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嗚呼壮烈!岩屋城(5)

 嗚呼壮烈!岩屋城(4) のつづき

 岩屋城の本丸跡を出て、北の方角へ山道を歩いていくと、古代の城、「大野城」の遺跡がある増長天地区へ至りました。
 発掘調査の結果、倉庫?らしき建物の礎石が出てきたそうです。
 
 大野城増長天地区

 
 礎石群を横目に見ながら、さらに歩いて行きますと、高橋紹運の辞世の句が刻まれた石碑がありました。

 「流れての末の世遠く埋もれぬ 名をや岩屋の苔の下水」 (『陰徳太平記』)
 高橋紹運辞世

 この付近に数台停められる駐車場がありますので、車で来る方は利用されるといいでしょう。

 
 辞世碑のすぐ側に、やはり「大野城口城門跡」がありました。人が多くてわかりずらいですが、ここに石垣と門の礎石があります。

 大宰府口城門跡2

 城門跡の左手下方3mくらいのところに、石垣のようなものがあります。
 この石垣?を「石こづんばば」といって、岩屋城落城にまつわる伝説があります。

 「岩屋城を取り囲んだ島津軍だったが、高橋勢の必死の応戦により味方に多数の死傷者を出し、攻めあぐねていた。
 そこで、城の水の道を断つことを思いつき、里の欲深い老婆に金を与えて水口を案内させた。さすがの高橋勢も水を断たれてしまい、ついに全員討死した。
 戦の後、水口を教えた老婆の噂は広まった。高橋紹運を慕っていた里人たちは怒り、裏切り者の老婆を捕えて水場の側へ連れていき、頭から大石小石を積み重ねて生き埋めにしてしまった」
 
 しかし、この石垣?は中世のものではなく、やはり大野城の石垣の一部だそうです。石垣の下にかすかな水の流れが今でもあるとのこと。
 大宰府口城門跡1


  大野城口城門跡を見学後、もと来た道を下っていきます。
  かなりの距離を歩いてきたにもかかわらず、皆さん疲れもみせず、お元気です。
  岩屋城4



 長かった岩屋城攻めですが、次回で終了です。



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嗚呼壮烈!岩屋城(4)

 嗚呼壮烈!岩屋城(3) のつづき


 実は、岩屋城の本丸のすぐ下あたりまでは車道が通っているので、車で行かれます。私が数年前、泣く泣く通り過ぎたのもここでした。
 この登り口から、本丸を目指します。

  岩屋城本丸1

 
 本丸への道は整備されていますので、麓から二の丸までの道よりは歩きやすいです。

 そして、やっとこ本丸跡へ到着しました。標高281m。車ではなく、自らの足でやってきたという達成感がありました。(なにせ、久しぶりの山城だったものですから)
  岩屋城本丸3


 本丸跡には、「嗚呼壮烈 岩屋城址」と刻まれた石碑があります。(戦後建てられたということです)
   岩屋城本丸4

 

 本丸跡は見晴しが良く、大宰府の町が一望できます。(しかし、この日は中国から大気汚染物質が到来しており、霞がかっていた)
 学芸員さんの話だと、下の写真で示しているあたりに島津軍が陣取っていたとか。兵の数、およそ4~5万だったそうですから、敵の大軍を目の当たりにした高橋紹運の心中いかばかりだったでしょうか。

 この時、紹運の実子である立花宗茂は父のもとへ急使を送り、岩屋城を出て、立花山城への移動を勧めたが、紹運は息子の勧めに従おうとはしませんでした。
 また、かねてから助勢を依頼していた豊臣秀吉の「軍峰」であった黒田如水(官兵衛)も使者を派遣し、一時避難を勧めました。しかし、紹運は「この城をわがと定め、討死する覚悟にございます。それがし、地下にて太閤殿下の御厚恩に報いましょう」といって丁重に断ったといいます。
 結局、紹運は如水へ申し送った通りの運命を辿りました。
  般若寺跡



 宝満城を眺める。戦に先立ち、紹運は宝満城に高橋家の後継ぎである二男の統増を入れていました。
 すなわち、紹運は自らが楯となる覚悟で籠城し、島津軍相手に徹底抗戦することで、宗茂・統増二人の息子を守ろうとしたのでした。
  宝満城


 
 いよいよ、お楽しみ。お弁当タイムです。しばし和むひとときですが、今回一人参加の私は黙々とおにぎりを食べました(泣)
 中にはわざわざ登山用のミニコンロを持参し、お湯を沸かしている方もいました。コーヒーか何か、温かい飲み物を入れるためでしょう。登城される折は、ぜひお弁当を持参されるようおすすめします。 
  岩屋城本丸2

 
 
 とりあえず、本丸を制覇しましたが、まだまだ続きます。



 
福岡県の名城 (アクロス福岡文化誌)福岡県の名城 (アクロス福岡文化誌)
(2013/04/10)
アクロス福岡文化誌編纂委員会

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嗚呼壮烈!岩屋城(2)

 嗚呼壮烈!岩屋城(1) のつづき

 高橋紹運首塚から北へやはり15分強歩いていくと、「観世音寺」(天台宗)という古刹がありました。
 大宰府政庁の東側に位置します。

 なんでも、中大兄皇子(後の天智天皇)が母・斉明天皇の菩提を弔うために発願したという寺院なのです(古!)
 完成をみたのは、80年後の聖武天皇の御世、天平18年(746年)だということです。往時は七堂伽藍を有する九州一の寺院だったそうですが。。。現在は江戸時代に再建された講堂と金堂があるのみです。

 お寺の由来はほどほどにして、「岩屋城」の戦いの折、この寺に島津軍が陣を置いたといいます。
 観世音寺

 
 寺の敷地内に、満開のコスモス畑がありました。心和む風景。。。
 観世音寺2



 寺の道を挟んだ北側に、観世音寺の鎮守である「日吉神社」があります。
 日吉神社

 九州を平定した豊臣秀吉が、帰路大宰府に立ち寄り、ここ日吉神社に陣を張りました。
 しかし、観世音寺の別当が秀吉のことをよく知らずに、輿に乗ったまま応対してしまい、この無礼な態度に激怒した秀吉は観世音寺の寺領100町のみ残し、残りはすべて没収してしまったといいます。


 観世音寺の裏手を歩いていると、「岩屋城址」が見えてきました。これから、あの山に登るのです!

 岩屋城址


 岩屋城のある四天王寺山の麓まで歩いてきました。(観世音寺から北へ600m付近)
 ここには、「推定金光寺」という中世の寺院跡があります。発掘調査をしたところ、建物の礎石や火葬場、墓地跡が見つかったとか。観世音寺の子院だったらしいですが、詳細はよくわからないようです。
 学芸員さんの話だと、子ども用下駄や女性の櫛や笄が発掘されたので、武士の居館だった可能性もあり、もしかしたら岩屋城の麓の居館がこの辺りにあったのでは??・・・という話でした。

 推定金光寺



 次回はいよいよ、岩屋城本丸を目指します。




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オノヨーコさんと柳川

 つづき
PB210227.jpg

 川下り結婚式の舟を見送った後も、私たちを乗せたどんこ舟はのんびりと進んでいったのですけれども、途中に水車みたいなのがありました。昔はこのような水車が各所にあったらしいですけれども今はここだけらしい。

 途中でまた別の会社の船乗り場があり、そこを通過した時にしつこく明太ちくわを勧められたので買いました。この乗り場では犬を飼っていて、またこの犬が人なつっこくて、尻尾を振り振り通過していく乗客にエサをねだっています。
PB210228.jpg

 舟を漕ぎながら、船頭さんが柳川の観光情報などを説明してくれるのですが、途中に故ジョン・レノン夫人のオノヨーコさんの祖父の生家という家の前を通過しました。ちょっと見にくいですが、木の向こう側にある屋根だけ見えている家がオノさんの祖父・小野英二郎氏(元日本興業銀行総裁 1864~1927年)が昔住んでいた家だということです。
(よく「オノヨーコ、生家、柳川」で検索してくる人がいますが、オノヨーコさん自身は東京生まれなので、柳川出身ではありません
PB210241.jpg

 調べてみると、オノヨーコさんのご先祖様は立花宗茂と、宗茂が関ヶ原で改易後に加藤清正に仕えた小野和泉守鎮幸という人です。小野氏は後に立花家が柳川に返り咲くと帰参して再び立花家家臣となっています。
 つまり、
      小野鎮幸
        |
        |
      (数代)
        |
      小野英二郎
        |
      小野英輔
        |
      オノヨーコ
 
 ということですね。
 オノさんといえば、「世界一有名な日本人」として知られます。その証拠として、彼女はツイッターをなさっているのですが、なんと116万人のフォロワーがいるのだとか!この年末も、大新聞に意見広告を出しておられましたが・・・。
 オノさんのルーツは柳川にあったのですね。


 【追記】
 先日、柳川を再訪する機会があり、柳川市教育委員会の方に問い合わせたところ、オノさんのご先祖様は柳川藩士ではありますが、小野(和泉守)鎮幸とはまた別の家系の小野家だということがわかりました。教育委員会の方のお話だと、世間で少々間違って伝えられているとのことでした。
 もちろん、小野鎮幸の系統もご子孫がいらっしゃるそうです。
 ここに上記の内容を訂正し、お詫びいたします。(2012年10月記)



 一方、オノさんの母方は有名な安田財閥の一族。オノさんの母方曽祖父は安田善次郎(安田財閥創始者 東京大学安田講堂を寄贈)です。母方の家系の方が一般的には有名ですね。
 オノヨーコさんの生き方を見ていると、あの御年の方としてはとてもパワフルに、アグレッシヴな人生を歩んでこられたように思うのですが、その芯の強さはやはり武家の血を引いているというところにあるのではなかろうか、と思いました。
 ワールドワイドに活躍されているオノヨーコさんですが、でももう先祖の土地である柳川を訪れる機会はなかなかなさそうですね。(ちょくちょく帰国はされているようですが)

 その他、柳川にゆかりのある人物として、船頭さんは俳優の妻夫木聡さんや、阪神タイガースの真弓明信監督の名を挙げていました。妻夫木さんは柳川市内で生まれたものの、小学生くらいの時に横浜へ引っ越してしまったのだそう。真弓監督は柳川商業(お堀端にありました)のOBということです。
 
 こうして舟はつつがなく進んでいき、御花の脇を通り過ぎて、あとちょっとで終点というところで、ちょっとしたアクシデントが発生してしまいました!(追記の開閉をクリックしてください↓↓↓)

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柳川お堀めぐり

 柳川は水郷の町でもあり、観光の目玉としてお堀めぐりが有名です。
 私も市街を歩いているときに、お堀めぐり中の渡し舟(「どんこ舟」と呼ぶらしい)を見つけました。
柳川お堀めぐり

 お城めぐり、お墓めぐりもいいのですが、やはりここまで来たらフツーの観光もしてみたいのが人情。
 その時、運よく近くに船乗り場を見つけましたので、すでに何人かの乗客を乗せて今にも漕ぎ出そうとしていた渡し舟に乗ることが出来ました。
 なお、船乗り場は市街に6箇所あって、それぞれ担当の運行業者さんが違うそうです。
 私が乗った舟の船頭さんは若い人で、まだ20代という話でした。
PB210215.jpg

 舟に乗ってすぐのところに、「柳川城堀水門」がありました。現地案内板によると、この水門は城内に入るための唯一の水門で、城の防禦のために築かれたということです。有事の際、この水門を閉め、矢部川の堤防を切り崩して水を入れると、城内、柳河、宮永を残して周辺は水浸しとなり、あたかも島のような状態になるということです。つまり、柳川城は水城ということですね。
 同様の水城には佐賀城(佐賀県)ですとか、小説「のぼうの城」で有名になった忍城(埼玉県)などがあります。
 柳川城堀水門1

 上から見た水門。
 柳川城堀水門2


 ここで舟はいったん元の船乗り場の方へ引き返し、ゆっくりと終点の御花方面を目指して進んでいきます。
 途中に出会った白鷺。人慣れしているのか動ずることなく水浴び中でした。のどかな風景です。その他、鴨や亀などにも遭遇しました。
 白鷺

 柳川のお堀ですが、かなり幅がありますね。ただし、この日は直近で雨の日が少なかったため、水量も少なかったです。
 PB210223.jpg

 その時、船頭さんの「前方をご覧ください。あちらから嫁入りの舟が来ましたよ!」との声。
 和装姿の花婿と花嫁、そして親族の方たちが乗った舟が近づいてきました。船頭さんによる寿ぎの唄?が聞こえてきます。澄みわたる秋の空のもと、嫁入り舟は御花方面からやってきたのでしょう。なかなか風流な結婚式ですね。

 新郎新婦は私と同世代かちょっと上くらい?にお見受けしましたが、落ち着いた大人のご夫婦といった雰囲気でした。お二人とも緊張した面持ちでしたが、こみ上げてくる喜びを噛みしめておいでのようでした。
 もちろん、同行している親族の方たちも一様に楽しげです。なんだかこちらまで幸せを分けてもらったような、そんな感じでした。
 「袖振り合うも多生の縁」と昔から申します。こちらの舟とすれ違いざま、私たちは「おめでとうございます!」と手を振って、祝福させていただきました。
PB210225.jpg

                     つづく


 関連記事 ぐるっと松江「堀川めぐり」


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柳川城

 柳川城址
  柳川城天守跡1


 福岡県柳川行きの続きです。どうも大河ドラマの話が入ったりして中断してすみません。今度はお城の話です。
 柳川にももちろんお城はありました。柳川城です。永禄年間(1558~1570年)に蒲池城の支城として蒲池治久によって築かれたといいます。この蒲池という一族ですが、鎌倉時代以来の名族でしたが、戦国時代に没落してしまいます。なお、知っている人は知っているのですが、柳川城を築いた蒲池治久は歌手の松田聖子さんのご先祖様にあたります。

 その後、天正15(1587)年の豊臣秀吉による九州平定により、13万2000石で立花宗茂に与えられます。
 ところが、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで宗茂は西軍に属して戦ったため、死は免れたものの、領地を没収されてしまいます。後に入ったのが田中吉政(後述します)で、この時に近世城郭として整備され、五重の天守閣が築かれたということです。
 田中吉政の死後、息子の忠政が後を継ぎますが後嗣が無かったため改易され、元の柳川城主だった立花宗茂が11万9000石をもって再入封し、以後明治維新に至るまで十一代に渡り在城しました。

 残念ながらお城の方は明治維新後の明治5年に火事で焼失し、当時を偲ばせるものは一部の石垣以外何も残っていませんでした。城跡は現在、柳城中学校の敷地になっています。

 この角度から見ると天守台とわかる形状が残っています。
  柳川城天守跡2

 天守台に登ってみましたが、ただの広場に・・・後ろに柳城中学校の校舎があります。
  柳川城天守3

 現地案内板。
   PB210287.jpg

 昔の柳川城を描いた絵図(案内板より拡大)。
  柳川城古絵図

 田中吉政によって築かれた五重の天守の古写真(案内板より拡大)。もし残っていたら、貴重な現存天守になったことでしょう。
  柳川城天守古写真

 学校の脇の小道より石垣を見る。明治7(1874)年におきた台風による水害で、有明海の海岸堤防を築くためにお城の石垣が転用されてしまい、残っているのはわずかにこの箇所だけなんだとか。
   柳川城石垣


 さすがに、一般の観光客もここまでは来ないようで、日曜日で学生さん達も休みということもあり城址には誰の姿も見えませんでした…。


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日本100名城完全制覇と有名人の墓めぐり(掃苔)
日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

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