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「逆さ磔」にされた?鳥居強右衛門

 馬場信房(信春)の墓より国道151号線をお城へ向かって戻っていたんですが、途中でお城への近道らしき脇道があり、そちらへ行ってみる。
 しばらく歩いていると、「弾正郭」の石碑があった。

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 後ろの石垣は当時の物ではないらしい。その写真を撮ったあと、今来た細い道の真向かい側に電信柱があった。

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 よく見てみると、電信柱に「鳥居強右衛門が叫んだ場所」みたいな言葉を書いた紙が貼ってあった。よく見なければ通り過ぎてしまう。

 鳥居強右衛門勝商(とりいすねえもんかつあき)ですが、戦国史をちょっとかじった人ならば必ず聞き知っている人物だと思います。
 あまり知らないという人のために説明しておくと、彼は城主・奥平貞昌の家来・・・といっても雑兵だったんですが、天正3年(1575年)5月14日、武田軍によって兵糧倉を落とされ、もはや城の運命が風前の灯となった時、彼は城をひそかに脱出して、翌日、岡崎の徳川家康の元へ走り、援軍を送るよう要請しました。
 ところが、再び城へ戻る途中、強右衛門は武田軍に捕らえられてしまい、とうとう磔にされてしまいます。
 武田勝頼は「援軍は来ないと城へ向かって叫べば、命だけは助けてやる」と強右衛門を促したが、強右衛門は「援軍は必ず来る」と城へ向かって叫んだので、激怒した勝頼は死を命じ、強右衛門は「串刺しの刑」に処せられ、命を落としました。
 強右衛門の壮烈な死に、信長も家康も「あっぱれ、忠義の士よ」といたく感じいったといわれます。 

 お城の駐車場へ戻り、車を出す。そろそろ、長篠を離れないと設楽原古戦場を見学する時間がなくなるので、ちょっとあせり気味。

 飯田線の踏切の側の畑の中に、「鳥居強右衛門磔の趾」はありました。
 DSCF3584.jpg

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 私はここへ来るまで、てっきり強右衛門が磔になったのはここかと思っていたのだが、さっき歩いた弾正郭の側の電柱の所とどっちが正しいのだろう。

 彼の最期を描いた、有名な「落合左平次の旗指物」。これは武田側にいた落合左平次という武士が、強右衛門の潔い最期を遂げた姿に感銘を受け、後に自らの旗指物の図柄にしたものです。現物は東京大学史料編纂所に所蔵されています。
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tag : 有名人の墓(た行)

馬場美濃守の墓

 天神山陣地から、ふたたび国道151号線へ向けて歩いていく。

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 何という花なんだろう。やっと周囲に目を向ける余裕が出てきました。

 お城から西側500M付近、151号線を少し脇に入る。「馬場美濃守の墓」という看板もあり、すぐわかります。
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 私有地?というか、舗装されていない駐車場のような所の先に、彼のお墓はあった。
DSCF3547.jpg

 設楽原の戦いで、織田・徳川両軍の鉄砲隊の前に、武田軍は次々と斃れていった。
 もはや、敗色濃厚となって、武田勝頼が退却を決したとき、殿を務めたのがこの馬場美濃守信房(信春)だった。
 やがて彼は反転し、織田軍と向き合って、壮烈な最期を遂げた。享年61。
 「武田四天王」の一人であり、武田家3代に仕えた名高い重臣であった。
 馬場美濃守の最後の戦いぶりは、織田軍からも賞賛の声があがったという。
 ところで、彼が討ち死にしたのはここではなく、寒狭川(豊川)沿いの「出沢」という場所だったということです。

 美濃守のお墓の前で静かに合掌し、車を取りに長篠城駐車場へ戻ることにしました。

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tag : 有名人の墓(は行)

渡辺崋山の墓

 前述したように、田原ゆかりの人物として真っ先に思い浮かぶのは、江戸時代後期に輩出した渡辺崋山(1973~1841年)です。
 たしか高校時代の頃、崋山に関する伝記を読んだことがありまして、彼の存在が心のどこかに常に残っていました。

渡辺崋山像

 渡辺崋山は田原藩士の子として江戸麹町の田原藩邸で生まれました。藩邸があったのは今の最高裁判所のあたりです。(すぐ側の三宅坂は地名に田原藩三宅家の名をとどめている)
 田原藩は1万2千石という小藩だったのですが、藩の財政は窮乏を極め、藩士たちの俸禄も大幅に削られていました。崋山が育った家も家計が苦しく、幼い弟や妹たちを奉公に出さねばならないほどであったため、彼自身若年の折から絵を描く内職をして家計を助けなければなりませんでした。
 しかし、もともとは家計援助のために始めた絵で、崋山の才能は花開くのです。
 後に谷文兆などに師事して、めきめきと才覚をあらわし、古河藩の家老を描いた「鷹見泉石像」(東京国立博物館所蔵)は国宝指定となっているなど、多くのすぐれた絵画を残しました。
 
 崋山の才能は絵画だけにとどまらず、学問のほうも熱心に励みました。幕府の昌平黌にも学び、佐藤一斎、松崎に師事します。
 多くの学者・文人たちとも交流を持ち、詩文、和歌、俳諧にも通じていたといいますから、崋山という人は実にマルチな才能を有していたといえます。

 一方で崋山は田原藩からも能力を見込まれ、後に家老にまで出世します。絵画や学問だけに終始せず、藩士としても様々な仕事に携わって、実績を積み重ねていきました。

 さて、崋山は30歳を過ぎた頃から蘭学や兵学に関心を寄せるようになり、その研究を始めています。こうした過程で紀州藩儒官遠藤勤助が結成した「尚歯会」に参加し、高野長英、小関三英、幡崎鼎、後には江川英龍(太郎左衛門)など幕臣も参加し、当時おこった「モリソン号事件」を契機として海防問題などについて議論を深めていきました。
 
 しかし、こうした蘭学者たちの動きを警戒していた人物がいました。幕府目付の鳥居耀蔵(1796~1873年)です。彼は幕府の儒官であった林家の出身であり、かねてから蘭学者たちを敵視していました。
 そして、幕府から命じられた江戸湾測量で、蘭学者を用いて測量を進めていたライバルの江川英龍にお株を奪われてしまった鳥居は、これを逆恨みして、蘭学者たちを弾圧することを考えました。
 
 鳥居は一計を案じ、天保10年5月に江川や崋山に濡れ衣を着せて、彼らを追い落とそうと画策しました。
 江川のほうは老中・水野忠邦のとりなしもあって事なきをえたものの、崋山は幕府による家宅捜索の際に、幕政の海防政策を批判した『慎機論』が発見されたことで、囚われの身になってしまいました。場合によっては死罪の可能性もあったといいます。(蛮社の獄)

 しかし、この時崋山の学者、文人仲間の有志が崋山の減刑のために奔走しました。特に、師であった松崎慊堂は老躯を押して崋山のために赦免嘆願書を書き、これが水野忠邦の心を揺り動かし、崋山はかろうじて死一等を減じられました。
 しかし、崋山は国許田原での蟄居を命じられ、池ノ原にある粗末な家に家族と共に移りました。その時の屋敷が池ノ原公園内に復元されています。

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 当然のことながら、蟄居生活で生活は窮乏し、これを見かねた崋山の門弟が生活費の足しになるようにと、崋山の絵を売り、画会を開くなどして崋山の援助を考えました。
 しかし、その活動に対して「罪人身を慎まず」というような風評が立ち、崋山の心は次第に追い詰められていきます。
 そして、天保12年(1841年)10月、主君に迷惑をかけられまいと崋山は自ら死を選びました。享年49歳。「不忠不幸渡辺登」と大書したものや、息子へ宛てた遺書などが今でも残されています。

 崋山が切腹したという納屋も復元されていました。
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 罪人ということで、崋山の墓を建てることもなかなか許可がおりず、江戸幕府滅亡の頃になってやっと建てられたということです。下の写真は城宝寺(田原市田原町稗田50)にある崋山と家族のお墓です。

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 あれだけマルチな才能がありながら、鳥居耀蔵の姦計に遭い、悲劇的な最期をとげた崋山の一生は死後も多くの人々の同情をさそいました。
 お城の側には、崋山を祀った神社までありました。

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 蛮社の獄で崋山が窮地に陥った時、松崎慊堂や弟子の椿椿山たちが崋山の赦免活動をしたのですが、それだけ崋山は日ごろから人望があったのでしょう。崋山の篤実な人柄がうかがい知れるエピソードです。
 生まれてくるのがもう少し遅かったなら、幕末激動の時代になんらかの形で参画できたかもしれません。

 私も崋山の詳細を知ってから、実に20年もの歳月が経っていましたが、今回こうして墓参りが出来てほっとしました。

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日本100名城完全制覇と有名人の墓めぐり(掃苔)
日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

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