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長篠城 (91/100)

 設楽原古戦場から長篠城跡へ移動する。車でものの5,6分程度で着いてしまいました。
 国道沿いに「長篠城址史跡保存館」の案内板がありました。

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 「長篠城址史跡保存館」長篠城本丸跡の入口付近にあります。ここに100名城のスタンプが置いてありますので入館します。
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 受付にて無事スタンプをget! 長篠城で、トータル91城目を制覇しました。タイトルにある「91/100」は100名城の通し番号ではなく、私が登城した順に便宜上、番号をふってあります。
 このページもすべてスタンプで埋まりました。

 中は撮影禁止ですので写真はありませんが、長篠城や城主・奥平氏に関する資料が展示してありました。しかし、ちょっと設備等が古めかしい感じでした。
 私が最初に長篠の戦いについて知ったのはたしか小学4年くらいのときです。ちょうどNHKで大河ドラマ「徳川家康」を放映していて、その劇中で見知ったのが最初だったように記憶しています。
 まあ、ドラマの性質上、終始、家康目線のストーリー展開ではありましたが・・・(笑)
 長篠城や合戦についてあまり詳しくない方は、ここで概要を頭へ入れておくと後で役立つことと思います。

 その後も、小説やドラマ等で繰り返し語られてきた長篠城をめぐる攻防ですが、実際現在の城跡はどうなっているのか。いよいよ登城です。

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                      つづく

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テーマ : 国内、史跡・名勝巡り
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設楽原古戦場

 つづき

 馬防柵の付近は、この合戦において激戦地となったようです。

 クリックで拡大します↓
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 柳田前激戦地
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 大宮前激戦地
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 「長篠設楽原古戦場」の碑
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 この碑の裏手に、徳川家康の「物見台」の跡地があり、小高い丘になっていました。ここは帰り道、偶然気づいたので、付近の道も狭いし、わかりにくいです。
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 家康の「物見台」より長篠城方面を望む。左手の小高い山(丘?)は設楽原の資料館があるところです。(クリックで拡大します)
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 このほか、資料館のすぐ側に戦死者を葬った「信玄塚」があったようですが、あいにく気がつかなかった。家康の物見台よりさらに北側奥手のほうへ行くと織田信長の陣所跡などがあったようですが、少々遠いようだったので今回は行きませんでした。
 このように、設楽原古戦場は史跡が点在しており、ていねいに見ていかないと石碑などを見逃してしまいます。

                      つづく


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設楽原歴史資料館/馬防柵

 吉田城を足早に見学した後、長篠城のある新城市へ向かいました。

 天正3年5月に、長篠城をめぐって織田信長・徳川家康の連合軍と武田勝頼軍がが激突した有名な合戦・・・世に言う「長篠の戦い」ですが、長篠城から少し離れた設楽原が決戦地となったため、最近では「長篠・設楽原の合戦」とも呼ぶようになったようです。
 豊橋方面から行くと設楽原のほうが手前にあるため、先に設楽原歴史資料館を見に行くことにしました。

設楽原歴史資料館

 豊橋から方面よりカーナビ通り行ったんですが、今年の春に国道151号線の一部にバイパスが出来ていて、資料館の近所の道が変わっていたので、途中で行き止まりになり、再度迂回するはめになりました。これから行かれる方はご注意ください。
 なお、設楽原の資料館と長篠城の資料館と共通券があるので、二つ行かれる方は共通券を買ったほうがオトクです。
 資料館内はこぎれいで、長篠の戦いに関する展示があり、鉄砲ですとか甲冑などが展示してありました。夏休み中ということもあり、親子連れが目立ちました。
 なお、幕末に幕府の官僚として活躍し、安政の大獄で失脚した幕臣・岩瀬忠震(1818~1861年)の実家・設楽家はこの地に由縁があるので、岩瀬に関する展示もありました。(話がそれてしまうので、今回は触れません)

 展示物をざっと見学し、屋上に上ってみると、そこから復元の馬防柵が眺められました。(写真をクリックすると拡大します)

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 受付で長篠の戦いに関する小冊子を買い、職員の方へ、
「これから、長篠城と古戦場を見てまわりたいのですが、何か史跡マップのようなものはありますか?」
とたずねたところ、職員の方が
「今のところ、これしかないんですが・・・」といいつつ、地図のコピーのような物を取り出してきました。

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 これが略地図のようなもので、初めて来た者にはわかりにくい感じ・・・(´д`;)
 この前、姉川古戦場を回ったときはカラー版印刷の、もう少しわかりやすい地図をいただけたんですけどね。
 少々不安を感じながらも、資料館を後にしました。

 この後、本当は長篠城へ直行し、馬防柵は長篠城を見てから夕方再度舞い戻ってきて見学したのですが、話の都合上、先に紹介いたします。(写真をクリックで拡大)

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 地元の方たちによって復元された馬防柵ですが、織田方と徳川方とでは柵の形が微妙に異なるよう復元したそうです。(一見しただけでは気づかなかった・・・)汗)

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(↑クリックで拡大します)
 柵のところに、土屋昌次戦死の碑がありました。土屋は果敢にもこの柵にしがみついて突破しようとし、三重柵の二重目を超え、まさに三重目に迫ろうとした時、敵方から一斉射撃を受け、あえなく討死したのです。
 織田・徳川両軍の鉄砲3千挺の前に、かつて鉄壁を誇った武田の騎馬軍団も悉く討ち果たされたのでした。

                     つづく


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吉田城

 田原城を見学の後、長篠城のある新城市へ向かうため元来た道を戻りました。
 その道すがら、豊橋まで来たので吉田城に寄っていくことに。城跡は現在、豊橋公園になっています。

 吉田城

 吉田城は永正2年(1505年)、牧野氏がその前身である今橋城を築いたことに始まるという。
 後に徳川家康が三河を統一した際に酒井忠次を配置し、天正18年(1590年)の家康関東移封により池田輝政(1565~1613年)が入城して、大規模な城と城下町の整備拡張を行ったということです。
 江戸時代以後は、竹谷松平、深溝松平、水野(沼津より)、水野(山形より)、小笠原、久世、牧野、大河内松平、本庄松平、大河内松平(再封)と、譜代大名の頻繁な国替えがありました。
 上の写真は昭和29年(1954年)に復興された「鉄櫓」(くろがねやぐら)です。
 吉田城は江戸時代に描かれた城の絵図などが残っていて、先日二川宿の資料館で見た展示にもありました。

 櫓からは豊川・朝倉川が見え、とても眺めが良いです。いわば、「背水の陣」ならぬ「背水の城」とでも言いましょうか。二つの川を背に、本丸を基点とし、二の丸、三の丸を配した半輪郭式の縄張りというところにこの城の特徴があります。
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 あまり時間がなかったので、城内を駆け足で歩いてみましたが、空堀みたいのがありました。
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 石垣も残っていました。石垣に使用された花崗岩は、名古屋城築城の折の残石を転用したんだとか。
 そのため、石垣の石には名古屋城造成に関わった大名の刻印が認められ、これまでに60種類の刻印が見つかっているということです。

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 明治以後は、この地に陸軍の歩兵連隊が駐屯していました。
 城内には、なぜか日本武尊?の像がありました。

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川本喜八郎さん(NHK人形劇「三国志」作者)死去

訃報:川本喜八郎さん85歳=人形アニメ作家   毎日新聞 8月27日付

川本喜八郎さん 川本喜八郎さん85歳(かわもと・きはちろう=人形アニメーション作家)23日、肺炎のため死去。葬儀は近親者で済ませた。後日しのぶ会を開く。連絡先は長野県飯田市本町1の2の「川本喜八郎人形美術館」(電話0265・23・3594)。9月5日まで同館に記帳台を設置。

 東京都生まれ。日本を代表する人形アニメーション作家。「鬼」「道成寺」など伝統的な様式美と独自の表現を盛り込んだ作品を発表する一方、NHK人形劇「三国志」「平家物語」の人形美術を担当。2005年の「死者の書」が最後の作品となった。1995年、勲四等旭日小綬章。2004年、連句アニメーション「冬の日」で毎日映画コンクール大藤信郎賞受賞。



工工工工エエエエェェェェ(´д`)ェェェェエエエエ工工工工

 
 小学生のときにNHKで放映中だった、人形劇「三国志」本当に好きでした。あの作品は、川本さんの最高傑作だと思います。
 最初の放映時はまだ小学校低学年だったので、最初のうちは話がよくわからなかったんですが、諸葛孔明が出てきたあたりからのめりこみまして・・・。
 登場人物、どのキャラクターも本当にその人物の個性がよく出ていて、あたかも人形に命があるが如くに思えたのは見事というほかありません。
 どの人形も好きなのですが、やはり諸葛孔明が一番傑作のように思いますね。静かな情熱・闘志を内に秘めていて、かつ謎めいた存在感がよく表現されていました。

 演じた声のキャストの方たちも個性的だった。主なキャストは・・・。
 劉備・・・谷隼人
 関羽・・・石橋蓮司
 張飛・・・せんだみつお
 孔明・・・森本レオ
 曹操・・・岡本信人

 後に川本版「三国志」に関する本で紹介されていたのですが、当時演じられていた方たちは一人で何役も演じなければならず大変だったものの、それぞれが役柄を楽しみながら、自由な雰囲気の中で録音することが出来たんだとか。

 それから、エンディングの歌も不思議な感じでよかった。YMOの細野晴臣さんが作曲されてたんですよね。
「好きなら好きと~ いえないこっこおろに~人はいつも苦しむの~♪」
 今でもたまに脳内によみがえることがあります(笑)

 この人形劇「三国志」のおかげで、三国志の概要がわかったというか、その後立間祥介氏による三国志演義の分厚い訳本を読破したものです。

 5年前に、川本さんが新作の人形アニメを製作したというので、東京神保町にある岩波ホールまで見に行ったのですが、「死者の書」という人形劇で、これが遺作になってしまったんですね。

 謹んでお悔やみ申し上げます。素敵な作品を、どうも有難うございました。
 「三国志」DVDも欲しいんですが、ちょっと価格がお高いんだよな。。。NHKさん、もう少しお安くならんもんですかね?

 川本さんオフィシャルHPはコチラ
 

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渡辺崋山の墓

 前述したように、田原ゆかりの人物として真っ先に思い浮かぶのは、江戸時代後期に輩出した渡辺崋山(1973~1841年)です。
 たしか高校時代の頃、崋山に関する伝記を読んだことがありまして、彼の存在が心のどこかに常に残っていました。

渡辺崋山像

 渡辺崋山は田原藩士の子として江戸麹町の田原藩邸で生まれました。藩邸があったのは今の最高裁判所のあたりです。(すぐ側の三宅坂は地名に田原藩三宅家の名をとどめている)
 田原藩は1万2千石という小藩だったのですが、藩の財政は窮乏を極め、藩士たちの俸禄も大幅に削られていました。崋山が育った家も家計が苦しく、幼い弟や妹たちを奉公に出さねばならないほどであったため、彼自身若年の折から絵を描く内職をして家計を助けなければなりませんでした。
 しかし、もともとは家計援助のために始めた絵で、崋山の才能は花開くのです。
 後に谷文兆などに師事して、めきめきと才覚をあらわし、古河藩の家老を描いた「鷹見泉石像」(東京国立博物館所蔵)は国宝指定となっているなど、多くのすぐれた絵画を残しました。
 
 崋山の才能は絵画だけにとどまらず、学問のほうも熱心に励みました。幕府の昌平黌にも学び、佐藤一斎、松崎に師事します。
 多くの学者・文人たちとも交流を持ち、詩文、和歌、俳諧にも通じていたといいますから、崋山という人は実にマルチな才能を有していたといえます。

 一方で崋山は田原藩からも能力を見込まれ、後に家老にまで出世します。絵画や学問だけに終始せず、藩士としても様々な仕事に携わって、実績を積み重ねていきました。

 さて、崋山は30歳を過ぎた頃から蘭学や兵学に関心を寄せるようになり、その研究を始めています。こうした過程で紀州藩儒官遠藤勤助が結成した「尚歯会」に参加し、高野長英、小関三英、幡崎鼎、後には江川英龍(太郎左衛門)など幕臣も参加し、当時おこった「モリソン号事件」を契機として海防問題などについて議論を深めていきました。
 
 しかし、こうした蘭学者たちの動きを警戒していた人物がいました。幕府目付の鳥居耀蔵(1796~1873年)です。彼は幕府の儒官であった林家の出身であり、かねてから蘭学者たちを敵視していました。
 そして、幕府から命じられた江戸湾測量で、蘭学者を用いて測量を進めていたライバルの江川英龍にお株を奪われてしまった鳥居は、これを逆恨みして、蘭学者たちを弾圧することを考えました。
 
 鳥居は一計を案じ、天保10年5月に江川や崋山に濡れ衣を着せて、彼らを追い落とそうと画策しました。
 江川のほうは老中・水野忠邦のとりなしもあって事なきをえたものの、崋山は幕府による家宅捜索の際に、幕政の海防政策を批判した『慎機論』が発見されたことで、囚われの身になってしまいました。場合によっては死罪の可能性もあったといいます。(蛮社の獄)

 しかし、この時崋山の学者、文人仲間の有志が崋山の減刑のために奔走しました。特に、師であった松崎慊堂は老躯を押して崋山のために赦免嘆願書を書き、これが水野忠邦の心を揺り動かし、崋山はかろうじて死一等を減じられました。
 しかし、崋山は国許田原での蟄居を命じられ、池ノ原にある粗末な家に家族と共に移りました。その時の屋敷が池ノ原公園内に復元されています。

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 当然のことながら、蟄居生活で生活は窮乏し、これを見かねた崋山の門弟が生活費の足しになるようにと、崋山の絵を売り、画会を開くなどして崋山の援助を考えました。
 しかし、その活動に対して「罪人身を慎まず」というような風評が立ち、崋山の心は次第に追い詰められていきます。
 そして、天保12年(1841年)10月、主君に迷惑をかけられまいと崋山は自ら死を選びました。享年49歳。「不忠不幸渡辺登」と大書したものや、息子へ宛てた遺書などが今でも残されています。

 崋山が切腹したという納屋も復元されていました。
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 罪人ということで、崋山の墓を建てることもなかなか許可がおりず、江戸幕府滅亡の頃になってやっと建てられたということです。下の写真は城宝寺(田原市田原町稗田50)にある崋山と家族のお墓です。

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 あれだけマルチな才能がありながら、鳥居耀蔵の姦計に遭い、悲劇的な最期をとげた崋山の一生は死後も多くの人々の同情をさそいました。
 お城の側には、崋山を祀った神社までありました。

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 蛮社の獄で崋山が窮地に陥った時、松崎慊堂や弟子の椿椿山たちが崋山の赦免活動をしたのですが、それだけ崋山は日ごろから人望があったのでしょう。崋山の篤実な人柄がうかがい知れるエピソードです。
 生まれてくるのがもう少し遅かったなら、幕末激動の時代になんらかの形で参画できたかもしれません。

 私も崋山の詳細を知ってから、実に20年もの歳月が経っていましたが、今回こうして墓参りが出来てほっとしました。

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田原城

 つづき

 翌日、朝早くレンタカーを借りました。せっかく車を借りたし、時間にも余裕がありそうだったので、田原城を見に行くことにしました。
 豊橋から車で40分くらいで、田原市へ着きました。


 手元の資料によると、田原城は文明12年(1480年)ごろ、戸田宗光によって築城したことに始まるという。
 宗光の曾孫にあたるのが、戸田康光(?~1547年)で、この人は娘の真喜姫(田原御前)を徳川家康の父である松平広忠(1526~1549年)に嫁がせており、家康からみれば義理の祖父にあたる人である。
 後に、「竹千代」とよばれた幼い家康が駿河の今川氏のもとへ人質として送られる途中、これを強奪し、織田氏の元へ引き渡してしまった張本人がこの康光です。
 余談ですが、昔中学時代に山岡荘八の長編小説『徳川家康』を読破したので、この辺の歴史は多少記憶しています。
 戸田氏、今川氏城代、松平氏城代(本多氏)などの支配を経て、豊橋の吉田城に入った池田輝政の城代として伊木忠次が置かれ、この時に現在見られるような田原城の整備がなされたということです。

 桜門 平成5年(1993年)に復元されました。左右の土塀が海鼠壁になっているのが特徴で、新発田城(新潟県)、金沢城(石川県)など豪雪地帯の城では見られるが、温暖な地域であるこの地域では珍しいという。
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 桜門の脇にある堀 昔は城の辺りまで海水が来ていたんだとか。
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 桜門を入ってすぐのところに、昭和33年に復元された二の丸櫓があります。
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 本丸跡には現在巴江神社が置かれ、往時の面影はなかった。
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 なお、城の全体的な印象ですが、石垣なども多少は残っていましたが、敷地のほとんどが明治維新後現在に至るまでに壊されてしまったような感じです。

 城内には田原市博物館があります。
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 田原ゆかりの人物といえば、くわしい方なら渡辺崋山(1793~1841年)とすぐピンとくると思いますが、常設展は渡辺崋山をメインで特集しています。
 江戸時代、田原城は再び戸田氏が入った後、三宅氏が入封して明治維新までこの地を治めましたが、渡辺崋山は三宅氏に仕えた家老であり、絵画や蘭学の素養など、多彩な能力をもった教養人でもありましたが、有名な「蛮社の獄」によって幕府に捕らえられ、悲劇的な最期をたどった人物です。(崋山については後述します)
 崋山が遺した書画や、自刃の時に使用された短刀、遺書など、史料を使って彼の一生をわかりやすく展示してありました。

 この日は企画展をやっていて、『小説渡辺崋山』を書いた田原出身の作家、故・杉浦民平(1913~2001年)を特集していました。彼については名前は知っていましたが、彼の著作を一度も読んだことがなかったためピンときませんでした。

               つづく


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西尾小京都田楽御膳

 前述したように、西尾城攻めは少々しくじってしまいましたが、「三河の小京都」と呼ばれるだけあって、落ち着いた城下町の佇まいが感じられました。
 尚古荘に隣接した場所に、瓦葺木造二階建ての食事処を発見したので、少々疲れていたこともありここで食事をしていくことにしました。

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「じげもん屋 豆蔵伝想茶屋店」(西尾市錦城町122 電話0563-56-0255  月曜休)は創作豆腐料理のお店です。

 メニューを見て、「西尾小京都田楽御膳」(1人前2000円)というのを注文してみました。


 最初に4つの小鉢の入った重箱とおぼろ豆腐が出てきたので、ビールで一杯しながらいただく。続いて、豆腐とお麩の味噌田楽が出てきました。「八丁味噌」や「ゆず味噌」のようなものがのっていました。
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 季節の天ぷら(左)と、たきこみご飯、お椀、香の物です。
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 最後にお豆腐で作った抹茶ムースをデザートに。
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 どの品もていねいなお料理で、とても美味しかったです。それにお値段の方もリーズナブルで良心的なお店でした。

 お会計の時に、豆腐ソフトクリームがあるというので食べながら帰りました。
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 西尾駅から名鉄に乗り、うとうとしながら豊橋へ戻り、この日は豊橋市内のホテルに宿泊しました。
 翌日はいよいよ長篠城攻めです。
 (前置きが長くてすみません)

※お店の情報は変更になる場合があります。利用される場合は必ず事前にお確かめください。


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西尾城(二)

 つづき

 西尾城丑寅三重櫓が時間外で入れず、ガックリ来てたんですが、気を取り直して敷地内にある資料館へ。

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 西尾藩の江戸後期の藩主だった大給松平家の史料や、西尾城内で発掘された物などが展示してありましたが、内容があまりパッとしなかったので、5分くらいで見終わりました。

 この日はとにかく蒸し暑く、少々疲労感を感じてきたので、城内にある旧近衛邸へ行ってみる。パンフには、抹茶がいただけると書いてあったので、ここで休憩しようと思っていましたが・・・。

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 しかし、抹茶の提供時間はすでに終わってしまったと受付の人に言われて、凹みました。
 仕方ないので、邸内で5分くらい休ませていただいた。

 ところで、この旧近衛邸ですが、もともと京都にあった公家の近衛家の邸宅の一部(書院と茶室)を移築してきたものだということです。幕末、左大臣であった近衛忠房の夫人は薩摩藩・島津斉彬の養女だったのですが、その縁で島津家によって建てられたものだということです。
 ということは、大河ドラマの主人公にもなった「篤姫」と近衛夫人とは義理の姉妹ということになりますね。
 管理人さんの話だと、一昨年の大河ドラマ放映時にちょっとした地元の話題になったんだとか。
 
 明治維新後、近衛邸にあったこの建物も某宗教団体の持ち物となり、平成になって持ち主から西尾市が買い取って移築したものだそうです。ですから、西尾藩とは直接何の関連性もないとのこと。西尾は抹茶の名産地でもあり、お茶の文化啓蒙ということもあって移築したんでしょうか?以上余談です。

 お城の話に戻りますが、上の写真の手前側に白砂が敷いてあるところに着目してください。

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 以前行われた発掘調査の結果、この砂洲の下には、深さ2.5Mの二重の堀があり、堀で囲まれた部分に丸馬出が築かれていたそうです。

 その他

 尚古荘  昭和初期に造られた建物と日本式庭園。この辺りは「東の丸」と呼ばれ、門や櫓があったそうです。
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 三の丸 大手門跡  三の丸は田中吉政時代に整備された。お城の側の交差点の角にある。案内板の脇に変なおじさん?の人形があった。
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 太鼓門跡 ここに時の鐘を知らせる太鼓櫓があった。三の丸大手門が出来るまではここが大手門だった。現在は小学校の玄関になっている。
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西尾城(一)

 西尾市岩瀬文庫でギャラリートークが終わったのが午後3時半過ぎ。今回の主たる目的は城攻めですので、急いで西尾城へ向かいました。岩瀬文庫から歩いて20分くらいの距離の所に西尾城があります。

※クリックで拡大します↓
西尾城外郭図


西尾城鍮石門

 二の丸表門にあたる「西尾城鍮石門」を復元したものだそうです。復元ではありますが、往時をしのばせる造りです。
 「鍮石門」という名前から、門のどこかに真鍮の飾りがついていたのではないか、と考えられます。

 手元の資料によると、承久3年(1221年)足利義氏が三河守護職に補任され、守護所をこの地に構えたのが始まりとのことです。
 義氏の孫・満氏の代で吉良庄に下向して「吉良氏」を名乗り、「西条城」を築きましたが、のちに吉良氏は西条城と東条城とに別れ、東条吉良氏は東国に移り世田谷城主となり、西条吉良氏は西条城を中心に有力在地領主となりました。
 徳川家康が三河を統一してからは酒井氏が西条城に入り、城の名は「西尾城」と改められました。その後、家康が江戸へ移ってからは田中吉政が城主となり、櫓や門の築造を行い、整備拡張したということです。
 その後は代々、譜代の大名が入れ替わり立ち代り入封しました。
 明治5年(1872年)廃城となって、城内にあった建物は取り壊されました。

 西尾城の特色は、天守が本丸ではなく、二の丸に存在したということです。かつては、三層目に廻縁を伴う望楼があったといいます。

 西尾城1

 そして、本丸のほうには丑寅三重櫓があって、こちらは復元されているということを聞き、これを見るのが楽しみでやってきたのです。

西尾城丑寅三重櫓2

 内部も見学できるらしいと聞いていたのですが・・・。

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江戸時代にもいた戦国マニア

 愛知県西尾市に、「岩瀬文庫」というユニークな博物館があります。

西尾市岩瀬文庫1

 「日本初の古書ミュージアム」と銘打っているこの博物館は、明治の終わりに西尾出身の岩瀬弥助という実業家がコレクションした古書を扱う私立図書館として設立されました。

 岩瀬弥助

 下の写真は当時のレンガ作りの書庫です。岩瀬が収集した史料は、大変希少価値のある物が多いということです。

西尾市岩瀬文庫2

 現在、博物館では夏の企画展「SENGOKU~いくさと武将の記憶」が開催中です。
 さて、その展示内容ですが・・・

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テーマ : 歴史
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英霊・・・そして靖國

靖國神社

 あまたの英霊の御霊よ、安らかに・・・ (`・ω・´)ゞ

 そして、名も無き全ての戦没者の御霊も安らかに・・・(-人-)




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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

壷屋「稲荷寿し」

 二川宿本陣資料館を見学した後、もう一度東海道線に乗って豊橋に戻りました。
 今回の旅もあわただしいため、豊橋の駅構内で駅弁を買って昼食にすることにしました。

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 駅コンコース内の出店に出ていたところで買い求めたのは・・・


 名物「稲荷寿し」です!包装紙にもお稲荷さんの絵が書いてあります。
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 開くと、稲荷寿しが7個入っております。
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 さっそく列車内で食べてみると、甘めの味付けで、昔お祖母ちゃんが作ってくれたような懐かしい味です。
 しかし、ちょっと6個目を食べたあたりから飽きてきてしまいました。

 翌日、気を取り直して、もう一度駅弁の売店へ行ったところ、今度は「三色稲荷」というのが置いてありました。

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 普通のお稲荷さんが3個、ちりめん山椒入りが2個、辛味わさび入りが2個入っています。これは最後まで飽きがこず、おいしくいただく事が出来ました。
 
 調整元の壷屋さんは、明治の終わりぐらいから駅弁を売ってこられたとのこと。文字通りの老舗です。
 豊橋駅はいつも新幹線で素通りでしたので、今回食べることが出来て良かったです。


 壷屋HP (←リンク先に飛びます)

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テーマ : 鉄道の旅
ジャンル : 旅行

庶民の旅の宿は・・・

 先日は大名などの貴人が逗留する宿となる「本陣」を紹介しましたが、その隣には庶民のための宿である旅籠があります。
 屋号を「清明屋」詳しいことはこちら)といい、江戸時代後期から明治時代まで倉橋家が営んでいました。本陣の東隣にありました。

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 当時の宿の様子が復元されています。下の写真は食事の場面。一泊二食付きで、一汁二菜か、三菜だったそうです。
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 狭いですが、お風呂も。本陣の方のお風呂は予め沸かしておいた湯を汲み入れる方式だったそうですが、こちらの方は炊く方式だった。当時の人も、一風呂浴びて、旅の疲れを癒したことでしょう。

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 母屋のお座敷です。大名行列の際は、家老などがこちらに泊まったということです。
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 旅籠は、混んでいる時などは相部屋だったそうですね。しかも、男女関係なしだったとか。寝る時は、枕屏風というのか、あの衝立みたいので仕切ったようですが。
 近代以前では、お風呂も混浴でしたし、今より男女の別は気にならなかったらしいですが、若い女の子だったら変なオヤジと相部屋にはなりたくねーですね(笑) 逆にあつかましいオバサン連中がいたら、男の人も肩身が狭かったかも。
 つい、当時をいろいろと想像してしまいました(笑)

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テーマ : 国内、史跡・名勝巡り
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A☆六文銭

Author:A☆六文銭
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日本100名城完全制覇と有名人の墓めぐり(掃苔)
日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

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