スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「坂の上の雲」のまち松山スペシャルドラマ館

 つづき

 割烹料理「桃李花」で秋山好古家お雑煮をいただいた後、近所にある松山城ロープウェイ乗り場へ向いました。
 現在、ロープウェイ駅舎の2階に、“「坂の上の雲」のまち松山スペシャルドラマ館”が開設されております。(今月31日まで)
 「坂の上の雲」SPドラマ館

 参考サイト 明治体感まつやま博

 詳細は上記の参考サイトをご覧いただきたいのですが、NHKSP大河ドラマ「坂の上の雲」のストーリーに基づいて、登場人物や時代背景などの説明、ドラマで使用された小物・衣服等が展示されています。
 一部復元された「子規庵」 ドラマ館内部は著作権保護のためほとんどが撮影禁止でしたが、ここだけは撮影OKでした。
 「坂の上の雲」SPドラマ館1


 所要時間30~40分という話で、チャッチャと見て帰ろうと思っていたところ、メイキングシーンの映像を大画面で見られるブースがあって、ついつい長居してしまいました。ロシアでのロケや、戦闘シーンの撮影模様など楽しめました。(本編より面白かったかも。。。)

 出口のところにある秋山兄弟・正岡子規が写った写真パネルの前で記念撮影が出来ます。
 「坂の上の雲」SPドラマ館


 屋外には撮影で使用された「28サンチ榴弾砲」のレプリカ。かなりリアルに出来ており、迫力がありました。
 「坂の上の雲」SPドラマ館


 なお、同ドラマ館は今月末までで会期終了となりますので、今月中に松山へ行かれる方はぜひ寄ってみては如何でしょうか。
 開館時間 8時30分~17時30分(入場は30分前まで) 入館料 大人600円 子供300円 (この他、松山城との共通券もあります)
   
より大きな地図で 「坂の上の雲」のまち松山スペシャルドラマ館 を表示


      りらっくま
 よろしければこちらをクリックお願いします。
  ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
 人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ 
スポンサーサイト

テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
ジャンル : 学問・文化・芸術

【墓巡り強化月間】乃木希典の墓

 100名城も無事達成し、一段落したので、城巡りの前からやっていた墓参りの方にシフトしていきたいと思っていましたが、先月新潟県で墓巡りをしたのですが、ものすごい暑さもあり、すっかり消耗してしまいました。。。夏場はどうしても蚊の襲来を受けるため、涼しくなるこれからのシーズンが墓巡りには最適となります。
 今月は秋のお彼岸ということもあり、勝手ながら「墓巡り強化月間」とさせていただきたいと思います。


 乃木希典 嘉永2年(1849年)11月11日~大正元年(1912年)9月13日
 nogi

乃木希典は長府藩(萩・毛利家の支藩)藩士の子として江戸に生まれます。維新後は軍人の道を選び、明治4年(1871年)陸軍少佐に任官し、萩の乱、西南戦争に従軍しました。
 同20年(1887年)戦術研究のためドイツへ留学します。同27年(1894年)日清戦争では歩兵第1旅団長として従軍し、旅順を占領。同29年(1896年)第3代台湾総督に就任。さらに同37年(1904)陸軍大将へ昇進します。
 同37年(1904年)日露戦争では第3軍司令官として指揮を執った旅順攻略は難航し、一万五千人以上の兵が犠牲となりました。なおこの時、乃木の二人の息子も前線で戦死するという悲哀を味わいます。
 戦後、軍事参議官となりますが、同40年(1907)より明治天皇の意向のもと学習院の院長を兼任し、明治天皇の孫である迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)の教育にあたります。
 大正元年(1912年)9月13日、明治天皇大喪の日の夜、妻静子とともに殉死しました。

 命日を見ていただければ一目瞭然ですが、今日は乃木希典夫妻が自害してからちょうど99年目。。。すなわち100回忌の命日にあたります。

 毎年、9月12日、13日(命日)の両日にわたり、東京赤坂にある乃木邸(乃木希典旧宅)の内部が一般公開されているのですが、今年は3月11日の震災で建物が被災し、現在修復中とのことで一般公開は中止になりました。

 以下の写真は、5年前(2006年)の今日、撮影したものです。見学に訪れた多くの人々が行列しており、観光バスまで来ていたのには驚きました。
 乃木邸1

 乃木宅の玄関。この日は大雨が降っていました。
 乃木邸2

 乃木夫妻が自害した部屋。今も畳表に血の痕が生々しく残っています。
 乃木邸3

 その他、乃木夫妻の遺品や邸内の別の部屋も撮影してきたのですが、今日はFC2のサーバーの調子が悪いため省略いたします。

 その後、同じ港区にある青山墓地へ行き、乃木夫妻の墓参りをいたしました。
 この日は乃木神社から神主さんが来て例祭が行われていたようで、お墓も清められていました。
 乃木家の墓

 乃木希典の墓。乃木の遺書によれば、西南戦争の時に連隊旗を敵に奪われたことで自責の念にかられ、その時から自殺願望にさいなまれていたそうなのですが・・・。
 彼の本心というのは今となってはわかりませんが、自分を高く買っていてくれた明治天皇が崩御したのがきっかけで、燃え尽きちゃった部分があったんでしょうかね。
 乃木希典の墓

 静子夫人の墓。夫人は死の当日夫と運命を共にすると決めたようです。結婚当初は乃木が自暴自棄から来る放蕩生活を送っていたため、相当苦労させられたということです。
 乃木静子の墓


 なお、ネット上で交流させていただいている酔いどれJohnny 2nd様のブログ
「意外と身近にある歴史散歩」
 は墓参りの上で大変参考になります。実際にご自身の足で歩きながら、毎日更新されていらっしゃいます。
 当ブログと合わせてご覧いただければ幸いです。


 
  にほんブログ村 旅行ブログ 日本一周へ 人気ブログランキングへ 


テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : 有名人の墓(な行)

【坂の上の雲】広瀬武夫 「軍神」と呼ばれた男

DSCF7038.jpg

 今夜、NHKのスペシャル大河ドラマ「坂の上の雲」を通して見ました。第二次旅順閉塞作戦で犠牲となった広瀬武夫中佐(1868~1904年)の最期でした。
 戦前は小学校の唱歌にも歌われ、「軍神」とあがめられてきた軍人です。
 上の写真は大分県竹田市にある、広瀬を祀った「広瀬神社」です。(昨年秋撮影)

 ドラマを見ていた人はわかる通り、広瀬は文武両道に優れ、大変魅力的な人物であることがわかります。しかも、「アリアズナ」という名の美しいロシア娘との純愛物語まで伝えらているほどです。島田謹二という学者が伝記に書き、それを元に司馬遼太郎が『坂の上の雲』でも取り上げました。彼にまつわるエピソードはドラマ化されるにふさわしいものです。
 しかし、広瀬はあくまでも都合三回にわたって行われた旅順閉塞作戦の犠牲者のうちの一人に過ぎませんでした。
 それが、どうして後に「軍神」と呼ばれるようになったのか?

 広瀬の壮烈な戦死の後、海軍兵学校で同期であった永田泰次郎(当時、聯合艦隊司令部副官)が広瀬の死を悼み、軍令部にいたやはり同期の財部彪らに送った電文の中に、
「人呼んで軍神と唱ふ。是敢へて過言にあらざるべきこと」
という一節がありました。
 永田は下の写真で後列右から二人目の人物です。(クリックで拡大します)
三笠司令部の人々


 これを、当時海軍軍令部参謀で海軍の広報活動をしていた小笠原長生中将(旧唐津藩主・小笠原長行の息子)が、本来機密事項であるにも拘らずマスコミに対して意図的にリークしたことに事に端を発しているということです。
 小笠原がリークした広瀬の死を新聞各紙が書きたて、後には唱歌(杉野はいずこ 杉野はいずや)まで作られ、多くの人々に歌われたことで、広瀬武夫は「軍神」として伝説化していきます。

 しかし、その陰で旅順閉塞作戦が失敗に終わった事を軍令部が何とか隠蔽しようとして、いわば広瀬の死を「美談」として扱い、喧伝することで情報操作した過程が読み取れるのです。
 余談になりますが、この小笠原という人、後には崇敬していた東郷平八郎の評伝を著し、東郷の神格化にも「貢献」しています。
 広瀬武夫はたしかに高潔な軍人であるのは事実なのですが、一少佐に過ぎず、しかも部下を探して退避が遅れ死傷者を出すという失敗をおかした彼が、後に国民から「軍神」と呼ばれ、奉られた伝説の人物になっていくには、このような裏事情があったということです。
 その一方で、同じく旅順閉塞作戦で戦死した軍人たちは他にも多数いましたが、広瀬の名声の陰に隠れ、長い歳月の中で忘れさられていきました。

 話は戻りますが、広瀬の故郷である豊後竹田の広瀬神社では、今まで広瀬ゆかりの品々を大切に保管してきました。
DSCF7041.jpg

 神社の境内には戦艦朝日の「カッター」が安置されていました。昭和12年に海軍より奉納されたということです。
DSCF7056.jpg


 最近になって、竹田市立歴史資料館の広場に新しく広瀬の銅像が建てられたと聞きました。
 竹田は広瀬の生まれ故郷ですが、どうも幼い頃に西南戦争で家が焼かれ、その後一家で飛騨高山に引っ越してしまい、竹田で暮らしたのはほんの短い期間だったそうですね。


より大きな地図で 広瀬神社 を表示
 

  人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ  

テーマ : NHK
ジャンル : テレビ・ラジオ

【坂の上の雲】戦艦三笠の運命(三)

三笠司令部の人々

 明治38年時の聯合艦隊司令部の方たちの記念写真です。(↑クリックで拡大します)前列中央が東郷元帥、一番右が秋山真之です。お二人とも威厳のある顔立ちをしておられますが、自分がつい注目してしまったのは、後列の一番右側におられる清河純一大尉です。現代でも通用するような、男前の顔立ちをしておられました。(*^ω^*) (蛍光灯が反射して見にくいですけどね)
 東郷元帥のすぐ左側にいる人は当時参謀長だった加藤友三郎少将で、外見は痩せていて貧相な感じでしたが、後に政治力を発揮し、首相にまで登りつめます。

 
 厨房。それなりに美味しい食事が提供されていたらしい。
 DSCF0192.jpg

 風呂&トイレ 
 DSCF0190.jpg

 当時機関長だった山本安次郎が使用していた部屋。この下の甲板にこれと同仕様の秋山真之の部屋があった。(現存せず)
 DSCF0186.jpg

 参謀長室? 何の部屋だったか失念しました。
 DSCF0179.jpg

 司令長官の寝室。
 DSCF0184.jpg

 艦長公室。日露戦争時は伊地知彦次郎(後に海軍中将)が艦長を務めた。
 DSCF0194.jpg

 士官室。大尉~中佐までの公室。中尉以下はこの下の甲板にあり、「ガンルーム」と呼ばれていた。
 DSCF0182.jpg

 司令長官公室。連合艦隊の作戦会議やVIPの晩餐会等が行われた部屋で、この部屋にある机は三笠が英国で建造された際に積み込まれたもの。両舷にはキャビン砲が備わっている。
 DSCF0205.jpg

 司令長官居室。造付家具は英国製造時に設置したもの。明治天皇の御真影や現在の皇室の方々のお写真などが飾られていた。
 DSCF0197.jpg

 東郷平八郎の遺髪が祀られていた。
 DSCF0206.jpg

 
 以上、中甲板の展示はこのような感じです。これだけ甲板の中の部屋が広い戦艦も珍しいとのこと。
 戦艦三笠がこのように紆余曲折を経て、現在に至るまで保存されてきた経緯が少しでもお分かりいただけましたでしょうか。
 
 この日、見学会に参加した人たちはほとんどが60代~70代くらいのご年配の男性ばかりで、肩身が狭かったです。
 一人だけ私と同年配そうな女の人がいたので話かけてみたところ、はたして私と同い年だそうでラッキーでした(笑)。彼女はこういう軍事関係の歴史に興味があるんだそうです。女性なのに殊勝なことだと思いました。

 
  人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ  

テーマ : 歴史小説
ジャンル : 小説・文学

【坂の上の雲】戦艦三笠の運命(二)

 戦艦三笠の運命(一)のつづき

 上甲板の真ん中にビデオ室というのがあり、私たち見学者はそこへ案内されました。
 元広島東洋カープの衣笠さんに似た海上自衛隊OBで三笠保存会の役員の方が出てこられて挨拶があった後、日本海海戦に関するビデオを15分くらい見ました。
 その後、役員の方の説明をしばしお聞きしました。その方は山本権兵衛(海軍大将 後に首相)とアメリカ海軍のニミッツ提督(1885~1966年)をいたく信奉しておられるようで、特に戦後、荒れ果てていた三笠が復興出来たのはニミッツのおかげだとおっしゃっておられました。
 ニミッツは先の大戦の時に太平洋艦隊司令長官で、わが国もこの人のおかげで主力空母全滅という致命的な大打撃をくらわされたのではなかったか?と思うのですが、その役員の方によると、ニミッツは東郷平八郎をかねてから崇敬しており、その軍略を研究していたんだとか。彼は東郷元帥の葬儀にも出席していたそうです。
 だから、戦後三笠が荒れ果てていることを耳にしたニミッツはそれを嘆き、「文芸春秋」に『三笠と私』と題する論文を寄稿し、その一文が契機となって、日本人の間でも旧軍関係者などを中心に三笠復興への機運が高まったということです。

 今年の6月に秋山真之役のモックンが三笠へやってきて、撮影したポスターだそうです。
 本木雅弘(秋山真之役)

 その後、下甲板に降りて資料室を見学しました。いろんな資料が展示されていましたが、自分なりに印象に残ったものだけをご紹介。
 有名な東郷平八郎長官以下、司令部の人たちを描いた絵です。向かって左手上方に「Z旗」がはためいている。
東郷平八郎

 東郷さん着用の軍服など。
 DSCF0169.jpg

 日本海海戦の絵。海面はかなり堅いそうで、砲弾が落ちるとあのような縦の水しぶきがおこる。
 DSCF0173.jpg

 日本海海戦時の電信文一覧。当時、第二艦隊参謀だった山本英輔(権兵衛の甥 後に海軍大将)が保管していた。
 DSCF0158.jpg

 「日進」に乗船していた当時少尉候補生であった山本五十六(太平洋戦争時、聯合艦隊司令長官)が、膅発(とうはつ 砲弾が砲身の中にあるうちに自爆すること)事故により左手の指を二本失い、右足も負傷という大怪我をした時の現場図。ちなみに、指を3本失うと退役させられるので、重傷を負いながらもかろうじて彼は海軍に留まれた。
 DSCF0170.jpg

 ロシアの戦艦が掲げた白旗。後にテーブルクロスに転用(!?)されたという(笑)。
 DSCF0174.jpg

 2番砲室にある15cm砲。4体の人形で操作法を示している。
 DSCF0156.jpg

 他にもいろいろ展示物があったのですが、何ですか次第に疲労感を感じて、あまり撮影しませんでした。
 それから、他の展示室では特別展「日露戦争に見る武士道」というのを開催中でしたが、乃木希典や新渡戸稲造について展示がされていたようですが、あまり印象に残っていません。
 やっぱり、軍事ヲタでもない一般人が軍事関係の展示を見学すると、見ていて疲れてきますね。
 つづく。

 参考サイト 記念艦「三笠」公式ホームページ


人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ  

テーマ : これからの日本
ジャンル : 政治・経済

【坂の上の雲】戦艦三笠の運命(一)

  DSCF0127.jpg

 先週、神奈川県横須賀市にある記念艦三笠の見学会へ行ってきました。あいにく、見学時強い風雨になってしまい、持っていたカメラも吹き付ける雨風にずぶ濡れとなってしまう状況で、外観はあまり良い写真が撮影出来ませんでしたので写真は期待しないでください。

 戦艦三笠は明治30(1897)年にいわゆる「六六艦隊計画」の最終艦として計画されました。イギリスのヴィッカーズ社バロー・イン・ファーネス工場にて造成されました。
 明治35(1902)年3月に竣工し、同年5月、横須賀へ到着、同年11月に常備艦隊旗艦となります。
 翌36(1903)年12月に聯合艦隊編成の折に旗艦となります。
 明治37(1904)~翌38年にかけて日露戦争に参加し、東郷平八郎聯合艦隊司令長官ら司令部が乗艦し、活躍したことは周知の通りです。
 ところが、戦争終了後、明治38年の9月11日、佐世保港内で弾火薬庫が爆発し、339名の乗組員が殉職します。この爆発事故は、どうも艦内にあったメチルアルコールを持ち出して酒盛りをしようとした不届き者がいたようで、それに引火したのが引き金だったようです。海軍はこの不祥事を火薬の自然発火として報告し、隠蔽したといいます。
 その後、大正7年から三年間はシベリア出兵で沿海州警備に従事しますが、大正10年9月、浦塩港外のアスコルド水道で座礁し、ウラジオストックで修理した後、舞鶴へ帰投します。

 同年11月よりアメリカのワシントンで開かれた「ワシントン会議」の中で、海軍軍縮条約が採択され、米英日仏伊、各国の航空母艦等の保有制限が決められたため、三笠は廃艦が決定しますが、大正12年の9月関東大震災の時に横須賀港で繋留岸壁と触衝し前部が浸水したため、9月20日をもって除籍となります。これで三笠は軍艦としての使命を終えました。
 その後、三笠は軍縮条約により廃艦後は解体される予定だったところ、日露戦争で活躍した三笠に対する保存運動が勃興し、現役に復帰できない状態にすることを条件に保存されることが特別に認められ、大正14(1925)年1月に記念艦として横須賀に保存することが閣議決定されました。
 同年6月18日に保存のための工事が開始され、舳先を皇居に向けて固定されます。同年8月には財団法人・三笠保存会が設立され、11月10日に工事完了、その二日後に記念式が行われました。

 こうして生きながらえた三笠でしたが、前の大戦で日本が敗北すると、連合国軍によって日本は占領下に置かれます。ソ連などは日露戦争時の恨みからか、三笠の廃棄を断固主張しますが、横須賀はアメリカ海軍の実権下に置かれていたため、三笠は米軍により接収され、かろうじて廃棄を免れました。
 三笠は米軍監視下に置かれますが、心ない米兵によって艦内の目ぼしい記念品は持ち去られました。やがて23年1月、米海軍基地の司令官は艦橋、マスト、砲塔、煙突を4月1日までに除去の上横須賀市による教育事業に転用することを許可しました。
 しかし、敗戦後の虚脱感もあって、横須賀市は三笠の管理に消極的だったらしく、湘南振興株式会社という民間企業に管理を委託してしまいます。湘南振興株式会社は、まっさらになってしまった上甲板上にダンスホールと水族館を設置、さらに艦内の司令長官室はキャバレーに、参謀長室はカフェにしてしまいます。三笠は米兵相手の遊興施設と化してしまい、あまり大きい声では言えませんが、風紀も乱れていたといいます。
 さらに、湘南振興株式会社は朝鮮戦争が勃発すると、艦内にあった鉄や胴、真鍮などあらゆるものを引き剥がして売り飛ばし、暴利を貪ったということです。
 
 前置きが長くなりましたが、上記の三笠の歴史を頭にとどめていただき、以下にお進みください。


 無線電信室 ここで「敵艦見ユ」の第一報を受信しました。三六式無線電信機のレプリカが展示されています。
DSCF0129.jpg

 この無線室のちょうど目の前の床板に注目です。三笠オリジナルのチーク材の床板が今もあります。幅広でとても堅い材質で出来ています。ここ以外のチーク材の床板はすべて、湘南振興株式会社が引き剥がし、売り払ってしまったのです。(復元された向こう側の床板は幅細で、別の木材が使用されています)
DSCF0130.jpg

 両舷にある8cm砲台。見学者が自由に向きを変えられるようになっています。
 DSCF0142.jpg

 上甲板左舷側の中部にある4番15cm砲の砲室。写真が切れてしまっていますが、当時と同様なハンモックが吊られています。この砲室に配置された砲員はこの砲室で食事をし、このハンモックで眠りそして訓練をしていました。
 DSCF0143.jpg

 前部司令塔内部
 DSCF0132.jpg

 東郷平八郎司令長官や参謀らが立っていた露天の最上艦橋です。日本海海戦時、東郷は幕僚から装甲された司令塔へ移ることを進言されましたが、戦況が見渡しやすいこの場所に留まりました。東郷長官、参謀長の加藤友三郎少将、艦長の伊地知彦次郎大佐、参謀の秋山真之中佐の推定立ち位置が示され、右手にその模様を描いたレリーフがあります。
 DSCF0135.jpg


 長くなるので、つづきます。



人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ  
 

テーマ : これからの日本
ジャンル : 政治・経済

【坂の上の雲】正岡子規 母・八重 妹・律の墓

     PICT0056.jpg

 ブログの進行は岩国城の途中ですが、NHKスペシャル大河ドラマ「坂の上の雲」の中で今日、香川照之さん演じる俳人・正岡子規(1867~1902年)がご臨終というので、一応お墓の写真をアップしておきますね。しかし、撮影したのはけっこう前で2007年8月時の撮影です。
 子規役の香川さんですが、「龍馬伝」でのオーバーアクション気味だった岩崎弥太郎よりも、子規役の方が落ち着きが感じられ、断然良いように思いますね。

 お墓の方ですが、東京都北区田端にある「大龍寺」というお寺さんにあります。
 墓地の一角に正岡家の墓が三基並んでいて、中央には一回り大きい子規の墓が、向かって右側には母親の八重のお墓が、左側には「正岡氏累世之墓」という墓石があり、こちらに妹のが眠っています。(正岡子規記念館へ確認済)

 結核に冒された兄を甲斐甲斐しく介護したのが妹の律ですが、女優の菅野美穂さんが好演しておられます。菅野さんというと、これまで元気印の現代女性を演じることが多く、あまり時代劇には出演しておられませんでしたが、日本髪と地味な着物がよく似合ってますね。ひたむきに生きる明治の女を健気に演じておられて良い印象です。
 それにしても、律はずっと病気の兄の側で看病していたんですが、あんなに近距離にいてよく結核に感染しなかったなあと変なところで感心してしまいます。あの時代、結核は不治の病でしたからねえ。
 ドラマでは、律が秋山真之にほのかな慕情を寄せるような描かれ方がしてありますが、あれはあくまでもフィクションでしょうね。

  合掌 (-人-)

     PICT0052.jpg


 関連記事 【坂の上の雲】戦艦三笠の運命(一)



 2011年12月25日追記
 今日、ドラマ「坂の上の雲」の最終回を見ました。そこで、秋山真之が子規の墓参りをするシーンが出てきましたが、ロケ地はこのお寺ではなく、別のところの墓所を借りて撮影したかと思われます。

 それから、ナレーションで読まれた子規の墓碑銘はこちら。(上の写真と同じ2007年撮影) 初代の物は盗まれたので、現在のものは二代目だそうです。
   正岡子規墓碑銘

  正岡常規又ノ名ハ処之助又ノ名ハ升
  又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺齋書屋主人
  又ノ名ハ竹ノ里人伊予松山ニ生レ東
  京根岸ニ住ス父隼太松山藩御
  馬廻リ加番タリ卒ス母大原氏ニ養
  ハル日本新聞社員タリ明治三十□年
  □月□日没ス享年三十□月給四十圓



NHK スペシャルドラマ 坂の上の雲 第2部 DVD-BOXNHK スペシャルドラマ 坂の上の雲 第2部 DVD-BOX
(2011/03/16)
本木雅弘、阿部寛 他

商品詳細を見る


  
より大きな地図で 大龍寺 を表示


 

  人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

テーマ : 歴史上の人物
ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : 有名人の墓(ま行)

ブログランキング
「もののふの心」および歴史的遺産を後世に伝えましょう♪
うさぎ
  ↓ ↓ ↓ ↓
人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
カテゴリ
ご注意 ごくたまに、「城」「史跡」「お墓」等の話題が、ドラマ関連やその他のカテゴリとして登録されている場合があります。
月別アーカイブ
最新コメント
FC2カウンター
おきてがみ
お気軽にどうぞ(お返事が遅くなる場合があります)
プロフィール

A☆六文銭

Author:A☆六文銭
ブログテーマ
日本100名城完全制覇と有名人の墓めぐり(掃苔)
日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

★当ブログ内の文章、写真等はすべて無断転載禁止です。宜しくお願いします。
★当方と連絡を取りたい方は、下部メールフォームからお願いします。(ご感想はなるべくコメント欄のほうにお願いします)
※Twitter、Facebookはやってません。

最新記事
おすすめ書籍
リンク
RSSリンクの表示
検索フォーム
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。