小谷城に続いて、姉川の合戦について書こうと思っていたのですが、どうしても夜はワールドカップの試合をついつい見てしまい、書くのが遅れております。
(当ブログを初めて約3ヶ月になりますが、ちょくちょく同じ方が見に来てくださっているようでどうも有難うございます。続きは少々お待ちください)
さて、今日ヤフーのニュースを見ていましたら、トップにこんな記事がきていました。
秀頼と淀殿が自刃、「山里丸」の遺構見つかる
大坂夏の陣(1615年)で、豊臣秀吉の子・秀頼とその母・淀殿が自刃した場所とされる大坂城(大阪市中央区)の区画「山里丸(やまざとまる)」とみられる遺構の一部が、大阪市博物館協会大阪文化財研究所の調査で初めて出土した。
地表から約4メートルの深さに埋もれ、落城時の火災を示す焼土層が積もっていることが確認された。
山里丸は、秀吉が千利休らと茶会を催した茶室などがあったとされる。遺構は、南北に延びる石組み溝(幅35センチ)で、長さ6メートル分を確認。溝の側面には高さ35センチ、長さ50センチ、幅20センチの石が並び、底には平らな石などが敷いてあった。中から見つかった陶磁器から、年代を特定した。
焼土層は厚さ50センチ。焼けて変形した瓦も大量に出土した。溝は、徳川幕府が1624年に始めた城の再築で埋められたとみられる。
(読売新聞 6月26日付)

大坂城といえば、
豊臣秀吉が築いた天下の名城だったわけですが、彼の死後、城の主となったのは
側室・淀殿と彼女が生んだ秀吉の子・
秀頼でした。
しかし、ご承知のとおり秀吉の死後、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利を収め、徳川の天下となって、やがては大坂の陣によって秀頼・淀殿母子は滅ぼされてしまいます。
浅井長政とお市の方との間に出来た三人の娘のうち、長女の茶々(淀殿)だけが唯一、両親と同じ運命をたどりました。
茶々は小谷城、お市が再嫁した柴田勝家の北の庄城、そして大坂城と
三回落城を経験しています。

大坂夏の陣で、ついに徳川の軍勢に城を囲まれて最期の時がやってきたとき、淀殿、秀頼、そして側近の者たちがこの山里丸付近にあった土倉の中にいて、自刃するとほぼ同時に土倉に仕掛けた爆薬に火がつけられ、爆風と共に吹っ飛んだということです。
今回発掘していたのは、この最期の地の碑がある西側のようですね。
先週、用事があって大阪城の側まで行っていたので、この発掘の件を知っていたなら現場を見てくればよかったとちょっと後悔です。
来年の大河ドラマは茶々の妹であるお江がヒロインだということですが、私個人はやっぱり最上のヒロインこそは姉の淀殿の方だと思います。
七歳位の時に叔父・織田信長によって家を滅ぼされ、お市と共に三姉妹を引き取ってくれた義父・柴田勝家もまた豊臣秀吉によって滅ぼされてしまいました。
その彼女が、どういう心持で親の敵ともいえる秀吉に身を任せたのか、不思議なところではあります。
天下人・秀吉の子を生んで、一度は栄華を極めたものの、その最期はまたも落城の炎の中にありました。まさに波乱万丈の一生だったといえます。
茶々の実情を伝える史料というのはほとんどないのですが、想像をたくましくすると、常に彼女を支えていたものは人一倍強いプライドだったであろうと思います。
その驕慢なプライドが邪魔して、結果的に豊臣家を滅亡させ、自らは悲劇の最期を迎えるのですが、それは七歳のときに経験した
小谷城の落城という辛い記憶の裏返しであったのではないかとも思えるのです。
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