スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

いよいよ、世界文化遺産正式登録へ!富岡製糸場(後)

 すみません。10日くらい前に主人の家族に不幸があったり、仕事が押してしまい、更新ができませんでした。


 繰糸場 (重要文化財)
 富岡a

 「繰糸場」は、繭から生糸を取る作業が行われていた場所です。操業当時はフランス式の繰糸器300釜が設置されていたとのこと。※現在は昭和40年代に設置された自動繰糸機が保存
 富岡b
 繰糸場は内部を一部見学できます。建物は「トラス構造」という建築工法で建てられました。3年前の東日本大震災でもびくともしなかったとか。上方には採光のためガラス窓が多く設置されていますが、そのうち地震で割れたのはたった2枚だけだったそうです。

  横田英
  上の写真の女性は富岡製糸場で工女として働き、後に富岡製糸場での日々を綴った『富岡日記』を著した和田英(旧姓・横田)です。彼女は松代藩真田家の家臣の娘でした。長野市松代町に生家が残っています。当時、工女となった女性は和田英のように、士族の娘も少なくなかったそうです。

 ブリュナ館(重要文化財)
富岡c
 製糸場の指導者として雇われたフランス人「ポール・ブリュナ」が家族と暮らしていた住居。高床で回廊風のベランダがある洒落た洋館ですね。
 内部見学不可ですが、床下には建設当時造られた煉瓦造りのワインセラーがあるそうです。戦時中は防空壕代わりに使用されていたと、最近放映されたNHK「歴史秘話ヒストリア」でやっていました。


 女工館(重要文化財)
 富岡d
 日本人工女に、器械による糸取の技術を指導するために雇われたフランス人女性教師のための住居。
 フランス人女性教師ですが、日本の気候に体質が合わず、病気になったりして早期帰国してしまったそうです。。。


 検査人館(重要文化財)
 富岡h
 生糸の検査を担当したフランス人男性技術者のための住居。
 2階には、皇族や政府の役人が訪れた際に使用された「貴賓室」が当時の状態であるそうですが、現在は事務所として使用されており、内部見学不可。

 乾燥場
 富岡e
 大量に買い入れた繭を乾燥させていた場所だったそうですが。。。
 今年2月の大雪で、倒壊してしまい、ぺしゃんこに・・・(泣) いずれ復元する予定とのこと。


 煙突
 富岡f


 西繭倉庫(重要文化財)
 富岡g
 東繭倉庫と同規模。

 
 さて、来る6月20日~21日に、現在中東カタールの首都ドーハで開催中のユネスコ世界遺産委員会で富岡製糸場の世界文化遺産への登録が正式に決まる見通しとなっています。
 以上見てきたように、歴史的建造物として高い価値があり、保存状態も良好な富岡製糸場ですが、まだ一般公開されている範囲も狭く、登録後も色々とクリアすべき課題も少なくないでしょう。
 このほか、同時登録予定の、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の内「荒船風穴」、「高山社跡」、「田島弥平旧宅」の三か所へもぜひ足を運んでみたいと思います。
 

 【参考図書】
 
富岡製糸場と絹産業遺産群 (ベスト新書)富岡製糸場と絹産業遺産群 (ベスト新書)
(2014/03/08)
今井 幹夫

商品詳細を見る
 

 
富岡日記 (《大人の本棚》)富岡日記 (《大人の本棚》)
(2011/02/18)
和田 英

商品詳細を見る



 

 いつも有難うございます
 人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ 
スポンサーサイト

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【祝・世界文化遺産登録内定】富岡製糸場(前)

 すでに大きく報道されたためご存じの方も多いと思いますが、ユネスコの「世界文化遺産」登録が内定した群馬県富岡市にある、「富岡製糸場」へ行ってきました。
 実はかなり前から一度行ってみたいと思っていたんですが、なかなか機会がなく、今回やっと行くことができました。

 富岡製糸場は明治5年(1872年)、明治政府が近代化政策の一環として、最初に設置した官営模範器械製糸場です。
 当時、生糸は我が国の重要輸出品目であり、同製糸場は生糸の質と量の向上のため、殖産工業振興に大きく貢献しました。
 時代の趨勢と共に、生糸産業は斜陽となり、昭和62年に操業を停止しますが、最後のオーナーだった片倉工業の当時の社長さんが、この施設の保存を決め、毎年約1億円をかけて大切に管理してきました。その後、平成17年(2005年)土地と建物が富岡市へ寄贈され、現在に至ります。

 数年前から富岡市はユネスコの世界文化遺産への登録を推進してきましたが、今年4月、ユネスコ諮問機関の国際記念物遺跡会議(イコモス)が、本県の「富岡製糸場と絹産業遺産群」について世界文化遺産への「登録」を勧告し、今月15日、カタールの首都ドーハで開かれるユネスコ世界遺産委員会で、登録が正式決定する見通しとなっています。
 関係者の話によると、こんなに早くイコモスの勧告がなされるとは思わなかったそうで、予想外のスピード登録ということで地元では喜びの声にわいています。

 富岡製糸場正面入り口  
 富岡1
 
  富岡10


  オープン前30分には到着しましたが、すでに長蛇の列ができていて、驚きました。
 富岡2


 敷地面積 53,738平方メートル(16,255坪)かなり広いです!ただ、現在のところ、見学者が立ち入れるところはまだ限定的です。
 富岡9


 午前9時30分に開門。入場料を支払い、中へ。希望者はガイドツアーの解説を聞くことができます。
 現在、入場者数がうなぎ登りで、ガイドさんの数を増やして対応しているそうです。


 まず正面にある「東繭倉庫」 赤レンガが印象的な2階建て建物です。木の骨組みに、壁に煉瓦を積み入れて造る「木骨煉瓦造」で建てられました。煉瓦という西洋の新しい材料を取り入れながら、屋根は伝統的な日本瓦で葺くなど、日本と西洋の建築技術の融合が見られます。
 1階は事務所、作業場として使用され、2階には乾燥させた繭を貯蔵していました。
 隣町の甘楽町の瓦職人が試行錯誤しながら焼いたというレンガ。2011年3月の大震災ではびくともしなかったとか。
 富岡4

  東繭倉庫入口。アーチ型入口の上方を見てみると。。。
 富岡3


  「明治五年」のプレート。歴史を感じます。
 富岡5


 建物の1階内部は公開されており、展示室と土産スペースがあります。
 富岡7

  繰糸器の復元機 日によっては、当時の作業のデモンストレーションも見ることが出来るらしいです。
 富岡6



 東繭倉庫の右手手前にある石碑。明治6年(1873年)、明治天皇御嫡母・英照皇太后と明治天皇皇后・昭憲皇太后が行啓されましたが、その70年後の昭和18年(1943年)に記念碑が建てられました。
 昭憲皇太后はその折、「いと車とくもめぐりて大御代の 富をたすくる道ひらけつつ 」という御歌を詠まれました。
 富岡8


   写真が多いので、後篇に続きます。。。


 <参考図書>
 
富岡製糸場と絹産業遺産群 (ベスト新書)富岡製糸場と絹産業遺産群 (ベスト新書)
(2014/03/08)
今井 幹夫

商品詳細を見る



 いつも有難うございます
 人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ  

善光寺と池波正太郎が愛した宿(閉店)

 長野市立博物館で真田関係の展示を見てから、バスに乗ってJR長野駅へ戻りました。
 すでに夕方でしたが、帰りの新幹線までにまだかなり時間があったので、主人が
 「ここまで来たから、善光寺へお参りしてこうか」
というので、長野駅前からレトロ調のバスへ乗り、善光寺へ。10分弱くらいで門前町へ到着です。
 びんずる号


 バスを降りて、門前をぷらぷら。この辺りは飲食店や土産店等があり、善光寺参りの人々を迎えます。

 善光寺へ向かう向かって左側の道なりに、あるレトロな二階建ての建物があります。

 ここは、かつて「五明館」という旅館があって、作家・池波正太郎お気に入りの宿でした。
 五明館は江戸時代は脇本陣を務めていたという老舗でした。
 五明館


 先日記事でも書きましたが、初期の頃の池波は松代藩家老、恩田木工を主人公とした『真田騒動』という小説を上梓してから、「真田もの」と呼ばれる歴史小説を書きつづけ、小説の取材等でたびたび信州を訪れていました。
 その折、たまたま「五明館」へ宿泊し、寝具が清潔だったことや、女中さんが親切だったことで、すっかりこの宿を気に入ってしまいます。このことは、『よい匂いのする一夜』というエッセー集の中でも池波は書いています。

よい匂いのする一夜 東日本編 (コロナ・ブックス)よい匂いのする一夜 東日本編 (コロナ・ブックス)
(1998/04)
池波 正太郎

商品詳細を見る

 

 その後、五明館は旅館をやめて、レストランを経営していました。
 前回、善光寺へお参りしたとき(5年くらい前)は営業していたのですが。。。その時は時間がなくて、「次回来たら入店してみよう」と華麗?にスルーしてしまったのです。

 そしたら、なんと今回通りがかったら、すでに閉店していました。
 あーあ、残念。前回、寄っておけばよかったなあと後悔しきり。

 帰宅してからネットで調べたら、3年前の大震災で客足が激減し、閉店を余儀なくされてしまったようです。
 
 このように、池波が愛した店や宿は現在では閉店、廃業してしまったところも少なくないです。
 (私が新婚の頃、主人と泊まったやはり池波の愛した某宿も最近倒産してしまったと聞きました)

 
 善光寺

 気を取り直して、善光寺へ。こちらはもう説明するまでもなく、信州の名刹です。
 初めてお参りしたのは、大学生の頃。ゼミで長野県へ実習へ来た帰りに寄ったので、もう20年近く前です。
 最近では、たしか5年前くらい?に来たのかな。かなりご無沙汰でした。
 昨年は主人の身内の者が急死してから、あまり良いことがなかったので、主人もみ仏におすがりして、平穏無事を祈りたかったみたいです。
 

 お参りをすませ、帰路につくと辺りはすっかり暮れていました。しかし、この時間でもまだ寺へお参りする人たちがけっこういました。

 長野駅行きバス停の前に、レトロな建物がありました。先ほど記した「五明館」の道路を挟んだ目の前です。
  
  「藤屋」という、やはりこちらも老舗の旅館だったのですが、最近では結婚式等のパーティースペースとして営業しているようです。
  藤屋1

 ちょっと中を覗いてみたかったのですが、あいにく結婚式で全館貸切とのことで入れず。

 よく見たら、半地下に喫茶店がありました。バス待ちで体が冷えてきてしまっていたので寄っていくことにしました。
 藤屋2

 
 お店の内部はやはりレトロな感じ。半地下なので、「隠れ家」といった印象です。
 ここで、ケーキセット(チーズケーキ&コーヒー)を頼みました。チーズケーキは濃厚な味で、おいしかったです。
 藤屋3

 
 この後、長野新幹線に乗り帰京しました。

 年末から松代のことを書きつづっていましたが、昨年秋の松代行きは以上です。

 

 
 いつも有難うございます。
 人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ  

テーマ : 歴史・文化にふれる旅
ジャンル : 旅行

「マッカーサー記念室」見学

 先週のことになりますが、東京日比谷にあるDNタワー21内の第一生命本社にて、「マッカーサー記念室」が期間限定で一般公開されると聞き、見学に行ってきました。

 皇居を望むお堀端にあった旧第一生命館は、敗戦後の昭和20年(1945年)9月、聯合国軍に接収されました。同館の社長室は、聯合国軍総司令官・ダグラス・マッカーサー(1880~1964年)が執務室として使用することになりました。
 第一生命ではその後、マッカーサーの執務室を「マッカーサー記念室」として現在まで保存してきました。

 実は、この記念室は以前は一般公開されていましたが、2001年9月にアメリカでおきた911同時多発テロの影響で、現在まで非公開になっていました。
 私は5,6年前にそれと知らずに第一生命本社に問い合わせしたところ、「テロの危険性があるため、“記念室は”無期限で非公開としております」と広報の人に言われました。
「それはわかるのですが、私は御社の保険商品にもう十数年以上加入しているので身元は確かだと思うんですが・・・」と食い下がったのですが、やはり見学不可と言われ、諦めたのが思い出されます。

 今回の一般公開は同社が今年の9月に創立110周年を迎えること、この7月にGHQより返還されてから60周年の節目の年ということで、実施の運びとなったものです。

 前置きはこれくらいにして、「マッカーサー記念室」を見てみることにしましょう。

 朝10時半から公開というので、それに合わせて出かけていったところ、もうすでに早朝から並んでいた人が多数いたとかで、同館1階の受付で整理券を配っていました。
 無常にも「午後1時50分」の部になってしまい・・・いったん自宅へ帰り、再度出直す羽目に。二度手間になってしまいました。
 社員の方に聞いたところ、NHKやフジテレビのニュースで紹介されたため、予想以上の人出になってしまったと言っていました。


 戦前からこの場所にある第一生命ですが、平成5年に建物が改修され、新たに「DNタワー21」として再出発しました。
 聯合国側は接収時に本部として利用すべく、皇居付近のいくつかのビルをリストアップしていたようですが、最終的に第一生命館がマッカーサーの目に留まりました。聯合国が利用しようとしていたビルは空襲対象から外していた節がみられます。
 同館では「日本国憲法」の元となった「GHQ草案」が作られるなど、占領支配の舞台となりました。

 DNタワー21a


 1Fホールでは「第一生命の歩み」についてパネル展示がされていました。
 DNタワー21b


 「マッカーサー記念室」見学はキャパや警備の都合上、一日200人限定でした。
 整理券に記された午後1時50分に一階ホールに並び、順番に6階の記念室へ案内されました。

 記念室の広さは約54平米。周囲の壁はアメリカ産くるみの木で出来ており、床は寄木細工となっています。
 マッカーサーは即断即決の人で、仕事を持ち越さないために、あえて引出のないこの机を用いていたといわれています。
マッカーサー記念室5


 マッカーサーが座った椅子。以前一般公開されていた際、見学者がやたら腰掛けようとするのでご覧の通り傷みが激しくなってしまいました。
 今回もペタペタ触る人がいて、警備員さんに注意されていました。 
  マッカーサー記念室1

 
 マッカーサーの胸像
   マッカーサー胸像


 英国人画家・オルドリッジが描いたヨットの絵。マッカーサーはヨット好きだったため、執務室に2枚ヨットの絵を飾っていました。
  マッカーサー記念室2
  マッカーサー記念室7


 マッカーサーが座右の銘としていた「青春の詩」(サミュエル・ウルマン作)の碑
  マッカーサー記念室3


 ドアを隔てた隣室は第一生命創業期関係の資料室になっていましたが、時間が無くなってしまい、あまり見れませんでした(泣)
  マッカーサー記念室6


 第一生命館玄関前で撮影されたマッカーサーの写真(1946年1月1日)
  マッカーサー記念室4

 
 
 見学できたのはわずか15分程度でしたが、なんとか写真を撮影することができました。
 この日は平日だったせいか、見学者のほとんどが「団塊の世代」以上とみられるご年配の方でした。終戦時まだ幼い子供だったか、あるいはマッカーサーが駐留中に生まれた人たちという感じです。
 
 皇居周辺の一等地は土地の有効活用のため、古い建物というのはすぐ取り壊されてしまいほとんど残っていないのが現状ですが、同社のように一部ではありますが、我が国の歴史の一時期を偲ばせる場所をこのように保存してくださったことには敬意を表したいと思います。
 歴史を感じさせる現場というのは、そこに存在するだけで、見る者に無言の語りかけをしてきます。
 ですから、歴史的建造物の所有者の方は、後世の人々のためにも、なるべく保存していただけますようお願い申し上げます。

 それにしても、GHQの占領政策というのは、現在までも我が国のあり方に多大な影響を及ぼしていると思います。
 最近、滋賀県大津市でいじめ問題が発覚しましたが、問題視されている教育委員会も実はマッカーサーの「置き土産」なんですね。(教育委員会はマッカーサーが想起したような民主的なシステムにならずに、その後形骸化してしまった)
 憲法にせよ、教育委員会にせよ、GHQの置き土産が21世紀の我が国において行きづまりの様相を呈していることを思うにつけ、複雑な思いで同館を後にしました。


参考サイト  マッカーサー記念室(第一生命HP内


 
拝啓マッカーサー元帥様―占領下の日本人の手紙 (岩波現代文庫)拝啓マッカーサー元帥様―占領下の日本人の手紙 (岩波現代文庫)
(2002/06/14)
袖井 林二郎

商品詳細を見る


 この本は学生時代に中公文庫版で読みました。
 マッカーサーが駐留時、多くの日本人がマッカーサーへ宛てて手紙を書きました。著者によれば、その数推定50万通!といわれ、その大半がマッカーサーへ好意的な内容だったといい、彼は気に入った手紙は手元に残していたそうです。現在でも手紙はマッカーサー記念館等で保存されているということです。
 占領下の日本人が、新たな“支配者”としてやってきたマッカーサーや、かつての敵国であったアメリカに対して当時どういう印象を抱いていたかを解き明かした好著で、現在は岩波書店から復刊されています。

 
 
 いつもご覧いただき、どうも有難うございます。
人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ  

テーマ : 展示会、イベントの情報
ジャンル : 学問・文化・芸術

興光寺(官修墓地)

 つづき

 壬生城の西側300m、「蘭学通り」沿いに深度山興光寺(浄土宗)があります。(壬生町通町7-13)
 興光寺1

 もともと壬生城下には浄土宗の寺がなかったそうですが、三代将軍・徳川家光が死去し、遺骸を日光東照宮大猷院廟へ葬送するというので、徳川家の宗旨が浄土宗であることからわざわざ隣村の福和田から移転してきて、ここで家光の仮通夜が行われたといいます。
 ということで、山門の上部には葵紋が見られます。
 興光寺2


 寺の本堂の右手に広がる墓地内に、戊辰戦争で戦死した新政府軍の兵士を葬った官修墓地があります。
 慶應4年(1868年)4月、大鳥圭介率いる旧幕軍は壬生城を経て宇都宮入りを計画しましたが、藩論が勤王に傾いた壬生藩はこれを拒絶したため、やむなく壬生を避けて間道から合戦場宿へ迂回し、鹿沼から宇都宮城の占領に成功します。
 ちょうどその頃、新政府軍は壬生へ入っており、4月21日、姿川から壬生城北方の安塚宿の間で両者の激しい戦闘が行われました。当初旧幕軍が優勢だったものの、壬生城で苦戦の急報を得た河田左久馬は味方を大いに励まして陣頭指揮を執り、予備隊の砲撃も手伝って戦況は一変。旧幕軍は後退し、近隣の民家に火を放ち、西川田へと退却していきました。
 これを「安塚の戦い」といい、旧幕軍6,70名、新政府軍17名の死者を出しました。

 さて官修墓地ですが、墓石の一部が根こそぎ倒れていたりして少々荒れ果てていました。。。(´д`)
 壬生藩士1名、吹上藩士2名、因州藩士1名、土佐藩士7名、松本藩士2名、山国隊3名が祀られています。享年を見ると、10代、20代の若者が多く犠牲になっています。
 興光寺5

 墓石に「土佐」「土州」などの文字が見えます。国吉栄之進、武市権兵衛、半田擢吉の墓。このうち国吉は戦闘中重傷を負い、もはやこれまでと自刃したため、首級は興光寺へ送られ、胴体は安塚南端の地へ埋葬されました。
 興光寺3

 因州鳥取藩に帰属していた草莽の士・山国隊3名の墓。右側の新井兼吉は戦闘中行方不明となり、後に戦死と認定されましたが、昭和45年(1970年)になって山国護国神社によって墓が建てられました。
 昨年、鳥取市歴史博物館で「因州兵の戊辰戦争」という展示を見たので、何かの縁を感じました。
 興光寺4


 松本藩・尾花忠兵衛の墓は根こそぎ地面に倒れていました。昨年の大震災の影響でしょうか?
 興光寺7

 誰の墓がよくわかりませんでしたが、「慶應四」「四月」などの文字が刻まれていました。
 興光寺6


 戊辰戦争からかれこれ150年以上の月日が経過しているので墓石の磨耗などはやむをえないとは思いますが、それにしても墓石が地面に倒れてそのままであったり少々荒れており痛々しさを感じました。史跡指定を受けていないんでしょうか?
 できましたら、もう少し整備していただけます様お願い申し上げます。
 その他、同寺には「太田胃酸」の創業者の墓があるようでしたが、案内板などもなく、場所がわかりませんでした。

 壬生町にはこの他にも色々と史跡があるようでしたが、車で来ないと無理な場所にあるようでしたので、以上で今回の壬生町の史跡巡りは終了です。


  関連記事 因州兵の戊辰戦争(鳥取市歴史博物館)

 

 人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ 

テーマ : 国内、史跡・名勝巡り
ジャンル : 旅行

常楽寺(鳥居家・壬生家菩提所)

 つづき

 壬生城の北東200mくらいの所に、向陽山常楽寺(曹洞宗)があります。
 壬生城主・壬生胤業が寛正3年(1462年)に創建した寺院で、江戸時代には壬生藩鳥居家の菩提寺になりました。
 寺の敷地は割りと広く、山門の前に象の石像がありました(かわいい・・・)
 なお、同寺では鳥居家にまつわる歴史的資料が所蔵されており、つい最近、壬生城を詳細に描いた絵図が発見されました。
 常楽寺


 まず鳥居家累代の墓(壬生町指定史跡)に参詣。墓塔が一基だけでした。
 鳥居家の墓1

 墓石に刻まれた文字を読むと、昭和4年にご子孫の方が合葬墓にされたようです。
 なお、鳥居家の菩提寺ですが、江戸にも2箇所くらいあるようです。
  鳥居家の墓2


  壬生家歴代の墓。(壬生町指定史跡)
 「壬生城」の所でも述べましたが、壬生氏は小田原の陣で北条氏に与し、小田原開城後当主が跡継なくして急死したため、所領を没収され、没落しました。
 霊屋の中に五輪塔が3基、石塔が1基ありました。
 壬生家歴代の墓


 斎藤家歴代の墓(壬生町指定史跡)。斎藤家は壬生藩に仕えた医者の家系でした。
 二代・斎藤玄昌(1809~1872年)は蘭方医として活躍し、壬生ではじめて人体解剖や種痘を行い、かの二宮尊徳が晩年病に罹った時治療にあたったことで地元では有名だそうです。
 (どのお墓が玄昌のものかわかりませんでした)
 斎藤家歴代の墓



 関連記事 壬生城本丸御殿と徳川将軍家


                              つづく

 人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ 

テーマ : 国内、史跡・名勝巡り
ジャンル : 旅行

精忠神社

 つづき

 壬生城の北西隅に、壬生藩鳥居家の家祖・鳥居元忠を祀る「精忠神社」があります。(城址公園に隣接)
 精忠神社1


 鳥居元忠(1539~1600年)は徳川家康の幼少時から仕えた「股肱の臣」であり、関ヶ原合戦の前哨戦である伏見城の攻防戦では石田三成軍に攻められ、壮烈な最期を遂げた武将として有名です。
 家康の天下統一の過程で、いわば「捨石」にされたといっても過言ではないでしょう。
  鳥居元忠画像


 小さい社の裏手には、元忠が伏見城内で自害した時の「血染めの畳」が埋められたという「畳塚」があります。
 家康は元忠の「血染めの畳」を江戸城伏見櫓の階上に置き、登城した大名たちに元忠の精忠を偲ばせたといいます。
 明治維新の際、江戸城が開城された時に、「血染めの畳」は持ち出されて精忠神社隅へ埋められ、供養されました。
畳塚2(精忠神社)

 
  畳塚1(精忠神社)

 元忠の命日〈旧暦8月1日)には勇壮な武者行列が行われていましたが、昭和の初期頃廃れたそうです。
 なお、同神社では鳥居家ゆかりの品を所蔵しており、このうち「馬標」が歴史民俗資料館で展示されていました。

 
 人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ 

テーマ : 国内、史跡・名勝巡り
ジャンル : 旅行

旧阿部家丸山屋敷跡(文京区西片)を歩く

 つづき
 東京都文京区にある文京ふるさと歴史館で開催中の収蔵展「伯爵家のまちづくり~学者町・西片の誕生~」を見た後、少し時間がありましたので、展示のテーマでもある福山藩主・阿部家の中屋敷(通称・丸山屋敷)跡を散策することにしました。

 私は都心のある町で育ったのですが、小学4年くらいまで家の近所の寺や石碑等を見て歩くのが好きでした。(ただし、文京区ほど史跡などは多くありませんでした)でも、そんな遊び方をしている同級生は誰もおらず、けっこう孤独でした(笑)
 最近でこそ各地へ「遠征」していますが、こうした近隣の町歩きの延長線上にあるといっていいでしょう。

 旧阿部家の屋敷があった西片地区の案内図です。
 文京区西片7

 石坂(文京区西片1-3と14の間) 「町内より南の方本郷田町に下る坂あり、石坂と呼ぶ。』(新撰東京名所図会)」
 この坂を登った先に阿部家の中屋敷がありました。
 現在はほとんどが住宅地となっております。
 文京区西片8(石坂)


 明治以降、阿部家が土地を開発する上で目指したのは文化的な住宅地だったようです。現在でもしっかりした造りの戸建てのお宅が多く、モダンな建築で目を引く家や、戦前からの古い建物のお宅もあります。(個人のお宅様なので逐一紹介は控えます)
 古くから住んでいる方がいる一方で、近年の土地価格の高騰による相続税対策などで持ち主が変わっているところも少なくないと思います。
 文京区西片5


 西片公園。阿部屋敷のほぼ中央に位置しています。開発時に阿部家はここを公園として、地域の住民の憩いの場にしました。
 最近、子供が遊ぶ姿というのは都会ではめっきり見かけませんが、ここでは何人かの子供たちがドッジボールなどをして遊んでいました。
 文京区西片4(西片公園2)

 公園内にあった「大椎樹」の石碑。ここには江戸時代より大きな椎の木があって、丸山屋敷の目印となっており、水道橋辺りからも見えたそうです。残念ながら戦後の昭和23年頃枯れてしまい切られてしまいました。
 現在は地元の方たちによって新しい椎の木が植えられています。
 文京区西片3(西片公園1)


 西片町と森川町に架けられた陸橋「清水橋」。明治13年に架けられた初代の橋が老朽化したため、建築家・武田五一(1872~1938年)設計の新しい橋が架けられました。その時の設計図が展示されていました。
 武田五一は父親が福山藩士だったため、阿部家と親交があり、昭和2年に建てられた阿部家の新宅も彼の設計によるものです(現存せず)。
 現在の橋はさらに後年、架け替えられたものでしょう。
 文京区西片2


 清水橋の近所にあった駐車場ですが、後方が崖になっていて竹が少し生えています。この崖上がちょうど阿部家の屋敷となっていました。
 当時の雰囲気が少し感じられたので撮影。
 文京区西片1


  ***************************

 一方、丸山屋敷の崖下にはあの有名人が住んでいました。
 白山通りに面している文京区西片1-17-17付近。明治時代は「丸山福山町」と呼ばれていました。(福山藩にちなんだ町名と考えられます)
 ここに、夭折の女流作家・樋口一葉(1872~1896年)が亡くなるまでの約2年半を過ごした家がありました。
 現在は紳士服の“コナカ”が入っているビルの下に石碑があるのみですが、ここで「たけくらべ」「にごりえ」などの名作が生まれました。
 文京区西片6(樋口一葉終焉の地)

 一葉が遺した日記に、この家について記した箇所があります。
 
 家ハ本郷の丸山福山町とて阿部邸の山にそひてささやかなる上にたてたるが有けり守喜といひしうなぎやの離れ座敷成りしとてさのミふるくもあらず 家賃は月三円也。たかけれどもこことさだむ

 一葉の借家の隣家は「銘酒屋」という、私娼のいるいかがわしい飲食店でした。彼女はそこで働く娼婦に頼まれて、手紙の代筆をしたりしています。
 一葉の家は阿部邸下の崖沿いにあったわけですが、崖上はお屋敷、崖下のほうは庶民の町であったことがわかります。
 借家は6畳二間と4畳半一間の小さな家でしたが、庭に3坪くらいの池があり、これは阿部邸があった高台から染み出してくる清水を引いていました。この頃書かれた一葉の日記にはこの池にちなんで「水の上」と名付けられています。
 この家は一葉の死後も借家として使われ作家・森田草平などが住んでいましたが、明治43年8月の台風の時、崖崩れがあり倒壊してしまいました。
 現在でも石碑がある建物の裏手を隙間から覗くと、やはり崖になっています。
 

 この後、本郷の東京大学のある辺りを通って帰路につきました。もう少し丹念に歩くと、他にも丸山屋敷の痕跡が見つかるかもしれません。
 こういう町歩きも楽しく、時々散策していますが、何故ブログに書かないかというと、すでに江戸・東京の町歩きを扱った先行のHPやブログが多々あり、内容がかぶってしまうからです。
 都内は現在ではビルが立ち並んでいるばかりで、当時を偲ぶにはよほど想像力をたくましくしないといけません。
 今回は開催中の展示にちなんで、簡単ではありますが紹介してみました。

     
樋口一葉と歩く明治・東京 (Shotor Travel)樋口一葉と歩く明治・東京 (Shotor Travel)
(2004/11)
藤井 恵子

商品詳細を見る



 
  人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ 

テーマ : 日帰りお出かけ
ジャンル : 旅行

ブログランキング
「もののふの心」および歴史的遺産を後世に伝えましょう♪
うさぎ
  ↓ ↓ ↓ ↓
人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
カレンダー
03 | 2017/04 | 05
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -
カテゴリ
ご注意 ごくたまに、「城」「史跡」「お墓」等の話題が、ドラマ関連やその他のカテゴリとして登録されている場合があります。
月別アーカイブ
最新コメント
FC2カウンター
おきてがみ
お気軽にどうぞ(お返事が遅くなる場合があります)
プロフィール

A☆六文銭

Author:A☆六文銭
ブログテーマ
日本100名城完全制覇と有名人の墓めぐり(掃苔)
日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

★当ブログ内の文章、写真等はすべて無断転載禁止です。宜しくお願いします。
★当方と連絡を取りたい方は、下部メールフォームからお願いします。(ご感想はなるべくコメント欄のほうにお願いします)
※Twitter、Facebookはやってません。

最新記事
おすすめ書籍
リンク
RSSリンクの表示
検索フォーム
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。