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姉川の合戦 (二)

 織田信長はその生涯に幾度となく近臣の謀反に遭っていますが、浅井長政はその最初の例でした。
 ご承知のとおり、信長は妹・お市を長政に嫁がせて長政と姻戚関係になるのですが、長政自身は六角氏との抗争で朝倉氏に世話になっていたこともあり、長年の義理に背くことができず、姻戚よりも義理の方を選んでしまったのが悲劇の始まりでした。
 信長はこの時代には稀に見る合理主義者でしたが、長政はやはり中世の価値観からは飛び出せなかった典型的な武将であったということです。


☆岡山陣跡

勝山陣所

 徳川家康が陣を置いた場所です。この地の背後の小さな山を「岡山」と呼んでいましたが、後に家康が勝利したことにちなみ「勝山」と呼ばれるようになったとか。
 現在は神社がおかれています。姉川の合戦で徳川軍はよく戦い、朝倉軍を撃退しました。



☆姉川古戦場

姉川古戦場跡


(サムネイルをクリックで拡大します↓)

姉川古戦場跡説明板


 この一帯で浅井VS織田の戦闘が行われました。下の写真は「姉川戦死者の碑」です。

 姉川古戦場供養碑

 この碑のある場所から姉川を臨みます。

 姉川


☆血川(野村) 

血川野村跡

   (クリックで拡大します↓)
    血川説明板


 姉川古戦場の碑からすぐ北のほうにあります。
 かつてここには小川があって、浅井・織田両軍の激闘の末に討死した者たちの血で川が赤く染まったことから「血川」と呼ばれるようになりました。(川幅はこの案内板と同じ幅だったそう)
 長政の陣が置かれたこの集落を野村というのですが、浅井側の記録ですと「姉川合戦」のことを「野村合戦」と呼ぶようです。「姉川合戦」とは徳川方の記録で使われた呼称によります。


☆陣田  

陣田跡

     (クリックで拡大します↓)

     陣田説明板



 血川の案内板があるすぐ北東側の近所にあります。
 かつて、この付近に小高い丘があり、浅井長政の陣があったそうです。丘のほうは昭和60年位に整備のためになくなってしまったということです。
 背後に大依山・小谷山方面を臨みます。

大依山・小谷山方面


 この付近は見渡す限り田畑で、農道みたいな狭い道を走るため一部迷ってしまった箇所がありました。2,3度周囲をグルグルしてしまったのです。
 道を教えてくださったお子さん連れで犬の散歩中の親切な男性の方、有難うございました。
 この時点で午後6時前。まだ日が高いので救われてますが、さっさと先を急がねば・・・。



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姉川の合戦 (一)

「姉川の合戦」碑

姉川


 小谷城、国友村に続いて姉川の古戦場を見てきました。しかし、姉川付近に着いたとき、すでに午後4時半は過ぎており、レンタカー返却期限も迫っていたのでせかせかと廻ったため、自分的にはあまり良い写真が撮れませんでした。わかりにくい部分もあるかとは思いますが、ご容赦ください。

 永禄11年(1568年)、織田信長は足利義昭を奉じてついに上洛を果たし、越前の朝倉義景に対して度々上洛命令を出したのですが、義景はまったくこれを無視していました。一方、義昭の方は幕府政治の復活を目指して次第に信長と対立を深め、かねてから懇意であった朝倉方へ信長追討の密書を送り、自らの味方につけようと企みます。

 これに業を煮やした信長は永禄13年=元亀元年(1570年)4月、盟友・徳川家康と共に朝倉攻めを開始します。
 織田・徳川連合軍は朝倉氏の支城である手筒山城と金ヶ崎城を陥落させ、朝倉氏の居城・一乗谷へと迫る勢いだった最中、信長の妹婿であった浅井長政が朝倉氏に与同して謀反を翻しました。
 織田軍はまさに「袋のネズミ」状態となり、前後を敵に囲まれてしまった信長は麾下の木下藤吉郎に殿を任せ、若狭を経由してかろうじて京へ脱出しました。(金ヶ崎の退き口)

 わざわざ妹のお市を娶わせるほど信頼していた義弟・長政に裏切られた形の信長は怒り心頭で、長政へ復讐をとげるべく、とうとう同年6月に同盟者である徳川家康の軍を借りて、北近江に侵攻します。
 ここより、世に言う「姉川の合戦」の布陣となります。

 前置きが長くなりましたが、姉川古戦場の史跡を見ていきたいと思います。


☆龍ヶ鼻曲輪群(茶臼山古墳)

龍ヶ鼻曲輪群

 信長は堅固な小谷城を一時で攻め落とすのは無理と判断し、いったん全軍を退かせ、浅井氏の支城である横山城を包囲し、ここ龍ヶ鼻に陣を置きました。援軍の徳川家康もここに到着しました。
 下の写真は現地にあった説明板です。↓サムネイルをクリックすると写真が拡大します。
 
龍ヶ鼻曲輪群説明板



☆陣杭の柳 (サムネイルをクリックすると拡大します↓)

陣杭の柳2陣杭の柳1


 合戦当日未明、信長は姉川北岸への浅井朝倉軍の侵攻を知り、龍ヶ鼻陣所よりこの場所へ本陣を構えたとされています。
 ここに立つ柳は、信長が陣太鼓をかけて指揮したという伝承があるそうです。
 で、その柳なのですが・・・「龍鼻の郷」の石碑の左側に、背丈の低い木があり、どうもそれが件の柳の子孫なんだそうです。
 2、3年前に現地へ行かれた方の写真などを拝見すると、もっと柳の木が大きかったようですので、どうしてこんな小さい木なのか???現場へ行ったとき、すぐにはわからなかったです。
 もしかしたら、強風や台風などで、元々あった柳の木が折れてしまったのかもしれません。
 県道37号線沿いの、「国道東上坂」交差点(国道365号との交点)よりもすぐ手前にあります。

 現地の説明板です。サムネイルをクリックすると拡大します↓

陣抗の柳説明板



☆遠藤直経の墓

遠藤直経の墓

 龍ヶ鼻陣所のすぐ西側、水田に囲まれた農道沿いにありました。ちょっとわかりにくい場所です(垣籠町)
 遠藤は浅井氏の重臣であり、味方の武将首をもって敵軍へ偽装して入り、信長の陣中に迫ったものの、竹中重矩(竹中半兵衛の弟)に見破られ、討ち取られたということです。

 

 ここまでは、小谷城歴史資料館でいただいた「姉川の合戦MAP」を参照し、ある程度すぐ場所がわかったのですが、この先が少々苦労させられました(汗)

               つづく


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tag : 有名人の墓(あ行)

落城の炎

 小谷城に続いて、姉川の合戦について書こうと思っていたのですが、どうしても夜はワールドカップの試合をついつい見てしまい、書くのが遅れております。
 (当ブログを初めて約3ヶ月になりますが、ちょくちょく同じ方が見に来てくださっているようでどうも有難うございます。続きは少々お待ちください)

 さて、今日ヤフーのニュースを見ていましたら、トップにこんな記事がきていました。

 秀頼と淀殿が自刃、「山里丸」の遺構見つかる  

大坂夏の陣(1615年)で、豊臣秀吉の子・秀頼とその母・淀殿が自刃した場所とされる大坂城(大阪市中央区)の区画「山里丸(やまざとまる)」とみられる遺構の一部が、大阪市博物館協会大阪文化財研究所の調査で初めて出土した。

 地表から約4メートルの深さに埋もれ、落城時の火災を示す焼土層が積もっていることが確認された。

 山里丸は、秀吉が千利休らと茶会を催した茶室などがあったとされる。遺構は、南北に延びる石組み溝(幅35センチ)で、長さ6メートル分を確認。溝の側面には高さ35センチ、長さ50センチ、幅20センチの石が並び、底には平らな石などが敷いてあった。中から見つかった陶磁器から、年代を特定した。

 焼土層は厚さ50センチ。焼けて変形した瓦も大量に出土した。溝は、徳川幕府が1624年に始めた城の再築で埋められたとみられる。 
         (読売新聞 6月26日付)




 大阪城


 大坂城といえば、豊臣秀吉が築いた天下の名城だったわけですが、彼の死後、城の主となったのは側室・淀殿と彼女が生んだ秀吉の子・秀頼でした。

 しかし、ご承知のとおり秀吉の死後、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利を収め、徳川の天下となって、やがては大坂の陣によって秀頼・淀殿母子は滅ぼされてしまいます。

 浅井長政とお市の方との間に出来た三人の娘のうち、長女の茶々(淀殿)だけが唯一、両親と同じ運命をたどりました。
 茶々は小谷城、お市が再嫁した柴田勝家の北の庄城、そして大坂城と三回落城を経験しています。
 
 大阪城山里丸

 大坂夏の陣で、ついに徳川の軍勢に城を囲まれて最期の時がやってきたとき、淀殿、秀頼、そして側近の者たちがこの山里丸付近にあった土倉の中にいて、自刃するとほぼ同時に土倉に仕掛けた爆薬に火がつけられ、爆風と共に吹っ飛んだということです。
 今回発掘していたのは、この最期の地の碑がある西側のようですね。
 先週、用事があって大阪城の側まで行っていたので、この発掘の件を知っていたなら現場を見てくればよかったとちょっと後悔です。

 来年の大河ドラマは茶々の妹であるお江がヒロインだということですが、私個人はやっぱり最上のヒロインこそは姉の淀殿の方だと思います。
 七歳位の時に叔父・織田信長によって家を滅ぼされ、お市と共に三姉妹を引き取ってくれた義父・柴田勝家もまた豊臣秀吉によって滅ぼされてしまいました。
 その彼女が、どういう心持で親の敵ともいえる秀吉に身を任せたのか、不思議なところではあります。
 天下人・秀吉の子を生んで、一度は栄華を極めたものの、その最期はまたも落城の炎の中にありました。まさに波乱万丈の一生だったといえます。
 
 茶々の実情を伝える史料というのはほとんどないのですが、想像をたくましくすると、常に彼女を支えていたものは人一倍強いプライドだったであろうと思います。
 その驕慢なプライドが邪魔して、結果的に豊臣家を滅亡させ、自らは悲劇の最期を迎えるのですが、それは七歳のときに経験した小谷城の落城という辛い記憶の裏返しであったのではないかとも思えるのです。

小谷城址

 
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国友村(鉄砲の里)

 
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 かつて、近江国坂田郡国友村(現 長浜市国友町)は、戦国時代に泉州堺と並んで鉄砲の生産拠点となった場所です。
 時の将軍、足利義晴の命で、この国友村の鍛冶屋たちが鉄砲を作るようになったといわれています。
 現在、この地に鉄砲に関する資料館があると聞き、立ち寄ってみました。

国友鉄砲の里資料館

 入館料を払って、1Fでビデオを10分くらい見せられ、その後2Fの展示室を見ました。本当に狭いスペースで、火縄銃や大筒などが展示されていました。
 
 私たちが学生時代、日本史の教科書で習ったのは、種子島の領主・種子島時堯が漂流してきたポルトガル商人が持っていた鉄砲を買い入れ、それを元に八板金兵衛という鍛冶屋に鉄砲を作らせたのが起源という話でした。
 しかし、最近の研究では、それ以前に倭寇などからすでにわが国に鉄砲はもたらされていたようで、時間的にはもう少し遡ってよいらしいです。

 早くから鉄砲のもつ威力に目をつけ、それを効果的に使ったのは織田信長で、「長篠の戦」などが有名ですが、鉄砲をはじめて実戦で使ったのは九州における「黒川崎の戦い」といわれる戦で、島津軍が加治木の肝付氏を破った戦いで使用されたのが記録として確認できる初出らしいです。

 さて、その国友村ですが江戸時代は天領として鉄砲の生産を行い、明治を迎えたそうです。

 国友村地図

 
 「国友一貫斎生家跡」 国友一貫斎は江戸時代後期の鉄砲鍛冶で、後に望遠鏡など様々な物を発明したそうで、望遠鏡を使って天体観測も行っていたんだそうです。
 今はご子孫がお住まいのようで中は見れませんでした。
 国友一貫斎生家

 一貫斎宅前でモニュメント(「星を見つめる少年」)がありました。少年時代の一貫斎をイメージしているんでしょうか?
国友村モニュメント

 下の写真のお宅は、ご先祖がやはり鉄砲鍛冶だったようで、石碑がありました。この近隣は先祖代々お住まいのような、立派なお宅が多いです。
 国友村職人宅

 下水のマンホール蓋?にも鉄砲の絵がありました。

鉄砲のマンホール蓋


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「あさい」なのか「あざい」なのか

 長浜市浅井町の役場の前を通りかかったところ、浅井長政一家の銅像がありました。
 長政お市夫婦の他、五人の子供たちの仲むつまじい様子が再現されており、後年の悲劇を思うとなんだか切なくなります。

浅井長政一家銅像

 この「浅井町」ですが、それまでは滋賀県東浅井郡浅井町といっていたのが、数年前に長浜市と市町村合併したということです。
 「浅井町」の読みですが、「あざい」という風に濁音で読みます。パソコンで入力しても、「あざい」→「浅井」と変換します。

 この地名の読みに由来して、浅井長政の苗字は「あざい」と濁って読むのだと近年言われてきましたし、テレビ番組などでも「あざいながまさ」という風に濁音で読ませています。
 どなたがそれを最初に指摘したのかはっきりしませんが、かつて浅井氏を研究していらした小和田哲男先生(静岡大学名誉教授)あたりが提唱されたのではないか、と思われます。小和田さんは以前、浅井町の周辺をフィールドワークされていたことがあり、そこからヒントを得たような事をご著書の中で触れていたと記憶しています。

 しかし、最近になって宮島敬一さんという佐賀大学の先生が「浅井長政」の苗字は、元々「あさい」と清音で読んだのではないか?という新説を提起されています。

 宮島氏が吉川弘文館から出された「浅井氏三代」という本の中でそのように提起されたのでくわしくは同書を参照していただきたいのですが、手元に本がないのでうろ覚えですが、もともと浅井の「浅」の字は濁音で読むはずはなく、元々「あさい」と清音で読んでいたものが、なぜか江戸時代頃に「あざい」と濁音で読むように変化したのではないか?という事でした。

 私は専門家でないので素人考えになりますが、私もやはり「あさいながまさ」と清音で読んで良いのではないか、と思います。なぜなら・・・

  人名として読むとき、「あざい」のように濁音で読むのはちょっと音の響き的にも良くないんじゃないかと思うんですね。
 現代でも「浅井」さんという姓の方はいらっしゃいますが、大体が「あさい」と清音で読ませているものしか聞いたことがありません。

 一方、浅井長政を滅ぼした織田信長ですが、あれも織田家の発祥の地である「越前織田庄」は、「おたのしょう」と清音で読むのに、なぜか人名になると「おだ」と濁音になるんですよね。

 言葉って、長い歳月の中で言いやすいように変化していくし、言語的な面からアプローチしても面白い問題提起ではないか、と思います。(まあ、どっちでもいいっちゃいいんですけどねw)

浅井長政一家人形

 上の写真は「浅井歴史民俗資料館・お市の里」(長浜市大依町)という施設に隣接する図書館の中にあった浅井長政一家の人形です。
 浅井長政・お市夫婦と四人のお子さんたちがいます。
 お市が生んだ長政の子、茶々、お初、お江の三人は確実にお市の子のようですが、長男の万福丸はお市が生んだのではなく、長政の前妻かあるいは侍妾が生んだのではないかとの指摘もあります。
 小谷落城後、城を逃れた万福丸は追手につかまり、処刑されてしまうんですね。そのことからも、お市の腹ではない可能性も考えられます。
 次男に万寿丸という子がいますが、この人は落城時赤ちゃんだったので出家することを条件に助命されるんですが、この子もお市が生んだのかはっきりしないようです。

 さらに、最近ではお市の方自体が浅井長政の前に一度別の人に嫁いで離縁になり、長政とは再婚だったという説もあるようです。

 浅井家ポスター

 地元の自治体が作ったこんなポスターもあちらこちらで見ましたが、浅井長政がホンモノより男前すぎます。。。


  りらっくま
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JR河毛駅/ステーキ弁当 

 小谷城から下山し、もう一度歴史資料館へ行って展示を見た後、最寄駅のJR河毛駅へ寄りました。
 河毛駅からお城まで歩くと30分くらいあるそうですが。

JR河毛駅

 駅構内には、早くも浅井三姉妹関係のキャラクターグッズの売り場が出来ていました。でも、迷ったあげく何も買わずに帰りました。

浅井三姉妹グッズ

 駅前には浅井長政夫妻の銅像がありました。長政と夫人のお市の方が二人仲良く並んでいます。

浅井長政夫妻

 駅前の駐車場で、JR米原駅の駅弁屋(井筒屋さん)で買った「ステーキ弁当」を食べました。かれこれ3年ぶりくらいに食べます。
 井筒屋の本社のほうへ駅構内売店でのお弁当の取り置きをあらかじめ頼んでおいたのですが、いつもながら対応は良いです。
 以前は「近江牛ステーキ弁当」という名前でしたが、数年前に名称が変わったみたいです。

ステーキ弁当1
ステーキ弁当2

 次の史跡へ移動しなければならなかったので、あわただしく駅弁を掻き込みましたが、以前よりどうも味が変わったような気が・・・。肉の質が変わったのか?
 あくまでも個人的な感想ですが、少々味が落ちたような感じです。(自分の味覚が変わったのかもしれませんが)気に入っていた駅弁なので、ちょっとガッカリでした。
 それと、以前はカップ入りゼリーが口直しについていたんですが、今回はありませんでした。

           つづく

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浅井長政の最期 (小谷城 六)

 先述しました「小谷城 三」の項 へと戻ります。

 首据石の側に、道が分岐している地点があり、そこから右側の小道を進みます。人ひとりがやっと通れるほどの狭い道で、右側は崖になっていますので、小さなお子さん連れの場合はご注意ください。

小谷城小道

そのまままっすぐ行きますと、「赤尾屋敷跡」とよばれる場所へと出ます。

小谷城赤尾屋敷跡

 ここは浅井家の家老である赤尾氏の屋敷があったんです。
 京極丸を織田方の木下藤吉郎たちに落とされてしまい、長政の父・久政が籠もっていた小丸と本丸との間を分断され、長政は絶体絶命のピンチに陥りました。
 もはやこれまでと考えた長政は、夫人のお市と三人の娘(茶々、初 お江)を織田信長のもとへ送り届けた後、ここ赤尾の屋敷内にて切腹したと伝えられます。
 天正元年九月一日。享年二十九歳という若さでした。

 このとき、屋敷の持ち主である赤尾清綱という人が屋敷に敵を入れないよう防戦していたところを織田勢に生け捕られてしまいますが、それから信長のもとへ引っ立てられた際に子息の助命を願い出、清綱の忠義に感じ入った信長はそれを許し、清綱は処刑されたということです。

小谷城浅井長政自刃の地


 小谷城登城の道すがら、浅井長政の死について色々考えながら歩いていたのですが、信長と同盟を結び、彼の妹(お市)と政略結婚までしながら、朝倉氏との関係を断ち切れなかったわけですね。
 信長が自分の近しい身内の女性を政略結婚で送ってくる、ということは、それだけ浅井長政は重要な人物として認識されていたわけです。(信長が政略結婚を結ぶ場合、大半が自分の家臣の娘を養女分として先方へ嫁がせている 身内の女性を嫁がせるのはよっぽどのこと)
 それほどまでに信頼していた長政の裏切りは、信長の怒髪天を衝くほどの怒りを招いてしまったんです。

 浅井家の重臣であった赤尾氏なども、朝倉と長くよしみを通じていたそうですし、父の久政などは信長を毛嫌いしていましたから、こうした家中の意向などもあり、結果的に長政は朝倉氏方に与せざるをえなかったと思われます。
 しかし、三人(一説には四人)もの子をなしたお市という愛妻の存在もあり、長政は朝倉氏と織田氏との板ばさみにさぞや苦しんだであろうと推測されます。
 この時長政の考えの中に、果たしてどのような勝算があったのか今となっては知るよしもありませんが、信長の真の恐ろしさについて知らなかったものか、多少の油断があったのではないかと思われます。
 

 この日、家族連れやカップルなどがけっこう登城していたのですが、知ってか知らずか、さすがにこの長政最期の地まで歩いてくる人はこの時誰もいませんでした。
 染み渡るような深閑の中、400年以上も前の悲しい物語に思いをはせながら、現場を後にしました。

 
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秀吉に攻め込まれた場所 (小谷城 五)

 浅井氏が主家である京極氏を住まわせたという曲輪を「京極丸」といいます。

小谷城京極丸

 ここも階段状の、広い曲輪なのですが、ここの西側から木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)率いる織田勢に攻め込まれ、城主・浅井長政のいる「本丸」と、長政の父・久政のいる「小丸」(後述)とを分断されてしまい、これが戦の勝敗を決定づけました。
 最終局面では、浅井勢の家臣の裏切りなどもあり、この西側(麓の屋敷のある清水谷へ通じている)のあたりの守りが手薄になっていたのではないか、と思われます。

小谷城小丸

 京極丸の北側には「小丸」という東西二段の構造をもつ曲輪があり、一段高くなっている東側の建物に浅井久政が立て籠もっており、ここで自刃したと言われています。

小谷城山王丸1

 さらに先に進むと、「山王丸」があり、昔はここに山王社が祀られていました。南側には馬出があります。
 東側の斜面には「大石垣」が残っていて、当時の城の様子をうかがい知ることができます。

小谷城大石垣

 この山王丸は、いわゆる城破りを受けており、大きな石垣が今だにゴロゴロしていて歩きにくいです。
小谷城山王丸石垣

 西側の斜面の生い茂った木と木の間から、遠くにびわ湖がかすんで見えました。
小谷城から見たびわ湖

小谷城山王丸2

 山王丸の一番北側です。実はこの先にも道が続いていたらしく、六坊(寺院の出張所があった)や大嶽(小谷山頂上にある曲輪)に通じていたらしいのですが、道が悪そうだったのでここで引き返すことにしました。

 感想としては、この規模ですととても一日のみでは回りきれないお城ですね。更にこのほかにも、西側の尾根の方には出丸などがあったわけですから。
 破城の様子なども目の当たりにし、改めて400年以上の長き歳月が経過していることを思いしらされました。
 次は浅井長政の最期の地を紹介します。

                            つづく
 
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いよいよ本丸へ (小谷城 四)

つづき いよいよ本丸へ攻め入ります。本丸は大広間跡のすぐ北側にあり、ここには城主浅井長政が居住していました。

小谷城本丸1

こうしてみると、石垣がよく残っています。
小谷城本丸2

この本丸にあった建物は、後に彦根城に移され、西の丸三重櫓として遺されたという伝承がありましたが、昭和30年に解体修理した際、そのような形跡は確認できなかったため、現在では否定されているようです。

本丸の西側には「御局屋敷」と呼ばれる腰曲輪がありました。↓名前からして、女中衆がここにいたんでしょうか。
小谷城御局屋敷跡

本丸の北側には尾根を遮断する「大堀切」があり、本丸と中の丸とを隔てています。深さ5~10m×幅15m×長さ40mという大規模なもので、大がかりな工事で作られたものであることがわかります。
小谷城大堀切跡

浅井長政が、織田勢に京極丸(後述)を落とされた後も数日間本丸に籠もることが出来たのは、この大堀切があったからとも言われています。
本丸から迂回せずに、直接この堀切へ滑り降りてみたんですが、けっこう急な斜面で女の私には難儀しました(笑)

堀切の先には「中の丸」があります。
小谷城中丸跡1
小谷城中丸2

この「中の丸」は3段構えになっていました。この辺に本丸を守護する家臣たちが詰めていたんでしょうか。
「中の丸」の上段には「刀洗池」があり、この右脇から京極丸へ通じる入り口があります。

小谷城刀洗池

                                    つづく

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小谷城 (三)

 つづき

首据石

 上の写真は「首据石」というのですが、その昔、浅井氏が六角氏と争っていたときに、浅井家臣の今井某というのが六角側に内通したかどで首を切られ、見せしめのためにその首をこの石の上に置いたんだとか・・・ちょっとガクブルです・・・(><) もっとも、当時の人々は「生首」耐性?がありましたけどね。(普段見慣れてますから)
 物騒なので先を急ぎます。

赤尾屋敷方面

 首据石の少し前方に、道が二手に分岐したところがあります。この右側の方の小道を行くと、城主浅井長政が切腹したという家臣の屋敷跡に通じています。(これについては後述)
 とりあえず、右方の方面へ先に行くことにします。
 この分岐点の右側には「桜馬場」という曲輪があります。
桜馬場

 この南西側の隅っこに、物見櫓があったらしいんですが、その位置からですと、敵の織田信長が陣を置いた「虎御前山」を見張るのに最適だったんだとか。現在は木が生い茂ってしまって、視界が悪いですが。

浅井主従供養塔

 桜馬場には浅井主従の供養塔がありました。(-人-)
 供養塔の後方に見える大きな記念碑は、徳川宗家16代家達による揮毫だそうです。
 その記念碑の右側に「小谷城址」の碑がありました。
小谷城址

 記念碑と城址の碑があるところは、石垣が築かれ、桜馬場よりも小高くなっています。
 城址碑の右側には「黒金門跡」があり、ここより「大広間跡」へと通じる重要な出入り口となっています。

小谷城黒金門跡

 「大広間跡」は小谷城内でも最大の広さ(南北85M 東西35M)の曲輪であり、御殿が建っていました。
 そのほか、土蔵や井戸もあったそうで、土蔵の跡とみられる場所からは銅鏡、銀製の化粧道具、貨銭、陶器のかけらなどが出土したそうです。
 浅井長政の三女、お江与(お江、小督)ですが、もしかしたらここで出生した可能性があるといいます。彼女が生まれた時、小谷城は戦時下にあり、麓にある屋敷では危険ということで、母親のお市も山上の曲輪へ移動していたのかもしれません。
小谷城大広間跡


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クマ出没注意!(小谷城 二)

クマ出没注意

 2~3年前に小谷城でが目撃されたそうで、実際現地にもこのような注意書きがありました。こうして見ると、何も知らずにここへ来たら、思わずビビってしまいますよね。熊には罪はありませんが・・・。
 まさか、とは思いましたが、一応熊よけの鈴を持参いたしました。


小谷城駐車場

 山の中腹、金吾丸の手前まで車で入れます。(小さい駐車スペースですが) すでに、5,6台の車が駐車してありました。
 来年、大河ドラマが始まったら、たぶん土日祝はすぐ満車になってしまうのでは?と思われるほどの狭いスペースしかありません。

↓こちらが番所跡です。当時、ここで城内に入る人間をチェックしていたんでしょう。この手前に、地元ボランティアらしき門番さんが2人おられて、地図のコピーを手渡ししてくださいます。
小谷城番所跡

 いよいよ、登城です。とりあえず、左側のゆるい斜面を登りますが、小石がゴロゴロしています。
小谷城道


↓しばらく登りますと「御茶屋跡」の曲輪に着きます。お茶屋とありますが、こちらはれっきとした軍事施設です。
小谷城御茶屋跡


↓もう少し先へ行きますと、「御馬屋跡」です。左手後方に土塁があるのがわかりますでしょうか。
小谷城御馬屋跡

↓馬屋の側には、「馬洗池」があります。ここで馬を洗ったそうです。水は留めていませんが、けっこう広いですね。
小谷城馬洗池

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小谷城(90/100)

 滋賀県長浜市にある小谷城へやってきました。100名城スタンプラリーのためです。
 当初は最寄り駅のJR河毛駅から徒歩で行く予定でしたが、朝から快晴だったので、急遽長浜からレンタカーで行くことにしました。
 この前の高知行きが天気に恵まれなかったので、それが嘘みたいな青空です!なんだか、心もはずんできます。
 
 小谷城址

 小谷城看板

 大河ドラマの舞台になるということで、真新しい看板が立っていました。浅井三姉妹のかわいげなキャラクターがお出迎えです。

 とりあえず、麓にある小谷城戦国歴史資料館へ向いました。ここで100名城のスタンプをもらわなければなりません。

小谷城歴史資料館

 小谷城スタンプ

 無事、スタンプを押印しました。ここで、90城目を制覇しました。小谷城をもちまして、近畿地方は全部終了しました。
 本当は安土城や観音寺城とまとめて来れればよかったのですが、いろいろ都合等もあり、小谷城だけ残ってしまったんですよね。。。これで課題がひとつ減りました。

 中は小谷城に関する資料館になっていますが、見学していたところ、グループの客が来てしまったので、騒がしくなる前にとりあえず先に城址へ行くことにし、後でもう一度来ることにしました。

 徒歩で登る場合は、資料館の右脇の大手道を行きます↓
小谷城大手道

 しかし、今回は時間短縮のため、別の道から車で山の中腹まで行くことにしました。(まあ好天でしたし、資料館のところから歩いてもよかったんですけどね)

 縄張りはこんな感じです。

小谷城縄張図


                         つづく



 

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祟源院(お江与ノ方)

      台徳院宝塔


 上の写真は、東京・芝の増上寺にある、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠(1579~1632)とその夫人・お江与ノ方の合祀墓です。

 江戸時代、増上寺の敷地内には秀忠の広く荘厳な霊廟があったのですが、残念ながら昭和20年5月の空襲で焼失してしまいました。
 昭和33年に、増上寺の敷地売却に伴い、徳川家霊廟はすべて改葬されることになりました。
 なお、秀忠の宝塔は空襲で焼けてしまったので、隣に葬られていた正室・祟源院(お江与ノ方)(1573~1626)の石塔が転用され、現在では写真のようなお墓になっております。

 さて、お江与ノ方ですが、近江小谷城主・浅井長政の三女で、母親は織田信長の妹・お市ノ方です。夫・秀忠との間に三代将軍・家光や千姫(豊臣秀頼室 後に本多忠刻室)など、7人の子をもうけました。
 伝えられるところによると、来年のNHK大河ドラマのヒロインに決まったということです。

 次回より、この祟源院お江与ノ方の故郷を旅することにいたします。


 関連記事 「江」の墓(再録)


 
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陽暉楼

 「鬼龍院花子の生涯」や「天璋院篤姫」などで有名な作家の宮尾登美子さんが書かれた小説に、「陽暉楼」という作品があります。かなり前に五社英雄監督で映画化されているので、ご存知の方も多いと思います。
 私も以前、テレビで見た記憶があるのですが、芸妓役や女郎役の女優さんたちが髪をふり乱し、丸出しにしたオッ○イをゆらしながら、啖呵きっていたりして、どうもあまり好きになれませんでした。
 今になってみると、あの世界は高知でもある特殊な世界だということが認識できるのですが、まだ若かった当時はあの映画の第一印象で、「土佐の人、怖えーよ」と思ってしまい・・・正直、その当時は土佐に対してあまり良いイメージをもてなかった自分でした。

 さて、その陽暉楼のモデルとなった料亭がはりまや橋のすぐ側にあると聞いて、事前に予約を入れて行ってみました。

得月楼

 現在は「得月楼」といいます。(HPはコチラ
 明治3年の創業の老舗で、当初は「陽暉楼」という店名でしたが、後に谷干城によって「得月楼」と改名したということです。
 案内されたのは、坂本龍馬の掛け軸のある個室でした。

得月楼個室

 お庭も見えて、なかなかの佇まいだったです。
 お料理は、ランチでしたので、季節のおすすめ「豊漁膳」(1人前 2940円)を注文しました。
 
 メインのお弁当はこんな感じです。
豊漁膳1


弁当 鱧皮酢味噌和え/鱧みぞれ小丸/鱧煮こごり/鱧南蛮漬け/石川芋絹皮付き/土佐ポーク鳴門揚げ やり烏賊玉子/川海老甘露煮/甘鯛西京焼/チーズ純米酒粕漬け/阿多福豆
造り 三種盛り
焚合せ 鱧黄身煮/小茄子茶巾/柚子饅頭/椎茸/蕗
ご飯 鱧そぼろ飯


 加えて、五色素麺と 薄葛仕立・鱧すり流しのお吸い物がつきます。
豊漁膳2

 最後に、フルーツトマトと小夏のデザートが出ました。
豊漁膳3

 ボリュームもあって、美味しかったのですが、料理を頂いている間に団体さんが入ってきて、廊下でガヤガヤとうるさくて、落ち着いて食事できませんでした。
 団体さんが大挙してきていたせいか、仲居さんの配膳も少々雑で・・・。まあ、お忙しそうで仕方ないのですが。
 その点だけが残念です。

 今回の高知行きは、1日が大雨でちょっと気がそがれてしまったのですが、雨の割りには充実していたと思います。
 行かれなかった箇所(桂浜など)は、また次の楽しみにとっておきたいと思います。

 帰りの高知龍馬空港では、ちょうど「龍馬伝」をやっていて、待合室の乗客が熱心に見入っていました。(主役の福山雅治さんが映っていますね)

龍馬伝

 長くなりましたが、最後までお読みいただき、有難うございました。


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A☆六文銭

Author:A☆六文銭
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日本100名城完全制覇と有名人の墓めぐり(掃苔)
日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

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