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出雲阿国の墓

 今回、はるばる出雲へやってきましたが、墓参りも忘れずに・・・。

 出雲大社バスターミナルから西の稲佐の浜へと延びる道は「出雲阿国の道」と呼ばれています。
 歩いて5分くらいのところに、歌舞伎の創始者「出雲阿国」の墓があります。
 下の写真は道沿いにある墓への入り口で、車が5台くらい停められる駐車スペースもあります。
 出雲阿国の墓1

 
 太鼓原墓地の中に阿国の墓があります。
 
 阿国は出雲の鍛冶職人・中村三右衛門の娘。出雲大社の巫女となり、文禄年間(1592~96年)本殿修理費勧進のため諸国を巡っていた際、その踊りが各地で評判になったといわれています。当時の古記録に、「ややこ踊り」を披露したという記事が見られます。
 そして、関ケ原合戦後の慶長8年(1603年)春、阿国は北野天満宮にて興業を行いますが、男装して茶屋遊びに高じる「伊達男」を演じ、これが京中で評判を呼びます。5月には御所でも披露し、四条河原などでも興業を行って、阿国の名声は一気に高まります。この阿国の新しい踊りを人々は「歌舞伎踊り」と呼びました。
 その後、慶長12年(1607年)江戸城にて勧進歌舞伎を上演しましたが、その後阿国は表舞台から姿を消します。
 阿国が始めた「歌舞伎踊り」はやがて遊女らが真似て踊るようになり、これが風紀を乱すとして江戸幕府から禁止されてしまいます。このため、歌舞伎は男性によって演じられるようになり、「野郎歌舞伎」と呼ばれ、現在に至っています。

 晩年の阿国は故郷出雲へ帰り、尼となって「智月」と号し、読経と連歌三昧の日々を送ったといわれています。

 墓石にはご覧のように、ヒビが入っていて、400年の歳月を感じます。
 出雲阿国の墓2

 
 阿国の墓の周囲には、阿国にまつわるスポットがいくつかありますので巡ってみます。
 阿国の道



 墓地からみて道を挟んだ北側の出雲大社寄りに「阿国寺 連歌庵」があります。

 阿国が尼となり余生を送った庵ですが、もとは中村町にありましたが火事に遭い焼失。その後再建されますが、2代目の建物は明治4年の廃仏毀釈で取り壊され、現在のものは昭和11年「劇祖阿国会」による再々建だそうです。
 復元された建物ではありますが、慎ましやかに晩年を過ごした彼女の姿が目に浮かぶようです。 
 連歌庵

 
 お墓より西方に3,4分歩いたところに「安養寺」という寺があります。
 ここには阿国所縁の持仏や遺品である鏡などが納められ、毎年供養が行われているということです。
(中は拝観できなかった)
 安養寺

 
 阿国の墓の北西に、「奉納山公園」という場所があります。
 奉納山公園

 
 公園の入り口の階段脇に「出雲阿国終焉の地」の石碑があります。書は2代目中村鴈治郎の揮毫によるもの。
 歌舞伎俳優4代目坂田藤十郎さん、女優・中村玉緒さんのお父さんですね。
 阿国終焉の地


 石段を登っていった先に、阿国塔があります。
 昭和11年、歌舞伎界の名門、中村・市川両家をはじめ、水谷八重子など当時の名優たちの寄付によって建てられました。現在の塔は、昭和43年に再建されたもの。塔の周囲には再建時に寄付したと思われる歌舞伎界の名優たちのお名前がずらりと刻まれていました。
阿国塔2

 
 塔の裏には阿国のレリーフが。阿国の若かりし日の姿を映し出しています。
 戦国時代の終焉にふさわしい一瞬の煌めきを見せた女性でした。
 阿国塔1



  
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城主・清水宗治の死・・・備中高松城(三)

 つづき

 羽柴秀吉による鮮やかな水攻めに、毛利方の城主・清水宗治以下5000人が籠る備中高松城は孤立しますが、水面下で秀吉方も毛利方も互いに「落としどころ」を探っていました。
 そのさなか、6月2日未明、京の本能寺にて織田信長が明智光秀に討たれるという大事件がおこります。(「本能寺の変」)
 信長の悲報を知った秀吉は主君の弔い合戦に臨むため大至急京へ引き返すことを決意。毛利方に悟られぬよう、早急に和議を成立させるべく、城主・清水宗治の切腹をもって城兵の命は助けるとし、毛利方もこれを受け入れます。従来、宗治の切腹は毛利方の使者・安国寺恵瓊が関与していたとされてきましたが、実のところは城兵の命を救うために宗治自身が申し出たようです。

   清水宗治

 
 6月4日、家臣らと別れの宴を開いた後、秀吉が差し向けた小舟に乗った宗治は秀吉の本陣の近くまで漕ぎ寄せ、
「川舟を とめて逢瀬の浪枕 浮き世の夢を見習はしの 驚かぬ身ぞはかなき」
という「誓願寺」の曲舞を謡い、舞ったといいます。そして、
 「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」
 の辞世をしたため、切腹しました。享年46歳。宗治の兄・月清入道と二、三の家臣も後を追いました。

 宗治主従を介錯した家臣・国府市之允は主人の首を秀吉方の検視役・堀尾吉晴に渡すと、首なき遺骸と共に城へ帰り、池ノ下丸に穴を掘り遺骸を葬ると、自らその場で首を掻き切って殉死したといいます。
 宗治の胴塚は城址公園の駐車場の西50M付近の民家の中にあります。
清水宗治胴塚


 駐車場に面した道路沿いに「清水宗治自刃の地」の標柱がありますので、この先へ歩いて行ってみます。
  清水宗治自刃ノ地1

 
 「星友寺」(日蓮宗)というお寺がありますが、ここにはかつて三の丸の総門があったそうです。
 水攻め後、高松城を預かった宇喜多氏の家臣・花房氏がこの寺を建立しました。
高松城総門跡

 
 星友寺のすぐ東隣に、「清水宗治自刃の地」の供養塔がありました。
 ここにはかつて妙玄寺という寺があり、その庭地に築いたそうです。現在、寺は廃寺?になっている模様。
 古い地図には位牌堂もあるように書かれていますが、そのようなものは見当たらず、隣の星友寺さんにお聞きしたところ、別の寺に移されたのでは?というような話をされていました。
清水宗治自刃ノ地2

 
 星友寺の真向かいにある「ごうやぶ」(真ん中の木が植わっているところ)
 清水宗治の切腹を前に、宗治の兄・月清入道の馬の口取をしていた与十郎と、宗治の草履取りの七郎次郎が「我らもお伴つかまつる」と互いに差し違えた場所だといいます。
 このほかにも、宗治に殉死した者が続いたといいますので、宗治は家臣たちから慕われていたことがわかります。
ごうやぶ


                   つづく

  
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ある新選組隊士の墓

 足守の陣屋町の後、近くの古戦場に行ったのですが、その前にひとつ書き忘れていたことがありました。

 足守に、ある新選組の隊士だった人の墓があると聞いて、新選組大好きっ子(?)の主人と共に行ってきました。
 情報が少なく、地元の方に道を聞いて、やっと寺へ辿りつきました。

 旧足守藩士で、のちに新選組に入隊し、最後は箱館まで行った隊士に「安富才輔(才助とも)」という人がいます。
 
 その安富才輔の墓があるという田上寺(たがみでら)。
 地元の方に行き方を教わり、少々迷いながらたどり着く。足守陣屋の西、住宅地の裏手のわかりにくい場所にありました。住職がいない、いわゆる無住の寺だとか。
 小さなお堂?のようなものがあり、その裏手に新旧様々の墓がありました。
  田上寺

 
 安富の墓もお堂の右手の隅っこ、竹やぶを背後にした見落としそうな場所にひっそりとありました。主人と手分けして探して、私が先に見つけました。(^ω^)
  安富才輔の墓2


 安富才輔は足守藩の下級藩士でしたが、元治元年の新選組が隊士を募集した際に採用され、勘定方(会計)を務めていたといいます。
 その後、新選組が京を追われた後は副長であった土方歳三らと共に箱館まで転戦。
 土方歳三が戦死すると、東京・日野にある土方の実家へ宛てて、「早き瀬に力足らぬと下り鮎」との追悼の句を添え、訃報を知らせる手紙を送ったそうです。
 榎本武揚率いる箱館政権が官軍に降伏した後、才輔も拘束された後弘前の寺へ送られ、しばらく軟禁生活を送っていました。
 その後、身柄は故郷足守へ送られ、謹慎を仰せつけられ、失意のうちに明治6年(1873年)に35歳で亡くなりました。
 才輔の最後については、昔ある作家が「東京で暗殺された」という物語を書いたため、長らく一般的には暗殺されたものと思われていましたが、新選組研究家のあさくらゆうさんという方が古文書等を調査し、その後足守に墓があることを突き止め、才輔は故郷で短い一生を終えたことが明らかになったそうです。


 才輔の墓は妻との「夫婦墓」になっていました。没年を見ると、奥さんが先に文久3年(1863年)に亡くなっているので、おそらく奥さんの死が契機となって、何らかの志をもって新選組隊士募集に応募したものと思われました。
 墓の傍らには、あさくらさんが墓を発見した当時の新聞記事が貼ってある立て板がありました。
  安富才輔の墓1

 
 安富才輔のみならず、生き残った新選組隊士は新政府に遠慮して、明治の世の中をひっそりと隠れるように生きていかざるをえませんでした。
 明治も後半になって、やっと新選組の存在が顧みられるようになったようです。
 それにしても、墓を発見した研究家の方はよくここがわかったなあと感心しました。以前は墓が竹藪に覆われていたそうです。
 地元の方にうかがったところ、最近新選組ファンとおぼしき人がときどき墓参りに来ているとのことでした。

 小さな墓の向こうに、激動の幕末維新を生きた無名の人物の人生がおぼろげに見えてくるように思えました。(-人-)


 この後は近くの古戦場&お城へ・・・。


 関連記事 総司忌2011
  
 
 
 ※参考文献
 
 新選組関連の史跡巡りにかなり役立ちます↓↓↓

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  田上寺 ※足守陣屋の西、歩いて10分弱くらいのところにあります。
  
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陣屋町・足守をゆく3(木下家菩提寺・大光寺)

 つづき

 前からお読みいただいている方はご存じだと思いますが、旅に出るごとに、時間の許す限り全国各藩大名家の菩提寺巡りをしております。

 足守陣屋の南西、歩いて10分弱くらいのところに足守藩主木下家の菩提寺「大光寺」があります。
 第三代藩主・木下利當(としまさ)が創建した臨済宗のお寺です。
大光寺1

 山門をくぐり、参道を進みます。秋になると境内の紅葉が見事と伺いました・・・。
 奥の方に方丈がありましたが中へ呼びかけても返答なし。
 それもそのはずで、前の住職さんが逝去されてから現在は無住となっており、前住職の身内の方が法事の時だけ余所から来られていると地元の方が言っていました。
  大光寺3

 本堂の南側に木下家代々のお位牌を祀った霊廟があります。
 資料によると、正面に豊臣秀吉と北政所夫妻の霊牌をまつり、その左右に木下家歴代藩主の霊牌が安置されているといいます。
 久しく無住のせいか、草が生え放題で、屋根瓦しか見えません。
 大光寺霊廟


  屋根瓦をよく見ると、やはりここにも豊臣家から賜った「五七の桐」紋がありました。
  大光寺2


 本堂の右手奥の竹藪の中を抜けていくと、木下家の墓所がありました。
 古いもの、新しいものとありましたが、古いものは墓石の文字が摩耗してしまっており判読しづらい。
 資料によると、六代藩主・木下きん定(※「きん」は「八」の下に「白」)、七代藩主利潔(としきよ)、十代藩主利徽(としよし)その他夫人、子供などの墓計三十基、二十二基の石造燈籠があります。
 藩主とその家族の一段下には、「杉原姓」の墓があって、おそらく家老の家のお墓だろうと思いました。
 なお、「白樺派」の歌人であった木下利玄の墓もあったようですが、現地にいるとき気が付きませんでした。
木下家墓所(大光寺)


 当然のことながらやぶ蚊が襲来し、気を付けてはいたのですが手の甲など数か所刺されてしまい、早々に引き揚げました。
 (*_*)


   岡山市北区足守219
  
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将軍家光のご落胤

 増上山広度院大善寺はもともと小早川隆景の居城・新高山の麓にありましたが、隆景が三原城に拠点を移したことに伴い、寺も三原城下へ移転しました。この寺は隆景夫人“問田の大方”の菩提所でしたが、彼女は隆景亡き後、毛利氏の転封に伴い山口へ引越し、そこで亡くなったのでここに墓はありませんん。
 大善寺

 その代わりといってはあれですが、寺の境内に三原浅野家第四代・浅野忠義の母・月渓院の墓があります。
 月渓院は実は三代将軍・徳川家光の「ご落胤」だということです。
 墓は塀で囲まれ、一般人が入れないようになっていました。
 月渓院の墓1

 伝えられた話だと、なんでも月渓院は江戸城中でひょんなことから三原浅野家第三代・浅野忠真と出会い、彼に「一目ぼれ」したのだとか。忠真にはすでに正室がいたにもかかわらず、彼女のたっての願いにより、忠真の許へ側室として輿入れしたということです。いわば「押しかけ女房」ですね。後に月渓院は跡継となる息子の忠義を生みました。
 その話を裏付けるように、大善寺は徳川家より5000石の化粧料を受けていたといいます。

 この徳川家光の落胤の話はあまり世の中では知られていないのではないでしょうか。将軍の姫君が「認知」されず、大名ではなくて陪臣のもとへ嫁ぐというのもイマイチよくわからない話です。
 その昔、「三原には過ぎたるものが3つある。3万石にふさわしからぬ大きな城(三原城)、葵の紋所大段幕、そして過ぎたる智者鈴木方衛(日光東照宮の難工事にあたった)」といわれていたそうです。このうち、2番目の「葵の紋所大段幕」がこの大善寺と月渓院にあたります。
  月渓院の墓2

 
 ※すみませんが、所用のため2~3日お休みさせていただきます。

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三原浅野家の墓

 元和5年(1619年)、広島城を無断で改修したとして福島氏が改易されると、替わって紀州より浅野家が42万石で入封します。そして、三原城には筆頭家老・浅野忠吉が入り、以後明治維新まで浅野氏が代々城主を務めました。
 今回紹介するのは、三原浅野氏の菩提寺・無量山正寿山妙正寺(日蓮宗)です。

 妙正寺はJR三原駅の北西にあります。急な坂をひたすら登っていきます。坂の右側は桜並木となっており、その風景を写生している人がいました。
 妙正寺1

 
 山門に着きました。
 妙正寺2


 このお寺は桜の名所で有名みたいです。この日、境内の桜がほぼ満開だったのでカメラ片手に参詣されている方の姿もちらほら。
 妙正寺3


 三原浅野家の墓地へ。門扉の鍵が閉まっており、中へ入らせていただきたかったのですが、あいにくこの日、本堂で声楽のリサイタルが行われており、中から女性たちの声で滝廉太郎の「花」が聞こえてきます。「春のうららの隅田川~♪」という有名な歌です。
 叙情あふれる美しき日本の歌。「もののふの心」と共に、大切に後世へ伝えていきたいものです。
  


 お寺の方たちもイベントでお忙しそうだったので声かけは遠慮しました。
 最近はお寺でも法要以外のイベントを色々やってますね。
 しかし、私の場合「花より墓」のため、仕方がないので墓地の裏手から撮影&合掌 
 歴代のお墓が良好な形で残されています。
 妙正寺4

 最近新しくお読みいただいている方、どうも有難うございます。申し遅れましたが、私はここ数年ほど、全国を墓参りで行脚しております。もともと墓参りがメインでしたが、最近はお城の方にもシフトしています。宜しくお願いします。

 ところで、妙正寺さんのある付近は三原でも桜の名所みたいで、すぐ近所の公園も桜が満開。地元の方たちがのんびりとお花見を楽しんでいました。
 私も正直、もう少し花見を楽しみたかったのですが、まだまだ廻らねばならない箇所があり、後ろ髪引かれる思いで春爛漫の公園を後にしました。
 妙正寺5


                 
                       つづく

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福島正之の墓/浅野忠長の墓/宗光寺七重塔

 よみがえる「小早川隆景」像 のつづき

 三原の宗光寺で小早川隆景の修復された肖像画を見学した後、本堂の左側にある墓地で墓参をしました。


 福島正之の墓

 福島正之(1579~1601年)は「賎ヶ岳の七本槍」の一人である福島正則の養子(正則の姉の子)です。正之は関ヶ原合戦においても軍功を挙げ、合戦後に正則が広島に入封した際には三原城に正之を配しました。
 ところが、後に正則の実子・正勝が生まれると、次第に正之は正則から疎んじられるようになり、ついには正則が駿府にいた徳川家康の許へ正之が乱行に走ったと申し立てたため、正之は幽閉され、その後すぐに死んだといいます。その実は正則によって殺害されたようです。時に正之23歳。哀しい逸話の残るお墓だと思います。法名:宗光寺殿天英公大禅定門

 正之は徳川家康の養女・満天姫(実は下総関宿藩主・松平康元娘)を妻にしていましたが、短い結婚生活の間に一子をもうけていました。夫の死後、満天姫は家康の命により正之の忘れ形見を連れ子して、津軽信牧に再嫁、数奇な運命を辿りますが、その話はまたいずれかの機会に。(青森県弘前へ行った時、満天姫の墓参りもしております)
   福島正之の墓

 

 浅野忠長の墓

 元和5年(1619)福島正則が広島城を修理した事を幕府から咎められ改易後、広島には浅野家が入封し、三原には家老の浅野家が入ります。
 浅野忠長(1592~1660年)は三原浅野家第二代、甲斐守と称す。忠長は慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、翌年の夏の陣ともに参陣しました。
 元和8年(1622年)頼兼新開、正保元年(1644年)横山新開を拓く。寛永6年(1629年)、同14年(1637年)には糸碕八幡宮を修理しました。
  浅野忠長の墓

 
 宗光寺七重塔
 
 大工「心阿」の銘が残る鎌倉時代の石塔。斉藤五、斉藤六(「平家物語」に出てくる斉藤実盛の息子)のいずれかの供養塔だと伝えられています。
 この日、周りの桜がきれいでした。
   宗光寺七重塔


   
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小早川隆景の墓

 先日、体調不良を押して広島県三原市へ行ってきました。

 三原市沼田東町にある東盧山「米山寺」(曹洞宗)
 嘉禎元年(1235)に沼田小早川氏の氏寺として創建されました。
 山門の屋根瓦に、小早川氏ではなく、毛利氏の家紋である「一文字三つ星」が見てとれます。
 DSCF8526.jpg

 
 山門の東側に「小早川氏墓所」があります。20基の宝篋印塔が前後2列に10基ずつ、整然と並んでいます。
 DSCF8478.jpg

 DSCF8524.jpg


 前列右端にある墓塔が、小早川隆景の墓(県指定史跡)です。
 小早川隆景は天文2年(1533年)毛利元就の三男に生まれ,安芸の国人領主竹原小早川家に養子に入りますが、やがて天文19年(1550年),沼田(ぬた)小早川家を継ぎ,兄の吉川元春と共に「毛利両川」体制の一翼を担いました。
 兄の隆元亡き後は隆元の子・輝元の後見人となり、毛利家の政務・外交面で活躍しました。父・元就の資質を一番よく受け継いでいたといわれます。戦国きっての知将であり、かの豊臣秀吉も一目置いていたほどです。
 慶長2年(1597年),65歳で三原城に没し,米山寺にある小早川氏歴代の墓地に葬られたといいます。
 DSCF8471.jpg


 小早川隆景は好きな戦国武将の一人でもあり、前々から墓参しようと思っていたのですがなかなか都合がつかず、今回やっと参詣することができました。
 これで、約4年がかりで毛利元就、隆元(長男)、吉川元春(次男)、毛利輝元(隆元長男)、そして隆景(三男)と、毛利ファミリーの墓参りをすませることができました。(-人-)

 墓所の左手後方には、高さ2.5mほどの宝篋印塔(国指定重要文化財)は鎌倉時代に建てられたもので、大工念心の手によるものです。念心は広島県中央部に多くの石造物を残しました。
   DSCF8508.jpg


 なお、同寺には国指定重要文化財「小早川隆景像」が所蔵されていますが、今回は見学することが出来ませんでした。
 また、隆景の養子で関ヶ原で東軍へ寝返って顰蹙を買った小早川秀秋の墓は当然?のことながらありませんでした。

  《参考文献》
    
小早川隆景のすべて小早川隆景のすべて
(1997/10)
新人物往来社

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 過去記事 「歴女」たちの怪気炎にタジタジ(TV出演その2) 附小早川秀秋の墓
        黒田如水の墓 (隆景と親交があった)

 

 最寄駅より若干距離があるので、車利用をおすすめします。
 
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日本100名城完全制覇と有名人の墓めぐり(掃苔)
日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

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