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「グッバイ また会わん」 新島襄の墓(同志社墓地1)

 大河ドラマ「八重の桜」ですが、とうとう八重の旦那さんの新島襄が46歳で亡くなってしまいましたので、お墓のご紹介です。新島の墓は京都市内にあります。


 お墓がある「同志社墓地」の行き方ですが、「永観堂」のすぐ北側、「哲学の道」の入り口付近から入っていきます。(「新島襄先生墓地登り口」の石碑もあるのでわかりやすい) ※以下、2013年10月撮影
 同志社墓地道案内1

  


 この道をまっすぐ進むと、左側に「若王子神社」がありますが、前を素通りします。
 若王子神社



 「女性の一人歩きはやめましょう」との看板が。ちょっとさびしい場所ですので、日ごろは人通りも少なく、痴漢が出たりするのか?
 しかし、今年は大河ドラマの影響で、墓参の人も多いようで、この日も数組の墓参の人々とすれ違いました。(女性一人の方もいた) 昼間の明るいうちなら大丈夫そうですが気を付けましょう。
 同志社墓地道案内2


 右手に見える垣根沿いの細い道を入っていきます。この裏山が同志社墓地のあるところになります。
 同志社墓地道案内3


 ひたすら、山道を登っていきます。
 同志社墓地道案内4


 あたかも、山城攻めをしている気分。。。
 同志社墓地道案内5


 



  登ること二十数分。ようやく、同志社墓地入口に到着です。

 同志社墓地1

 

 同志社創立者、新島襄(1843~1890年)の墓

  当初、新島はすでに父親の墓があった南禅寺の塔頭「天授庵」の墓地に埋葬される予定でしたが、葬儀の前日になって寺側が「キリスト教の葬儀は認められない」と言い出したため、結局京都市の共同墓地であるこの地に墓を建てることになりました。
 新島襄の墓


  墓碑銘は勝海舟の揮毫によるものです。
  新島襄の墓3

  新島襄の墓2

 ところで、「新島襄」役を演じたオダギリさんは、ソフトで優しげな印象でなかなか役に合っていたんじゃなかったでしょうか。


 臨終の折、「狼狽するなかれ。グッバイ、また会わん」と言い残して旅立った襄。
 襄は八重の一番の理解者であり、先に亡くなってしまったのは残念ですが、「(あの世でも)また会いましょう」と言ってくれた旦那さんを持った八重は幸せ者だなと思いました。
 



                            新島八重の墓 へつづく



 参考サイト 同志社墓地の案内(同志社大HP内)


 関連記事 新島襄・八重夫妻が暮らした家・・・「新島旧邸」



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テーマ : 大河ドラマ 八重の桜
ジャンル : テレビ・ラジオ

【清正が愛した女性たち4】父・清正の遺品と信仰を受け継いだ瑤林院(八十姫)・・・再掲Ver.

つづき

 豊臣秀吉の死後、実力者である徳川家康へ急接近していた加藤清正は、関ヶ原合戦の前年、慶長4年(1599年)に家康の養女で、水野忠重の娘「清浄院」を正として迎えます。
 そして、慶長6年(1601年)に二人の間に清正にとっては次女となる娘・「八十(やそ)姫」が誕生します。
 「八十」という名前には「九(苦)のない幸せ」という意味が込められていたといいます。
 清正にとって八十姫は晩年にもうけた娘であり、目に入れても痛くないほどだったと思われます。

 慶長14年(1609年)八十姫が9歳の時、家康の十男頼将(のちの頼宜)との婚約が決まります。清正はことのほかこの縁組を喜び、多額の費用をかけて婚礼の準備を進めています。
 しかし、その9か月後、慶長16(1611年)3月、家康と豊臣秀頼が京都・二条城で会見を行ったのに同席した清正は、その帰路突如体調を崩し、帰国後の6月24日に急死してしまいます。享年50歳。

 愛娘の晴れの日を見届けることなく清正は亡くなったわけですが、元和3年(1617年)正月に八十姫と駿府城主となっていた頼宜の婚礼が無事執り行われました。八十姫は父・清正ゆかりの「片鎌槍」など遺品を多数持参して嫁いだので、これらが紀州徳川家に伝来しました。
 その後、八十姫は夫の転封に従い和歌山に移り、14年間を過ごします。

 しかし寛永9年(1632年)には実家の加藤家が突如改易の憂き目に遭い、八十姫もさぞや心を痛めたことと思われます。
 改易に伴い、異母兄の忠広の娘「亀姫」は信州松代の真田家に預け置かれましたが、八十姫は姪にあたる亀姫の斜面を幕府に願い、後に手元へ引き取り、旗本・阿部家に嫁がせるなど細やかな心遣いを見せています。
また、出羽庄内に配流となった忠広に代わり、八十姫は父清正・母・清浄院の供養を行いました。
 
 翌寛永10年(1633年)には江戸の紀州藩邸に移り、亡くなるまでそこで暮らしました。
 父・清正の信仰を受け継ぎ、八十姫もまた熱心な日蓮宗の信仰を貫きました。

 頼宣と結婚して50年、寛文6年(1666年)1月24日に死去。享年66歳でした。
 遺骸は池上本門寺で荼毘にふされ、遺骨は和歌山の要行寺(のちの報恩寺)に葬られました。


 以前に八十姫の墓参をしていますが、今年また和歌山へ行く用事があったので再訪してきました。

 
   白雲山報恩寺(日蓮宗)
  報恩寺1(和歌山)

 境内を入って、奥の方の石段を登っていくと、紀州徳川家の墓所があります。
  報恩寺2(和歌山)

 この門を入ってすぐ正面に、八十姫のお墓があります。
 残念ながら八十姫はお子さんに恵まれず、夫・頼宜が側室に産ませた光貞(二代藩主)を嫡母として養育し、光貞も八十姫の死後、なさぬ仲の八十姫を追慕して要行寺を「報恩寺」と改め、徳川家の奥向きの菩提寺として整備、ねんごろに供養を行いました。

 法名「瑤林院殿浄秀日芳大姉」
 瑤林院墓1

 

 生前、八十姫が寄進を行うなど縁の深かった東京・池上本門寺の紀州徳川家墓所にも、瑤林院の墓(供養塔)が建てられております。
  瑤林院2

 以前にも書きましたが、私の母親の実家が、八十姫が夫・頼宜の「現世安穏後世善処」を願って本門寺へ奉納した「妙見菩薩像」が今に伝わるお寺の檀家なので、幼いころから彼女の事はよく知っていました。そういえば、八十姫の父・清正も妙見信仰の篤い人でした。
 今年は春に八十姫の異母兄・忠広や、祖母・伊都の墓参りを行うことができたので、きっと冥界にいる彼女に喜んでもらえたのではないか、と思っています。
 なお、“熊本城おもてなし武将隊”のメンバーにも八十姫の役の愛らしい女性がいて、町おこしに一役買っていました。

 以上、清正を取り巻く女性たちの墓参を通して、晩年の清正は徳川家との関係を深めていたこと、また伊都から清正、そして娘の瑤林院(八十姫)へと日蓮宗の信仰が受け継がれていった強い「絆」を感じました。


  ※熊本の旅、いったん小休止します

 

 過去記事 加藤清正の娘・瑤林院の墓 (初回訪問時)
        加藤清正の墓(本妙寺「浄池廟」)
        清浄院(加藤清正継室)供養塔


  報恩寺 和歌山市吹上1-6-38
 
より大きな地図で 報恩寺 を表示 


 いつもご覧いただき、どうも有難うございます。
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泉州堺を歩く 7 南宗寺(後) /大安寺

 つづき

 三好一族の墓  南宗寺は三好長慶によって建てられましたので、当然三好一族の墓もあります。しかし、この日墓前に見学のグループがいて、ガイドさんの説明を受けていましたので墓碑に近寄って逐一確認することが出来ませんでした。
 お墓の写真もご覧の通り、脇から撮影しなければなりませんでした。
  三好一族の墓


 ところで、この南宗寺にはにわかに信じがたい伝説が伝えられていまして、なんと慶長20年(1615年)の大坂夏の陣「八尾の戦い」において、徳川家康が後藤又兵衛の槍にかかって討死し、密かに南宗寺に葬られたというのです。
 「ホンマかいな」とつい思ってしまう話ですが、その後、家康の子で二代将軍秀忠、孫の三代将軍家光の御成があったとか・・・将軍がわざわざやってくるほどですので、あながち嘘でもない!? 果たして真相はいかに???
 幕府の公的記録によれば、家康は夏の陣の翌年、元和2年(1616年)に駿府城で死んだことになっているのですけどね。

 で、ガイドさんに案内された家康のお墓がこれ。。。「徳川家康墓」と記されている!
  徳川家康の碑

 と思ったんですが、実はこの墓は正確には家康の墓ではありませんでした。江戸時代、この場所に東照宮があり、戦災で焼けてしまったので、昭和40年代に水戸徳川家の家老の子孫が建てた記念碑だったのです。
 一方、家康が密かに埋葬されたという伝説の墓は、上の写真の三好一族の墓の真向かいにあった小さい墓標だったらしいのです。人が多くいたのと、何の案内板もない上、ガイドさんも何も言わないので気づかず通りすぎてしまっていたのでした。残念ながらポカをやってしまいました。また別の折に参詣したいと思います。これから行かれる方は注意してください。

 なお、故・隆慶一郎の「影武者 徳川家康」はこの辺のエピソードを元に小説化したものだと思います。
  
影武者徳川家康〈上〉 (新潮文庫)影武者徳川家康〈上〉 (新潮文庫)
(1993/08)
隆 慶一郎

商品詳細を見る

 

 そして、東照宮があった頃の唐門(国指定重要文化財)。葵の御紋が入っていました。
  南宗寺・唐門

 さらに、お寺さんの奥の方へ行くと利休好みの茶室「実相庵」がありました。(内部は見学不可)
  実相庵


 ********************************

 南宗寺の東側には、大安寺(臨済宗)というお寺があり、こちらの本堂は堺の豪商であった納屋(呂宗)助左衛門の邸宅を移築したといわれています。
 本堂内は撮影禁止だったため写真はありませんが、本堂の柱には三好長慶の家臣であった松永久秀がつけたといわれる刀傷が残っています。
 何でも、助左衛門宅に久秀が招待された折、久秀はその贅を尽くした建物を褒めましたが、いきなり太刀を抜いて、柱に斬りかかりました。久秀の言によれば、「あまりに満ち足りていて一寸の隙もないと、かえって災いを招くから」というのが斬りつけた理由だそうですが・・・。
 なお、本堂内には17世紀に狩野派によって描かれたという障壁画があり、本堂と共に重要文化財に指定されています。
  大安寺


 以上で堺市文化財特別公開の主要なスポットの紹介は終わりです。この後、暑さでヘバりながら最後の目的地である堺市博物館へと向います。
                      つづく
 
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泉州堺を歩く 4

  「堺幕府」を支えていた三好一族の総帥・元長・・・彼は有名な三好長慶のお父さんですが、その政権の内部では摂津国の国人衆との間に不協和音が生じ、とうとう元長は主君である細川晴元にも裏切られ、晴元にけしかけられた一向一揆衆が堺の町を取り囲みます。一揆の数10万余ともいわれ、もはやこれまでと観念した元長は家臣らおよそ80人と共に、拠っていた顕本寺(法華宗)にて壮烈な死を遂げたといいます。まだ32歳という若さでした。
 こうして大永7年(1527)~享禄5年(1532年)のわずか5年で、堺幕府は崩壊しました。

 元長主従が自刃したという顕本寺は、現在「開口(あぐち)神社」の付近にあったそうで、現在は「三好元長戦死跡」と記された石碑が建っているのみです。
 開口神社
   三好元長戦死跡

 その後、寺は元和の大坂夏の陣で焼失したため、現在地へと移転。主君に裏切られ無念の死を遂げた三好元長の墓がありました。
 顕本寺

 元長の墓前で、熱心にボランティアガイドさんの話を聞く歴女っぽい人がいました。元長が好きなんでしょうかね。目のつけどころがなかなかシブいですね。
   三好元長の墓

 この日は本堂で三好一族の家系図や、小唄で有名な「隆達節」の屏風(米ボストン美術館蔵)の複製などが展示されてありました。


     ************************************

 三好一族の中に、総領の元長とかねてより険悪な仲だった人物がいました。三好政長という人です。
 政長は細川晴元に讒言し、それがきっかけで晴元は心変わりし、一向一揆を使って元長を討たせたのです。
 とうとう元長を死へ追いやった政長は細川晴元政権で重要な位置を占めますが、政長の命運もそこまで。摂津国・江口城において、元長の跡を継いだ息子の長慶によって討たれてしまいます。(因果応報ですね)
 善長寺(浄土宗)には政長の墓がありました。法名や没年などが刻まれているのが読み取れましたが、墓石は傷んだ箇所を修復してあり、ずいぶん古い墓標でしたので、当時のものでしょうか。
  三好政長の墓

 こうして親の仇を討った三好長慶は細川晴元を追放し、畿内を掌握。三好政権の誕生とあいなります。
                    つづく


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泉州堺を歩く 3

 つづき

 広晋山妙國寺(日蓮宗)  三好長慶の弟・義賢(実休)は日蓮宗に深く帰依し、日上人に寺建設のため広大な土地を寄進しました。
 もともと三好一族は禅宗だったらしいのですが、この義賢という人が一族をみな日蓮宗に改宗させたということです。
 日上人が書いた日記「己行記」は中世都市堺の様子を知る上で大変貴重な史料となっていますが、最近になって日記の紙背に三好家に関する古文書が残っていたことがわかり、このたびの文化財特別公開に合わせて一般公開されました。
(この日、実物は堺市博物館で展示されていた)
 妙國寺1

 コンクリート製の大きな本堂でしたが、これは戦災で焼けてしまったため戦後建てなおしたものだそうです。
 妙國寺ですが、幕末史のとある事件の舞台となった寺でもあります。

 慶応4年(明治元年 1868年)2月15日、堺港に停泊していたフランス軍艦・デュプレクス号より乗組員が上陸し、堺港付近を徘徊しました。この頃、堺を警備していたのは土佐藩だったのですが、上陸してきたフランス兵を見つけ、捕らえようとしたところ、フランス兵らが逃げ出したため、これを一斉射撃しました。
 その結果、フランス兵の犠牲者は溺死を含め11名、5名の負傷者が出ました。
 この一件に激怒したフランス公使・レオン・ロッシュは新政府に対してフランス兵の死体の引渡しと求めるとともに、事件に関わった土佐藩関係者の処刑、賠償金15万ドルの支払いなど5箇条にわたる賠償請求を行いました。

 フランス兵を射撃した土佐藩士は29名いたといいますが、土佐藩では20名を切腹させることを決めます。もともと責任者である2隊長と2名の小頭は当然ながら責任を免れず、残る16人は土佐藩邸内にあった稲荷神社でくじ引きを行い、切腹する人間を決めました。
 2月23日、妙國寺境内にてフランス軍艦長・トゥアールが立会いのもと、20名の土佐藩士の切腹が行われました。彼らは腹を切る際に内臓を検分のフランス人たちに対して投げつけるなどしたため、そのあまりに凄惨な光景に、トゥアール艦長は11名が切腹し終わった時点で処刑の中止を外国局判事の五代才助(後の友厚)に要請し、その結果9名が処刑を免れました。フランス側犠牲者と処刑者が同数のところで政治的判断により中止になった模様です。
 
 同寺の境内には11名の土佐藩士が切腹した場所が今も残されています。この場所は本堂の脇にあるのですが、通常は表に鉄扉があって中に入れないため、お寺の方にお願いしてみたところ、入れていただけたので撮影してきました。
 「英士割腹跡」の石碑は、処刑の7ヶ月後に建てられた古いものです。この付近の土は、切腹した土佐藩士の血を吸っていただろうと思いました。
 妙國寺「英士割腹跡」

 その手前には大きなソテツの木が。かつて織田信長がこのソテツを安土城へ植え替えたたところ、ソテツが妙國寺を恋しがって夜な夜な泣いたというので気味が悪いということで元に戻されたという逸話が残っています。
 妙國寺ソテツ

 同寺には切腹した土佐藩士の遺品が伝えられていて、この日本堂の方で見学することが出来ました。切腹当日使用されたという血がついた三宝などが置いてありました。

 これが「堺事件」と呼ばれる顛末です。明治時代、森鴎外が小説に書いたことで有名になりました。
 この事件の悲劇は、お互い言語が通じなくて意思の疎通がはかられなかったことと、慶応3年の暮れに定められた「大坂表外国人貿易並びに居留に関する規則」において、堺では外国人の往来が許可されたいたことが警備を担当していた土佐藩側で周知徹底されていなかったためによるものです。

 なお、堺事件には後日談があります。
 切腹した11名の遺骸は、当初妙國寺に葬られることになっていましたが、当時の住職が何故かその日突然行方をくらましたため、やむをえず、道を挟んだ向こう側の「宝珠院」(真言宗)という別の寺に葬られることになりました。
 結局、妙國寺としては元皇室勅願所ということもあって、罪人を葬ることを嫌ったというのが真相のようです。

 お隣の宝珠院にある「土佐十一烈士墓」の石碑。
 宝珠院1

 11名の遺骸は大きな甕に入れられ、同寺へ葬られました。今もお墓が残っていますが、あいにくこの日、寺の門扉が閉まっていて、インターホンを鳴らしても不在のようだったので中へ入れませんでした。
 同寺は今は幼稚園を経営しているみたいで、遊具の先に11名のお墓が見えました。(ちょっとシュールな光景・・・)
 宝珠院2

 近隣の堺の住民をはじめ、大坂の人々はこの11名の土佐藩士の運命を気の毒がり、彼らを「ご残念さま」と呼んで、多くの人たちが墓参りに訪れたといいます。遺体収容に使われなかった9個の甕は宝珠院内に並べられ、こちらも「生き運さま」と呼ばれて人々の信仰を集めました。宝珠院の門前には縁日のような屋台まで出て、多くの参拝者で賑わったといいます。

 この様子を傍で見ていて悔しがったのが、遺体の埋葬を婉曲に拒否した妙國寺。土佐藩に対して墓の改葬を願い出たものの拒否されたそうです。(当たり前ですね)後悔先に立たずとはまさにこの事です。

 仕方がないので境内に彼らの供養塔を建てたり、3日3晩にわたる大供養を行ったりしたんだそうです。
 妙國寺2


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新選組から拷問を受けた古高俊太郎 (前)

 坂本龍馬・中岡慎太郎の墓のちょうど右裏手には、いわゆる「池田屋事件」で新選組に急襲され、命を落とした尊攘派志士たちの招魂墓が建てられています。

池田屋事件犠牲者の墓

 その中に、古高俊太郎の墓碑がありました。ちょうど写真の真ん中の墓ですね。(クリックで拡大します)

古高俊太郎の墓


 古高は近江出身で、枡屋喜右衛門と変名し、西木屋町四条上ル西入ル南側の真町で表向きは割木屋(薪炭商)を営んでいました。その実は、武器を集め、尊攘派の志士たちの活動拠点になっていました。
 下の写真は、古高が「枡屋」を営んでいた場所です。
 当時の建物はすでに無く、現在は小料理屋の隅に石碑だけがぽつんと立っています。(クリックで拡大)

古高俊太郎邸跡

 元治元年の5月下旬、かねてから尊攘過激派の動向を調査していた新選組の山崎蒸、島田魁ら4名の密偵が、この枡屋に不審な人物がしきりに出入りしているのを察知します。
 そこで、同年6月5日、沖田総司、永倉新八、原田左之助ら二十余名が枡屋を急襲し、居合わせた不逞の輩こそ取り逃したものの、逃げ遅れた古高を捕縛し、壬生の屯所へ連行しました。(つづく)


 ところで、この「枡屋」があった所ですが、現在は「志る幸」さんという小料理屋になっています。ここは、たしか作家・池波正太郎が贔屓にしていたお店だったはずです。

 志る幸

 今回は時間がなかったんですが、今度寄ってみようかな。
 そういえば、池波正太郎にも新選組の著作(「幕末新選組」)がありますね。文庫本で持っていますが、久しぶりに読み返してみようかな、と思います。




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久坂玄瑞の首

 さて、霊山墓地の話に戻ります。

長州藩士の墓

 墓地の中段くらいに、長州藩士の墓があります。こちらの一群は割合有名な人たちです。墓といっても、こちらはいわゆる「招魂墓」ですね。
 左から、有吉熊次郎 入江九一、寺嶋忠三郎、久坂玄瑞、来嶋又兵衛、高杉晋作です。
 予想に反してこちらの墓には供花などもなく、もの寂しい感じ。こんなでは、お花でも持っていってあげればよかったかな?と思いました。

 久坂玄瑞の墓


 久坂玄瑞(1840~1864)についてはあまりにも有名な人なので、その生涯を振り返る必要もないかと思います。
 禁門の変(蛤御門の変)で敗北し、最後まで現場に踏みとどまった彼は寺嶋と共に、公家の鷹司邸で自刃しました。まだ数えで25歳という若さでした。

 この時、長州藩は朝敵の烙印を押されたために、味方の遺骸を多数現場に放置して引き上げざるをえなかったんですね。
 その際、現場近くを守っていた福井藩が腐敗臭ただよう遺体を放置しておくわけにもいかないと、遺体の首を持ち帰って、福井藩の菩提寺だった上善寺というお寺さんに埋葬しました。そして、後にそこへ「長州人首塚」の墓碑まで建ててくれました。

 当初、この首塚に、入江たちと共に久坂玄瑞の首も収められていたそうです。
 ところが、ある時、どこかの婦人がふらりとやってきて、塚を掘り返し、だまって久坂の首を持っていってしまった。
 どうやら、その婦人は久坂と馴染みの深い、島原桔梗屋の抱え芸者の、「辰路(お辰)」という女だったらしい。

 久坂が死んだ時、お辰は身ごもっていたそうです。
 この話は、元陸援隊士だった後の元老・田中光顕の回顧録にある話だそうです(一坂太郎著「幕末歴史散歩 京阪神篇」) 田中は土佐を脱藩して、長州の高杉のもとへ「亡命」しているので、この辺の事情をよく聞き知っていたんでしょう。

 この頃の志士たちは、京の都でけっこうもてたらしい。しかも、久坂は長身で今でいうならイケメンの部類に入ったんでしょうな。
 風雲急をつげるご時世だったわりには、ギリギリまでけっこうヨロシクやってたんでしょうね(笑)
 しかし、失くなってしまった久坂の首と、お辰が孕んでいた久坂の子の行方はどうなっちゃったんでしょうか?
 さすがの田中もそこまでは知らなかったようです。
 お辰は後に、裕福な農家の嫁におさまっています。青春のほろ苦い恋の思い出を胸にしまって、他の男のもとへと嫁いでいったのでしょうか。

 久坂はかの吉田松陰からも認められ、妹のお文を妻にしていたんですが、旦那の艶聞を知っていたんでしょうかねえ。
 
 色々興味はつきませんが、今となってはすべて昔のコイバナですね。
 
 ところで、田中光顕ですが、彼は95まで長生きしましたが、昨日お話した武市半平太の未亡人・お富さんを支援したり色々と志士たちの顕彰活動もやっていました。

 貴重な歴史の証言もしてくれて、後世に生きる者としては彼には感謝しなければならないですね。田中の回顧録も読むとなかなか面白いです。


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木戸孝允夫妻の墓

 私ごとで恐縮ですが、携帯がいきなり故障しました。昨年購入してから、まだ1年もたっていません。
 ちょっと気分がブルーになり、こちらの更新が遅くなりました。(携帯は修理に出すことになってしまいました 泣)
 
 さて、霊山墓地の続きです。
 墓地の一番高いところに、西郷隆盛・大久保利通と並ぶ「維新の三傑」のひとり、木戸孝允妻・松子の墓があります。
 墓まではひたすら急な階段を登っていきます。下の坂本龍馬の墓のほうは多くの参詣者でにぎわっていましたが、さすがにここまで上ってくる人はほとんどいません。年配の方二人ほどすれ違っただけでした。

木戸家墓地

 向って右側にあるのが、木戸孝允の墓。立派な墓碑です。

 木戸孝允の墓

 左側には、奥さんの松子(幾松)が眠っています。

木戸松子の墓


 桂小五郎、後の木戸孝允の生涯についてはあまりにも有名なので省略しますが、彼は自分が死んだら、この霊山の墓地の、明治維新を迎えられなかった同士たちの側に葬られることを切望していたそうです。
 しかし、このような高台に墓を造ることになったため、葬儀を終えてからこの地へ葬られるまで1週間前後かかったそうです。
 木戸の場合、土葬でしたから、変な話、棺桶をかついで斜面を登っていった係の方は大変でしたでしょうね。
 むろん、奥さんの松子も土葬のようです。明治19年に亡くなられていますから、夫を見送ってから9年後の死ですね。幕末はラブラブだった二人ですが、晩年は二人の関係は多少ぎくしゃくしていたところもあったようです・・・。なぜなら、木戸孝允はこっそりある女性に手をつけて、「好子」という女の子を産ませていたんですね。正妻の松子に遠慮してか、せっかく実子でありながら「好子」は別のところで養育されたそうです。
 しかし、結局二人は最後まで添い遂げましたよね。

 
 彼は神道無念流の剣客として有名でしたが、生涯刀を抜くことはなかったんだとか。


木戸孝允銅像

 明治維新後、木戸は岩倉使節団の一員となり、欧米を回覧しましたが、政治的にイニシアチブを取ることは難しかったようです。大久保利通とそりが合わなかったのが大きな原因でしょう。
 こう言っては木戸ファンの人に叱られるかもしれませんが、明治維新後は木戸にとってはある意味「余生」のようなものだったと思われます。


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A☆六文銭

Author:A☆六文銭
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日本100名城完全制覇と有名人の墓めぐり(掃苔)
日本100名城スタンプラリー終了・・・2011年7月、根室半島チャシ跡群にて、無事100名城完全制覇しました。
2010年5月、47都道府県踏破済み。(離島を除く)
歴史の現場を、実際歩いて確かめることをモットーに、全国を行脚中。いつかあなたの住む町へ行くかもしれません。
東京生まれ東京育ち。
大卒後、音楽関係の仕事、専業主婦、現在は零細企業で総務関係の仕事をしています。

★当ブログ内の文章、写真等はすべて無断転載禁止です。宜しくお願いします。
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