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「近江路・歴女ブロガー」準備中

 先だってお伝えした「近江路・歴女ブロガー」の件です。
 先週、事務局から滋賀県の観光関係の資料(書籍、パンフレットなど)が宅配便でどっさり届きました。
 下の写真はそれらの一部です。

歴女ブロガー資料

 一番左の青い冊子などは電話帳の一区町村版くらいの厚みがあって、驚きました。
 これら全てに目を通さねば・・・と思うと、軽くプレッシャーがかかります。(^^;)
 せっかくお送りいただいた資料ですので、有効活用すべく、とりあえず暇な時間に事前下調べを行っております。
 近々、現地へ取材旅行に行き、旅行記を発表できればと思っております。
 それまで数日間ブログ更新をお休みさせていただきますので、宜しくお願いいたします。
 (毎日閲覧してくださっている方へ。どうも有難うございます)

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テーマ : 展示会、イベントの情報
ジャンル : 学問・文化・芸術

池波正太郎「ひつまぶし」

 名古屋へ滞在した折、作家の故・池波正太郎が愛したうなぎの名店へ行ってきました。
 「宮鍵」さん (名古屋市中村区名駅南1-2-13 電話052-541-0760 土休)1899年創業の老舗ということです。

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 私は池波正太郎の「真田太平記」のファンで、NHKで放映されたドラマのおかげもあって、この作品をバイブルとして生きてきました。
 池波は大変美食家として知られた人ですが、折にふれて、彼が愛した店めぐりをちょろちょろとやっています(雑誌『サライ』の特集みたいですねw)

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 うなぎの骨のからあげとビールでまず一杯。そうこうしているうちに、「ひつまぶし」(2400円)が運ばれてきました。
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 一番最初はそのままで、二番目に薬味(小ネギとわさび)を添えて、最後に出汁をかけていただきます。
 国産うなぎがふんわりしていて、大変おいしかったです。

 この日は給料日前だったので、2階でどこかの会社の接待?の人たちがいたくらいで店内も空いており、落ち着いて食事できました。
 今回はうなぎしか食べませんでしたが、鳥料理も定評があるお店ということです。評判どおりの良いお店でした。


 ※お店の情報は変更になる場合がありますので、必ず事前にお確かめください。

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テーマ : グルメ♪食の記録
ジャンル : 旅行

近江路・歴女ブロガーに選ばれました (^^)v

 報告が遅くなりましたが、おかげ様で当ブログが滋賀県主催の「近江路・歴女ブロガー」に選ばれました。(詳細はリンク先を参照のこと)
 来年、NHKで大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」を放映予定ということで、滋賀県が観光事業の一環として行う企画だそうです。

浅井家ポスター


 7月の下旬にどこかのサイトで募集を知ったのですが、「歴女」というのは私(30代後半)よりももっと若い人が対象となるだろうと思っていてどうしようかな、と迷っていました。しかし、まあ物は試しで締め切りギリギリになって応募してみたところ、見事当選通知が参りました。
 報道によると、264人の応募があり、当選したのは50人ということでしたので激戦といえば激戦だった模様です。
  当選者一覧 (←PDFファイル)
 
 一応、選考はブログの内容である程度評価されたようです。
 当ブログは今年の春から初めて、まだ半年くらいしか経っておらず、さほど人気がある訳でもないのに、正直よく当選したなあとわが事ながら感心しています。「亀の甲より年の功」ということでしょうか(笑)
 当選した人たちは、やはり若い方が多いようです(もちろん、お姉さま方もいらっしゃるようですが)。男性も少人数ですが選ばれたということです。

浅井長政一家銅像


 滋賀県へは過去に5,6度行っていますし、今年になってからも100名城の関係で小谷城の旅も行ってきまして、当ブログ上でも旅行記を掲載しました。
 今回、このような機会を与えていただきましたので、オススメ観光スポットを調べてこようと思っております。

 今後も出来るだけ、当ブログのメインテーマである「城と墓」を中心に、幅広く役立つ情報を書きつづってまいりますので、どうか皆様の応援を宜しくお願い申し上げます。
 なお、ブログ掲載は来月上旬を予定しています。ぜひご期待ください。


 
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テーマ : 国内、史跡・名勝巡り
ジャンル : 旅行

続・尾張名古屋は・・・(「大名古屋城展」)

 急な事情で、数日ブログをお休みさせていただきました。

 さて、名古屋城の続きです。先月24,25日の両日、名古屋市にある徳川美術館では開催中の「大名古屋城展」関連講座が開かれました。
 その事を事前に聞いて、申し込みをしたところ、運よく抽選に受かりましたので、すべての予定をキャンセルしてかけつけたという次第です。
 この講座では、四人の講師の方が名古屋城についてお話されました。
 初日の第一講では、日本のお城に関する事では大変お詳しくて評判の三浦正幸・広島大学大学院教授が講演されました。
 私も三浦先生のご著書はかねてから拝読していたのですが、お話を聞くのは初めてだったので大変楽しみにしていました。
 三浦先生は主に名古屋城の歴史と展開について話されたのですが、以前、在りし日の名古屋城の復元CGを制作された時に配慮した事、他の城と比較しての特徴など大変興味深かったです。先生のお話から、名古屋城が本当に贅を尽くして造られた背景がよくわかりました。「名古屋城の見方」のガイドになるようなお話で参考になることばかりでした。
 先生は名古屋市のご出身で、大学入学前までいらしたので、道理でお詳しいわけです。
 
 第二講では展示を企画した原史彦学芸員さんが「徳川慶勝と写真」についてお話になりました。
 学芸員さんのお話では、現在、徳川慶勝が残した写真について、同美術館のほうで精査・調査を進めているということです。本年中に、また新しい報告が出来るよう準備中ということでした。

 第二日目、第三講では名古屋城管理事務所学芸員・朝日美砂子さんがお話になりました。この方は、現在復元工事中の名古屋城本丸御殿を復元するための史料を長らく調査されてきたということで、その時の苦労話や新発見の事柄などをお話になり、とても面白かったです。
 名古屋城は他のお城と比較しても比較的史料が残っている方ではあるのですが、できる限り当時の建物の姿に近づくために、宮内庁や防衛庁まで調査に行ったというお話でした。
 お見受けしたところ、朝日さんはベテランの方なのですが、大変はりきってお仕事されていらっしゃるご様子で、ご表情もとても若々しい方でした。
 第四講座は、深井雅海・徳川林政史研究所副所長が、名古屋城の儀礼について話されました。この方は江戸城の研究に関して碩学の方なのですが、尾張家の儀礼は徳川将軍家とほぼ同様の様子ということを話されました。(少々話しが難しかった)

 以上、二日間にわたって各講師による大変貴重な話をうかがい、とても勉強になりました。
 平日開催ということで、聴講者はご年配の方がほとんどだったのですが、居眠りする人もほとんどなく、皆熱心に講演に耳を傾けていて、好感がもてました。
 皆さん、名古屋城本丸御殿の復元を楽しみにしている様子でした。私もお城ファンの一人として、数年後の完成を心待ちにしています。

(「続きを読む」をクリックしてください↓)

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尾張名古屋は・・・(「大名古屋城展」)

 岐阜市歴史博物館で企画展を見学した後、在来線に乗って名古屋へ戻りました。
 名古屋へはこれまで4度くらい来ているのですが、観光する者にとってはとても歩きやすい町で、いいですね。
 初めて名古屋を観光した折、地下鉄の駅のホームなども広く出来ていたことや、道幅がとても広くて車の往来がスムーズなのを見て、東京のそれとは違い混雑時も圧迫感がなくて、感心したものです。
 東京と同じようなお店も多々ありますし、いざ買い物したくなってもまったく不便がありません。あと、飲食店も豊富にあり、食べる所にも不自由しません。
 さて、名古屋が大都市となった礎はやはり名古屋城の存在が大きいと思います。

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 いわずとしれた、徳川御三家の一つ尾張徳川家の居城です。(藩の石高61万9500石)
 慶長15年(1610年)閏2月より、将軍徳川秀忠は西国外様大名20家に命じて「天下普請」として名古屋城を築城させました。
 それから400年。名古屋市では今年、「名古屋開府400年記念」の様々な催しが行われております。
 名古屋市内にある「徳川美術館」では、名古屋開府400年及び徳川美術館・蓬左文庫開館75周年記念として、「大名古屋城展」が開催されています。(9月26日まで)

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 同館所蔵の名古屋城に関する豊富な史料を中心に、江戸城についで二番目の規模を誇った「御三家の城」の全貌に迫った内容となっております。
 名古屋城の古い絵図や図面、古文書など実に様々な史料が展示してあったのですが、今回の目玉は何といっても、幕末の尾張家第14代藩主だった徳川慶勝(1824~1883年)自ら撮影した名古屋城内の写真が特集されていたことです。
 この徳川慶勝の写真については、つい最近もNHKの歴史番組「歴史秘話ヒストリア」の中でも紹介されました。
 ご存知の方も多いとは思いますが、現在名古屋城内では本丸御殿の復元工事が着工されています。
 明治以降の名古屋城は、二の丸御殿は取り壊され、天守や本丸御殿は残ったものの、惜しくも昭和20年の大空襲で焼失してしまっています。もしも現代に名古屋城の天守や御殿が残っていたなら、間違いなくそれは国宝級のものでした。
 慶勝が名古屋城に関する多数の写真を撮影し、後世に残してくれたおかげで、このたびの本丸御殿復元にあたって重要な資料となりえた事は特筆されてよいと思います。

 ちょうど幕末には海外から写真技術が伝来していて、専門の写真師なども活躍しだしていた時代であり、慶勝も何かのことがきっかけで写真術に興味をもったのでしょう。彼が写真術に関心を示しはじめたのは、安政の大獄後、ちょうど失脚していた時期に重なるといいます。
 殿様が写真を撮っていたという例は他にも薩摩の島津斉彬ですとか、最後の将軍・徳川慶喜が挙げられます。徳川慶勝と慶喜は従兄弟同士でもあり、もしかしたら慶喜が晩年、写真撮影に没頭したのは慶勝の影響もあったかもしれないなと思いました。
 長くなるので、続きます。

 
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美濃と越中を結ぶ考古展Ⅱ

 つづき

 2年ぶりに岐阜城へ来たのですが、今回は復興天守のある金華山には登りませんでしたが、麓の織田信長居館跡(千畳敷遺跡)は行ってみることにしました。
 現地は2年前とあまり変わっておらず、相変わらず発掘調査が続けられているようでした。当日は日曜日でしたので、発掘スタッフの姿はありませんでした。
 岐阜城居館跡については、「一般公開信長居館発掘調査」という詳細なサイトを見つけたので、関心のある方はそちらをご覧ください。
 この居館はルイス=フロイスの『日本史』にも登場するもので、今後さらに調査・研究が進めば、信長や家族などの暮らしの様子がさらに明らかになるかもしれませんね。

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 この日、居館跡のすぐ近くにある、岐阜市歴史博物館では特別展「美濃と越中を結ぶ考古展Ⅱ 城と都市~遺跡から見る戦国と江戸~」が開催されており、今回はこれを見学しに来たのです。(※現在はすでに終了しています)

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 この特別展は昨年からシリーズで行われており、聞いたところでは、岐阜市と富山市の間にバイパス道路が完成したことで、両市の友好都市関係が結ばれ、それが縁で企画されたということでした。
 今回は戦国期~江戸期についての城跡の発掘調査がメインとなっていました。岐阜城や、岐阜城が廃城となった後に岐阜の中心となった加納城などについて取り上げられており、発掘された遺物多数が展示されていてとても興味深かったです。
 出土した品々は、当時の人々の暮らしの様子を物語っています。

 今回ありがたかったのは、岐阜のお城だけでなく、富山城に関する展示があったことです。
 富山城は100名城からは残念ながら漏れましたが、ここ数年お城に関する発掘調査が行われていて、失われた城の概要が明らかになってきています。
 下の写真は2年前のちょうど今ごろ、富山を訪問したときのものです。

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 訪問時も、本丸跡ではちょうど発掘調査が行われていました。
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 この富山城なんですが、私が14,5年前に旅行で行ったときはただの城址公園に過ぎず、石垣やお堀はあったものの、昔をしのばせるものはこれより他何もなかったように記憶しています。私自身も、「ただの公園」にはあまり関心がなく、帰りがけに少し立ち寄っただけでした。
 ところが、ここ数年に行われた発掘調査で、地下から城の遺構が出てきたわけです。

 富山城の歴史は室町時代にさかのぼるのですが、戦国時代に織田信長の家臣・佐々成政が大規模な改修を施し、整備したことにはじまります。
 その後は加賀前田家の所領となり、こちらに支藩が立てられて、富山前田家10万石の居城となります。
 城内には本丸御殿や櫓門、江戸後期になってからは藩主(第10代・前田利保)の隠居所で、豪華な二階建ての屋敷であった「千歳御殿」などがあったのですが、残念ながら明治になってから廃藩置県により取り壊されたり、火事で焼失してしまい、お城の建物は後世にほとんど残りませんでした。
 前田家の所領になってからの富山城は、豊臣秀吉の聚楽第と同じ基本構造を持っているという話は意外でした。

 その後、富山城の発掘調査はどうなったのかな・・・という思いが頭の片隅にあったのですが、なかなか富山方面には行くチャンスもない今、偶然その途中経過を知ることが出来、本当に良かったです。
 正直言えば、100名城に選ばれた高岡城よりも、こちらのほうが100名城に選定されても良かったのでは・・・?と思いました。
 

 なお、岐阜市歴史博物館での展示は終了してしまいましたが、同内容の展示が今度は富山市の佐藤記念美術館(城址公園内にあります)に移動して開催中ですので、そちらで見ることが出来ます。

 この展示からつくづく思ったことは、お城や史跡の全貌を知るには、文献史料と考古史料この二つのアプローチがあってこそ、その輪郭が見えてくるということでした。
 それと、地道な発掘作業を続けられている方々のご努力のほどを心に留めておくべきだと思いました。

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美濃を制する者は天下を制す

 先月下旬、所用があり、再び愛知県へ行きました。その折、時間に余裕があったため、お隣の岐阜へ寄っていくことにしました。
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 2年前に初めて来たときは岐阜駅前が整備事業のため工事中だったんですが、今回はその工事もすでに終了したようで、キレイになっていました。
 そして、ひとつビックリしたんですが、駅前に黄金色?に輝く織田信長の像がいきなり出現していたことです。
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 これには軽く引きました・・・(^^;)

 駅からバスに乗って5,6分で岐阜城の麓に着きます。
 岐阜城も日本100名城に入っていますが、スタンプは2年前のちょうどこの時期に押印済です。(47城目の登城となりました)

 岐阜城は言わずとしれた、戦国の梟雄、斎藤道三織田信長というこの義理の親子二代にわたる野望を秘めたお城でした。それについては、司馬遼太郎が『国盗り物語』という作品の中で描いています。

 下の写真はすべて2年前に撮影したものです。

 金華山の頂に、復興された天守があります。
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 お城は天然の要害である長良川を背にしています。長良川は「鵜飼」で有名ですね。
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 舅である斎藤道三のほうは、当時「稲葉山城」と呼ばれていた山城及び城下を整備し、永禄10年(1567年)道三の孫である龍興の代に稲葉山城を攻め落とした婿の信長の方は城の名を「岐阜城」と改め、山頂に居住屋敷、麓のほうに居館を備え、居城として整備しました。
 天正3年(1575年)息子の信忠に譲るまで、信長はこの城を「天下布武」を実現するための足がかりとして、城下町の復興に力を注いだといいます。
 
 麓の居館は昭和59年(1984年)から発掘作業が進められています。現在に至るまで、けっこう長きにわたっているんですね。
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 2年前の八月当時も、4,5人の発掘スタッフの方が猛暑の中、作業に余念がありませんでした。
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                       つづく


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武士の肖像

 つづき
 
 水戸藩は徳川御三家の一つでありながら、参勤交代を免除され、江戸定府を許された特殊な家柄でした。
 しかし、徳川宗家に世継がいなかった場合、水戸家からは将軍候補を出すことは出来なかったといわれています。
 水戸家からは、幕末までに二人の個性的な殿様を輩出しています。
 一人はご存知、水戸黄門こと徳川光圀ですね。(この日、イベント会場にて「黄門様」のご当地キャラを見つけてしまいました)

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 もう一人は、江戸時代後期の徳川斉昭(1800~1860)です。最後の将軍・徳川慶喜の実父です。
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 光圀は「義公」それに対し、斉昭は「烈公」と呼ばれました。

 斉昭という人は先日紹介した「桜田門外ノ変」にも登場するんですが、このお方、生来野心的な人物で、条約調印や将軍継嗣問題をめぐって幕政に口を出しすぎたため、大老・井伊直弼から疎んじられ、後に「安政の大獄」で永蟄居を申しわたされてしまいます。

 現在、水戸市内にある茨城県立歴史館では企画展【武士の肖像~描かれた水戸藩士】が開催されています。

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 正直、私はあまり水戸藩には関心が薄いというか、水戸藩って過激な尊攘運動に走ったり、ラディカルな面があるので引いてしまっていたんですが、「“武士”の肖像」というタイトルを目にしては、当ブログ管理人としてはじっとしておられません(笑)

 この日、たまたま同館主任研究員の原口氏によるギャラリートークが開催されていて、それに参加しました。
 江戸時代後期、どういう訳か、水戸藩では絵描きの上手な藩士に命じて、殿様やその家族、家臣たちの姿を肖像画として描かせていたということです。
 上のリンク先にある同館のサイトをご覧いただくと出品の一部が紹介されていますが、有名な藤田東湖ですとか、「天狗党」の武田耕雲斎といった人たちの顔がリアルに描かれています。

 まだ写真術がわが国で導入される少し前でしたので、このような絵姿を残してくれたおかげで、斉昭やその家族、重臣たちの風貌が今でもわかります。
 今回の展示は「歴史」というよりも、むしろ「美術史」的な意味合いで、興味深い点があるように思います。

 なお、殿様(斉昭)の立派な衣冠束帯姿の肖像画がありましたが、顔はリアルに写生しても、首から下の身体の部分は別途で描いているという話でした。
 その肖像画はわざわざ2パターン描かれていて、(一つは髭あり もう一つは髭なし)領民に畏敬の念を持ってもらうためには、どちらの画が好感触なのか、周囲の反応をうかがうためにそのようになされたという話です。
 ですから、殿様の肖像画は領民に対する「宣伝的効果」を目的として作成されていたのだとか。

 30分程度の短いトークではありましたが、話の要点がしっかりまとめられており、とても聞きやすかったです。
 加えて、「桜田門外ノ変」に関する錦絵も同時に展示されていました。

 私は武田耕雲斎が若い頃自ら描いた「自画像」がユーモラスで面白かったです。彼はアバタ面(疱瘡の痕)でどう見てもイイ男とはいえないんですが、彼はアバタの一つ一つまで几帳面に写しとっているのです。
 自らの顔を鏡を見ながら、一生懸命描いている姿が想像できて、笑えました。(耕雲斎は後に悲劇的な最期を遂げるので、まだ風雲急を告げる前の暢気な頃の彼がしのばれました)

 午後は、すぐ近所の会場で開かれた同館主催の「桜田門外ノ変」に関する講演会を聞きました。
 この日、歴史館の敷地内では「歴史館祭り」というイベントが開催されていて、親子連れが多かったです。

 この博物館は今回始めて来館しましたが、必ずしも一般受けはしないであろう内容(?)ながら、なかなか渋いところをついた企画展をちょくちょくやっているみたいで、また機会があったら行ってみようと思いました。

 なお、同展示は今月26日(日)までとなっています。
 
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テーマ : art・芸術・美術
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映画「桜田門外ノ変」オープンセット!

 久しぶりに幕末関係のことについて記します。

 来る10月16日より、東映系で映画「桜田門外ノ変」(←リンク先 音が出ますのでご注意)が公開されます。

 安政七年(1860年)三月三日、井伊大老が水戸浪士らに暗殺された歴史的事件から今年で150年目という節目の年であり、茨城県・水戸市の全面協力で映画化されたんだそうです。
 映画で使われたオープンセットが茨城県水戸市に建てられ、一般公開されていると聞き、先月下旬に行ってきました。
 実は私はこの映画の原作となった故・吉村昭氏の同名小説のファンでもあり、今からwktkしているのです。

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 水戸へは過去に何度か来ています。水戸城は100名城にも選定されているのですが、先年すでにスタンプ押印済です。
 JR水戸駅より車で5分ぐらい。千波湖のほとりに江戸城桜田門と彦根藩井伊家など周囲の屋敷が「再現」されました。

 入場料を払い、中へ入ると見えてきたのはホンモノと見まごうばかりの江戸城桜田門。

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 彦根藩井伊家の屋敷門(右の写真の赤色の門)、井伊家の左隣が広島藩浅野家、浅野家の左隣で、桜田門のまん前にあたるのは杵築藩松平家の屋敷門(左の写真)です。
 大老・井伊直弼が斃れたのは、この杵築藩邸の目の前でした。

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 このオープンセットにはなんと総費用2億5千万円もかかったんだとか!全体の広さは東京ドーム1個分もあるといいます。
 江戸城の桜田門と大名屋敷をマジでリアルに再現されていて、セットとは言え、よく出来ていました。(ボランティアガイドさんの話だと、縮尺は原寸大ではないらしいです)

 事件のおきた日は、ちょうど雪が降り積もっていたんですが、その雪の再現には「寒水石」という白い粉が用いられ、地面にくまなくまかれています。
 この日はよく晴れていたんで、その照り返しがすごかったです(笑)
 そのほか、屋内の展示室ではスチール写真や、映画で使われた衣装などが展示されています。

 監督は「男たちの大和/YAMATO」の佐藤純彌監督。
 大老襲撃に関わった主人公の水戸藩士・関鉄之介役には俳優の大沢たかおさん。水戸斉昭役は北大路欣也さん。井伊直弼役には伊武雅刀さん。
 そのほか、長谷川京子さん、柄本明さん、渡辺博之さん、生瀬勝久さんら脇を固める配役陣もとても豪華です。
 地元の方々もエキストラで参加されるなど、力の入りようがわかります。
 10月の公開時はぜひ劇場まで見に行こうと思っています。あの歴史的大事件がどう描かれるのか、とても楽しみです。(^^)
 原作の小説の方も故・吉村昭氏の綿密な調査によって書かれていて、歴史ドキュメントのようなリアリティのあるなかなかの佳作であり、ぜひご一読をおすすめします。現在は新潮文庫で読めます。

<余談> 大沢たかおさん演じる「関鉄之介」の墓です。3年前くらいに墓参してました。(^ω^;)
    東京・南千住にある「回向院」内にあります。

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大老・酒井忠勝

 先月中旬、東京都新宿区にある「新宿区立歴史博物館」にて、『酒井忠勝と小浜藩矢来屋敷』という企画展を見てきました。

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 酒井忠勝(1587~1662年)という人は、三河譜代の名門・酒井家(雅楽頭系)に生まれ、徳川家康・秀忠親子に仕え、三代・家光の信任も篤く、老中、後に大老まで務めた人である。

 忠勝は牛込の地に下屋敷を構えていたが、周囲を竹矢来で囲まれていたため、やがて「矢来屋敷」と称されるようになったという。
 近年、屋敷があった土地の一部を発掘したところ、いろいろな出土物(茶碗など)が出てきたという。
 「生まれながらの将軍」である家光は、この牛込の屋敷へなんと100回も「御成」あそばしたという。
 家光はかねがね、自らの左腕が「知恵伊豆」と呼ばれた松平信綱なら、酒井忠勝は右腕だと語っていたんだとか。それぐらい、忠勝は家光から全幅の信頼を寄せられていたといっていい。
 
 酒井家は最初武蔵国川越城主だったが、後に若狭国小浜(福井県小浜市)へ転封となっており、新宿区と小浜市
と友好関係を結んでいるのが縁ということでの展示だそうである。(そういえば、小浜市といえば、アメリカのオバマ氏が大統領に当選したとき、大いに盛り上がっていましたよね 笑)

 あいにく、私は正直なところ、近世初期の頃についてはうといので、(´・ω・`)ふーんという感じになってしまった。残念ながら、こちらの予備知識が薄かったせいもあって、この展示から「酒井忠勝」という人の人物像がうまく浮かびあがってこなかった。
 徳川幕府成立初期の過程について知りたい人にはお勧めかもしれない。

 ただ、明治以降、小浜酒井家の宝物は何かの事情で流出してしまっているようで、展示の史料は酒井家伝来のものも勿論あったが、どちらかというと他所からの借り物が多かった印象である。(名門の家柄でも、明治以降はお家事情が大変だったに違いない)

 ちょうど出かけた日は夏休み中ということで、高校生や大学生くらいの若い見学者の姿がちらほらあった。当世流行りの「歴女」などが好むような有名な人物を取り上げているわけでもないのに、わざわざ見学にくる勉強熱心な若者がいて、感心した。

 なお、展示は今月19日(日)までとなっています。
 
 
 

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甘利信康、山県昌景の墓/野田城

 長篠城周辺を歩いてきて、うっかりしていたことがあった。鳥居強右衛門磔の碑を見たあと、飯田線の踏切をわたった先のほうに「牛淵橋」という橋があって、豊川と宇連川が合流する所から長篠城の外側を撮影するのを忘れてしまった。100名城のスタンプにもなっているところですね。帰りの新幹線の時間ばかり気をとられたせいだったと思う。また、何かの機会に再訪しようと思います。

 この後、馬防柵を見に設楽原へ戻る。(先日の日記ですでに述べました)

 省略しようと思ったが、かわいそうなので、甘利信康(右)と山県昌景(他3名)の墓を。

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 甘利信康は甘利虎泰の息子ですね。山県昌景のほうは住宅地の裏の藪の中、奥まった所にあり、あやうく見過ごして帰りそうになった。両者とも激戦の地で命を失っている。

【長篠城・設楽原古戦場めぐりの感想】

 時間に余裕を持って回ったつもりだったが、それでも足りなかった。特に、織田信長、信忠、武田勝頼の陣所などはちょっと距離があるので、難しかった。
 飯田線は一時間に一本しかないし、馬防柵と長篠城を見て帰ってしまう人が大半だと思うが、古戦場の史跡を見たいならば、絶対車で行くべき。
 時間に余裕をもって行くことをおすすめします。

 「長篠の戦い」で、武田勝頼は信玄以来の多くの家臣を失い、武田氏滅亡への道の序曲となったわけだが、武田勝頼は決して愚将というわけではないが、父・信玄亡き後かなり無理をしていたと思う。信玄が落とせなかった高天神城を落としたという慢心もあったかもしれない。
 そして、対する織田信長の方は、かつて信玄から裏切られた一件を執念深く根に持っていたのだった。
 信長の「信玄憎し」の感情が、そのままストレートに子の勝頼に対して向けられた事が大きかったように思われた。

(つづきます↓)
 

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tag : 有名人の墓(あ行) 有名人の墓(や行)

「逆さ磔」にされた?鳥居強右衛門

 馬場信房(信春)の墓より国道151号線をお城へ向かって戻っていたんですが、途中でお城への近道らしき脇道があり、そちらへ行ってみる。
 しばらく歩いていると、「弾正郭」の石碑があった。

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 後ろの石垣は当時の物ではないらしい。その写真を撮ったあと、今来た細い道の真向かい側に電信柱があった。

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 よく見てみると、電信柱に「鳥居強右衛門が叫んだ場所」みたいな言葉を書いた紙が貼ってあった。よく見なければ通り過ぎてしまう。

 鳥居強右衛門勝商(とりいすねえもんかつあき)ですが、戦国史をちょっとかじった人ならば必ず聞き知っている人物だと思います。
 あまり知らないという人のために説明しておくと、彼は城主・奥平貞昌の家来・・・といっても雑兵だったんですが、天正3年(1575年)5月14日、武田軍によって兵糧倉を落とされ、もはや城の運命が風前の灯となった時、彼は城をひそかに脱出して、翌日、岡崎の徳川家康の元へ走り、援軍を送るよう要請しました。
 ところが、再び城へ戻る途中、強右衛門は武田軍に捕らえられてしまい、とうとう磔にされてしまいます。
 武田勝頼は「援軍は来ないと城へ向かって叫べば、命だけは助けてやる」と強右衛門を促したが、強右衛門は「援軍は必ず来る」と城へ向かって叫んだので、激怒した勝頼は死を命じ、強右衛門は「串刺しの刑」に処せられ、命を落としました。
 強右衛門の壮烈な死に、信長も家康も「あっぱれ、忠義の士よ」といたく感じいったといわれます。 

 お城の駐車場へ戻り、車を出す。そろそろ、長篠を離れないと設楽原古戦場を見学する時間がなくなるので、ちょっとあせり気味。

 飯田線の踏切の側の畑の中に、「鳥居強右衛門磔の趾」はありました。
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 私はここへ来るまで、てっきり強右衛門が磔になったのはここかと思っていたのだが、さっき歩いた弾正郭の側の電柱の所とどっちが正しいのだろう。

 彼の最期を描いた、有名な「落合左平次の旗指物」。これは武田側にいた落合左平次という武士が、強右衛門の潔い最期を遂げた姿に感銘を受け、後に自らの旗指物の図柄にしたものです。現物は東京大学史料編纂所に所蔵されています。
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tag : 有名人の墓(た行)

馬場美濃守の墓

 天神山陣地から、ふたたび国道151号線へ向けて歩いていく。

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 何という花なんだろう。やっと周囲に目を向ける余裕が出てきました。

 お城から西側500M付近、151号線を少し脇に入る。「馬場美濃守の墓」という看板もあり、すぐわかります。
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 私有地?というか、舗装されていない駐車場のような所の先に、彼のお墓はあった。
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 設楽原の戦いで、織田・徳川両軍の鉄砲隊の前に、武田軍は次々と斃れていった。
 もはや、敗色濃厚となって、武田勝頼が退却を決したとき、殿を務めたのがこの馬場美濃守信房(信春)だった。
 やがて彼は反転し、織田軍と向き合って、壮烈な最期を遂げた。享年61。
 「武田四天王」の一人であり、武田家3代に仕えた名高い重臣であった。
 馬場美濃守の最後の戦いぶりは、織田軍からも賞賛の声があがったという。
 ところで、彼が討ち死にしたのはここではなく、寒狭川(豊川)沿いの「出沢」という場所だったということです。

 美濃守のお墓の前で静かに合掌し、車を取りに長篠城駐車場へ戻ることにしました。

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tag : 有名人の墓(は行)

長篠城周辺を歩く(二)

 つづき

 武田信豊らの陣地があった大通寺山の林の中を抜けると、車道へ出ました。しばらく行くと、医王寺というお寺に出ました。

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 このお寺の裏山が武田勝頼の陣所になっていたようなんですが、ここから歩いて15分くらいかかるようで、暑い中歩き疲れてしまっていたので、この日は断念しました。
 一応、遠望の写真を。
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 その後、国道151号のほうへ戻る道すがら、「天神社」という神社がありました。

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 ここは真田信綱・昌輝兄弟や一条信龍(武田信玄の弟)、土屋昌次の陣所があった場所です。
 真田兄弟は設楽原で戦死しますが、設楽原古戦場の近くに彼らのお墓があったようなんですが、今回は残念ながら見つけることが出来ませんでした。
 彼らが戦死したことで、他家に養子で出ていた三男の真田昌幸が真田家を継いだわけです。

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 つづいては、この地で戦死した、武田軍のあの武将の墓を見つけにいきます。


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A☆六文銭

Author:A☆六文銭
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日本100名城完全制覇と有名人の墓めぐり(掃苔)
日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

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