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龍馬暗殺 (後)

 つづき

 慶応3年(1867年)11月15日、悲劇はおこりました。
 土佐藩出入りの醤油商・近江屋の二階にいた坂本龍馬と中岡慎太郎は、十津川郷士と名乗り、龍馬に面会を求めてきた謎の訪問者たちによって襲撃を受け、龍馬は三十箇所を超える深手を負いほぼ即死状態、中岡も瀕死の重傷を負い、二日後に息を引き取りました。
 龍馬を暗殺した者たちですが、現在では佐々木只三郎率いる「見廻組」の犯行としてほぼ確定されています。そして、その背後にはどうやら会津藩(佐々木の実兄である手代木直右衛門か)の影がちらついている、ということが判っています。
 死ぬ間際の中岡慎太郎などは、自分たちを殺ったのは新選組の仕業か、などと思っていたようですが、この頃の新選組の近藤勇はなぜか土佐藩の後藤象二郎に接近しているので、犯人としては考えにくいといいます。

 伏見の寺田屋で幕府の手の者に襲撃されて以来、龍馬はすっかりお尋ね者となってしまい、常に暗殺の影に脅かされていたにもかかわらず、彼は身の安全のために土佐藩邸にも入らず、あまりにも無防備すぎました。
 それはなぜだったのか。
 元陸援隊士だった田中光顕の言葉によれば、
「彼(龍馬)は、平生、王政維新の大業さえ成就したなら、この一身、もとよりおしむ所にあらず、もう無用の身だといっていた」
ということです。
 つまり、龍馬は維新に己の全エネルギーをかけており、自分の命などこれっぽっちも惜しくないという思いで一杯だったのです。
 そして、この気持ちは単に龍馬だけにとどまらず、同時代を生きた志士たちに共通した心理だったと言えます。

 私などは龍馬が死んだ年齢をとっくに超えてしまっているのですが、龍馬がその短い生涯の間に実に様々な所へ出かけ、多くの人たちに会い、エネルギッシュに活動していた姿には深く感動を覚えます。
 もし龍馬が暗殺されず、次の時代を生きていたらどうなっていたのかを考えるのは元より詮無いことではあるのですが、おそらく彼は政治の表舞台に立つというより、たとえば五代友厚のような政商にでもなったのかなあと思います。「縁の下の力持ち」といった立場ですね。
 下の写真は京都・円山公園にある龍馬と中岡の銅像です。二人の視線の先にあるものはいったい何だったのでしょうか。

                                    終わり

坂本龍馬・中岡慎太郎

 
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禿ワロタ (^◇^;)

 昨日の夜だが、なんとなくテレビのチャンネルを回していると、
 若いアイドル風のお兄さん4人が歌い、激しく踊っている映像が目に入った。
 流れてくる歌詞を聴いていると、

♪伊東はマンショ、千々石はミゲル、原はそう マルティノ~、中浦はなんたってジュリアンさ~ 僕たち 天正遣欧少年使節~♪

 なんじゃ、コレw (^◇^;)
 
 歌のタイトルは、「GO!天正遣欧少年使節」になっている。
 で、よく見ると踊っているお兄さんたちは天正遣欧少年使節のヨーロピアンな扮装までしてるんですよね。
 腹いてーwwww
 久しぶりだ、テレビ番組でこんなに笑ったの。

 そのほかに、コントみたいなのをやっていて、お題は「耳川の戦い」。島津義久、家久、山田有信まで出てきていた。
 途中から見たもんで、番組はすぐ終わってしまったが、こんなバラエティ番組はじめて見たYO!なんというか、ちょっとシュールな感じがする。

 すぐネットで調べてみたら、TVKでこの春から放映している番組らしい。

 「戦国鍋TV」というんだそうな。サブタイトルが「なんとなく歴史が学べる映像」となっている。

 ホームページを見てみると、各プロダクションの若手タレントさんたちが歴史上の人物に扮している。
 これを作っている制作の人って、よほど歴史好きなんだろうな。

 同番組を放映しているのは今のところテレビ埼玉だとか地方局の7社程度らしいので全国ネットではないが、来週からちょっと見てみようかな、と思った。

 

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龍馬暗殺 (前)

 京都史跡巡りの続きです。テーマは「龍馬暗殺」ですが、大河ドラマの進行に合わせ、もっと後に書こうと思いましたが、またその頃になると年末でもあり、忙しくて書けなかったりするので、今のうちに記しておきます。

 京都市街の河原町通りはいろんな店が立ち並び、多くの人々が行き交う賑やかな通りです。その河原町通りに面して、坂本龍馬が盟友・中岡慎太郎と共に暗殺された現場である、醤油商「近江屋」跡を示す石碑があります。
 近江屋跡1

 現在、石碑のある場所はコンビニのサークルKになっています。大河ドラマ効果もあって、石碑の前で足をとめる人も多いようです。石碑の脇にある木製の説明板は以前はありませんでしたから、ここ数年の間に作られたものと思われます。
 (7,8年前ここを通った時は、旅行代理店だったと思ったのですが、いつの間にかコンビニになってました。(^^;) )

近江屋跡3

 店のほうも気を利かせて、入り口のど真ん中に龍馬関係のグッズを置いていました。

近江屋跡2

 私も長らく、この場所が近江屋の跡地だと思っていたのですが、実はこの石碑が建てられたのには裏話がありました。
 大正13年に河原町通りが道路拡張することになり、近江屋の建物も取り壊されることになって土地が削られることになりました。なお、道路拡張前は道幅5メートル程度だったということです。
 その当時、龍馬の付き人であった菊屋峰吉も存命であり、取り壊された後の近江屋の場所確定に一役買ったそうですが、近江屋の跡地を買った人がカフェを建設することになり、人が殺された場所を示す石碑を建てるのは縁起が悪いと難色を示したため、北隣の土地の所有者が自分の店先の一部を提供して、そこへ石碑が建てられたということです。(快く場所を提供した隣人は、土佐出身者だった)
 ですから、実際の近江屋があったのは、現在サークルKのある場所の南隣の土地だったということらしいのです。

 さて、この前の日記で龍馬は寺田屋での襲撃事件以降、幕府のお尋ね者となってしまい、身の危険を感じつつも何故か土佐藩邸に入らず、近所にあった「近江屋」に逗留していたことまで書きました。
 その前は、車道にある材木商「酢屋」に海援隊の事務所を置いていたので、そこへいました。

酢屋

 余談ですが、「酢屋」は今でも昔の場所にあります。ここの二階はギャラリーになっていて、見学するのに何故か一人500円も取られます。個人的には見るに値するものは何もなかったです。

 近江屋は土佐藩出入りの御用商人だったんですが、龍馬の滞在を快く受け入れ、奥にあった土蔵を改造してそこを龍馬の隠れ家とし、もし刺客が襲ってきた時は裏の称名寺へ逃げられるよう改造までしていたといいます。
 暗殺される直前、龍馬は土佐藩の使者という立場で越前福井藩へ岡本健三郎と共に出かけていて、帰京してから風邪を引いてしまっていました。
 事件がおきた前日より、風邪気味の龍馬は近江屋が隠れ家として用意していた土蔵では寒くて仕方がないため、母屋の二階の座敷に移っていた事が運命の別れ道となりました。

                                 つづく



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ヒーロー参上

 7月になりますと、各所の博物館も夏休み子供向け企画が多くなります。
 今日は休みだったので、埼玉県さいたま市にある「埼玉県立歴史と民俗の博物館」へ行ってきました。
埼玉県立歴史と民俗の博物館1

 
 現在、「ヒーロー参上」という企画展を開催中です。(詳細はコチラ

埼玉県立歴史と民俗の博物館2

 この企画展の情報をチラシだかポスターで見たときは、子供時代にテレビ・映画で見たいわゆる「ヒーロー物」の子供向けドラマ関係の資料の展示などもあるだろうと予想し、少々懐かしい思いも手伝って行ってみたのですが、結論から言いますと、内容は少々残念なものでした。

 というのは、展示室の半分が源平時代の資料(一の谷の合戦、源平合戦屏風など)や相撲取りの絵など、残り半分が「月光仮面」を制作していた「宣弘社」というプロダクションの「ヒーロー物」(月光仮面の他、怪傑ハリマオ、光速エスパー、シルバー仮面、レッドバロン等)のフィギュアなどしか展示していなかったからです。

 展示があった「月光仮面」、「怪傑ハリマオ」、「光速エスパー」、「シルバー仮面」、「レッドバロン」は明らかに、私より上の世代の方(40歳代後半~六十歳代)に馴染みの深いテレビドラマであり、私はこれらをほぼ知らない世代なので、眺めてもピンとこないのです。

 私は現在30歳代後半なのですが、私がリアルタイムで子供時代に見た「ヒーロー物」、たとえば「ウルトラマン」ですとか「仮面ライダー」、「東映戦隊シリーズ」(「秘密戦隊ゴレンジャー」をはじめとする)などの展示があろうかと期待していったものの、それらはまったく何も展示が無かったのです・・・(><)

 あまりにも今回の展示は対象年齢がご年配向きではないかと思われたので、近くに学芸員さんがいたので訊いてみたところ、東映や円谷プロなどへ資料貸し出しの交渉をしたそうなんですが、著作権関係の諸事情があり、最終的に資料を借りることが出来なかったということでした。
 唯一、「月光仮面」の「宣弘社」さんだけが快く貸し出しに応じてくれたということです。

 企画された学芸員さんのもともとの企画意図はそれなりに前向きなものだっただろうと思われますが、今回の展示を見るかぎり、展示資料を広く収集できなかった時点で、事前準備の失敗と申しましょうか、結果的に企画倒れに終わってしまったという感があります。
 正直申し上げて、ちょっとこれは万民受けする内容ではない、と思いました。

 今日は日曜日ということもあり、小さなお子さん連れも多く見受けられましたが、みな一様にピンとこない表情でした。小さい子供向けの展示もするとしたら、最近の東映戦隊シリーズですとか、「アンパンマン」とか「プリキュア」とか、その辺の展示であればもっと広く関心を引いただろうに・・・と残念に思いました。

 この春に見た「雑兵物語の世界」はとても面白かったのに、今回はガッカリで帰路につきました。
 一方で、「月光仮面」などに馴染みのある世代の方には、見て懐かしさを感じる内容かもしれません。



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錦小路薩摩藩邸

 先日は有名な「薩長同盟」の舞台となった二本松薩摩藩邸跡地を紹介しましたが、今度はそれより前、18世紀初頭より約160年間使用されていた元々の薩摩藩邸です。
 ちょうど今、大丸百貨店がある辺りにありました。
 建物の裏手の方、搬入口のところに石碑があります。

錦小路薩摩藩邸

 このような脇の方からの撮影になってしまったのは、この石碑のちょうど前が駐車スペースになっていて、デパートへの出入り業者のものらしき車が停車していたからです。
 もし現地へ行く際は、車が停車していると陰になってわかりにくいので注意してください。

 元治元年の禁門の変の際、西郷隆盛(1828~1877年)はこの錦小路藩邸より出動したといわれています。その禁門の変で御所付近から出火した火事のおかげで、錦小路藩邸も類焼してしまったそうです。そこで、二本松のほうへ藩邸を移すことになったんだとか。
 なお、禁門の変後の八月中旬、坂本龍馬はここで初めて西郷と会談したということです。


 
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薩長同盟 (`・ω・´)ζ

同志社大学今出川キャンパス

 上の写真は京都・今出川にあった二本松薩摩藩邸跡の石碑です。(クリックすると拡大します)
 現在は同志社大学今出川キャンパスがあります。撮影は2008年当時のものです。

 二本松薩摩藩邸

 2年前にここへ来た時、キャンパス内をちょっと歩いてみたんですが、薩摩藩邸ゆかりの物などはほぼ見当たりませんでした。(当たり前ですが・・・)
 唯一、門だけが残っていました。

 薩摩藩邸門

 慶応二年(1866年)一月、この薩摩藩邸にて、坂本龍馬の仲介により薩長同盟が結ばれました。
 しかし、薩摩藩家老だった桂久武の日記によると、薩長の会談自体はこの付近にあったと思われる小松帯刀の邸宅で始まったようです。
 西郷隆盛たち薩摩の面々と、桂小五郎(後の木戸孝允)の長州側と、お互いが面子にこだわり、なかなか話し合いが進まなかったところへ、一月二十日に龍馬が来て両者を一喝し、別れの宴の席でやっと薩長間で密約が交わされたといいます。
 同盟6か条は、もし幕府へ漏れ伝わることがあれば大変危険な内容を含んでいたので明文化されなかったようですが、万事において慎重な桂小五郎が、取り決めた内容が確かに履行されるかどうかを懸念し、仲介役である龍馬に対してその内容の確認と証明を求めた書状を認め、その文書の裏に龍馬が、
「毛(すこし)も相違これ無く候」
と朱書きしました。
 これこそが以前お話した「薩長同盟の裏書」といいます。現在は宮内庁書陵部に所蔵されています。


 このように、二本松薩摩藩邸は歴史的な名場面を生んだ場所でもあるのですが、なぜそこが後に同志社大学になったのでしょうか。

 明治維新後、およそ6000坪もの藩邸跡地は元会津藩士・山本覚馬(1828~1892年)の手に渡っています。
 山本覚馬は会津藩の砲術家であり、藩主・松平容保に従って京に上っていたのですが、鳥羽伏見の戦いの時に薩摩藩の手によって捕まり、二本松薩摩藩邸の牢内にて幽閉されてしまいます。
 気の毒なことに、この幽閉されている間に覚馬は視力を完全に失って盲目になってしまうのですが、彼は砲術家として名を馳せていたため、薩摩藩士の中に覚馬の事を見知っている者が何人かいて、覚馬に対して同情を寄せます。
 よく薩摩と会津は敵対していたと言われていますが、それはあくまでも幕末の最末期の話であり、禁門の変あたりまでは薩摩藩と会津藩の関係は決して悪いものではなかったんですね。

 そして、彼が以前書き記していた「管見(かんけん)」という先見の明ある献策が、小松帯刀や西郷隆盛の目に留まり、彼らはその内容にいたく感銘を受けました。そのおかげで、覚馬は囚われ人にもかかわらず、牢内での待遇が良くなったといいます。
 この時のことが縁で、明治維新後桑畑になっていたといわれる薩摩藩邸の跡地を、西郷が破格の値段で覚馬に譲ります。

 山本覚馬には八重子という妹がいて、この八重子が後にクリスチャンである新島襄(1843~1890年)の妻になり、覚馬と新島とは義兄弟の間柄になります。
 西郷から安く譲ってもらった薩摩藩邸跡地を、覚馬は義弟となった新島に譲るのです。
 かくして、同志社は薩摩藩邸跡地に校舎を建てられたというわけです。


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土佐藩邸跡

 京都の幕末史跡の続きです。京都は歴史の長い町ですから、あちらこちらに史跡を示す石碑が建てられており、逐一見ていったらキリがありませんね。

土佐藩邸

 土佐藩邸京都屋敷の跡地です。石碑は木屋町蛸薬師の高瀬川に架かる小橋のたもとにあります。
 石碑の背後はすでに廃校になってしまった立誠小学校がありました。
 ここが、幕末の土佐藩の拠点になった場所で、坂本龍馬も脱藩罪を赦された際に藩邸の中で七日間謹慎していたことがあるそうです。

 しかし、後に寺田屋で襲撃された龍馬は、幕府の「お尋ね者」の身となり、常に暗殺の影がつきまとうようになってからも、龍馬は身の安全のために土佐藩邸に入ろうとはしませんでした。
 結果的に、龍馬が藩邸に入らず、近所の土佐藩出入りの商人・近江屋に逗留していたことで、見廻組の手によって暗殺されてしまうのですが・・・。
 では何故、龍馬は藩邸に入りたがらなかったのでしょうか。

 先述した元陸援隊士で後に政治家になり95才まで長生きした幕末維新の「生き字引」ともいうべき田中光顕の回想によれば、
「(龍馬は)見廻役、新選組のものに、しきりに、つけねらわれた。
 『君は、危険だから、土州藩邸に入れ』
 伊東甲子太郎が、こうすすめたこともあったが、彼は聞き入れなかった。藩邸に入ると門限その他、万事窮屈の思いをせねばならない。自由奔放、闊達不覇の彼はそういうことを好まなかった」(『維新風雲回顧録』)

 なるほど・・・(´・ω・`) 当時の藩邸には門限がちゃんとあったんですね(笑)
 現代でも、学生寮ですとか門限があって、遊びたい盛りの学生さんにとってはけっこう厄介だったりしますし。
 御陵衛士だった伊東甲子太郎(1835~1867年)が龍馬に警告していた事は事実だったようです。(新選組関係の史料にも記載がある)

 あくまでも上記は田中の感想ですけれども、それはそれとして、龍馬は2度も脱藩していることもあり、藩邸在勤の土佐藩士とも埋めがたい微妙な距離感みたいなのがあって、藩邸は人間関係的にも彼にとってあまり居心地の良い場所ではなかったんじゃないか、と私は思うんですね。


 土佐稲荷

 土佐稲荷です。土佐藩邸の中にあって、ここだけは町人もお参りするための通り抜けを許されていたとか。
 明治維新後、一度別の場所に移りますが、近江屋のおかげで土佐藩邸があった場所に戻ってきたんだそうです。
 鳥居の手前左側に龍馬のミニ銅像があります。


本間精一郎暗殺の地

 立誠小学校の南東端に「本間精一郎遭難の地」の石碑がひっそりとありました。
 本間精一郎(1834~1862年)は越後出身の勤皇の志士で、実家が裕福だったため金回りもよく、それが災いして酒色にふけり、とうとう志士の間で「あいつは幕府の間蝶(スパイ)だろう」という噂がたちます。
 自らの素行の悪さがきっかけであらぬ誤解を受けた本間は、とうとう薩摩の「人斬り新兵衛」こと田中新兵衛や、土佐の「人斬り以蔵」こと岡田以蔵らにここで暗殺されてしまいました。
 裏では武市半平太が暗殺を指示していたとも言われています。

 この付近は路地が多くて、本間も背後から何かしら危険を察知して、狭い路地を利用して尾行者を煙に巻こうという算段だったのでしょうが、結果的にその目論見は外れて、敵に囲まれてしまったようです。なお、暗殺当日は雨だったとのこと。

 
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維新回天帖

 梅雨が明けて、今日の首都圏は夏日でとても暑かったですね。
 炎天下の中、私は東京都世田谷区にある駒沢大学キャンパスまで行ってきました。

駒澤大学

 現在、同大学の「禅文化歴史博物館」にて「維新回天帖」という企画展が開催中です。(7月23日まで公開中) ※詳細はコチラ

 この「維新回天帖」というのは、薩摩出身の政治家であった長谷場純孝(号・到堂 1854~1914年)という人が、幕末の薩摩藩家老であった小松帯刀(1835~1870年)関係の書簡を収集し、軸装したもので、後にジャーナリスト・歴史家として有名な徳富蘇峰(1863~1957年)によって「維新回天帖」というタイトルをつけられたコレクションです。

 この「回天帖」ですが、長谷場から徳富蘇峰の義理の息子へ譲られた後、長らく蘇峰の子孫宅で保管されていましたが、ご子孫の一人が駒沢大学のOBというのが縁で、駒沢大学へ寄贈されたということです。

 展示されていたのは、コレクションの中の一部でしたが、西郷隆盛が小松へ宛てた手紙や、土佐の中岡慎太郎が西郷へ宛てた手紙などが展示されており、幕末史の重要局面がうかがえる、なかなか興味深い展示でした。
 今回、駒大へ寄贈されたこの「回天帖」の中には、他の史料集に翻刻されていながら、原本が行方不明だった書簡もあり、今後の幕末史の研究の一助になることは間違いありません。

 同博物館ですが、とても小さい規模の博物館なのですが、昨年は「松平家忠日記」の特集展示を企画したり、なかなかテーマのつかみ方が良いと思います。
 学芸員さんがたまたまいたので、2,3質問させていただいたのですが、親切な対応ぶりでした。
 小さい規模ながら、学外の一般の人々へも重要史料を公開しようとする前向きな姿勢がうかがえて、好印象でした。
 
 幕末史に詳しい方なら、史料をご覧になると色々見えてくるものがあると思います。
 なお、小松帯刀の史料については、各所に分散してしまっているそうで、このコレクションは比較的まとまって保存されていたことに意義があると思われます。

 
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水了軒破産 その後

 京都幕末史跡の続きを書こうと思っていたら、FC2ブログの一部でアクセス障害がおきて、数時間ほど管理画面につなげなくなってしまいました。イライラ・・・(-''-;)このブログサービス、たまにこういう事が突然起きるのでちょっとどうなのかなあと懸念が募ります。

 で、モチベーションが下がってしまったため、今日は別の話題を。(京都史跡は明日以降続けます)

 以前、「八角弁当」「大阪寿し」などで有名だった大阪の老舗駅弁屋の水了軒さんが突如破産したというニュースに関する記事を書きましたところ、何故かほぼ毎日のように「水了軒」のキーワードでアクセスしてくる方がいらっしゃいます。
 しかも、検索かけてくる人は必ずしも同じ人ではないようで、たぶん後から水了軒さんの破産を知り、詳細や経緯を知りたくて検索されている方たちが何人かいらっしゃるのだと思います。
 私は関西人でもなく、水了軒さんや販売していた駅弁にそう特別な思い入れもないのですが、こうなると少々気になって、先日用事があって大阪へ行ってきたので、新大阪駅構内の水了軒さんの販売所があった所へ行ってみました。

水了権破産 その後

 すると、水了軒さんの店舗はすでに「旅弁当」(JR西日本フードサービスネット)に変わっていました。

 あの後、水了軒さんの歴史を軽くググってみたところ、明治時代には駅構内での営業権を認められていたとのこと。当時としてはたいしたものだったと思います。(昔は国鉄の駅構内における営業権を得るのは至難だった)
その老舗が突如消えてしまったのだから、やはりお店をよく利用していたファンにとってはその現実がにわかに信じられない・・・という事なのだと思います。

 ささやかな事ではありますが、「水了軒」の検索で来る方たちのために写真をのっけておきます。


 ※追記 先日、偶然こんな記事を見かけました。
 (リンク切れの際はご容赦ください)

  大垣市にある食品会社が、「水了軒」さんの商標と工場を買い取ったそうです。
  引き継いでくれる企業が現れて、一安心ですね。



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池田屋事件

祇園祭。
京都の夏を彩る風物詩である。
新選組が、長州志士が集っていた池田屋に踏み込んだのは、元治元年6月5日(1864年7月8日)。ちょうど今の時期でした。(今年の祇園祭は今週末がクライマックスでしょうか)

捕らえた古高俊太郎の自白したところによると、同年6月中に長州藩京都留守居役・桂小五郎と尊攘派一同が御所を焼き討ちし、薩摩・会津両藩を排除して、孝明天皇を長州へ連れ去る、という過激な計画が持ち上げられていたといいます。
これを知った新選組局長・近藤勇はただちに京都守護職・松平容保に通報すると共に、隊士を招集し、京都市中を探索することを決意しました。

後は時代劇などで繰り返し繰り返し、そのときの模様が再現されますので、省略させていただきます(笑)新選組ならびに近藤勇にとって、重要なハイライトシーンでもあります。沖田総司が喀血したのもこの時です。

で、近藤勇率いる一隊が踏み込んだ池田屋の跡地です。
先日行ったら、「池田屋」という名の居酒屋になっていてびっくりしました。wikiを見たら、某居酒屋チェーン店が経営しているとのこと。若い女性たちが店前で足を止め、ケータイのカメラでパシャパシャやっています。店名といい、なかなか良いアイデアで感心しました。

池田屋跡1


 今から十数年前にここを通りかかったとき、パチンコ屋になっていて、客のお兄さん達が店前に行列していたりして、当時の面影も何処にも無くて(当たり前ですが)、がっかりした経験があります。(↓下の写真は4年前の2006年春撮影 まだパチンコ屋だった頃)

池田屋跡3


 2008年6月に通りかかった時は、テナント募集中だった↓

 池田屋跡2


 当時は間口三間半 奥行き十五間 総建坪八十坪、客室合わせて六十畳ほどの規模だったといいます。
 取り壊される前の池田屋の内部を写した写真が、たしか東大の史料編纂所に保管されているはずです。



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新選組から拷問を受けた古高俊太郎 (後)

 つづき

 新選組の急襲によって捕縛された古高俊太郎は、ただちに壬生の屯所に引っ立てられ、尋問ならぬ拷問にかけられました。
 
 旧前川邸

 写真は新選組の壬生屯所として使用されていた、旧前川邸の外観です。前川邸には土蔵が2つあったので、古高の拷問が行われたのは左側に屋根だけ見える内側の土蔵の2階ではないか、と思われます。
 新選組の人間によって激しい拷問にかけられたものの、古高は自分の名前を名乗っただけで、後は黙して語らずだったということです。

 これに業を煮やした新選組副長・土方歳三は、拷問にさらなる過酷な仕置きを加えました。
 まず古高を後手に縛り上げて、梁から逆さ吊にしてから、足の裏に五寸釘を打ってそこへ百目蝋燭を立てて、火をつけました。
 すると、みるみる溶けた熱い蝋燭が、足の裏から脛へと流れ出して、これにはさすがの古高ものたうちまわり、ついに仲間たちの密謀についてやっと自白したといいます。
 
 そして、この古高の自白に基づき、かの有名な池田屋事件へとつながっていくわけです。

 拷問にかけられた古高は、身柄を六角獄舎(現 京都市中京区六角通神泉苑西入因幡町)へと送られました。
 そして、禁門の変でおきた火災が獄舎に迫ったため、火災に乗じての囚人たちの脱獄を懸念した京都所司代の役人が、急遽収容されていた未決の囚人たち三十余名を斬首に処しました。
 その中に古高や、先に投獄されていた平野国臣(福岡藩士)らがいました。
 現在、六角獄舎の跡地には「平野国臣外数十名終焉跡」の石碑があります。(写真左側の石碑)

六角獄舎跡1

 同じ場所に、この地で斬られた者たちの供養のため「殉難勤王志士忠霊塔」も建てられています。
 六角獄舎跡2

 後で知ったのですが、この辺はどうも心霊スポットだということです。
 上の写真は2年前に撮影しておいたものですが、この時昼間行ったんですが、どうりでその場に長くいたくないなあ・・・という変な感覚がしたんですよね。
 ですから、写真もいつもは何枚か余分に撮影しているのですが、ここではたった2,3枚程度しか撮影していません。
 
 私も若い頃は、どちらかといえば新選組に肩入れしていましたが、今の年齢になってみると、新選組にせよ、古高たち尊攘派の志士にせよ、双方とも言い分があり、自分たちが正しいと信じて疑わないのですから、どっちが良いとも悪いともいいがたいなー、と思うようになりましたね。
 古高の最期も悲惨ですし、救いようのない話ではあります。


 関連記事⇒【新選組】近藤勇の首塚



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新選組から拷問を受けた古高俊太郎 (前)

 坂本龍馬・中岡慎太郎の墓のちょうど右裏手には、いわゆる「池田屋事件」で新選組に急襲され、命を落とした尊攘派志士たちの招魂墓が建てられています。

池田屋事件犠牲者の墓

 その中に、古高俊太郎の墓碑がありました。ちょうど写真の真ん中の墓ですね。(クリックで拡大します)

古高俊太郎の墓


 古高は近江出身で、枡屋喜右衛門と変名し、西木屋町四条上ル西入ル南側の真町で表向きは割木屋(薪炭商)を営んでいました。その実は、武器を集め、尊攘派の志士たちの活動拠点になっていました。
 下の写真は、古高が「枡屋」を営んでいた場所です。
 当時の建物はすでに無く、現在は小料理屋の隅に石碑だけがぽつんと立っています。(クリックで拡大)

古高俊太郎邸跡

 元治元年の5月下旬、かねてから尊攘過激派の動向を調査していた新選組の山崎蒸、島田魁ら4名の密偵が、この枡屋に不審な人物がしきりに出入りしているのを察知します。
 そこで、同年6月5日、沖田総司、永倉新八、原田左之助ら二十余名が枡屋を急襲し、居合わせた不逞の輩こそ取り逃したものの、逃げ遅れた古高を捕縛し、壬生の屯所へ連行しました。(つづく)


 ところで、この「枡屋」があった所ですが、現在は「志る幸」さんという小料理屋になっています。ここは、たしか作家・池波正太郎が贔屓にしていたお店だったはずです。

 志る幸

 今回は時間がなかったんですが、今度寄ってみようかな。
 そういえば、池波正太郎にも新選組の著作(「幕末新選組」)がありますね。文庫本で持っていますが、久しぶりに読み返してみようかな、と思います。




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あぁ 愚陀仏庵・・・。・゜・(/Д`)・゜・。

 本来ですと霊山墓地の続きですが、ちょっとお休みして先日のニュースから。
 先日、下記のようなニュースを拝見し、仰天しました。(毎日新聞より引用)


愚陀仏庵



愚陀仏庵:漱石と子規ゆかりの建物、倒壊 知事「観光の目玉、残念」 /愛媛

 ◇「悔しい」関係者ら沈痛
 夏目漱石と正岡子規ゆかりの建物「愚陀仏庵(ぐだぶつあん)」(松山市一番町3)が、11日深夜から降り続いた雨で発生した土砂崩れのため、倒壊した。最近は、NHKドラマ「坂の上の雲」人気などで観光客が増えているといい、関係者は「まさか、そんな」「悔しい」と表情を曇らせた。

 愚陀仏庵の管理会社職員、福山直樹さん(33)が、大雨洪水警報の発令を受けて見回り中、倒壊を発見。建っていた場所から、斜面を約10メートル南側まで流されていた。「木が折れた時のようなにおいがしたので駆けつけた。濁流が強く、とても近寄れなかった。お客さんが居なくて幸いだったが、まさかこんなことになるなんて……」と言葉を失っていた。

 また、管理会社の村上道照社長は「毎日一度は来て、敷石を直したり、どうしたら見栄えが良いか考えていた。全国から訪れた人が喜んでくれるのがうれしかった。悔しいです」とタオルで目をぬぐいながら、泥に埋もれたのぼりを直していた。

 戦災で焼失しながらも市民の要望で復元された愚陀仏庵。加戸守行知事は、「観光の目玉なだけに大変残念。市民の復元に向けた動きが出次第、県と市で連携して(復元に向けて)動く」と述べた。





 愛媛県松山市で集中豪雨があったそうで、浸水の被害に遭われた地元の方々には、心よりお見舞い申し上げます。
 写真は3年前に松山へ旅行した際撮影しました。NHKスペシャル大河ドラマ「坂の上の雲」のちょうどロケが行われていた頃のものです。

 記事にもあるとおり、現存の建物ではなく復元の建物ではあったのですが、なかなか趣ある建物だったのが印象的でした。秋に行けば、周囲に植えられた紅葉が映えて、美しかったかと思います。

 質素な造りではありましたが、漱石や子規が語らう姿が目に浮かぶようでした。その印象深い建物が全壊した!というニュースを見て、胸がふさがる思いです。
 ぜひ、またこの姿がもう一度見られるよう願ってやみません。
 
 松山は、四国の都市の中でもなかなか活気のある明るい街であり、司馬遼太郎が「坂の上の雲」を構想したのもうなずけます。
 現存天守である伊予松山城や、「坂の上の雲」関連史跡等、こちらでもまた機会を改めて紹介したいと思います。

 
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久坂玄瑞の首

 さて、霊山墓地の話に戻ります。

長州藩士の墓

 墓地の中段くらいに、長州藩士の墓があります。こちらの一群は割合有名な人たちです。墓といっても、こちらはいわゆる「招魂墓」ですね。
 左から、有吉熊次郎 入江九一、寺嶋忠三郎、久坂玄瑞、来嶋又兵衛、高杉晋作です。
 予想に反してこちらの墓には供花などもなく、もの寂しい感じ。こんなでは、お花でも持っていってあげればよかったかな?と思いました。

 久坂玄瑞の墓


 久坂玄瑞(1840~1864)についてはあまりにも有名な人なので、その生涯を振り返る必要もないかと思います。
 禁門の変(蛤御門の変)で敗北し、最後まで現場に踏みとどまった彼は寺嶋と共に、公家の鷹司邸で自刃しました。まだ数えで25歳という若さでした。

 この時、長州藩は朝敵の烙印を押されたために、味方の遺骸を多数現場に放置して引き上げざるをえなかったんですね。
 その際、現場近くを守っていた福井藩が腐敗臭ただよう遺体を放置しておくわけにもいかないと、遺体の首を持ち帰って、福井藩の菩提寺だった上善寺というお寺さんに埋葬しました。そして、後にそこへ「長州人首塚」の墓碑まで建ててくれました。

 当初、この首塚に、入江たちと共に久坂玄瑞の首も収められていたそうです。
 ところが、ある時、どこかの婦人がふらりとやってきて、塚を掘り返し、だまって久坂の首を持っていってしまった。
 どうやら、その婦人は久坂と馴染みの深い、島原桔梗屋の抱え芸者の、「辰路(お辰)」という女だったらしい。

 久坂が死んだ時、お辰は身ごもっていたそうです。
 この話は、元陸援隊士だった後の元老・田中光顕の回顧録にある話だそうです(一坂太郎著「幕末歴史散歩 京阪神篇」) 田中は土佐を脱藩して、長州の高杉のもとへ「亡命」しているので、この辺の事情をよく聞き知っていたんでしょう。

 この頃の志士たちは、京の都でけっこうもてたらしい。しかも、久坂は長身で今でいうならイケメンの部類に入ったんでしょうな。
 風雲急をつげるご時世だったわりには、ギリギリまでけっこうヨロシクやってたんでしょうね(笑)
 しかし、失くなってしまった久坂の首と、お辰が孕んでいた久坂の子の行方はどうなっちゃったんでしょうか?
 さすがの田中もそこまでは知らなかったようです。
 お辰は後に、裕福な農家の嫁におさまっています。青春のほろ苦い恋の思い出を胸にしまって、他の男のもとへと嫁いでいったのでしょうか。

 久坂はかの吉田松陰からも認められ、妹のお文を妻にしていたんですが、旦那の艶聞を知っていたんでしょうかねえ。
 
 色々興味はつきませんが、今となってはすべて昔のコイバナですね。
 
 ところで、田中光顕ですが、彼は95まで長生きしましたが、昨日お話した武市半平太の未亡人・お富さんを支援したり色々と志士たちの顕彰活動もやっていました。

 貴重な歴史の証言もしてくれて、後世に生きる者としては彼には感謝しなければならないですね。田中の回顧録も読むとなかなか面白いです。


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A☆六文銭

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日本100名城完全制覇と有名人の墓めぐり(掃苔)
日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

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