、市街中に江戸時代以前の建物はほとんど残っていません。空襲、震災という災禍を切り抜けて現在に伝わった、貴重な建物だということが言えると思います。お殿様も訪れたという割りには、外観からは簡素な印象です。
 先ほどのご子息が玄関を開放してくださっていたので、建物内部を拝見できました。
 長くなるので、つづきます。


  アナゴ君
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福井城御廊下橋

 DSCF4428.jpg

 天守台の石垣です。見事に斜めっていますが、昭和23年の福井震災の時にこうなったようです。
 福井市街は第二次大戦時の空襲と、戦後の震災によって壊滅的な打撃を被り、そこから復興していったのです。

 しばらく天守台をうろうろ歩きまわり、隅の方へ行ったらこんなものが。
DSCF4435.jpg

 本丸と西三の丸御座所を結ぶ「御廊下橋」が復元されていました。これも前回来たときはなかったです。
 福井藩の何代目かの藩主からなぜか本丸を出て、西三の丸に屋敷を構え、そこを日常の住まいとしていました。
 政務は本丸の政庁で行うため、移動のときに藩主自身が渡る橋なので、雨のときなど濡れないように屋根がついているわけです。
福井城御廊下橋1

 そういえば、このブログを開始した今年の4月、和歌山城でも同じような廊下橋を見たので、記事を書きました。そちらも参考にしてください。
 次はお城を出て、福井市内の史跡巡りに移ります。
 

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結城秀康と福井城

 福井城には三箇所虎口があって、この南側の箇所が大手門だったようです。
 写真の右手が福井県庁、左手が福井県警本部です。以前来たとき、県庁でトイレをお借りしたような記憶があります(笑)。
DSCF4405.jpg

 橋を渡って城内に入ると、すぐ目に飛び込んできたのがコレ。
結城秀康石像


   (´・ω・`)・・・。
  結城秀康石像2

 

 福井藩祖の結城秀康(1574~1607年)の石像です。もちろん、12年前にはありませんでした。それもそのはず、8年前の平成14年に完成した模様。
 結城秀康には肖像画が伝えられていますが、それにしてもこの石像はちょっと・・・。
 まるで、滋賀県大津市で見た明智光秀石像と同じ印象を受けました(汗)。

 さて、その結城秀康ですが、徳川家康の次男として生まれました(母は永見氏於万ノ方)。
 母の於万は家康の正室・築山殿の侍女だったのですが、ある時家康が手をつけてしまい、妊娠させてしまいました。嫉妬深い築山殿を憚って、家康の家臣であった本多作左衛門が身ごもった於万を引き取り、他家へ避難させ、そこで赤ん坊は生まれました。
 「於義伊」と名付けられたた赤ん坊を、家康はなぜか疎んじ、なかなか親子の対面をしようとしませんでした。異母兄の松平信康のはからいで、やっと於義伊が3歳になったときに家康と対面がかなったと伝えられます。
 
 しかし、まあ家康というのはあまり自分の子供に対して親子の情みたいなのが薄かったみたいですね。
 実の子である松平信康は自刃に追い込んでしまうし、秀康の異母弟にあたる松平忠輝なんかも出生時から家康に遠ざけられていたといいますし…。家康自身、肉親の縁薄いおい育ちなので、仕方ないのかもしれませんが。

 秀康が父親から疎んじられた理由として、秀康双子説というのがあります。当時、多胎児というのは動物の出産に通じるとされ、「畜生腹」と呼ばれて忌み嫌われていたといわれます。これはけっこう説得力のある理由ではないかと思いますね。
 家康の長男・信康が自刃後、通常なら次男であった秀康が後継ぎとなってもよさそうなものですが、家康は秀康を豊臣秀吉のところへ養子という名の「人質」として送ってしまいます。
 「秀康」の諱は秀吉からの偏諱ですね。そして、下総の名家・結城家の娘と結婚し、家督を継ぐことになります。
 
 関が原の合戦後の論功行賞で、秀康はかつて柴田勝家の旧領だった越前北ノ庄67万石に加増・移封されるのです。そして、城及び城下町の整備に取り掛かった秀康ですが、慶長12年(1607年)に病気が元で34歳の若さで亡くなりました。
 結城秀康についてはあまり評伝なども出ていなくて、どんな人物だったんだろう…と思うことがありますが、残された断片的なエピソードからは苦労しているだけあって謙虚な人柄だったようですね。家康の後を継ぎ、二代将軍となった異母弟の秀忠も、この兄には一目置いていたといわれています。
 

 話をお城に戻します。県庁と県警本部の建物がでん、とあって、12年前来たときと城の内部はまったく変わってないです(笑)。写真撮影のため、県庁と県警本部の間の通路を進みます。
 すぐに天守台が見えてきました。
福井城天守台1

 ここにはかつて4層5階の天守閣がありましたが、寛文9年(1669年)に焼失して以来、再建されなかったということです。
   DSCF4414.jpg

 天守台に上ってみます。
 DSCF4423.jpg

 福井の地名の由来となった「福の井」という井戸が今も残っています。
 もともと、この地は北ノ庄といわれていましたが、「北」の字が敗北につながるということで、地名を「福井」と変更したということです。
DSCF4422.jpg

 長くなるので続きます。


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12年ぶりの福井城

 この一ヶ月、いろいろと出ずっぱりだったため、福井行きを書くのが遅くなりました。行ったのは先月下旬。滋賀県の旅の約1週間前です。
 羽田より空路で小松空港へ。リムジンバスで福井方面へ向かいます。

 福井駅前(東口)でバスを降りました。実は福井へ来るのは12年ぶり2度目です。
 以前は地味な駅舎だったような記憶がありますが、数年前に建替えたということです。
DSCF4365.jpg

 西口の方に回ると、駅前の「まちなか案内所」の看板には、来年の大河ドラマ「江~姫たちの戦国」の看板が。
DSCF4370.jpg
 そうです。福井県もちょっとだけ関係ありますね(笑)

 この日、駅前で何かのイベントがあったようで、ご当地キャラを発見してしまいました。「ふっくりん」という名前だそうです。昨年福井で行われた植樹祭のマスコットだということです。
ふっくりん

 12年前福井に来たときは、駅舎も駅前も地方都市へ来たな…というわびしさがあったのですが、現在では本当にきれいに整備されていました。
 とりあえず、福井城の方へ行ってみます。

 福井城へ来たのも12年ぶりです。この風景はあんまり変わってなさそう。福井藩32万石の居城です。堂々たる石垣です。しかし、それ以外の遺構はほとんどないんですが。
福井城

 横井小楠と三岡八郎(後の由利公正)の銅像が出迎えてくれました。
 横井小楠・三岡八郎

 この地に来たのが12年ぶりということで、ある種の感慨がありました。前回来たときは、まだ20代半ばの未熟者でしたが、酸いも甘いもかみ分けた30代になって、はてさて今回はどんな旅になるだろう…。

                          つづく

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信長・秀吉・家康~天下人が織り成すきらびやかな時代

 先週からどうも風邪っ気が抜けなくて軽い頭重感などがあり、ブログ更新がのんびりペースになっています。毎日ご覧いただいている方、申し訳ございません。季節の変わり目ですので、皆様もどうぞご自愛ください。

 名古屋城でのイベントを堪能した後、向かったのは名古屋市博物館です。
名古屋市美術館

 現在、名古屋開府400年記念特別展「変革のとき 桃山」を開催中です。(11月7日まで)
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 今回、同館と名古屋城天守閣、徳川美術館の三つの施設が、「名古屋開府400年記念・ミュージアムトライアングル初の三館合同企画」を行っており、いずれかの半券を窓口へ持っていけば団体料金にて入場できる特典があります。私も現地でそれを知り、名古屋城天守閣での特別展の半券で200円割引で入場することができました。

 さて、この美術展の内容なんですが、正直大変なボリュームのある企画であり、どこから感想を書いていいのかとまどいます。一言でいうと、安土桃山時代というのは非常に短い期間ではあったものの、織田信長や豊臣秀吉といった天下人によってリードされた、きらびやかな時代だったということです。今回の展示では、並べてある様々な史料によって、その絢爛たる時代というものが浮かび上がってきたというのが印象的でした。
 
 展示の一番最初のブースでは、信長、秀吉、家康の紹介や、彼らに関係するお城の展示品も多くあったんですが、たとえば城の建物に使用された瓦。これ一つとっても、信長の城、秀吉の城、家康の城では違うんですね。信長の安土城跡から発掘された瓦には凹部に金箔がていねいに施されてあり、秀吉の大坂城や聚楽第などでは瓦の凸部に金箔が施されている。これで何がわかるかといえば、とにかく目立つ所に金箔を多用して、一見して豪華に見せたいという派手好みの秀吉の意向が汲み取れるわけです。
 そして伏見城に至ると、段々と使用された瓦も大量生産のせいか粗雑な物になっていくといいます。
 発掘された瓦は他所の博物館などで何度か目にしているんですが、これ一つとっても比較の仕方というか、観客への見せ方を工夫していたように感じます。

 第二部の方へ行くと、南蛮屏風や螺鈿細工の品々が多数並んでいました。その時代、ポルトガル人などキリスト教の宣教師たちが多数日本へやってきて、好奇心旺盛だった信長などはそれを許容したりしているわけです。
 この時代、初めて日本人が異国という存在を強く意識させられたのではないかと思いますが、文化の面でも異国の香りが持ち込まれます。出展されていた螺鈿細工はどれも400年前の物とは思えないほど保存状態が良くで、ライトに照らされ、まばゆい光を放っていました。
 このブースでは、華やかな物に惹かれるのか特に女性の方たちが熱心に見学されているのが印象的でした。

 そして最後のブースでは、織部や志野といった焼物が多数展示されていました。戦国時代後期は武士の間で「茶の湯」が流行していたわけですが、大名など上層階級でも当代を代表する千利休や古田織部といった茶人たちが推奨する焼物を所有するのがひとつのステータスとなっていきます。その流れは庶民階級にも波及して、志野や織部といった美濃焼が大量に流通していきます。
 しかし、大坂夏の陣の直後、古田織部が自刃した後、茶頭が小堀遠州に代わってしまうと、流行も一変し、あれほど流行った織部焼も一瞬のうちに廃棄され、瞬く間に忘れ去られていったのです。まさに栄枯盛衰とはこの事です。
 このブースでは、お茶や工芸などに関心のありそうな方たちが熱心に見入っていました。
 
 こうして見ていくと、安土桃山時代というのはある意味、バブリーな時代であって、短い歳月の間に成熟した文化のエネルギーが弾けて、放出されていたように感じました。やっぱり、大金ばら撒いてくれるスポンサー(信長や秀吉など)がいたからこそ、絢爛豪華たる文化が生まれたということでしょう。
 
  展示品も実に様々な所(個人、施設等)から出品された大掛かりな企画だったので、担当された学芸員さんの地道なご努力がひしひしと伝わってきた展示会だったと思います。歴史という観点のみならず、美術的なアプローチも秀逸でした。
 結局、私は2時間ぐらい展示室にいたんですが、全然時間が足りませんでした。
 自分の拙い文章ではなかなか充実した内容の展示をダイレクトにお伝えするのが難しいので、「百聞は一見にしかず」と申しますし、ぜひご自身の目で確かめていただきたいと思います。
 なお、先日展示替えがあったばかりなので、現在は後期の分の展示がされています。

 参考サイト 「変革のとき 桃山」展公式ホームページ


より大きな地図で 名古屋市博物館 を表示



   * * * * * * * * * * * *

 実は名古屋市博物館の中で、名古屋開府400年記念特別陳列「大坂の陣 -豊臣家の滅亡-」展というポスターを見てしまい、予定外でしたが、この後、急いで同展の会場である「秀吉清正記念館」という所へ出かけました。(続きをクリックしてください)

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名古屋城障壁画を守った乃木倉庫

 今まで見てきたとおり、名古屋開府400年関連のイベントで色々と楽しませてもらったのですが、まだ書き足さねばならないことがありました。

 西北隅櫓のすぐ側に、レンガ造り・漆喰塗りの倉庫みたいな建物がぽつんとあります。これを「乃木倉庫」といいます。
DSCF6636.jpg

 この乃木倉庫ですが、普段は非公開の建物なんですが、今期は期間限定(11月23日まで)で内部が公開されています。
 明治の初期、名古屋城内に陸軍の名古屋鎮台が置かれたのですが、その時に弾薬庫として建てられたものということです。「乃木倉庫」の名前の由来は、どうも名古屋鎮台に在任していた乃木希典(当時、陸軍少佐 後の陸軍大将)にちなんでつけられたものらしい、ということです。
 昭和20年3月、太平洋戦争の戦況が厳しくなり、いよいよ本土決戦かという時期に、もしもの事があっては…ということで、心ある人たちが名古屋城の天守閣や本丸御殿の襖絵・天井画などをこの乃木倉庫と西南隅櫓へ避難させました。(当時、名古屋城は国宝だった)
 そして、同年5月、B29による空襲により天守閣や本丸御殿は焼失してしまいましたが、乃木倉庫は幸いなことに焼け残ったのです。(しかし、庇の部分には不発弾が当たったそうで、そこだけは失われた)中に保管してあった障壁画などもほとんどが無事でした。
 こうして、戦火を免れた障壁画等のうち、1047面が重要文化財に指定されています。

 で、その内部ですが、入ってみるとこんな感じです。

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名古屋城お堀遊覧で、ちょっぴりお殿様気分!?

 本日、2つ目のメインイベントは、「名古屋城 お堀めぐり」です。このために、先ほど二の丸の受付で並んで座席を予約したのでした。就航は1日14便 1便あたり9名までしか乗舟出来ません。
 集合時刻が近づき、受付へ行くと、なんとあのおしゃべりオバサンが娘・孫と一緒にいました!嫌な予感が的中してしまいました。(-_-;)待合所で相変わらず大声で娘や孫としゃべっています。いやはや…)略

 気を取り直して、係員の指示に従ってお堀の波止場へと向かいます。
 今年の6月、NHKの歴史番組「歴史秘話ヒストリア」で、幕末の尾張藩主・徳川慶勝について取り上げられたことは以前お話したかと思いますが、その慶勝が名古屋城の写真を多数撮影しており、ちょうどこの場所で撮影された写真が残されていました。(↓写真参照)
 この「埋御門」と呼ばれる場所ですが、なんとお殿様のマル秘・緊急脱出口だったのです。有事の際、二の丸に住んでいたお殿様がこの場所から用意された小舟に乗り、お堀を渡って城外に出ることを想定していたそうです。
 しかし、当時マル秘の厳重区域であったにもかかわらず、どうして徳川慶勝はこの場所を撮影したのでしょうか…???

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 波止場では小舟がスタンバイ中。順番に乗り込みます。
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 9名の乗客が乗り込み、いざ出発です。船頭さんが二人(ベテランの男性と若い女性)、ガイドさん一人が一緒です。
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 私たちが乗った舟はゆっくりとお堀の中を進んでいきます。
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 ベテランのガイドさんが、今回の遊覧の見所を解説。とくに、石垣には注目してほしいとのこと。
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 遊覧では、普段は遠目でしか見られない二の丸付近の石垣を間近で見ることができます。石垣の石には様々な刻印が打ってあり、普請を担当した大名の目印になっています。
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 その後、小舟はお堀の外側の方へ移動していきます。第一のビューポイント、天守閣が眺められます。
 (その下には先に出かけた小舟が浮かんでいます)
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 そして、舟は次のビューポイントへ…(続きをクリックしてください)

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名古屋城西北隅櫓(清洲櫓)

 この日、名古屋城内では「なごや文化 EXPO NC400」というイベントが行われており、ステージまで設営されてました。
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 本丸御殿内部を見終わったので、別のとあるイベントに参加するため、城内某所の受付へ急ぎました。しかし、ここでもすでに参加希望の人たちの列が出来ていました。人気あります。
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 受付が開始されると、どんどん席が埋まっていきます。
 私たちが列を作って待っているところへ、一人の年配の女性(60代くらい?)が大声をはり上げながら係員に話しかけています。
 「孫が×××・・・」「娘が×××・・・」
 ああでもない、こうでもないと鉄砲玉のような口調で大声でしゃべり続けています。どうもこの人、早い時間の席を予約したのに、連れの身内の人たちがなかなか来ないようで、時間を変えてほしいという話らしい。
 そして、その女性はとうとう私らとその次に並んでいた少年達の間に割り込んできてしまいました。
 (おいおい…(*-_-)ノ)
 ちょっと嫌な感じです。出来れば、このオバサンとは同じ時間の回になりたくないなあと思いつつ並んでいると、やっと自分たちの受付の順番が来ました。かろうじて午前の部の最終の回が予約できました。

 イベント開始まで1時間ちょっと時間があったので、この期間公開されている西北隅櫓へ行ってみることにしました。
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 西北隅櫓は別名・清洲櫓ともいい、かつて織田信長の居城であった清洲城の建材を用いて造られた櫓です。幸いなことに、昭和20年の空襲でも焼け残りました(重要文化財)。


 一階部分に、二の丸の石垣から出てきたという「胴木」が置いてありました。慶長15年の普請の際に、石垣の補強のために中に埋められた木材だということで、松の木だそうです。平成6年の台風で石垣が崩壊したとき、中から出てきたそうです。実に400年ぶりに白日の下にさらされているわけです。
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 片隅に目をやると、「石落とし」の穴が・・・。覗きこむと、すぐ下には蕩蕩と湛えるお堀の水面が見えました。
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 西北隅櫓ですが、丸亀城とか宇和島城とかあの辺の、小規模のお城の天守閣と同じくらいの広さがありましたね。
DSCF6604.jpg
 
 
 そこへ、おもむろに鎧武者が現れました!すわっ 何者じゃ!? 
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名古屋城本丸御殿内部に潜入!

名古屋城本丸御殿内部 特別公開!」 の続き

 名古屋城本丸御殿玄関部

 名古屋城本丸御殿玄関ですが、今の状態はスケルトンで、柱や梁などが露出しています。ですから、和風建築などに関心のある方も興味深く見学できそうです。
 天井の枠組みはこんな感じ。
DSCF6514.jpg

 これだけで終わりかと思ったら、階段を登り、上方からも見学できた。復元中の本丸御殿、かなり広いんですね。
DSCF6530.jpg
 建築会社の方が屋根に登って作業していらっしゃいました。
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 夢中で写真を撮っていたら、東海地方のローカルTV局のカメラマンさんから声をかけられてしまいました。
(「続きを読む」をクリックしてください)

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名古屋城本丸御殿内部 特別公開!

 「近江路・歴女ブロガー旅紀行」を終えてから、用事が立て込んでなかなか更新の時間がありませんでした。今日から少しづつ更新いたしますので、引き続き宜しくお願いします。なお、たまに更新の日が少々開いてしまう場合もあるかと思いますが、ご了承ください。

 昨日(16日)のことですが、朝6時過ぎの東京発・新幹線「のぞみ」に乗り、名古屋へ向かいました。

 JR名古屋駅で新幹線を降り、地下鉄を乗り継いで、名古屋城へ。
 朝8時半頃、名古屋城東門へ到着。開門は9時からなので、人影もまばら。

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 今回のお目当ては、コレ↓
DSCF6480.jpg
 
 現在本丸御殿の復元工事が着々と進められていますが、その玄関部と工事過程を特別に公開するということで、わざわざ駆けつけたのであります。
 残念ながら、名古屋城本丸御殿は天守閣と共に、昭和20年の空襲で焼失の憂き目に遭いました。
 しかしながら、4年前より木造による復元計画が進められ、2年前の平成20年(2008年)より復元工事が開始されました。
 (参考サイト 名古屋城本丸御殿

 以前書きましたが、去る8月の下旬に徳川美術館で開催された講演会で、名古屋城管理事務所の方がお話され、「10月頃、本丸御殿の玄関部だけ一部公開する予定なので、ぜひ皆様いらして下さい」と教えていただいたのでした。
 
 開門まで時間があったので、正門の方へ回ってみる。
 正門の近くの自販機でこんなモノを見つけました。
DSCF6491.jpg

 そうこうしているうちに、正門の方では観光客の姿が増えてきました。
 急いで券売所の前に並ぶ。蛇足ですが、この櫓門は戦災によって焼失したものの復元ですが、それ以前は江戸城からもってきた門が建っていました。
名古屋城正門

 9時になり、開門。入場券を買い求め、小走りで城内へ!
 (「続きを読む」をクリックしてください)

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薩長同盟の裏書

 「近江路・歴女ブロガー旅紀行」を読んでいただいた皆様、本当に有難うございました。手前味噌ですが、お楽しみいただけたでしょうか。
 実は応募要項で、掲載日時の期限が予め決められていたため、あのとおりせわしない更新になってしまいました。短時間で書いたので、かなり疲れました(汗)。
 本日からまた通常通り戻らせていただきます。

 さて、この3連休の中日、東京丸の内の皇居東御苑内にある「三の丸尚蔵館」へ行ってきました。
 現在、「皇室の文庫(ふみくら) 書陵部の名品」展を開催中です。

 皇居の大手門をくぐり、
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 受付で入苑札をもらい、中へ進むとすぐ右手にある建物が会場です。
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 今回のお目当ては、あの坂本龍馬が書いた「薩長同盟の裏書」でした。先月から展示中なのは知ってたんですが、例の滋賀県の旅やその他の用事が多く、なかなか行けないでいたので、とりあえず行ってみました。
 「薩長同盟の裏書」が何たるかは、以前書いたのでそちらをご覧ください。
 
 三の丸尚蔵館の展示室は本当に狭いんですね。20畳あるかないかぐらい。入館した途端、狭い室内にたくさんの人々が観覧しているのに少々驚きました。
 そして、お目当ての龍馬の「裏書」の前には、とくに人だかりが出来ていました。
 やっぱり、「龍馬!」と聞くと、人が一杯来ちゃうんですね…。

 他の展示物も列をなしていたので、外へ出て、しばらく東御苑内をうろうろ。
 御苑内も普段よりは人が多かったです。外国人観光客たちもよく見かけました。
 20分くらいぷらぷらして、また尚蔵館へ戻る。
 まだ、「裏書」の前に多数の人だかりが出来てました…orz
 閉館まで40分くらいだったので、仕方ないので後ろの方で順番を待ち、ようやく見ることができました。
 
 この裏書、何年かにいっぺんくらいは公開されるとは聞いていましたが、さすがに皇室の持ち物なので、なかなか他所には貸し出されないですね(当然といえば当然ですが、春先に見た「龍馬伝」展にも出品されていませんでしたし)。木戸孝允の子孫から後に皇室に献上された「木戸家文書」の中に含まれています。

 そのほか41点の貴重な史料が展示されていましたが、やっぱり「裏書」目当ての方が多かったですね。それから、「竹取物語」などの古典も女性に人気がありました。
 やっぱり、この手の人気展は日曜、祭日などに行くものじゃないですね。
 同展示は今月17日(日)までとなっています。(休館日に注意のこと)
 今年は大河ドラマのおかげで、いろんな龍馬や幕末関係の展示会が催され、そのうち見に行けた物はどれも良かったです。

 大河ドラマの方も先日で収録が終了したそうです。主役の福山さんをはじめ、約1年という長丁場の撮影本当にお疲れ様でした。

 ただ、ちょっと気になったのは…(続きを読む、をクリックしてください)


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びわ湖一周! 感動(!?)のフィナーレ (終)

菅浦から引き返す道々、帰りの道順をどうしようか迷った。
 カーナビ君に聞いてみると、どうも往路をそのまま引き返すと一般道利用のためかなり時間がかかるようで、東側の北陸自動車道を使って膳所まで戻ったほうが早いことがわかった。
 帰りの新幹線の時刻も心配だったので、北陸自動車道を選択!

 木ノ本ICより北陸道へ。
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 幸いなことに道は空いていた。そうこうしているうちに、左手に小谷城址が見えてきたー!
 今年の5月に行ってきました。つい5ヶ月前なのに何故かとてもなつかしい気分…。
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 米原で名神道へ入ると、彦根を通過!ひこにゃんにまた会いたい~♪
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 途中で休憩のため、多賀SA(犬上郡多賀町)に停車。
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 中の売店に入ってみた。おおっ!浅井3姉妹グッズ発見。品数も豊富。
 かわいいキャラだし、来年のドラマ放映に向け、ブレイク間違いなし!
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 それから「速弁」というものを見つけた。「駅弁」「空弁」にちなんだネーミングらしい(笑)
 美味しそうだったので、帰りの新幹線で頂こうと買ってみた。

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 再び車を走らせる。美しい夕焼け空!明日も晴れるな…せめてもう一日、こちらへいられればいいのに、とちょっとさみしい気持ちになる。
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 大津ICで高速を降りる。
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 結局、今日はびわ湖を1周してしまっわけです。意外な展開だったけど、終わりよければすべてよし、です(笑)。

 膳所で返車し、在来線で京都へ。新幹線で帰京へ。
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 車内で多賀SAで買い求めた「近江牛めし」を食べた。紐を引っ張ると蒸気が出て温まるというやつ。
 これがなかなか美味しかった。
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 【旅の感想】
 一泊二日の旅であったが、慌しい中にもなかなか密度の濃いものとなったと思う。
 事務局の方からは「旅行記は印象に残った場所を中心に書いていただければ…」と言われていたが、どこもかしこも自分にとっては印象深い所で、むしろ省略するほうが難しかった。冗長になりすぎた感もあるが、ご容赦願いたい。
 近江は昔から開けた土地であり、史跡旧跡も様々な時代のものがあったが、今回は戦国時代のみに特化したため、後ろ髪引かれる思いでスルーした箇所も多々あることを付け加えておく。

 それから、二日間同行してくれた夫に感謝。平日、無理を言って休みを取ってもらい、サポートしてもらった。
 紹介し忘れたが、彼自身ブログはやっていないが、「歴男」歴三十数年の筋金入りである。
 夫も過去、何度も滋賀県へは来ているが、実は母方のほうが彦根藩士の子孫なので、近江にはゆかりがあり、何時来ても故郷に帰ってきたような懐かしい感じがする場所だと言っている。
 また一つ、夫との楽しい旅の思い出が出来た。

 このような機会を与えていただいた滋賀県観光交流局の皆様、どうも有難うございました。それから旅中お会いした方々、お世話になった方々、そして、最後までお読みいただいた皆様にも心から感謝申し上げます。

                      (了)

 蛇足ながら、過去記事もどうぞご参考に・・・。
 小谷城(一)
 姉川の合戦(一)
 



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奥琵琶湖パークウェイ~かくれ里・菅浦

 賤ヶ岳を後にし、最後の目的地である菅浦の里へ向かう。
 菅浦へ行くには「奥琵琶湖パークウェイ」というドライブウェイをひたすらまっすぐ行く。

 短時間ではあったが、右手に琵琶湖を眺めながら楽しいドライブである。
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 やがて、彼方に「竹生島」が見えた。竹生島も一度行ってみたかったんですけどね。
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 30分ほどで菅浦の里(西浅井町)へ到着。
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 今回我々は車で来たが、JR永原駅からの菅浦へのバス便は日中1時間に一本しかないようだ。
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 湖岸沿いの駐車場に車を停め、すぐの所に茅葺の「四足門」(西)があった。昔は村の東西南北の四箇所に門が置かれ、人の出入りなどをチェックしていたという。言い伝えによれば、村の掟を破った住民はこの門から追放されたという。
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 近江は昔から惣村が発達していた地域であった。中世史を勉強した人なら、大抵は菅浦庄の事を知っている。
 この村では古くから住民による自治が行われており、鎌倉時代~江戸時代までの1261点の文書が伝わっている。「菅浦文書」と呼ばれ、国指定重要文化財に指定されている。現在は滋賀大学に所蔵されているという。
 近隣の村との土地を巡る紛争(150年も続いたらしい!)に関する文書など、村落史を考える上で重要な史料であると聞く。

 西の四足門のすぐ右手に須賀神社の鳥居があった。奈良時代、淳仁天皇が「藤原仲麻呂の乱」の際に当地へ逃れたという伝説があり、現在社のある場所を行在所(あんざいしょ)としていたと言われる。社の裏手には淳仁天皇の陸墓があるとのことだったが、恐れおおいので行かなかった。
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 神社の鳥居をくぐり、すぐ左手の方に「菅浦郷土史料館」があった。ここには「菅浦文書」の写しなどが所蔵されているそうだが、残念ながら平日は事前予約がないと入館出来ないそうだ。(管理人の連絡先に電話したが、お留守のようだった)
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 西の四足門から東へ4、500m湖岸の道を行ってみる。途中で道が細くなり、軽自動車が一台やっと通れるような感じだったので、不精せず車ではなく歩いてくればよかったと一瞬後悔したが、かろうじて通ることが出来た。たどり着いた先は行き止まりになっていた。
 そこに東の四足門があった。
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 東の門付近から遠望した菅浦集落。心洗われる風景である。散策中、人を見かけたのはわずか一度きりで、本当に静かな里なのである。
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 地元の方たちの日ごろの心がけによる賜物であろうか、菅浦の里の湖水はきれいに澄んでいて感動する。思わず、夫が湖水に手を差し入れると一言「冷てえ!」
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 この澄んだ湖水の輝きは、この地に暮らす里人たちひとりびとりが環境を守る努力をしていることの証である。

 このように菅浦は一般的な観光地ではなく、古くから代々住んでいる方たちが静かにそれぞれの暮らしを営み、都会の喧騒などとは無縁の、時がゆっくりと流れている土地柄なのである。だから、立ち寄る際には住民にご迷惑がかからぬようマナーを守って散策したいものだ。

 菅浦の里で見た湖水の輝きは私の心を捉えて離さなかった。
 16時を回り、そろそろ帰路につかねばならない時刻である。後ろ髪引かれる思いで、元来た道を引き返した。「奥琵琶湖パークウェイ」はこれから紅葉の時期を迎える。いつかまたその時期に来てみよう。
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 さあ、「近江路・歴女ブロガー旅紀行」もそろそろエンディングへと向かいます。


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賤ヶ岳古戦場

 一つ前のエントリーの答え。本日のメインスポットは「賤ヶ岳古戦場」でした。

 うちの主人がまだ学生ぐらいの時一度来て、頂上からの眺めにとても感動したと言い、
「今日は良い天気になりそうだし、思い切って行ってみないか」
と朝起きてから勧めてくれたのだった。本当に急な予定変更である。
 
 有名な「賤ヶ岳の戦い」は、織田信長亡き後、その跡目を巡って重臣の柴田勝家と羽柴秀吉(豊臣秀吉)が対立し、両者はこの地で雌雄を決する戦いを繰り広げた。
 天正11年(1583年)3月、越前北ノ庄から南下する柴田勝家軍と北上する羽柴秀吉軍は、各々がこの賤ヶ岳の近隣に砦を築いて対峙したものの、一月ほど膠着状態となった。
 ところが、一時は秀吉に降伏した信長の三男・信孝が岐阜で再び挙兵したため、秀吉がやむなく岐阜城へ向かった隙を狙って、勝家の甥・佐久間盛政が秀吉側の中川清秀が守る大岩山を攻め、清秀軍を全滅させた。ここから戦いの火蓋が切られたのである。
 その頃、大垣にいた秀吉は柴田軍攻撃の報を受け、近江木ノ本までの13里(約52km)をわずか5時間で引き返し(美濃大返し)、反撃に出た。
 後に「七本槍」と謳われた秀吉子飼いの福島正則、加藤清正ら若い武将たちの活躍と、柴田軍にいた前田利家が突如戦線を離脱したため、柴田軍は総崩れとなった。
 こうして羽柴軍に追い詰められた柴田勝家は北ノ庄に敗走し、もはやこれまでと妻のお市ノ方と共に自害した。
 なお、「江~姫たちの戦国」では柴田勝家役を俳優の大地康雄さん、お市ノ方を久しぶりに芸能界へ復帰したばかりの女優・鈴木保奈美さんが演じられる。

  駐車場に車を停め、リフト乗り場へ。山頂へはリフトで上がるか、登山道が整備されている。
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 リフト乗り場には売店が…。「賤ヶ岳の七本槍」関連グッズを販売中。
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 リフト券を買って、いざ頂上へ。秋のさわやかな風が心地よかった。スピーカーからフォルクローレのような音楽が流れていた。リフトだが、3月下旬~11月下旬までの運行なので、冬場は乗れないから要注意。
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 リフトを降り、しばらく登り坂を行くと、賤ヶ岳で戦死した人を供養する祠があった。その前で手を合わせる。
 中川清秀のような有名な武将も命を落としたが、戦死者の大半は名もなき兵士たちであっただろう。
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 さらにしばらく歩くと、頂上へ着いた!
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 昔からある「賤ヶ岳古戦場」の石碑。
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 賤ヶ岳合戦図
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 見晴らし台に立つと、眼前に広がるのは400年以上前、この地で血みどろの戦闘が繰り広げられたなんて信じられないほどの心奪われる絶景だった。

 びわ湖は陽に照らされて、キラキラと輝いていた。
 やっぱりここまで来てみて、良かった!夫よ、ありがとう。
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 余呉湖の眺めもまたびわ湖に負けず劣らず素晴らしい。なお、余呉湖には「羽衣伝説」があり、湖の周囲の散策も楽しめるという。
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 頂上では、3組の熟年のご夫婦とすれ違ったが、この景色には皆、一様に感嘆していた。
 たとえば、一緒に来た家族や友人が歴史に興味が薄い人でも、この風景を楽しんでもらえることは間違いナシ。

 時間があれば、戦跡が点在するハイキングコースを歩いて下りたかったが、今回は時間がなかったのでまたリフト利用で降りることにした。
 頂上で登山中の二人の男性(地元ボランティアの方らしい)に出会ったが、彼らの服装や持ち物を見ると、しっかりと登山の用意をしてここまで来たようなので、次回来る際はちゃんと登山の準備をしてこよう。

 
 最後に賤ヶ岳の戦い400年を記念して造られたという槍を持った武者の像と一緒にパチリ。
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 槍の武者は激しい戦いに疲労困憊といった有様である。

 私「現代の私らは絶景の眺めを楽しんでるけど、400年前の武将たちは重い鎧来て、刀や槍を手にして山を登って、正直景色を楽しむどころじゃなかっただろうねえ」
 夫「うーん そう言われてみりゃそうかもな…」


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日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

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