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鶴ヶ城(会津若松城)を守った男・・・遠藤敬止の墓

 仙台市内の墓めぐり続きです。


 遠藤敬止(1851~1904年)の墓
 遠藤敬止の墓

 会津藩士。幕府開成所にて英語を学ぶ。
 会津戦争では鶴ヶ城籠城に参加するが、敗戦後は捕われの身となる。
 赦免の後、慶応義塾で経済学、簿記学を学ぶ。
 その後、実業界に入り、渋沢栄一の推薦により仙台の七十七銀行頭取に就任。また、仙台商工会議所初代会頭となる。
 明治23年新政府によって鶴ヶ城が競売に付された時、私財2500円(現在だと数億円)もの大金をなげうって落札、松平家へ献上した。
 (後に城址は松平家より会津若松市へ売却された)

 会津若松城




 鶴ヶ城が今あるのは、この方のおかげなのです。
 ですから、彼の功績を讃え、城址には「遠藤敬止翁頌徳碑」があります。
 遠藤敬止頌徳碑


 遠藤敬止の墓の手前には、弟の遠藤嘉龍二の墓があります。
 会津戦争時、嘉龍二は白虎隊寄合1番隊として出陣しますが、喜多方熊倉で負傷。その傷が元で若い命を落としました。
 なお、彼の墓は会津の飯盛山にもあります。
 遠藤嘉龍二の墓


 うちの主人のご先祖は寄合2番隊でしたので、おそらく遠藤家と同等クラスの家格だったと思われます。
 「お城を守っていただき、どうも有難うございます」
 主人と共に、遠藤兄弟の冥福を祈りました。


 
  充国寺(仙台市青葉区新坂町17-1)




  関連記事 飯沼貞吉の墓

 
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伊達竹松丸・志賀潔・今村均の墓(仙台・輪王寺)

 飯沼貞吉の墓 のつづき


 仙台市、金剛宝山・輪王寺には白虎隊士、飯沼貞吉の墓のほか、以下の方々の墓もあります。


 伊達竹松丸(右)、および愛姫母堂の墓

 竹松丸は仙台藩主、伊達政宗と正室・愛姫の間の息子さんで、7歳にて夭折しました。
 また、左側の古い墓石は田村清顕夫人で、愛姫の母親の墓です。
 伊達竹松丸の墓

  関連記事 伊達政宗の墓 瑞鳳殿
  


 志賀潔の墓

 志賀潔(1871~1957年)は医学者、細菌学者。赤痢菌の発見者として有名。
 生家は仙台藩士の家系で、養子先の志賀家は仙台藩医の家系だそうです。
 志賀潔の墓

 

 今村均の墓

 今村均(1886~1968年)は陸軍軍人で、最終階級は陸軍大将。仙台藩士の家に生まれる。
 開戦後の昭和17年(1942年)、第16軍司令官としてオランダ領東インド(現インドネシア)に侵攻し、制圧。寛容な軍政を敷き、後のインドネシア独立へとつながりました。
 同年11月には第8方面司令官としてラバウル(現パプアニューギニア)に着任。自給自足体制と地下要塞を築き、敗戦まで他国の侵攻を受けることはありませんでした。
 戦後、今村は戦犯として裁かれ、禁固10年の判決を受け、巣鴨拘置所へ送られます。しかし、戦犯として訴追、拘束されているかつての部下たちを救うため、マヌス島収容所行を自ら希望し、連合国軍司令官マッカーサーへマヌス島送りを直訴。マッカーサーをして、「真の武士道をみた」といわしめました。
 多くの軍人の中でもとくに高潔な人物として知られ、死後も彼を慕う旧軍関係者らが墓を訪れていたそうです。

 
 今村均の墓



 同寺は檀家が多く、したがって墓も多いため、檀家優先、マナーを守って参詣しましょう。

 
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「白虎隊生き残り」飯沼貞吉の墓

 ここ3年くらい、宮城県仙台市内の史跡巡り・・・とくに墓めぐりを強化しております。

 仙台市青葉区北山というところに「北山五山」といわれる古刹の寺が5軒東西に連なっている場所、すなわち寺町があります。仙台藩主、伊達政宗は北山の丘陵に多くの寺を配置し、有事の際の防御施設としての役割を担っていました。

 そのうちのひとつに、金剛宝山輪王寺(曹洞宗)という寺があります。

 輪王寺

 輪王寺は嘉吉元年(1441年)、伊達家九世政宗(※戦国時代の伊達政宗ではありません)の夫人「蘭庭明玉禅尼」の所願により、十一世持宗が太菴梵守和尚を開山として、伊達郡梁川(現・福島県)に創建されました。
 その後、伊達家の居城の変遷に伴い寺も6回引っ越しをして、慶長年間に仙台の地に置かれました。
 伊達政宗・愛姫夫妻の夭折した息子さんの墓や伊達家の姫君の墓もあり、伊達家とは縁の深いお寺といえるでしょう。

 ところで、こちらの寺に「白虎隊の生き残り」である飯沼貞吉の墓があるというので、昨年参詣いたしました。(天気があまりよくなくて、写真が暗いですがお許しを)

 飯沼貞吉の墓1


 飯沼貞吉は飯盛山で自刃した白虎隊士中2番隊の少年たち20名の中で、唯一生き残りました。
 貞吉は喉に刃を突き立てたものの、死にきれずにいたところを会津藩士の妻に助けられ、長岡藩軍医により手当を受けた彼は一命を取り留めました。
 維新後の貞吉は、「貞雄」と名を改め、明治5年(1872年)に工部省(後に逓信省)に入り、電信技師の道を進み、各地を転々とします。明治43年(1910年)には仙台逓信管理局工務部長に就任、日本の電信電話の発展に貢献しました。
 大正2年(1913年)60歳で退官した後も仙台に住みつづけ、昭和6年(1931年)に亡くなりました。享年77。


 戒名は「白巖院殿孤虎貞雄居士」
 飯沼貞吉の墓2


 生前、貞吉(貞雄)は会津戦争や白虎隊について、ほとんど語ることはなかったといいます。


 ところで、輪王寺の墓域はとても広くて、お墓を見つけるのに苦労しました。
 方々見てまわり、あきらめて「お寺の方にお尋ねしよう・・・」と思ったら、うちの主人が見つけました。本堂裏のかなり奥まったところに飯沼家の墓はありました。
 先述しましたが、うちの主人のご先祖様も「白虎隊」の寄合隊(士中隊よりも家格が下)の生き残りでしたので、何か引き寄せられるものがあったのかもしれません。


  戦に出る直前、母ふみが貞吉に送った和歌
 梓弓むかふ矢先はしげくとも  ひきなかへしそ武士(もののふ)の道


 仲間と共に死ねなかったことをおそらく終生悔いたであろう貞吉ですが・・・
 「あなた様は立派にもののふの道を貫きました」
 貞吉の墓前にて、主人と共に貞吉の冥福を心から祈りました。
 彼のために念のため書いておきますが、実は全白虎隊の約8割の人たちが生き残っております。(うちの主人のご先祖様もそうですが)


 なお、昭和32年(1957年)戊辰戦争90年祭の時に関係者の手によって、飯盛山にも貞吉の供養墓が建てられました。


 大河ドラマ「八重の桜」ですが、もう少し他の会津藩士の人々のその後を描いてほしかったですね。
 現在は同志社と山本家のお家事情だけのストーリーになってしまいましたので。


      伊達竹松丸・志賀潔・今村均の墓 へつづく


関連記事 鶴ヶ城(会津若松城)を守った男 遠藤敬止の墓
       山川浩(大蔵)の墓 (※母方の従兄)



  参考サイト 金剛宝山輪王寺HP (仙台市青葉区北山1丁目14−1)



  飯沼貞吉のご子孫が書かれた本↓
 
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支倉常長の墓・・・謎の最期

 仙台市青葉区青葉町にある光明寺(臨済宗)という御寺さんに、支倉常長の墓とされる墓石があるというので行ってみました。

   支倉常長


 寺の奥手方に常長の墓はありました。
 支倉常長の墓1


 支倉常長の墓2
 これが、常長の墓とされる五輪塔です。
 メキシコ、スペイン、ローマと主命を帯びての苦難の旅は、結局その目的を果たせず、失意のうちに常長は帰国してから一年後の1621年(元和7)、あるいは翌1622年(元和8)に亡くなったと伝えられています。
 しかし、異説もあり、支倉家の知行地であった小山村(現奥州市)にて隠棲生活を送り、世間から忘れられた頃ひっそりとこの世を去ったという言い伝えもあるようです。つまり、その晩年は謎に包まれています。

 光明寺には常長と息子の常頼の位牌があるそうで、国語学者・大槻文彦がこの墓石こそ常長の墓であると「鑑定」したということです。
 ですから、墓の説明板は「伝・支倉常長の墓」と記載されています。本墓かどうかの確証はないということですね。
 支倉常長の墓3


 常長死後、跡を継いだ息子の常頼は使用人がキリシタンであったことや宣教師を匿ったということで咎められ、処刑。支倉家は断絶します。(後に常頼の子で常長の孫にあたる常信の代で再興を許される)

 今回、資料を読んでみたところ、常長の墓はここ以外に、常長の養父支倉時正や、実父山口常成の所領があった宮城県川崎町、大郷町、大和町の3か所にあるのだそうです。(゜Д゜;)エェッ~!そんなにあるの・・・?
 私は残念ながらこれらすべて墓参できませんでしたが、お近くの方はぜひ探してみてください。

 
 常長の墓石の傍らには、常長に同行した宣教師ルイス・ソテロの碑があります。
 ソテロの碑

 ソテロはフランシスコ会の宣教師。
 伊達政宗の知遇を得、支倉常長と共にサン・ファン・バウティスタ号に乗り渡海し、スペイン国王、ローマ教皇にも謁見し、日本での宣教の支援を求めるも、挫折。
 同じ頃、江戸幕府が禁教令を出し、日本に入国できなくなったソテロはフィリピンのマニアで再入国の機会を待ちますが、元和8年(1622年)密入国したところを捕縛され、伊達政宗が幕府に助命嘆願をするもかなわず、長崎にて火刑に処せられ、悲劇の最期を遂げました。
 この供養碑は比較的近年新しいものなのでしょうかね。



   お寺の境内にいた猫。鈴がついていたので、お寺さんの猫でしょうか。
   カメラ目線にもなってくれて、人なつっこい猫さんでした。
   仙台の猫

 

 関連記事 【特別展】伊達政宗の夢~慶長遣欧使節と南蛮文化~(仙台市博物館)



  
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丹羽長重の墓

 白河小峰城(福島県)を築いた丹羽長重のご紹介です。

 丹羽長重は元亀2年(1571年)、丹羽長秀の子(母は織田信長の姪)として岐阜に生まれました。
 天正10年(1582年)、長重が12の年に「本能寺の変」がおき、その後の遺領配分で父・長秀が佐和山城から大溝城に移ると、長重は坂本城に配されます。この年、織田信長の5女(報恩院)と結婚しています。
 翌天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに父と共に参陣しますが、これが彼の初陣となりました。
 天正13年(1585年)に父・長秀が没すると長重は遺領である越前国・若狭国・加賀国二郡123万石を相続しますが、同年閏8月、越中の佐々成政征伐の折、長重の家臣が軍令に背いたとの理由で羽柴(豊臣)秀吉の命により若狭一国(12万3千石)のみに減封され、小浜城へ移りました。
 さらに、2年後の天正15年、秀吉の九州征伐に従軍しますが、ふたたび家臣が狼藉を働いたとの理由で、加賀松任4万3千石の小大名に転落してしまいます。秀吉による過酷な仕打ちは、かつての同僚であった丹羽家を警戒し、その勢力をそぐ目的があったのでしょう。この過程で、多くの家臣が丹羽家を去っていき、家臣団も瓦解するという憂き目に遭います。

 慶長3年(1598年)、小田原征伐に従軍した功として加賀小松12万石に加増されます。
 秀吉亡き後の慶長5年(1600年)の関ケ原合戦では西軍に属し、前田利長と戦ったため(浅井畷合戦)、戦後領地を没収され、長重はわずかな伴を連れて浪々の身となってしまいます。

 しかし、徳川家康が征夷大将軍に任ぜられると、関ケ原没落諸大名への懐柔策がとられ、長重は慶長8年(1603年)に常陸国古渡1万石を与えられて大名に復帰します。
 家康没後、長重は二代将軍・秀忠の「御伽衆」に加えられ、元和5年(1619年)常陸国江戸崎2万石に加増、さらに元和8年(1622年)には陸奥国棚倉5万石で入封します。
 寛永4年(1627年)、幕命により陸奥国白河に国替となり、10万石の居城を築きます。これが小峰城です。この時、長重は57歳という老齢に達していました。
 白河小峰城2008b



 寛永14年(1637年)閏3月6日、長重は江戸桜田屋敷にてその波乱に満ちた生涯を閉じました。享年67歳。

  墓は白河市の円明寺にあります。(2008年4月撮影) 高さ4.27mの宝篋印塔です。
  丹羽長重の墓


  墓の傍らにある霊廟
  丹羽長重の墓1


 こうしてみると、長重の若き日は常に秀吉から睨まれたため辛酸を舐め、白河の地に小峰城を築いたのは老境にさしかかってからという苦難の人生だったことがわかりました。
 大名としてはいささか地味な印象ですが、築城家としてもなかなかの名手だったことがうかがえ、その手腕を買われて東北の押えとなる白河へ配されたのでしょう。
 
 
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駒姫の墓

 「最上義光の墓 附・最上家親・義俊の墓」のつづき 

 最上義光には「駒姫」(別名「お伊万の前」)という娘がいて、彼女は美女の誉れ高く、義光にとっても自慢の娘でした。
 天正19年、九戸政実討伐の折、豊臣秀吉の甥、秀次が帰路山形城に立ち寄った際、挨拶に出た駒姫を気に入り、義光に対して駒姫を自分の側室として差し出すよう命じたといいます。
 やがて15の歳を迎えた駒姫は、文禄4年(1595年)京へ上ります。ところが、夫となるべきはずの秀次は秀吉の怒りを買って、突如高野山へ追放され、切腹を命じられます。
 秀吉は秀次の妻子らにも処刑を命じますが、この中に駒姫も含まれていました。実はこのとき駒姫は、まだ秀次と対面を果たしていなかったという説もあります。
 この報に驚いた父・義光はかねてから懇意にしている徳川家康に娘の助命嘆願を行いますが、願いもむなしく、駒姫は秀次の妻妾らと共に三条河原の露と消えました。
 義光は娘の死をいたく嘆き、元は高擶村(現・天童市)にあった浄土真宗の寺を山形城下へ移し、亡き娘の菩提寺と定めました。

  専称寺(山形市緑町3-7-67) ※2007年撮影
 専称寺


 墓地の一番奥に駒姫の供養塔がひっそりとありました。(写真が少々暗めになってしまいました)
 処刑された秀次の妻妾の中で、駒姫は一番最年少でしたが、従容として死地についたといいます。
 駒姫の墓


 三条河原での処刑の日、駒姫は11番目に斬られ、遺骸は他の妻妾らと共に、河原に掘られた一つ穴に投げこまれました。
 駒姫の辞世の句
「罪をきる弥陀の剣にかかる身の なにか五つの障りあるべき」

 この辞世は駒姫愛用の着物で表装され、京都国立博物館に現存しています。下の写真は京都・瑞泉寺(豊臣秀次と妻妾の供養塔がある)で撮影した複製です。(※2008年撮影)
 駒姫辞世


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最上義光の墓 附・最上家親・義俊の墓

 山形市鉄砲町2-5-7にある曹洞宗・光禅寺
 羽州57万石の大名・最上義光(もがみよしあき)の菩提寺です。寺の案内板によると、慶長七年(1602年)に義光が大石田黒滝、向川寺九世春林禅寺冬和尚を拝請して山形城下・七日町に開創したのがはじまりとのこと。寺は掘を巡らした七堂伽藍が配されていたといいます。はじめ、「慶長寺」と称していましたが、徳川幕府が年号を寺号に使用することを禁じたため、「光禅寺」と改称しました。
 最上氏が三代で改易されると、山形には鳥居忠政が入部しましたが、光禅寺の建物を父の菩提寺として定め「長源寺」とし、光禅寺を城下の南部・三日町に移してしまいます。
 この時、最上義光および殉死した家臣四名の墓も一緒に改葬したということです。
光禅寺


 光禅寺は実は桜の名所として地元では知られているということで、この日朝早く墓参へ行ったのですが、すでにカメラを手にした人の姿がチラホラ見られました。
光禅寺2


 最上義光は天正15年(1546年)、最上義守の長男として生まれますが、父との折り合いが悪く、家督を相続するまでに苦労しています。
 近隣の小豪族との戦いに打ち勝ち、天正18年の豊臣秀吉による小田原攻めに際しては落城寸前ギリギリの段階で秀吉に拝謁し、所領を安堵されます。(奥州仕置)
 慶長5年(1600年)の上杉景勝攻めにあたり軍功を認められた義光は村山・最上・庄内、および秋田県由利郡の57万石を有する出羽山形藩の初代藩主となりました。

   最上義光銅像b

 義光は山形城および城下の整備を行いますが、晩年は家臣団の対立から長男・義康を謀反の疑いありとして暗殺、しかし後には長男を死に追いやった事を後悔し、義康を厚く弔っています。やがて、義光は病気がちとなり、慶長19年(1614年)1月に死去。享年69歳でした。
 最上義光の生涯については、「最上義光歴史館」のサイトをぜひご参照ください。


 義光の墓は奥の墓地にありました。江戸時代中は霊屋もあったようですが、明治27年(1894)の大火で堂宇と共に焼けてしまったようです。
最上義光の墓1

   最上義光の墓2


 私が最初に最上義光を知ったのは、中学時代に放映していたNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」で、俳優の故・原田芳雄さんが演じていたのを見たことからでした。
 よく知られているように、伊達政宗の母・義姫は義光の妹にあたりますから、義光と政宗は伯父・甥の関係になります。ドラマで描かれた義光は政宗のライバルとして、どちらかというと「悪役」として描かれていたように思いますが、原田さんが権謀術数にたけた義光を好演されていたのが強く印象に残っています。
 聞いた話では、当初最上義光役には故・松田優作さんがキャスティングされてましたが、松田さんが断ったため、原田さんにオファーが行ったということです。結果的にこの配役は成功だったといえるでしょう。

  
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 義光の墓の傍らには殉死した家臣(寒河江十兵衛、寒河江肥前守、長岡但馬守、山家河内守)四名の墓がありました。
最上義光の殉死者の墓


 そして、義光の次男で二代藩主の家親(右)およびその子の義俊の墓です。
 家親は若年の頃より徳川家康に近侍し、13歳で元服の後、家康の偏諱を受けて家親と名乗ります。その後は家康の子・秀忠の家臣として側近く仕えており、江戸の留守居役を命じられるなど、その功により秀忠より名刀を拝領しています。

 兄・義康が不慮の死を遂げていたため、最上家の家督を継ぎますが、家中には父・義光時代から根深い家臣団の対立がありました。家臣には弟の義親を支持する者もいて、家親は後に義親を自刃に追い込んでいます。
 元和3年(1617年)、家親は山形城にて36歳という若さで急死します。家親の突然の死は様々な憶測を呼び、家臣の家で馳走を受けた後苦しみだし、帰城したその夜に死んだという説や、能楽観賞後に腹痛をおこして死んだとする説、侍妾に刺殺されたという説などの風説がたったようです。
 
 家親の死後は息子の義俊が13歳で家督を継ぎましたが、家臣団の対立は依然として根深く、家中の内紛を治められないとしてこれを問題視した幕府より改易の沙汰が下り、57万石の領地は召し上げられてしまいます。その後、義俊は近江大森藩1万石に入封しますが、寛永8年(1631年)に亡くなりました。享年27歳。
 なお、義俊には義智という息子がいて、交代寄合として5000石を拝領し、家名は存続されました。
最上家親・義俊の墓


                           つづく

 関連記事 伊達政宗の墓 瑞鳳殿
        駒姫の墓(最上義光の娘さんです)


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上杉鷹山の墓

 国指定史跡 上杉家廟所(米沢市御廟1-5-30)。深閑とした樹齢400年の杉並木の奥に、米沢藩上杉家歴代藩主の墓があります。(拝観料大人300円)
 5年ぶり2度目の参詣となりまして、今回撮影しなおしてきました。
上杉家廟所

 廟所は上杉謙信の墓を中心として、左右交互に歴代藩主の霊屋が立ち並んでいます。
上杉家廟所2


 上杉家廟所については、以前も一度書いたことがありますのでそちらもご覧ください。
 過去記事⇒上杉家廟所

 今回は特に、米沢藩中興の祖である第九代・上杉鷹山(治憲)の墓について取り上げます。
 藩祖の上杉景勝から七代・宗房までが欅を資材として用いた入母屋造りであり、鷹山の養父である八代・重定以降は藩の財政難ということもあり、資材に杉や檜を用いた宝形造りに変更されています。つまり、資材の質を落とし、全体的に簡素な造りに変更したことでコストカットしているわけです。

 向って左が鷹山の墓、右が宗房の墓。形が違うのが一目瞭然です。なお、三代・定勝から七代宗房までは火葬で葬られ、八代重定以降は土葬に変更されております。
上杉鷹山の墓1

 
 鷹山には側室・お豊の方との間に顕孝という息子がいましたが、鷹山の養子である十代・治広の養嗣子になっていましたが、残念ながら疱瘡に罹り、19歳という若さで先立ってしまいました。わが子の若すぎる死に、鷹山は深く慟哭したといいます。
 通常なら夭折した息子は藩主の廟所には埋葬されないのですが、顕孝の場合、特例としてこの場所に葬られました。
 左手奥の小さな霊屋が顕孝の墓、その右隣が実父の鷹山の墓です。

 鷹山の有名な言葉である「成せば成る。成さねば成らぬ何事も、成らぬは人の成さぬなりけり」は、顕孝の教育係に宛てた顕孝への教育方針を示した書状の末尾に記されたもので、現在上杉博物館で開催中の特別展にもその書状の写しが展示されてありました。
 
 関連記事⇒特別展「上杉鷹山の財政改革~国と民のしあわせ~」(米沢市上杉博物館)

上杉鷹山の墓2


 関連記事  上杉鷹山の藩政改革を支えた家臣の墓


  
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日本100名城完全制覇と有名人の墓めぐり(掃苔)
日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

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