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名を高松の苔に残して・・・備中高松城(二)

 400年ぶりに咲いた「宗治蓮」・・・備中高松城(一) のつづき


 この橋を渡った先が高松城の本丸になります。
備中高松城2


  国史跡「高松城址 附水攻築堤跡」の標柱
  史跡・高松城址

  

 現在はただの広場?になっています。水攻めの頃には、本丸の北側に城主の居館があったそうです。
 城主・清水宗治が籠城策を採った際、場内には5000人(農民が多かったらしい)もの人で溢れかえり、その上敵方から水攻めに遭って城は孤立し、たちまち兵糧が尽きていったといいます。
備中高松城本丸5



 ここには高松城主であった清水宗治の首塚があります。秀吉からの講和条件を受諾した宗治は、天正10年6月4日切腹しました。享年46歳。
  清水宗治肖像


 元々は羽柴秀吉が陣を置いた石井山にありましたが、明治42年(1909年)に現在地へ移されたということです。
 移転にあたり元々の首塚の下を掘ったところ、首甕のようなものと歯が3本、短刀3片、土師器の盃が出土したので、この新しい首塚に祀ってあるそうです。
清水宗治首塚2

  首塚拡大
  清水宗治首塚1


 清水宗治辞世
「浮世をば今こそ渡れ武士(もののふ)の 名を高松の苔に残して」
  備中高松城本丸1
  


 「清水宗治城跡ノ碑」子爵・毛利元徳の揮毫によるもの。建立したのは毛利家の家臣であった宗治の子孫の方だそうです。残念ながら文字は摩耗していて、判読しにくい。
  備中高松城本丸4


  本丸跡の隅っこにあった祠。宗治を祀っているのでしょうか???
  備中高松城本丸2


 
       ********************

 
 高松城二の丸跡
備中高松城二の丸



 高松城三の丸跡 城址公園の駐車場の向こう側が三の丸跡だということです。(現在は民有地)
備中高松城三の丸


 ものの20分程度あれば、ここまで見れてしまいます。


                           つづく


 参考文献 『備中高松城の水攻め』市川俊介著 (岡山文庫 184))
      高松城址資料館パンフレット


 
  
より大きな地図で 高松城址 を表示


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400年ぶりに咲いた「宗治蓮」・・・備中高松城(一)

 織田信長の天下統一への過程で、障壁の一つとなっていたのが中国地方の雄・毛利氏でした。
 これを攻略すべく、信長は股肱の臣である羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に中国攻めを命じます。
    豊臣秀吉


 秀吉は姫路に本拠を置き、天正8年(1580年)には別所長治の三木城を、天正9年(1581年)には毛利方の城将・吉川経家の寄る鳥取城を落とし、兵を進めます。
 いよいよ山陽道から毛利氏の本拠である安芸を目指そうとした秀吉軍でしたが、毛利氏との攻防の最前線となったのがこれから紹介する備中高松城です。


 【高松城の水攻めとは】 
 秀吉は得意の調略で毛利方の高松城主・清水宗治を籠絡しようと試みますが宗治はこれを断固拒否したため、天正10年(1582年)4月、秀吉は3万の大軍を率いて高松城に押し寄せ、和戦両様の構えで対峙します。
 ところが高松城は周囲を沼地と湿地に囲まれた鉄壁の構えを備えており、攻め手を欠いた秀吉は近くを流れる足守川を上流で堰き止め、突貫工事で堤防を築いて城を取り囲み、水没させました。この前代未聞の秘策を提案したのは、竹中半兵衛亡き後秀吉の「知恵袋」となっていた黒田孝高(官兵衛 出家後「如水」)であったといわれています。
    黒田孝高

   
 ところが、この戦のさなかの6月2日未明、京で「本能寺の変」がおこります。主君信長の悲報を知った秀吉は、毛利方にさとられぬよう、城兵を助ける代わりに城主・清水宗治の切腹を絶対条件として提示。翌々日の4日に宗治は切腹します。
 接収した高松城にはわずかな兵を残し、秀吉は信長を討った明智光秀を追討するため、東上の途につきます。秀吉軍は驚異的なスピードで京を目指して引き返しますが、これが世にいう「中国大返し」です。秀吉の人生で最大のターニングポイントとなったのは周知の通りです。
 


 備中高松城は陣屋町・足守の南東、車で10分くらいの所にあります。
 城跡は整備され、現在は公園となっています。
備中高松城1

 
 備中高松城跡(国史跡)※クリックで拡大します。
備中高松城3



 まず、公園内にある蔵造りの資料館へ行きます。
 管理人の方がおられましたが、ちょうど夏の甲子園の野球中継に夢中で、説明してくれる気配もなさそうな雰囲気。(私より先に来ていた客には説明していたんですが・・・)説明してもらうのは諦めて、お邪魔にならぬようそそくさと見学。
 ここで高松城に関する小冊子が販売されていたので購入。その他、無料でもらえる史跡マップなども置いてあるので一応もらっておきましょう。
高松城資料館1


 毛利方の備中高松城主・清水宗治像(平川忠氏制作)
 秀吉の水攻めに遭い、窮地に陥った宗治は城兵の命を助けることを講和条件として、切腹しました。
  清水宗治銅像


 高松城周辺の写真。(クリックで拡大)これを見ると、周辺の位置関係が把握できると思います。
高松城資料館

 

 高松城攻めの位置関係を示した地図(クリックで拡大)
 秀吉方、毛利方の配置が把握できると思います。羽柴秀長、黒田孝高、加藤清正、山内一豊、吉川元春、小早川隆景などおなじみの武将の名も見えます。
  高松城資料館2

 
 小さな資料館でしたが、その他いろいろ資料が展示してあったので見ておいて損はないと思います。
 ただし、資料館の開館時間は午前10時から午後3時まで(月曜休)と短いので、ご注意ください。


 資料館を出て右手の方へ行くと、蓮沼に囲まれた高松城の本丸跡が見えてきます。 
備中高松城2

 
 昭和57年(1982年)に岡山市が戦国時代にあったとされる沼の復元をしたところ、土中に眠っていた蓮が再び芽を吹き、花が咲いたというのです。
 実に400年ぶり!に蘇ったこの蓮を、地元の人々は「宗治蓮」と名付け、毎年7月下旬ごろが見頃だそうです。
宗治蓮1


 
 この日はすでに8月でしたので、すでに蓮の開花のピークは過ぎていまして、ほとんどがハチス(果托)の状態になっていましたが、わずかですが咲いている花を見つけたのでラッキーでした。
 蓮の花は仏教にもつながり、清らかな印象がありますし、城主の悲劇的な死ともあいまって、神秘的な感じがしました・・・。
宗治蓮2


 満開だとこんな感じ⇒【岡山市ホームページ「宗治ハス蓮見会のご案内】になるそうです。


 この後、城跡をめぐります。    つづく



   
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   高松城城址公園資料館 電話086-287-5554
  
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陣屋町・足守をゆく1(旧足守藩侍屋敷・足守陣屋・木下利玄生家)

 8月のある暑い日のこと、岡山県へ行ってきました。
 JR岡山駅から北西方向約13kmほどのところに、「足守」という町があります。駅前でレンタカーを借りて行ったのですが、だいたい30分強くらいで到着しました。

 
 足守の町は地元の方々の努力によって、江戸時代からの伝統的な町並みが残されています。
 下の写真はかつて商家が立ち並んでいた辺りで、時間のある方はゆっくり散策してみることをおすすめします。
 今はコンビニや普通の商店も見当たらなかったです。。。
 足守町並み



 下の地図をご覧いただくとわかりますが、足守川に囲まれた縦に細長い、こじんまりとした町です。
 江戸時代、「足守藩」木下家2万5千石の「陣屋町」でした。(※クリックで拡大)
   足守地図
   


 江戸時代、この地域を治めていた「木下家」ですが、豊臣秀吉の正室・「北政所」(ねね)の実家です。

 余談ですが、秀吉は若い頃、「木下藤吉郎」と名乗っていましたが、もともと秀吉は身分が低いため苗字がなく、「ねね」さんと結婚してはじめて名乗れた苗字だったといわれます。
この記事では便宜上、ドラマ等で知られた「ねね」という名で記載していますが、足守藩木下家に伝わる古文書や系図から、彼女の名は「寧(ねい)」さんと呼ばれていたようです。
  北政所

 足守藩は、北政所の兄・木下家定が、慶長5年(1600年)関ヶ原合戦後、播州姫路から国替えしたことに始まります。
 慶長13年(1608年)家定が死去し、江戸幕府が遺領を子の勝俊・利房の二人に分与します。しかし、北政所のはからいで兄・勝俊ひとりに相続させたため、領地を独占したとして徳川家康の逆鱗に触れ、翌慶長14年(1609年)に所領を没収されてしまいます。
 その後、一時浅野長政の次男・長晟が入りますが、元和元年(1615年)大坂夏の陣の功により木下利房が2万5千石で入封し、以後明治維新まで続きました。

 
 【旧足守藩侍屋敷遺構】
 足守藩の家老を務めた杉原家の武家屋敷。江戸中期ごろの建物が良好な形で残っています。江戸時代の様子を偲ぶことができる数少ない遺構です。
旧足守藩侍屋敷遺構a


 
 屋敷の内部
旧足守藩侍屋敷遺構b


 室内上部に見える「鶴雲」の変額は、第十一代藩主・木下利徳の書によるもの。
 ちなみに、署名は「豊臣利徳」となっており、あえて「豊臣」姓を記しています。
 旧足守藩侍屋敷遺構d

 屋敷内にあるお蔵の上部には、豊臣家ゆかりの「五七の桐」紋が見えました。
  旧足守藩侍屋敷遺構c



 【旧足守藩陣屋跡】
 足守藩は2万5千石の小藩でしたので、お城はなく、「陣屋」が置かれていました。
 寛永14年(1637年)、第四代藩主・木下利当(としまさ)が初めて入部し、陣屋と武家屋敷、町人町を整備したということです。
足守陣屋c


 陣屋跡地は現在、公園になっています。
足守陣屋a


 陣屋を囲む石垣と水堀が当時をしのぶ唯一の遺構。
 足守陣屋b


 【木下利玄生家】
 木下利玄(1886~1925年)は明治~大正時代の歌人。利玄が生まれて5歳まで育った家が陣屋跡に隣接して残っています。
 中学だか高校時代、国語の時間に大正期「白樺派」の歌人として、名前ぐらいは聞いた記憶があったんですが、ここへ来るまで長年すっかり忘れていました。
 ちなみに、利玄は第13第藩主・木下利恭の弟の息子(つまり甥)でしたが、利恭は跡継がなく死んだため養嗣子として木下子爵家の家督を継いだので東京へ移っています。
 写真に見えている荒壁の長屋門風の建物からは、後年木下家関係の重要な古文書が発見されたそうです。
 木下利玄生家a


 利玄の生まれた家は、実は陣屋に増築した建物の一部だったそうで、嘉永5年(1852年)と書かれた棟札が屋根裏から発見されたと説明板にありました。
 もちろん修復はされていることでしょうが、外観から見た感じでは保存状態は良好でした。入室不可。
 木下利玄生家b

 

                             つづく

    
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 ※次回更新は21日(金)以降になります。



   
  より大きな地図で 足守陣屋跡 を表示



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三原城まとめ

 このところバタバタしていて、更新が遅くなってしまいました。折角アクセスしてくださった方、変わりばえのないページで申し訳ございません。

 ところで、このところ広島県三原市を巡る旅を綴ってきましたが、最後に戦国大名・毛利元就の三男・小早川隆景(1533~1597年)の晩年の居城となった三原城の関連史跡を記して終わりにしたいと思います。
 先述したとおり、三原城は明治維新後山陽本線が通ったり、堀が埋め立てられたりで、往時の姿はほとんどとどめていませんが、若干お城の痕跡を認めることができます。

 
 ①三原城船入櫓跡
 三原駅南口を出て南東方向に歩いて3分くらいのところにあります。現在でも石垣が残っております。
 中に入れますが、この日は花見客が多くいました。
 三原城船入櫓a
 三原城船入櫓b


 ②三原城本丸中門跡
 ペアシティというビルの裏手にあり、一部石垣が残っています。この付近を写した明治時代の古写真があるそうです。
 三原城本丸中門跡


 ③三原港
 三原では昔から「たこ」漁が盛んで、今も続いています。
 三原港



 ④江戸の水刎
 城郭を守るため、水の流れを緩和する鋸状の構造物「刎(はね)」。和久原川沿いに数箇所あります。
 江戸の水刎


 ⑤順勝寺山門(三原市西町2)
 かつて三原城内にあった奉行所の門でした。
 順勝寺山門


 ⑥極楽寺山門(三原市東町3)
 新高山城の城門だったと伝わる門で、後に三原城奉行所の門として転用されていたといいます。
 極楽寺山門


 ⑦三原市歴史民俗資料館(三原市円一町2)
 三原城の絵図や古写真等が展示してあります。狭い資料館でした。
    三原市歴史民俗資料館


 【感想】
       小早川隆景(顔)

 
 瀬戸内海に向って築かれた三原城ですが、かつて「浮城」と呼ばれた面影がほとんど残っていないのが残念です。その昔、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人もこの地に宿泊し、感嘆したといいますから、さぞかし壮観であったに違いありません。
 城の主である小早川隆景は幼少時に毛利家から養子に出され、戦いにあけくれた生涯(彼は朝鮮出兵(文禄の役)にも従軍し、大いに活躍した)でしたが、晩年は海を眺めながら暮らしたかったという彼の気持ちがよくわかりました。
 隆景の人柄はまさに「深謀熟慮」の人といった風で、外交面でも見事な立ち回りを見せ、彼がもう少し長生きしていたら、関ヶ原合戦はあったかわからないし、また仮に戦いが行われたとしてもその結果は違ったものになったかもしれない、と思いました。
 少し長くなりましたが、最後までご覧いただきどうも有難うございました。

 関連記事 三原城
        【駅弁】三原城址で「浮城弁当」を(JR三原駅)
        新高山城(一)
        小早川隆景の墓
 

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三原城

 戦国時代、中国地方の雄であった毛利元就の三男で、「毛利両川」の一方の要として毛利本家を支えた小早川隆景(1533~1597年)についてもうしばらく続けます。

 
 JR三原駅。山陽新幹線の停車駅ですが、いつも通り過ぎてばかりで今回初めて下車しました。
 実はこの三原駅、小早川隆景が築いた三原城の跡地にあるのです。
 かつての城跡に鉄道が敷かれた例としては、他にもJR長岡駅(新潟)、JR甲府駅(山梨)、JR福山駅(広島)がありますが、三原駅の場合、三原城の天守台に線路が通っているのが特徴です。
 下の写真は南口の方ですが、駅の北側に石垣が残っているので見てみることにしましょう。
 JR三原駅


 
 城跡を見る前に、三原駅改札外構内に三原城のCG映像を見られる映像BOXがあります。実は三原城の遺構はほとんど残っておらず、ほとんどが市街地になってしまっているので、これを見ておくと城の全体イメージが把握できるかと思います。
   DSCF8984.jpg

 
 南口外壁にあった三原城を描いた絵。(クリックで拡大)
 
 先述した新高山城に本拠を置いていた小早川隆景でしたが、永禄10年頃から「三原浦」と呼ばれていたこの地に新たに城を築きはじめます。水軍を率いていた隆景は、軍事面や交易の観点から瀬戸内航路の完全掌握を目指しており、「小早川警個衆」の新たな基地を置く必要性に迫られていたのです。
 城は湾内にあった大島小島をつなげて築かれ、主郭<本丸)は大島にあったといいます。沼田川が瀬戸内海に注ぐ河口デルタ(三角州)に城は築かれたわけです。(毛利輝元の広島城も同じような三角州に築かれています)
 その姿は海に浮かぶように見えたので、別名「浮城」とも呼ばれました。豊臣秀吉や徳川家康も三原城に宿泊したことがあり、大いに感嘆したといわれます。
 三原城7

 
 江戸時代の三原城の絵図。(現地案内板より クリックで拡大)
 三原城8

 

 駅のガード下にある三原城天守台の石垣。この風景は全国広しといえども三原城だけ。
 三原城1



 天守台上から見た三原駅。
 三原城6



 三原城の石碑と案内板。石垣は「あぶり積み」という工法で築かれました。毛利氏にはお抱えの石垣職人集団がいたので、多分その系統かと思われます。
 石垣に使われた石は、新高山城からの転用だという話は先述しました。
 三原城3


 
 北東側から見た三原城天守台。かつては石垣の上に多門櫓で連結した二重櫓がありました。
 三原城4


 明治27年(1894年)、日清戦争が契機となり、物資輸送のため城を貫いて山陽本線が築かれました。
 三原城2


 石垣の向こうに見える桜山には、かつて「甲の丸」と呼ばれた砦があったといいます。
 三原城5



 三原駅西口前広場にある小早川隆景の石像。
 文禄四年(1595年)、養子の秀秋に家督を譲った隆景は、三原城を隠居所と定めて暮らしたわけですが、現在の城のあまりの変わり様には冥界の隆景もびっくりでしょう。
 生涯戦いにあけくれた隆景としては、眼前に広がる海を眺めながら余生を送りたかったのかなあと私には思われました。
 小早川隆景石像


                           つづく

  
より大きな地図で 三原城 を表示



 関連記事 新高山城(一)
        小早川隆景の墓

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新高山城(四)

 新高山城(三)のつづき

 内容が少々長くなってしまい、すみません。今回で最後です。


 本丸から北側にある「釣井の段」(井戸郭)を眺める、というか見下ろす。本丸とかなりの高低差がありますので、降りるのに急な斜面を下るので少々難儀します。この時、麓から借りてきた竹杖、あるいは登山用のストック(トレッキングポールというらしい)があるととても助かります。転んで怪我などしないよう注意して下りましょう。
 新高山城36


 「釣井の段」に降りたところ。急な斜面がわかりますでしょうか。
 新高山城35

 
 斜面の途中には石垣の痕跡が。
 新高山城34



 説明板。ここには大小6つの井戸跡があります。
 事前に三原市教育委員会へ問い合わせたところ、この城では山上で生活していた形跡があるとのこと。
 いざ籠城となっても、これなら飲み水の確保もOKですね。
 新高山城37


 今でも水をたたえている井戸。
 新高山城39
 新高山城33


 「釣井の段」全景
 新高山城40


 「釣井の段」に咲いていた山桜。7分咲きでしたが、この春最初の「お花見」でした。
 新高山城41


 「釣り井の段」より「ライゲンガ丸」(後方)の土塁を眺める。「ライゲンガ丸」とは一体何なんでしょう???
 新高山城38



 「釣井の段」より斜面を上がって、中の段に戻ります。
 中の段の北側に「船木への下山道」という看板があり、この脇の細い道をまっすぐ行くと、三の丸方面へ行かれます。
 人ひとりやっと通れるほどの道で、落葉が多く滑りやすいので要注意です。
 新高山城42


 「石弓の段」より、西の丸、北の丸を眺める。階段上になっているのがわかりますでしょうか。
 新高山城45


 そのまままっすぐ行くと、西端の「北の丸」に出ました。
 新高山城44


 説明板。
 新高山城43


 ※「北の丸」の南西方向に「堅堀群」があったようなのですが、雑木で覆われてよく見えなかったです。
 北側に「船木への下山道」が続いていたようで、登山風のおぢさんがそちら方面へ消えていきましたが、「道なき道」といった感じで不安でしたので、ここで私たちは「中の丸」へ一旦戻り、元来た登山道を使って下山しました。

 

 【感想】
 自然の地形を活かした山城という印象で、石垣の跡や土塁など遺構もよく残っていて、山城ビギナーにも登りやすいお城だと思います。
 以前登城した、毛利元就の吉田郡山城(100名城)と雰囲気が似ているように感じました。いわば「毛利氏の城」といったところでしょうか。
 非常に堅固な造りの城ですが、幸か不幸か、この城は戦いの現場になることはありませんでしたので、血なまぐさい話などもなく、その点ホッとさせられます。(落武者の霊に遭遇する等の心配がない)
 それから、城の主・小早川隆景ですが、彼も戦やら外交やらでとても忙しい身でしたので、この城で果たしてどれぐらいの期間過ごしたのか気になりました。でも滞在時は山上で過ごしていたようなので、昇り降りが大変だったでしょうね。

 今回、10人くらいの人たちとすれ違いましたが、そのうち3人くらいがお城ファンと思われ、後は「里山歩き」で来られたような感じでした。
 整備されているので登りやすいですが、急な斜面や足場の悪い場所も所々ありますので、山登りに準じた用意をして登るのが賢明です。下山中、急に小雨が降ってきましたので、雨具の用意も忘れないようにしてください。これから気温も上がり、蚊やハチなどの虫も増えそうですから、虫除け対策もお忘れなく。
 冗長な文章で綴るよりも、「百聞は一見にしかず」で、写真を見ていただいた方がわかりやすいと思いましたので、長くなりましたが、ここまで読んでいただいてどうも有難うございました。



 左手が今回登った新高山城。沼田川を挟んで右手が高山城。(今回体調不良により、断念しました)
 新高山城46



 全国の廃城を特集しているムック。私も昨年購入しましたが、とても参考になります。
 「新高山城」もちょっとだけ掲載されています↓↓↓
  
廃城をゆく (イカロス・ムック)廃城をゆく (イカロス・ムック)
(2010/06/28)


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 今後も各地のお城を紹介していくつもりなので、どうぞよろしくお願いします。
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新高山城(三)

 新高山城(三)のつづき

 
 中の丸から本丸に行くには、このゴロゴロとした巨石群を超えなければなりません。
 これらもおそらく、かつてあった石垣を崩した跡だと思われます。
 新高山城25


 本丸へ着きました。 (´・ω・`)ふぅ
 新高山城24


 縄張図を確認します。(クリックで拡大)
  新高山城縄張図2

 
 かつてはここに本丸の建物があったと推定されます。毛利元就・隆元がこの城を訪れた際、この辺りで連歌の会が催されました。
 新高山城22


 北側にある「大手門跡」 現在の登山道は南側から登りますが、昔は北側に「大手道」があった?可能性があります。
 新高山城23


 下の写真は三原市にある宗光寺の山門(国指定重要文化財)ですが、この門はかつて新高山城の大手門であったと伝わっています。 
   宗光寺a


 本丸に東側にある詰の丸へ。ここにも巨石がごろごろ。
 新高山城29

 
 巨石の合間に石仏が。なんだか和みます。
 新高山城28

 不動明王?江戸時代の人たちが彫ったのでしょうか。
 新高山城27

 

 東端の詰の丸。ここは眺望が良いので、お弁当タイムにしてもいいかもしれません。私もここで20分くらい休憩を取りました。
 音声ガイドBOXが設置されていますから、ボタンを押して説明を聞きましょう。
 新高山城30



 目の前には中世小早川氏の居城であった「高山城」が見えます。
 新高山城31


 沼田川を眼下に。少し晴れ間も覗いてきました。
 新高山城26


 広島空港が近いので、見上げると飛行機が見えました。(JAL機)
 広島空港は2,3回利用したことがありますが、新高山城の上空を飛んでいたのかなあと実感しました。
  新高山城32


  
 次で最終回になると思います。長文になってしまい、スミマセン!     つづく
 
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新高山城(二)

 新高山城(一)からのつづき

 山道をさらに登っていくと、「匡真寺跡」に出ます。
 現地案内板によれば「小早川氏の菩提寺跡で、隆景は、天正5年(1577年)亡父毛利元就の七回忌、亡母妙玖尼の三十三回忌に際して、ここに匡真寺(現在三原市宗光寺)を建立し、法会を盛大に営んだ。
 寺跡は東西41m、南北72mに及ぶ広大なもので、全面に瓦片が散乱し、築庭を思わせる湧水池、築地塀の跡などが残っている」
 説明にもあるように、この寺は後に三原城下に移され「宗光寺」と名を改めますが、このお寺については後述します。
 新高山城17


 庭園の池の痕跡?と思われる水たまり
 新高山城15

 石積の痕跡。この辺りに何らかの建物があったのでしょう。
 新高山城14


 「匡真寺跡」全貌 中央辺りに巨石があり、少々驚きました。
 新高山城13


 永禄四年(1561年)三月下旬、小早川隆景の実父である毛利元就と兄・隆元がこの新高山城を訪問し、数日間滞在しました。(『毛利元就父子雄高山行向滞留日記写』 小早川家文書)
 元就・隆元の滞在中、連日饗応が行われましたが、この石碑には閏三月二日に催された連歌の会の折に詠まれた歌が刻まれています。句の内容から、ここよりさらに上方の本丸内の建物で連歌が行われたと推測されます。
 
 若木より見ん世も久し花の春  元就
 霞の月にかはす松が枝   隆景
 山風はのどかなる夜の明けそめて  隆元


 新高山城16

 山城攻めには「想像力」(あるいは「妄想力」)がないと楽しめません。
 毛利元就、隆元、隆景親子が一堂に会した風景を脳内で蘇らせてみます(笑) 彼らはその折何を語らったのでしょうか。


 ちょうどこの匡真寺跡が中間地点くらいになります。(標高140m)
 新高山城縄張図


 匡真寺跡よりさらに山道を進みます。
 新高山城20


 山道の所々にあるベンチ。地元の方たちが用意してくださったようです。マメに休憩が取れますし、とても嬉しいご配慮です。(^ω^) 有難うございます。
  新高山城19

 

 ゴツゴツとした岩肌の斜面に沿って登っていくと。。。
 新高山城18

 
 「中の丸」の虎口へ。
 DSCF8607_20120412092017.jpg


 さすがにここまで来ると眺望も開けてきます。曇りがちの天気だったのが残念。
 DSCF8609.jpg


 中の丸の案内板
 新高山城21

 
 中の丸より西の丸方面を眺める。中の丸より東側に本丸が、西側に西の丸・北の丸があります。
 土塁も設けられていますので、よく見てみましょう。
 DSCF8638.jpg


 この後、いよいよ本丸へ進みます。
                                            つづく


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A☆六文銭

Author:A☆六文銭
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日本100名城完全制覇と有名人の墓めぐり(掃苔)
日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

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