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山本五十六の墓

 明日12月23日(祝)より映画「聯合艦隊指令長官 山本五十六 太平洋戦争70年目の真実が封切られます。

  

 参考サイト 聯合艦隊司令長官 山本五十六公式サイト (※音が出るのでご注意ください)

 今ごろ何故「山本五十六」なのかいぶかしく思ったところ、今年は太平洋戦争開戦から70周年でした。主役の山本五十六役を演じるのは俳優の役所広司さん。
 出演者一覧を見たところ、かなり豪勢な布陣なのですが、お正月映画としては少々重たい内容ではないか、と思われます。
 ちょっと観に行ってもいいかな、とも思ったのですが、4年前ぐらいのこの時期に映画館へ行ったところ、酷い風邪をもらってきて寝正月になってしまったので、観にいくとしたら正月明けになりそうです。

 ところで、今年の8月、山本五十六の故郷である新潟県長岡市へ行ってきました。その時、五十六の墓参りをしたので掲載しておきます。
   山本五十六
 山本五十六 (1884~1943)
 新潟県出身。明治37年(1904)海軍兵学校卒業。海軍大学校修了後、米国駐在武官、空母赤城艦長などを歴任。昭和4年(1929)第一次ロンドン軍縮会議に随員として参加。その後、第一航空戦隊司令官、海軍航空本部長として海軍航空部門の強化に尽力した。11年(1936)海軍次官となり、米内光政海軍大臣と共に日独伊三国同盟に反対した。14年(1939)連合艦隊司令長官、翌年大将。太平洋戦争においては真珠湾攻撃をはじめとする作戦全般を指揮。18年(1943)4月、ブーゲンビル島上空にて米軍機に要撃され戦死、元帥を追贈された。



 実は彼の本当の墓は東京の多磨霊園にあります。長岡にある墓は地元の方たちの要望により、本墓から分骨されたものです。多摩霊園はうちから少々遠いため、まだ墓参をしていません。今後の課題にしたいと思います。

 ところで、現地へ行った日はフェーン現象のため気温が30度を超え汗タラタラ、保冷剤を持参しての取材でしたが、途中で熱中症になりかけました。今頃はとうに冬景色でしょうから、月日が経つのは早いものです。

  山本家の菩提寺がある普嶽山長興寺(曹洞宗)
 長興寺


 墓地の一画に「山本家の墓」があります。五十六は長岡藩士・高野家に生まれましたが、大正4年(1915年)旧主である牧野忠篤子爵の命により、長岡藩の家老で絶家となっていた山本家の名跡を継ぐことになります。
 山本五十六の墓2


 北越戦争の責任を取らされ処刑された山本帯刀〈左)と五十六の墓が並んでいます。
 山本五十六・山本帯刀の墓


  五十六の分骨墓 (-人-)
   山本五十六の墓


 なお、平成16年(2004年)におきた新潟中越地震で山本家の墓石が倒れる等の被害があった模様で、その後元帥のご長男である義正氏が整備しなおしたようです。


  
聯合艦隊司令長官 山本五十六聯合艦隊司令長官 山本五十六
(2011/11/08)
半藤 一利

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                    つづく

    りらっくま
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橋本左内の墓

 坂本龍馬とは出会ってはいませんが、福井藩の志士として忘れてはならない人がいました。
 橋本左内(号・景岳 1834~1859年)です。
   橋本左内

 橋本左内は福井藩奥医師の息子として生まれたのですが、幼い頃から学問好きで頭も良く、10歳の時に「三国志」を通読!し、15歳の時には自ら志を立て、生きていく指針を打ち立てました。
 「啓発録の碑」
   啓発録の碑

 左内弱冠15歳の折の「啓発録」は講談社学術文庫から現代語訳されて出されています。この前、実家の部屋を掃除していたところ、20代の頃購入したこの本が出てきました。その当時は内容が難しかったと見えて、途中で挫折してしまい、読了していませんでした(汗)。まあ、私は凡人なので、秀才でならした左内にはとても及ばないから仕方ありません(苦笑)

 その後、大坂の適塾に学び、薩摩の西郷隆盛、水戸の藤田東湖、その他、梅田雲浜、横井小楠、佐久間象山などとも交流します。
 松平春嶽にその才能を認められた左内は、やがて春嶽の側近として取り立てられます。藩校明道館学監心得に任ぜられ、教育改革を行いました。
 やがて、左内は江戸に移り、春嶽の命を受け、中根雪江と共に14代将軍を巡る「将軍継嗣問題」では一橋慶喜を推す「一橋派」として国事奔走することになります。
 左内は開明的な思想の持ち主であり、開国にあたっては日本がロシアと連携する必要性を説き、「雄藩連合」による統一国家体制を想起するなど、先見的視野に立った国家構想を抱いていましたが、この事が後に左内の運命に影を落とすことになります。
 
 安政5年(1858年)、彦根藩主・井伊直弼が大老に就任し、井伊と対立する春嶽は隠居謹慎を命じられました。加えて、井伊は「安政の大獄」を断行し、翌6年に「将軍継嗣問題」に介入したとして左内は捕縛され、江戸伝馬町の獄舎にて斬首されました。時に左内26歳という若さでした。

 左内の遺骸は小塚原回向院に埋葬されました。下の写真は東京都荒川区にある回向院内の左内の墓です。
PICT0034.jpg

 しかし、左内の死を悼む関係者たちは刑死者たちの墓場に左内が埋葬されたことを大いに嘆き、何とかして左内の遺骸を別所に改葬することを願います。
 文久2年(1862年)11月に、恩赦によって安政の大獄で処分を受けた者たちの罪が赦されると、関係者たちは翌年左内の遺骸を棺に収め、墓石と共に福井にある橋本家の菩提寺である善慶寺へ改葬しました。(後に橋本家の墓地を残して、公園となった)
 明治10年(1877年)には新しい墓石が建てられ、回向院から移動した墓石は新しい墓の傍らに置かれました。
 しかし、明治26年には、かつて回向院にあった古い墓石の方が再び回向院に移設されました。このため、左内を顕彰する東京の有志たちは回向院でも供養を行っていたということです。
 
 福井市内の「左内公園」に左内の本墓があります。左内とご両親のお墓があります。
  DSCF4752.jpg
  橋本左内の墓1

 現在でも毎年10月に有志により左内の墓前祭が行われているとのことです。
 しかし、現地へ行ってみると墓前が蜘蛛の巣だらけで近よれなくなっていました。(白い斜めのラインが数本見えますでしょうか。蜘蛛の巣です)
   橋本左内の墓2


 最近はあまり墓の手入れもされてないんでしょうかね。さびしい現実です。
 左内と交流のあった西郷隆盛も左内の死を深く悼んだ一人だそうです。
 26歳で逝った若き秀才に思いを馳せ、墓前で合掌いたしました。 (-人-)

 このほか、福井の史跡巡りはまだまだあるのですが、ここで一旦休止して、他所の話題に移りたいと思います。今年見た紅葉などもご紹介します。

   
より大きな地図で 左内公園 を表示

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tag : 有名人の墓(は行)

朝倉義景の墓 一乗谷城(五)

 朝倉氏館跡の唐門をくぐり、右手奥の方に木々がこんもりと茂っている場所に、一乗谷最後の主となった朝倉義景(1533~1573年)の墓はあります。

    朝倉義景の墓2

 義景は第十代当主・孝景の子として生まれました。父が40歳の時にやっと生まれた嫡男でした。
 義景が数えで16歳の時、父・孝景の死により家督を継ぐことになります。

 永禄10年(1567年)に京から逃れてきた足利義秋(後の義昭)を迎え、歓待しますが、義昭が切望していた上洛に義景はまったく賛同しませんでした。(その結果、義昭は朝倉氏を頼りとするのをあきらめ、織田信長のもとへ去っていきます)
 その後、先に上洛を果たした織田信長からの上洛命令にも義景は従わず、かねてから越前に目をつけていた信長に、攻略の口実を与えてしまいました。
 義景が信長についてどう思っていたのかわかりませんが、義景にしてみれば、名家出身のプライドというものがあったでしょう。対する信長の家は元々守護代の家臣に過ぎないので、家格からしても格下の信長に唯々諾々と追従する気にはなれなかったに違いありません。
 信長との戦い(元亀争乱)の最中も、対陣が長引いた割には思うような戦果をあげることができませんでした。
 このようなグダグダな状況下で、義景に失望した家臣の中には、信長側のたくみな諜略も手伝って、信長方へ寝返るものも現れる始末でした。
 元亀三年(1572年)の十月、甲斐の武田信玄が徳川家康を討つべく挙兵し、義景の元にも協力を仰ぐ書状を送っています。うまくすれば、信長を挟撃しうる絶好のチャンス!
 しかし、同年十二月、なぜか義景は兵を越前に退かせてしまうのです。このような好機をみすみす捨てて撤退した義景の態度を激しく非難した信玄の文書が伝えられています。
 
 とうとう、天正元年(1573年)八月、信長軍によって次々と砦を落とされ、ついに同盟者の浅井長政とも連携をとることが不可能となり、「田部山の戦い」で大敗を喫した義景は敗走を余儀なくされます。
 重臣の一人であった従兄弟の朝倉景鏡の勧めによって、居城である一乗谷を捨て、大野に逃れましたが、そこで信長と通じていた景鏡に裏切られ、難を逃れて立て篭もっていた賢松寺を兵で囲まれます。もはやこれまでと観念した義景は、同年八月二十日、あえなくここに自刃しました。
 享年41歳。
 義景の母親・広徳院や側室の小少将、一子の愛王丸らは捕らえられ、皆殺しにされました。ここに十一代続いた越前朝倉氏は滅亡しました。
 信長軍によって一乗谷の城と城下は焼討ちにされ、三日三晩燃え続けたといいます。
 義景の首級は京で晒された後、浅井久政、長政親子と共に髑髏に「箔濃」を施され、信長の酒宴の肴として供されたのは有名な話です。

 こうして、ざっと義景の人生を見てみると、どうも名家のお坊ちゃまという印象が強いです。平時であれば、現状維持で万々歳だったのですが…。同時代に織田信長がおり、彼の標的とされたという不運もありますが、義景の優柔不断で、武将でありながらともすれば風雅に傾きがちであった気質、家中のとりまとめ役であった長老の朝倉宗滴の死後、不協和音の渦巻く家臣団をうまくまとめきれなかった事などが負の要因としてあったと思われます。

 
 【義景の辞世】 
 七顚八倒 四十年中 無他無自 四大本空 


    朝倉義景の墓1

 なお、このお墓は地元の村民たちが義景の供養のために建てた小祠だったものを、江戸時代に福井藩主・松平光通が現在の墓石を建立したということです。
 (-人-)合掌


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朝倉孝景の墓(英林塚) 一乗谷城(四)

英林塚

 朝倉氏第7代当主(戦国期朝倉氏 初代)朝倉孝景(1428~1481年)の墓 その法名より「英林塚」と呼ばれています。
 孝景は最初の諱を「教景」といいましたが、後に「敏景」→「教景」→「孝景」と改名しています。(まぎらわしいですね…)
 
 朝倉氏は代々越前守護代甲斐氏、尾張守護代織田氏と並んで、三管領筆頭で越前・尾張・遠江守護の斯波氏の宿老を務めていました。
 応仁の乱(1467)が勃発すると、孝景は当初は西軍に属し京都で戦いましたが、文明3年(1471)越前に帰国すすると、越前守護代甲斐氏に代わり守護代職を条件に東軍(幕府側)に寝返りました。
 このため甲斐氏との間に越前支配をかけた激しい戦いが繰り広げられ、その結果、文明7年(1475)には越前をほぼ平定しました。
 しかし、守護斯波氏は孝景の越前支配を「越前押領」とみなし、文明11年(1479)には、東軍(幕府側)に帰順した甲斐氏や二宮氏など被官人を引きつれ「朝倉退治」と称して越前に下国、一進一退の戦いが続いていた最中、文明13年(1481)7月、孝景は病死しました。
 歴史の教科書的には、戦国期の分国法である「朝倉敏景十七箇条」を制定したとして知られる人物です。

 お墓は宝筐印塔で、墓石が傷まないように堂宇で覆われています。朝倉氏館の背後の高台にあります。



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日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

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