スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

稲佐の浜

 奉納山公園の中腹、出雲阿国を顕彰した「阿国塔」よりさらに上方へ登っていくと、展望台がありました。

 奉納山公園1

 
 展望台に上がってみますと・・・西の方角に渚が見えました。
 「稲佐の浜」
 太古の昔、天照大神(アマテラスオオミカミ)が建御雷神(タケミカヅチ)を遣わし、大国主神(オオクニヌシノカミ)に天孫への「国譲り」を要求したといういわれのある場所です。
 その際、建御雷神が浪間に剣を逆さに突き立て、大国主神を威圧して「否(いな)、然(さ)」(つまりNOかYESか)と迫ったことから、この名前がついたといわれています。
 大国主神がその交換条件として、自分が隠棲するための壮大な建物を用意してくれるよう申し出たので、天照大神が浜辺のすぐ近くに造らせたのが天日隅宮(あまのひすみのみや)、すなわちこれこそが出雲大社の起源だといいます。

 稲佐の浜は「なぎさ百選」にも選定されているそうで、たしかに遠目に見ても美しい風景でした。
 稲佐の浜1

 
 一方、北側の小高い山の方は紅葉していました。
 奉納山公園2


 たしかに眺めは良い場所でしたが、いかんせん海風が強くて、凍えてきてしまったので早々に降りてきました。
 ついでなので、稲佐の浜まで行ってみることに。
 毎年旧暦10月10日には浜辺で御神火を焚き、八百万の神を迎い入れるという「神迎神事」が行われています。(昨年はちょうど私が行った日の前日に行われていたようです)
 稲佐の浜4


 浜辺に小さな島?のようなものがあり、小さな社が見えていますが、人々が恭しく祈りを捧げているのが見えました。
 稲佐の浜3



 「弁天島」
 古くは「沖御前」といい、遥か沖にあったらしいです。昭和60年前後までは、島の前まで波が打ち寄せていましたが、近年急に砂浜が広がり、現在では島の前まで歩いていけるようになったそうです。
 江戸時代までは「弁財天」が祀られていましたが、現在は豊玉毘古命(とよたまひこのみこと)が祀られています。
 なんでもこちらもまた「パワースポット」だそうで、他の人々と同様、私も祈りを捧げておきました。
  稲佐の浜2


 聞いたところでは、夕景もひときわ美しいそうです。
 ここから北へ海岸沿いの道を行くと日御碕灯台へ至りますが、そこまで数キロの距離があり、車がないと行けなさそうだったので、こちらで撤収しました。
 今回は遠路はるばるやってきた割には、出雲大社と博物館だけで終わってしまったというか、またいずれゆっくり来てみたい場所ですね・・・。

 
 
より大きな地図で 稲佐の浜 を表示

 


人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ 
スポンサーサイト

テーマ : 歴史・文化にふれる旅
ジャンル : 旅行

祈る心・・・出雲大社

 昨年11月、島根県にある出雲大社に行ってきました。
 出雲大社といえば、「縁結び」の神様として有名ですが、島根県はいつも松江止まりで、今まで出雲まで足を延ばしたことはありませんでしたのでこれが初めての参拝です。
 私共が10年前に結婚式を挙げた時、神前式だったのですが、会場に設けられた社は出雲大社からの分祀でしたので、お礼詣りもかねています。
 
 現在、出雲大社は60年に一度という「平成の大遷宮」、すなわち本殿の改修工事が行われています。また、ちょうど現地は「神在月」(八百万の神々が出雲へ集う)だったため、大勢の参拝客で賑わっていました。

 ところで、この日東京から夜行バスで着いたのですが、バスの到着場所が社の西側だったため、近くにある神楽殿から参拝しました。
 この神楽殿ですが、ご覧のように、大きなしめ縄が有名です。なんと、長さ13m、太さ8m、重さ4.5tもあるのだとか!?
 なお、このしめ縄に向かってお賽銭を投げている人をちらほら見かけたのですが、これはNGだそうですからマネしないよう注意しましょう。
 出雲大社1


 この後、すぐ近くに「出雲阿国」の墓があるというので、ついついそちらへ行ってしまい(後述)、また大社へ戻ってきたのですが、実はこれが大失敗でした。。。


 とりあえず、順序通り「木の鳥居」(二の鳥居)からスタートします。
出雲大社3


 ここからまっすぐ伸びる参道を進みます。
 
 「鉄の鳥居」(三の鳥居) ここまではよかったんですが・・・。
  出雲大社4

 その先には人・人・人!長蛇の列ができています。
  出雲大社5


 最後尾に並んだのですが、なかなか前に進まないため、列を抜け出し社の方へ。
  
 「銅の鳥居」(四の鳥居) 毛利綱元(元就のひ孫)が寄進したという、わが国最古の青銅の鳥居だそうです。
出雲大社6


 その先に「御仮殿」があります。「大遷宮」中は大国主大神の「仮住まい」となっています。
 しかし、ご覧のように行列しないと参拝できません。
 仕方ないので、御仮殿での参拝はあきらめ、遠方からそっと手を合わせてその場を去りました。
 やはり寄り道せず、先にこちらに来ればよかったと後悔しました。
出雲大社7

  参拝を待つ人々の列はとどまるところをしらず・・・。
 「神在月」だと、こんなにも多くの人々がやってくるとは思いもよらなかったです。
  出雲大社8


 現在、改修中の「本殿」の屋根先がわずかながら見えました。今年の5月に完成予定だそうです。
出雲大社14

 
 参拝客を見ると老若男女、実に様々でしたが、やはり若い女性やカップルの姿が目立ちました。
 やはり「良縁祈願」ということではるばるやってこられたのでしょうけれど、それぞれの願いがかなうといいですね。

 
 参道の東側に何やらモニュメント?みたいなのものを発見。
 「ムスビの御神像」というもので、大国主大神が幸魂(さきみたま)と奇魂(くしみたま)を授かり、縁結びの神になったことを象徴する像、ということです。
 出雲大社9

 
 この方が大国主大神。大国主大神といえば、「因幡の白ウサギ」の逸話が有名ですが、こちらの像も参道をはさんだ反対側にあったらしいのですが、撮りそびれてしまいました。
 余談ですが、小学2年生の時、学芸会で「因幡の白ウサギ」という出し物をやり、私は大国主の役だったことを三十数年ぶりに思いだしました(笑)
 当時髪が長かったので、大国主のヘアスタイルのような「角鬢(みずら)」を結い、大きな袋を担いで、大国主に扮したものでした。
 しかし、なんで当時の担任の先生もそんな古い題材をわざわざ選んだのでしょうか、謎です???
 出雲大社10


 それにしても、大社の敷地は本当に広いし、参拝客も多いしで圧倒されまくりでした。
 「神在月」の時はそれなりにご加護があるのでしょうが、参拝だけでなく駐車場待ちも長蛇の列で時間がかかったりするので、個人的にはあまりおすすめできないかも。。。
 また機会があれば、ぜひ参拝したいと思います。


 最後に季節が過ぎてしまいましたが、紅葉の写真を思い出に。
   出雲大社11

   出雲大社2

 出雲大社12

   出雲大社13





 いつもご覧いただき、有難うございます。
人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ 

テーマ : 歴史・文化にふれる旅
ジャンル : 旅行

謹賀新年2013

出雲大社


 あけましておめでとうございます。
 本年も宜しくお願い申し上げます。


 上の写真は昨年11月に行った「出雲大社」(島根県)の写真です。
 おりしも現地では「神在月」(全国の八百万の神々が出雲地方に集う)だったため、ものすごい人出で驚きました。今日あたりも初詣客で大いににぎわっているのではないでしょうか。
 この続きはまた後日・・・。



 いつもご覧いただき、有難うございます。
人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ 

テーマ : 歴史・文化にふれる旅
ジャンル : 旅行

「玉乗り」する狛犬・・・備中高松城(五)

 秀吉得意の突貫工事「蛙ヶ鼻築堤跡」・・・備中高松城(四)のつづき


 これまで備中高松城址とその周辺を見てきましたが、羽柴秀吉の陣所に行かれなかったので、ちょうど熊本へ行った直後でもあり、最後に秀吉麾下の武将であった加藤清正の陣所跡だけ見て帰ることにしました。

 JR足守駅のすぐ近所に、「生石(おいし)神社」があります。ここが加藤清正の陣所跡だったということです。
 高松城から見ると、北西の方角に位置します。
生石神社3

 神社自体は1200年くらい前からある古い氏神様だとか。(現地案内板)
生石神社2


 神社は木々に囲まれた岡にあるのですが、木々の隙間から足守川が見えました。当時はこれほどは木々で覆われていなかったでしょうから、現在より見晴は良かったであろうと思われます。
生石神社1


  階段途中にあった「玉乗り」する狛犬。ちょっとめずらしかったのでパチリ。
  てっきり近年のものかと思ったら、幕末に奉納されたものだそうです。
  生石神社4


 神社から足守川沿いを歩き高架をくぐったすぐ先に高松城水攻め時の水取り入れ口の石碑があります。ここが秀吉が築かせた堤防の西端にあたります。
高松城水攻門前水引口


 以上で備中高松城史跡巡りは終了です。お城だけならせいぜい一時間程度で見学できますが、城周囲の陣所跡などをみると3,4時間くらいはゆうにかかってしまうでしょう。
 また今回はパスしましたが、高松城から南西の方向には毛利勢の陣所があり、城からは5km以上離れています。本能寺の変後、明智から毛利へ遣わされた密使が秀吉の陣所に迷い込んで捕えられたため、秀吉はいち早く信長の横死を知ったという有名な話がありますが、各々の陣所の距離が相当離れていることを考えると、この話がはたして真実なのかどうか・・・等々、いろいろ考えさせられます。


  
より大きな地図で 生石神社 を表示



 いつもご覧いただき、どうも有難うございます。
人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ 

テーマ : 歴史・文化にふれる旅
ジャンル : 旅行

秀吉得意の突貫工事「蛙ヶ鼻築堤跡」・・・備中高松城(四)

 つづき

 高松城主・清水宗治を慕って二人の軽輩が差し違えて死んだという「ごうやぶ」の背後に、羽柴秀吉が本陣を追いたという石井山というなだらかな山が見えます。
 本当はここまで行ってみたかったんですが、本陣までの行き方がわからなかったのと、同行した主人が熱中症になりそうな感じがすると言い出したため、この辺りで史跡巡りを中止することにしました。
 写真をご覧になればわかりますが、この日はいい天気で、かなり暑かったので仕方ないですね・・・。またの機会にリベンジしたいと思います。
ごうやぶ2

 
 「ごうやぶ」の南東側にでっかい鳥居があり少々驚く。「高松最上稲荷」(妙教寺)というこの辺では有名なお寺さんの鳥居だそうで、昭和47年に建てられた高さ27.5m、柱の直径4.6m、総重量2800tの規模のもの。
 実はこの辺りは昔大雨の時に雨水を越流させる「水通し」であったことから、「水越し大鳥居」と呼ばれているようです。
 ちなみに、最上稲荷には清水宗治が信仰したという「妙見菩薩」が今も安置されているそうです。なおお寺さんは鳥居から北へ約3KMほどのところにあります。

  参考サイト 最上稲荷HP 

水越し大鳥居


 水越し大鳥居のすぐ近くにある蛙ケ鼻(かわずがはな)築堤跡。
 黒田孝高の献策により、前代未聞の「水攻め」を決意した秀吉は蛙ヶ鼻から約3KMにわたる堤防をわずか12日間!で完成させたという話が伝わっています。「墨俣一夜城」ではありませんが、突貫工事は秀吉の十八番ですね。
 蛙ケ鼻は秀吉が築いた堤防の東端にあたり、わずかに当時の面影を残していますが、現在は歴史公園として整備されております。
蛙ヶ鼻築堤跡3

 
 現地案内板(クリックで拡大します)
蛙ヶ鼻築堤跡6


 現在地。この付近に黒田孝高の陣があった模様。
  蛙ヶ鼻築堤跡2


 築堤跡の標柱と石碑。
  蛙ヶ鼻築堤跡5

 
 水攻めの築堤は、基底部20~24メートル。上幅10~12メートル、高さ7~8メートルの大きさであったといいます。その目安?ともなる、高さ表示板が設置されてありました。
  蛙ヶ鼻築堤跡1


 以前、この付近を発掘調査した際、抗列や土嚢を施設したと考えられる凸凹が見つかりました。下の写真はそれを再現したものです。
 蛙ヶ鼻築堤跡4


    ****************************


 高松城址公園から備中高松駅へ向かう道の途中に「史蹟舟橋」があります。
 高松城の周囲は沼地であったため、周囲と城をつなぐ道は戦になった時攻められないように、川舟を並べ、その上に板を渡した程度の「舟橋」であったと伝えられています。(現在はご覧の通り、小さなコンクリート製の橋です)
舟橋



 いつもご覧いただき、どうも有難うございます。
人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ 
                       つづく

テーマ : 歴史・文化にふれる旅
ジャンル : 旅行

陣屋町・足守をゆく2(近水園・吟風閣・緒方洪庵生誕地)

 陣屋町・足守をゆく1(旧足守藩侍屋敷・足守陣屋・木下利玄生家) のつづき

 木下利玄生家の北側に、木下家の大名庭園「近水園(おみずえん)」があります。
 近水園は木下家の居館の奥手に設けられており、小堀遠州流の「池泉回遊式庭園」となっています。江戸時代中期頃の作庭と考えられます。
 
 近水園は御殿山(宮路山)の麓にあります。
 近水園2

 池のほとりには数寄屋造りの「吟風閣」があります。
 六代藩主・木下きん定(※きんの字は「八」の下に「白」)が宝永5年(1708)に幕府の命により、京都の仙洞御所と中宮御所の普請を行った際に、残材を持ち帰って建てたといわれています。
 吟風閣1


 園内の管理人室をのぞいたら、管理人さんがおられたのでお声をかけたところ、建物の中に入っても良いとおっしゃってくださったので、入らせていただきました。(団体の場合は建物の床板が傷むので不可だそうです)

 管理人さんの説明では、江戸時代の建物は池に面した隅の一室だけで、他の部屋や玄関は明治以降の増築だそうです。この部屋でお殿様がお休みになったとか。
 この日はとても暑かったのですが、窓から涼しい風が吹いてきて、たった5分程度でしたが一息つくことができました。
 吟風閣2

 縁から見た風景。池の水は近くの足守川から引いているそうです。池には蓬菜島を兼ねた鶴島・亀島の2つの島が設けられています。向こうに見えるのは宇野山。
 大名庭園としては小規模ですが、なかなか趣のある、落ち着いた佇まいだなと感心しました。
 近水園1


  池には鯉がたくさん泳いでいました。
  近水園4


 池のほとりには、「白樺派」歌人の木下利玄の歌碑がありました。
 利玄は牡丹の花がお気に入りで、歌に詠んでいます。

 「花びらをひろげ疲れしおとろへに 牡丹重たく蕚をはなるる」
  近水園3


 やはり園内にあった隠れキリシタンの「マリア灯籠」 管理人さんに教えていただかなかったら、あやうく見すごくところでした。
 ということは、この足守にも隠れキリシタンがいたってことですかねえ?ちょっと謎めいています。
  近水園5


 近水園に隣接して、木下家に伝わった古文書等を保管してきた「足守文庫」がありました。
 管理人さんの話だと、つい最近木下家ゆかりの重要史料はすべてJR岡山駅側の岡山市デジタルミュージアムに移管されて、こちらはほぼもぬけの殻となっています。
 聞いた話では、以前はこちらに北政所(ねね)の遺品などもあったそうです。
  足守文庫


   ************************

 親切に応対していただけた管理人さんにお礼を言って辞去し、足守文庫の脇道を進み、足守川にかかった橋をわたった先に、「緒方洪庵誕生地」があります。(駐車スペースがないのでご注意)
  緒方洪庵誕生地


 緒方洪庵(1810~1863年)は文化7年、足守藩下級藩士・緒方瀬左衛門の3男として足守に生まれました。
 16歳の時、父が大坂蔵屋敷留守居役に就いたのに伴い大坂に出、蘭学と医学を学びます。その後、長崎に遊学してオランダ人医師のもとに入門します。
 天保9年(1838年)大坂に戻り、瓦町に医業を開業すると同時に、蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開きます。「適塾」からは福沢諭吉、大村益次郎、橋本佐内、大鳥圭介、佐野常民、高松凌雲など多くの人材が育ちました。
 故手塚治虫さんの曽祖父、手塚良仙も適塾に学びました。(「陽だまりの樹」)
  緒方洪庵銅像

 
 これで足守の町の史跡はほとんど見てしまいました。
 最後は恒例の墓参りを。。。

 
   青いマークが「近水園」、赤いマークが「緒方洪庵誕生地」です。
  
より大きな地図で 近水園・緒方洪庵誕生地 を表示 



いつもご覧いただき、どうも有難うございます。
人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ 

テーマ : 歴史・文化にふれる旅
ジャンル : 旅行

開成館跡 「維新の三傑」が集結

 高知市九反田に「東九反田公園」という△形をした広場がありますが、ここには慶應2年(1866年)に殖産興業・富国強兵などを目的として設置された「開成館」がありました。
 山内容堂の強い支援のもと、後藤象二郎が中心となって運営し、軍艦局・貨殖局・勧業局・火薬局など11の局が設けられ、土佐藩の近代化に重要な役割を果たしました。なお、開成館では中浜万次郎、岩崎弥太郎、細川潤次郎なども活動しています。
 下の方の地図を見てもらえばわかる通り、鏡川沿いの港にも近い場所に建てられたのは水運も考慮してのことと思われます。
 明治2年(1869年)、開港地における府藩県の商会所禁止によりその機能を失ったため、翌明治3年(1870年)、建物は「寅賓館(いんひんかん)」と改称され、外来客の接待所となりました。
 開成館跡

 上の写真の石碑にも刻まれていますが、明治4年(1871年)には西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允がここへ来訪し、板垣退助・福岡孝弟と会談。三藩より「御親兵」〈後の近衛兵)を献上する旨の話し合いが行われたといいます。
saigou ookubo kido

 現在は石碑しかありませんが、それにしてもすごいメンツが集ったものですね。「維新の三傑」が一堂に会したわけですから。

 昭和17年(1942年)、高知の政治家・実業家で作る「大松倶楽部」が開成館跡地に板垣退助の旧邸を移築し、「憲政館」と名付けました。(現地案内板より)
 憲政館1

 昭和40年(1965年)、憲政館は高知市によって建て替えられましたが、それもやがて老朽化し、平成16年(2004年)に取り壊されて、現在の公園になりました。
 ですから、現在は「憲政之祖国」と刻まれた大きな石碑がそれを伝えるのみです。
 憲政館2


   
より大きな地図で 開成館跡 を表示


  ***********************

 なお、開成館の正門は県立高知小津高校(高知市城北町1-14)の敷地内に移築されて現存しています。
 開成館正門


 関連記事 板垣退助の墓 
        木戸孝允夫妻の墓


  人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ 

テーマ : 国内、史跡・名勝巡り
ジャンル : 旅行

山田橋番所・獄舎跡/薫的神社

 JR高知駅の南東、江ノ口川に架かる山田橋(高知市はりまや町3町目)という狭い橋がありますが、かつてここは土佐北街道の起点であり、藩主が参勤交代のため江戸へ向う際も必ずここを通ったといいます。橋の南詰西側に番所が、東側には獄舎が置かれていました。
 山田橋番所/獄舎跡

 文久2年(1862年)に青蓮院宮の令旨を得て、藩主の父で前々藩主の山内豊資を担ぎ出し藩の勤王化と藩政改革を推し進めようとして山内容堂の逆鱗に触れた間崎滄浪、平井収二郎、弘瀬健太らが投獄され、切腹したのがこの山田橋の獄舎です。
 その他、多くの勤皇党員が入牢させられ、武市半平太の弟・田内衛吉の服毒自殺、島村衛吉の拷問死、他に斬首3名、禁錮7名、岡田以蔵は獄門になるなど、厳しい処分を受けました。この獄舎ではいわゆる「政治犯」を収容していたようです。
 現在は上の写真のように案内板が立つだけで、周囲は宅地となり、当時の面影は何もありません。


   ***********************

 高知市洞ヶ島町5にある「薫的神社」 江戸時代前期に宗門のトラブルで藩の意向に抗議したあげく投獄され憤死したという「薫的和尚」を祀る小さな神社があります。
 薫的神社2


 こちらの境内に、山田橋の獄舎の一部が移築・保存されております。高知市街は空襲もあったのに、今までよく残っていたなと感心しました。 
 薫的神社1



  人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ 

テーマ : 国内、史跡・名勝巡り
ジャンル : 旅行

ブログランキング
「もののふの心」および歴史的遺産を後世に伝えましょう♪
うさぎ
  ↓ ↓ ↓ ↓
人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
カレンダー
04 | 2017/05 | 06
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
カテゴリ
ご注意 ごくたまに、「城」「史跡」「お墓」等の話題が、ドラマ関連やその他のカテゴリとして登録されている場合があります。
月別アーカイブ
最新コメント
FC2カウンター
おきてがみ
お気軽にどうぞ(お返事が遅くなる場合があります)
プロフィール

A☆六文銭

Author:A☆六文銭
ブログテーマ
日本100名城完全制覇と有名人の墓めぐり(掃苔)
日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

★当ブログ内の文章、写真等はすべて無断転載禁止です。宜しくお願いします。
★当方と連絡を取りたい方は、下部メールフォームからお願いします。(ご感想はなるべくコメント欄のほうにお願いします)
※Twitter、Facebookはやってません。

最新記事
おすすめ書籍
リンク
RSSリンクの表示
検索フォーム
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。