スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

甘利信康、山県昌景の墓/野田城

 長篠城周辺を歩いてきて、うっかりしていたことがあった。鳥居強右衛門磔の碑を見たあと、飯田線の踏切をわたった先のほうに「牛淵橋」という橋があって、豊川と宇連川が合流する所から長篠城の外側を撮影するのを忘れてしまった。100名城のスタンプにもなっているところですね。帰りの新幹線の時間ばかり気をとられたせいだったと思う。また、何かの機会に再訪しようと思います。

 この後、馬防柵を見に設楽原へ戻る。(先日の日記ですでに述べました)

 省略しようと思ったが、かわいそうなので、甘利信康(右)と山県昌景(他3名)の墓を。

DSCF3598.jpg DSCF3661.jpg

 甘利信康は甘利虎泰の息子ですね。山県昌景のほうは住宅地の裏の藪の中、奥まった所にあり、あやうく見過ごして帰りそうになった。両者とも激戦の地で命を失っている。

【長篠城・設楽原古戦場めぐりの感想】

 時間に余裕を持って回ったつもりだったが、それでも足りなかった。特に、織田信長、信忠、武田勝頼の陣所などはちょっと距離があるので、難しかった。
 飯田線は一時間に一本しかないし、馬防柵と長篠城を見て帰ってしまう人が大半だと思うが、古戦場の史跡を見たいならば、絶対車で行くべき。
 時間に余裕をもって行くことをおすすめします。

 「長篠の戦い」で、武田勝頼は信玄以来の多くの家臣を失い、武田氏滅亡への道の序曲となったわけだが、武田勝頼は決して愚将というわけではないが、父・信玄亡き後かなり無理をしていたと思う。信玄が落とせなかった高天神城を落としたという慢心もあったかもしれない。
 そして、対する織田信長の方は、かつて信玄から裏切られた一件を執念深く根に持っていたのだった。
 信長の「信玄憎し」の感情が、そのままストレートに子の勝頼に対して向けられた事が大きかったように思われた。

(つづきます↓)
 

続きを読む

スポンサーサイト

テーマ : 国内、史跡・名勝巡り
ジャンル : 旅行

tag : 有名人の墓(あ行) 有名人の墓(や行)

吉田城

 田原城を見学の後、長篠城のある新城市へ向かうため元来た道を戻りました。
 その道すがら、豊橋まで来たので吉田城に寄っていくことに。城跡は現在、豊橋公園になっています。

 吉田城

 吉田城は永正2年(1505年)、牧野氏がその前身である今橋城を築いたことに始まるという。
 後に徳川家康が三河を統一した際に酒井忠次を配置し、天正18年(1590年)の家康関東移封により池田輝政(1565~1613年)が入城して、大規模な城と城下町の整備拡張を行ったということです。
 江戸時代以後は、竹谷松平、深溝松平、水野(沼津より)、水野(山形より)、小笠原、久世、牧野、大河内松平、本庄松平、大河内松平(再封)と、譜代大名の頻繁な国替えがありました。
 上の写真は昭和29年(1954年)に復興された「鉄櫓」(くろがねやぐら)です。
 吉田城は江戸時代に描かれた城の絵図などが残っていて、先日二川宿の資料館で見た展示にもありました。

 櫓からは豊川・朝倉川が見え、とても眺めが良いです。いわば、「背水の陣」ならぬ「背水の城」とでも言いましょうか。二つの川を背に、本丸を基点とし、二の丸、三の丸を配した半輪郭式の縄張りというところにこの城の特徴があります。
DSCF3403.jpg

 あまり時間がなかったので、城内を駆け足で歩いてみましたが、空堀みたいのがありました。
DSCF3388.jpg

 石垣も残っていました。石垣に使用された花崗岩は、名古屋城築城の折の残石を転用したんだとか。
 そのため、石垣の石には名古屋城造成に関わった大名の刻印が認められ、これまでに60種類の刻印が見つかっているということです。

DSCF3414.jpg

 明治以後は、この地に陸軍の歩兵連隊が駐屯していました。
 城内には、なぜか日本武尊?の像がありました。

DSCF3386.jpg

★いつも応援してくださる方、どうも有難うございます。★
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ     人気ブログランキングへ

テーマ : 国内、史跡・名勝巡り
ジャンル : 旅行

田原城

 つづき

 翌日、朝早くレンタカーを借りました。せっかく車を借りたし、時間にも余裕がありそうだったので、田原城を見に行くことにしました。
 豊橋から車で40分くらいで、田原市へ着きました。


 手元の資料によると、田原城は文明12年(1480年)ごろ、戸田宗光によって築城したことに始まるという。
 宗光の曾孫にあたるのが、戸田康光(?~1547年)で、この人は娘の真喜姫(田原御前)を徳川家康の父である松平広忠(1526~1549年)に嫁がせており、家康からみれば義理の祖父にあたる人である。
 後に、「竹千代」とよばれた幼い家康が駿河の今川氏のもとへ人質として送られる途中、これを強奪し、織田氏の元へ引き渡してしまった張本人がこの康光です。
 余談ですが、昔中学時代に山岡荘八の長編小説『徳川家康』を読破したので、この辺の歴史は多少記憶しています。
 戸田氏、今川氏城代、松平氏城代(本多氏)などの支配を経て、豊橋の吉田城に入った池田輝政の城代として伊木忠次が置かれ、この時に現在見られるような田原城の整備がなされたということです。

 桜門 平成5年(1993年)に復元されました。左右の土塀が海鼠壁になっているのが特徴で、新発田城(新潟県)、金沢城(石川県)など豪雪地帯の城では見られるが、温暖な地域であるこの地域では珍しいという。
DSCF3260.jpg

 桜門の脇にある堀 昔は城の辺りまで海水が来ていたんだとか。
DSCF3314.jpg


 桜門を入ってすぐのところに、昭和33年に復元された二の丸櫓があります。
DSCF3256.jpg

 本丸跡には現在巴江神社が置かれ、往時の面影はなかった。
DSCF3315.jpg


 なお、城の全体的な印象ですが、石垣なども多少は残っていましたが、敷地のほとんどが明治維新後現在に至るまでに壊されてしまったような感じです。

 城内には田原市博物館があります。
DSCF3279.jpg

 田原ゆかりの人物といえば、くわしい方なら渡辺崋山(1793~1841年)とすぐピンとくると思いますが、常設展は渡辺崋山をメインで特集しています。
 江戸時代、田原城は再び戸田氏が入った後、三宅氏が入封して明治維新までこの地を治めましたが、渡辺崋山は三宅氏に仕えた家老であり、絵画や蘭学の素養など、多彩な能力をもった教養人でもありましたが、有名な「蛮社の獄」によって幕府に捕らえられ、悲劇的な最期をたどった人物です。(崋山については後述します)
 崋山が遺した書画や、自刃の時に使用された短刀、遺書など、史料を使って彼の一生をわかりやすく展示してありました。

 この日は企画展をやっていて、『小説渡辺崋山』を書いた田原出身の作家、故・杉浦民平(1913~2001年)を特集していました。彼については名前は知っていましたが、彼の著作を一度も読んだことがなかったためピンときませんでした。

               つづく


大きな地図で見る


★ランキング参加中 応援お願いします!★
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ     人気ブログランキングへ

テーマ : 国内、史跡・名勝巡り
ジャンル : 旅行

西尾城(二)

 つづき

 西尾城丑寅三重櫓が時間外で入れず、ガックリ来てたんですが、気を取り直して敷地内にある資料館へ。

DSCF3155.jpg

 西尾藩の江戸後期の藩主だった大給松平家の史料や、西尾城内で発掘された物などが展示してありましたが、内容があまりパッとしなかったので、5分くらいで見終わりました。

 この日はとにかく蒸し暑く、少々疲労感を感じてきたので、城内にある旧近衛邸へ行ってみる。パンフには、抹茶がいただけると書いてあったので、ここで休憩しようと思っていましたが・・・。

DSCF3199.jpg

 しかし、抹茶の提供時間はすでに終わってしまったと受付の人に言われて、凹みました。
 仕方ないので、邸内で5分くらい休ませていただいた。

 ところで、この旧近衛邸ですが、もともと京都にあった公家の近衛家の邸宅の一部(書院と茶室)を移築してきたものだということです。幕末、左大臣であった近衛忠房の夫人は薩摩藩・島津斉彬の養女だったのですが、その縁で島津家によって建てられたものだということです。
 ということは、大河ドラマの主人公にもなった「篤姫」と近衛夫人とは義理の姉妹ということになりますね。
 管理人さんの話だと、一昨年の大河ドラマ放映時にちょっとした地元の話題になったんだとか。
 
 明治維新後、近衛邸にあったこの建物も某宗教団体の持ち物となり、平成になって持ち主から西尾市が買い取って移築したものだそうです。ですから、西尾藩とは直接何の関連性もないとのこと。西尾は抹茶の名産地でもあり、お茶の文化啓蒙ということもあって移築したんでしょうか?以上余談です。

 お城の話に戻りますが、上の写真の手前側に白砂が敷いてあるところに着目してください。

DSCF3177.jpg

 以前行われた発掘調査の結果、この砂洲の下には、深さ2.5Mの二重の堀があり、堀で囲まれた部分に丸馬出が築かれていたそうです。

 その他

 尚古荘  昭和初期に造られた建物と日本式庭園。この辺りは「東の丸」と呼ばれ、門や櫓があったそうです。
 DSCF3218.jpg

 三の丸 大手門跡  三の丸は田中吉政時代に整備された。お城の側の交差点の角にある。案内板の脇に変なおじさん?の人形があった。
DSCF3150.jpg

 太鼓門跡 ここに時の鐘を知らせる太鼓櫓があった。三の丸大手門が出来るまではここが大手門だった。現在は小学校の玄関になっている。
DSCF3214.jpg


★ランキング参加中 応援お願いします!★
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ     人気ブログランキングへ

テーマ : 国内、史跡・名勝巡り
ジャンル : 旅行

西尾城(一)

 西尾市岩瀬文庫でギャラリートークが終わったのが午後3時半過ぎ。今回の主たる目的は城攻めですので、急いで西尾城へ向かいました。岩瀬文庫から歩いて20分くらいの距離の所に西尾城があります。

※クリックで拡大します↓
西尾城外郭図


西尾城鍮石門

 二の丸表門にあたる「西尾城鍮石門」を復元したものだそうです。復元ではありますが、往時をしのばせる造りです。
 「鍮石門」という名前から、門のどこかに真鍮の飾りがついていたのではないか、と考えられます。

 手元の資料によると、承久3年(1221年)足利義氏が三河守護職に補任され、守護所をこの地に構えたのが始まりとのことです。
 義氏の孫・満氏の代で吉良庄に下向して「吉良氏」を名乗り、「西条城」を築きましたが、のちに吉良氏は西条城と東条城とに別れ、東条吉良氏は東国に移り世田谷城主となり、西条吉良氏は西条城を中心に有力在地領主となりました。
 徳川家康が三河を統一してからは酒井氏が西条城に入り、城の名は「西尾城」と改められました。その後、家康が江戸へ移ってからは田中吉政が城主となり、櫓や門の築造を行い、整備拡張したということです。
 その後は代々、譜代の大名が入れ替わり立ち代り入封しました。
 明治5年(1872年)廃城となって、城内にあった建物は取り壊されました。

 西尾城の特色は、天守が本丸ではなく、二の丸に存在したということです。かつては、三層目に廻縁を伴う望楼があったといいます。

 西尾城1

 そして、本丸のほうには丑寅三重櫓があって、こちらは復元されているということを聞き、これを見るのが楽しみでやってきたのです。

西尾城丑寅三重櫓2

 内部も見学できるらしいと聞いていたのですが・・・。

★ランキング参加中 応援お願いします!★
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ     人気ブログランキングへ

続きを読む

テーマ : 国内、史跡・名勝巡り
ジャンル : 旅行

ブログランキング
「もののふの心」および歴史的遺産を後世に伝えましょう♪
うさぎ
  ↓ ↓ ↓ ↓
人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
カレンダー
01 | 2017/02 | 03
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 - - - -
カテゴリ
ご注意 ごくたまに、「城」「史跡」「お墓」等の話題が、ドラマ関連やその他のカテゴリとして登録されている場合があります。
月別アーカイブ
最新コメント
FC2カウンター
おきてがみ
お気軽にどうぞ(お返事が遅くなる場合があります)
プロフィール

A☆六文銭

Author:A☆六文銭
ブログテーマ
日本100名城完全制覇と有名人の墓めぐり(掃苔)
日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

★当ブログ内の文章、写真等はすべて無断転載禁止です。宜しくお願いします。
★当方と連絡を取りたい方は、下部メールフォームからお願いします。(ご感想はなるべくコメント欄のほうにお願いします)
※Twitter、Facebookはやってません。

最新記事
おすすめ書籍
リンク
RSSリンクの表示
検索フォーム
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。