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厚岸の町に「葵の御紋」を発見!?(`・ω・´)

 お供山のチャシを見学した後、厚岸の町に郷土資料館があるというので行ってみました。
 カーナビに住所を入れて、車を走らせ5分足らず。
 着いたのは、「旧国泰寺跡」という国指定史跡でした。どうやら、この辺り一帯はお寺さんの敷地なようです。
 旧国泰寺跡

 敷地を入るとすぐに青い屋根の厚岸町郷土館(厚岸郡厚岸町湾月町1丁目14番地 TEL0153-52-3794 月曜・祝祭日の翌日休)がありました。小さな町の資料館といった感じです。※なお、同館は11月16日~4月15日まで冬季閉館しています。
 厚岸町郷土館

 管理人さんは40台くらいの女性の方でしたが、愛想の良い親切な方でした。
 狭い館内には、国泰寺の関係資料や、アイヌに関する資料が展示してありました。とくに、国泰寺の初代~9代住職が綴った「日鑑記」と呼ばれる寺務日記を含むお寺の関係資料は国指定重要文化財となっているそうです。
 管理人さんいわく、たまに東京方面からもこの地へ訪ねてくる人がいるということでした。

 郷土館のすぐ脇に、木の棒のようなものが数本立てられたものがあります。「イナウ」?とか呼ばれる、アイヌの祭祀に欠かせない祭具の一つらしいです。
 今でもアイヌの子孫の方がここに来て、年1回祭祀を行っているそうです。
    イナウ

 管理人さんに隣接している「国泰寺」にお参りしていくことを勧められました。
 国泰寺(臨済宗)は文化元年(1804年)、ロシアの南下対策の一環として、東蝦夷の守備とアイヌの教化を目的に建てられました。

 山門は江戸時代のものだそうですが、傷みが激しく、倒壊の危険性があるため立入禁止でした。
 国泰寺1
 
 「徳川第十一代将軍家斉公開祖」の立板も。
    国泰寺2

 山門をくぐらずに脇道から入ることにします。山門の裏側からよく見ると、扉に徳川家の家紋である「三葉葵」の御紋が彫られています。
    国泰寺4
 
 これを見ると、国泰寺が江戸幕府の意向のもと建てられたことがわかります。正直、北海道の小さな町で葵の御紋を見るとはちょっとビックリです。
  国泰寺5

 本堂にお参りし、浄財を投じてきました。
 国泰寺3

 本堂の裏手には歴代住職の墓がありました。
 国泰寺歴代住職墓

 左から二番目にあったのが、国泰寺初代、文翁上人のお墓です。文翁は相模国津久井郡にある寺の住職でしたが、幕命により国泰寺の住職として厚岸へ赴任することになりました。
 文化二年(1805年)に文翁住職は三人の僧侶と共に厚岸に着きましたが、そのわずか2ヵ月後に急死してしまいます。この時の住職の年齢はわからないのですが、おそらく、あまりの寒さに耐えられなかったのでしょう。  合掌(-人-)
    国泰寺初代住職・文翁墓


 当時、ロシアの人々がちょくちょく北海道に渡ってきており、アイヌたちへロシア正教を布教していました。これに懸念をもった当時の箱館奉行が、ロシアに対抗すべく、とりあえず現地で宗教対策を施す必要があると考えて、特に幕府に願い出てお寺を築いたようです。ロシアが北海道を狙っていたのは、スターリンよりもはるか以前からだったということですね。
 幕府は国泰寺のほか、伊達市有珠に善光寺を、様似町(日高)に等澍院を設置し、これらは「蝦夷三官寺」といわれました。
 近年の「お人よし」な日本政府よりも、むしろ江戸幕府の方が対外政策については緊張感があったのではないでしょうか。

 
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納沙布岬より北方領土を望む(後)

 オンネモトチャシには人っ子一人いませんでしたが、納沙布岬の方には観光客がちゃんといました。
 旅番組や旅行雑誌などでもよく知られる納沙布岬の碑。ここでは、バイク乗りの方がここで記念撮影するのが恒例みたいで、皆さんこの碑のすぐ側にご自分のバイクを横付けしているのです。ただし、ここは撮影スポットなので、みんながそれをやられるとちょっと迷惑かも。
   納沙布岬1

 納沙布岬を散策してみます。
 納沙布岬2

 ふと目をやりますと、何やらのようなものが。「寛政の蜂起和人殉難墓碑」と記されています。
 案内板によりますと、寛政元年(1789年)5月、国後島およびメナシ(現在の標津町)にいたアイヌの人々が、当事この地域の場所請負人であった飛騨屋久兵衛の支配人らに脅され、わずかな報酬で労働を強いられたため、やむなく蜂起し、和人71人を殺害するという事件がおきました。
 このため、松前藩はノッカマップ(現・根室半島オホーツク海側)にアイヌの人々を集め、蜂起の指導者37人を処刑しました。(「寛政クナシリ・メナシ アイヌ蜂起」一件)
 明治45年(1912年)、この墓碑は納沙布岬から程近い珸瑤瑁の港に打ち上げられていたのが発見されました。墓碑に刻まれた文言によれば、墓碑が浜へ打ち上げられていたちょうど100年前の文化九年(1812年)に、アイヌに襲撃された和人の供養のため墓碑が造られたらしいのですが、誰が造り、どこに建てようとしたのか詳細は不明だということです。おそらく、海上輸送の途中に船が難破し、海中に没していたものと考えられるそうです。
 寛政の蜂起和人殉難墓碑


 「きぼうの鐘」 4島返還を祈りながら鳴らしてみましょう。
 きぼうの鐘

 「四島のかけ橋」 このモニュメントは4島の早期返還を祈念し、昭和56年(1981年)に造られたもの。
 四島のかけ橋

 最後に「平和の塔」という建物に入ってみました。(有料 大人900円) 戦後、「右翼」の大物であった故・笹川良一氏(元日本船舶振興会会長)によって建てられた高さ97Mの展望タワーです。
 朝8時30分~日没後15分後までオープンしていますので、時間のある方は美しい夕日が拝めるかもしれません。
 平和の塔

 最上階の展望室より。灯台や貝殻島方面を臨む。
 納沙布岬灯台2

 オンネモトチャシも遠望できました。
 オンネモトチャシ遠望

 
 納沙布岬にはかれこれ1時間半くらいいたのですが、夕刻に近づくにつれ風が強くなり、段々と肌寒くなってきました。私は春用のカーディガンを取り出して羽織っていましたが、雨や霧の日は気温が下がると思うので、夏場であっても何か一枚羽織物を持っていったほうがいいかもしれません。

                  つづく


 
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田本研造・・・土方歳三を撮った?男

 先日紹介した石川啄木の墓のすぐ近所に、幕末から明治へかけて函館で活躍したある写真師の墓があります。
田本研造の墓1

 その写真師の名は田本研造といいます。
 田本は天保3年(1832年)、紀州熊野の農家の長男として生まれます。本来なら家業を継ぐところ、志あってか長崎へ赴き、蘭医・吉雄圭斎の下僕として働きました。吉雄は銀板写真に造詣が深く、田本も吉雄の影響で西洋の写真術に興味を持ちます。
 その後、田本は函館へ渡り、ロシア人医師・ゼレンツキーの助手をしていましたが、35歳の時右足が凍傷にかかり、ゼレンツキーの執刀で右足を切断するという憂き目に遭います。片足をなくし、医師になる夢を諦めた田本は、ゼレンツキーが趣味でやっていた写真術を学びます。
 田本は慶応2年(1866年)頃から「音無榕山(おとなしようざん)」と号して、職業写真家として活動しはじめます。翌慶応3年(1867年)には同じく函館で写真師をしていた木津幸吉という人と共に松前へ渡り、福山城(松前城)や藩士らを撮影しました。

その後、世情は風雲急を告げ、函館・五稜郭には榎本武揚率いる旧幕府脱走軍がやってきます。その時、榎本たち幕僚の肖像写真を田本が撮影したといいます。
 takeaki enomoto

 そして、旧幕府軍の中で唯一戦死した土方歳三の有名な写真も田本が撮影したといわれてきました。洋装もよく似合い、目元涼しげな表情で写っているこの写真があったおかげで、今日でも女性を中心に土方人気は根強いものがあります。
 toshizo hijikata

 ただし、最近の研究だと榎本の写真のほうは田本が撮影したらしい(田本撮影との裏書があった)のですが、土方歳三の方は確証がないのだそうです。ですので、このエントリーのタイトルにも疑問符「?」をつけておきました。

 明治に入り、田本は不自由な身体でありながら、助手たちを従え、北海道の開拓写真を多数撮影しましたが、1873年のウィーン万国博覧会にも出品されたそうです。
 田本が撮った開拓時代の写真は今日でも開拓時代の貴重な史料として残されています。
 下の写真は田本の撮影スタジオがあったところです。(八幡坂付近)
 八幡坂

 晩年は後継者に写真館を任せ、悠々自適の生活を送り、一度も郷里へ帰ることなく大正元年(1912年)に81歳をもって他界しました。
 さて、田本のお墓ですが、それほど荒れてはいなかったのですが、東京工芸大学さんが建てたと思われる標柱がご覧のように倒れていて、そのままになっていました。もし縁者の方がおられましたら、ぜひ標柱をきちんと建て直していただければ・・・と願っています。
 田本研造の墓2


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tag : 有名人の墓(た行)

石川啄木の墓

 石川啄木(1886~1912年)の墓

石川啄木の墓3

 石川啄木は明治時代活躍した文化人で、詩、短歌、評論とマルチな才能があった人です。しかし、不遇にも彼は結核を病み、生涯を貧窮のうちに26歳という若さでこの世を去りました。
 あいにく、私は短歌や詩の世界にはうとく、高校のとき、現代国語で「一握の砂」などを読んだ程度の知識しかありません。

「はたらけどはたらけど 猶わが生活楽にならざり ぢつと手を見る」
 この歌などは現在でもあまりにも有名です。幸いなことに、私は今まで食べていくことには苦労したことはないんですが、「ぢつと手を見る」という箇所には何故か不思議な共感を覚えてしまいます。

 市電に乗り、終点の「谷地頭」という所で降りて、歩いて10分弱。立待岬の手前250Mの細い道沿いに啄木の墓はありました。
石川啄木の墓1
 墓には「東海の 小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」のプレートが埋めこまれています。

 啄木は肺結核のため、明治45年(1912年)4月に東京・小石川の自宅で亡くなります。浅草の寺で葬式もあげたのですが、東京の寺には葬られませんでした。
 それは、啄木が生前、「死ぬ時は凾館へ行つて死ぬ」と義弟で啄木のよき援助者であった宮崎郁雨へ書き送っていたからです。
 漂白の人・啄木が函館に暮らしたのは、明治40年(1907年)の5月~9月たった四ヶ月程度なのですが、この時の暮らしが啄木にとっては余程印象的だったのでしょうか。

 啄木の「遺言」に従って、妻の節子は亡き夫を函館に葬ってやりたいと考え、彼の遺骨は大正2年(1913年)に函館へ移されます。しかし啄木の墓を建てる金もなかったのでしょう。その直後、節子も病気のため亡くなりました。
 大正15年(1926年)になって、宮崎郁雨や函館図書館長岡田健蔵の尽力でこの地に啄木とその家族の墓が建てられました。なお、啄木の子供たちも皆夭折しています。この一家は蒲柳の質というか、短命だったようです。

 啄木の墓のある場所は津軽海峡が見渡せるとても眺めの良いところです。4年前にも函館市内の墓めぐりをしましたが、海を見渡せる場所に多くの墓が建てられています。
石川啄木の墓2

 啄木ですが、その生涯を通して仕事に恵まれなかったせいもあり、貧しい生活を強いられました。もっとも彼自身、だらしない性格の面が強かったようですが。
 しかし、啄木には何故か心優しい援助者がいて、彼が借金しても快く引き受けてくれる友人がいるんですね。先述した宮崎郁雨もそうですし、国語学者の金田一京助なども啄木の貴重な「金づる」でした。啄木はしばしば金田一に金の無心をし、人の良い金田一は自らの家財道具を質に入れてまでホイホイお金を提供してしまう。しかし、金田一が苦心して用立てたお金を啄木は遊興に費やしてしまったとか。おかげで金田一の奥さんは啄木のことを迷惑に思い、とても嫌っていたという話があります。
 これが現代でしたら、「ニート乙wwww」みたいに嘲笑、罵倒されるだけなんでしょうが、明治のあの頃というのは優しい人たちがいたもんですね(笑)
 
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tag : 有名人の墓(あ行)

松前崇広の墓

 松前藩主松前家墓所より、一人ご紹介します。

 第十二代藩主・松前崇広(1829~1866年)の墓
松前崇広の墓

 第九代藩主・松前章広の6男。嘉永2年(1849年)家督を相続する。同年、幕命により福山城(松前城)築城に着手する。
 文久3年(1863年)以降、寺社奉行、老中格、陸海軍惣奉行、陸海軍総裁、老中を歴任。外様大名からの老中就任は異例であった。(老中は通常、5万石以上の譜代大名から登用される)

 慶応元年(1865年)、英・米・仏・蘭公使が兵庫開港を要求したが、老中の阿部正外と崇広は勅許を得ずに独断で開港を決めた。このため、幕府内の攘夷派より突き上げられ、一橋慶喜からは朝廷へ訴えられた。将軍・徳川家茂はやむなく両名を罷免し、官位剥奪の上、国許謹慎を命じた。
 翌慶応2年(1866年)1月に崇広は松前へ戻り、城内の一室で謹慎生活を送るが熱病にかかり、同年4月38歳という若さで失意のうちにこの世を去った。

松前崇広肖像

 幕末史に関心のある方なら名前くらいはご存知かもしれません。上の肖像写真は第二次長州征伐の途上で撮影されたものです。正装し、自信に満ち溢れた表情をしています。
 若い頃より西洋通でもあり、外様大名ながら老中へ異例の抜擢をされたのも、ペリー来航以後の混乱する国情に対応するためと思われます。
 しかし、上にも書きましたように、時代の趨勢は崇広を長くは生きさせておきませんでした。彼もまた幕末維新の激動の中で一瞬のうちに政治の表舞台から姿を消したのです。上の写真を撮影してからわずか一年あまりで失脚、ほどなくして亡くなったことを考えると、運命の残酷さを思わずにはいられません。

関連記事 暴風雨に大苦戦 松前城


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テーマ : 歴史
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tag : 有名人の墓(ま行)

松前家墓所

 お城の北側に、法幢寺という曹洞宗のお寺があります。ここは松前藩主・松前家の菩提寺となっています。
 山門をくぐって左手のほうに土蔵造りのゆるやかな唐破風の車寄せがついた御霊屋がありました。藩主や奥方など一族の位牌が納められているそうです。内部は見られませんでしたが、松前藩家老で絵師としても名を馳せた蠣崎波響の描いた極彩色花鳥の画が描かれているそうです。
 松前家御霊屋1

 松前家の家紋である幸菱が彫られています。松前家は先祖が若狭の武田氏(清和源氏)で、室町時代に遠く蝦夷地へ流れてきたといいます。今年の大河ドラマ「江」で、浅井三姉妹の従姉にあたる京極竜子の前の旦那さんは武田元明といいましたが、彼は若狭武田氏の人ですね。ですから先祖を同じくする遠縁ということです。(過去記事「武田元明の墓」参照)もっとも、本当に武田氏の出なのかは確証はないようですが。
松前家御霊屋2


 寺の裏手の方には松前家の墓所があり、石廟が55基並んでいます。昭和56年(1981年)国史跡の指定を受けました。
松前家墓所1

 墓石は石造りの切妻屋根の覆屋で覆われています。冬に降雪で墓石が傷まないようにとの配慮からでしょうか。花崗岩で出来たものと、遠く越前から北前船で運んできた笏谷石で出来たものとがあります。
 江戸後期になると、墓石は越前で墓の形に加工され、そのまま運ばれてきたそうです。
松前家墓所2

 墓石を一人一人確認したいところですが、夕方しかも悪天候ということもあり薄暗くてよく見えません。(写真はかなり感度を上げて撮影していますが)靴は泥だらけにはなるし、また再訪したときにきちんと撮影しなおそうと思い、早々に退散しました。

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tag : 有名人の墓(ま行)

横山松三郎の墓

 つづき
 先日、東京両国にある江戸東京博物館の展示で見た横山松三郎(1838~1884年)という幕末~明治時代の写真師ですが、4年前に北海道・函館を旅行した際に、たまたま墓参りをしていました。
 横山は明治17年に東京で亡くなるのですが、故郷である函館の大龍寺に葬られました。ご子孫がおられるようで、墓参することが出来ました。

大龍寺


 お墓は寺の裏山にあり、海が臨める眺望の良いところにありました。(右側が横山の墓)
横山松三郎の墓

 横山は若い頃から肺病を患っていたらしいのですが、横山の弟子が書き残したものによると、亡くなる直前、自らの死期をさとった横山は函館へ帰って親族へ挨拶した後東京に戻り、弟子たちを集めて話をし、衣服を新しいものに改めて床に入り、そのまま静かに息を引き取ったそうです。享年47才。なお、東京の泉岳寺には弟子達によって彼の遺髪塚が造られたそうです。
 「幕末の三舟」のひとり山岡鉄舟の最期も見事だったそうですが、この時代の人は死に際まできっちりとしているというか心得がしっかりしていますね。

 4年前現地へ行った際、この人についてあまり詳細を知らなかったんですが、こうして全国を行脚していますと、後々振り返る機会もありますね。

 
より大きな地図で 大龍寺 を表示


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A☆六文銭

Author:A☆六文銭
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日本100名城完全制覇と有名人の墓めぐり(掃苔)
日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

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