スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

豊烈神社 附・水野三郎右衛門銅像

 山形城址(霞城公園)の東側に、最後の山形藩主・水野氏を祀る豊烈神社があります。
 豊烈神社

 
 鳥居をくぐってすぐ右方に、水野家家老・水野三郎右衛門元宣の銅像が佇んでいます。
  水野元宣銅像

 戊辰戦争の折、山形藩〈水野氏)は当初官軍方に与しますが、官軍側参謀・世良修蔵の横暴さに憤慨した仙台、米沢の両藩の呼びかけに応じ、東北各藩とともに奥羽列藩同盟を結成し、官軍に抗することになりました。
 しかし、時経たずして同盟側の各藩が降伏するに及び、山形藩も後追いせざるを得ない状況に陥ります。折悪しく、藩主は江戸滞在で留守、山形藩の命運は若干27歳の家老・水野三郎衛門の肩にかかっていました。
 三郎右衛門は「山形藩の責任はすべて自分一人にあり、他の者には寛容の御処置を」との嘆願書を提出し、敗戦の責任を一身に背負い、長源寺の庭で処刑されました。
 三郎右衛門の死により、山形藩は戦火を免れ、後の人々は山形を救った人として彼を顕彰し、豊烈神社に合祀された他、明治34年には銅像が建てられました。第二次世界大戦時に銅像は金属回収のため供出されてしまい、現在のものは戦後再建された二代目だということです。
 
 「最上義光」歴史館の脇に、水野三郎右衛門邸跡の碑がひっそりとありました。
 水野元宣邸跡

 幕末の山形藩は5万石という小藩で、実質石高はこれよりさらに少なかったといいます。ですから、お城ばかりが大きい反面、他藩のように洋式兵制も編成できず、苦しい状況下に置かれていたことが窺えます。
 水野三郎右衛門の死は、維新期における小藩の悲劇ということが言えると思います。
 なお、山形市内にある長源寺というところに彼のお墓があると聞きましたが、今回は時間がなくて参詣できませんでした。



 いつもご覧いただき、どうも有難うございます。
人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ 
スポンサーサイト

テーマ : 歴史・文化にふれる旅
ジャンル : 旅行

又蔵の火

 鶴岡公園(鶴ヶ岡城)の南西にある曹洞宗の古刹・総穏寺。(鶴岡市陽光町5-2)
 文化8年(1811年)、この寺の境内で、とある仇討事件がおこりました。
総穏寺2

 放蕩者で一族の鼻つまみ者として座敷牢に入れられていた土屋万次郎という男が、血のつながらない甥の丑蔵に斬られ命を落とします。
 その後、万次郎の弟の虎松(又蔵)が兄・万次郎の仇を討つべく、この寺の境内で丑蔵と壮絶な斬り合いを演じました。
 結果、両者力尽き、刺し違って(相打ち)終わりました。
 寺の境内には、虎松と丑蔵の銅像が建てられています。
  総穏寺3

 この実話をもとに、藤沢周平が短編小説で書いています。

  
又蔵の火 (文春文庫)又蔵の火 (文春文庫)
(2006/04)
藤沢 周平

商品詳細を見る


 帰宅してから読んでみたのですが、少々理解しがたいというか、読みづらい話ではありました。
 土屋万次郎と男はかなりの遊び人で座敷牢に入れられるくらいの放蕩者であり、第三者からみれば「一族の面汚し」として始末されても仕方がないように思われるのですが、弟の虎松(又蔵)にしてみれば、いくらだらしない兄であっても“肉親の情”とでもいいますか割り切れない思いがあり、むざむざと兄を殺されたという憤怒の情に突き動かされ、兄を討った親族の丑蔵を仇として斬り合いを挑むのです。
 結果、両者相打ちで果てたので、なんとも救いようのない話ではあります。「仇討ち」話の割に、読後感はあまりスッキリしませんでした。

 自分は気づかなかったのですが、境内の脇の墓地に虎松・丑蔵両名の墓があったみたいです。なお、寺には両名の刀も残されているそうです。
 
 小説『又蔵の火』の案内板。藤沢周平が直木賞を受賞する前後に書いた初期の作品です。
  総穏寺1


 以上で鶴岡の旅は終わりです。もう少し要領よく、サクサク書けるとよかったんですが。
 終始雨に見舞われたのが残念でした。もう少し時間的余裕があれば、城下町を散策したかったのですが、また次回再訪の折の課題にしたいと思います。

 今回はこの後、山形、米沢方面へ行くため、往復の便宜上山形新幹線で行ったのですが、鶴岡へは新潟経由の日本海側を通るルートをとった方が若干早く到着できるように思いました。
 
                               つづく


 いつもご覧いただき、どうも有難うございます。
人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ 

テーマ : 国内、史跡・名勝巡り
ジャンル : 旅行

酒井家墓所/学校給食発祥の地

 鶴岡公園(鶴ヶ岡城址)の南西方向に大督寺(鶴岡市家中新町19-12)という浄土宗の寺があります。
大督寺2


 この寺は庄内藩主・酒井家の菩提寺ということで歴代藩主の墓があると聞いて参詣に来たのですが・・・。


 残念ながら廟所は非公開でした。ガッカリ(´;ω;`) 墓域は高い塀で囲まれ、外部から見えないようになっております。
 仕方がないので、廟所の門だけ撮影しました。
 門の隙間からは立派な墓碑が数基見えました。
大督寺3


 ところで、このお寺は藩主の菩提寺というだけでなく、「学校給食発祥の地」としても有名なんです。
 明治5年(1872年)より学制が発布されましたが、明治22年(1889年)鶴岡の各宗派の寺院が協力して、この大督寺の境内の一部に私立「忠愛学校」が設立されました。
 当時、貧しい家の子供たちが多く、弁当を持ってこれない者のために無償で昼食を供したのが始まりということです。ちなみに当時のメニューは塩むすびに干物、漬物が提供されたそうです。現在の学校給食はかなりバラエティにとんだ内容だそうですが、それに比べるととてもシンプル?な食事内容ですね(笑)
 私も現地へ来て初めてこの事実を知りましたが、当時意識の高い大人たちが鶴岡にいたという事に感銘を受けました。
   大督寺4


 先日紹介した藤沢周平の歴史小説『義民が駆ける』の舞台ともなっており、門前にその案内板がありました。
 この界隈は昔は藩士の住居地域だったようです。
 過去記事⇒藤沢周平記念館 

 大督寺1


                    つづく


 いつもご覧いただき、どうも有難うございます。
人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ 

テーマ : 国内、史跡・名勝巡り
ジャンル : 旅行

致道博物館 (山形緊急城攻め 六)

 鶴岡公園の道路を挟んだ西隣に、市内の古い建築物を集めた「致道博物館」があります。この地はもともと、庄内藩の御用屋敷でした。
 レトロな建物好きな方にはおススメのスポット。鶴岡は戦災による被害がなかったようで、こうした貴重な建物が残ったようです。
 

 旧鶴岡警察署庁舎  明治17年(1884年)
 大工棟梁・高橋兼吉設計による“擬洋風建築”の建物 初代県令・三島通庸の命により建てられた木造入母屋造 白亜三層の独特な形態をしています。国重要文化財    ※内部見学不可
旧鶴岡警察署庁舎


 御隠殿  文久3年(1863年)
 庄内藩第十一代・酒井忠発の隠居所として建てられました。現在は玄関と奥の座敷が残っています。
 内部は“庄内竿”や魚拓などの展示品がありました。
御隠殿1


 奥の座敷関雎堂)は、「能」を演じるためにきれいな床板が張られ、床下には音響をよくするために大きな甕が並び据えられていたといいます。
 この座敷からは庭園を眺めることが出来ます。
 なお、座敷から続く茶室(この日は入れなかった)では映画「蝉しぐれ」のロケが行われました。
   御隠殿2


 酒井氏庭園(国名勝)
 趣のある築山林泉庭園。作庭年代、作庭者は不明ながら、東北地方の数少ない大名庭園として貴重
 江戸時代の雰囲気をたたえています。
酒井氏庭園


 赤門
 御隠殿に付随する門であったといいます。隠居所の主である酒井忠発の夫人が田安徳川家の姫君だったため、門を赤く塗ったらしいです。
御隠殿赤門



 旧渋谷家住宅 文政5年(1822年)
 鶴岡から南東へ約25キロ、湯殿山麓にある豪雪地帯、田麦俣にあった民家の建物を移築復元したもの。
 撮影する角度が悪くて下の写真だとわかりませんが、左側面方向から見ると茅葺屋根が「兜」のように見えることから別名「兜造り」 上階では養蚕が行われていたようです。降雪に対応するために高天井と高窓を設けています。国重要文化財
 映画「蝉しぐれ」のロケが行われました。
旧渋谷家住宅


 旧西川田郡役所  明治11年(1878年)
 大工棟梁 高橋兼吉と石井竹次郎による設計・施工 バルコニー、時計塔がついた木造2階両翼1階建てで高さ20m、ルネッサンス様式をとりいれた貴重な擬洋風建築です。
 明治天皇が東北御巡幸の折りには御宿舎となった由緒ある建物。内部は幕末維新関係の展示室になっています。
 国重要文化財
旧西田川郡役所


 ※なお、致道博物館や藤沢周平記念館ではビニール傘を貸し出してくださり、大変助かりました。観光客への行き届いた配慮が嬉しいです。
 
 以上で雨天の中、城址の周辺の観光を終えました。続いて恒例の墓参です。
 (多忙により、次回更新は週明けの予定)


   
蝉しぐれ プレミアム・エディション [DVD]蝉しぐれ プレミアム・エディション [DVD]
(2006/04/14)
市川染五郎(七代目)、木村佳乃 他

商品詳細を見る




 いつもご覧いただき、どうも有難うございます。
人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ 

テーマ : 国内、史跡・名勝巡り
ジャンル : 旅行

藩校 致道館 (山形緊急城攻め 五)

 庄内藩第九代・酒井忠徳は財政改革と士風刷新を図り、藩政を立て直すためには人材の育成が不可欠だとして、寛政12年(1800年)藩校の設立を命じました。
 備前岡山藩の「閑谷学校」の得ずを借り、城下北西の大宝寺に起工。文化2年(1805年)に「致道館」の扁額を掲げ、祭酒(校長)に白井矢太夫が就任し、開校されました。
 当時、幕府は「朱子学」を正学とし、各藩でもこれに随っていましたが、致道館では朱子学ではなく政治のあり方を重視した徂徠学を教学とし、自学と討論を重んじ、各自の長所、可能性を伸ばすことに主眼をおく教育方針だったといいます。
 現在は当時の敷地の半分程度の規模になっておりますが、東北地方に残る唯一の藩校として、江戸時代の姿を今に伝えています。
 
  標柱
致道館5


 表門
致道館6


聖廟  毎月2月と8月に孔子を祀る行事「釋奠(せきてん)」が行われました。
致道館3


講堂
致道館4


「致道館」の扁額
致道館1

御入の間  藩の会議などで藩主や家老が入った部屋。幕末に戊辰戦争に敗れた庄内藩が、官軍参謀・黒田清隆を迎えて降伏謝罪したところで、後年三島通庸が県令室として使っていたといいます。
致道館2


                            つづく


 ※所用により、2~3日お休みさせていただきます。


いつもご覧いただき、どうも有難うございます。
人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ 

テーマ : 国内、史跡・名勝巡り
ジャンル : 旅行

標茶町郷土館/釧路集治監本部跡

 昨日のエントリーで展望台から眺めた塘路湖の湖畔に、洒落た洋風の建物があります。外壁はあわいブルーで塗られています。
 標茶町郷土館です。
 標茶町郷土館1

 その外観から、昔この辺のお金持ちでも住んでいたような建物に思えますが、実はこれ、明治時代の釧路集治監(刑務所の前身)の本館として使用されていたのだそうです。建物は明治19年に建てられたそうで、昭和61年に元あった場所から塘路湖畔に移築復元されたということです。
 現在は標茶町の歴史を辿る資料館になっております。
 
 中へ入ってみますと、いきなり廊下に大木をくり貫いて造ったような小舟がありました。塘路湖で使用されていたんですかねえ?
 標茶町郷土館5

 そして、やっぱり生き物の剥製が・・・。今回の旅ではあちらこちらで剥製を見ましたが、ちょっともうおなか一杯という感じです。。。
 その他、ある部屋にはドアを開けた途端、部屋中昆虫の標本が飾ってあって、私は虫が苦手なので入らずにすぐドアを閉めてしまいました。。。
 標茶町郷土館2

 二階の出窓のある部屋。釧路集治監の歴史に関する展示室になっていました。
 釧路集治監に収容されていた囚人たちは、鉱山で硫黄採掘にあたったり、硫黄を運搬する釧路鉄道や道路の敷設、以前紹介した太田屯田兵村の建設など、厳しい労役を課せられていました。
 厳しい環境で重労働に従事させられていたため、囚人らは次々と病に倒れ、死亡する者が後を絶たなかったそうです。
 集治監には殺人犯など重罪人が多く収容されていたそうですが、彼らの犠牲によって北海道の開拓は進んだのでした。
 なお、大津事件でロシア皇帝・ニコライ2世を襲った犯人である津田三蔵もここで労役に服していたそうです。
      標茶町郷土館3

 建物の模型。その他、郷土館にはアイヌ関係の資料や、古道具等の民俗資料が多く収蔵されていました。(すべて撮影OKだそうです)
 標茶町郷土館4

 郷土館に隣接して、塘路駅逓の建物がありました。もともとは漁業番屋で、明治28年(1895年)頃から昭和3年(1928年)まで駅逓として使用されていました。その前に見た奥行臼の駅逓よりも粗末な造りでした。
 塘路駅逓


 郷土館の学芸員さんに聞いたところ、ここから約20キロ北上した標茶町にある標茶高校の敷地に、集治監の建物がもう一軒残っているといわれました。
 よく聞くと、標茶高校の敷地が元集治監の跡地なのだそうです。
 高校へ電話してみると、職員の方が出られ、見学OKということなので車を走らせて行ってみることに。

 標茶高校へ着きました。高校としてはかなり広い敷地でした。なお、明治18年(1885年)に設置された釧路集治監は明治34年(1901年)には廃止(機能を網走へ移転→網走刑務所の設置)され、跡地には軍馬補充部川上支部が置かれたそうです。
 標茶高校4

 高校の職員の方の案内で、集治監の書庫として使用されていた建物を見学させていただけました。
 前日、高校は夏休みに入ったばかりで生徒さんの姿はなく、ご迷惑がかからなくて幸いでした。
 標茶高校1

 現在、この建物は標茶高校の記念館として使用されています。
 一階部分には、軍馬補充部時代のものと思われる鞍などの道具が置かれていました。
 標茶高校2
 
 二階部分は標茶高校の歴史を辿る写真などの資料が展示されていました。
 標茶高校3


 親切に対応していただいた職員の方にお礼を言って辞去しました。そろそろ、帰りの飛行機に乗る時間が近づいています。あと二回くらいで北海道の旅は終わりです。
 長くなってスミマセン~。
 
 
   にほんブログ村 旅行ブログ 日本一周へ 人気ブログランキングへ 

テーマ : 北海道旅行
ジャンル : 旅行

釧路の町に「お城」発見!? (゜д゜;)

釧路市内で車を走らせていたところ、突然「お城」らしき建物が目に入りました。
 鳥取神社1

 どうしてこんなところに三層の櫓が???と不思議に思ったので、入ってみることに。



 実は・・・。





 この建物はある神社の施設でした。




 鳥取神社は、明治維新後、旧鳥取藩士が北海道へ移住する際、明治24年(1891年)に出雲大社より大国主神を拝請し、創建されたということです。
 上のお城のような建物は鳥取城を模して建てられた「鳥取百年資料館」といい、受付へ行ってみたところ、内部を見学させていただけました(無料)。 
 中の展示室には、旧鳥取藩ゆかりの甲冑、武具などの展示や、旧鳥取士族の北海道移住の歴史が紹介されていました。
 鳥取藩は江戸時代を通して池田家が治めていましたが、幕末の頃は勤皇側についております。
 何故なら、12代藩主・池田慶徳(1837~1877年)は水戸斉昭の息子で、徳川慶喜の異母兄だったからです。戊辰戦争では東北へ向けて出兵もしています。

 しかし、維新後やはり藩士たちは俸禄を失い、新天地を求めて北海道移住を考えたのでしょう。彼らはこの神社がある場所の周辺に移住し、「鳥取村」と名付けました。
 資料館の展示を拝見したところ、彼らは片時も離れざるをえなかった故郷・鳥取のことを忘れなかったようで、鳥取の郷土芸能である「麒麟獅子舞」や「鳥取傘踊り」の伝承にも力を注いでいるそうです。
 なお、日本三大仇討ちの内、有名な「伊賀の仇討ち」で、姉婿である荒木又右衛門の助勢を得て弟の仇を討ち、めでたく本懐を遂げた渡辺数馬のご子孫も、この時北海道へ移住しているということです。
   鳥取神社2


 「鳥取村」は後に「鳥取町」となり、戦後になって釧路市と市町村合併しました。現在も地名として「鳥取」の文字が残っています。
 鳥取神社4

 なお、敷地の奥手にはちゃんとお社もありました(当然ですね・・・)
 鳥取神社3

 厚岸の町に続き、釧路の町にも「もののふ」の足跡を見てとることができました。厚岸に移住した旧米沢藩は幕府方だったのに対し、鳥取藩は官軍方でしたが、維新後は同じ北海道へ移住しているというのが歴史の「あや」といったところでしょうか。

 参考サイト 鳥取神社ホームページ
 

   にほんブログ村 旅行ブログ 日本一周へ 人気ブログランキングへ 

テーマ : 北海道旅行
ジャンル : 旅行

奥行臼駅(廃駅)

 奥行臼駅逓の管理人さんにお礼を言って辞去し、目の前の道(道道930号線)を200Mくらい南下しますと、そこには古びた駅舎がありました。
 「奥行臼駅」です。
 奥行臼駅9
 奥行臼駅4

 案内板によると、昭和8年(1933年)、厚床ー別海間が開通する同時に奥行臼駅は旅客駅として設置されたそうです。
 この地域の産業、生活、文化の発展に長らく大きな役割を果たしてきましたが、時代の趨勢により、国鉄からJRへの移行後の平成元年(1889年)4月29日標津線は廃止となり、それに伴って奥行臼駅も廃駅となりました。
 奥行臼駅3

 駅舎は外から見学するのみかと思いましたが、カギが開いていたので、中へ入ってみました。入ってすぐ左に小さなカウンターが。ガラス窓の上方に、「JR」の緑のロゴがあります。
   奥行臼駅7

 ガラス越しに駅事務所を見てみます。廃業当時のまま、机、黒電話、金庫、地球儀?、カレンダーなどが置かれています。
 奥行臼駅5

 当時の運賃表。
 奥行臼駅6

 待合室。古い映画などに出てきそうな、昭和30年代くらいの雰囲気ですね。
 奥行臼駅10

 プラットホームに出てみます。別海方面を眺める。電信柱が斜めっています。
 奥行臼駅1

 反対側の厚床方面側。
 奥行臼駅2


 奥行臼駅8

  廃駅になって二十数年の月日が流れましたが、こうして眺めていると、もう二度と使われることはないのに、今にも列車が線路の向こうからやってきそうな気がします。

 道道930号線の真向かいには、旧村営軌道風連線奥行臼停留所の跡があります。ここで国鉄と接続していたわけですね。
 昭和38年(1963年)~39年(1964年)にかけて道開発事業として敷設されたそうです。
 物資の輸送や地域住民の唯一の交通手段としての役割を担っていましたが、やはり自動車の普及などで昭和46年(1971年)に廃止されてしまいました。
 旧別海村営軌道風連線奥行臼停留所1

 手前に転車台。向こう側には当時使われていた電車と貨物車が展示してありました。
 旧別海村営軌道風連線奥行臼停留所2


 奥行臼駅逓、および奥行臼の駅舎ですが、普通なら取り壊されてもおかしくないのに、こうして町の歴史遺産として大事に保存しようとする別海町の人々の心意気が伝わってきました。
 ちょっと寄り道だったかもしれませんが、小さな町の近代化の足跡を辿り、かつ、つかの間古きよき時代のノスタルジーに包まれる、そんな場所でした。

    
より大きな地図で 奥行臼駅 を表示


   よろしければ、こちらへクリックお願いいたします☆
  にほんブログ村 旅行ブログ 日本一周へ 人気ブログランキングへ  

テーマ : 北海道旅行
ジャンル : 旅行

ブログランキング
「もののふの心」および歴史的遺産を後世に伝えましょう♪
うさぎ
  ↓ ↓ ↓ ↓
人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
カレンダー
05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
カテゴリ
ご注意 ごくたまに、「城」「史跡」「お墓」等の話題が、ドラマ関連やその他のカテゴリとして登録されている場合があります。
月別アーカイブ
最新コメント
FC2カウンター
おきてがみ
お気軽にどうぞ(お返事が遅くなる場合があります)
プロフィール

A☆六文銭

Author:A☆六文銭
ブログテーマ
日本100名城完全制覇と有名人の墓めぐり(掃苔)
日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

★当ブログ内の文章、写真等はすべて無断転載禁止です。宜しくお願いします。
★当方と連絡を取りたい方は、下部メールフォームからお願いします。(ご感想はなるべくコメント欄のほうにお願いします)
※Twitter、Facebookはやってません。

最新記事
おすすめ書籍
リンク
RSSリンクの表示
検索フォーム
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。